nagajisの日不定記。
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恒例の初詣の行列に並びながら
今年は、nagajisが煉瓦を宜しくする!
というキャッチフレーズを考えたのだが、よく考えたらロシア的倒置法になってないような気もする。そもそもの話「いつものことだろ」てな感じだ。かといって
今年は、煉瓦がnagajisを宜しくする!
というのもちょっとあれだ。受け身姿勢がまずよくない。
今年は吉。失せ物が近くに出るそうだし学問は努力すれば宜しいし旅立もさわりなしだし病気は思うよりかろしで何の不満もない。むろん出産は今年も易い。
大日本商工録と帝国商工信用録がリンクだけだったのに気がついて入力していたのだけれども、帝国のほうの大正2年版だったかの北海道編で面白いことを発見した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/924260/687久保組
本部 久保兵太郎
北海道札幌区北6条西1-4
附属煉瓦工場4ヶ所
支部 久保熊蔵
東京市日本橋区元四日市町2
附属煉瓦工場3ヶ所
「本部」の久保兵太郎は何度も入力したので覚えている。北海道の著名な工場の工場主。付属工場4箇所というのも思い当たるフシがある。しかしその久保工場が「久保組」の本部であったことや、「支部」が東京にあったことまでは気が付かなかった。こういう連綿は工場通覧ばかり追いかけていては気づけない。
それでざっくり調べてみた。久保兵太郎は徳島生まれ。鉄道院技師だった父と北海道に渡って煉瓦工場を始めて大成。野幌煉瓦株式会社も彼の工場(会社?)。後に北海道商工会の頭取を務めたりもしている。 徳島においても北海道野幌においても偉人とみなされているような人物なんだそうだ。「日本煉瓦史の研究」でも書かれていたはずだがきちんと目を通してなかったなあ>北海道。
久保熊造は兵太郎の兄弟らしく、兵太郎の次男・久保栄からみて伯父にあたる。思い当たるものがなかったけれども、これまで入力したテキストを検索してみたら福島県や富山県に工場を有してた(前者は耐火煉瓦、後者は赤煉瓦)。東京在住というだけで別に東京府下に工場をというわけではなく、内地に対する本土における久保組の出張所として在って、本土各地の煉瓦を東京で販売していたということのようだ。いいなあ、こういう広範囲におよぶ連携は関西ではあまり見られない。せいぜい岸和田煉瓦→中国煉瓦くらい。それも煉瓦産業斜陽期の策。
父親が鉄道院務めだったということは、煉瓦製造の系譜も鉄道院流なんだろうか。鉄道寮は堺の官営工場→村井属→東海道線建設で天竜のあたりまで技術が伝播したはずというところまではわかっている。もしそれが鉄道院のデフォルトになってれば、場合によってはそれが北海道まで追いかけられることになるのかも知れぬ。ワクテカしないではいられない。
野幌名物煉化もちェ・・・
短い期間しか創業しなかった会社だが○ハの社章を使っていたようだ(c.f.帝国商工信用録第20何版)。○ハといえば加古川とか蹴上疏水のそばとかでも見つかっている。兵庫で比較的見るやつなので播磨か原田かはたまた播陽かと想像していたけれど、屋号として記録が見つかった以上そちらに寄せていったほうがよいかも知れぬ。三重から拡散していったとすれば蹴上でみつかったのも無理なく肯んじられる気がする。問題はその頃すでに中播には工場が充満しておったことで、その圧力に抗ってまでして運ばれなければならなかった蓋然性は低かろうと思う。
煉化石 造幣局
京都府下山城国相樂郡童仙房の土及び大阪府下摂津国東成郡天王寺野代田の土を採り鍬を以て打返し足を以て踏み捏して木型に按填し乾かし窯に入れ七昼夜焼成す
煉化石 芝口一丁目 林七兵衛
寛政元年より瓦焼を開業せしに明治八年鉄道修繕科御用中御届仏国人某より煉化石製造法を伝習し今此業を専らとす
製法 府下隅田川近村より出る荒木田の土を採り乾かし碎きて末となし銅線籮を以て淘し水を注ぎ鍬を以て練り筵を以て覆い置くこと四五日仏国の土を石臼に入れ鉄頭の杵にて舂き碎き末となし銅線籮を淘し前に練たる荒木田の土に之を百分ノ一加え又水を注ぎ鍬を以て練ること四五日捏して板上に載せ手を以て按し銅線を以て切り大略尺寸を予定し木套(ワク)に入れ按じ脱して板状に列し乾かし窯に入るる凡そ三千枚松片を入れ焼くこと二昼夜にして窯口を塞ぎ泥封し煙を籠めて焼く者は黒色煉化石煙を放ち焼く者は赤色煉化石なり
煉化石 [神奈川県三浦郡]長浦村 鈴木門四郎
製法 本人所有地の土を採り水を灌ぎ鍬を以て撹捏し木型に按填し型を脱し陽乾し窯に入るること二千三百枚松片を以てやくこと十八時間窯口を塞ぎ泥封し十二時間を経て窯を啓く
煉化石等 県庁[大阪府庁]
製法 田園あるいは池底の土を採り筵を覆い熟さしむること一夜鍬を以て練り砂を調和し足を以て踏み捏して型に填し板を以て四面を按じ型を脱□能く摩擦し滑ならしめ乾かし窯に入る石に赤色を発せしむるは窯火中に塩小許を投じ焼成す
品類 煉化石瓶鉢皿鍋擂鉢渠(ミゾ)瓦風炉湯婆(ユタンポ)酒■火閤(コタツ)玩弄陶像
p.35
煉化石 [三重県]県庁
製法 伊勢国朝明郡大矢知村近傍の山より出る青色砂土を採り乾かし末となし水を注ぎ練り模型に按填し型を脱脂乾かすこと一昼夜四面を板を以て打固め形状を平直ならしめ而して乾かし窯中に積み累ね窯門を塞ぎ泥封し窯窓より松片を投じ漸次に火力を増加せしめ一昼夜を経て窯中の火色雪白にして少しも暗色無きを認て窯窓を塞ぎ泥封し冷るを待て窯を出す
p.42
白煉化石 [静岡県]県庁
明治六年開場し水碓機械を設け窯を築く皆旧製作寮より建設する所なれども今は工作局の所轄たり
製法 伊豆国賀茂郡梨本村を距る二里天城山中小川に産する石を採り水碓を以て舂碎き万斛籮(マンゴクトヲシ)に過し水槽に入れ撹捏し木型に填実し鏝を以て按じ脱し板状に排列し陽乾すること一日再び銅型に填し螺旋機械を以て圧搾(ヲシシメ)し陰乾すること一二日陽乾すること三四日窯に排列し椴[もみ]片を以て焼くこと七昼夜冷るを待て窯を出す
工名 伊豆国賀茂郡梨本村 稲葉常松 板垣弥平 稲葉五右衛門
p.61
煉化石 信夫郡上飯坂村 石田佐吉
製法 同村字赤館より出る土を採り乾かし水を注ぎ翌日足を以て踏み又鍬を以て捏し粘土を一部調和し厚さ一尺方六尺に積み縦八寸幅四寸厚さ二寸の木型に填し箆を以て敲き刀を以て四辺を切り陽かわかし復た箆を以て摩し滑かにし窯に入松片を以て焼くこと十二時間火を止め窯口を塞ぎ泥封し又十二時間を経て窯を出す
p.61
煉化石 岩手県陸中国稗貫郡台村 小瀬川清志
製法 同国岩手郡台村饅頭山より出る白石を採り砂を去り槌碎き水碓を以て舂き末となし型に入れ脱し乾かし打堅め陽乾し窯に入れ一昼夜焼成す
p.77
煉化石 長門国豊浦郡神田下村 井上百介 製法 同村字大師山の土を採り槽に入れ水を注ぎ踏捏し挺となし寸尺を定め銅線を以て切り陰乾し石末を捺し木型に入れ型を脱し鉄箆を以て摩し滑かならしめ板上に列し陽乾し窯に入れ火力を弱くし松片を以て焼くこと十二時間後ち火力を強くし焼くこと復た十二時間火を止め窯口を塞ぎ泥封し十二時間を経て窯を啓く
p.79
瓦各種 伊予国野間郡浜村 大津四郎八外二名
製法 同国越智郡大三島風早郡小川村本郡波方村の土を採り練り捏じ型にて以て形を造雲母末を塗抹し陽乾し窯に入れ松葉松片を以て焼成す
品類 平瓦、円瓦、袖瓦、鬼瓦、巴瓦、唐草瓦、風切瓦、雁振瓦、水通瓦、竈、火炉、水板瓦、鳥襖瓦、黒煉化石
p.95以降の表から煉瓦関係を抽出
物名 府県名 製額 価格 開業年暦 工名地名 出品人名 (掲載ページ) 煉化石 明治6年2月 造幣局 p.84 煉化石等 東京府 150 亨保9年 本所瓦町 小林吉兵衛 p.95 煉化石等 東京府 1,000,000 150,000 小林七兵衛 p.95 煉化石等 東京府 16,500
(売額18,500)文政年間 加藤繁吉等 島田総兵衛 p.95 煉化石 東京府 300,000 18,000 明治8年 武蔵国足立郡宮城村
