nagajisの日不定記。
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何とはなしに
明日への失踪ッ!
というフレーズを思いついてワクワクテカテカしている。特に頭頂部の辺りが。
無論「ッ!」というところがミソと思う。aka,「ッ!」が効いているのは言うまでもないだろう。逆に言えば「ッ!」が効いている。山吹色のオーバードライヴで明後日のほうまで飛んでいったらいいと思うよ>nagajis
Google日本語入力に部首検索さえついていれば・・・あるいは文字コード指定で漢字が出せれば。と常々思う。「聴く」「聞く」「効く」の用例なんて要らないんだ。間違ってたらプギャーされて終いなんだ。
以前はwww.tron.orgの漢字検索が便利だったんだがいつのまにか終わっていた。片+戸+甫とかで漢字が出せるのはとても便利だった。超漢字は最初のHDDが吹っ飛んだ時に消えてしまった。そのあとパーティション切らずに復旧させた気がする。QEMUかなんかで入れとこうか…そのためにはHDDの中身片付けんといかんけど。
そもそも普段はOS9だからアレなんだけどね。
そういえばWindowsでひらがな→英数変換ってどうするんだろう。ファンクションキーのどれかだろうけどキーが遠くて面倒くさい(いっつも漢字キー押して変えてから打ってる)。Option+sしたい。キーバインドの変更がいまいちよくわかってない。
ズタボロになりがら探し続けてきた宝箱が目の前にあるのだけど、実はパンドラの匣なんじゃないかと云う妄想が抜け切れなくて躊躇っている。それでもいいか、どうせ世の中には既に絶望が放たれて満ち溢れてるんだ。誰かが以前に開けたそいつの。自分のために自分の手で小さな希望を捕まえるのくらい許されるだろ。
柳田国男は雀の言葉がわかったそうである。毎朝窓辺に鳴く雀の、機嫌や置かれている環境やらを見分けることもできたという。五線譜の如き表記でその言葉を表してみたいともいっていた。早くそういう境地になりたいものだと思う。ちいちいぱっぱ、ちいぱっぱ。首をフリフリのドレス。
翁の論では頬の黒斑点の大きさとかで互いを見分けているに違いないということだった。翁説が合っているかどうかはともかく、生き物が相方を何で区別しているのか考えると夜も眠れない。やっぱりフェロモンとかそういうやつか。
全てをものにした実感を御覧 ノン・フィクション
いままで僕らは世界一幸せになるために
どれほど加速してきたか判らない 神様
お願いです 諦めさせて
(東京事変『空が鳴っている』)
さいはての到達地点。サッカーファンでも工場ボエでもない私がなんでこんな所にいるんだろうと思いながら動画まで撮ってきたのはニワカである。ニカウでなはい。そしてコーラ瓶も落ちて来ない。
あと、飢えた腹をすき家で満たそうとしたところ注文の仕方がわからず弁当を買う羽目になって薄暗い路地裏でしくしく言いながらそれを食ったり、非常階段に不法侵入した挙句に見つかって会釈で切り抜けたり、ジャケットを隣のロッカーに入れて鍵もかけずに半日放置したり、森之宮が割れ鍋屋に聞こえたり、だとかゆう悪行の限りを尽くしてきた。
息をするのもめんどうだby ♥ 。ちまちま片付けるしかねえ。つうかnagazillaじゃメール記号の極小版みたくなった。なんじゃこりゃ。
なんで一発変換できひんねんブツブツ
ああああああ。めんどくせえ。何故ずれる。ksg。
諦めた。丸投げする。これももう必要ない。
もう10年近くこのマンションに住んでいるが、ついさっき、近くのマンションが
ハイツベナス
という名前であることを知った。平成角ゴ的な特徴のないゴシックフォントで壁にそう刻まれていた。以前は白一色だったので気付かなかったのだろうと思う。一階に入っていたコインランドリーがつぶれ、かわりにその隣の電器屋が入った頃に改装していたから、その頃に象眼的彩色が施されたものらしい。
ハイ・ツベ・ナス。そういう区切りでないことは百も承知だが、最初にそう読んでしまったのが運の尽きだ。その3区切りが頭から離れなくなって、ずっと「『ハイ・ツベ・ナス』ってどんなナスやねん」と妄想し続けている。まん中の「ツベ」が難敵。連想するものがかなり絞られてくる。Youtubeのことをようつべというネットスラングがあるから、まずはそれが第一義に浮かんだ。じゃあハイツベって何やねんと考えた時、条件反射的に出てきたのは「廃」という漢字だった。「廃tube」。廃なものの動画ばかりが投稿される動画共有サイト。そしてナス。きっと、廃道でナス馬を作ったり、ナス馬を探索者に見立てたルポを撮ってみたり、ナスが廃道で腐っていく様を早回しで撮ったタイムラスプ映像だとかが投稿されるのだろうと思った。それ以外に何があるというのだろう。
