nagajisの日不定記。
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ひどく瑣末なことだが意外だったので貼っておく。モトコーの壁体には煉瓦が使われている。
どうやらアーケードを後付けした時に煉瓦を使ったらしい。もともとは素っ気ない鉄筋Cの連続Πラーメンだったようだ(完結)。
ロープウェーで登って歩いて下ってくるとのことなので足も大丈夫だろうと思い参加した。今回は神吉先生のご紹介で神戸市の職員の方が案内して下さることになり、普段入れない辺りにもづかづかと入っていけたのが嬉しかった。そういう機会があることを期待して(訪問を)後回しにしておいて正解だったと思う。念のためにと思って平成の改修記念誌を持っていったが、その必要はない位に詳しく&ツボを抑えて解説して下さったので有難かった。
以下断片的に。貯水池の最上流にある取水堰堤の前なるRC橋。地味に明治38年頃竣工で現存2、3番目の古さを誇るブツである。アーチは鉄筋(≠メラン式)、床版はモニエ式。五本松堰堤の下にもRC橋が架かっているが、そちらは大正時代に作られたものだそうだ。リブ+柱(写真のはヴォールト+柱)という違いもある。
締切堰堤の上のバイパス水路隧道の取水口には水平アーチが採用されている。年代的には第二期工事の構造物だが、ブツは少し新しい感じがしないでもない。苔生してないし。あとアーチは入口の50cmほどで、要するに隧道ポータルと同じような役割のものだ。
布引五本松堰堤の上に設けられた銘板。堰堤の完成は明治33年で、設計者や監督者の名前が英語で刻まれている(文字は金属製で一文字ずつ堤体に埋め込まれている)。今ならば神戸市長だとか水道局長だとかの偉い人の名前が載るところだが(実際この隣に1960年代に行なわれた防水工事の記念銘板がありお偉いさんの名前が載っている)、そうではなくて実際に手掛けた技術者の名前が掲げられているのが興味深い。昔はそれだけ技術者の地位が高かったという解説をいただいたが、むしろこれを責任署名だと捉えてみるのはどうだろうと思った。いくらでも首をすげ替え可能な上層部の名前ではなく、この堰堤を設計し、工事監督した者の名前があったほうが署名の重みが出やしまいか。彼らのほうが直接的な責任を負っていたと考えるべきではないか。そういえば逢坂山隧道の西口に掲げられていた額も工事監督の国沢能長を称える内容だった。ただの身内褒めではなくて「これを作ったのは私たちだ」という宣言だと。そう宣言して恥じない仕事であったのだと。
それ以降の、隧道名を刻んだり祝いの文字を掲げたりした扁額はまたちょっと違うかもしれない。完成を記念するものではあるが責任明示ではあり得ない。単にこの文字を書いた人の名前というまでで、偉い人にそのお鉢が回って来やすかったというまでだろう。逢坂山のあの額だけが以上なのす。以上階上屋的余談。
堰堤上のグラウチングの跡。五本松堰堤はコンクリートを使ったために漏水に悩まされた。そこで堰堤の真上から垂直方向に小さな穴を開けモルタルを圧入して止水した(グラウチング。先の'60の時も、平成の大改修でもやったはzy)。そういう工法は聞いたことがあるものの、実際の跡を(グラウチングの跡として)見るのは初めて。こういう埋め殺しの鉄管をどこかで見た気がする。しかも執拗に。それがグラウチングの穴だったとは。些細なことだが少し賢くなった。
砂子橋。明治33年竣工。三心円+副アーチ2という変わった形の煉瓦橋。この時期に来ると左右の控えのアーチが木々に遮られてしまうのが残念(土木デジタルアーカイブスの絵葉書集なんかに写真があったはず。次のリンク先にもある)。本来の役目は五本松堰堤から引いてきた水を渡すためのもので、のちに布引の遊歩道用に解放された。いまある欄干の上半分は後年打越したもので、煉瓦のサイズを測ってみると確かに違う。旧部分は幅107mm前後だが打越した部分は90mm+αで幅が妙に狭い。この改修はいつだったか・・・工事記念誌にあったはずだが今はまだザックの中だ。
というわけでネットで調べると神戸市のページに昭和51年に嵩上げと書いてあった。へえ。その割にJIS煉瓦でないのはちょっと面白い。