下川春次郎下川馬次郎 p.95 煉化石 東京府 1,400,000 8,400 明治5年 小台村 小泉弥吉 p.95 煉化石 東京府 720,000 4,320 明治5年 鹿浜村 小宮長次郎 p.95 煉化石 東京府 明治6年 葛飾郡上篠崎村 松原善左衛門 p.95 煉化石 東京府 100,000 700 明治5年 柏原要蔵 島村武兵衛 p.95 煉化石等 東京府 50,800 4,111 安政元年 葛飾郡金町村 細谷伊助 p.95 白煉化石等 東京府 340,000 10,020 明治7年 足立郡千住駅 小川利右衛門 p.95 煉化石 神奈川県 250,000 112.50 明治4年 長浦村 鈴木門四郎 p.97 煉化石等 兵庫県 明治6年 県庁 p.97 煉化石 三重県 50,117 250.60 明治6年 懲役夫 県庁 p.103 煉化石 静岡県 96,000個 4,490 伊豆国賀茂郡梨本村 稲葉米蔵 p.103 煉化石 福島県 30,000 300 明治8年 岩代国信夫郡飯坂村 石田佐吉 p.107 煉化石 山口県 50,000 700 明治3年 (長門郡豊浦村神田下村) 井上百介 p.122 黒煉化石 愛媛県 2,820,000 12,300 (伊予国野間郡浜村) 大津四郎八等 p.123
第一法令出版『日本科学技術体系17』第6章「煉瓦の生産とその建築」に出品解説の抄録があるけれども小川利右衛門だけを白煉瓦製造としてたりする。静岡県の出品は梨本村の土を使っているから耐火煉瓦であるはずだし、岩手の小瀬川工場も白石を用いってある以上耐火煉瓦なはず(そもそもそうか、最後の付表に名前がないのだ)。一次データの検分も甘め(なので大阪府庁の誤りが見抜けてない)。
静岡県出品の工者・稲葉常松は福島県や新潟県でも出てくる名前。同じ人物かどうかは現時点ではわからない。福島の稲葉工場はM27頃、新潟のはM42頃。
上記資料と『明治工業史』煉瓦の章には三浦乾也の名はなし。明治工業史の建築もしくは窯業全般のところを見るべきか。あるいは日本窯業史?
第一法令出版『日本科学技術体系17』第6章「煉瓦の生産とその建築」p.295に引用されちょるのをテキスト化。
製造人 住所(窯位置) 寸面(寸) 寸法(mm) 1万本当り価格(円) 細谷芳松 東荏原郡金町村5070番地(現今細谷伊助) 7.4x3.5x1.9 223x106x57 108 藪崎権左エ門 同上 妙典村 7.5x3.5x1.9 227x106x57 108 広岡松五郎 同上 金町村 7.3x3.5x2.0 221x106x60 108 和田荘十郎 同上 7.3x3.5x1.9 221x106x57 108 中山茂七 石川島(現今竈なし) 7.4x3.6x1.9 223x109x57 105 齋藤吉五郎 北豊島郡豊島村 7.4x3.6x1.9 223x109x57 115 石神豊治郎 同郡船方町29番地 7.4x3.7x2.0 223x112x60 112 高井石松 同郡神谷村 7.5x3.6x1.9 227x109x57 115 小泉弥吉 南足立郡小台村534番地 7.4x3.5x1.9 223x106x57 108 田中栄蔵 北豊島郡船方村 7.3x3.6x1.8 221x109x54 115 音羽清造 7.6x3.7x2.1 230x112x63 150 小宮長治郎 鹿浜村 7.4x3.6x2.0 223x109x60 115 小菅集治監 小菅村 7.2x3.6x2.0 218x109x60 0 須田庄太郎 岩渕本宿 7.3x3.6x2.0 221x109x60 110
ここに掲げられてある製造者の9割以上が名寄せできたのは我ながらすごいとおもった。前掲「明治十年内国勧業博覧会出品解説」が効いてる。
旧町村を検索して現行行政名を探し、GoogleMapsでその位置関係を把握し、Excelで検索して該当工場を探し、品川白煉瓦みたく分工場がたくさんあるやつはその分コピペを繰り返し、本社移転を追いかけて該所を探し、ということを果てしなく終わり知らずに一日中繰り返しても未だ終わらぬ。検索無間地獄に溺れている。
地獄とは言うけれども、Excelの一マスが埋まるごとに歴史が明らかになっていくのだと信じて、時折会社の終焉を目撃したり継承競合を確認したりするのは楽しくないわけではない。いまこの作業が全工程中でもっとも報われた実感のする瞬間なんではないかと思う。グラフは作るほどにモヤモヤが溜まるし(各県をうまく用紙に収めるのとかたいへんだ)、終わったあとでこれをメンテしていかなければならんことを考えると気が気でなかったりする。グラフがひとまずのゴールとみなしている現状なので終わってしまうことへの寂しさもある。出来上がったからといって誰かがなんか恵んでくれるわけでもないし、そも自分にご褒美をとも考えておらぬ。ひたすら苦労するためだけにやっている。
「報われない」と思うのはたぶん間違っている。報いを求めてやってるんではないもの。そうじゃねえ、いまだ誰もやったことのない壮大な阿呆をして自己満足するためにやっておるのだ。わかったらさっさと寝る作業にもどるんだ。
明日は街中に出てコーヒーの福袋でも買ってこようか。どこで売ってるだろ。福袋でなくてもいいや、煎りたての豆を挽いた風味豊かなコーヒーが飲みたい。
畢んぬ、ということにしないといつまでたってもおわらないだろ。
https://drive.google.com/file/d/1yQYRkEdn8SP8B0ro40ytfoPdvRzZ9THE/view?usp=sharing
とかいいながら全国諸会社役員録を見たりしているのはもうだめかもわからんね。ここから月末まではもう、触る暇なんてない。
今日は気晴らしに出かけるつもりでいたのだが、出かける前にコーヒーを買いに階下に降りたとき、ふとマンションの裏側にある細い通路に入ってみたらーーーなんでそんなところに入る気になったのかよくわからない。風の吹き回しがおかしかったと言いたいところだが生憎今日は無風であったーーー、大家さんが作ってはる花壇があり、これがあった。
なんということだ。普段生活している部屋、寝て置きてこれ書いている座席から測っても直線距離にして10mも離れていない位置に、府下では殆ど見られないとか抜かしていた英数字刻印の煉瓦があったとは。そうしてそれに10年以上気付かずにいたとは。おそるべし。おそるべし豊中市。おそるべしnagajisの間抜け。
この他にも「6」と、ここいらでは比較的よく見る「/」が一つ。これ以上の再近接はもうあり得ない。部屋にはたくさんあるけれどそれは人為的な持ち込みなのだし(いわば二次転用物であって煉瓦分布のプロットには利用できぬ)。あとは体内から不意に摘出されるとかいう僥倖を望む以外にない。
そういやおみくじは「失せ物 出る 近い所」とあった。早速当たったようである。この場合はもともと失せてもいないものなのであるが。
その後尼崎に行き、JR駅から阪神駅にかけてと阪神駅南の寺町の周辺を歩き回った。以前JR駅北の潮町のあたりを歩いた時に煉瓦転石を多く見たものだから、尼崎には煉瓦が多いはずと踏んでいたのだけれども、その予想通りに多数の煉瓦を検出した。尼崎くらいの工業都市規模、大阪・神戸といった商業中心からの離れ具合い、開発の停滞具合いはまさに煉瓦転石の条件を満たすようである。実際尼崎には一昔前の長屋が数多くある。現代風の建売住宅の家並みの裏に隠されるようにして古長屋が佇み時を重ねている。そういう土地に私は用がある。
そんな住宅地の一角で、今まさに煉瓦転石が生じようとしている場面に出会った。並びの住宅のひとつが解体され、地面が掘り起こされている最中で、建物基礎に使われていた煉瓦がこのように掘り返され山積みにされていた。こういうのが軒下の花壇縁石だったり植木鉢受けだったり無為に転がるやつだったりになるのだ。建物は木造でも基礎や水回りや溝なんかに煉瓦が使われていることが多い。そういう一昔前の建物が壊された時、今みたように施工管理が煩くなかった時代には「これちょーだい」「ピアノ売ってちょーだい」で貰われていくのが多かったのだろうと想像する。あるいは無言でくすねられていくものもあっただろうーーー「くすねる」なんて言い方が悪いかも知らんな、不用品を有効活用する「もったいない精神」の自然な発露である。そのお陰でいまの私が半世紀以上前の煉瓦を手にして観察することができる。
ちょっとだけ触らせてもらったが岸和田煉瓦の手成形のようだった。これだけたくさん見えているのに刻印があるのは1つだけ。岸和田煉瓦は5個に1個くらいの割合で打刻したそうだから(それは遅くても戦後以降のことと思う)、その通りの状況といえる。
