nagajisの日不定記。
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京都市内の駐車場の看板。「厳キ・・・ン?」となってPsセンサーに引っかかった。はじめはそういう異体字があるのだろうかと思ってみたりしたが、いや、単純に誤字だと見るべきかも知れないと思い直した。「厳禁」「禁止」が寸詰まってしまったんだろう。
そういう解決をしてしまうとPsでなくなっちゃうんだけどね・・・。最近Ps不足なのはPsの追求のし過ぎで理解到達の速度が格段に上がってしまっているからだと思う。自分のうちで既に答えが出ているのに敢えて世に問うてみるのは愚であるだろう。
地味に「以」の字も独特。
ね。Twitterを検索したらこれupしてセルフツッコミしてる人が間違いなく13人くらいいるはずなのだ。これだったら「京阪の流人、おけいはん」のほうがまだイメージに広がりがあってよい。但しかなり無理がある。
これのほうがPs的であるかも知れない。ストーリーを成立させるための最重要のものの色が抜けてしまっているためにまるで暗闇で歩行喫煙している男性がネズミの照らすサーチライトにより発見せられてしまったがごとくになっている。色が抜けているせいで意味がわからないのだと気づくのにずいぶんな時間を要した。ネズミもちょっとネズミらしくない。顔周りだけ見れば耳の大きなカエルに見えなくもない。しかし全体的な調子は富永三郎画っぽくていい味を出している。苗字を間違えられるのは辟易しているが画伯そのものや画伯の絵を否定するつもりは毛頭なくむしろ郷愁に近いものを感じている永冨である。
左上に書き添えられた「ごみ」「空缶」と最後の目隠しテープの関係も気になる所である。目隠しテープは何の不都合を隠しているのだろうか。「ごみ」「空缶」「捨てるな」でありそうな気が大いにするがしかしそこで「捨てるな」を隠しては意味がないし隠す意味もわからない。よしんば「はOK」だったとしても「歩行禁煙」との対比にならぬ。「歩行喫煙禁止」「ごみ空缶はOK」と補間したとて随分寸詰りな一文に変わりはない。
そういういろいろを考えさせ惹きつけて止まない魅力が奇妙なポテンシャルなのであって、正しい答えがあっさりと見つかるような、あるいは一面的な突っ込みが予め用意されているようなものは奇妙なポテンシャルとは呼べないのである。
煉瓦の難しさ−−−煉瓦の素性を知る難しさは、約150年の間の有為転変の結果を「いま」という時間軸上の1点から見てしまいがちなところに全てが原因している。100年前に作られたものも50年前に作られたものも「いま」「ここ」で判断せざるを得ないというか、判断してしまいがちなというか。何も考えていなければ一律に「身の回りに転がっている煉瓦」になってしまう。100年前の遺構に50年前の追築煉瓦が混じっていたら判別のしようがない。本当はそうでない。150年間に起こった様々な出来事を経験したものもの、その経年もまちまちかも知れない、が仲良く並んで転がっている。市街地の煉瓦はたいていそう。
そんな状況を整理する目印としての煉瓦刻印。刻印があればある程度の仕分けができる。戦前のものか戦後のものか。寸法でも断面でもできないことはないけれども刻印ほど雄弁で確実なものはない。アルファベット”H"だけでM28 以前と推定ができる。便利である。それが「いま」に転がっているからややこしくなるのである。
https://archive.org/details/rudimentarythrea00dobsuoft/page/236?q=Rudimentary+Treatise+on+the+Manufacture+of+Bricks+and+Tiles+1868
Dobson "A rudimentary threatise on the manufacture of bricks and tiles"。ここにある説明がHoffman窯の原点。円形の焼成室、煙突根元の円形の煙道。煙道はただ排気のために開け閉めする。1856年発明、1859年特許取得。イギリスでは1862年に初めて建造されたらしい。Archive.orgのこれは1899 edだが1868 edから同じ内容のはず。当時プロイセン・ドイツでは特許の有効期間はとても短く3~5年程度だったらしい(石井正「特許廃止論から国際特許制度への転換の時代―ウィーン国際特許会議の前夜―」。なおイギリスでは窯のデザインを作成してたH.Chamberlineが英国内でのpatentを有してた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847643/38
農商務省『分析報文』第1冊(明治20:1887)のホフマン窯の説明。楕円形で副煙道がある。この副煙道を使い、冷却中の房の空気を入れたばかりの生煉瓦を入れた房に導いて予熱乾燥することが薦められている。この副煙道はDobson書にはない。
兵庫県商工労働部『赤煉瓦産地診断報告書』(1957)では播磨地方の煉瓦工場のホフマン窯は「本来ホフマン窯にあるべき送熱管」のないことを指摘している。おそらく副煙道のことを言っている。
以上をまとめると、たぶん、『分析報文』のホフマン窯の時点で元patentにない副煙道の改良が加えられているにもかかわらず「ホフマン氏楕円形赤色煉瓦窯」として説明しているんじゃないか。この報文は東京で最初に作られた石造の環窯(松材燃料)を粉炭で焼くやつに作り変えたのを説明したんじゃなかったっけ。で、その報文の解説を律儀に守ったうえで弁操作で熱の流れをコントロールできるような独自工夫を加えたのが大高庄右衛門の改良ホフマン窯。いわば車輪の大発明。
あるいはHoffmanの特許が円形のとは別に楕円形のもあったのかも知らぬ。円形の場合は12房が最適と経験的に知られてて、それは全房を1サイクルとする焼き方。楕円形のにすると房がもうちょっと増えて2箇所で焼くとかいうこともできなくはなかった。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijax/361/0/361_KJ00004080490/_pdf
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijax/362/0/362_KJ00004080515/_pdf
佐藤彰「建築材料生産,加工の機械化―煉瓦(上・下) 英国近代建築産業成立期の生産技術 1−3,4」(日本建築学会計画系論文報告集 第361号(昭和61年3月)、第362号(昭和61年4月))。こういうのが家で読めるのはとてもありがたいことである。