いろいろ構図を変えて撮ってみたがどれもしっくり来ない。三心円アーチがウリなのだからそれを活かして撮りたいところなのだが、天気が良すぎてハイコントラストになってしまううえ、斜めからだと曲がり具合がいまいち伝わらぬ。とかく橋の写真は難しい。
足の方はまあまあ。2月に七三峠へ行って太子道を帰ってきた時に比べれば安定感があるものの、下りの一歩を踏み出す怖さおよび急に捻ったときの痛みは相変わらず。むしろ今は蕁麻疹が気持ち悪くてかなわん。薬を飲むようになって一気に広がり遠山の金さんか何かのようになっている。見目がわるいだけで痒みがないのは幸いだが、これが全身を覆って区別がつかなくなるまではあまり出歩けないだろう。今日も暑いのを我慢して長袖を着て行ったので汗だくだ。
小さな旅ができるくらいに治ってきたことは素直に嬉しい。しかし6カ月でたったこれだけか、とも思う。若山牧水だったか三好達治だったか・・・結核を患ってから高い山へ登ることができなくなり、山を恋うばかりになったわが身のことを書いた篇を読んだことがある。それに似た思いのごく小さなものが心にあって取り扱いに困っている。すっかり諦める気にはなれないが、ただちに以前のような旅ができる気もしない。山のあなたのなお遠くにもやもやとした思いを馳せるばかりの毎日。そろそろ違うことをしなければと思いながらもう半月である。早めに裏工作を始めて活路その2を設けておいたから退屈してはいないが、それとて長続きするとは限らん。8日午後3時で終わりそうな気もする。
私用を2つ片付ける。なんかnagajisが人間の真似事をしている。笑止千万である。ちなみに岡山県に真似男ヶ峠なる峠がある。由来は不明である。
喉に刺さった小骨が取れたような思い、という比喩で書きだそうと思ったが最近そういうことも少なくなったようで今いちピンと来なかった。むしろ鼻毛の手入れをしたら長いやつが抜けたとか発行直後に1MB/sでORJがDLできたとかゆう比喩のほうがわかりやすいかも知れない。どちらも自分は味わったことのないスッキリだが。
安治川河底隧道の開通記念式のようすを写した写真があることは知っていて、あちこちで利用しもしていたが、その大元の出典が何なのかよくわかっていなかった。それがやっと判明した。朝日新聞昭和19年9月16日3面の記事だ。開通日がはっきりしてるんだから真っ先に当たってて然るべきだったろうが他用に紛れてて忘れてた。いろんな意味で順当な発見といえる。
記事文面。いくつかの示唆を含んでいる。
晴れの開通式挙行
竣工した安治川隧道全国最初の河底隧道としてわが国土木工学界注目を集めていた大阪市第二次都市計画事業“安治川隧道”は十ヶ年の歳月と総経費六百余万円を投じてこのほど竣工、十五日午前九時から晴れの開通式を挙げた
坂間市長、中井、森下両助役以下関係局長、工事関係者ら百五十余名参列、斎主茨住吉北村社司によって修祓式が挙げられ、式後隧道北入口から此花区西九条校南入口から西区九条北、同中三校の男女学童五百名がニコゝゝ顔で通り初めをすれば、坂間市長も南岸から車輌用昇降機で自動車に乗ったまゝ初の通り抜けを行い
かくて長年の“源兵衛渡船”に代って北大阪と西大阪の工場地帯を八十メートルの河底で結ぶ同隧道は同日午後四時から重要な交通路として一般の利用が許された
〔朝日新聞昭和19年9月16日号 旧漢字かなを新字に変更、強調筆者〕
まず総経費。戦後の資料では工費約230万円とあるばかりで、土地代等も含む総費はわかっていなかった。それが600万円という膨大な額に上ったことがこの記事から知れる。戦前の600万円という額の目安を探してみると排水量5000トンの給油艦一隻がそれ位だったようだ(昭和14年)。もう一つ参考になるかよくわらない数字を掲げて煙に巻いておくと、昭和10年頃から工事が始められ、結局完成することのなかった新淀川橋(長690m・幅38m・南岸230mは3径間の自碇式吊橋(東京の清洲橋に似た構造)、その他はゲルバー式鋼鈑桁)の総工費が390万円と見積もられていた。淀川を渡る大橋よりも¥がかかったのだ。安治川隧道は。