そうに違いない、そうに違いないぞと思いながらニヤけつつ歩いていて足首を捻り倒した。やっぱり違うのかも知れない。
そういう詰まらないことを書いて場を和ませたつもりでいるnagajisは哀れである。
頼むから落ちないでくれ>Mac。悲しいのはよくわかる。よくわかるが、今落ちられると私が氏ぬ。
ようやく8年辿った・・・。長いような短いような。して、まだ続く。残り離散的な8ケ月。
2^8もの阿呆を繰り返してきた成果が出てきたようだ。今日はついに
離散家族
という言葉にPsを見出してしまった。しかもその中身が、全くもって意味不明だ。訳がわからない。父親、母親、子供、祖父母、が数m感覚で並んでいるという構図(即ち家族が離散的に立っている=連続的に繋がっているわけではない)を想像してニヤけた、というものだ。「これは!」と思っていざ書き始めてみたものの、一体何が面白かったのか、これっぽっちもわからない。そのまんまやないかい節子。ならば全世界の家族はみな離散家族だ。
これが「不射之射」というものだろうか。
_ 38kw [飛散家族ですね]
ついにG4 AGPが逝ってしまい、慌ててポンバシに行き代替機(ジャンク)を入手してきた。たった一台だけ残っていたQuickSilver2002・933MHz。HDDを移植して何とかORJを作っている。Macの悪口をいうと壊れるというのは真実のようだ。
専用のOS CDからインストールしたものではないせいか、CPUアクセラレーターのためのファームウェアパッチが当たらない。。。Etherも10Mでしか動かない。。。なにより懐がつらい。
先月末に逃避してからこのかた部屋の掃除が出来ていない。現実逃避的に居間を片付けることはあっても抜本的お片付けまで手が回らない。10月に入ってからは息をする隙もない。お陰で部屋が物凄いことになっている。どうにかしたいがこの状況が月末まで続きそうな塩梅だ。どうしよう。って問わなくてもわかってるよな。さっさと片付けろ。
_ bnb206 [悪口言ったり書いたりすると壊れるのはWIN機も同じような。 それにしても10年もののjunkMacですか。 結構つらそうですね、スペック的に。]
_ おろろん [ 幻想破れ何も残らなかった傷心旅行に飯田線に乗りに行きましょう! 昇天峡へGO! ]
ここまでやってきて『添削してもらえ』ってのはきついなあ。仕方ないか。好きなようにしか書いてねえもんなあ。添削してもらったところで直るようにも思えんしなあ。
ああ、休みたい…って休んでも好転しないだろうけどね。ああ嫌、この書き直したくなるあれは。
でnagajisは写真でも見て傷心を慰めるといいよ。皇居前で見たもの。下の数字は都道番号?だと思うが「特」って何だろう。
奥津でこれを見つけていたんだった。持っていくつもりだったのに忘れてた。次に行くときは必ず。
そういや大津駅の大津絵の看板も使わないままだ。探しているのは自分だし、あまりそぐう場面がない。でも瀬田の唐橋とはゆかりがあるんだっけ・・・。いやそもそもあれは太閤記だったっけか。写真が手元に無いのでもやもやする。
チェック段階でこの写真があることを思い出した・・・入れるとページが増えてややこしくなるので、こっちに上げておく。クリックデカ九代。いや、クリックで拡大。
道標前の扇屋の硝子戸の中だったと思う。この辻の古い写真が掲げてある。美杉村八幡出張所の建物の写真。白黒のほうは初代の?出張所。左に例の里程標が移っている。墨で黒塗りされた真新しい感じ。
もう一つはカラーで少し引いた状態。右端に初瀬新街道の道標、左端に大正里程標が写る。現在の2者の位置関係もこれとほぼ同じだ。
それぞれの写真の撮影年は不明。
杉本へ行った時だ・・・。
漸く一息ついたので記念に一枚。初三郎の描いた矢ノ川峠。
ずいぶん思い切った構図ではっとさせられるが、矢ノ川峠の特徴をうまく捉えてあると思う。峠を知っている人ならどのへんなのかすぐにわかるだろう。ただし右端に描かれた隧道は現実には存在しない。道が南谷を登り上げて尾根筋に到達してからは隧道はないからだ。谷もここまで深くもなかったような気がする。