しつこいようだが煉瓦サイズについて考え続けている。明治39年の大高表。
名称 | 長手(mm) | 小口(mm) | 厚(mm) |
並形 | 7寸4分 (224.2mm) | 3寸5分 (106.1mm) | 1寸7分5厘 (53.0mm) |
東京形 | 7寸5分 (227.3mm) | 3寸6分 (109.1mm) | 2寸 (60.6mm) |
作業局形 | 7寸5分 (227.3mm) | 3寸6分 (109.1mm) | 1寸8分5厘 (56.1mm) |
山陽新形 | 7寸2分 (218.2mm) | 3寸4分5厘 (104.5mm) | 1寸7分 (51.5mm) |
山陽形 | 7寸5分 (227.3mm) | 3寸5分5厘 (107.6mm) | 2寸3分 (69.7mm) |
これと近デジで見つかる煉瓦サイズの記述を比較。編著者や出版社の所在地も確認の助。
■Rankine著、水野行敏訳『蘭均氏土木学 上・下』〔文部省・明治13年〕
たぶん最初期の洋学土木教科書。さすがにここには東京型も並型もない。
巻三 畳石
第二款 人工石を論ず
調理せる濡粘土を型に入れ煉化石の形となす其大さは焼過煉化石に望む者より縦横厚共に十分の一若は十二分の一大なるべし是れ焼過煉化石収縮の尋常比例なり
(略) 尋常の型は長十寸広五寸厚三寸内外なれども特別の者に至ては大に変化あり
■中村達太郎〔東京帝国大学教授〕編『建築学階梯 巻之上』(米倉屋書店〔東京芝区〕、明21)
土地により多少差異ありと雖も通常長七寸五分巾三寸六分厚さ二寸
→東京型に一致。
■田辺朔郎『袖珍公式工師必携 初編』(〔京都東洞院三条上ル町〕村上勘兵衛等、明21)
実地で働く人のための書。実務的。
通常の形は長七寸三分巾三寸五分五厘厚一寸八分より長七寸八分巾三寸八分厚二寸迄とす
→実務的なので焼成誤差を含めて述べている。
■千葉末吉編『建築学提要』(淵点堂〔広島県広島市〕、明24.7)
あ、広島だから讃岐煉瓦が例示されてるのか。
通常煉瓦の寸法は長七寸六分内外巾三寸六分内外厚さ二寸内外とす
→東京型より長が長い。
■宮城県内務部『土工筌蹄』(明28.5)
宮城県内務部で使用の仕様書的書籍。
○煉瓦石壁積り方
(略)
右入用内訳表
(煉瓦 長七寸五分、寸径三寸六分、一寸八分)→東京型より厚2分うすい。
巻頭言曰く「欄均氏土木額模氏掌中工学田邊氏工師必携等に就て簡易の公式を選み交ゆるに本県実験の設計式を以てし遂に本書を成せり(略)材料の長短細太職工人夫の懸り高等に至りては悉く公式に当れりと云うを得ずと雖ども各様の設計式に就て実地の状況を対照し彼定参酌を加え(略)
■中村達太郎校閲、千葉温也〔臨時陸軍建築部技師〕編纂『建築学提要』(建築書院〔東京市京橋区〕、明29.11)
目今唱うるところの煉瓦の名称は左の如し
長 巾 厚 名称 七寸五分 三寸六分 二寸三分 山陽形 七寸五分 三寸六分 二寸 東京形 七寸五分 三寸六分 一寸八分 大坂形
どういうことだってばよ・・・
■工学士瀧大吉・野村一郎校閲、大泉竜之輔編『建築工事設計便覧』(建築書院、明30.8)
あー、宮城のは焼過使用を前提にしてるのかも・・・
瀧大吉:明治時代に陸軍省を中心に活躍した建築家。野村一郎:大阪と台湾、朝鮮を拠点に、旧台湾総督官邸(現台北賓館)、旧朝鮮総督府庁舎などの設計を手がけた。
煉瓦石通常の大さは長七寸五分巾三寸六分厚二寸なれども焼過ぎ抔は長七寸二分巾三寸四分厚一寸八分までは縮むものなり
→東京型で縮むことも述べる。
■工学博士安達辰次郎閲・土木工師竹貫直次著『応用土木工学』(博文館〔東京日本橋〕、明31.9)
安達辰次郎:http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/adachi_ta.html 竹貫直次:私塾攻玉舎に学び陸軍測量技師を経て小説家江見水蔭に師事。んー・・・。
普通煉瓦の大さは、長7寸3、巾3寸5、厚1寸9にして、一個の目方は、五ないし七封度なり。
どういうことだってばよ!
以下大高以降。
■坂本雄造〔米国理学士〕著『建築学』(修学堂書店〔東京市神田区表神保町七番地〕新撰百科全書第11編、明治41.8)
煉瓦石は、我邦に於いては、其の大いさ、未だ一定の標準なしといえども、普通使用するところの大いさは、約其の長さ七寸五分、幅三寸五分、厚さ一寸八分に近し、然れども、その原料なる土質の如何に依りて、不同多きものとす。
■増田淳著『土木工学』材料施行編,構造設計編(成美堂〔東京市日本橋区通三丁目10番地〕明治41.11(41.3著))
かのJiun Masuda著。耕地整理講習会の講義内容に加筆訂正して出版。その後渡米してアメリカン・ブリッジに入社する。
煉瓦の形状は方形で其長さ七寸五分幅三寸六分厚さは大阪地方では一寸八分東京地方では二寸又二寸三分の所がある
■『東京勧業博覧会審査報告. 巻2』(明41.12)
各工場の煉瓦の実測寸法あり。二寸越えが大半。つーかバラバラ。
■戸倉英一郎『土木設計便覧』(修学堂 工学便覧叢書第3編、明42.5)
○煉瓦の大いさ
海外殊に欧米各国にありては、規定の下に一定せりといえども、我邦の如きは、否らず。其の大小の種類を挙ぐるときは、左の如し。
縦 横 厚
七寸二分 三寸三分 一寸九分
七寸四分 三寸六分 一寸九分
七寸五分 三寸七分 一寸八分
■神門久太郎『実用製図学』(建築書院、明42.4)
煉瓦の大さは長さ七寸五分、幅さ三寸七分五厘(長さの中分)厚さ二寸を標準とすれども、製造所によりて多少異なれり、例令ば東京形にありては長さ七寸五分幅さ三寸六分、厚さ二寸なれども、大阪形に至りては厚さ一寸七分なり、又山陽形と称して其厚さ二寸五分なるもあり。
■井上繁次郎編『建築師要覧』(博文館、明43.1)
煉瓦大さ 煉瓦石は普通長七寸五分幅三寸六分厚二寸なれど焼過にありては長七寸二三分幅三寸五分厚一寸九分とす又関西形と称し厚さ一寸八分のものあり
■太田義三郎編『工業材料便覧』(修学堂 工学便覧叢書第8編、明43.1)
一 日本製の煉瓦は、長さ七寸五分、幅三寸五分、厚さ一寸九分あり。
同じ叢書の別の巻で違うことゆーなー!
■本橋弥八編『工業通覧』(須原屋書店、明44.4)
寸法 煉瓦の寸法は地方により一定せず、則ち
東京型、長さ七寸五分、幅三寸六分、厚さ二寸
大坂型、長さ七寸五分、幅三寸六分、厚さ一寸七分
山陽型、長さ七寸五分、幅三寸六分、厚さ二寸五分
厚さだけの違いのパターン。
■天野郁介編『実用建築材料編』(建築書院、大正1)
サイズに触れてない。
鶴見一之, 草間偉瑳武著『土木施工法』(丸善,明45.1)
図示。長七寸五分、幅三寸六分で、厚は東京形二寸、大阪形一寸七分、山陽形一寸五分(!)
