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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2018-01-01 [長年日記] この日を編集

[独言] 迎春

画像の説明

迎えに行かないと春なんて来ないよ。うん。

[独言] 今年のモホロビチッチ

NHKラジオニュースの「ふわふわだった子犬もいた。今年もいい年にしたい」という不連続性に反応する。毎年の恒例行事である。

[独言][煉瓦工場] 表作成にとりかかる

北九州と行橋市だけで1枚使ってしまう。先が思いやられる。あと、この一帯では町村の一部の字だけが離脱して他市町村に合併されていたり、例えば小倉北区と小倉南区に分かれてしまってたりすることが多く、いまの行政区を調べるのが大変だ。工場通覧や統計書のデータでは字名まで知ることができない。困ったことである。

[独言] 旧橋片付ける

さほど長くはないのだからと片付けてしまう。メイン記事はどうするのだ。


2018-01-05 [長年日記] この日を編集

[近代デジタルライブラリー] メモ

日本碍子社章 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1030869/46

三潴郡史 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018306/292

[煉瓦工場] 九州編出来

画像の説明

データを寄せ集めて並べ替えてグラフを書くだけの簡単なお仕事です。

http://www.kyudou.org/documents/up.php?t=kyushubricktable.pdf&m=d

最後にチェックした宮崎県統計書でなかなか面白いことを発見。熊本で盛んに煉瓦を製造していた自助株式会社の第4工場が現宮崎県えびの市にあった。えびのといえば肥薩線と吉都線の分岐点。吉松ー鹿児島はM36開通で自助株式会社第4工場はM33-34頃に稼働が確認できる。ちょっと早いかも知らんが多分建設用だろうと思う。その後M40年代初頭にも2つの工場が興って年100万個超を焼いた(ひとつは自助株式会社工場の継承の可能性大)。終いには二社が合併して年間300万個以上を焼いている。これが多分人吉線方面に使われたんだろう(M41開通)。それが終わるとパタッと止んで消滅してしまう。

といっても漁ったデータは統計書と工場通覧だけで、小さな工場を全て拾えたわけではないのはいつもの通り。大正初期頃には工場が消えてしまうが煉瓦生産量はゼロではないin宮崎県。

熊本県に関してはJSCEの土木史研究会報文で取り上げられていたのがあったのでこれで補完している。県下最初の工場はM20宇土の自助株式会社とある。統計書にはその年度の掲載がないが、創業はM14になっているので、多少製造していただけのかも知れぬ。ただ報文記述の出典がないのではっきりせん。と思ったらちゃんと書いとるやんけ適当抜かすなnagajis>http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017367/336.これはかなり精細だな、継承関係もはっきりわかる。あとで柿な麻生。もとい書きなおそう。そして書き直した。通覧・統計書に出てこない小工場を2つほど拾えた。他工場の継承はばっちり。

佐賀県の三養基郡三川村寄人の工場群はうまいこと整理できんかった。同じ工場名・工場主でも年ごとに番地が変わったりするので困る(野焼きであちこちで作ってたとか??)。最終的に大川窯業のみが生き残っているが、それ以前は妙に末永姓の経営する工場が多く、彼家が中心になっていたものと思われる。ここら辺と福岡の三潴郡(現久留米市)荒木窯業とか瀬高町文広あたりの煉瓦が熊本に流入して熊本の生産を圧迫したのだな。

天草地方は長崎側でも早くから煉瓦製造が行なわれていて、小工場が多数あったことがチラ見できる(本当はそれ以前、明治になる前から作られていたはずだが)。九州ではこのあたり(有明湾沿岸の一帯)に煉瓦工場地帯があって、それとはまた別に、北九州市エリアでの耐火煉瓦製造が目につく。北九州市域では普通煉瓦や硬化煉瓦の製造もあってまさしく工業地帯という風体。全体的に見ればまあ大体まんべんなく、なのかな。年度によって偏りはあるけれども。

九州には硬化煉瓦をはじめとする亜種煉瓦の製造が多い。化石煉瓦とか鋼鉄煉瓦とか常盤れんがとかわかりそうでよくわからん煉瓦がぽこぽこぽこ出てくる。困ったな。白色煉瓦というのもあったけれどもこれは素地煉瓦ではなくて硬化煉瓦のことだろうと思う。もしくは切り出した珪藻土を焼いた軽量断熱煉瓦か。鋼鉄煉瓦は名古屋にも鉄煉瓦工場があったっけ。そしてなにより鉱滓煉瓦。こういうのを赤煉瓦と区別したほうがいいのかも知れぬと思い、この編からマゼンタ色による色分けを採用することにした。他編もじきにバックワードに修正していく予定。