ついでにもう一つ。大杉谷峡谷。どの辺りだろうか? 谷沿いはあまり歩いていないのでピンと来ない。もう少し大杉谷らしいシーンがありそうにも思う。
それでも……右端の人の小ささから世界の奥行きが感じられる。そうそう、深遠壮大なこの谷の中では人の存在なんてこれっぽっちなんだよな。
初三郎絵葉書はこれとこの間の鈴鹿峠、あと桑名の七里の渡しがある。桑名はフツーの浮世絵だからパスしておく。
気晴らしに四天王寺さんに行ったらさらに初三郎絵葉書を発見。総量二倍になって帰ってきた。
一番の収穫は伊勢大橋。三重県の絵葉書では橋や新道のような近代的な風景をモチーフにしたものが多い。ちょっとうれしい。他にも七里御浜や湯の山温泉等もあり。湯の山温泉は雪の風景で、ちょっと北斎の蒲原を連想させるいい風景画。
以下おしながき。
雑_吉田初三郎_桑名七里の渡.jpg
雑_吉田初三郎_大杉谷.jpg
雑_吉田初三郎_矢ノ川峠.jpg
雑_吉田初三郎_鈴鹿峠.jpg
雑_吉田初三郎_七里御浜.jpg
雑_吉田初三郎_五ケ所浦.jpg
雑_吉田初三郎_奥瀞筏.jpg
雑_吉田初三郎_湯の山温泉.jpg
雑_吉田初三郎_鳥羽海女.jpg
雑_吉田初三郎_伊勢大橋.jpg
この他にも赤目四十八滝だったか香落谷だったかと、鍵屋の辻があるのを見たことがある。行き着けのお店には愛知シリーズもあった。名古屋城、大須、愛宕山公園とかなんとか。とりあえず縁のある三重県のもののみ確保。
http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/2006/draw/masuda/42.htm
では増田淳設計ということになっているけれども、工事画報第12巻第1号(昭和11年1月発行)の「木津川運河可動橋工事に就て」では名前が出てこない。京都帝大高橋教授の指導のもと港湾部が設計を樹てたということになっている。増田が可哀想である。そういう不現が多いのだろうな……。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/12-01/12-01-2265.pdf
日本初のロール式可動橋。バスキュール形の一種らしいことはわかるんだが、一般図を見ただけではどういう動きをするのかわからん……。
日本統治下の朝鮮に作られた可動橋。明治42年竣工。横からの構図は何度も見たことがあったが、この角度は初めて。橋に載っている人の大きさから規模を測りやすいのもいい。
実は日本で最初にニューマチックケーソンが採用された橋梁。次に採用されるのは大正末年の永代橋でずいぶん飛んでいる。全国で採用されるようになるのもその後のことだ。
戦時中に爆撃を受け可動部が失われた。北朝鮮側のトラスもすでに撤去済みのようだ。
神通川橋梁の図はまたどこかで使おう。地味に「増田順」になっていたのはお笑いだ。
ってなんでそんな大事なメールが不達なんだ・・・!orz
フォトショ済。ゴミを撮ろうとしたら自転車にひかれそうになった。もうちょっと遅らせればよかった。
そうですか。残念です。
君たち大阪人はわけがわからないよ。
不審者情報
10月25日16時12分頃、大阪市阿倍野区美章園3丁目2番付近路上で、女子児童が二人で「404は誰でしょう」とクイズをしながら歩いていたところ、不審者が「404は俺やで」と声をかけ、いずれかに立ち去るという事件が発生
年齢不明、ヒゲずらで、暗い色の上衣に色不明のズボンを着用
地図:http://www.map.police.pref.osaka.jp/index.aspx?type=3&id=43345
不審者を見かけたらすぐに110番通報するか、最寄りの警察署へ通報してください。
発信:阿倍野
year! 探していた一枚をついに発見。丁字ヶ滝隧道の記事でちょっとだけ触れた『時計橋千歳橋』、クイーンポストのRCトラス橋RCのワデルトラスの絵葉書だ。いやまあ通販で買やあいいんだろうけど、1枚に1000えんも払いたくない払えない。
この形式のRC橋はおそらくこれだけだったと思われる。S9の室戸台風だったかS13の阪神大水害だったかで流失。勿体無いことだ。というか、この程度のスパンなら普通のT桁で良かったんじゃね? とか言ったら怒られるんだろうな。