■長崎敏音著『実用土木材料学』(工業雑誌社、大正1)
煉瓦の寸法は土地により小差ありと雖も之れを大別せば第四十九表の如くなる。
第四十九表 煉瓦の寸法 種類 寸法 長(寸) 幅(寸) 厚(寸) 普通型 7.5 3.5 1.8 東京型 7.5 3.6 2.0 大阪形並 7.5 3.6 1.8 山陽形 7.5 3.6 2.3 東京に於て普通用いらるるもの 7.2 3.5 1.85 焼過物 7.2 3.4 1.8
やーめーてーくーれー。
結論:ほとんど一致するものがない。東京型がかろうじて一致する傾向にあるかという程度。五厘の差は無視されるのが常っぽい。
結局の所、大高庄右衛門のあの表が特異なんではないか。種々サイズがあることを強調するために5厘差を書いている可能性も微粒子レベルどころではない可能性で存在。
東京型・大阪型の違いは長や幅ではなく厚さにあったと見るべきだろう。それ以外は一致してたりしなかったりする。平均でも6mm差は大きい。積み段数に関わってくるし。
https://en.wikipedia.org/wiki/Brick_tax
イギリスでは1784年に煉瓦税ちうのができた。アメリカ南北戦争独立戦争の資金にするためを償還?するため。1000個につき2シリング6ペニー。製造者は煉瓦サイズをでかくすることで課税額を抑えようとする。その結果9 1⁄4×4 1⁄4 × 4 1⁄4 in (230mm×110mm×110mm)なんていう煉瓦も登場した。
政府はもちろんそれに対抗。1801年に煉瓦サイズを 10 in × 5 in × 3 in (254 mm × 127 mm × 76 mm) に制限し(limiting the dimensions of a brick to なんでソレ以下ということやろ)、それを超えるものを二倍課税。課税額もだんだんあがって5シリング10ペニーになるin1805。
https://www.scottishbrickhistory.co.uk/brick-tax-1784-1850/
1839年には煉瓦の体積を150立方インチ以下とした。いろんな煉瓦形状を許すため。
この税は1850年に廃止されたそう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954785/118
野呂長四郎『近世建築用材料 上巻』には次のようにある。
英国に於ては一千八百三十九年頃煉瓦使用税を課したる時其の大さを一定せし以来今日に至るまで其大さとなれり、其の寸法は長八吋四分の三、幅四吋四分の一、厚二吋半にして其の重さ七封度なり
これをミリに直すと222.25mm×107.95mm×63.5mm。92.968 cu inch。
並形:224.2mm×106.1mm×53.0mm。目地4分。
東京形:227.3mm×109.1mm×60.6mm。目地9.1mm(3分)
8-3/4が9になったら228.6mm。8-1/2だったら215.9mm。8-5/8=219.075mm、8-7/8inch=225.425mm。1/8は約3mm。
3寸7分は112.121mm。7寸7分=233.333mm。7寸3分=221.212mm。じゃあ7寸3分で良かったんじゃね?と思ったら3寸5分で3分目地、3寸6分で1分目地か。じゃあますます7寸3分×3寸5分×厚でいいのではないか。
仮説:ヲートルスは8 3/4×4 1/4×2 1/2inchを基準にして厚さを変えた。目地1/4インチ(2分)。この寸法を寸に読みなおした時に三寸六分にするか三寸五分にするか。1/8インチはインチ→寸に近似した時いちばん近い値になるよう日本で見出されたもので、英国ではせいぜい1/4インチ刻み。
1/8インチと分の誤差を無視して考えれば8-3/4インチ=70/8インチになって7寸になってしまうな・・・。ああ、そこで1/8インチと分を相互変換しちゃいかんのな、呼び名が分ていうだけで。
大阪の土は高火力で強く焼けるので厚さは薄くてかまわない。東京の煉瓦は高温に焼くことができず(温度あげると溶ける)、また反りやすい特徴があったんで厚くする必要があった(←はT14JES制定時の大熊喜邦報文)。その土の差を吸収するために東京では厚い煉瓦を製造したと。2寸=2 3/8インチ。1.8寸=2 1/8インチ。
やっぱりめんどくせえなあ。8×4×2寸枠で1割縮んで7.2×3.6×1.8・・・だと目地が1分以下になるんかなあ。目地の分2分3分足したらええんちゃうん。
↑自分で書いといてさっぱりわけわかんねえな。8-3/4×4-1/4×2-1/2inchをそのまま尺寸に直そうとすると尺寸でキリのいい数字になりにくい。なので1/8インチ刻みで8-7/8inch=225.425mmというのを考える。この数字は7寸4分にも7寸5分にも近似できる。長手がそうと決まると幅はそこから目地厚を引いて1/2したものと自動的に決まる。その目地厚と幅も尺寸でキリの良い数字のほうがいい。7寸4分なら3寸5分×2+4分。3寸6分だと2分目地になって、まあ悪くはないのだけど、定常的に形の整った煉瓦を作る技術が期待できなかったので(誤差を目地厚で吸収する方向で考え)3寸5分にした、というのが並形。7寸5分と読んで小口幅3寸6分(目地3分)としたのが東京形。元の英国規格は目地1/4インチ=6.35mmを見込んでいる。といったことを想像したのだが、うん、全然説得力がねえな。だったらむしろ小口幅4-1/4インチが3寸5分にも3寸6分にも近似できたので、それを基準こ長手長を引っ張って7寸4分/7寸5分という流れでもよいわけで。英国規格に寄せて1/4インチ目地=2分目地としたら7寸2分or7寸4分になる。このサイズでも別に構わなかったんじゃないかとは思う。
そうしてこのサイズが8寸4寸2寸というキリのいい寸法の型枠で作れたとしたらベストなのだが、各辺約1割縮んだとすれば7.2×3.6×1.8寸となって実際に合わないし、だいいち目地厚が入らない。長手を少し長くする必要がある。あるいは詰める作業によって長手のみ非等方的に縮まなかったかも?というのは想像の階上屋である。
こういうのに非常に弱い。普段閉められてあるべき扉に閉め忘れを諌める目的で「シメル」と書かれてあるだけなのだがしかし、その姿から無限の物語が引き出せそうな気がしてならず、様々なドラマが秘められているように見えてならず、見過ごしたり忘却したりすることができない。この扉を締め忘れるという極些細な失態がいかなる悲劇を産み反省させられたのであろうか。どんな不利益を被ったのであろうか。家の中の扉である以上は家人に向けて示された「シメル」であるはずでかつて起こったであろう悲劇もまた家人だけが記憶するところの事象であるだろう。訪ねて問い質してみたい気さえする。
先斗町の歌舞練場。
壁面にスクラッチタイルが使用されている。竣工は意外と古く?昭和2年だという。もうちょっと新しい、戦後のものだとばかり思っていた。
腰壁にはこんなタイルも使われている。斜め格子は海鼠壁をイメージしたものだろうか。