2018-01-09 [長年日記] この日を編集

[独言][近代デジタルライブラリー] 日本鉄道史

日本鉄道史上巻米原敦賀間鉄道の項目を読んでフムフムコレハと思っている最中にメンテナンスモードに突入されてしまった。この生半可な納得のやり場を如何にせましや。

金ケ崎丸が建造され海上輸送で敦賀に建設資材が送られるようになったのはM15.3のことで、その前から敦賀〜疋田間の暫定運行が行なわれていた(確かM15.2)。ということはその時にはすでに路盤と線路ができていた、即ち鉄輪の眼鏡橋や疋田の暗渠が出来ていたことになる。だとすると別の手段でどこかからか煉瓦を持ってくる必要があったことになるわけで。レールは間違いなく他所から持ってくるしかなかったはずだが煉瓦は現地でも焼くことができたし事実焼いたという場所もあるのだから敢えて堺くんだりから運んでくるまでもなくそれを使ったほうが早かったはずだろう。柳ケ瀬隧道だって軟弱地盤だったため巻き立てながら掘らなあかんという時期が続いていたし刀根も小刀根も曽々木もM14に完成している。それも金ケ崎丸就航前の話である。

塩津経由が柳ケ瀬経由に変えられた理由。当初塩津が湖北最大の荷駄集散地であって、なおかつ敦賀に出やすいから(距離が短くて済むから)大津〜塩津航路+鉄道という組み合わせが考えられた。けど「あとでよう考えたら」柳ケ瀬回りのほうがいいと言い出す井上勝(M13?)。後々陸路で東海道線につなげなければならんことを考えると塩津は不適格。賤ヶ岳をクリアしないといかんくなるから。んで改めて調べてみると刀根越下を抜けばほとんど同じマイル数で疋田に出られることがわかった。先に提案してなくてごめんねテヘペロ。さらには塩津方面は寒村ばかりで殖産の途がなく鉄道敷設しても効果が薄い、住居の廊下のようなものになってしまうとまでいっておる。ひどい話である。それは柳ケ瀬方面もどっこいどっこいじゃないか。。んで稟議書には小刀根刀根曽々木のことは書いてないんじゃね。というところを読んでいるうちにメンテされた。

刀根回りのルートは井上も実地検分済み。もう一度行幸のメンバー確認のこと。


2018-01-11 [長年日記] この日を編集

[企画] 魚梁瀬森林鉄道・日本遺産探検隊募集中

http://tabihatsu.jp/program/98173.html

募集人員にはまだまだまだ空きがあるそうです。1/27前後に体が開いている方、ぜひご参加下さい。宿泊代が出ます。nagajisに石を投げることができます。

[独言] 鏡割りをする

部屋に鏡餅を置くことを始めてもう何年も経っているはずなのだけれども、記憶が正しければ初めて鏡割りの日に鏡割りを実行した。これは快哉というべきことではないだろうか。

今日びの安い鏡餅は鏡餅の型に流し込んで固めたいわゆる射出成形型の鏡餅で我が家も例に漏れずそのような射出成形鏡餅だったのだが裏面の説明書きによれば成形型ごと包丁で切って細かくして食えという。鏡割りは包丁を使わずに割るものだと教え込まれた旧世代の人間には一寸躊躇われる注意書きである。自分もしばし悩んだ末に旧陋を守ることにした。ガワだけ外して丸ごと煮たらええやんと閃いたからだ。しかしガワがご丁寧に鏡餅の段々くびれまで再現していたものだから簡単には外れず結局ガワを包丁で切ることになった。端の方を切って無理やりひっぺがして中身を取り出した。それを丸ごと鍋に放り込んで煮て食った。予想通りのドロドロになったがまあ食したことには間違いなく鏡餅の体面も保たれたというものだろう。割っていないことについては敢えて触れない。

[独言] バッティングセンターへ行く

何とも脈絡のない流れである。足が駄目なら上半身を動かせばいいという発想からバッティングセンターの存在を思い出しかれこれ二度ほど通っている。うちからだと江坂のバッティングセンターが最も近い。

中学生の頃田舎にもバッティングセンターがあったけれども、小遣い制度が導入されていなかった我が家の私にとっては贅沢以外の何物でもなかったしそもそも打撃がからっきし駄目であったものだから足繁く通ったというようなことはない。むしろ指を咥えて眺め憧れるような存在だった。そうして野球をやらなくなり数十年が経過した今ふと思い出せば無理なく好きなだけ楽しむことができる場所として最適な存在であることに気づいたわけだ。

