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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2018-08-01 [長年日記] この日を編集

1独言] 御礼届いた

画像の説明長浜み~なの編集部さんから御礼が届いた。本当は昨 日届いていたのだけれども留守してて受け取れんかっ たのだ(宅配でくるとは思ってなかったもん)

画像の説明中身はこんな洒落たグラス×2。そうか、いま長浜っていったら黒壁スクエアのナガハマなのだなあ。まともなコップ?がないので丁度よい頂きものとなった。ありがとうございます。

画像の説明表紙は観音坂隧道。こういう「使われている姿」こそサマになる。素敵なチョイスではないですか。(残念ながら今は旧道化して資材置き場になっちゃってるけどね。時代が隧道を追い越してしまったのだよ、仕方ない仕方ない)

ちうわけで編集部サイトから通販で買えます。よろしければぜひ。よろしくなければなおさらぜひ。

[ 独言] 罪と恥

恥ずかしい経験は書いて晒しておくに限る。そうやって罪滅ぼしをしようという魂胆である。

今から4、5年も前に豊中市立岡町図書館で『大阪川口居留地の研究』という本を借りた。確か川口幼稚園の壁と富島天主堂の関係を調べるために借りたのだと思う。そうしてそのまま長いこと借りっぱなしになっていた。借りている間に図書館カードを無くしてしまい、図書館じたいから疎遠になってしまったというのもある。ある程度の理由はあるにせよまあそれは言い訳でしか無いだろう。

そんな私がつい最近、岡町図書館で国立国会図書館のデータ送信が利用できるようになったことを知り、また通い出すようになって、急にカードの再発行の要が出てきたのだった。んでもって、借りっぱなしの本を返さねばカードの再発行ができないことを知った(当たり前だ)。 なんとも現金なハナシである。

慌ててその本を探したのだけれども……どこへ仕舞ったものか、どうしても見つけられなかった。借りていることを忘れないようにと、手近の棚のところに置いていたのは確かなのだ。いつも見る所に置いていたはずなのだ。そう思って頑張って探したけれども、やっぱり出て来ない。

そのうちふっと「捨ててしまったような気がする」と思い至った。余りに長いこと借りていてーーーその罪悪感のあまりに突発的に隠蔽工作に走ったような記憶が湧いてきたのだ。そうしてそれが揺るぎない事実のように思われ始めて、仕方ない、買って弁償するか、ということになった。

ところがこの本、べらぼうに高い。あらゆる手練手管を駆使しても、諭吉さん2人と一葉さん1人を要するような本であったのだ。確かに川口居留地のことをまとめた本は非常に少ない。それだけの価値がある本だとは思う。そんなものを借りっぱなしにしていた罪を今更ながら思い知ったわけである。

いろいろ悩んだ末……おとなしく買って弁償することにした。悪いのは私なのである。長年借りっぱなしにしていたうえに紛失してしまった罪は、いつかどこかで償わねばならぬ。それが今だということである。

そうして代替本を入手し、去る日曜日の午前中に返却しに行った。まるで善い行ないをしたかのような気分になり、その足でカレー屋へ行ってカレーを食い、さらに神崎川橋梁を見に行ったりもした。

それで話が終わるのならこんなところに書いたりはしない。情けない続きがあるのである。

夕方に帰宅して、何気なく部屋の片付けを始めたところ、証拠隠滅したと思っていた該本が出てきた。

出てきてしまったのである。

なんだかなあ、というシチュエーションである。

漱石さんor英世さん25人分の本を購って、図書館に収めて、本来なら何も手元に残らないはずだったわけで、図書館ラッピングが施された同じ本が手に入ったと思えばまあ損ではないだろう。けれども根が貧乏であるせいか、だんだん勿体無く思うようになった。25英世さんを失って手元にあるのが図書館除籍本なのか、と。件の賠償本はついさっき渡したばっかりなのだから、まだラッピングや蔵書印押印はされてないんじゃないか。この出てきたほうの本を返却すればラッピングやラベルの貼付の手間を省いてもらえるわけで、何も自分限定の損得の話ではないのではないか。と、まったく都合の良いことを考えたわけである。

月曜日は休館日だから、火曜日朝一番に電話をした。予想通り受け入れ処理はまだだった。借りていた方の本が出てきたこと、そっちを渡して弁償したほうの本を引き取ってもいいだろうか。そんなことをいけしゃあしゃあとお願いして、無事、諾していただくことができた。

そうして今日、その交換を済ませ、25英世さん出して買った方の『大阪川口居留地の研究』が手元にある。

なんのことはない、図書館に余計な面倒をかけただけである。みみっちい自分を再認識させられただけである。世の皆さんはこんなことをしてはいけない。

これでこの本を読まずに死蔵することになったら本が可哀想である。それこそ無駄である。ちゃんと読まなければと思う。そもそもこの本を長く借りていたのはどの編も興味深く濃厚な記述なので何度も読み直さなければならねえと思ったからであった。そのくせ手元に置いておくばかりでじっくり読み直してはいない(借りっぱなしの本だという罪悪感がそうしたというのもないではない)。だからなおさら読まねばならぬとぞ思う。しかしそんな高価な本を気兼ねなくおいそれと開けないような気もしている。ううむ。

今まで買った最も高い本は銀輪’94であった。1諭吉さんした(これは新入生用の余剰分が上乗せされた価格だったが)。8英世さんだったのはシュポルスキーの原子核物理学だっけ。敏せんせの炉物理テキストもめっさ高かった気がする。しかし諭吉さん2.5人分なんて人生初だぞ。さあどうするよ。

[独言] 罪の上塗り

8/2追記。御礼のメールを送る前に御礼メールを頂いてしまつた。上記を書いたところで疲れて寝たんである。頭スッキリさせてから送るべしと思ったんである。己の非道行為を隠し立てなく喧伝しておく非道のnagajis。

頂いたグラスはなかなかどうして瞠目させられる効能があった。底に青い色が入れられているので水を入れるとその青が映る。蛇口から汲んだ水道水でさえ、まるで青い飲み物のように見えてまことに涼やかだ---ここでカクテルの名前なんか出したらサマになるのだろうが野暮いnagajisの頭にはブルーハワイという単語しか浮かんでこなかった。かき氷シロップを直飲みすんなや---。

[独言] キーボードのIのツメ折った

昨日ここを書いている時にキーボードのIキーの下に何かが挟まってしまって反応しなくなったので無造作に取り外して無造作にはめたら90度回転の状態で押し込んでしまってそのせいでツメを折ってしまった。キーの上下動をガイドする兼取れちゃう防止のツメである。

PC本体の性能には無頓着な私だけれども、キーボードだけはApple Pro Keyboardでなければならない。最近のアイソレートのやつじゃなくてG4 Graphiteあたりについてきていた(黒)である。これでないと困るのである。あのふしゃふしゃした柔らかいタッチでないとだめなんだよ。あれにシリコンスプレーふって一切のフリクションをなくしたやつでないとならんのだよ。

いま使っているのは何代目だろう。MacでORJを作っていた頃からずっと使ってきた最後の一台(Windowsでもレジストリいじって使っている)。年を追うごとに入手困難になっていって、ジャンク屋で見かけるたびにスペアとして購入していたけれども、その最後の一台のツメを折ってしまった。今のところ顕著な違和感は出ていないけれどもそのうちガタがきて「機械化に起因する怒り」を「っかいかにきんするかり」とか誤入力したりするようになるんだろうなと思うだけで嫌になる。困ったことである。

あと一本予備の(白)があるにはあるが、キートップの素材が異なるせいか微妙に感触が違くて埃を被っている。新たに贖おうにももうPC-NETはこの世にないのであった。萌えとゲームに席巻された日本橋の、いったいどこでApple Pro Keyboard(黒)を入手せよというのだろう。

……そうはゆーけれども多分あんまり使わない他のキーのキートップと入れ替えて使い続けるとかするんだろうな。この貧乏人め。しみったれme!