これらタイルは大阪窯業製なんだろうと想像する。関西地方でスクラッチタイルを作っていたのは大阪窯業の向日町工場くらしかなかったんじゃなかろうか。ただ綿業会館のスクラッチタイルとは違い横方向に引っ掻いてある。貝塚工場跡のスクラッチはどっち向きだったっけ。
●煉化製造 諸工業の勃興に伴うて煉化の需用一時に増加し随て其価格も騰貴せしかば之が製造者も続々興起し其頂上には当府許りにても摂、河、泉三ヶ国に於て竃数三百余の多きに達したり、然るに一時此く迄盛大なりし需要も昨年来頓に減少を来して遂に供給過多の弊を生じ自然其価格も低廉に傾き(昨年秋頃は千枚に付十三円以上なりしも頃日は八円内外なり)たるを以て製造者等は兎角不引合の逆境に陥り漸次営業を中止するに至り現今尚営業しつつあるは実に僅々たる有様なり而して営業を引続け居る此等の竃は重に西洋風の回り竃と唱え石炭を以て焼立つるものにして此の製造法によれば千枚代八円位にても引合えども日本風の竃にて松薪を用ゆるものは殆ど不引合を免れざるに付斯くは中止せしものなりと(大阪毎日新聞M31.2.12 3面)
二見鏡三郎『土木工学. 鉄道編』(明22.3)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/846813/152
煉瓦の内敷は底面に於て通例其厚さニ煉瓦乃至三煉瓦(一煉瓦の大さは通常幅四吋厚さ二吋長八吋四分の一なり)
どうせ1,2日の掲示だし専門家しか来ないのだから概略史は要るまい、生データの提出だけでよからんずらんと考えていたのだが、その刑事を作るために一昨年の展示資料を見直してみて、うん、どんだけ手を抜くのだと思わずにはいられなかった。専門家なんてほとんど来ないと見越していた展示にあれだけの熱量を投じたのは我ながら捻くれていると思う。来ないと見越していたからこそ好き放題勝手放題を書いたとも言えるのであるが。市場価格推移グラフなんてわざわざAIで作り直してあるんだよな。すごいな。そこまでできひんわ。
過去にここに掲載した新聞記事画像やら起こしたテキストやらを集約して、それで力尽きそうになっている今。あと問題は慶事場所が偏りそうな塩梅。関西地方は新聞記事もデータも多々ある。中四国や和歌山奈良三重辺は激少ない。掲げるものがない。それで刻印表を並べることを思いついたのは姑息である。
あとは四日市煉瓦の社章@大日本商工録くらいかなぁ。
誰も助けてくれないのでひとりで頑張った。吹っ飛んだHDDのデータ回収に成功。
飛んでしまったHDDはHGSTの250GB SATA。HDS721025CLA682。BIOSでは認識するが回転しねえ。基板の何処かがイカれた模様(PCのファンが外れかかった状態で稼働させてて熱暴走を起したのが直接原因)。この容量のは幾らでも転がっているが、HGSTのでなおかつ6GBキャッシュちうのがなかなか見つからなかった。何回も日本橋に通ったんだが肩透かしばかり。そもそもPC-NETがなくなって以来中古のHDDが手に入りづらくなってて困っておる。インバースは品揃え豊富ではあるけど無闇に高いのだよな・・・。
一度180GBの同型HDDを入手してCMOS載せ替えを試したのだけれども見事に失敗した。CMOSを外す際に焦り過ぎて基板のパターンまで剥がしてしまったのもいけなかった。今回は同容量の3GBキャッシュのモデル(HDS721025CLA382)を入手できたので慎重に移植手術を実施した。無事復旧した。
復旧費用は占めて2400円と心労半年分。取り戻したのは2年分のORJ版下と修復作業への自信。完成品としてのpdfは前から無傷で、それさえありゃまあ現状維持可能なのだけれども、2年分の労苦の結晶としての版下データがデジタルの塵になってしまうのとなってしまわないのとでは内田康夫と田中康夫くらい違う。吉田茂と吉田勇くらい違う。特に福知山線レールの版下は、あれまたイチから作り直せと言われたら31秒で投げる。
おつかれさんのCMOS。あれ、付け替えたらBIOSからは何と認識されるんだろか。確認するのを忘れてた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952873/440
明治27年創業ってのは意外と古い。西区九条通と新炭屋町に工場があったので旧大阪窯業工場とは近い位置っちゃあ近い位置。
前掲広告のマシンが「マロー」式なら窯業50年史のほうのはグローケ式ちうことになるな。ワルツ乗ってるしや。
https://www.ziegel.de/sites/default/files/2018-10/PDF_Willi-Bender_Vom-Ziegelgott-zum-Industrieelektroniker.pdf
グローケの綴りを調べていて衝突。むっちゃ参考になりそうなんやけど独語はからっきしのぷうなんだわさ。
グローケってのはドイツ語の「幸、福」、Glück なんじゃないかと思ったんだけど上の資料には出てこないなあ。活用形で検索せんといかんのじゃろか。煉瓦はziegel。資料を公開してくれてるのもドイツのZiegel社。ゼーゲルコーンってこっから来てるんじゃね?
この資料のp.192の図が興味深い。長手にできるシワ、焼成の収縮によって生じるものと思っていたけど、型枠に投げ込むタイプで粘度が高いと詰めた時点でしわになるようだ。で、真ん中付近はぎゅっと押し込まれるので下に弓なりになる。湿式プレスのような流動性の高い粘土だときれいに行き渡る。っていう図の模様。
んでここにもBoyd式乾式プレスが紹介されとる。アメリカの乾式プレス機ということで。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831418/12
農商務技師工学博士 高山甚太郎
農商務技手 関口寛一郎
寸法 凡そ煉化石の寸法一定ならざるときは其応用上不便なるのみならず縦横及び厚さの関係の如きも若干定限を超過するときはモルタルの使用上不適なるものとす今左に各国製造の煉化石の寸法を掲示して参考に供す本邦製煉化石は通常長七寸五分 二二・七「センチメートル」 巾三寸六分 一〇・九「センチメートル」及び厚さ二寸 六・一「センチメートル」 にして凡そ英国スタッフォルド シャイア形に近似するものとす然るに第二表(注:日本煉瓦製造、金町煉瓦。隅山製瓦工場、小名木川煉瓦工場、千葉煉瓦製造所、和田荘十郎工場製品・いずれも東京製)中示す如く多少の差異あるは是れ主として焼成熱度の高低如何に縁由するものとす(略)長さ二二「センチメートル」に達せざるものは所謂焼過ぎ若くは火度の充分なるものに属するものとす即ち熱度の高低如何に因り煉化石収縮の程度に於て多少の差異あるものなるが故に若し煉化石製形の際其寸法に就き適宜に増減すれば毎に一定不変の形状を有する良品を得ること敢て難きに非るべし