拡大図。厳密にはクインポストではないのかも知れない。縦に入った鉄格子も含めるとハウトラスに分類されそう。RCだけ見てもまん中に梁が入ってない。本来ここは圧縮がかかるはずなので、RCでないと効力を発揮しないはず。橋脚のところもヒンジではないようだし。いずれにしても地元の時計屋さんが設計しただけあって構造力学的にはあんまり洗練されてない。
後日追記:Wikipediaによるとワデルトラスという形式名があるんだそうな。ご指摘感謝!>isoさん。キングポストトラスの真束は引っ張り力がかかるのか・・・。そりゃそうだな、荷重は下の材にかかるんだから。なんしかてっぺんちょからかかることしか考えてなかった。
さらについき:時計屋設計というのが印象強すぎて名前間違えたうはは。
そのほかにいろいろゲッツしてきた。青の洞門+4枚とか。脱肛してしまった今となっては必要無いものかも知らんが……参考資料にでも上げておこう。
アンケート結果を反映するようにした。入れ子のなかでwidth=100%指定するとウィンドウ幅取りやがるのは正しい仕樣なのか>IE。そのせいで描写後にJavascriptで幅指定し直すという力技が必要になった。1024幅以下だと崩れるが仕方ない。
デフォルトで閉じているのはネタバレにならないようにという配慮のつもり。読みたい人は面倒だがひとつひとつクリックしていただきたい。
いけね。。。enq_dir決め打ちなままだった。修正。閉じるが効かないな。そのうち治そう。
高架が覆ってなかった頃の日本橋。彩色絵葉書としてはそこそこきれい。なのだけれども、色彩に乏しい印象を受ける。緑が少ないのも意外な感じがする。水の色はきれいなんだけどね(きれいに塗ったのか?)
町の色彩はここ数十年で飛躍的に豊かになったと思う。JTBの大阪市電のムックで、昭和30〜40年代のカラー写真@大阪市内を見ることができるけれども、この絵葉書と同じような印象を受けた。原色が少ないのと色のバリエーションが乏しいのがその原因だと思う。道路の土色。黒か白かの自動車。薄汚れたグレーのビルヂング。あと茶色。そういう地味な色が占める割合が大きくて何だか寂しい感じがする。看板が乱立してチカチカするのは願い下げだけれども、もう少し色があったほうがうれしい。
一つ発見。日本家屋の屋根瓦が国鉄色系統なものだから左のビルの白さが際立って見える。「白亜の殿堂」みたいな表現が建物のプラスのステータスたり得たのはそういうせいなんじゃないかしらん。緑に包まれているよりも、都市部にあって、都市景観のなかで目立つ白色だったから「おお〜」と思われたのでは。
3枚100えんというバラ買いにて。昭和のはじめに亀の瀬一帯が地すべりを起こして関西本線亀の瀬隧道が潰れた時の絵葉書。隧道に落ち込んだ土砂による陥没が数十mくも波及して地表にまで達した。同じもの&他のものをJSCEの附属図書館の絵葉書ライブラリーで見ることができる。
昔の人はこういう災害が起こったときに絵葉書にすることが多かったらしく、関東大震災でヒビが入った二重橋だとか阪神大水害だとかの絵葉書も多く存在する。亀の瀬地すべりでも多くの見物人が訪れたといい、そのためにこんな絵葉書を作ったり(当然現地で売った)、見物人相手の茶店を出したり、被災した家を見学させてお金を取ったりしたのだそうだ。今感覚で言えば「不謹慎」なんだろうが、災いを少しでも収入に転じようというしたたかさは見習うべきなんじゃないかしらん。こうして絵葉書にしてくれたお陰で約百年後の私が見ることができているのだし。今回の震災、南紀の雨災害もやってはどうか、と思ったりしないでもなかったが、ネットとデジカメが普及していやが上にも写真が残る今日なのだから、なくてもいいのか。ともあれ当時の人々の「考え」がわかる絵葉書で面白い。
というわけで皇居二重橋。うっすら彩色されている。確かにこの橋に使われている石材は黄みがかったクリーム色をしている。昔はこれくらい印象深い明るさだったんだろう。
皇居なのだから昔も今も変わらないだろうと思ったらそうでもなかった。この間撮ってきたやつとほぼ同じ構図でもっと寄っているはずなのだが手前の堀が入ってない。埋め立てられて広場になっているようだ。
比較的橋がメインな写真なので贖っておいたのだが、あとで説明を見て八ッ場ダムの辺りなのだと知った。この辺りは沈まないみたいだけど木桁だから当然残ってないだろう(いまの滝見橋の辺り?)