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ taka [Apple Pro Keyboard(黒) 中古(当たり前かな)じゃダメなのかな、マックパラダイスにあるが余計なお世話かな?]

_ nagajis [あるところにはあるんですけどね…やっぱり実物をみて判断したいではないですか…。 一台980えんで買えていた頃を知っていると、なおさら躊躇しまする。]

_ あきら@大阪 [失くしてしまい色々と策を弄した挙句、どれも解決に至らず仕方なく正攻法で解決した直後に紛失物が出てくるのはよくある話。 暫くぶりにニヤニヤしてしまった。←]


2018-08-05 [長年日記] この日を編集

[独言] IビームとワイドフランジIビームとH形鋼

画像の説明

Iビーム。

画像の説明

H形鋼。

画像の説明

両者の中間形態としてワイドフランジなIビームが存在した。レールの脚と同じようにフランジに約9°のテーパーがついている。アメリカのサッカーチーム・ベスレヘムスチールのロゴマークに使われていたのはこいつだ(丁度いいのをRedditで拾った)

Incredibly detailed specs for the Bethlehem Steel logo from r/graphic_design

画像の説明

こうやってつくるのでフランジにテーパーがつく。

画像の説明

あるいはこう。テーパーがないとフランジをきっちりと圧延できないし、もしこれと同じやり方で完全垂直なH鋼を作ったらミル(ロール)に差し込むことができない。一回り大きなやつを突っ込んで圧するということができぬ。

H鋼ってずいぶん昔からあるものだと思い込んでいたけれども、決してそんなことはない。1964年12月に発行された日立の技報「トピー工業株式会社豊橋製鋼所納 H形鋼圧延設備」によると、1900年代初頭にヨーロッパでワイドフランジビームが発明されて、それが長いこと主流だった(サッカーチームのベスレヘム・スチールがマークに採用してたのもBethrehem Steelがその製造を得意としてたからだ)。その後US SteelのHomsted工場、South Chicago工場(元Illinois)、そしてBSCoのLackawanna工場に「ユニバーサルミル」という特殊な圧延機が導入されてH鋼が作られるようになったそうである(たぶん戦後のことだと思う。そんでベスレヘム・スチールのマークもワイドフランジIビームからH形鋼に変わってる。ユニバーサルミルの構造は先述論文ミルヨロシ)。

日本でも1961年頃から国内製鋼所にユニバーサルミルが設置されH形鋼の国産化が始まった。1964年には日立が第一号となる国産ユニバーサルミルを製作してトピー工業に納入している。上記の論文はその報告だ。

この間和歌山へ行った時に西笠田駅から和歌山線に乗ったのだけれども、この無人駅の待合室(といってもベンチと屋根があるだけだか)の屋根を支えていた柱がワイドフランジビームだった。写真撮りそこねたけど。その後時々ワイドフランジビームを探しているけれども、ありそうでなかなか見つからない。阪急十三駅の宝塚線ホームにある鉄骨柱はH鋼のフランジ幅が小さいやつ。これと見た目は一緒だが、淡路駅の柱はどうもテーパーがついてるっぽい。一時停車している電車から降りて目の前の柱を触ってみただけなので、ホントにそうなのか確証し難いが(傍から見たらさぞかし怪しい行動だっただろうな)、テーパーがあったような気がする。しかしそうだったとしてもフランジが狭いので要するにIビームである。十三駅のは屋根梁と溶接、淡路駅のは高力ボルト接合という違いもあった。


2018-08-10 [長年日記] この日を編集

[独言][] かく

2年分ほっぽっていたのでどこへ行ったか思い出すのがまず大変。写真を見ながら振り返ってみて気付かされるいろいろ。特に深山第一砲台の漢数字刻印は重要な一個だ。

そうはいっても仮説に過ぎないからなぁ。仮説が一個できたっていうだけか。確実にわかったことなんてないのだ、どの刻印も仮説推測臆断の塊に過ぎぬ。それを振りかざして偉い顔をしようとしているnagajisが哀れである。そういう認識の上に立ってより勢い良く振り回して迷惑をかけるのを本職と心得ている。そういう道化役者なのである。

いろいろ叫びたいことがある。ひっくり返したいちゃぶ台もある。床に零した発酵したそうめんつゆが異臭を放っている(それは関係ないだろう)。好き放題わめいてひっくり返せたらどんなに清々しいだろうと思う。しかしそれやるとあとで虚しくなるだけだからな。結局は自分で後片付けしなあかんくなんねん。一人で生きているからこそそのへんの律儀は守らねばならんのではないか。

湯浅に行ってみたい気がするが発酵前だし直近の長浜であまり収穫がなかったしで躊躇っている。煉瓦探しのためだけに行くにはチト遠すぎる。ついでに由良洞とか見てくるか、っていうのも長浜と同じ流れだしなあ。いやいや、成果が約束されてないからといって臆していたら何もできない始まらない。

同じ流れで行くんであれば大社村とか西宮町とかのほうが早いんだよなあ。見つかる気はさらにせえへんけど。だからこそ行く必要が、あるっちゃああるわけだけど。大社村は西宮町の西側まで覆ってたみたいで立地としては海岸線付近が怪しいけれども後の広田煉瓦工場が「ノ内広田村」になっているのを忘れたらだめだ。最初の想定ポイントも抑えたうえで見てくること。

みておくべきもの:と銘打とうとしたが、あれ、読んだものばっかじゃん。打田町史とか舞鶴市史町史の辺り。郡史はどうだ? 湯浅町と安原辺りもないもんかしらん。。。和歌山県関係はこの間見たもんなあ。


2018-08-13 [長年日記] この日を編集

[独言] 言いたいこと例えば

画像の説明

大阪駅の11番ホームの柱なんかに使われている擬石タイルは4種類ある。回転させて混ぜてあるので都合16パターンあるように見える。とか。

[] だいたいできた

日曜日に写真撮影するつもりだったのだが日が落ちるのが早くて半分くらいで断念した。調子に乗って歩き回りすぎた。これは15日にやるしかない。それ以外のはほどんとできている。

250余ページってことはそれだけの種類があるってことだよな。我ながら呆れる。


2018-08-16 [長年日記] この日を編集

[未消化] 揖斐川橋梁

http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2014/34-0111.pdf

鉄道系はこういう意外な補修があるからテキトーなことを言えない。大変だ。

[ORJ] 発行

せっかく第一回内国勧業博覧会の出品説明をfetchってきたのに入れる暇がなかった。70ページ読み込んで消化して入れるのはこの短時間では無理。以前はできた気がするんだけど。老化だな。

締め切り6時間前くらいからマウスの左クリックがアホになってメゲそうになった。接触不良を起こして勝手にダブルクリックしたりドラッグ外したりしやがる。MacOS9でもWindowsでも使えるスクロールマウスって手に入れるのが面倒なんだ。壊れてもらったら困るんだ。ただしhpの量産型なのでどこかで手に入れることはできるはず。型番がよくわからんのでそれさえクリアすれば。