尼崎では三本線刻印やKnシリーズをいくつか検出。機械成形の岸煉や、手成形の大阪窯業・大正丹治なども見られた。大阪と兵庫の煉瓦刻印が見境なく検出されるのはさすが両地域の端境地域といったところ。それから、予期せず尼信記念館を再訪し、岸和田煉瓦らしい細十字刻印を検出したり、これも以前来た時に目にしたはずの善通寺の煉瓦壁に堺煉瓦刻印を認めたりもした。阪神の変電所も行き合わせたっけ。どれも訪問予定ではなかった(尼信記念館に至っては伊丹にあると勘違いしてた)のに辿り着いたうえ刻印まで探し出してしまう自分を自分自身どうかしていると思う。
こんな長屋にも出会った。壁掛け時計が無数に掛けられた長屋。正しい時間を指しているものがひとつとしてないのは魔除けのためである。正しい時間をわからなくして魔のつけこむ気を殺ぐという作戦なのだ。イタリア・シチリー地方の秋祭りでも同じことをすると聞いたことがある。その日だけ街中の時計をデタラメにして悪魔を惑わすわけである。ハロウィンの夜にビッグ・ベンが停められるのも同じ理由から。うん。
今日見たものは二つとも状態がよく、陰茎をもとい印形をじっくり観察することができた。どちらも線の付け根が重なっていて、特に線のひとつが各線の交点を上書きする形で押されているように見える。幅のある三本の線の寄せ集め(中心に三角形の空隙ができる)ではない。この形の「印」を押したのではなく、棒線を120°回転させて3回押したのかも知れぬ。もしそうだったら随分な手間だったろう。2つの印影を採拓して比べてみたいところである。写真で見る限りは似ているようだけれども、線×3だったら角度が変わったりしていそうだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801308/106
それは共盛社だ。
帰宅後すぐに寝てしまって、起きたら22時過ぎ。無駄に目が冴えた頭を持て余して日本諸会社役員録をめくる→京都煉瓦会社を拾う→それ自体は京都勧業統計書で採取済みだったけれども、そういうや共成社製造品煉瓦の件が片付いていないぞ、という泥沼にはまった。M23頃のを開けば共盛回漕会社というのがあって、それを共成社と勘違いし、京都宮津間道路もしくは海上輸送で宮津か、などと考えてしまってますます目が冴えてしまう。それは 共盛 であって共成ではない。その他M25 の商工人名録なんかもひっくり返してみたけれども関連情報は見つからず。20年代前半期以前の商工業社名簿って数限られてるからなあ。だいいち京都府下と絞り込まれてるわけでもないのな。
件の煉化石道は京都市新車屋町の齊藤のぶという人が寄進したもの。福田寶應?實應?という人物が代行して奉建した?節がある。福田姓の人物は円隆寺に関係がある人物か。齊藤さんのほうは商工録で確かめたがそのものずばりの人はいない。下の名前は「のぶ」より下が埋まってたのを雨の中必至になって掘り返して確認したから多分間違いない。
大手橋は『宮津史研究』第三号にあり。これは宮津市立図書館にしか蔵されておらぬ。あの辺りは今年春にでも行ってみたいものである。
M22という寄進年が京都宮津間道路の完成年と一致するのが気にかかるのだが、全通は8月、寄進は6月なので煉化石道のほうが早い。んじゃああんまり関係ないかな。ただおおまかなところはそれより早くできあがってて、桂川橋梁より京都方が最後の工事だったみたいだし。どのみち陸送であの距離を運ぶのはちょっと大変だろう、それほど多量ではないにしろ延々曳いていくのはどう考えても不経済。それより大手橋あたりの煉瓦がどこで調達されたのかを解決するほうが先よ。
工場通覧S47-53を取得。序にいろいろ調べていたら、大手前大学史学研究所から内国勧業博覧会の窯業関係出品をまとめた報告書が出ていることを知った。これは手元に置いときたい!あると(個人的には)むっちゃ便利。
さらには三浦乾也の件も片付けることができた。資料掘りまくってよく見つけたもんだと自画自賛。しかし肝心の本はdl.ndlに収録されていて、やっぱり「失物 近い所にあり 出る」なんだなあと思った次第。またひとつ賢くなった。
年明けの頃に断絶コメントを耳にして奇妙なポテンシャルを感じるのがここ数年の習いになっていたのだが、今年は不思議とそれがなく、一体どうしてしまったんだろうと思っていた。しかしつい今しがたNHKラジオのニュースで7歳の男の子がそれらしきコメントを発しているのを耳にした。終始聞いていたわけではないので定かな引用ではないかも知れぬが
七草粥がおいしかった。今年はいい年にしたい。
だったように記憶する。今年もいつも通りの年になりそうだ、と安堵しかけて、いやいやいや、それは至極普通のコメントではないかと思い直した。こうして文字にしたものを読み直しても真っ当過ぎるほど真っ当である。七草粥で無病息災を願う。其処に何の断絶や有らん。「今年は〜」の部分に条件反射した自分がPsの極みである。Ps追求者はやがて自身がPsになってしまうのか。そんな私を等閑視して世の中は至極真っ当な正しい世界に遷移しようとしているのかも知れぬ。それはそれでそうあってほしい気はするもののやはり一抹の寂しさは残る。
そういえば昨年暮れの道路交通情報は饒舌ではなかった。本年最後の道路交通情報というもの自体を聞きそびれたからかも知れないが、17時頃帰宅してから23時45分に初詣に出かけるまでの間じゅうラジオは点けたままであったはずだ。そもかの交通情報は昼間会社で聞くものだったような淡い記憶がある。それでもやはり聞いた覚えがない(肝心の交通情報センターのどなたかさんの声がミュートされてBGMだけが数十秒流れているのは聞いたはず。だがそれが大晦日のことだったかどうかは記憶しない)やはり世の中は清潔で美しくて一毛の瑕疵さえない、nagajisには生きづらい世の中になっていっているのかも知れぬ。Psのない世界なんて考えるだに寒いけれどもそれが世界の総意なら大人しく従う他ないのである。nagajisなど虫下しで下されればよいのである。
神崎川橋梁がいつ盤上げされたのかを調べようとして断念した。明治の淀川改修の時には京阪連線橋梁に影響の出ない案で淀川が改修され神崎川口には神崎川水門が設けられている(M38)。その門を閉じて流入する水を減らすことにしたわけで堤防かさ上げの必要はない。大塚切れしたT6の大洪水では神崎川下新庄の堤が100数m決壊したがこの時にはすでに国鉄は現行線のところへ移っていた(T2廃止、T11京阪神急行電鉄?だったっけ?が跡地を使用)。そのT11の開業時に橋脚を増やしたりはしただろうと思うが堤防を嵩上げしたという記述を見つけられなかった。
神崎川下流域はジェーン台風やらの頃に高潮対策で嵩上げされているのは確か。けれど阪神間鉄道の橋梁よりシモが中心で、その頃上流域はどうであったか。
デレーケが改修計画を立てた頃には上神崎川橋梁の辺りに神崎川含め3本の河川が流れていたらしい。阪急線築堤の下から出てきていた橋脚?はその3川のひとつを跨ぐものであったのかも知れぬ。また神崎川自身も今のような真っ直ぐなものではなかった。この図は淀川資料館所蔵。
現車道の高架の橋台が元神崎川の橋台だったら、と考えてみたが、だとすると以前の阪急橋梁の頃くらい高くないといけなくなる。笠石など挟まず直に立つ高橋脚であっていいことになる。うーん。こういうのは資料館に聞くほうが早いか。
ウェーブってなんだ…。
そうだ、宮津、行こう。というつもりで用意していたのに寝過ごしてしまって無為になった昨日から本格的に書き始め、一巡目が終わり現在二巡目前半1/3まで。日曜日は仕上げたいところ。
長くなるようであれば後編一本ということになるかも知れない。小ネタに丁度いいサイズのネタが思い出せない(石アーチ橋を旧橋に分離しようかとも思っていたがそうまでして記事数を水増ししなくてもと思う。内容的には十分いろいろを突っ込めている筈)。
自分の記憶というものがかくもあてにならないものだとは。一巡目は記憶だけで書き、二巡目で写真や資料と突き合わせて訂正書きしているけれども、その訂正書きの多さと範囲の広さといったらない。白黒逆転していたりもする。2002の長旅の記録は忘れてしまっていても仕方ないが、つい数カ月前の記憶さえ間違ってることが多いのはちょっと問題だと思う。
