nagajisの日不定記。
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たったいま箆書き煉瓦の解読がFAXされていることに気づいてしまったのだが、ヘッダーがないためどこのどなたが送ってくださったのかわからない。なんというやつだ>nagajis
さらに残念なことに、今はそれどころじゃない佳境の最中にある。正確にはあった。燃え尽きて疲れた。
えっ、もう5月なの?! と今さら思った。なにもかもが速すぎる。全然休みがねえ。年取ると時間の流れがゆっくりになるんじゃなかったのか。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107975/1764
やっと見つけた・・・.『大日本商工録』昭和6年版だ.山陽電鉄のマークからレールを取り除いたらこれになる.
デフォルメされた縦棒がこんだけ接近していると吉名煉瓦の○Yと見分けがつかないじゃないか.隙間に粘土が詰まったまま打ち続ければ全く同じになるだろう.手元の写真および現物ではどちらとも断定できなかった.とはいえ背稜山脈の懐にある庄原から大阪くんだりまで運ばれてくるとは思いがたく,そもそも瓦・土管に継ぐ三番目の取扱商品として煉瓦が出てくる程度だから,あれは吉名でいいのかも知れない.ちなみにこの会社,昭和7頃には第27工場まであった(比婆郡敷信村).個人事業者をたくさん傘下にして,それらを工場と計数して水増ししてたんじゃ中廊下.
「SRK」やキシレン印を使った山陽煉瓦は昭和17設立.兵庫の山陽窯業はT6にできT14に分裂.たぶん無関係.
以下全て上町台地にて。汐入町の辺り。
こう見ると大正丹治の逆ズレというより「リ」の如くな縦書きであったっぽく見える。けれどもこれも丹治煉瓦と見ないと製造数と分布数が釣り合わない。
IYO-RITEの近くにあったもの。上町小学校の南縁にある煉瓦壁。こういう壁が解体されて転石になるのだろうなあ。上町台地にはこの手の煉瓦壁が無数にある。しかし圧倒的に多いのは無刻印の手整形煉瓦だ。蒟蒻タイプの薄いのもあった。
谷六周辺には大阪窯業の舗装煉瓦の転石も多かった。 知事公館前の通りは府下で最初に煉瓦舗装が採用されたところの一つだったはず。そんなには離れてない。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1233508/49
輸出 愛媛.福岡,山口 329万個
輸入 山口,愛媛,岡山,香川 189万4870個
飢えて死ねと期待されているのだからそうすればよいのだ。
大正8〜10頃の各地の煉瓦工場の規模を主観的にではなく客観的に比較してみようと思い工場の従業員数を拾ってみたのだが諸般の事由により行き詰まっている。それは一応の指標になりそうではあるのだが、単年度で比較するよりも複数年でしたほうがよい→大正〜昭和期は継承関係が複雑で、すでに確認できている関西圏はともかく広島や徳島なんかは未着手だからどげんもならん→いっそのこと四国中国もリストを作るか→時間かかりまくり、土地勘なしの故に継承がはっきりさせられないのドツボ。
単年度(大正10)で比較すると、大阪の大工場、例えば大阪窯業とか岸和田煉瓦とかは200〜300人いて原動力も複数所有していて文句なしの筆頭格だ。津守は50人を上回るくらい。丹治は末期で20人ちょっとしかいない。これと兵庫を比べると、津守=山陽、丹治=中播煉瓦てなかんじ。むしろ広島県の最大工場(江田島の三高とか関西窯業の分工場群とか)、愛媛の三津浜煉瓦(古三津町の本工場、衣川分工場)、香川の讃岐煉瓦(観音寺、常盤村)は100人を上回る規模で、むしろ兵庫県はそれほどの産地でなかったかのごとしだ。数は多いが20〜30人規模の小規模工場ばかりであった。昭和7以降正確な人数が載らなくなるのが残念。