刻印集成2018は意外と時間がかかっている。社章出典がわからなくなったりして探しなおすこと多々。もうちょっと手を入れるかも知れない。これを完成形のベースにしたい。

[] 明治十年内国勧業博覧会出品解説書

技術史体系だったか何だったかの本(ここで以前書名をあげてる、確か「比較的まとまった」云々と書いてたはず)に第一回内国勧業博覧会の煉瓦出品の解説が引用されていたのだけれども、出典にあたってみて種々心づくことがあったのでメモする。前掲書の引用は第二区第二類への出品すべてを一つひとつ解説している中から煉瓦関係のを抜き出してある(抄録だとはいっていない。不親切である)。

関西地方で関係してくるのは以下の2出品。

煉化石 造幣局
京都府下山城国相楽郡童仙房の土及び大阪府下摂津国東成郡天王寺野代田の土を採り鍬を以て打返し足を以て踏み捏して木型に按填し乾かし窯に入れ七昼夜焼成す
煉化石等 県庁
製法 田圃或は池底の土を採り筵を覆い熟さしむること一夜鍬を以て練り砂を調和し足を以て踏み捏して型に填じ板を以て四面を按じ型を脱(し)能く摩擦し滑ならしめ乾かし窯に入る石に赤色を発せしむるは窯火中に塩小許を投じ焼成す

前掲書では後者「県庁」を兵庫県庁としている。解説書の項目の並びが都道府県順になっていることと、その直前が兵庫県(摂津国八部郡長田村)の谷口吉太郎が出品した瓦であることからそう判断したのだろうと思う。個別にはどこの県庁か書いてないのである、原文からして。

けれども多分これは原文が間違っている。「県庁」ではなく「府庁」であって大阪府庁の煉化石の出品のはずだ。なんとなれば兵庫県は煉瓦を出品していないからだ(「明治十年内国勧業博覧会出品目録」第二部参照)。そうして大阪府は勧業場で製造した煉瓦を出品している。加えて原文項末の一覧表において創始が明治六年となっているのは阪府授産所の創始年に一致する。

第二区第二類
煉化石(一)土、並形、大坂難波新地六番町勧業場田中平七石本力松高松種次郎(二)扇子地紙形(三)撥形 府庁

造幣局出品の煉瓦は、これだけ読むと普通煉瓦っぽく見えるけれども多分耐火煉瓦。「明治十年内国勧業博覧会出品目録」1(dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801848)に次のようにある(大蔵省の出品目録の第二区第二類さんしょ)

煉化石(一一)大白(一二)並同(一三)弧形用同(一四)同(一五)大同(一六)並(一七)弧形用同(一八)同 造幣局

相楽郡童仙房の土、ってどこかで聞いたことがあるような気がしていたが(たぶん耐火物史)、今でも耐火度のある粘土として陶芸用に売られているようだ。それと野代田の土を合わせて耐火煉瓦を国産しようとした。造幣局が耐火煉瓦を作ろうとした記述は確か造幣局百年史などにも書いてあったと思う。けれどもこれは失敗に終わった。まともな耐火度のが作れなかったのだ。市井に耐火煉瓦工場ができ大阪市が耐火煉瓦製造のメッカとなるにはあと5、6年待たねばならず、それも三石辺りの蠟石質耐火煉瓦が台頭してきて下火になった。東成郡の野代田ってどこだろう?

(出品しているうちのいくつかは外国製品であったかも知れない。内務省などは舶来の良品をたくさん出品している。こういうのを作ろうや、という勧業の目的で)

第一回内国勧業博覧会には関西地方の出品がほどんどない。鉄道寮の工場(原口工場)などあったはずなんだけど(第二回には出品してる)。東京が多いのはわかるが福島や山口などから出品があるのは興味深い。続けていれば一大産地になり得たかも知れないのだが。交通網が整っていず販売に不利だったからだろうか。早すぎたんだ。

といったこと+第二〜第五回の出品を眺めるつもりだったのだがタイムアップした。


2018-08-17 [長年日記] この日を編集

[独言][文芸]

また一つ、嬉しくはない歳を取る

「嬉しくもない」のほうが素直だろうけど、実感としっくり来ない。がちゃがちゃした感じを含めこちらのほうが添っている。

歳を取ることはよいことだ。避けられないことだ。歳を重ねてやっとわかることも多い。ようは納得行く歳の取り方をすればよいだけで、しかし決して納得はできない1歳だったこの1年を振り返って「嬉しくはない」と思う。

[独言] NHKめ

そういう日に当てつけるようにしてお一人様特集をしやがる。なめんなよ。

[ph.][コアダンプ] 蟷螂

画像の説明

スマホの迷惑は考えない非道をする。特に意味は無いカマキリ。山中信号場のスノーシェッドに取り付いていた。

そうか、そこに無理やりつければいいのか。神崎川橋梁の煉瓦を調べられないかとコソコソ活動してみたが結果は芳しくない。みんな乗り気じゃないようだ。第一そうなのよ、近代遺構がいかに認知が進んだってったってお金かけて手間かけて調べてどうするのよっていうところには社会的市民的コンセンサスは得られてない。そもそも煉瓦わかたったって、煉瓦製造業の歴史がわかったって何の得になるかしらん、と自分でも思うのだ。ようはnagajis個人の興味の充足にしかならんのじゃね、て言われればそれまでなんだ。

だから。だからなおさら、何もしないではいられない。蟷螂の斧だとわかっていても振り回さないではいられない。個人の興味とか名誉とか無関係に、それがそのうち社会の役に立つに違いないちう確信犯的信念がある。もしそれを自分自身が無視しようものなら何の信念ぞと思う。何のレゾンデートルぞと思う。そういう迷惑をかけるために生きておりのだと割りきって、いや割り切るんじゃなくて信じ切ってカマキリを演じ切らないとだめなんだ。自分が見捨てたら、誰が救ってくれるというんだ>nagajis。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ あきら@大阪 [何だかんだ言っても生きてる限りは歳を取る。 納得しようがしまいが今をこうして生きていることを嬉しく思いましょうよ。なんて言うと大袈裟やな。 おめでとうございます。]

_ nagajis [あり×11。1匹はオマケです。]


2018-08-18 [長年日記] この日を編集

[ph.] 白百合

画像の説明

はなをみてなごみましょう。市街地の空き地に咲いていたテッポウユリ。いや、タカサゴユリかしらん。

[独言] 堺煉瓦に関する整理

東雲新聞は明治21年1月15日~24年10月29日。集成は24年の後半は入ってなかった気がする。そう。713号(明23)まで。

東雲新聞に現れる最後の堺煉化石情報は東雲新聞明治21年12月2日の広告(http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20170731&)。

共立社は明治22年7月設立。22年7月・8月の辺りは毎日新聞をみてる。コレは見出しも広告もテキスト化されてない。

明治25年4月竣工の友ヶ島第4砲台の弾薬支庫には堺煉瓦の刻印がある。

大阪毎日新聞明治26年6月17日に共立社→堺煉瓦株式会社の記事がある(http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20170826&)。この中で堺煉瓦自身はすでに煉瓦を作ってるようなことが書かれてる。株式ではない堺煉瓦がそれ以前から操業していた?買収した新会社が会社登記されるまえから作ってただけ?