初日いきなり120km/hの打席に立ってびびり上がったあと90km/hに立ってしまい全くタイミングが合わない腰砕けを演じたりしたが、思っていた以上には当てることができたので嬉しかった。齢43になって今更打撃開眼か、と思ったりもした。無論「開眼」いうほど快音連発なわけでもないのだが。あくまでも事前予想よりは当たったというだけだ。

父親からは野球の手ほどきをほどんどしてもらわなかったように記憶するのだが(だってそんなにまじめにやっていなかったのだもの)、唯一教わったことがバッティングの際の構えであった。バットを立てて構えろと言われたのだ。理由もよくわからずとりあえずそれに従っていたけれども試合に出ることもなかった自分にはそれを活用する機会がなかった。いや、一回だけあったな、代打で出てまぐれ当たりをかましたっけ。

途中でそれを思い出し、こんなんだったっけとやってみると、これが案外よく当たった。原理はさっぱりわからないがこれが自分に合った振り方なのだろうと思い今更ながら父親の慧眼に感服したりしている。時既に遅過ぎではあるが。

前に飛びはするけれどもなかなか芯を食わないのが気に食わなくて初日だけで8ゲームも振ってしまった。今日は残りの4ゲームを消化。やはり会心の当たりはわずか。この調子だとマイバットを購ったり夜な夜な公園で素振りをしたりしそうである。そこまでしたところで成果を還元する場面も披瀝する相手もいない。

[独言][] 原稿をかく

遊んでばかりいるわけではない。原稿も書いている。久しぶりにTUKAさん方式に挑戦していて、短文だとかえって大変なのだなと思い知っている昨今である。だらだら書けば何だって/どうだって説明できるのだ。数行の文章に必要最小限を詰め込んで、なおかつさらりと読めるようなものに拡げるのがどんなに難しいことか(詰め込んで、なんて考えるからいけないのかも知れないな)。

ドロップシャドウをできるだけ使わないようにしたせいか、サイズ的には許容範囲内に収まりそうな塩梅。しかしこれでポップアップをつけたら急激に肥大化したりするから油断できない。

[独言] はれのひ

約束を違う行為詐欺行為はもちろん許せるものではないけれども、成人の日一日のためにあれだけの大枚をはたける人があれだけもいるのだなあと思い、振り返って我が身はどうだと思うことしきり。「一生に一度のことだから」とはいうけれどもそんなに晴れがましい誇りに思える行事だったっけと思ったりもする。自分ん時はTシャツで出席して1/3くらい居眠りしとったなあ。

一生に一度かあ。探索だって今日のバッティングセンターの第n打席だって全く同じ場面は二度と経験することができないのだからそれも一生に一度の出来事と言えば言えるのではないか。こちとら瞬間瞬間を必死に生きているのだ。うん。そういうことにしよう。

[独言][コアダンプ] そのへんがもんだい

事象に対して素直に同意したり共感したりすることができないのは致命的な欠点だろう。それがメジャリティであればあるほどはすから見たがる裏から突付きたがる。as isとして過不足なく受け取って消化吸収できるように、早くなりたいものだと思いながら幾星霜。一切変わっておらんだろう>nagajis。少しは角が取れたみたいではあるけれどもな。もともと刺だらけで安穏としないのだからせめて金平糖くらいにはなろうよ。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ あきら@大阪 [まじか!石投げてええんか!?おっさん本気で左で投げるぞー!と思ったが思いのほか遠いので辞めとくw]

_ nagajis [投げていいよー(避けないとは言っていない)]


2018-01-16 [長年日記] この日を編集

[ORJ] 発行する

15日に書かないのがミソと見た。

[独言][煉瓦][近代化遺産] 堺紡績所始末記

大層なタイトルだが大した話ではない。堺市立図書館でたまたま手にしたスクラップブックで堺市にあった堺紡績所の保存運動とその挫折を見通す機会があり思う所多々というだけである。

昭和48年頃までは堺市出島町に堺紡績所の建物が残っていた。当時は喜福工業株式会社というベニヤ板製造会社が所有していたみたいだが、その敷地を今のURに売却し建物も取り壊されることになったという辺りから?保存運動が展開された。結局解体撤去は免れなかったが、一応の学術的調査がなされ、発電所建屋の窓部分だけモニュメントとして残されることになったという。また解体の際に丹治煉瓦の墨書きのある煉瓦が見つかったり、柱の一つが鉄管柱になっていて雨樋を兼ねていることが判明したりもしている。

解体完了は確か昭和53年のこと。窓枠は喜福工業の社員寮の庭に移設されたそうである。

それから約40年後の今日、どうなっているかというと、これがさっぱりわからない。喜福工業はすでに存在していないようだし、調査の報告書が刊行されたようでもない(←OPACで調べた程度なのでどこかには存在するのかも知れないが)。そして勿論今現在に堺紡績所の遺構として知られている物件はない模様である。