広島県の煉瓦製造業のピークがどこにあるのか。兵庫と同じように大正半ばに煉瓦工場が勃興しているが、大半が昭和までに姿を消してしまう。大工場の分工場も出来ては消え出来ては消えして跡を追いにくい。しかし高田輪環煉瓦工場(明治44頃)とか共同輪環煉瓦工場とかいう名前が散見され、吉名煉瓦(大正14)よりも前に第二次近代化?があったことを窺わせる。
大阪府下で散見される広島の煉瓦はどれも昭和期以降に成立した会社のものばかり。当然か。大阪の大工場がタイルやテラコッタ、耐火煉瓦に軸足を移していったから隙間に入り込む余地ができたのだ。兵庫県の煉瓦も似たりよったり。
橋梁を設計しデザインを考えなくてはいけない人に向けて書かれたもので、技術的にも美意識的にも部外者なnagajisには向けられてない本だったのだが、結構面白かった。のっけに「ダメなデザインの橋」の例がぽんぽん出てきたのがまず意外。こういうのは「いいもの」をもって語るもんだと思ってたのだけれども。本文最後のほうに「ダメなデザインは学ぶところが多い」という指摘があって、どうも鋼橋技術研究会としての方針?のようなものらしい。もちろんダメ出しされた橋は名前が紹介されていない。印南かえる橋とか余計なテラスがついた両国橋(修景後)とかイエローな蔵前橋とか。
書かれてあることにはとても賛同する。景観にマッチするデザインとすることの重要性。橋が景観を主導する場合もあるのだという話。木や石の橋は風土にマッチしているけれども車を渡せる長大橋は作れない。長大橋の欲求を満たすためには鋼やコンクリートを採用しなければらず、しかし人工物ゆえ国土に馴染みにくい。馴染むものを作り慣れていない。かつそういう素材が普及しはじめた頃から経済性が再優先事項となり、デザインは二の次に追いやられて、画一的なものばかり作られた。それでいいのか。コンクリートの自由度を活かせば景観によくあう素敵な橋はできる。鋼橋だって製作技術は向上した。適材適所でよいデザインを。みたいな内容。
読んでいるうち、美しい橋というときの「美しい」の基準ってなんだろうと思うようになった。橋をたくさん見ていると、あ、この橋はいいなあとか、この橋は平凡でつまらないなあ、などと思うことがある。そう思う理由というか、良し悪しの基準はちっとも明確でない。黄金比とかフィボナッチ数列とかの美的要素が潜んでいて、そうと知らずによいと感じているだけなのかも知れないし、構造の醸し出す力強さに惹かれたりもする。単純に力強い橋=よい橋と感じるわけでもないらしい。大浪橋も十三大橋もスケルトンはほとんど一緒のはずなのに、十三大橋のほうが素敵に思える。あるいはゲルバー桁橋でも鉾流橋のような王道のシェイプよりありえないくらいの細さの越中橋のほうがいい。永代橋の超重厚な拱材はその重さをありありと感じられるが、残念ながら私は親しみを感じることはできなかった。なぜだか知らないが渡って楽しくなかった。その点桜宮橋の3ヒンジ目なんかはいつまでも眺めていたくなる。あの一点にぎうぎう力がかかっているのだと想像するのが楽しい。その力のかかりかたが美に思える。豊海橋のカクカクしたのも大好きだ。珍しい形式ということよりも、構造が見て美しいと思う。四角いビルばかりの周囲の景観に溶けこんでいるようにも感じる。
古いからいいものだと思ってはいない(と自分では思っている)。 諸外国の名橋の写真、最近作られたやつなんかは特に、そういう「いい橋」の写真を見せられてハッとすることが多い。伯母谷ループ橋なんかも最近の橋だが素敵じゃないか。斜張橋はあまり好みではないけれども、辻堂の国道バイパスの橋なんかも、渡るとき爽快な感じがしてよいと思う。側面から見たことはないので、あの橋が景観に馴染んでいるかどうかはわからない。