ということは明治23年の第713号以降明治25年4月までのを調べる必要がある。共立社を探すなら22年6月、8月の本文をみる必要がある。1ヶ月みるのに頑張っても小一時間かかる。うん、とても大変。共立社くらいならできるか・・・

毎索を個人で使えるように、なったりせえへんよなー。


2018-08-19 [長年日記] この日を編集

[独言][きたく] 輪行時の注意

画像の説明

忘れ物がないかどうか確認しろよ。

[煉瓦][橋梁] 桂川橋梁跡

性懲りもなくまた行ってきた。刻印と煉瓦サイズの対応を書いている時に「B」だけ縁が欠けていて全形寸法が書けなかったことが気がかりになっていたのだ。そうして欲張って?自転車を持って行ったら出発駅にペダルを置き忘れてしまうという体たらくを演じた。取りに戻ってたら無駄に800えんと小一時間無駄になることを吝んでペダル無しで走り回るという暴挙をやったりした。とりあえず所定の用は足せたので良しとする。「B」は撥形ではなく扇形だ。

画像の説明

完成形。↓↓の間違いを修正。Cは共通でAB+CとC+DE。

今回の訪問で上流側の円形橋脚と下流側とで積み方が違うことを確認した。どちらも同じ2枚半巻なのだけれども、 画像の説明

上流側
(内側から)扇+扇+扇+撥と撥+扇+扇+扇が繰り返されるが、途中で撥+撥+扇が挟まれる。同心円状の芋目地(芋というよりあれだな、タマネギの輪切りみたような状態だ)を切る目的と思われるのだが、扇+撥+撥の段がないせいで正しく切れていない。上の方では正しく積まれていたのかも知れぬが残存部からはそこまでしかわからぬ。
下流側
扇+撥+撥と撥+撥+扇の繰り返し。のはず。前回取ったメモではそうなっておる。この積み方はM29定規に一致する。

画像の説明

今日は水が少なく上流側の東側の端(扇)に「E」「B」が露出しているお陰で刻印煉瓦の使用位置もわかった。扇「A」が最も外周に使われるもの、扇「B」が最も内側のもの、扇「E」がその中間(場合によっては扇「E」と他の扇を組み合わせて円周長を調整したのかも知れない)。実際この3種を比べると「B」の内側の曲率が最も急で両サイドの角度も急。円弧長の長い順に並べれば「A」「E」「B」となる。

となると上流側の撥形煉瓦は「D」だけになってしまうわけだが、実際撥「D」は飽きるほど沢山転がっているのだった。「D」が最も多く使われていたからだろう。そうして扇「B」がなかなか見つからないのは、それが最も数が少ないからだろう。

そうして相変わらず「C」は発見されなかった。これだけ探して見つからないのだから、やっぱりケロヨン君が「C」なのに違いない。ただしケロヨン君と矩形橋脚壁体の煉瓦に目立つ差異はない。若干壁体の煉瓦のほうが薄いようではあるのだけれども(56~58mmほど)、誤差の範囲と言われればそれまでだなぁという印象。ケロヨン君だって厚56~60と変動する。60mmが上限値と考えたほうがよいかも知れぬ。長手・小口も他と変わらぬ224~225mm。

画像の説明上流側橋脚跡の積層を水面の高さを基準にして読んでいたら、欠けてC字になった円形橋脚の両端で積み方が違うことに気いた。どうも合わないと思ったら右図のごとくに傾いているらしい(わかりやすくするために煉瓦の大きさは誇張して書いてある)。北側が土に埋もれているせいで全周を追えない。

前回ケロヨン君を採取した最上流の橋脚の周囲は亀さんの墓場になっていた。周囲の洗掘によってできたドーナツ状の水溜り。前回の大水の時にここに避難していたのだろう。そうしてこの猛暑で茹で上がってしまったのだろう。深い洗掘ゆえに自力で脱出できなかったのであろう。あな哀れかな穴の亀。南無。

[なぞ] 東海道線の複線化

薄「B」が扇形と確定したことで定規以前の構造物だという推定の裏付けが重ねられた。とすると桂川橋梁は下り線側に複線化されたことになるわけだが、その拡幅方向は全線で一致しているわけじゃない。例えば高槻辺りの煉瓦拱渠はみんな上り線側に拡張しているように見える。

桂川の西、彦助川の暗渠は水が溜まっていて入れなかった。ババッチョ暗渠は元から複線幅で作られているように見えなくもない。築堤があの高さであの暗渠長は複線幅に見える。少なくとも継ぎ足した痕跡はない。

円妙寺は下り複線側にあった。今回は確認してない。

飛んで茨木の太田川避溢橋(安威川の隣)。2連の煉瓦アーチのついた煉瓦橋脚があるのだが複線幅。特に継ぎ目があったりはしない。ただし上流側の橋台のほうが低く、下流側が高く、そうして周囲には屑煉瓦が散っている。添印「ハ」入の堺煉瓦や極厚煉瓦が落ちていたりした。完全に崩して積み直したのか??

門ノ前橋梁のねじりまんぽは下り線側。継ぎ目はなく、しかし複線が載っている。かなりギリギリな幅と思う。上流側に離れて橋台を付け足して上り線複線を渡してある。

茨木川橋梁は石積みで複線(単線トラス×2)。例のねじりまんぽ側面アーチのある方が下流側で、門の前橋梁より長く見えるのは、角度がついているせいか。しかし下流側の石材と上流側の石材で仕上げが違う。斜架ってる/ないという違いもある。→あ、当初は9ft円形橋脚?1892頃は100ft錬鉄鈑桁?茨木駅方の橋台は足元に円形のでっぱりがある=これが9ft円形ウェル基礎なわけか……。https://goo.gl/maps/KeB9NnUyUjy だとするとねじりまんぽアーチは9ft円形ウェルに足をかけるように作られていたわけで力学的な要請に叶っている。けれども下流側のアーチは円形でっぱりに載っているわけではない。。。あー、わけわからんちん。

解読のヒントは尻戸三避溢橋にあるのかも知れない・・・。あのレンガアーチはもともと単線を渡す規模で作られていた。そこにほぼ同じ幅のカルバートを添えついで4線通してある。つまりは避溢橋部分に2線載っているってこと。同様の無理が門の前やら茨木川やらにも? しかし茨木川は桁受石がいまのトラスの位置に作られてある。ってことは全幅分作りなおしたということになりはしないか。茨木川の流れ方とか変わっていたりするかも知れんしなあ。

[独言][] 9ft・12ft円形橋脚の煉瓦

あ===、違う違う、

9ft:C、D、E

12ft:A、B、C

の3種類ずつなのだ。そうしてCは両者で共通なのだ。9ft図にあるA、B、の形状は沓の部分に使う木片の形状であって煉瓦ではぬぁーい。その3種類で撥撥扇/扇撥撥の積層をなすのだ。

もし9ft円形橋脚が桂川のようになってたら「E」がやたらたくさん出てくる筈。


2018-08-21 [長年日記] この日を編集

[独言] 上神崎川橋梁の橋脚

大阪市の教育委員会さんにお尋ねした。大阪市のほうは特に調査をする予定はないそうだ。今からやるのも、そりゃ無理だわな-。

残して欲しいとか取り壊すのならせめて記録をとかいう主張をするわけでは、実はないのである。要するに瓦礫となった煉瓦を分けてもらって刻印探してみたいというだけだ>nagajis。それによって仮に刻印が見つかったとしても何かが明確になるわけでもなく---桂川と一緒だったら?それで浅田氏の工場から来たのか原口工場からなのかわかるわけでもあんめえ---見つからなかったら見つからなかったで運とも寸ともいえねえ---。うん。全く身勝手である。と納得して諦める。