独国〔ドイツ〕(NormalFromat) 25.0×12.0×6.5cm 英吉利〔イギリス〕、北部 23.6×11.5×7.6cm 英吉利、南部 25.4×12.4×7.6cm 英吉利、スタッフォルドシャイア 22.9×10.9×6.5cm 墺地利〔オーストリア〕 30.0×15.0×6.7cm 仏蘭西〔フランス〕 22.0×10.6×5.4cm 白耳義〔白耳義〕 17.6×8.5×4.5cm 西班牙〔スペイン〕 28.0×14.0×5.0cm
25.0×12.0×6.5cm荷蘭〔オランダ〕 26.0×12.0×5.4cm 伊太利〔イタリア〕 30.0×15.0×5.0 瑞典〔スウェーデン〕 25.0×12.0×6.5cm 瑞西蘭〔スイス〕 25.0×12.0×6.5cm 合衆国〔アメリカ〕 20.0×10.0×5.0cm 墨其古〔メキシコ〕 26.0×13.0×6.5cm
スタッフォルド シャイアはStaffordshire(スタッフォードシャー)。イングランドの窯業都市。そしてウォートルスは・・・あれ、アイルランド出身じゃった・・・。
まあでも英吉利の中心部ではStaffordshire形が中心であったはずではある。
由良要塞の建設が大阪の煉瓦製造業に与えた影響はかなり大きかったんじゃないかと思う。松方デフレで不況/煉瓦製造業の衰微→そこからの復帰&製糸業紡績業の流行/煉瓦製造業復活のあとの不況期だった時に、特大の煉瓦需要をもたらした。それに乗っかることのできた工場が残っている気がする。岸和田煉瓦、堺煉瓦、日本煉瓦。大阪窯業も若干、ただしM30以降。若井煉瓦や漢数字・カナ刻印煉瓦も、例えば関西煉瓦とか堺附洲とかが供給せずに消えていったのに比べたらまだ長続きしとるんでないか。そうして生き残った工場がM20後半からM30代の煉瓦製造業の牽引役になっている。大阪窯業は若干乗り遅れたから東京形に傾斜したと考えられんくはない。
ともかく由良要塞の建設に使った規格が並形の基礎になったという仮説は考えたことがなかった。なので考えて検証してみなければならない。
しつこく考えている。(1)8寸×4寸×2寸という型枠を使ったとして(2)煉瓦の焼き収縮が等方的で(3)約9割に縮んだとしたら、幅と厚さは大体一致するのだが長手が長くなり過ぎる。では逆に、幅や厚さと同じ程度に焼き締まったとして、それが七寸四分前後になるような型枠長さを計算すると、8寸4分5厘という感じになる。丸め上げたら8寸5分で、なかなかキリが良い値である。目地も4分くらい取れる。8寸5分×4寸×2寸の型枠で素地を作って焼くと並形煉瓦、と。
『旧大阪府庁舎跡』発掘調査報告書から阪府授産所煉瓦の全形を保ったもののサイズを抽出して(10個ちょっと)平均をとると23.5×11.5×5.55cmとなる。なのでこれが並形の源流ではあるまい。しかしこの長手・幅って確か鐘ヶ坂の厚煉瓦と似てなかったっけ。YES、236×113×68とメモにはある。インチ臭い。
作業局形はどこから出てきたか…阪神間の煉瓦サイズなのか、それとも、東京形と並形の中間点を意図したものか。全国に鉄道を作るのなら西でも東でも同じ規格であったほうがいいだろうけど、実際問題として東西煉瓦のサイズが違うから、わざわざそのサイズを作るのではなく、両者の中間点あたりを基準サイズにして誤差許容したほうが早い。というかそもそも作業局が作業局形を定めた形跡が見つけられん。規格があったのに見つけられていないのか、規格を定めるほど定式化したものでなかった(誤差許容でなんとかやってた)のか。どっちもありそう。でも鉄道納入の煉瓦は検査が喧しかったっていう話がどっかになかったっけか・・・。
http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20170829&
第4回内国勧業博覧会に洲本の中村重次郎が出品した煉瓦のサイズは21.8×10.6×5.3cmで、まさに仏蘭西〔フランス〕22.0×10.6×5.4cmじゃ。 http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20170828&
第3回(M22)に田中村煉瓦製造所=和歌山煉瓦石が出品したやつも
20×10.5×5.2cmで仏蘭西サイズに近い。してこいつは確かに生石山砲台に使われておる!って、あんま近くないか・・・
嫁!>nagajis
https://archive.org/details/gri_33125008732923/page/n403?q=brick+size
1820年代、19世紀のLondon stockは8・3/4×4・1/4×2・1/2インチ。ほぼ作業局形といってよし。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/846169/48
材料の購買試験検査
一 煉化石
明治二十九年二月二十五日試験且つ標本の為め公入札法に依り泉州堺播州舞子外三箇所のの製造に係る上等焼過及び赤焼煉化石各五百枚合計五千枚を購買せしに其品質価格も概ね判然したるを以て更に同年五月二十日上等赤焼煉化石六十万枚同焼過煉化石三十五万枚の公入札を執行し同年二十六日落札者 予定価格以内に於ける最低価格の投票者を謂う以下同じ と二種とも一枚九厘を以て購買の契約を締結す其仕様の要領左の如し
一 煉化石は上等赤焼及焼過の二種にして上等赤焼煉化石は長七寸三分幅三寸五分五厘厚一寸八分焼過煉化石は長七寸二分幅三寸五分厚一寸七分とす
二 煉化石は正形にして其質緻密鞏固のものたるべし
三 煉化石は全体通して十分に焼き上げたるものにして亀裂気泡焼滓其他の欠点なきものとす
四 煉化石は四枚を一点とし請負人の費用を以て掛官指定の場所に積み重ぬるものとす
五 煉化石は当出張所備付見本より品質劣等ならざるものたるべし
六 受授前に破損したる煉化石は勿論総て当出張所検査員に於て不完全と認めたるものは受取らざるものとす
煉瓦を購買する側の仕様書。あらかじめ見本を買って質を調べてから仕様を決めているのがまことに興味深い。とても現実的なやり方。そしてここで出てくる寸法がほぼ並形、ただし焼過煉瓦については収縮を認めて少し小さく取っている。焼過煉瓦が小さくなる傾向ははるか以前から認識されていて、仕方ないことと考えられていたようだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1708528/173
『新鉄道法令集 下巻』より。明治44年7月28日公布、達第563号。第一種 ・第二種のサイズを定めている。第一種は東京形と同型、第二種はいわゆる作業局形ライクなやつ。「但両種共寸法は長さに於て二分幅及厚さに於て一分の伸縮を許す」という注意書きがミソ。相当甘い。
この達で「明治24年11月18日甲第1137号(経理課長)達は自今廃止す」とあるのを見つけ…
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796897/852
ついに見つけた。『鉄道と煉瓦』にも載っていなかった鉄道作業局最初期の煉瓦規格!