学校児童が通り初めをしたというのも地味に見逃せない。橋や隧道の開通式では親子三代渡り初めのような“慣習”があったことはご存知の方も多いと思う。その旧慣を大阪市内の橋で初めて破り、大勢の児童が両たもとから渡り合うという新方式を採用したのは、昭和2年に開通した堂島大橋だったとされる(創元社『大阪の橋』)。して、堂島大橋を設計したのは堀威夫技師。後の橋梁課長、安治川河底隧道計画にも深く関与した人物である。
その式は長い慣習となっていた老人三組の渡初式を廃して、一滴の酒も用いず、小学校児童・幼稚園園児の代表として、中之島から五五〇人、上福島から六〇〇人の児童によって、市歌を唱え国旗を振りながら簡単に質素な渡初式を行い、渡り初めに一新機軸出した
〔『中之嶋誌』 文面は創元社『大阪の橋』より孫引き〕
前途茫洋の子供たちに渡り初めをさせて祝うという発想、しかも軍国主義に因って起こったものではないそれは、単に新機軸だという以上にヒューマニスティックで尊いもののように思える。それを安治川隧道でも踏襲したということ。なるほど確かに写真にはいがぐり頭の子供たちの姿が目立つ。その光景には確かな理由があったのだ。
関連して思い出されるのが『工事書類綴』に綴じられていた葉書の件である。工事たけなわの昭和12年12月9日、工事現場付近で遊んでいた子供が倒壊した櫓の下敷きになって大怪我をした。そのことを難詰する投書−−−半ば脅迫まがいの−−−が書類に綴じられていた。局内で回覧した形跡さえあり、もちろん堀の印も押されていた。他の行政書類にあるよりも力のこもった鮮明な印影であったような記憶がある。上の渡り初め式のことを重ねてみれば「さもありなん」が見えて来やしないか。渡り初めの主役にするほど大事に思う子供が工事現場で怪我をしたのだ。いろんな思いが印に力を込めさせたのではないか。台紙の罫紙にではなく、葉書に直接押されていたのも意味のあることではなかったか。
毎日新聞にも開通式の記事があったが一段だけの小さな扱い。またそれぞれに開通式を行う旨の事前報がある。いわゆる大本営発表一色の紙面のなかでそこだけがほのかに希望の光を放っているように見えた。この時期にインフラ整備の話が載っているのは意外な気もするが、同日の記事に鉄道開通・復旧の報もあったりするので、昭和19年秋時点ではさほど喧しくなかったということなのかも知れない。実際安治川隧道は爆撃対象にはならず(工業地帯の空襲のとばっちりは受けたが)、キモの車載エレベーターは無傷のままで終戦を迎えた。
つまるところ不発に終わった探索の不発弾処理レポのようなもの。街で見かけたシロアリ駆除看板。ストーリー性があるものは珍しいのではないか。レアものではないか。と、無理に鼻息を荒くして消化に務める。
本題はブツそのものにあるのではない。奇ポテはストーリーを脳内再現している時に招来した。以下話をすすめるためにシロアリの役職を確認しておく。左から門番兵隊アリのジャック、女王のマリー、王様のジョージⅢ世である。
ジャック(以下ジ):「うぁあアリコロリ(仮称)が来たぞお!王様、女王様、逃げてください〜」
マリー(以下マ):「きゃーあなたー」
ジョージⅢ世(以下Ⅲ):「大丈夫かお前〜逃げるぞ〜」
ジ:「うぁあアリコロリ(仮称)がかかったぁ〜もうだめだ〜しおしお〜」
下線のところ、正しくは何というべきなのかよくわからない。要するに女王様は王様のことを何と呼ぶのか。逆に王様は女王のことをなんというのか。式典や例祭の時はともかく普段は何と呼んでいたのだろうか。それが思い出せなかったがゆえに前記の如き陳腐なストーリーになってしまった。一生懸命是正しようしたが駄目だった。もともとストーリーテリングの才能なんてないと思っていたがさらに輪をかけてダメだと悟った。できればなんとかしたい。なんとかしたいがために歩きながら小一時間考え、「后よ!」とか「王よ!」とか名前で呼ぶとか考えてみたが、それもジャストでなさげなことが自明でなおさら悄気た。
仕方がないので奇ポテで消化することにし、書き始めたところで気づいた。そもそもシロアリには王様アリなど存在しない。いるのは女王アリ一匹と無数の下僕達だ。効くのかこの薬。そしてマとⅢの出番は永久にない。
WTCへゆく前に安治川隧道詣でをした.時間潰しのためでもあるし,前後の道路がどうなってるかを確認したくもあったので.以下大写真多数なのでケータイには御迷惑をおかけする.ハイパー安治トンタイムに突入したと思って諦めてほしい.