わけないよなぁnagajisが・・・。

面白いことに扇型「B」は堺市三国ヶ丘のアパートの前で検出していたりする。工場とは全く関係のない場所&平に押されている&採寸はしてないので同一のものとは言えないのだが。そうしてM29の定規のBは撥型なんだよ。うん。そんなわけでいまのnagajis脳内の分布マップの重心は堺の方に寄っている。

話を伺っていて、役場とか組織とかに所属するとかえって身動き取れなくなってもどかしいんだろうなぁと思われた。隣町との調整とか所有者との調整とかあれとかこれとかの手続きの上でやっと調べられる。そんなこと面倒くさくてやってられないよね。個人なら逮捕されるか非難されるか無視されるかで済む話だ。

大樹に倚らねば恩恵は受けられない。しかし大樹に慮らねばならず、水やったり肥料やったり虫取りやったりせねばならぬ。倚った大樹が望む方向に育ってくれるとも限らない。だったら自分用の矮木を育てたほうがいい。苦労はするだろうし実がなるまでに何年何十年とかかることだろうが、飽きずに続けていれば何かしら成ってくれるだろうことは、村田鶴探し一件が証明している。今や二本目三本目にかかっているところなのである。欲張りだなあnagajisは。

[煉瓦] 明治24年(1891)11月18日 甲達第1137号

という達に鉄道用煉瓦の最初期の規格があったらしいんだが原文は見つかっていないそうである。小野田さんがいうんだからこれはもう世の中に存在してないんじゃないかと思う。

この中で肉厚煉瓦が規格化されとったりしたらいろいろ説明がつくんだけどなあ。見つからないんじゃしゃーないよなー。

[煉瓦][] 明26.1 貨物

明治26年頃、官設鉄道で煉瓦を運ぶと1哩100斤あたり2厘の貨物料金。煉化石は1等級の貨物で(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805514/42)、1マイル・100斤につき2厘(=1マイル・1トンあたり3銭3厘2分)。ただし25マイル以内で5銭未満の場合は5銭、25~50以内で10銭未満は10銭、50マイル以上は15銭を取る。これが最低賃金。煉瓦の場合は重いので等級料金のほうが効いてくるはず。

関西鉄道(貸切貨物)では米、塩、木材、並陶器、石炭、なんかと並んで煉瓦も1マイル・1トンあたり1銭8厘。単純に考えると官設鉄道よりか安い。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805514/69

明治31年頃には「鉱属」という量目ができ、積み込みは貨主が行ない(然らざる時はその費用を別途)、破損責任は貨主が負い、一時に12トン以上運搬するんであれば1マイル1トン2銭5厘。12トン未満は12トンとみなして上記料金か、1等品とみなして料金徴収(1マイル100斤につき2厘、距離に応じて最低賃金設定)(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805391/49)

この頃には関西鉄道の特記のなかに煉化石の項目がなくなるが、多分1級品とみなして(3等級以下の料金の)1マイル・1トンあたり2銭5厘なのだと思う。官設鉄道の鉱属と同じ。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805514/69

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805393/151

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805514/69

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805391/220

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805370/34


2018-08-22 [長年日記] この日を編集

[煉瓦][] 大高庄右衛門「煉瓦の形状に就て」大日本窯業協会雑誌 No.159 明治38年(1905)

名称長手(mm)小口(mm)厚(mm)
並形7寸4分
(224.2mm)
3寸5分
(106.1mm)
1寸7分5厘
(53.0mm)
東京形7寸5分
(227.3mm)
3寸6分
(109.1mm)
2寸
(60.6mm)
作業局形7寸5分
(227.3mm)
3寸6分
(109.1mm)
1寸8分5厘
(56.1mm)
山陽新形7寸2分
(218.2mm)
3寸4分5厘
(104.5mm)
1寸7分
(51.5mm)
山陽形7寸5分
(227.3mm)
3寸5分5厘
(107.6mm)
2寸3分
(69.7mm)

必要なときに見つからず、その都度書いているものだから失敗するのだ。これが原本と思って以降これを参照すること>nagajis

山陽型=肉厚なのは目地を合わせて3インチ(76.2mm)にするっていう意図があったと読んだことがある気がする。そういうもんだとだけしか思っていなかったけれども、それが山陽鉄道の独創によるのか、何かの規格を参考にしたのかまでは知らない。そうして山陽鉄道の最初の線は明治21年にできている。肉厚煉瓦は2寸5分=75.75mm。3インチに近いっちゃあ近い。

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/kogakkaishi/19/003-219-001.pdf

[独言] 京都大学構内遺跡調査研究年報 2010

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/226486/1/2010_107.pdf

に出土した煉瓦の説明があり、

Ⅲ77は長さ22.4cm,幅11cm,厚さ6.5cmで,桜花章をかたどったと思われる粗い刻印を捺す。この刻印は明治23年の旧関西鉄道株式会社(JR草津線)の諸施設で使用していた〔水野1993〕とされている(2)。

とあってびっくりした。うえに注釈(2)に次のようにある。

  典型的な桜花章刻印煉瓦は集治監内で製造された「囚人煉瓦」〔水野1993・1999〕とされており,この煉瓦も監獄内での検印の可能性がある。比較的,近畿地方京阪間の鉄道などでよく見かける煉瓦である。

えー、草津線で桜刻印ー、聞いてないよー、と焦ったのだけれども、図版ページ https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/226479/1/2010_b.pdf を見て安心した。堺煉瓦の刻印のことらしい。

それなりにわかっているつもりになっているnagajisは危険である。草津線だって全部が全部見てるわけじゃないもの。ちなみに最初の一文をブラウザ上でコピーしてペするとなぜかcmが尺になってしまう。不思議で危険な現象だ。

この報文のおかげで、煉瓦屑を粉末にして耐火煉瓦に使ったやつをシャモット煉瓦と呼ぶのだと知った。厳密に言えば粘土質の耐火物を焼いて作った耐火煉瓦をシャモット質煉瓦とはいう。粘土を焼いて作った煉瓦をまた粘土に戻して耐火粘土と混ぜて焼いたわけである。そういえば深山砲台の麓で要塞の煉瓦をぶっ崩して売っていたことがあると聞いた。その行き先が耐火煉瓦工場だったのだろう。ふむふむ。だとしたら煉瓦工場の焼損煉瓦もそういう再利用法があったに違いない。でないと溜まる一方だろう。

[独言][煉瓦] 堺煉化石と堺煉瓦と堺附洲煉瓦にまつわる妄想

堺煉化石と堺煉瓦(株)。名前が似ている。しかし堺煉化石→堺煉瓦(株)になったという直接的な証拠はない。統計書やらを見る限り堺煉化石はM21を限りに出現しなくなる。

堺煉化石の所在地は南附洲新田。同じ字にはのちに大阪窯業が入ってくる。

堺附洲煉瓦は中附洲新田(=大浜通3、元大谷工場の位置)。堺煉化石と堺附洲煉瓦は同時に存在していたらしい記録がある(M22年7月の新聞記事;ここでは附洲商会という名前)。職工100人抱える大きな会社。

共立煉瓦は戎島附洲新田。吾妻橋通2丁目で、ここが後に堺煉瓦(株)になる。M22年7月の記事には共立煉瓦の名がないがM22.7or8設立らしいんでそんなものかも知れぬ。

