nagajisの日不定記。
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少女のように花をつむ
おだやかに晴れた日の午さがり
いつか 遠い昔 そうしたように
れんげに たんぽぽ
甘い香が ただよう
私はしあわせ
みほとけに たてまつる花
心をこめて 少女のように花をつもう
(1967.5.4. M.U.)
誰に見せるでもない、自分のために書かれた日記に書かれてあった詩。本人と、通して読んだ人にだけわかるこの気分、飾り気のないささやかな幸せの謳歌がとても心にしみた。
末っ子はこのお母さんの気質を十二分に受け継いだようで、たいへんすてきな日記を書いている。詩も詩的表現もふんだんで、しかも素直な日記。自分が小6の時にこんな素直な文章を書けただろうかと思う。大人受けするために妙にひねくった、ひねこびた作文しか書けなかったと思う。うまあ書く必要なんてなかったんだということを振り返ってみて強く理解した。もしいま読書感想文とかに悩んでいる子どもがいたらどう伝えよう。「思ったことをそのまま書けばいいんだよ」といったところで、自分のようなヒネ子どもは、その言葉に頷きつつ、でもやっぱりきれいな文章とか感心させる文章とか書かなきゃ(しめいかん)と思うに違いない。同級生の書いたぎこちないくだけた文章をみて、こんなんじゃだめだと思うに違いない。
大人は子どもの文章に何を期待するかって、自分が子どものころに思ったり感じたりしたことを思い出せるような、あるいは凝り固まった大人の頭ではとうてい思いつかないような柔軟な発想を期待している。うまい文章なんてこれっぽちも望んでいない。話の理論的な階段を二、三段すっ飛ばしてしまっていてもいいのだ、そのすっ飛ばした空隙に思いを致した時にあわよくば子供のころの感触を取り戻せるのだ。描写が正確でなくったっていい。ああ!そんな発想があったか!と思わせるようなのに大人は惹かれる。
んでそういう気分を、なんと40年近くも引きずり続けている私なのだ。救いようがないというか、ここまでくればかえってすごいと思ったりしないでもない。
今回の旅で本格的にSenstoneを使ってみることにしたのだが---現地で気づいたささいなこと、メモを取るまでもないあるいはその暇がないときのボイスメモのつもりで---、これがまったくだめだめさんであった。
・録音日時が記録されない
記録されるのはスマホに取り込んだときの時間なので、音を撮りためて帰ってからスマホに取り込むというようなことをすると、全部の時間が帰宅時の時間になってしまう。どこで録音したのかわからなくなり現場メモの意味がなくなる。常にスマホONにしてリンクさせておくような使い方でないと自分の目的には使えない。而して今回はずっと電源を落としていた。だってバッテリー勿体無いもの。
・nagajisの滑舌が悪すぎる&パロールが意味をなしていない。
音声認識でテキストに変換してくれるのがウリのひとつなのだが。
岡山攻撃がめでたい電車の良い。
公文でもよ。
俺の使って案外すごい。
若干日当たりやつを使っているから。
ちょっとすぐ持ってきました。
公文でもよ。
うつ病は何でぴょん何ですか?
ホテル音しか聞こえません。
持ってたり葉っぱがあります。道よりも広いんじゃないかしら?
うつ病は何でぴょん何ですか?
着きました。今が付いても遅いんだ。A。
おもちゃがうまかった。
向かいに包まれつつあります。
何を言っているのかさっぱりわからない。結局は録音を聞き直して思い出さないといけない。そのくせ
ルマンドがある幸せ。4本もある。
はりはり漬けがうまかった。
とかいった、まことどうでもいい録音だけは妙にクリアに変換されている。どうしたことなのか。
充電切れたと思ったら使えたり、また使えなくなったりするのもいただけない。充電しようとしてもうまくされたりされなかったりする。本当はもっと長時間使えるはずなのだが。
文章のような発話をしなければ後で意味がわからなくなる。これも早く気づいておくべきだった。nagajisの最も苦手とするところではないか。