橋のアップ。方丈部には折点が四箇所あって、大杉谷で見たものよりもさらにアーチらしくなっている。単純な方杖にすることのほうが少なかったのかも知れない。木橋の構造だったか木造トラスだったかの系譜はJSCE-Lib.の土木史研究講演集にもあった覚えがある。今度ちゃんと読んでおこう。
ふむふむ。木造トラスの論文だった。古写真や絵葉書から木造トラスだった橋を収集、その構造を分類と。キングポストトラス1、クインポストトラス2、ハウトラス3〜17、ボーストリングトラス18〜23。あれ、キングポスト/クインポストの分類の仕方が自分の理解と違うな。これだと時計橋はキングポストトラスでいいことになる。クインポストとハウの境界もあれだな。 日本建築でいうところの真束=キングポストトラス、対束=クイーンポストとラスという分類のようだ。で対束が3本以上+はすかいの材が入るとハウトラスと。ふむ。このハウトラスというのも直弦のトラスを総称しているものらしい。形式的にはプラットの忠節橋が入っている。ボーストリングトラスというのも曲弦トラスの総称のような扱いだ。この辺りの分類は人や場面によって変わってくるので注意が要る・・・。
そして何故か持っている忠節橋。
曲弦のトラスが最も多いというのは意外な感じがする。もっとハウトラスが多いかと思っていた。
むしろ五十畑氏のこちらの論文のほうが詳しいかも。
http://www.civil.cit.nihon-u.ac.jp/~isohata/paper/pdf/040.pdf
野沢房敬の木造橋の本は近デジで見ることができる。彼が滋賀県で架けた御幸橋は開通式の当日に落橋した。そのへんも一度詳しく読んでみたかったのだけどすっかり後回しになってるなぁ。そんなものだなあ。
滋賀県で見つけた橋梁3題。一つ目は高島市(旧安曇川町)の金丸橋。プラットトラスの手本のような鋼トラス2連。一見して古いトラス橋だとわかるのだけれども、親柱も銘版もなく、竣工年が不明だった(旧橋の親柱らしいものが一つ転がっていただけ)。帰って橋梁史年表で調べると1930(昭和5)竣工とのことだ。
門構の隅の仕上げが独特。この設えは湖北の福橋、川合橋と一緒だ。
こちらが福橋。高時川架設のRC桁+プラットトラス3連。2005年に撮った時はずいぶんさびていた。金丸橋は結構よく手入れされていて、昭和63年に旧橋化したとはいえ、まだまだ持ちそうな感じだった。
2つ目は安曇川の本流にかかる安曇川大橋。銘板で昭和8年竣工と知る(親柱には平成3年竣工とある)。曲弦のワーレントラス2連。こちらは「滋賀県土木百年年表」にも記録があって山本広次設計となっている。接続する陸橋・安曇川小橋はアーチ風の複連RC桁橋だったが、これも当時からそうだったようだ。
「日本の近代土木遺産」「滋賀県の近代化遺産調査報告書」には非掲載。近代化遺産調査の一次調査のリストには入っている。県下に残る戦前の鋼橋としては大形なほう。
轢かれそうになりながら撮影した橋梁銘板。昭和八年、汽車製造株式会社製作。路線としては県道大津今津線になるはずなので、昭和6年の「六六計画」によるものと思われる。次の水路橋工事もその絡みか。
最後に家棟川水路橋。「滋賀県土木百年年表」に写真があったやつだ。県道木戸・小松道路改良工事とだけしか書かれてなかったので場所がわからなかったが、かつての西近江路、大正県道大津今津線、要するに現県道161号の北小松の辺りだった。
水路橋以前のようす。天井川を越えていく道を写したもので、写真左端に「陸閘」と書かれている。いざという時に道路を塞ぐ閘門のようなものがあったらしい。現地にはこの写真と同じようにして越えていく道が残っていて、それだと気づかずに通り抜けてしまった。いかにも天井川らしい風化花崗岩の白砂利の目立つ道だった。もっと撮ってくるべきだったな……小雨が降っていて自在に撮ることができなかった。
竣工直後の水路橋。前掲の写真とは写した方向が逆のようだ。
改良工事は昭和11年7月1日から始まって昭和12年9月30日竣工となっている。橋梁工事は請負、他は滋賀県直営事業。
_ ocoze@三重 [一番上♪というこたぁ,また次の期限が...]
_ 佑有子 [「明日への帰還ッ!」もいい言葉だと思います。どんなに逃避してもどんなに時間が過ぎても 本当の自分から逃げることができずに戻ってきてしまう‥意味は同じかもしれませんね。 失踪した分だけ少し冷静な自..]