一度休業状態になった堺煉化石が共立煉瓦を買い取ってここに再生したとしたら。三本線社章に共立煉瓦の役員を加えて五本線になった、とかいう。買収の記事に「すでに事業をなしおり」云々。空いた南附洲新田は「適所を得て」大阪窯業が入ってくると。


2018-08-23 [長年日記] この日を編集

[煉瓦][] 12.本邦ニ於ケル信用スベキ煉瓦製造会社ノ名称並所在地在シヤトル分館主任ヨリ問合ノ件 明治三十三年四月

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_B10074443300?IS_KEY_S1=%E7%85%89%E7%93%A6&IS_KIND=detail&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InD&

の中に三島煉瓦と泉陽煉瓦が混じっておるのが興味深い。

普通煉瓦製造会社の部
埼玉県大里郡大寄村   日本煉瓦製造株式会社
東京府南多摩郡由井村  八王子煉瓦製造株式会社
同 南葛飾郡金町村   金町製瓦株式会社
大阪府三島郡茨木町   三島煉瓦株式会社
同 泉南郡佐野村    泉陽煉瓦株式会社
同 堺市吾妻橋通    堺煉瓦株式会社
同 泉南郡岸和田町   岸和田煉瓦株式会社
同 同 貝塚町     大阪窯業株式会社
大阪市西区川南     貝塚煉瓦製造株式会社
以上

耐火煉瓦製造会社の部
東京府荏原郡品川町   品川白煉瓦製造所
備前国和気郡三ツ石村  三石耐火煉瓦製造株式会社
同 同 伊部郡     備前陶器株式会社
以上

これをリストアップしたのは農商務省商工局長木内重四郎。この頃株式会社だった工場をあげているだけかも知れないが日本煉瓦(株)とかはない。

工場表では泉陽はこの頃佐野にない(Tに鳴滝に創業)。三島煉瓦はM34頃には消える。あと大阪窯業と貝塚煉瓦の住所が入れ替わっている。耐火煉瓦は随分厳選されているなあという印象。官公庁納入実績があるかどうかも見られている? だとしたら三島煉瓦と泉陽は要マークではないか。

わーしまった、三島煉瓦は尻戸三避溢橋のみなみっかわではないか。


2018-08-24 [長年日記] この日を編集

[独言] 西宮砲台

画像の説明

過日西宮へ行った時に初めて西宮砲台を見た。こんなに大きなものとは思わなかった、というのが第一印象。ここ150年ほどで隅々まで変わり尽くした西宮の市街地と、150年前から変わらずこの大きさでありつづけている砲台は、立ち位置としては大層ミスマッチだけれども、今ある街が一瞬にして出来上がったのではないというごく当然のことを教えてくれる。150年間何の役を果たすわけでもなく同じ場所に佇み続けているというただそれだけのことが妙に新鮮に思えたことだった。同じことを例えば大阪城の石垣だとか姫路城だとかに感じないから不思議なものである。「役立たず」というところに「同病相哀れむ」に似た心理が働いてそう思うのかも知れない。

街は変わる。変わる定めにある。そんな街で敢えて煉瓦を探すのは定めに逆らう不埒かも知らぬ。以前はそんなことも思わずにただ成果の有無に一喜一憂するばかりだった。岡町住宅地が奇跡の存在に思え感心しきりだった頃から、探せばどこにだってあるのだと知りますます感心した時代を経て、今はそんな思いを抱いて街をさまよっている。変わるべきものの中に変わらないものを見つけられることの奇跡を感謝しつつ埋もれた煉瓦をほじくり返す毎週末。いや毎週末は言い過ぎか。そりゃやりすぎだ。それもまた「見捨てられた意味あるもの」を求めて歩くのであって廃道探索と根は同じ、そして要するに猿が互いの毛づくろいをするようなものなのだろうと思う。道や煉瓦にとってはありがた迷惑かも知らぬが。

[独言] 片鉾橋

画像の説明

ついでにこれも上げておこう。夙川のほとりにあった旧橋跡。阪神香櫨園駅の北側だったっけ。左岸側にある。昭和27年11月架設。親柱だけが残っている。いまは駅南方で川を渡れるようになっているし堤はここで行き止まりになっているからそもそもこの場で渡る必要がない。阪急方面から来た人で夙川右岸に用があれば早くから別の橋を渡っておけば済む。気付かず通り過ぎても阪神駅南に出ればよい。

そういえば西宮戎神社の東門の正面の通りに「旧国道」という通看板が建っていた。あれが旧国道なら東からきた国道は東門の鳥居に正面衝突していたことになる。その後どっちに折れたのだろうか。片鉾橋は西宮戎神社の敷地と阪神線を無視した延長線上にある。

[独言][] 黒田清隆 永世無窮

画像の説明

旧長浜駅の庭に移されている、黒田清隆筆「永世無窮」。ここに置かれている扁額'sのなかで一番( ・∀・)イイ!!と思った。一見どの字も読めないところとか、幾何全開の「世」とか。どうもそういうわけわかめ系の書のほうが好きなようだ>nagajis。副島種臣書の扁額とか、どっかにねーかなー。

ここに置かれている扁額はどれも黒く汚れている。墨の汚れなんじゃないかと思う。拓本の取り方を知らずに紙貼って墨塗ったんじゃないか。どこかで真っ黒なこの書の拓の画像を見たことがあるような記憶もある。文化財毀損イクナイ。

[D] 8/24

屋外で脱糞しているところを見られる夢。 場面は午前1時30分過ぎの複合商業施設前というような按配。半闇夜。それ以前にも何か妙な展開があったのだが確かには覚えておらぬ。あれやこれやがあってから急に抗し難い便意に襲われ、ビル前のコンクリートの地面の上で野糞をしたのである。

「複合商業施設」と書いたのは今その場面を思い出しての後付け説明であり実際にそうであったかどうかははっきりしない。いわゆる無機質なビルがありその前のファサードがあってその周囲を囲むように円形演台状の階段が設けられてある。自分の立ち位置(座り位置)はその階段の下である。豊中駅と岡町駅の間にあるローソンのはいったビルのその辺りに似ている気もするが実物にはそのような階段はない。ファサードの隅には女子高生らしい2、3人がたむろして宵闇を語り明かしている。そこからは見えない位置を探して階段下に居たのだと思う。

便意を開放し始めた時になって自分がその女子高生集団のほうに尻を向けていることに気づいた。そうして便意を開放しながら器用にくるりと回って女子高生方向に向き直った。その動きはシラフの今考えてみればどういう意図だったのか測り難いところがある。いや、記憶の中では覚えている。ケツを見られる恐怖感みたようなものがあったためだ。脱糞中の後ろ姿を見つかって指さされて笑われるなり糾弾されるなりすることが怖く思われたのである。原始的な行為中故に原始的な恐怖を恐怖したのであろう。もし現実にこういう場面を演じなければならなくなったとしたら同じ行動に出るのか否か興味がある。どっちを向いて脱糞するだろうか。同じ場面を演じたいとは毫も思わないけれども。

夢に戻る。そうやって向き直った途端に第三者たる男子高校生に見つかってしまう私。案の定ケラケラ笑われて誠に恥ずかしい思いをする。だからといって便意開放中故に何という反撃に出ることもできない。恥ずかしさの余りうつむけばタール状の黒く粘性のある便があるばかり。抗い難い便意であった割には少量で、かつ開放中に向き直ったせいであちこちに飛散していた。まるで床にケツをなすりつけながら排便したかのような散らかりようだ、と思った。無論そんなことを現実にやったことはないので適当な例えであるかどうか心許無いのであるが、夢の中の私は確かにそんな姿を想像したのだった。