煉化石検査標準自今別紙之通相定候に付検査委員へ建示遵守せしむべし並煉化石検査標準
- 壱等品
- 寸法 長は八吋四分の三より九吋迄幅四吋四分の一より四吋半迄厚二吋四分の一○目方六百四十目以上
- 品質 質分緻密にして吸水量百分の十
- 火度 最適度のもの
- 形状 角度正しくして瑕なきもの
- 弐等品
- 寸法 長八吋半より九吋迄幅四吋四分の一より四吋半迄厚二吋四分の一○目方六百四十目以上
- 品質 質分緻密にして吸水量百分の十二
- 火度 適度のもの
- 形状 角度正しく一面又は二面無瑕にして上積に差支なきもの
- 参等品
- 寸法 長八吋半より九吋迄幅四吋より四吋半迄厚二吋四分の一○目方六百
- 四十目以上
- 品質 質分緻密を欠き吸水量百分の十五
- 火度 稍過不及あるもの
- 形状 角度正しくっして少許の瑕数点あるもの
煉瓦の質によって三等に分け、厚さ2・1/4で固定、長・幅については余裕を持たせてある。その中央値が大高のいう作業局形になっている。一等品でみれば中央値8・7/8インチ×4・3/8インチ=22.5425センチ×11.1125センチ。これを尺寸に寄せた結果があれなのだ。
1インチ=0.8382寸という換算をすれば、8・7/8×4・3/8×2・1/2インチ=7.437×3.666×1.8855寸。この値を7寸4分にするか7寸5分にするか、3寸6分にするか3寸7分にするか……という話。ここで厚だけ5厘刻みにしたのは嫌らしいようで意味がある。仕様書では厚だけ決め打ちにされていて厳密に合わせる必要があったから・・・だと思うのだが実は1寸9分のほうが2・1/2インチには近いのだった。0.042cmしか違わんのよね。やっぱ嫌らしかぞ>大高。
8・1/2インチ‐9インチ=21.59センチ‐22.86センチ。1センチ弱の差がある。M44の規定で大小2分の差を認めているので計4分=1.2cmは違うってことになる。まあ同じくらい。
M23第三回内国勧業博覧会やM28第四回内国勧業博覧会やM28第四回内国勧業博覧会の出品物を見ていると、大阪の工場で長230mm・幅110mmを超える煉瓦の出品が目につく。堺附洲、関西煉瓦、三栄組、大阪煉化石、いずれも要塞建設以前に設立された工場。阪府授産所煉瓦、鐘ヶ坂隧道ポータルの厚煉瓦もこの系統。
して、このサイズは「煉化石及モルタル試験報文」『分析試験報文 第1号』にあるイギリス北部形がいちばん近い(厚さは減じられているのが多い。中には厚さまで寄せてきているものもあるけれど)。造幣寮建設のときに持ち込まれた煉瓦がイギリス北部形で、それを規範として煉瓦を作ったストリームが最初期にはあった。それはおそらく造幣寮建設に源流をもつ。
一方、作業局形は、おそらくロンドン・ストックの標準形を元にしている。19世紀ロンドンストック形の厚が若干薄いやつ。鉄道技術がイギリスから持ち込まれたものであるから、その際にイギリスで一般的だったものを寸法ごと持ってきたものか。それでも厳密には厚さが1/4インチ減じておる。もしかしたらイギリスの鉄道の基準サイズがあったのかも知れないし、イギリス北部形を薄くしたのと同様の理由があったのかも知れぬ。そうしてどうも厚さを厳密に考える傾向があった。長さと幅はよほどの誤差を許容している(M24時点の話。それ以前、関ヶ原線とか湖東線とか作ってた頃=M22前後には慣例を破って厚74mmとか80mmとかいう肉厚煉瓦をよく採用していた。これは山陽型の影響なのか?? 山陽型の流用ではあるまい、あちらは68mm、目地込み3インチであって素の煉瓦が3インチとかじゃないもの)。そんな鉄道系製造技術は村井属が天竜のあたりまで持って行っている。その後はどう?
そしてまた、東京形サイズはスタッフォードシャー形に近似しているという。だとすると東京の基準になったのはまた別のイギリス製煉瓦だったということになる。なるのだろうか。単に表中のこれが一番近い形だとしているに過ぎないかも知れない。なるのだとすれば、銀座の煉瓦街を建設する時に規範とした煉瓦がスタッフォードシャー形だったということになって、大阪のロンドンストック形と相容れなくなる(どっちもウォートルスが関わっているはずなのに)。
大阪並形はこれらとはまた違う経緯で出てきているように見える。M22~23の最初期の要塞建築でフランス形(小)を基準とし、そこから出発したものだと仮定しているところ。由良要塞建設に当て込んで創業したと見られる由良の中村重次郎工場、和歌山煉化石の工場なんかはフランス形に近い。実際に由良要塞で刻印が見つかっている工場は並形を作っていたことが、第三回・第四回内国勧業博覧会出品からもわかる。個人的にはちょうどこの頃新旧工場の世代交代があったように感じていて、由良要塞に煉瓦を供給した工場とそうでない工場とで生死が決まったように見える(堺煉化石とか三栄組とか。いや三栄組はM34製造業組合結成の頃までいたんだっけ。丹治はどうだろう、刻印ないけど)。供給した会社は比較的長続きしている。若井煉瓦や旭商社もM30台初頭まで生きていたし。そしてM40以降の六大工場時代につながっていく。それらが作っていた煉瓦がデファクトスタンダードになり得た。
とは思う一方、作業局形をよく焼いたら縮んで並形になりそうな気がする。作業局形を作るつもりで焼いて、縮み過ぎたのが並形になったとか。そもそもだ、何で「並」なんだ? 「並」があるなら「上等」「下等」があったんか? あーでも吉牛だって普通サイズが「並盛」だもんなあ。
大高表を信じて三辺比率を計算すると、0.986361637、0.972502291、0.944741533となって、厚が縮み過ぎているように見える。もし厚が1.8寸なら最後が0.97幾らになってまあ近い。<この計算はあまり意味が無いな。大高表が特別なのはすでに判明していることだ。
「並形」あるいは「大阪形」という名称の初出はいまのところM29『建築学提要』。「東京形」はその名称で旭商社が第四回内国勧業博覧会に出品している。第三回時点で並形類似のサイズの出品はない。M28第四回からちらほら出てくるわけだ。して、第四回講評で煉瓦サイズまちまちな件が指摘されている。各地で違うサイズを作っていることがこの時に再確認されている(初めて指摘ではなかろう。東海道線すでに繋がってるんだし、違うことがわかってたから旭商社が「東京形」と称して出品できたのだ)。一般的なレベルで認識され始めたのがこの頃なんじゃなかろうか、そして「並形」という呼称もこの頃に。
銀座煉瓦街を作る時に大阪からも煉瓦見本を提出した(けど採用されなかった)っていう話、どこで読んだのだっけ・・・。
薬水橋梁に思い違いを正しに行き、そのついでに付近を少し歩き回った。薬水橋梁に桜刻印はまったくの思い違い。裏積み基礎積みの手成形煉瓦に堺煉瓦があるだけだ。ただし追加でいくつか見つけたのと薬水在所で同じものの転石を見つけたのでよしとしよう。
吉野口で乗り換えのついでに駅前をうろつき、高田で見つけていた‘ヤマ’●の類似刻印を検出。向こうのにhヤマにツノが生えていたがこれには何もない。純粋なヤマ記号。それに少々不鮮明な●がついてる。ヤマボシとか何とかいうべきな屋号で、同じものを新聞広告で見たこともある。業種は全く違うけれども。
御所の旧市街地には結構な数の手成形煉瓦があり、刻印があれば必ず小島煉瓦という状況。さすがは小島のお膝元という感じがする。高取よりも御所のほうが明らかに大きな街だ。