止むに止まれぬ事情によりアカウントを復活させたが、その件に関係することがら以外は書き込むことはまずないだろうと思われるので、なんかいいことあるかも知れんと思って友達申請された方には(そういう人がもしいたらの話だが)申し訳なく思う。これ以上データの在処を分散させたらわけわらんくなること必至だしいろいろ書きづらいじゃんFacebook。nagajisのぐだぐだな愚痴と韜晦塗れの言説と直交座標が有無を言わせぬpush送信で送りつけられるなんて、考えただけでも反吐が出る。速攻ミュートする。
あ、でも、煉瓦師見習ちう肩書きは我ながらいいと思っている。こんどこっちに引っ張って来ようかしら。
あちらを立てればこちらが立たずで苦労するであらうというご神託。なるほどこういうことかと思う。それはおみくじによって与えられた今年限りの試練なのではなく、常日頃からどういう場面でも起こり得て、心労の種になることが多いことのひとつに注意を向けさせてくれるのがOracleなのだと思う。心を鎮めて私欲を捨てよ、と解決方法まで賜っている。そうそれが一番穏便で正しい対処法なんだ。そこで我を通せば通した分だけ身が痩せ細るだけ。得るものは戦ったんだという偽満足。風任せに生きるんじゃなくて風を受け流す葦の葉のようなしなやかさが必要だ。そう意気込むまでもなく、ひらりひらり。
水曜日の問い合わせ、および火曜日のお尋ねにおいて、新年早々様々な利便を賜った。有り難いことだ切ないことだ。今年からは御礼のハガキくらい出そうかしら、と思ったりした。貰ってばかりじゃ申し訳ないし、それが即まともなOutputに繋がるわけでもないのだし。
↑は心境変化の転換点としてメモしておいたほうがいいかもよ>nagajis。そういう真っ当なことを積み重ねていけば少しは人間に近づけるんじゃないか。
ああ、宮津、行きたいなあ。大野再訪したいなあ。
珍しく普通の話題である。月曜日はパートさんが斃れ、今日は主任が斃れ、と明らかに感染が拡がりつつある。インフルエンザをこれほど身近に感じるのは何年ぶりだろう。いつもニュースで聞くばかりで流行に乗り遅れている、というか流行に乗る気さえないnagajisなんだが今回ばかりは遅れを取らなさそうなカンジである。しかし今死ぬのは困る(by漱石先生)。全てが停滞する。内全怨嗟。
あれこれそれと手広く仕掛けていたものものが今日一日に集中して去来した。関西窯業の近代I。「のぼり窯」と「れんがと女」。宮津市教育委員会さんから賜った資料。ここで手をつけたらげんこーが進まないと思って自重していたけれども、結局我慢ならなくなって「れんがと女」を詠み始めてしまう。そして詠み終えてしまう。いかん。いかんなあこんな本。参考にならないわけがないではないか。感想を書くのもおこがましいカンジで困る。
一昔前だったら「煉瓦造り」をこれほども克明に記録できたのだな。いやまだ間に合わないと決まったわけじゃないが。しかし調べ得たとしてもこの本みたいに有益なものとして後世に残せる気がしねえ。「歴史」という無味乾燥で平板な情報、でさえも覚束ないとおもうぞ。
今更のようにことばが足りないと思う。思うままにすべてを記述できたらさぞ気持ちいいだろうなあ。
野幌では一次乾燥と二次乾燥の間に整形の工程があった。抜いた煉瓦が自重で変形してしまうのでそれを整える目的があったという。成形用の作業台はろくろ式の立って使うものが一般的。そして「手板」というのを使った。生乾きの煉瓦に手形がついてしまわないように使う板である。
手板は煉瓦一枚ほどの大きさの板に下駄歯を取り付けたもの。左手で持って使う。下駄の歯の間に手を挟み込んではめるので各々ちょうど良いサイズのを使った。その板で寝ている煉瓦を巧みに起こして、煉瓦の六面をしっぺいで叩いて整える。この時の動作も『れんがと女』に詳しく書かれてあるのだが、言葉で言い表すのは難しいと書かれてある通りで、いまいちすっきりと飲み込めない。ともかくこの手板の下駄歯は作業するにつれてチビてくるので(歯と作業台がこすれるから)歯の部分だけ取り替えてもらうことになっていたそうである。
野幌でいう「手板」と同じものと思われるものが『煉瓦要説』の図にもある。「整形用当板」と書かれているやつ。その使い方は詳しく書かれていないけれども。図にはしっぺい(「叩き板」)もある。要するに野幌の製法は明治の日本煉瓦製造のやり方を踏襲し保存していたらしい。
関西の製法はそれらとは違う節がある。まず第一に表面に撫で板で撫でた跡が明瞭にある。しっぺいで叩いたらそういう細かな傷は潰れてしまうだろう。関西の古い煉瓦は引っ掻いた表面をまったく触らずにそのまま焼いたかのようなものが多い。そしてその裏側には例の端筋があり、表面の小傷に似た筋もあるが多くは潰れてしまっている。砂の付着が多くざらついている。しっぺいを使った整形工程があったなら端筋なんかはいの一番に修正されると思う。
実際問題、ここに大きな筋が入っていても特段困りはしない。平を見せるような積み方は滅多にないからだ。長手や小口が整っていさえすればよく、平を整えないのは合理的な手抜きといえる。
だけれども、手板を使った作業はあったかも知れない。手成形で寝て置かれた煉瓦を起こす必要はあったし、播煉や弘栄煉瓦ではその作業の際に使う作業台に作り付けていた印母で刻印が打たれるようになっていた。台に落とすことで打刻したという。その作業を素手でやっていたとしたらどうしても小口長手に手形がつきそうな気がする。かといって手板に類する道具を使っていたとは聞かなかったし。うーん。聞き損ないだろうか。
1つしかできなかったのは年末年始に工場表に掛かり過ぎたというだけじゃないんだ……最後の最後に来歴を突き止められて気が緩んでしまったんだ。。。次号はきっと2記事以上を目指す。人のためじゃなく。
ほんと今回の探索は情報収集の詰めが甘かったなあと思うね。あらかじめ調べていればもっともっといろいろなことがわかっただろうに。下山と勝原の明如上人碑とかさー。
今回は旅の報告形式だったので書くのは楽だったのだけれども、いくら書いても尽きないような、全然書けてないようなで困った。書いたらいいというものでもないし。しかし途中で変えることもできず疑義を挟みながら書き続けるという苦行をする。この気分を割り切るためには小編に分けてテーマを明確にしたほうがいいが、それはそれで完璧な満足に至らぬ。要するに何書いても納得しないんだろ>nagajis。
18日までにうんこを採取しなければならないことに今日気づいた。しかも2日分採取せよという。間に合うのだろうか。そんな毎日うんこしてないぞ最近。
すでに書いた気もするけれど、煉瓦のサイズがいくつもある理由について。特に並型の厚さが1寸7分5厘などという中途半端なサイズなのは何故か。
その大きさに作ることが前提としてあったわけではないのかも知れない、と思う。出来た煉瓦の平均的なサイズがそれだったから、結果的にそれが規格になったという可能性もあるのではないかと。例えば第一回内国博覧会の福島県の製造者の出品解説には「8寸4寸2寸の木枠」で作ると書いてある。生煉瓦は焼くと収縮するので、それが結果的に東京型とか並型とかのサイズになるのではないか。この8x4x2というのは大阪の煉瓦製造を報じた新聞記事にも出てくる。ただし出品解説のやつほど明瞭な書き方ではない(だいたいの形がそれ、という感じ)。しかし本当に8×4x2寸の型枠だったとしたらどうだろう? 7寸4分x3寸5分x1寸7分5厘くらいにはなりそげ。東京型は56の2寸。
関東と関西では使う土の質が違っていた。関東では関東ローム層を砂を加えずに使っていたかんじ。関西では素焼きに使うような赤土に砂を混ぜてるのが基本。土が違うと収縮のしかたが違うはずなので同じ大きさの型で作っても違うサイズになりそう。しかし東京型は厚2寸なんだよな。2寸厚木枠で2寸ができるものだろうか。
型枠に強く詰め込むか否かでも収縮率は違いそう。兵庫バンレンは型崩れしない程度に限りなく柔い土を叩き込んで、そのあとあまりバンバンしなかったようだ。何かで叩くっていうこともしなかった。日本煉瓦製造(煉瓦要説)ではかなりしつこく叩いて詰めたって書いてなかったっけか。>のー、記憶違い。そも、しっぺいはくえた角を均す道具よ。