安治トン南口から源兵衛渡交差点を写す.現在の道路指定(市道安治川松島線)はここから南東方向に向かっている.いわゆる“疎開道路”を通って中央線西九条駅に達するものだ.“疎開道路”は戦時中に強制立ち退きで作られたのでそう呼ばれている.防火線を兼ねて家屋立退き+広幅員道路を建設した例は市街のあちこちにあったようで,ここだけに限った話ではないらしい.
安治トンが作られた当初の指定(第二次都市計画道路安治川市岡線・昭和12年頃)は,疎開道路のやや西寄り,源兵衛渡交差点から南南東方向に通すように計画されていた.取付きは既存の家並みや格子状の街路を無視して突っ切る道路を新たに建設することになっていた.それが完成しなかった今日,当然のことのように建物が建て込んでいる.
安治川市岡線の予定線を追っていくと,九条北小学校(旧・九条第五校)の角をかすめ,さらに住宅街を突っ切る.もしこのラインを実現しようとすれば相当量の建物敷地を潰さなければならないばかりか小学校敷地をも齧り取ることになってしまう.その点“疎開道路”は既存道路の拡幅で済んだのでやりやすかっただろうと思う.
源兵衛渡交差点から3ブロックほど進んだところで既存道路に沿うようになる.左手にあるのは九条北公園.かつて九条第三小学校があったところである(公園でペヤングペタンクをされていた方に教えてもらった).そうして境川に向かって直進する.境川には新たな橋を架けるが,残りはほぼ既存道路の流用だった.
西区のこの辺りは,ボルトやナット,発條といった小さな鉄製品を作る町工場がひしめいている.こうした小さな町工場が安治トンを通して此花区(安治川右岸)の重工業地帯と繋がっていたわけで,それを思うと少々感慨深かった.
境川を越える区間はいまも道がなく建物が建っているだけである.この建物の通りを北上し,ぐるっと回って玉船橋交差点にやってきた.昭和8年頃の最初期の計画(新聞記事に載っているもの)ではこの交差点附近に取付スロープの入口を設け,写真方向に地下に潜っていき,源兵衛渡交差点の地下で左折し,安治川隧道に接続することが検討されていた.
もし実現していたら・・・こんな感じの穴が開いていただろうと思う(位置は適当である.交差点より奥にスロープ口を設けたほうが良いはず).確かにこの交差点は無闇に広い.交差点より西は4車線きっちり幅なのに対し,東向き源兵衛渡交差点まではゼブラゾーン込みで5車線分取られているのも,そのへんの計画の名残りかも知れない.
安治トンを潜って向こう側,西九条交差点(帰りに撮影したので夕方の光景になっている).最初期計画では安治トンからここまで地下道を延長,JR西成線(現環状線)を潜ったうえで地上に出る計画だった.
青い線はあまり上手くないが高架橋案のラインを描いてみたもの.安治川方面(写真左奥)から交差点まできて左折,さらに桜島方面(写真右奥)へ100mほど進んでようやく地表に降りてくることになる.相当無理がある計画である.
時系列があちこちするが,中央線九条駅の近くでこのようなものを見つけた.昭和9年の室戸台風禍で冠水した高さを示す碑だ.M-100で計ると地表から約90cmの高さだった.