近代化遺産の保存と活用。どう考えても分が悪い。どんなにそれが貴重なものだ(と主張)としても「保存するのに必要な金があるか否か」「残したものが金になるか否か」で裁断されてしまう。貴重なものだ(と思われる)から残そうということになった試しはまずない。特に問題なのは()のところ。ものの価値をわかっている人にとっては壊すなんてとんでもない話なのだが、そうでない人にとっては無益な古物でしかなく、そもそも価値があると考える人の主張する価値が理解できない。たまたま同じスクラップブック(これは明治建築研究会から寄贈されたもののようだった)には浜寺町役場の建て替えに際しての悶着も載っていた。役場を利用する側にとっては旧態然のぼろっちい建物でしかなく、建て替えて便利なものにしたいという意見が圧倒的に多かったようだ。

出発点が、いかんのかも知れない。貴重だからという理由で残すことを主張するのは理解を得にくい。むしろそうだ、残っているものをうまく活用すれば「こんだけ金儲けになるんだよ」とか「活用すれば便利だよ」ということを前面に押し出してやったほうが、実は理解が得やすいんじゃないだろうか。その結果として貴重なものが金儲けの手段となり本来の用途・意図から逸れていくことになるが、そのことによって貴重だと思っている人の純心が苛まれることは我慢してもらう、しかないのではないか。どうせ器でしかないんだろうから、残してテナントか何かに利用する他に生きる道はないのだし、それだって100%成功するわけではないし、未来永劫続くとも思えぬ(結局は資本のある者が余力でやってゆくしか)。土木構造物の場合はまた違うことになるだろうが……。少なくとも一部分だけ切り取られてよくわからないモニュメントにされてなおかつ数十年もしないうちに行方知れずになってしまう、ような醜態を演じさせられるよりかはマシなんじゃないだろうか。

大阪中郵のポータルとか、哀れだよなぁ。

[煉瓦工場] 工場表の限界と偽り

統計書から取ってきたデータの中には「諸会社」欄にあったものを持ってきたものもあって、南山城のM30代の煉瓦工場のは大半がそれだ。そのデータは「本社の所在地」であって「工場所在地」ではない場合がある。よほどの大工場でない限りは工場と本社が一致していると思っていたのだが必ずしもそうではなかろう。工場は非常に零細だったり零細工場を束ねていたりする場合もあったと思われる。京近煉瓦、吉野煉瓦のように会社として拾えても工場通覧には出てこない工場はそういう経営態だったのではないか。こういうものを区別する手立てを現在の工場表では施しておらぬ。ううむ。どうしたものか。

要するに平岡窯が木津煉瓦株式会社の工場だったという可能性はあるんじゃないかと、お手紙の返事を書きながら考えてみたりしている。

[煉瓦工場] 日本煉瓦と初期の大阪窯業

@堺市史史料類纂。関西鉄道と奈良鉄道に納入実績あり。前者は淀川橋梁橋台が証明していて、まあ間近だからわかるんだけれども、奈良鉄道まで送っていたとは意外な気がする。だとすると関西本線方面にも行ってるんじゃないか。いやそうでもないか、M29-33頃といったらまほろば線辺りでもいいわけか。

@同。川口にあった頃の大阪窯業は西成郡住吉村産と淡路国志筑産の土を使っていた。前者はわかるが後者は(略)。そもそも工場周辺は淀川の末の堆積州を開墾して水田にしたようなところだから赤土なんてなかったのかも知れない。堺に移転してからは堺近郊の畑地から取得。

[独言] 撃つ

性懲りもなくまたバッティングセンターへ。夜中に走るせいか服部緑地公園を過ぎた辺りで毎回迷う。緑地公園を半横断して自動車学校の前を通っていくのが最短距離なのだが、植物園を右に迂回していった先でいつもわからなくなる。そのまま高架を下っていってしまうと小曽根のほうへ出るはずなので脇の歩道を通っていくのだがその次の曲がるべきところがわからなくなる。今日はそこから真っ直ぐ行ってしまい気がついたら小曽根にいた。なぜだろう。

正解は高架歩道を下りて左にある橋?を渡り、渡りきったところで左に折れねばならないのだった。そうやって植物園の南縁に沿って進めばバッティングセンターのすぐ下に出られる。新御堂沿いを余計に登らなくて済む。 このコース、帰りはすごくわかりやすし、早いんだけどなあ。行きで迷って10分15分無駄にしてしまうのがここのところ続いている。