並型と作業局型が違うのはなんでなんだぜ? 鉄道寮で作り始めたのは堺が最初だったはず。その流れでいくと同じものになりそうな気がする。そもそもそっか、作業局型がいつできたかもわかってないんだな。大高が言い出した頃にあったというだけで。
最初のころはキリのいいサイズの型枠からキリの悪いサイズの煉瓦が作られていた。やがて煉瓦サイズのほうが主となって「このサイズで作らないといけない」となり、例えば関西から関東に売り込もうとした時にはそのサイズが要求されて、あるいは鉄道省納入の規定ができて、慣れないことをせにゃならんくなった。そんな感じだったりしないだろうか。山陽型は特殊。はじめにサイズありきで規格ができた節がある。
あるいは、インチの中途半端なサイズ(2・1/4とか)を寸で再現しようとしたのかも知れぬ。建築はどの方面からだっけ?イギリス?ドイツ?その標準的なサイズで西洋館が設計されたので煉瓦もそれに合わせる必要があったとか。だとすると縮小を見込んで大きめの枠で作らなければならない(それはサイズが前提で在ったとすればどれにもあてはまることだけれど)ので大層面倒だったろう。以前メモった各国サイズをもう一度チェックのこと。
銀座煉瓦街の建設に使う煉瓦、大阪にも打診がきて、実際に見本をいくつか送った、てな話がどっかになかったっけ……。その時にも寸法が決まってたはずなんだ。銀座煉瓦街の煉瓦規格は小野田さんの「鉄道と煉瓦」にあったと思うけど。違ったかな。
あと何だったかの煉瓦製造の教科書では約一割収縮するのでそれを見越して大きな型枠を作るとあった。[資]か[近デジ]タグつけて放ったやつ。それは規格が定まってからの話だと思う。あの手の製造法はM後半にならないと出て来ない。最初期には8x4x2寸型枠で作ってそれになるという時代があったんじゃないか。
しかしあれだな、壁体に積む場合は適当でも大丈夫だろうけど、アーチに巻くとか円型橋脚作るとかいう場合にはかなり厳密でないといかんかったと思う。逢坂山とかどうしたんだろうね。
例によってまとまりのない思いつきを並べた。要はそういうサイズの議論が常にサイズありきで考えられてるのは見直す余地があるまいかということ。
以上ちゃんと確認のこと。青森県は大正時代の統計書にも工場記載あり。煉瓦要説は手成形のをがっつり省略しとった。記憶違い。だとしたらどこで読んだんだろうと「煉瓦 製造」で検索しているのが以上。最近物覚えが悪くなってそこまで書かないといけなくなった。
もりもりうんこが出たので採取し放題である。しかし意外と難しかった。うまい具合いに採取棒に付着してくれぬ。ついたらついたで多すぎるし。
採取した検体は冷蔵庫に入れて保存せよという。いくらケースに入っているとはいえ喰うものとうんことを同じ庫内で保管するのはためらわれる。同じ悩みを悩んだ人は結構いるんじゃないだろうか。しかし考えてみれば6時間前までは体内にあって我が身同様に取り扱っていたうんこなのだから、体外に出た途端に汚物扱いするのもちょっと可哀想ではある。
佳境前に手に入れておいたコピーを片付ける。米沢煉瓦はS51から復活するのな。それまでしばらくサブマリンだったのに。丸二北海煉瓦もS40代は耐火煉瓦製造を前面に押し出していてS50代から普通煉瓦になる。以降今日まで続いているのだから偉いものだ。
日本煉瓦製造の潮止工場はS49くらいから消える。上敷免の本社も資本金18,000千円・従業員Gになってしまって寂しい限りだ。これからどのくらい続いたんだろね(って検索すりゃわかるか)。帝国煉瓦も姿を消して独り石黒煉瓦工業が頑張っているのみ。あ、あと岩手の製瓦工場もあったか。
この頃には関西の煉瓦工場は軒並み姿を消している。岸和田と大阪窯業くらい。大阪窯業も赤煉瓦はやめていたはず。印南郡にも残っていない。
うーんこのくどさはちょっと読みにくい。さらさら読み流すことができないタイプ。慣れるまで少しかかるな。あと登場人物が仮名なのはちょっとアレだな、解読するのがたいへんだ。そもそもどこまで史実でどこからフィクションなのかわからんちんなのな。館林工場を買い取って拡大というのは多分事実なんだろうけど、伯父が信越線の煉瓦を焼いている最中とか、碓氷線のアプトの煉瓦も仁志組(≒久保組)だとか、イリヤマに大とか、どこまで信用してよいやら。あ、でも熊太郎は新潟に工場があったっけ。あれが要するに信越線なのだろ。
統計書を掘りくり返したら結構な期間工場が掲載されているのを発見。工場全体は最初期から、煉瓦工場は増子煉瓦工場が明治32年から現れる。んで大正13年版まで掲載が続く。この丁寧さは福島県統計書以上かも知れぬ。お陰でまたまる一晩潰れた。
従業員数は常に5人~10人。基本的に雇用は少なく日雇で半分以上を賄っている工場が多い。また15才以下の子どもの就業も目につく。そういう厳しい経営ながら少なくともM30からT13まで続いていたのは偉いと思った。煉瓦専業ではなく瓦や土管との兼業だったからだろうか。なんしか東日本の工場は瓦・土管兼業が多い。西の方は煉瓦専業らしい工場が多い。でも多分記録に出て来ないだけでどの工場も基本的には瓦や土管との兼業だったんじゃないだろうか。
えー、岩手県もあるの…この調子じゃ山形にもありそうだな。一回調べたはずだけど。
岩手県もM20台から掲載がある。煉瓦工場が出てくるのは日露戦争後。製糸場がめっさ増えるのと、和賀郡あたりに製鉄所ができて耐火煉瓦も作られ始め。上閉伊郡の生産高が初期から多いけれども実際に工場名が出てくるのはかなり後だ(釜石製鉄所での製造)。おそらく最初期から製造はやっていて、それを工場として申請するのが遅かったか、外部にも販売するようになって変わってきたんではないか。
岩手県の統計書は同じフォーマットで長くやってくれているので追いやすい。製造戸数・生産数も通年あるが戸数については煉瓦・瓦・土管がいっしょくたになっているので厳密には分けられない模様(そもそも工場の形態がそうだったんだろう。煉瓦も作るし瓦も作るし。これは盛岡の木村瓦工場→木村窯業(有)が適例。ただそこに純粋な瓦生産者も入っているはずで、それを切り分けることはできない。しなくてもいいのかも知らんが)。
煉瓦製造が統計に載る頃には年間20,000本とかいった数だが日露戦争後は一郡で数十万単位になる。大正前半には40〜30戸で推移している。どの府県にもそれくらいの煉瓦工場はあったんだと思う。
なんとかうんこをひねりだして採取した。しかし連チャンで採取してもいいのだろうか?昨日のうんこの続きでしかないわけだから成分は一緒なのではないか。
今日のうんこはかなり粘度が高い真っ黒なうんこ。これ明らかにコーヒーの滓で出来てるだろというような感触。量が少なかったので昨晩食べた真っ黒焦げのとんかつではないと思う。
そして明日の昼頃まで絶食しなければならないのを忘れるところだった。朝飯はいつも食わないが夜食が食えないのはつらい。食わないで迎える明日はたぶん空腹の底だろうと思う。空腹はいやだなあと思う反面ちょっとはそうして満腹レベルを下げるべきとも思う。
いつも忘れるM25の資料。
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/2000/20-0269.pdf
水仙上谷の刻印はこっち。
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1990/10-0199.pdf
いま抱え込んで悶えているこの書きたい気持ちを分析すると、要するに自慢話なのであって、人の自慢話ほどいやなものはない自分なのだから、書けば自己矛盾を起こすこと請け合い。そのまえに[禁則事項です]なのだから書いてはならぬのであるが。単にコレクションを増やす目的・自慢する目的で始めたのではないのだぞ>nagajis。それでも今のところはよく頑張っている。もうちょっとの間綱渡りがんがれ。
早く工場表を完成させたいのだが「えいやっ」がなくて作成にかかれぬ。Excel整理しながらうすぼんやりと気づいた工場間の関連が、工場表の上にうまく表現できるかどうか心許ない。作り上げた工場表をもう一度他人が利用しやすいように作りなおす必要があるような気がするのも腰を重くする。それももんやもんやである。工場表作成という目標はあるけれどもその目標の全容が把握できておらんな。日本の何処かに落ちているドラゴンボールを探す、みたいなスケールの茫漠感。
早くしないと忘れそうなんだ!