碑は昭和15年(皇紀2600年記念)に九条通青年団が設置したもの.正確な設置位置は“疎開道路”と中央大通が交わる交差点の一つ西隣(中央大通りに面したところ)である.
冠水した高さを図示するとこんな感じ...と図を作ってみたものの,わかるようでわからん図になっちまった.まあ,いいか.
この水害によって安治トンは設計変更を余儀無くされた.隧道口をかさ上げしたうえで流入防止冊が取り付けられるよう変更されている.
で,WTC.相変わらずWTCでけー.
こけしもでけー.
デケー.
なんでこんなものが?と思ったらそういうイベント展示であったらしい.こけしもいいが巨大アヒルのほうを見たかったな.
それで結局,バーターだと明示的に申し上げる隙もないくらいに良く対応していただき,すごすごと帰ってきた.新たな資料をいただいて不明点が解消できたし.夢は夢のままで夢見続けるほうが幸せなのかも知れぬ.その中身はまたいずれ.
建屋の平面図をいただいた.設計図の縮図が一セット保管されていて,その中に建屋の図もあったのだ.前回伺った時も見せていただいたような,そうでないような記憶がある・・・少なくとも当時の私にはチンプンカンプンなものだったろうけれど.これさえあれば(多分)勝つる.
図は「4/27」という連番が振られている.他の図のいくつかは公文書館資料でも見た記憶があるが,分母が同じだったかどうか.少なくとも同じフォーマットで作られているのは確かで,江戸技師の名前が入ったものもあるから,完成後に作られたものではなく実工事に使われた図面だろう.
そしてこの図はとても現況に即している.車載エレベーターの4階や排気塔の張り出し,吸気塔の位置などは現況そのもの.一つだけ違うのは……人載エレベーター室の上の階上屋が描かれていない.ここだけは戦後の追築なのだろう.にしても何のための部屋なのだろうな,あれ.
人用エレベーターの裏には便所と手洗い場.その窓を開けると排気塔.合理的なような,そうでないような構造だ(下手すると排気が逆流してこないか?).同じ場所の2階にも炊事場があるが,これは宿直室が2階にあるためだろう.宿直室は一階事務室の上(何故に宿直室が必要だったかは不明だ).あと,2階の端に「予備室」なる謎の部屋がある.
建築に詳しい方が見たら,車載エレベーター4階の張り出しが機能的要求から来るものか,それとも遊び要素なのか判断してもらえるかも知れない.自分が見る限りでは後者のような気がするが,地下エレベーターホールの扉の開閉用に,柱−柱間を開けておく必要があった可能性も考えられる.地上の入口側は1階から4階まで同様に開いている.あと下部工との接続がよくわからない.例の平面図と柱の位置が合うかどうか.
内部用報文は,はるか昔にどこかのサイト内検索で見かけた記憶がある.内部論文だからどうやって手にいれればいいのかわからなくて放置したのだ.昭和59年に沈埋管を補強したというもので,見逃していた重要な出来事だ.要するに沈埋函の内側に第2の箱を作って補強しようというもの.川底の土砂堆積がよほどの量になったので桁にかかる荷重がヤバい&浚渫する費用がない&沈埋管鉄骨が腐食してヤバいということで,旧構造物が一切役に立たないと仮定して荷重計算しなおしたという潔さ.土木学会サイトで見られるのはその結果の沈埋管内部であり旧態そのままというわけではないことになる.どうりで新しく頑丈に見えたわけだ.
それから意外な写真も.内部用の橋梁写真集が作られていて,その中に安治トンの工事中写真も綴じられていたのだ.構図への拘りとか工事現場をドラマチックに捉えようとしたところなんかはいかにも堀チック.痺れる.憧れる.これだけで写真集出したいくらい.
_ しとろん [写真集、見たいぞ(ボソッ)]
一気に原稿にかかり13000W越え。あと5000くらいは確実に増える。練っておいて良かったと思う。
17700W。あとは改修@県会史と附属か・・・。県会史はここで軽くまとめておいてよかった。むしろ改修対象の頃をまとめるのが大変か。随分忘れてる。&、戦後を新たにまとめる必要がある。明日中にあげられるか?