美と感じるか否かは、単に見慣れているか否かであることが多いようだ。橋が架かっている光景が自分にとって初めてのその場の光景であれば(橋がそこに架かっているがアタリマエであれば)すんなり受け入れられる。いま名橋と言われているものだって、それが架かった当初はひどく浮いた存在だったかも知れない。マイヤールのザルギナトーベル橋だって、橋が架かっていない光景を先に見ていたら、橋に違和感を感じ、その場にそぐわないと思っただろう。橋ありの光景しか知らない自分はあの橋以外にあり得ないと思っているけれども。
明治6年に鉄トラスの心斎橋が掛けられた時、それをリアルタイムで見ていた人は橋に対してどういう感想を持っただろうか。流行りモノの最先端として興奮しながら見守ったか、それとも板葺き瓦屋根の商店や川面の木造船とそぐわない妙ちきりんな橋と見ただろうか。難波橋のライオン像や中之島へ降りる階段が「美しいもの」と見られていただろうか。まあ大阪人は流行りモノ大好きだから、たぶん歓迎されただろうけれども、違和を感じた人がいてもおかしくはあるまい。枯山水の庭のような味わいを好んだ人もあるだろう。中之島の周辺はセーヌ川のほとりをイメージして整備されたそうだから、その中にあっては難波橋のデコレーションも必然であったかも知れないが、中之島そのものが市街地の他の場所と比較して異質な空間だったと見れんこともない。見目麗しくても美であるかどうか。
まるでヨーロッパの宮殿のごとくな階段がオフィスビルの谷間にある現状も、異質といえば異質。しかしそれが私にとっての難波橋なので特段違和を感じてない。ならば「ダメな橋」と例示された橋も、そのうち風景に馴染んでくることもあり得るだろう。京都駅前に建つ京都タワーは建設当初ひどい景観論争を巻き起こしたそうだが、京都生まれの若い人で、帰省し、あのタワーを見て「故郷に帰ってきた」と感じる人がいると聞いた。その人にとっては京都の景観を構成する重要な要素の一つだ>京都タワー。なくなったらなくなったで寂しく思う人は他にもいるに違いない。
印南かえる橋なんかは「地域の文化性まで疑われかねない」なんてけちょんけちょんにけなされていたけれども、和歌山県という土地柄のこと、ああまでして話題作りをしなければならない地方の悲哀、への理解があってもいいよなあとは思った。太平洋ベルトの流通圏から外れ、わざわざ行く機会がなければ足を踏み入れることもないような地方県の「人を呼びたい」という思いは、都会人が推して計ることもできぬ位に限界に達している。日本で最初に世界遺産に目をつけて熊野古道を世界遺産に仕立て上げたりしたのも人を呼ぶため観光のためだ。話題作り・客作りのために猫が駅長やったりパンダを6匹も7匹も飼ってみたりイノブタ王国を築いたりしている県だ。カエルの形をした橋くらい大目に見てあげてもいいんじゃないか。ここにいわゆる美しい橋・名橋を架けたとしても、それ目当てに来る人はまずいない。奇異の目に晒されることを望んで奇異なものを作ったわけで、しかもそれが当初の目的を果たしつつあるのだから、大したものだと思う(この間はるるぶ和歌山県版だったかで取り上げられていてびっくりした)。要は奈良県にとってのせんとくんみたいなものだろう。せんとくん自身には何の由緒もないけれども(いや、正確にはあったんだろうけど雲散霧消した)、とりあえずあのキャラクターを見て奈良県のことを思い出すくらいには務めを果たしている。
