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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2024-01-22 [長年日記] この日を編集

[ORJ] 全文検索

萎え萎え恵南が穴見並みになったので

http://www.the-orj.org/cgi-bin/hyperestraier/estseek.cgi

を更新した。サーバ増強された際にpdftotextが使えなくなったのでローカル環境でなんとかしなければならなくなり-windows入れたりXampp入れたりnn.plをphpに書き直したりクソみたいなことをしてなんとか。逐次修正を繰り返していたらmkdirで2ディレクトリ掘れない罠に引っかかり,TRUEつけてやり直したり縦書き括弧句読点を置き換えたりなんかかんか。そしてestcmdでgatherしていると途中で必ずkillされてデータベースが物故割れる。クソが。

昨年末からの風邪がなんか長引いている感じ。鼻の奥がおかしいというか唾液の粘性が高くなりすぎて喉に詰まるとか。長くないと思う。

[独言]さようなら/.j

ネットの変化についていけない。必ず見なければならないわけじゃないが便利な情報が得られることがあるという情報源がなくなるのはつらいな。これから何をあてにすればよいのやら。


2024-01-26 [長年日記] この日を編集

[] メモ

長野県七道改修

M15.3.通常県会で大野誠知事が県下主要路線6線の改修を諮問。反対があったが何度か提案を繰り返して同年12月の臨時県会で+1道され「七道開削事業」として承認を得る。明治16年着工、26年4月の第6路線竣工をもって完工。(山浦直人、小西純一『明治時代における長野県の道路行政について』(土木史研究講演集Vol.26、2006))

三河七道改修

長野県七道改修により第4路線(飯田町~根羽村)、第6路線(楢川村~日義村、読書村~山口村など愛知県に通じる道が整備される→愛知県下の道路改修がなければ実効的にならないとして改修を要請→明治21年に木曽川改修の議起こり、これによって恩恵を受ける尾張郡部との均衡のため三河地方の道路改修が計画される。勝間田稔知事の時代。対象路線は

飯田街道

伊奈街道

別所街道

足助街道

田原街道

西尾街道

平坂街道

昭和『愛知県史』第4巻ではM22から7カ年継続事業、M25着工、M31竣工。大正『愛知縣史』上巻はM23~31の7カ年継続事業で予定通り終わらなかったが順次竣工とある。総延長17459間余、総工費県費支弁286,625円、町村費支弁62,688円、合計349,313円余。

M22海嘯

明治廿二年巳丑九月十一日午前三時曇天北東疾風を起し雨雲乱飛同六時廿五分より細雨を降し風力漸く加り同九時全く暴風雨となり午後三時風位南東に転じ一層強暴を極む同六時三十分に至り突然海嘯至り劇浪平常満潮より高きこと凡七尺三寸同九時風位再び南西に転じ風雨共に減衰し同十時五十分全く静穏に帰す此海嘯の為めに害せらるるもの尾三両国其数を知らず本郡沿海総て被害あらざるなしと雖も其最も甚だしき地を半田、乙川、亀崎、大高、名和、荒尾、横須賀、常滑、山海、豊浜、大井、武豊、成岩等の諸町村とす(以下実数)(『尾張国知多郡誌』3巻3、1893)

知多七街道改修

地勢は大抵丘陵にして半島の脊髄は総て高地を以て連亘し南方師崎に接する方面は益々険阻なり、然れども東西の幅員甚だ狭くして広きも漸く三里内外に過ぎず海運極めて便利なるより古来農商工の諸業共に発達し航海漁撈の二業亦特に他に超越せしものあるは旧記の徴すべきものあり、殊に維新後公私の力を協せ知多七道改修の挙あり(三万二千余円を費せり)東西南北の交通に少なからざる利便を与えたるのみならず、(略)(愛知県農会『愛知県独案内』、1900)

p.261に東浦線(師崎街道)、西浦線(里道師崎常滑往還)、中通線あり

尾張名所図会

宮戸松斎 (宗太郎) 編 金華堂[ほか], 明23.12

尾張国知多郡誌

街道解説 https://dl.ndl.go.jp/pid/9571885/1/47 M26.7.10.発行

師崎街道

○師崎街道 本線路は、国道弐号線知立町より分れて知多郡師崎港に至るものにして、武豊町は其の線路に当り、衣ケ浦海面に瀕し、物貨運輸、頗る利便の地なり、政府茲に見るありて鉄道布設の起点とせらるるや、忽ちにして貨物の輻輳人民蝟集し、漸次繁盛に赴くの状況を呈せり、加之該町は将来市街開発の見込あるを以て、時の知事勝間田稔、之れが改築を計画せしめ、直営を以て、同町内に長程1420間4尺、幅7間道路を改修せしめ、明治19年12月着工、同20年1月竣工せり。(大正『愛知県史』上巻

有松村より共和村、大符村、森岡村、緒川村、石浜村、生路村、藤江村、有脇村、亀崎町、乙川村、半田町、成岩村、武豊村、富貴村、布土村、河和村、豊丘村、大井村を経て師崎村に達す里程拾三里弐拾七町三拾九間弐尺幅壱間乃至七間あり(『尾張国知多郡誌』里程省略)

愛知県公文書館 M19前後に沿道から改修願多数

師崎常滑往還

(俗西浦街道と称す県道に通じて常滑村字丸山より起る)

常滑村より樽水村、西阿野村、古場村、苅屋村、大谷村、小鈴谷村、坂井村、上野間村、奥田村、野間村、内海村、山海村、豊浜村を経て師崎村に至る里程九里弐拾七町拾五間弐尺幅五尺乃至二間あり○車馬を通せざるにあらずと雖も大谷以南漸く坂路あり野間村以南海岸砂中を経るものと山道とあり砂道は全く道路の形をなさざる所多く且満潮に至れば通する能わざる所あり山道坂曲間辛うして空車を通する地あり小野浦内海の間豊浜師崎の間の如きを是れとす蓋し郡中の難路なり過ぐる所の橋梁其大なるもの二、大橋(山海村久村川)千歳橋(内海村内海川)と云う○奥田より内海に達する別路あり里程一里三拾町僅に車馬を通す之を野間村を経るに比すれば近きこと半里程余故に奥田内海間は人皆之に拠る

(他に半田名和往還:中街道、大符東阿野往還、大野半田街道、成岩常滑往還、河和内海往還、大高大符往還)

豊浜~師崎間

因に師崎より豊浜町に至る道路峻坂にして、到底車馬の交通不可能なりしが漸く昭和八年度土木救済事業として之が改修に着手し工費金額十余万を投じ、昭和九年春三月竣工の予定なり、此の道路完成せば始めて知多郡一週も出来南知多開発に一段の光彩を放つ事とならん。(西村伝之助『南知多師崎誌』昭和9)


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