コンタクトったことを忘れないようにしないと...あまり先延ばしはできないな.6月末,梅雨の晴れ間を狙ってgoだ.次々号からは始めたい.
高見峠でネタばらししているので少し書きなおす必要がある.峠の回想も過不足なく書き足さないと.問題は最後のまとめか.手がつけられるところはつけ切ってるからな・・・やはり明治県道の話でまとめるしかないんだろうか.広がり過ぎやしないか.どうでもいいか.
悪あがきと恥の上塗りでもう一回安治川というのもいいな.せっかく橋梁写真帳の元ネタを入手したのだ.使わない手はない.
安治トンだけで3時間喋る「安治トンナイト!!!」とか妄想して一人悦に浸っている.喋れる自信はあるがそれと同じくらいの確信度で需要がないとわかっているからやりはしない.そういうのは人間同士でやるといいよ.いや,誰にも告知せずに一人でやるというのもいいな.だあれもいないホールで存在しない聴衆に対し一人熱弁を振るってイッちゃってるnagajisを想像して胸が熱くなった.よしそうしよう.
そういえば公文書館はどうなった.やはりマスキングが入ることになったんだろうか.あの量を処理するのは大変だろうに…….これの入り方によって次次号以降の段取りが変わるな.次号いきなりは無理だろう(さすがに誰得記事を2号連続でやるほど傍若無人にはなれん・しかしnagajis原稿はすべて誰得なんだから構わんような気もする)し一ヶ月で解析まで終わるわけがない.前回は撮影だけで4回通って解析に2カ月原稿に1カ月あと申請と追撮で各1往復やった.今回は回数券もない.順当に行けば今年の秋か.TUKAさんが前後編でよかったよ.
絵図入れ込んだ.pdf化中.橋紹介は終わったが考証括弧笑い括弧閉じるを少し余しているせいで後半が進められない.ページ数確認しながら県会史を読み直さねばならぬ.あと,せっかく取り寄せた「20年のあゆみ」が使えてない.入れ込むとしたらどこだろう.路線の時系列的には第二期改修の後なんだろうがS36図を説明するなら地形図のあとのほうがよい.自分の時系列に合わせて最後に入れるのもありだし,いっそ無くしてしまってもいい.結局境橋=新妹橋ということが有益情報になるだけだしな.
いずれにしても文字主体な旧橋のくせに50ページ越えとかいう無茶な記事になる.しかも結論がない.JIS男の出番はなさげだし,いったい何人が最後まで読んでくれるだろか.たのしみだ.
表を2,3作らなければならない.こんな小さな表でも作るのが面倒だ.本来なら第二期改修の周辺も表化すべきなんだろうが多分そこまで手が回らない.ツール使ったりCADだったりしたらちゃちゃっと出来るのかと思っていたがそうでもないらしい.結局は自分がやっているようなちまちま作業を皆やっているとのこと.こんくらいで文句言ってたらあかんのやろうなぁ.明日中に出来るかなあ.
MacOS9でホイールが使えてデカい手に馴染むマウスというとごく限られてくる.今使っているのはLogitechの有線マウス.型番など知らぬ.ORJを始めた頃から使っていたはずで底のテフロンが完全にすり切れている.安いマウスを買ってきてテフロンを張替えるべきと思うようになってもう数年経った.そろそろ本気で何とかしないとと思うが思うばかりでいつも忘れている.同じLogitechのマウスを見つけて喜び勇んで買ってきたらパチモンコピー品でありコントロールパネルが立ち上がらなかったということもあった.そうなると単なるワンボタンマウスだ.いくらマカーだといってもホイールと右クリックがないと生きていけない.
縦にするか横にするか…縦しかないか.頭落としを削除.改行位置はママイキで試してみる.写真をどうやって入れるか.大小でメリハリをつけるか….ちいとすかすかな感じになるかも知れないが,裏をかえせばストレスなく読めるわけで,まあ大丈夫だろう.
冒頭2枚は縦書き.縦イチで縦書き.インパクトがなければA4横に縦に収めますかな.
時間がなければ14日にnagajisが徹夜をすればいいよ・・・
昨年の今頃北海道に行くとか何とか抜かしてたな.結局は予想通りの展開で行くことなどできなかったが.これを逃せばもう2度と行く機会がないだろうという予想も当たりだ.