確かに「技術的にいちばんやっちゃいけない」ことをてんこ盛りした橋で、見ていてひどく心地悪くなるけれども、ここで技術云々というのを抜きにしてみると、どうだろう。私なんかは「こんなんよう作ったなあ」と感心し始めている自分に気づいてしまい、自分自身のことながらびっくりした。橋であんだけ遊んでいると逆に清々する。金の無駄遣い・技術の無駄遣いなのは認めるが、お大尽の座敷遊びや田舎紳士の大盤振る舞いを見るようで---別に自分の懐が痛んだわけじゃないし---そんなのがあってもいいかなと思ったりもする。ほら、世の中には名優もいるけどエガちゃんみたいな傍流芸人いるじゃん。そういう芸人好きな人いるじゃん。例えマジョリティーであったとしても必要としている人が世の中にいるからエガちゃんいるんだよ。そんなエガちゃんみたいな橋なんだよ。と説明しても聞いてはもらえなさそうだ。
ある意味これも技術者と民衆との乖離なのかも知れない。橋は美しくて機能的で地域に馴染むものでなければならない、と技術者は思う。そういうものを作り、未来に残すことが使命だと感じている。一方でふつう人は橋の意匠なんで気にしない。川向こうに渡れれば特に文句はない。加えてなんか面白いものだったり、話のタネになるものがあったらいい。せんとくんとかたま駅長みたいな。
世の中ってそういうものなんだ、とこの年になってようやく気づいた。高尚な理想なんて誰も求めてはいないのだ。目先の利益と喉元の満足が得られればいいのだ。それ以降のことを考えるのは面倒だから誰かにやってもらおう押し付けようとい人が大半であって、それをどうこうするのは山を移すくらいに難しいことだ。と同時に、そんな人々と正反対の方向に頑張っている人々がいて、そのベクトルの合力のほうへ世の中は動いていく。どちらも無駄なことと思って拱いてれば何も進まず何も変わらない。自分の無力を了承し、無駄なことと知ったうえでしたいことをしておればよい。橋梁デザインの説をまとめた有益な本が発行される一方で、変なものをあげつらってpdrる円本で糊口を凌いでいればよい。そんな世の中を端のほうから見ているだけで私はお腹いっぱいだ。
といったようなことをとりとめもなく思いながら読んだ。刺激を受ける本に出会えることは幸せなことだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957533/6
●鉄道省告示第二百二号
宝殿、曽根発煉瓦に対する割引運賃左の通定む
昭和五年七月十九日
鉄道大臣 江木 翼
一、品名 煉瓦
一、発駅 宝殿、曽根
一、着駅 二條
一、扱種別 貸切扱
一、賃率 十級賃率の二割減
一、期間 自昭和五年七月十九日 至昭和五年十二月三十一日
一、記事 十級賃率に依り本特定区間通計二,五〇〇噸以上託送したるものに対し貨物運輸帳表並収入払戻取扱手続に依り既収運賃と本賃率に依る運賃との差額を払戻すものとす
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2944677/5
広島県賀茂郡三津村に於ては嘗て煉瓦を製造し来りしが昨年五月依頼漸く衰頽せしを以て去る一月より内外用達会社に於て之を引受け同社の出張所を設け其規模を大にし職工を選み目下盛に良品製造に着手せり(以下略)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956071/3
○商工省告示第十二号
政府に於て購入し又は政府の注文する工事に使用する普通煉瓦は左の規格に依る但し已むことを得ざる事由ある場合はこの限在らず
大正十四年九月十八日
商工大臣 片岡直温
外務大臣 男爵 幣原喜重郎
内務大臣 若槻礼次郎