今日は少年野球の講習会があったらしくて大変賑やかであった。自分よりも数段上手い子供もいて負けてられぬと思ったりしたが、別に勝ったところで得るものも活かす場もないのだ。そうしてやはり会心の当たりはわずかなのだった。当たる時は当るんだけど、だんだん疲れてきてボールのタイミングで振ってしまう。そうやないねん、いわゆる「よおく引き付けてひっぱたく」やないとあかんねん。くるぽかあんと撃たなあかんねん。

妙な振り方なものだから左の脇腹が痛くなった。空振りすると覿面に痛い。また治癒に時間がかかったりしたらやだな。

[独言] 九州編修正

S15、16のデータを入れた。長崎がさらに圧縮されてごちゃごちゃしてきた。一方佐賀のS15をコピーし忘れている模様。なんだかなあ。それだけ取りに行くとなるとまさしく愚の骨頂だ。S16はデータがあるのでさほど影響はないと思われる。

それ以外にもいくつかデータの誤りを発見。今はまだパブリックベータ的な状態で、あと何度か目を通さないと正しくならないように思われる。


2018-01-19 [長年日記] この日を編集

[独言] 書かない

大事にしたいことは敢えて書かないという保身。そんなに抱え込んだところで人間が成長するわけでもなし、かといって披瀝しようものならますます矮小なりしことが明らかとなってしまう故に沈黙せざるを得ない。たった一つも持ち合わせてはいないのである。

[煉瓦] 韓国木浦領事館、に始まるいろいろ

確か大阪府誌M36であったと思うが、大阪窯業が朝鮮へ煉瓦を輸出した記録があると書かれていたのが印象に残っていたのだけれども、堺市史史料類纂に拾われている同社の経歴書の中に木浦領事館用に納入したっつー記述を見つけて両者が繋がった。検索してみればこの建物は今でも残ってあるという。例の慰安婦像が置かれたのがこの建物の前だった。建物はとてもきれいな赤煉瓦の建物で、きれいすぎて改装されたものかも知れないと思ったりもするが、きっとどこかに窯業マークがあるに違いない。この他にも確か日本煉瓦も朝鮮台湾に煉瓦を輸出した記録があったはずだがそちらは具体的な建造物名が出て来ない。

煉瓦の輸出はハンター商会の時代から計画があったようだが、それが実行されたかどうかまではわからない。あんなかさばる重いものを何百万個も運ぶのはさぞかし大変なことだろうと想像するし、船で運ぶくらいなら現地に工場を作ったほうが早かったんじゃないだろうか(それで実際に作られた工場も多かった。昭和に入ると大陸のadressの煉瓦工場がいくつも出現する@工業名鑑)。けれども明治20年代には堺の煉瓦が舟運で九州に運ばれ九州鉄道の路線建設に使われていたりするしーーー実際例の五稜星刻印煉瓦が出てきてるーーー何度も書いた通り山仮屋隧道には旭商社製品が納入されている。官営鉄道の建設が滞った頃にはかえって海運が発達し日本の産業革命を下支えしていたという説もある。瀬戸内航路の場合は福岡の石炭を大阪へ運び、空荷で返すのが勿体無いので煉瓦を積んだ、というのをどっかで読んだ記憶がある。海運を舐めたらいかんっちゅうことだろう。あでも堺煉瓦は「鉄道も海運も運賃が嵩むからもっぱら和船を利用」とか何とか書いてなかったけか。海運ノットイコール和船なんだと思ってギモンに感じたのだけれども。ともかくそういう舟運があったから大陸方面にも輸出が可能であった。どれだけ送られたか、かの地でどれだけ内地産の煉瓦が見つかるものか多少興味がある。路地裏に行ったら沢山転がっていそうな気もする。行って調べたくなるほどではない熱心さでそんなことを考えている。んでわかったところであまり実になるものでもあるまいが。

逆に、日本に輸入された赤煉瓦というのはまず聞かない(戦前期に、の話。戦後のは時々見る)。噂ばかりあって実物が見つかっておらぬ。呉鎮守府の建物だってイギリスから油紙に包んで持ってきたという噂ばかりあって実際は日本産であった。ジュラール煉瓦も日本で作られたやつだっけ。敦賀の赤レンガ倉庫にも輸入された煉瓦で作った説があって、そうそうそのことを敦賀港駅舎のパンフレットで見かけてその真偽を確かめようと思い敦賀市立博物館へ行ったのが伝・敦賀線建設用工場に行き着いた経緯だったのだ忘れてた。あの件どうしたらよかんべか。敦賀市の教育委員会さんに尋ねろってことか。