御所って環濠集落なんだと改めて知る。寺内町の方では刻印を検出せず。小さな箔押し工場の中でギッコンバッタン仕事しておられる音の響く旧家町並みがよかった。
左に掲げたやつが興味深い。刻印の底にはほとんど砂が付着していないがそれ以外には大量の砂がついている。砂のついた状態で打刻したのではなく、打刻してから平面に砂が付着したわけで、形取り師が詰めた直後に自分で打ってひっくり返したことがわかる。小島煉瓦のは裏表に打刻されているのでこうういう役立ち方をする。同じ観察は日本煉瓦や岸和田煉瓦でもできるはずだがここまで鮮明な違いが見られることは少ない。
そうして休憩中にスマホを落としてタッチパネルを割ってしまう。手帳型ケースに入れていたのに開いた状態でガラスを下にして落ちやがった。上1/4斜め半分が使えず、スマホとして使えないわけではないが、とてもいやだ。今度はタッチパネルだけ買って交換してやる。
JRで御所から畠田まで行き(待ち合わせで馬鹿みたいに時間食った…だから和歌山線は嫌いなのだ)、そこから山を越えて大輪田へ。昨年やり残した宿題を片付けるつもりで。持ち主の方が親切に応対してくれ大変有難かったが煉瓦を再確認する時間がほとんどなく、任せてしまうことにした。昨年の見学会でお渡した資料や話も無事伝わっていたようだ。ただし追加で判明したことはなく、畑の南側に知り合いの家があっただけだとのこと。取り壊してしばらく経ってから現持ち主さんが買い取りはったそうで、その頃には草生した土山があるばかり、それを畑に作り変えた時に地面の下からたくさん出てきたのだそうである。とすると元の家の基礎に使われていたものか、その1つ前の家の何かなのだろうな。ここに工場があったとは先ず思われない。
実質的な収穫はなかったけれどもいろいろな話を聞けてよいひとときを過ごすことができた。あとは川向かい神南の孫七という瓦屋さんくらいしかアテがない。Hmm…そこは斑鳩町になるからなあ。大輪田じゃないのだよなあ。でも技術がそちらに伝わっておるやも知れぬしなあ。
御所の市街地で。ハテ、これはなんだろう。意見書箱とは書いてあってそのような用途であったのだろうけれども架かっていたのは普通のお宅で何か特段ご意見賜りたく拝承という佇まいではなかった。うち迷惑かけてません?なんか問題あったらどうぞ、という目的で掲げられているようにも思えず。ちょっと消化しにくいところがある。
下に「LOOK」とステンシルされているのも理解を妨げる。ご意見を賜っている側に向けられたLOOKなのか、与える側の注意を喚起するものか。見て!ご意見箱だよ!ご意見ちょーだいというわけでもない気がする。元は普通の郵便受けであり「意見書箱」の文字が後付という可能性もなきにしもあらずだがそれでも郵便受けにLOOKはないだろうと思ったりもする。
右下のマークは山三つにイノシシを描いた図柄。ご丁寧にTRADE MARKとも入っている。イノシシの下の文字?は判読できず。
あ、投函口の蓋に「POST」とあるのを見逃していた。やはり元は郵便受けなのだ。にしてもLOOKがいまいちわからぬ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801789/181
煉瓦試験成績
試験用採集品出品者姓名 煉瓦名称 試験番号 煉瓦の寸法 単位はセンチメートル 長手 横手 厚サ 常温に於ける重量 吸水率(百分率) 耐圧力 一平方センチメートルキログラム 朝野義之助 撰焼過一号 1 22.07 10.65 6.25 2450 14.3 43.0 151.4 同人 極上六号 2 22.7 11.23 6.24 2450 14.3 43 151.4 同人 並下九号 3 22.44 10.63 6.24 2475 15.3 40.6 70.6 小泉彦次郎 並七号 4 22.37 10.7 5.83 2300 19.1 72 103.3 山本要蔵 磨一等一号 5 22.98 11.37 6.36 2700 20 78.4 88.9 千葉鉄之助 磨上等一号 6 22.34 10.58 6.16 2416 9.1 60.5 124.3 同人 極上三等 7 22.46 10.72 6.13 2400 14.2 156.1 173.8 戸田弥助 上焼三号 8 22.43 10.8 6.21 2400 15.6 52.3 88.1 千葉勝治郎 磨一等一号 9 22.24 11.16 5.02 2300 11.2 55 98.2 同人 並二等六号 10 22.23 11.2 5.98 2400 18.7 39.3 58.2 宮本八十八 上焼三号 11 22.61 10.62 6.07 2450 14.2 53.4 104 同人 並上五号 12 22.83 10.89 6.14 2433 18.8 42.9 77.2 岡本忠次郎 上焼三号 13 22.06 10.45 6.08 2450 10.2 81.5 148.7 同人 並上五号 53 22.57 10.95 6.14 2383 20.2 70.9 97.8 千葉徳太郎 並上七号 14 22.44 11.17 5.94 2400 17.2 33 74.4 斎藤要蔵 並九号 15 22.33 11.17 6.33 2550 17.6 57.8 80 同人 三方磨十号 16 22.11 10.7 6.36 2550 15.6 108.5 156.2 隅山尚一 並二等五号 17 22.96 11.56 6.28 2633 19.6 52.2 68.8 金町煉瓦会社 別製矩手一号 18 22.91 11.28 6.21 2566 17.5 122.5 225.4 同 特等四号 19 22.73 11.25 6.08 2516 17.8 126.3 217 同 並二等八号 20 22.92 11.4 6.16 2500 20.3 134.1 160.3 斎藤松司 焼過特等一号 21 21.46 10.71 5.83 2516 17.8 126.3 217 同人 焼過三等四号 22 21.72 10.83 5.93 2500 21 103 186.3 同人 並二等六号 23 22.5 11.4 6 2466 17 41.3 105.5 日本煉瓦会社 ホフマン撰焼過一号 24 21.93 10.42 5.78 2416 11.1 137.8 300.0以上 同 ホフマン並焼二等六号 25 22.78 11.16 5.95 2450 19.3 43.4 146.1 同 ヘートリッヒ焼過二等九号 26 22.34 10.97 5.88 2500 12.3 91.1 213.3 同 ヘートリッヒ表積並形十三号 27 22.57 10.81 5.99 2783 6.5 94.6 300.0以上 新井和一郎 煉瓦四号 28 22.62 11.08 5.68 2566 6.5 109.2 232 堺煉瓦会社 東京形焼過一号 29 22 10.76 5.83 2900 0.7 62.4 300.0以上 同 東京形上等二号 30 22.16 10.84 5.86 2900 2.5 172.5 300.0以上 同 東京形並形焼過三号 31 22.23 10.96 5.48 2800 0.9 122.5 300.0以上 同 東京形並形上等四号 32 22.5 11.02 5.53 2800 2.7 114.5 248 同 東京形磨七号 33 21.96 10.65 5.82 2850 0.9 128.4 300.0以上 富永金吉 赤一等三号 34 22.84 11.2 5.99 2750 10.9 59 140.4 備考 煉瓦名称下の番号は出品者番号なり