大蔵大臣 浜口雄幸
陸軍大臣 宇垣一成
海軍大臣 財部彪
司法大臣 江木 翼
文部大臣 岡田良平
農林大臣 早速整爾
逓信大臣 安達謙蔵
鉄道大臣 仙石貢
普通煉瓦
第一条 本規格は粘土を主要原料として焼成したる普通煉瓦に適用す
第二条 標準寸法は次の通りとす
長 210mm
幅 100mm
厚 60mm
公差は長及幅に於て±3%厚に於て±4%とす
第三条 品等は次の4種に之を区分す
1.上焼一等
2.上焼二等
3.並焼一等
4.並焼二等
上焼は焼度良好にして之を打てば金属性の清音を発し吸水率14%以下、耐圧力150㎏/cm2以上を有するもの
並焼は焼度普通にして吸水率18%以下、耐圧力100㎏/cm2以上を有するもの
一等は形状良好にして割れ又は疵極めて少きもの
二等は形状普通にして大なる割れ又は疵なきもの
第四条 受渡に付特に前条の吸水率及耐圧力の検定を行う旨の協定ありたるときは次の試験法に依りて之を行う
1.試料は特に協定なき限り煉瓦5000個又は其の端数毎に各種試験に付各5個を取り試験成績は5個の平均値を以て表すものとす
2.吸水率試験法
煉瓦を空気浴槽に入れ槽内の温度を130℃に保ち5℃以上の差異なき様注意しつつ乾燥し2時間毎に煉瓦を取出て熱きまま秤量し其の重量に差異なきに至らば之を乾燥煉瓦の重量とし次に煉瓦が常温に冷却するを待ちて深さ1cmの淡水中に24時刊平に浸し更に24時間煉瓦の上面上3cmの淡水中に浸したる後之を取出して湿布にて手早く其の表面を拭い直に秤量して得たる結果を飽水煉瓦の重量とし次式に依り吸水率を算出す
但しg未満は秤量せず
吸水率=(飽水煉瓦の重量-乾燥煉瓦の重量)/乾燥煉瓦の重量 ×100
3.耐圧力試験法
煉瓦を長手の中央にて半分に横断し其の切断小口を互に反対に向け積み重ね此の間を純「ポルトランド・セメント・モルタル」の薄層にて接合し尚上下受厚面を並行ならしむる為純「ポルトランド・セメント・モルタル」を薄く塗布し約7日間湿気ある槽内に置き該「モルタル」を固結せしめ常温にて乾燥したる後耐圧試験を行い崩壊したるときの荷重を検し次式に依り耐圧力を算出す
耐圧力kg/cm2=崩壊したる時の荷重/受圧面の平均面積
商況
●煉瓦業の昨今 大阪窯業岸和田、貝塚煉瓦製造所等に由て組織せる煉瓦業組合全体の年産額は約一億万円内外にして東は名古屋西は山陰九州等を重なる販路区域とせる外朝鮮青泥窪等への輸出も尠からざりしが開戦以来公私土木工事の休止を受けて価格下落に傾き東京形煉瓦一千個大阪渡にて七円まで低落するの已むなきに至り同業は甚不況の状態に陥りつつありしに俄然客月末に至り砲兵工廠大阪瓦斯会社其他の方面に要する注文一時に現われ其数は計七千余万個の多きに達し其納期は何れも来年三月中なるを以て[ここ]に供給の不足を生じ為に価格は一躍二円高を呼ぶの好況となりたり元来関西地方に於て使用する煉瓦は其形状区区(まちまち)にして一定せず随って各製造所共に常に多数の製品を存するなく毎時注文を俟て初て製造に着手するものなり是れ今回の如く価格の騰貴を促したる原因なれば将来は其形状を一定するの必要あり是れ単に価格の騰貴を防ぐのみならず急遽の需要にも応じ得るの便ありと云う(大阪朝日)
『窯業銘鑑』大正13年版より引用。
呉で見られる「ヤシノミ」の流れ来たる源に違いない。
しかし工場通覧では全く顔を出さない工場である。大日本商工録に何度か出てくる程度。昭和期にはすでに廃業か。
亀山発電所の亀甲+山は「亀山」を意味するものかも知れない。とすると無関係だなあ。
_ おこぜ [年のとり方が足りないだけでしょう...30代はすごく速い...40代は更に速い...70過ぎるとやや穏やかになる,と聞く。]