昨日のラジオでそういう話題。イライラしやすいとか疲れやすいとか性欲減退とかいった症状が出る場合があるそうだ。新しいレッテルに飛びつくつもりはないけれども当てはまる気はするなあ。疎外感が蓄積するのはよくないそうである。何をいまさら(笑)と思いはすれど、気が弱くなっていると些細なことにも敏感に反応して余計に気を揉む結果になるのはよくあることだ。もうちょっと突き放して自分を見てみたらどうだ?>nagajis。
そうだそうだ、雑煮を食うつもりだったのだ。
論文とか投稿とかのもっとも根源的な動機って何なのだろう。俺こんなこと発見したんだぜスゲーダロという自慢、ではないように思われる。食うために書いているわけでもあるまい。こんなことを考えてみたんだが正しいだろうか?という問いかけ。こんなん見つけたんだけど何だろね、あっしはこう考えるんでげすがね、という情報提供。科学なら科学の、歴史学なら歴史学の、その学問の一部になることに対する---学問の前進に対する素朴な貢献欲。そんなことを「やましろ」を拝見して強く思う。
自分が生きている世界が実はこんなふうにできていた、とわかるだけでもなんだか心が広がる気がする。認識できる世界が広がるのは素朴にうれしい。初めて買い与えられた自転車で町外れまで行ってみたときのわくわく感と、それよりも外にまだ続いている道を見て果てしなさを思ったときの感慨。もっと進んだら何があるんだろう、ていう。空気が実はO2とCO2とN2とで(大部分が)構成されている、と認識したときの新鮮な気分。この世のものはみんな原子でできてると、そう認識すれば見方が変わり、なんだか偉くなった気分になれる。そういう認識を新たにさせてくれる情報群に小さな石を一個添えられたのがうれしいわけだ。大げさに言えな「歴史に組み込まれること」はうれしいことだ。
人生で初めてバリウムを飲む。コップで渡されたBaSO4の重さの感覚からしてまず新鮮。ゲップが出ないよう必死に堪えて飲み干したがあそこからぐるんぐるん回されるとは思っていなかったからかなり戸惑った。落ちないようにと掴んだ手に力を入れればなおさらウップしそうで実際ずいぶん漏らした気がする(追加で膨満剤飲まされたしな)。
ああやってぐるんぐるん回してバリウムを行き渡らせているんだろうか。X線撮影の方向のためだけだったらX線源と受像機のほうを回せば済むだろう。あるいは最新式のはそうなのかも知れぬ。自分が当たったのはいかにも古い調度の移動撮影車だった。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/973979/264
大正期に工場一覧が復活する道府県が多いらしいことに、今頃気づく。北海道、宮城、滋賀、ざくっと調べた三県ともそうだ。こりゃー全部見直しになるかねえ・・・考えただけでも折れる。
住吉に出かけて帰ってきて、PC立ち上げて数分使っていたらフリーズした挙句「ぴーーーーーーーーー」とか言い出して。再起動したら800×400の4ビットカラーにしかならん。どうやらグラボがだめになった模様。聳え立つ巨大なうんこである。
年始から出費続きでひいひい言っている最中だというのにまた何か買わなんかと思うと気が滅入る。オンボード出力で使えないことはないけれどもあの快適さが失われたのは残念で、たぶん我慢は続かないと思う。ゲームなんかしないからPCIeのグラボでありさえすればいいと思うのだが何を買うべきかの見当もつかぬ。
出先で採取した播煉。機械成形。平に播煉マークと「35 4」の文字がある。数字は恐らく昭和35年4月の意。
似たものを播煉岸工場近くの民家の庭で見たことがある。今日もそれを思い出して「同じもの発見!」と喜んだのだが、よくよく見れば岸民家の煉瓦は「35 〔播煉マーク〕 〔モルタルで不明〕」なのだった。
サイズはおおよそJIS規格に沿っているがとても歪んでいる。長手が軽く弓なりになってしまっている。この歪みは「赤煉瓦産地診断報告書」にあった機械成形煉瓦の不良そのまんま。押出口の摩擦が強すぎるのか、押出の時の歪が焼くことで顕在化するのか、機械成形は中高なゆがみ方をすることが多かったらしい@印南郡の煉瓦工場はどこも。なので見た目のきれいな手成形煉瓦のほうが消費者には好まれていた。
「赤煉瓦産地診断報告書」はS35頃発行。そうしてバンレンはS35.5.28にJIS認定工場になっている( 許可番号7469:by「JIS工場通覧」 )。上記数字が読みどおりであればJIS工場になるべく四苦八苦していた頃の製品であることになる。
今日の品は裏表に打刻してあってそれが打刻のタイミングが知れる興味深いものなのだが眠くて書けない
件のバンレン煉瓦。三本線マークから「4」まで比較的はっきりと打刻されている。とりあえずこっちを「表」と呼ぶことにする。
その裏側は三本線マークが見えていない。「35 4」だけが読める。「裏」と呼ぶ。
この煉瓦は全体が軽く反っていて(極端に言えば長手が「へ」の字型に反っている)、「裏」側に向けて凸になっている。実物はさほど顕著な反りではないけれどもスキャナガラスに載せたりすると覿面にわかる。
この反りは土練押出機で製造した機械成形煉瓦に特有の症状らしい。押出機の絞り金のところで、絞り金に接している粘土と中央付近の粘土とでは粘土に加わる力が異なる。粘土も一種の流体と考えると濡れぶちと中央で流速が違うのは理解される。
んで、それをピアノ線で切断すると、最初は真っ直ぐなおナマができるけれども、それを乾燥させたり焼いたりすると、粘土中に蓄積された応力が開放され?あるいは流速の違いにより生じる粘土の不整斉が顕在化して?反ってしまう(このへんは「赤煉瓦産地診断報告書」参照、したいが資料山に埋もれて見つからぬファッキン)。
図の反りは逆かも知れない。中央が左に強く押されているのが元に戻ろうとするので煉瓦全体は右に反るはず。上の「表」が進行方向。
バンレンではおナマを一次乾燥場に運んで約一週間乾燥させたと聞いた(昭和20年代の話)。またバンレンの刻印は一次乾燥場で煉瓦をひっくり返す時に使う道具に刻印が作り付けられてあって、そこへ落とすことで打刻したとも聞いている。この道具ちうのは作業台のようなものであるようだ。
んで、もしこの打刻が粘土が乾燥する前に行われていたとしたら、上写真のような掠れは生じないはず。いくら粘土が反っていたとしても板の上に落とした時点で反りが戻ってくれるだろう。そもそもそんな柔らかい粘土をボトンボトン落としたりひっくり返したりできまい。
そうではなく、ある程度乾燥させた時点で件の打刻を行なった結果がこの煉瓦になるはずだ。強く打てば凹みはするが煉瓦全体の形は変わらないという程度の乾燥状態(=手で持ち上げたりできる程度の乾燥状態)で落として打刻した故に播煉マークが出たり出なかったりしている。
表は「〔播煉マーク〕」から「4」まで綺麗に打刻し得る。実際「表」の刻印は播煉マークや「4」の頭が妙にはっきりしている。「5」の下の方は掠れ気味だ(「4」も下は掠れ気味か。平全体がくぼみがちだからだろう)。
対して「裏」はこうなり得る。これで煉瓦が変形するくらいの生乾きであったら、伸びて播煉マークまできれいに打てることだろう。
SVGはアップできひんのかい。
ブラウザのきのうでかくだいしゅくしょうして見てねという非道の投げやり。
あ、Andlroidのぶらうざで見ればフォントの大小も反映されるのね。
1日目 北海道1枚半
2日目 北海道を仕上げた余勢で青森県と岩手県に吶喊。実は岩手県の工場数はかなり多い。1枚まるまる消費。
3日目 秋田宮城山形を一気に片付ける。福島は量が多いので躊躇ったが泣きながら処理。1枚にちょうど収まらない分量なので仮に分けておく。詰めたら入りそうな塩梅ではある。