耐火煉瓦は輸入品がいくつも見つかっている。最初期〜明治20年代はまともな耐火度の国産品がなかった。


2018-01-20 [長年日記] この日を編集

[企画] 魚梁瀬森林鉄道・日本遺産探検隊募集中

http://tabihatsu.jp/program/98173.html

探索の目は多ければ多いほどよし。1/27前後集中探索会やってます。宿泊代が出ます。ぜひご参加ください。


2018-01-21 [長年日記] この日を編集

[煉瓦] 堺紡績所始末記・2

中途半端な時間に目覚めてしまい、片付けねばならぬ仕事も思いのほか手早く片付いてしまったので、半端に半端を重ねるような小散策に出た。二週連続の堺行きである。

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UR湊駅前団地をストリートビューで眺めてみた時、正門と思しき辺りに煉瓦造りの構造物が見えて、ひょっとしたら新聞記事にあった窓枠以外にも保存されている部位があるのかも知れないと思ったりしていたのだが、行ってみれば何の事はない、真新しい煉瓦でそれらしく造ったモニュメントであった。笠石も別段流用というわけではなさそうだ。そばに一応解説看板があって、堺紡績所の跡地に団地が建ったことや、当時の建物を再現したモニュメントだということが伝えられてはいたけれども、こんなことをする余裕があるなら現物を残しておいてほしかった。こういう手のツクリモノほど役に立たないものはない。所詮は破壊の言い訳、造った側の自己満足にしかならぬ。

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半ば諦めていた移設窓枠のほうはちゃんと現物が残されていた。UR団地の北にある「ハイツ堺」というマンションの通路に相当するところに建っている(UR団地の西側入口に隣接する通路を入っていったところ。この通路はMapsにも載っていないしブツが奥まったところにあるしでストビューでは確認できない)。以前はこの辺りに喜福工業KKの社員寮があったのだろうか。

アーチにキーストーンを挿入したりしている造りはなかなか凝っているのだけれども、仔細に見ると結構がさつな作りであったりする。中央キーストーンの左右の煉瓦は厚みが違っていたりするし、キーストーン自体がずれて落ちかかっているようにも見える(それはこの部分だけ切り出して運んだせいかも知れないが)。

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この窓枠のほかに門柱の頭の部分も残されていて、向かって右のそれの根元に平が露出した煉瓦があったりした。かなり念入りに調べてみたのだけれども刻印は見当たらず。窓枠のほうも裏側に欠落があって、そこから平の中央が見えている。新聞記事には堺紡績の解体の際に丹治の墨書きのある煉瓦が見つかったことが書かれていたので、他の煉瓦も丹治製の可能性があるのだけれども、もし仮にそうだとして、丹治刻印が見られるのであればきっとそこにあるだろうという平中央に刻印を見ることはなかったのだった。堺紡績所が建設されたのは明治29年。この頃はまだ丸丹マークを用いていなかったか、丹治以外の煉瓦が使用されていたか、その両方かであるのだろう。第一丹治刻印が見つかっていたら墨書き云々を持ち出すまでもなく丹治製とわかっていただろう(だって丹治煉瓦の社屋は残り続けてて丸丹入り煉瓦も使われているんだから)。

新聞記事にはもうひとつ、解体前調査で見つかった雨樋兼鉄管柱を団地の公民館のポーチに流用する計画も載っていた。その鉄管柱のほうは、消息不明。UR湊駅前団地の集会室は他のマンション棟とほとんど同じ造りの建物の一階にあって(Mapsで何も記載されていない建物がそれ)、外を一周してみたけれどもそれらしい柱は見当たらなかった。鉄管柱だけオブジェクトされているようなこともなく。最初から流用されなどしなかったのか、それとも当初は使われていて、後の建て替えで消滅したのかは突き止め得なかった。管理人棟は日曜休であったのだ。なんともはや。

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その後団地の隅々を歩き回ってみて、確かに煉瓦のかけらが多数転がっていることを確認した。それより何より、団地の東側に隣接してある家庭菜園区画の中に多数の古煉瓦があることを特定した。この家庭菜園コーナーは金網に囲まれている上に、入り口にはご丁寧にもダイヤルロックが施されていて、余所者完全シャットアウトの態である。金網越しに空しく眺めるだけとなった。

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そうはいうけれども、ここで気づき得たことが幾つかあって益々也であった。例えばこんな正方形の煉瓦が多数ある。手の届く範囲にあったものを測ってみれば6寸四方厚2寸(もう少し薄いものもあったけど少数派)、平にモルタル跡のないものが多かったから、おそらく舗石として使われていたものと思われる。これが敷瓦というやつだろうか。