耐圧力中崩壊の部に於て300.0以上とあるは試験器械の標示以上に耐えたるものなり
https://archive.org/details/b1105040/page/n29
1925年、日本がも少しで昭和元年を迎えそうな頃、イギリスではすでに煉瓦製造の歴史の本が書かれておって、それを令和元年のnagajisが読んでいるわけである。なんともかんともである。
煉瓦サイズからその構造物の年代を推定する試みはこの本以前からしきりに試みられていたようだが、著者はそれ無理、おおまかで一般的なアレには使えるかも知れんけどっていう立場らしい。測定結果が人によって異なるし(最大なのか最小なのか平均なのか)、1つの構造物のなかで1インチくらい違うこともざらにある。ell単位で作られているのかyard法なのかで分けるとかはできるけどもある時代のスタンダードなサイズはないということを言っている(はず)。うしろのページの表なんかも必ずしも明確な傾向を示していない。徐々に小さく・薄くなっていく傾向はあるけれども、だからといって厚2-1/2の煉瓦がどの時代の、というようなことは言えない。
逆に言ったら日本のほうがその点有利なのかも知れん。外国から持ち込まれた見本の煉瓦、あるいはお雇い外国人が示した煉瓦のサイズを金科玉条に守っておけばよく、そういう態度が比較的早い段階から「東京形」「並形」「作業局形」などなどの定形を産んだ。煉瓦寸法で定形を絞り込もうと思えばできないことはない。ただその「東京形」「並形」「作業局形」に厳密な意味でのdimensionがなく。人・文献によって1寸違うとかザラにあるせいで困っている。何寸何分を何形と呼んでいたかっていうところから固まっちょらんのである。困ったことであり悩ましいことである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/846222/62
7.5×3.6×2.0の東京形をもとに展開。7寸5分の煉瓦を8枚並べると約1間になる。しかしこれは目地のことを考えていない。7.5*3.03*8=181.8cmなので煉瓦だけで1間を越えてしまう。高さについては2寸2分5厘として計算すると4段で9寸となり都合宜しとある。こっちは目地考えてるんだ。
七寸四分だと179.3なので、これでも目地は足りない。7寸3分なら3cm開くんで4mm強の目地が必ず取れる。煉瓦で尺寸設計のモノを造る時は7寸3分=並形のほうが都合がいい。
基本的なサイズからかなり縮小することを最初から見越して考えていると考えるべきなんだろう。ソモ煉瓦壁を尺寸で設計することがなかったかだ。インチなら問題ないのかも知れぬ。
インチと尺寸と規格をすり合わせるのが面倒なのでこんなのを作った。ミリ単位でサイズを入力すれば尺寸・インチに換算した上で近い規格を示してくれる。
尺寸は5厘刻みで、インチは1/8インチ刻みで規格化した。窯業便覧では64分のとか32分のとか書いているけどそこまで細かく厳密に定めた規格だったわけではあるまい。おそらくはメートル単位に換算された数値を再度インチに換算している。もともとインチで日本に入ってきたはずで、それをセンチに直した数値表を参考にしてまたインチに換算し直しているはず。イギリス国内では1/8インチが最小単位的に使われとった。
規格化した値と規格の値がぴったり一致するほど濃く、5厘or1/8インチずつ離れるごとに薄くなる。薄いやつは1分(3.03mm)もしくは1/4インチ(6.35mm)大きいか小さいかの範囲にあることを示しておるわけである。
これをやりたかった最大の理由は、規格に寄せることやなくて、実際の数値を尺寸5厘刻みで読んだ時と1/8インチ刻みで読んだ時とで値が変わってくることを視覚化してみたかったということ。54ミリも55ミリも1/8インチ規格化すると同じ値になる。5厘規格化すれば若干異なる値になる。それをさらに1分で規格化すればなおさら異なるだろう。日本の規格で1分違うと異なる規格の領分に侵食してしまう。
並形や東京形の寸法を放り込めばそれぞれの規格の類似形を調べられるわけだが、どれ一つぴったり一致するものはない。Staffordsher形が東京型に類似する程度。
そもそも日本の文献で「イギリスの普通の煉瓦のサイズ」的にぞんざいに示された値は本家イギリスの辞典の値とも違っている。にんともかんともである。なので馬鹿みたいにいろんな規格を並べてあるが後ろ半分はほとんど無視して良い。イギリス形でも種々寸法があることからもわかるように本家でも定形寸法が存在しなかったということであって、日本の規格を外国規格に寄せていく意味はほとんどありゃしねーってことになってしまう。あとは実測値放り込んでどうなるかだ。
の寸法を計りに行った。今更感たっぷりな訪問である。そうなんだよなー、彰栄館とか大阪にもないM10年代の煉瓦建築なんだわ。そして丁度そのへんの煉瓦の寸法を知りたがっている。
同志社女子大のほうまで行ってしまい、もうちょっとで女子中学校に踏み込みそうになった頃に正門の人に止められた。建物の見学をと申し出たらちゃんと臨時通行証をくれた。門前払いでないのはありがたいことである。
致遠館が絶賛取り壊し中で、角にある大正4年竣工の基礎石の辺りをはつっていた。奥の方には煉瓦の山。突貫して見せてもらいたい気もしたが、機械成形のようであったし部外者だしでやめておいた。きっと内部ですでに調査をしてはるのだろう。
たかだか数個の平均値だが彰栄館の煉瓦は7.4×3.6×1.8で微妙に並形ではない感じ。といっても小口幅が1分違うというだけだから並形であるかも知れず、少なくともその源流を見ている可能性は否定できない。ただ長手八枚が185.5cmあって並形設計を生かせていない。もともとインチで設計されている建物だから仕方ないのかも知れんが。
新島遺品庫は2601年(昭和16)竣工で煉瓦を使っているのは拘りだと思った。機械成形のJES規格サイズ類似が使われている(長手がちと短く小口も1分ほど小)。どこの製品だろうな。
例えば京都市営地下鉄の車内の静寂、例えばJR山手線車内の静寂と、阪急の車内の静寂とでは何しか違う感じがする。あまり利用しない電車の車内の静寂はやはりどこか慣れない感じがする。緊張感というか警戒心というか、何やら透明な棘々が飛び交っている気がして落ち着かない。阪急の車内にはそれがない。むろんみな疲れていたりスマホに黙々と向かっていたりする状況は微塵も変わらないはずなので、単に慣れている電車かどうかの違い、要するに自分の受け止め方の違いなんだろうとは思う。それでも静寂に違うものを感じるのは我ながら不思議だと思った。
疲れて眠りこけている人々を、仲間とまではいかないにしても、似た境遇の人として若干のシンパシーを感じたりしさえする。それは東京の通勤電車を足にしている場合にもやはり感じられるだろうか。通勤通学の電車でも一緒か。皮肉とかやっかみとか一切なしに聞いてみたい気がする。