起きたらひどく首が痛かった。寝違える一歩手前といった塩梅。起き上がってしばらくは首を傾けることもできなかったし昼間も不意に向き直るとあふっとなった。そういう肉体的苛荷がこんな夢をみさせたのだろうか。それともnagajisの精神の奥底に澱み居る何かなのか。後者であってはあまり欲しくないものである。

現実の野糞にはやはり恐怖心がつきまとう。今この場面で野犬に出くわしたら。誰も居ないはずの森の中にひょっと通りかかったハイカーがあったりしたら。得体の知れぬ魑魅魍魎に接近されたら。そういう恐怖と闘いながらという側面は確かにある。どんなに山奥で安全だとはわかっていてもこの怖れの感情は拭い去れない。便は拭い去れてもだ。原始の昔から人が行なってきた行為であるはずなのだがだからといって行為に付随する恐怖およびそれへの対処の方法は洗練されていないようである。体験して初めてわかる生物としての私。そして穴は浅く広くではなく縦に深くでなければならぬという経験知。浅いとケツにつきがちである。


2018-08-26 [長年日記] この日を編集

[煉瓦工場] 広田村と上中条と

本当は和歌山へ行こうと思っていたのだけれども前の晩に寺田寅彦全集を読み込んでしまったために寝過ごした。結局前回の続き的に広田煉瓦工場と三島煉瓦の跡を訪ねることに。

広田へは久しぶりに171を通ってみた。神戸元町までの往復運賃700えんを節約するために、あるいは帰省のダイアモンドフェリーに乗るために何度も走った道なのだが、ここのところすっかりご無沙汰だったので、懐かしいような新鮮なような気分に浸れた。ただし往時の元気は微塵もない。171で現場まで行くか阪急西宮北口辺りまで輪行するか迷ったくらいである。以前と変わらないのは走って楽しい道ではないという現実のみである。

昆陽西の辺りでは旧道へ入り込んでみたりもした。大したものはなかったけれど。焼肉特急は幸福駅から始まらないほうがよいのではないかと思った。食えば食うほど至福に近づけるほうがいいに決まっている。食うほどに飽きがきて幸福から遠ざかるような焼肉は(たとえそれがよくありがちなことだとしても)あまりうれしくはない。

広田村はまったく新しい住宅街になっていて、それは航空写真からもわかっていたけれども、これほど何も見つからないとは思わなかった。古い煉瓦、というものからして無い。唯一「K1」を見つけられただけだ。それとて戦前を少し遡れるだけで、なおかつたった一個の存在だったから、そこから何かを引き出すことも難しい。

その周辺の町々も少し入り込んでみたがほぼ同様である。シャレオツな住宅街ゆえ新しい煉瓦はたくさんあるのだけれども、目指すところのいびつな手成形煉瓦は一つも見い出すことができなかった。百年前の工場なのだから、何の消息も残さずに消え失せていても不思議ではなく、一概にそういうものと考えるべきなのかも知れない。勝部だってそうだった、多数見つかったあれは紡績工場由来のものだ。 画像の説明

そこから西宮北口駅へ向かい、阪急に乗って、大阪を横断して茨木市へ。上中条にあったはずの三島煉瓦の痕跡を探した。そうしてこれも失敗に終わった。やはり百年前の(略。

茨木市は何かありそうで何もない街である。これまで何度も煉瓦探しに訪れたけれども全く収穫がないことばかりだった。今回はそんな雪辱を晴らしたいという気もあったので、これまで以上に徹底的に歩きまわってみて、なんとかかんとか発見をすることができた。

画像の説明

例えば江州煉瓦。府下では吹田が南限だったので茨木で見つかるのは不思議ではないけれども、検出は初めてである。茨木ではもう一つ江州煉瓦を検出している。よほどの浸透圧と考えねばならぬ。

画像の説明

その近くではこんな耐火煉瓦を目撃。いかにも赤煉瓦っぽい色合いだが三和耐火のSTRとSKグレード30が刻まれておる。

以上2個の煉瓦があったのは梅林寺の北側だ。梅林寺は以前来た時には全周が煉瓦壁だったように記憶するのだが、久しぶりに再会してみると大半が塗り込め直されていた。残っているのは北面のごく一部だけだ。

画像の説明

三島煉瓦の工場は茨木町上中条に所在していたことになっているが、明治29年頃から34年頃までと操業期間はごく短い。上中条の全域を歩きまわってみてもこれといって古煉瓦が多いわけではなかった。明治頃はこの一帯は水田であったようだから無くて当然なのかも知れぬ。

そんな上中条でたった一箇所残っていた煉瓦溝に興味深い煉瓦刻印を発見。推定塔本の五稜星である。 画像の説明

この刻印は淀川以北ではまだ見つけられていなかった。十三辺りでも未検出。それがぽつんとここにある。そうして同じ煉瓦溝に 画像の説明

ちょっとわかりづらいが江州煉瓦の機械成形。それ以外にも無刻印の質の違う煉瓦がまぜこぜに使われている。察するにあちこちから取得してきた再生品を使ってあるようである。少なくとも三島煉瓦=★ということは無いだろう。

その後南下して大手町のほうまで行ってみた。茨木は古い民家というものからして少なく、水回りに煉瓦を使っているような家も稀で、そんななかでようやく目にした民家の煉瓦基礎に 画像の説明画像の説明

和田煉瓦の「ワ」らしいものを見つけることができた。かの特徴的な、ゴシック体というかじゅん31というかな感じの「ワ」である(モルタルをかぶっていて右辺~下辺が見えないが1・2画目から間違いなくゴシック「ワ」とわかる。それほど特徴的な刻印なのである)。

そんなこんなで一応は収穫があった日曜日。暑くて悶え死ぬかと思ったが帰ってとろろうどんを食して復活した。懸案だったザックの洗濯とゴア合羽の撥水加工も執り行ってさらに実りを得たのであった。うん、こういうのが本来の日曜日の過ごし方のはずだ。


2018-08-27 [長年日記] この日を編集

[古レール] →〄 30 A 2048 GODO 1995 IIIIIIIIII

画像の説明

長浜駅の北陸線電化記念館のレール。えっ、未来製? と思ってしまったがこれがセクションナンバーであるようだ。合同製鐵1995年11月製レール。JISマークのところだけほしい。

これくらいのものになると「古レール」とは言えないかも知らん、と思ってみたりする。記念館のために持ち込んだ新品であるようだし。

[古レール] OUGREE 60lbs ASCE (.*?) 1923

画像の説明

彦根駅の1番ホームの端っこに残っている旧屋根に。ベルギー・ウグレー社のレール。これも1923年製だそうで、この頃ヨーロッパから大量に入ってきた激安品の一つであった。福知山線柵では見られないメーカーである。判読不能の個所はドットで製造月が示されているそうだ。

[] 柳ヶ瀬隧道扁額

画像の説明

これも記念館庭に移されているやつ。実物。隧道建設の由来記が刻まれている。逢坂山隧道もそうだったが扁額にこんな細かな文字を刻んでも誰も読めなかっただろう。それでも掲げであったところに昔の人の感覚が読み取れて面白い。曰く「読まれるかどうかは問題に非ず。在ることに意味がある(記録記念することに意味がある)」。あからさまに誇るものではないところに奥床しさを感じる。