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無論刻印を探したのだけれども、丹治の丸丹マークはついぞ見つけられなかった。そのかわりにちょっとレアな「ツキス」印を発見した。考えてみれば明治29年建造とあれば堺附洲の製品が使われていてもおかしくはなく、むしろ堺附洲のほうが最寄り工場であったのだから、その製品が来ていても不思議ではない(同様の理由で日本煉瓦の製品が使われていてよい)。ただし「ツキス」印はこの一つだけしか見つけられず、他の刻印も大阪窯業の断片を一つ見つけたきりだった。

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後は余談。南海本線下り線が湊駅に到着する直前で煉瓦製の壁が目に入ったものだから、ついでに歩いていってみた。ドムス堺というマンションと日新製鋼大浜寮の境界線上に建っている。

電車から見た時にはずいぶん低い壁のように見えたけれども、実物は立派に壁々した壁であった。ただし使われている煉瓦は機械成形で刻印を見出すこともなく。

明治43年の市街図によれば、ここに「栄製鐵所」があったようだ。いまの日新製鋼寮の側である。その頃に機械成形とあれば大阪窯業堺工場しか考えられぬ。無論後年増築した可能性もなきにしもあらずだが。あと一部だけ手成形の煉瓦が使われている(写真手前の茶色いアーチの辺り)。

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そのまま堺駅まで歩き通して、内川の南海鉄道橋脚跡を見た。ものは以前にも見ているはずだが写真を掲げたことはない。開業当時は現在の高架の東側50mほどのところを通過していたことになる。橋脚上には平が露出しているけれども、この配置だ、近寄って調べることもできない。望遠で写真を撮ってみたけれども105mmでは届くはずもなかった。


2018-01-23 [長年日記] この日を編集

[独言][奇妙なポテンシャル] 宇宙怪獣モランボラン

ぱんつを脱いで全裸になると、人は意識が変調してしまうらしい。帰宅してすぐさま洗濯をしようと全裸になったところで、突然、

宇宙怪獣モランボラン

という固有名詞が湧いてきて意識を占領された。宇宙怪獣モランボラン。一度呟いてみてほしい。その美しい響きに瞠目することだろう。モラン、ボランと呟くだけで心躍る。私の前世は宇宙怪獣モランボランなのかもしれない。

そうはいうものの、湧いてきたのはそのワードだけで、どういう素性の怪獣なのか、武器は?弱点は?そういったことは一切湧いてこなかった。書きながらひとつ捏造してやろうかとも思ったのだがそういう意図的なものは美しくないし何より奇妙なポテンシャルたる資格を失ってしまう。

宇宙は広大だからそういう怪獣がいてもいいだろうとは思う。ただ単に存在しているだけで、何者の邪魔もせず、邪魔もされず、宇宙を漂っている怪しい獣・モランボラン。ほらそう考えたら急にいとおしくなってきただろう。

いうまでもなく「宇宙怪獣」である必然性はない。四音節の漢字四文字であればよい。「森羅万象モランボラン」でも「産業革命モランボラン」でもいい。しかしなぜか「株式会社モランボラン」というのはイメージが合わなかった。そんな会社が実在しそうな気がするからだろうか。きっとチョコレート系の洋菓子を作っている製菓会社であるはずだ。

綴りは多分「Mouranc Bouranc」だな。最後がkじゃないと思う。rはlかも知れない。


2018-01-29 [長年日記] この日を編集

[きたく] マジ馬路卍

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馬路~久木間の現道の橋桁はすべて林鉄時代の桁の流用と思われる。落合橋以外のも全部だ。1つだけチェックし残したがたぶんそう。高橋橋などは2連のIビーム桁の久木方を馬路方に移動させて久木方には新規のPC桁を載せてある。この橋のスキューに合わせた新鋼桁を作って添えるよりもそっちのほうが早いだろ。

Iビームなのに銘版が残っているのは有り難い。横川橋梁製作所大阪工場製・大正14年モノ。かと思うと久木トンネル手前の小橋のように浅いPG桁だったりするのもある(石橋台のほうにIビーム桁、添えたC橋台のほうに浅PG)。元の桁を3/4にちょん切って使ってる。添継板が1/3のところにあるもん。

あと、安田川山線の相名橋も同上。「治山林道の変遷」に写された状態からそのまま残存。

集中探索に参加された皆様には厚く厚く御礼申し上げる、とここの流儀で書くのが申し訳ないくらいに有難く思っておりますですはい。ほんとにもう言い表しようのないくらい。特にOさんには多大なるご迷惑をおかけした。Oさんの大発見に浮かれているからだバカjis。