いわき市の耐火煉瓦工場は渋沢データベースの品川白煉瓦社史年表に助けられた。テキスト化・Excel化の時には継承関係の確認をしている余裕がなくてとりあえず律儀に拾っておいたのが奏功した。平第一・第二のどっちが日本窯業工場でどっちが日本耐火煉瓦なのかなんてわかるんだろーかと思っていたけれども結果的にはデータの整理さえ正しくやっていれば自ずとわかるのだということを再確認した。小名浜工場は渋沢dbのおかげで頭がM28とわかる。あ、途中で名前が変わったような書き方のままにしてるかも知らん。直さな。赤井鉱業所(赤井鉱山)は確かM38に創始、工場通覧にはそれは出て来ない(すべて赤井分工場に相当するやつ)。
品川白煉瓦の福島侵出はM28の小名浜工場が最初。その後平の既存工場を買収しまくったり湯本に工場新設したり。このへんは昔TUKAさんが記事にしてくださっている。あと福島県版だけ内国勧業博覧会第一回のデータを使っている。第2回第3回くらいまでは使えるかもしらんなあ。
拓本取ろうと思って水漬けて取り出して紙貼って霧吹いていざという段階になってフェルト布がどっかいっちゃってるのを発見。ばーかばーかばーか>nagajis
表の印型と底の印型を3種ずつ。菱Sは思っていたほど鮮明でなく、型を取るのに苦労した上、煉瓦自体が脆いため型取り君が茶色になってしまった。数回使いまわしたらダメになるんじゃないか知らん。まあどうせそこまで厳密な型取りには使わないだろうし使えもしないが。
どこまでが工場主次男としての久保栄が語る真実なのか、どっからがプロ文学者久保栄のフィクションなのか、見極められたら面白かろうと思いメモしながら読んでいる。まだ冒頭の1/5くらいしか読めていないがまこと興味深い。
煉瓦造りの描写なんかはまったく正しいと思う。北炭に相当する親会社が日露戦争後にアームストロング社と提携して室蘭で製鉄を始めるというのもその通り。ただし機械導入をふっかけた海軍技官も礼太郎=久保兵太郎もM39時点で機械成形煉瓦を知らないそぶりなところ(礼太郎の「東京近辺の煉瓦はどこも手成形」的発言、海軍技官もイギリス視察でそれを見て文明の最先端みたいな認識をしてる)は、それはなかろうもんと思ったりもする。日煉などはM21の創業時から機械成形だし諸井の『煉瓦要説』はM38だし大阪窯業だってM33?には機械成形を始めている。東京じゃ他にも動力使用の工場がいくつかあったはず。
とはいえ確かに、野幌煉瓦は統計書M40版から原動機の記載が始まっている。原動機がある=機械成形をしていると見てよいと思う(土練だけ機械とは考えにくい・たいていそれに圧搾機とか切断機がくっついている)。日露戦争の終結がM38、戦争で負傷した煉瓦抜職人・大平が帰国後1年ほど田舎で過ごしたあと野幌に戻り、その翌年の正月会で機械導入が告げられる、となるとまさにM40導入ということになる。
骨格は史実だとするといろいろ興味深いことが引っ張り出せそうである。例えば登場人物の一人である古参の頭目は「碓井線の煉瓦を焼いていた頃から養助の下で働いている」云々とある。養助=久保栄太郎=兵太郎の父で、その頃から久保組が鉄道用煉瓦を焼いていたことになる(野幌工場が出来た当初は「久保組」とは言わなかった。礼太郎が来てから工場主の座を譲った時に改めたとある)。また養助と共に北海道に渡った恵太郎(礼太郎の弟)は「信越の鉄道の煉瓦を焼きかけで来た」。辺鄙な所の工事では現場近くに臨時に工場を作った例は多いが(このへんは小野田氏『鉄道と煉瓦』表参照)、それを久保組の前身がやってたとなると、その頃の煉瓦には共通の特徴があり得ることになる。逆に野幌の煉瓦製造に鉄道院流が加わっていると言えたりするのかも知れぬ。久保組となる前の久保栄太郎の事績を調べてみたいものだ(このへんは『鉄道建設請負業史』上巻だろうか?)。
福島編の最後に突っ込んだ旭煉瓦工場の件『会津史談』No.なんとかの記事にも当地で魚住組傘下久保組が煉瓦を焼いたという話が出てくる。熊本でもM34だったかに久保組が工場を興して10年位操業してたはず。それが鹿児島線とか肥薩線とかに行っているようだ。
次はどこから手をつけよう、流れからいえば栃木から関東へと思ったものの、東京府の膨大な量と和気若造な継承関係を思って逃げ出した。鶴岡から鼠ヶ関を抜けて新潟に進入する。
新潟・富山はさっくりと終わったが石川県の珪藻土煉瓦地獄にはまる。昭和3年にイソライト工業が誕生してから10数年間のパンデミックがすさまじい。珪藻土煉瓦のカンブリア紀である。そうして長続きした会社はわずか。興っては消え興っては消えする工場群に無常を感じたりした。
能登の珪藻土は断熱煉瓦よりも電熱コンロの受け皿とか七輪とかでお馴染み。自分の幼少期にも電熱コンロであれこれした記憶がある。そうしてこれを書きながら「七輪の語源は七尾・輪島」という嘘を考えついたりした。輪島には珪藻土煉瓦の工場など無い。
なんとか石川を脱したあと長野・山梨・静岡の並びに手をつける。長野はすんなりだが山梨で少し手間取った。M30代に「山梨煉瓦(株)」と「山梨煉瓦製造(株)」が併存しているうえに各々複数工場があったらしいカンジで慌てて統計書を読み直し拾い直したりなどしている。そのお陰で初期の工場の継承関係がずいぶん明らかになった。甲運煉瓦土管(株)→山梨煉瓦製造(株)→甲州煉瓦(株)なんだ。そうしていずれの工場も鉄道線路の近くにある。中央本線の建設に関係しているのがありありとわかる(が年代あってるんだろーか)。
静岡の位置づけはいつも迷う。文化圏としては西でも東でもないような気がするし、他県と平地続きで繋がっているわけでもないし。「工場通覧」でも岐阜の次に入っていたりするから「中部」とくくるのがよいのかも知れぬ。しかしそうすると長野山梨は何になるんだ甲信地方か。とかいろいろ悩まなきゃいけないので大変だ。
そんな静岡県で東海煉瓦と浜松窯業の関係を解きほぐすのに相当な苦労をした。一見すんなり繋がっているように見えて実は齟齬がある。東海煉瓦の本社浜松市・工場東鴨江→本社が東鴨江に移転だと気づかなければぐっちゃぐちゃのまんまだったろう。んでT7のデータさえ整合性が取れれば東海煉瓦→浜松窯業となる。えいやっでそうしてしまってもいい気はする。
あとは東京を除けばすんなり行くはずの県ばかり。とにかく東京が大変。考えただけでAssの穴がむずむずする。
長野の怪しさに気づいて統計書を拾い直したりなどしたあと関東平野に降りていった。栃木はシモレン一強なんだけど「T7.3.創業」としているデータがやけに多いのは何でなんだぜ。確かにM42以降T8くらいまでは拾えていないけれどもその間に休業期間があったのだろうか。これを確認しようと思ったら日本諸会社役員録くらいしかないのではないか。あれは最高に死ねる資料だからできれば触りたくない。でもシモレンくらいの大会社なら載っていそうな気もする。
群馬まで入れた辺りで長野山梨と一緒にしてしまう案を思いつくが(碓氷線建設で東西に煉瓦工場が出来たところとかわからんかな)これまた微妙に収まらぬ。1/3以上空いたすかすかな感じのページ2枚になってしまうんやろか。うまくないなあ。
半分ほど作った埼玉の欠損区間が気になって統計書に当たり直した結果としてM20年前後のデータを得た。日本煉瓦製造ができる以前は北足立郡(川口市)に比較的大きな工場があって年百万本も焼いている。おうおうエライと思ってテキスト化して保存しようとしたら同じファイル名があると宣うダイアログが。よく見たらかなり初めの頃に埼玉県統計書はテキスト化していて単にExcelに入れ忘れていただけだったのだ。ばーかばーかばーか。ばーか。でもそのデータではM38年以降が拾えていなかったようなので全くの無駄足ではなかった。