2018-08-28 [長年日記] この日を編集

[独言] しまった

関西煉瓦合資会社は「日本全国諸会社役員録」明治30年にも記載があったじゃないか。すっかり忘れてた。

相楽郡上狛村
設立 明治30年3月
営業の目的 煉瓦製造販売
資本金 10000円
業務担当社員 田中源人 相楽郡高麗村
同 井上新平 同上
同 小島政次郎 同郡上狛村
同 森本豊三郎 同上
同 落合良三 同上

このへんの名前は皆さんに見ていただいたほうがよいと思うのだが・・・

[煉瓦][煉瓦工場][bdb] 工場が移設

http://bdb.kyudou.org/category/%E6%88%90%E9%87%91%E7%A4%BE/

ここに詳しく書くようになったらキリがない気もするが・・・自分自身覚え切れなくなってきている。


2018-08-30 [長年日記] この日を編集

[] 寺田寅彦全集(岩波版)

岩波文庫版寺田寅彦随筆集は飛び飛び時々に読んでいたけれども編年体の全集として読むとまた違った感慨が湧く。まことに律儀で正確な眼を持った科学者であるに加えて読む者を引き込む上手さも備えた文学者。人や生き物や自然に対するあたたかなまなざし、時おり開陳してくられる嫌味のない皮肉は柳田翁に通じるな、と思ったらほぼ同年代の人なのだった。もっと若い頃に読んでおけばよかったと悔やんでも遅い。

後半生は地震や風水害など天災の研究をされた。災害に備えることの重要性をこれでもかというくらいにわかりやすく実感を込めて書いて伝えてくれている。台風進路の予測も火山活動の危険察知も氏の頃に比べて格段に確実にできるようになっている。にもかかわらず自然災害の被害は常に「想定外の規模」だ。地震だって、予知はまだ無理だけれども建物ははるかに丈夫になり耐震免震も考慮されているはずだのにかのありさまである。 どういうわけだろう。

さっきもラジオで衝撃的なニュースが流れていた。さきの西日本水害の被災地で災害特別警報の意味を尋ねたところ正確に答えられたのは半数以下だったそうである。非常に危険な災害になるだろうことが予測されていて、それを伝える警報さえ出されていたにも関わらず伝わっていなかったわけで、寺田先生が聞いたら嘆きに嘆いて血を吐いて倒れるんじゃないかと思うような調査結果ではないだろうか。

結局のところ、日本という国は災害が起きて当たり前の自然環境であって、それを無くしたり逸らしたりすることはできないのだから、寺田先生も言っているように)一人ひとりが強いぼ防災意識を持たなければならない、という言い古されて垢まみれな言葉のとおりを実行しなければ、息災に暮らすことなどできないのである。雨が降れば山が崩れて当たり前である。台風が来れば堤防が決壊して当然。数年に一度は巨大ななゐに襲われて足元を掬われる。あるいは津波で全てを失う。そういう土地に暮らしていることをめいめいが自覚してそれに備えなければならないのだろう。

警報の意味を知らなかったと答えた人の中には「説明責任を果たさなかった国が悪い」と言う人もあるかも知れない。他の警報・注意報と紛らわしいところがあるのは否めないと防災研究の専門家さえもが言っていた。だから、警報の上に階上屋を立てるがごとくの特別警報を設けるより、いっそのこと警報の体系を根本的に作り直すことも考えたほうがいい、的なことも言っていた。そうしたところで今度は「ころころ替わってよくわからない」と言われるのは、目に見えている。

ニュース解説であれだけ何度も警報の意味を述べていたし大雨の前後最中も盛んに避難を呼びかけていたにも関わらず何の対策もしなかった人々が即ち被災者となって「こんな被害は初めてだ」「こんなことが起こるとは思ってもいなかった」的なことを宣う。自然災害の責任を国や行政に押し付けるような物言いを耳にしたこともある。確かに一部は関わっているかも知れないが諸悪の根源では決してあるまい。むしろ自分自身が用心を怠っていたことのほうを反省し今後どうするかを考えるほうが先なのではないか。本棚につっかえ棒をするとか煉瓦壁を分散さすとか非常食の備蓄を始めるとか、備えを万全にしたうえで環境に文句を言わなければならないのではないか。 敢えてこんなことを書くのはもちろん自分自身に向けた戒めとするためである。


2018-08-31 [長年日記] この日を編集

[きたく][煉瓦工場] 杉本煉瓦工場@甲賀市葛木

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所用で滋賀へ行ったついでに足を伸ばしてきた。記録上一度しか出て来ない小さな工場のはずなんだけれど、どうしてどうして、その痕跡はまこと濃厚に残っていた。奇縁を得て工場所在地とされる場所も判明した。残念ながら刻印は使用していなかったようで、長浜鉄道スクエアで見た「井桁は八」も見つからず。

この工場で厚70mm超の厚煉瓦を作っていたのは間違いないようで、寄進されたという西光寺のこの壁にも、その他葛木(カツラギだかんな!)の在所内にも厚煉瓦は多数転がっていた。M21~30頃、確かにこの辺りにはこの厚さの煉瓦の需要があったのだ。

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久しぶりに虫生野の橋梁にも寄ってみた。そうして漢数字六の他に、遠目にはよくわからない刻印があるのを見つけて、望遠で頑張って撮影してみたけれども、 画像の説明

わからないものはやっぱりわからないのだった。困ったことだ。

[道路元標][滋賀県道元標] なのか?

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煉瓦についての発見もさることながら、また、例の道路元標らしきものを発見してしまった。県道の起点を示した標石だ。ほぼ同じものが長浜の高田の辻にもあった。そしてどう考えても戦後の作らしく見える(「滋賀」だったり幅20cmだったり県道番号が刻まれていたりする。写真のには番号ないけど)。新道路法では道路付帯構造物に含まれているだけで設置義務も基準も示されてないのだからわざわざ作る必要はないっちゃあない筈だ(実際そういうのを他県で見たことはない。大阪市道路元標とかはちょっと違う意味合いの、単なるモニュメント的なものと思うんだけど。どうなんだろ、あれを基準にして県道起終点を示しているようには思えんなあ)。滋賀県独自の取り組みだったりするのだろうか。

[煉瓦刻印] STR SK30

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その昔、泉南市の三和煉瓦跡で撮影したもの。明らかに耐火煉瓦という風合い。

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過日茨木で見かけたもの。いかにも赤レンガという色であり、欠けたところから見える内部もそれに近いように感じた。同じ刻印でもこんなに違う。耐火煉瓦の型枠を流用して赤煉瓦を作ってみました、というような感じがする。実際そうなのかもしれないし、アカを使った耐火煉瓦なのかもしれない。よくわからない。

[煉瓦刻印] M.S.B.耐火煉瓦?

そんなことがあったばかりだというのに、今日もまた似たような状況に遭遇した。

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中央に「M.S.B.」とだけ刻まれた煉瓦。刻印のパターンは耐火煉瓦的だが、いかにも赤れんがっぽい(略。 画像の説明

その近くにはまごうことなき耐火煉瓦色した「M.S.B.」。困ったことである。

Bはbrickの略だろうけど残りの2文字がわからない。隣には昭和耐火煉瓦らしい「SHO<>WA」耐火煉瓦があるから三重や愛知岐阜方面から来たものかも知れない。ますますアテがつけにくい。

だんだん、耐火煉瓦というものの認識力、鑑識眼が疑わしくなってきた。


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