そうして帰りの車の中で一世一代の閃きをし、電車の中で社章を思いつき、さらに浮かれてスマホを失くす始末である。今夜は震えて眠れ>nagajis。


2018-01-30 [長年日記] この日を編集

[独言] 訂正日本遺産

探検隊に参加させていただいて、「日本遺産」という概念の理解の仕方が甘かったなあと反省させられるところがあった。「日本遺産」とは日本全国に誇ることのできる地域特有の歴史、その切り口なり丸め方なり、あるいは絵巻物仕立てのストーリーとでもいうか、そんな抽象的なものが認定されるのであって、モノが認定されるのではない。モノはあくまでも日本遺産を構成する要素。例えば中芸地区の場合は「森林鉄道から日本一のゆずロードへ」と題されたストーリーが日本遺産に認定され、魚梁瀬森林鉄道はそのストーリーを構成する要素でしかない。魚梁瀬森林鉄道が日本遺産に認定された、ちう言い方をすると間違いになる。その存在だけが価値あるものと認められたわけではないので。これは素直に反省せねばならない。間違いなくどっかで間違えている。あれ。間違いなのか間違いないのかどっちだ。

「森林鉄道から日本一のゆずロードへ」。西日本最大の森林鉄道網が発達し、林業が盛んに行なわれていた時代があって、林業は衰退してしまったけれども、それに代わる新たな産業として柚子生産への切り替えに成功、かつて木材が運ばれていった道々が今は柚子を運ぶ道に生まれ変わり、山々には柚子の香が漂っている。そういう地域性歴史性が特異であって(林業衰退から立ち直れないでいる地域が多い中で産業転換に成功した例)、それを端的に物語るオハナシなんじゃないかということで認定されたわけだ。柚子生産の始まりに中岡慎太郎も関わっているから中岡慎太郎の生家もこの日本遺産の構成要素になっている。

上記のような定義がらみのことは正直煩わしいとは思うけれども、日本遺産という考え方自体独特なところがあり、その独特性を維持し活用するためには逆にそのへんのことを徹底していかないといけないのだと思う。立ち上がって間もない今は特に。でないと「インターネットを買う」とか「ギガ数が足りない」とかいう語が出現して幅を利かせることになる。「日本遺産魚梁瀬森林鉄道」に違和感を覚えないといけない。その点上のバナーは偶然かろうじて間違いでないんじゃないかしらん。

その観点に立ってストーリーを見直してみれば「森林鉄道」と「柚子」がくっついていることに違和感を覚えなくなる。どちらもその地域を物語る上で欠かせない歴史であり林業→新規産業創出に成功→現在という流れで繋がっていることになる。むしろそういう定義でもしないと地域の歴史を端的なストーリーにまとめられないだろうとさえ思う。歴史がそういうもの---個々の出来事が勝手に興って消えていったの繰り返しってわけじゃない。離散関数なんではなくて連続関数もしくはフーリエ級数の個々項みたいなもん---なんだから。

「世界遺産」と対にして考えてしまいがち、そういうミスリードを誘う名称であることは否めないかな。世界遺産はモノやモノの集まりが認定される(無論その背後にある歴史性も重要視されるけれどもその歴史が認定されるわけではない)。世界遺産・アンコールワット遺跡というモノは存在するわけで、それを先入観として「日本遺産:(なんちゃらかんちゃらなモノ)」を予測してしまう。先読み判断は人間の賢い証なんでそれを駄目だとは言わないが、もちょっとすんなり先読めるような仕掛けというか言葉の選択かができなかったもんだろーかなあ。どこもいまそれで頭を悩ませているようにお見受けするが。

日本遺産は活用して地域活性化につなげることを目的としている、と文化庁自身が宣っている。要するにこれでジェンジェコ稼ぎましょ、ということ(「ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を,地域が主体となって総合的に整備・活用し,国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより,地域の活性化を図ることを目的としています。」)。世界遺産だって本来はその目的で出来たもんじゃなかったけか(今もか)。文化財を埋もれさせたり死蔵したりするよりは、使って経済が回るようになるほうがはるかによい。何よりそれで地方に活力が出てくるのであれば歓迎しちゃう。清貧を貫いて死んだって、誰も褒めそやしてはくれないのだよこのご時世じゃ。

むしろそうだ、消費者のほうがこれを賢く利用すべきだな。今度どこそこに行くんだけど、なんか面白いものない? みたいな愚問をする前に、その地域の日本遺産を読んでみれば、その地域が特に推しているものがわかるうえに地域の歴史も大づかみできて旅が楽しくなる。中芸へ行って柚子土産を買っただけで帰っちゃったりしなくてすむわけだ。


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