この頃の統計書は複数部構成で作成されたものが多く、近デジ上ではその1・2部がひとまとめのデータになっていたりするようなことがままある。勧業はたいてい3部とか4部とかなので、最初のほうの目次=第1部目次だけ見て「無い」判断を下し、飛ばしてしまいがちだ。そうやって見損なった工場データが結構あるはず>西日本。
その反省を踏まえて茨城千葉は統計書を拾い直してからグラフを描くことにした。茨城は早い段階に数字羅列になってしまうが各郡の煉瓦生産戸数と個数は通年載っている。つねに10件近くの生産戸数がありながら工場データにはあがってきていない即ち零細工場ばかりだったことがよくわかる。しかもそのデータも年度++するたびにそっくり入れ替わっているんじゃないかと思うほど戸数が変動する。そのくせ合計で数百万本の生産量があるのだから侮れない。こういうのを見るにつけ主要工場ばかり拾い上げて作った工場表に何の意味やエランヴィタールと思ってしまうのだった。
↑の状況は、普段瓦を焼いている工場が、何か突発的な需要が発生して急に煉瓦を弥市来居と依頼され「それじゃあやってみっか」で焼いたり焼かなかったりした結果なのだろうと思う。煉瓦製造を生業としてその製造販売だけで糊口を凌いだような工場はほとんどなかったというわけだ。そういう地域では煉瓦分布や煉瓦刻印の有無はどうなるのだろう。競合会社がないわけだから社章刻印はないような気もするし、全く逆に屋号刻印が無数に出てきそうでもある。
大阪の煉瓦工場が刻印を多用したのは、同じ時期に軒を並べるような近隣地域に煉瓦製造専業の工場が集中して存在していたことが関係してるんじゃないかと思っている。会社社章を押した心持ちの幾分かは、自分の所の製品を他社製品と区別する意味合いであったはずで、もし近隣に競合会社が存在しなければそんな区別をする必要がないだろう。煉瓦工場が1つしかない地域で煉瓦が売られていれば「あああそこの工場のか」と思うはず。あるいは納入先の現場で区別する必要と考えても良い。大阪窯業・岸和田煉瓦・貝塚煉瓦と複数会社の煉瓦がひとつの橋台に使われているような状況は、考えてみれば実は全国的にもレアなケースなのかも知れぬ。
あるいは作業担当者の識別のため。製造個数をあとから数えることができるというのもあるし、むしろ自分が抜いた煉瓦がどのような仕上がりになったかを確認する手立てとして判を押していたんじゃないかと思ってみたりもする。抜いた直後の姿はわかっても、それが実際にどんな煉瓦に焼きあがるかは焼いてみないとわからないわけで、そうして一度抜き手の手を離れたが最後、その行方を追いかけるのは困難だ。そこに目印の判でも押しとかない限り。それ以外に「抜き」の作業にフィードバックをかけて精度をあげていく方法がない気がする。
久保組のように鉄道工事の現場を渡り歩くような煉瓦製造を行なっていた所と、腰を据えて煉瓦製造販売を生業としていた所では、労働者の働き方も違うようだ。「のぼり窯」に描かれた頃の久保組では頭目がいてその下にミニ組とでもいうべきグループが形成されて、頭目が部下の面倒を見、また頭目ごとにその年の生産量を割り当てられた。土木請負の組とまんま同じ(のはず)。一方、播煉では土採りから乾燥まで一連の仕事を家族単位で請負っていた。その家族がどれだけ作ったかで支払われる賃金が変わる。「れんがと女」に書かれる坪松煉瓦は乾燥なら乾燥、運搬なら運搬で固定の仕事を割り振られ、個々の作業量に応じて支払われたみたい。そういう形態のなかで「煉瓦に製造者の印をつける」ことがどういう意味を持ったのかは、会社によって勤務形態が違い得ることも考慮して考えなければなるまい。先述の「仕上がりを確認するため」もそう。
千葉県はやっぱり掴みどころがない。まんべんなく離散的に工場が興って消えていくばかり。やがて生糸や醤油生産が柱になっていって煉瓦製造業の分類場所にも困っているような有様だ。基本的には東京湾沿岸の千葉市までの地域とチーバくんの後頭部うなじ辺に現れる程度。東京に近いところでは限りなく早くから煉瓦工場が興っているがやはり長続きはしなかったようだ。基本的には千葉とよく似た傾向と思う。
最後に神奈川をかたして終わり。唯一刻印を知っている横浜煉瓦、データに拾えなかったなあとか思っていたらちゃんと入っていた。最初の頃の自分の仕業を忘れてしまうほどに遠い道のりを歩んできている。横須賀造船所煉瓦とM10の工場と何か関係あるのかな。
最後に残った東京は単純計算で神奈川県の5倍。下手したら4枚行くんじゃないか。さっさと片付けて楽になりたいと思う一方、これを終わらせたらその先がないと思うと切なくなる。いやまだ凡例整備とか社章入れとか文字収まりの調整とか、やらにゃいかんことは山のようにあるんだよと考えると「よだきい」が頭をもたげてくる。いっそのこと今月はここで終わりにしようか。先は長いのだし誰も待っちゃあいないのだし。ゴミの山から拾い集めたゴミデータで作ったデータの集合体でしかないわけで、ペットボトルで作った夏休みの工作のようなものなんだから、製作者が満足したらそれでポイでいいんではないか。体面を取り繕う提出物としての役目さえ終えたらあと自分で手を加えていくことはほとんどなかろう。
統計の不備問題で揺れる平成31年の冬に、百年前の出っ鱈目な統計データを平然と取り扱って苦心惨憺しているのは、きっと何かの巡り合わせに違いない(否)。
恐る恐る東京に侵攻してみたが初手が南葛飾区だったせいもあってか気持ちいいという心持ちのほうが強い。明治初期のデータをかなり精度よく拾えていたお陰で繋がる繋がる。Excel生理中には気づかなかった食い違いをグラフ上で解きほぐしたり繋げ直したりしているうちにうんこれだという糸筋が見えてきてピシッとはまってくれる。足立区エリアで1枚使い、荒川区に入って小菅まで入れたところで約1枚でタイムアップ。これで90/220だからやんなっちゃうわ(多分残りは短いのと会社本社ばかり。この調子じゃ5枚行きそうだ)。
内国勧業博覧会の出品目録の創業年を信じれば銀座煉瓦街の煉瓦をもたらした可能性のある工場はいくらでも出てくる。田中工場とか齊藤工場とか。功績をひとり盛煉社に帰すわけにはいかん。つーても直接的具体的な記述は諸井の『煉瓦要説』にある話とS18の日本工業社会史だったっけくらいで、そこで 盛煉社の名前が出てくるくらい。ウォートルス研究が盛んにされているようだからその過程でわかった新事実もあるだろうと思う。それに内国勧業博覧会にある創業年は安政年間のとかもあるから瓦屋業としての創業年ではありえる。しかし他に信用すべき資料がないのだ明治一桁台は。
日本帝国興業要鑑?の人名+地名はたぶん工場所在地ではなく工業者の本籍地。この番地が統計書の工場番地とぴったり合致するものはほとんどない。 だいいちそうだろ、 この本は本来工業会社の一覧だ。工場の一覧じゃない。帝国商工通覧とか日本諸会社役員録とか日本工業羊羹と同じ。それに気づければ金町製瓦の会社欄住所と工場所在地の番地が2番違うのも納得される。工場敷地の外に本社屋があったちうだけの話。
工場所在地にこだわるのは、その番地の周辺に工場の製品が散在している可能性が高いからだ。本社の周りにはたぶんそんなに存在しない。品川白煉瓦の製品が麹町丸ビルのまわりにたくさんあるとは思えぬ。むしろ福島県磐城郡とか岡山県三石とかのほうがあるはず。
明治末年に利根川と支川が改修された時荒川沿いの煉瓦工場が絶滅した。金町も城北も大正時代を見ずに消える。齋藤煉瓦とか千葉煉瓦とかは生き残ったようだが大半は荒川アンダーザブリッジになって跡形も煉瓦の欠片もなくなっているはずだ。あとは鹿浜とか小台とか宮城とかの市街地にぽそと転石している可能性に期待するしかない。誰か探しちゃくれんだろうか。