公開準備官僚♪ もうちょっとだけお待ち下さい。@PM5:45
CentOS+Adobe reader 8.1.7?でやると確かに化けるが件の化け方とは違うな。なんかpdfのテキストフォーマットに変換したうえでURLエンコードして投げてるっぽい。単に文字コードが云々っていう話じゃないな・・・これはこれで厄介さんだ。
仮に方式を変えるとしたらFDF Toolkitとか難とか入れないとだめなんかな。というかLinux系ではWebから投げてねーとお願いした方が早いような気がする。悔しいけれど。
reader 9.xはうまくインストールできなかったので後回しにする。。。
報告書にORJ記事リストを書き加えている.これも一種の身辺整理だろう.あと,旧ドメインが今度こそ切れないよう自分でclientもどきを作成してcron設定した.
もしかして余計なことしちゃったかしらん・・・とほほ
二重の重なり具合と黒目の位置、ボディーの向きで動きが出せることがわかった。
行き掛けに出そうと思ったらインクが切れた・・・明日迄お待ち頂きたい>各位
すごく紛らわしくて罠にはまる。確かにそれはあるだろう。読んだら面白かろう。しかしすでに大大阪橋梁写真集だったかか何かで一般図を入手している。どこまで興味が持続するか。なお写真は無関係のものである。
_ こけ [やっぱりいろんなイミで怖い・・]
教えていただいたパワーソールをつけても微妙にビビルので業を煮やしてパチもんマウスの光学系と交換したった。これで完璧。
なるほど、そう来るか。2車線+地下鉄複線+2車線。しかし現橋台とは少し形状が違うようだ。2号・3号橋脚は凹凸が逆なのである。
主塔形状と支承の形状がわかる肝心の一枚がボケボケだったという体たらく。明日撮り直してくる。
島津製作所に対して設計模型を発注したこの書類がなければ横断図はわからんかったかも知れない。そもそも吊り索はどういう作りにするつもりだったのか。見た感じ清洲橋によく似ているが詳細設計が見当たらぬ。
写真撮影が終了し、精査と背景調査の段階にin。この橋も大阪市の第二次都市計画街路で計画されてたそうなので、安治トンの件も踏まえて「都市計画とはなんじゃらホイ」から調べてみた。市立図書館によい資料があって感謝!だったのだが時間切れで不完全習得。以下覚書。そして水が高きに流れるような不自然さで安治トンの話になる。
大阪市の都市計画は関市長が大正時代から始めたもの(「大阪市市区改正設計」=第一次都市計画、大正8年12月23日内閣認可)が最初でよく知られてる。御堂筋作ったりとか大川に立派な橋架けたりとか。第二次都市計画というのは大正14年に西成区などが合流していわゆる“大大阪”が誕生したことをうけて立てられたもので、まず昭和3年に「総合大阪都市計画事業」という名目の計画ができ、可決・内閣府の認可を得て告示された。これは街路だけでなく港湾や公園、下水道などの整備などを包括的に行なう計画。して、昭和七年にそのなかで特に着手を急ぐ街路・運河を告示してて、これを「第二次都市計画事業」と呼ぶのが厳密な言い方らしい。しかし「総合大阪都市計画」を「大阪市区改正設計」に比して第二次計画と呼ぶ場合もあるらしくて非常に混乱する。
S3の「総合大阪都市計画事業」で新設する都計街路に認定され、S7の第二次都市計画の実施対象のなかに盛り込まれた目玉街路に、一等大路第三類第四十号線=北野豊津線があった。幅員36〜27mの立派な道で、当初から新淀川に新橋を架ける計画があった。我らが安治川市岡線は二等道路第一類・第八十号でずいぶん後ろで出てくる。しかもS3の告示のなかでは「南安治川通二丁目三十八番地より九条通四丁目に至り・・・境川運河新架橋を経て石田布屋町一丁目九十二番地の一に至り二等大路第一類第二十二号線に接続」となっていて、要するに安治川は越えるつもりじゃなかったらしい。
それが、昭和7年に告示された第二次都市計画事業計画「第二次大阪都市計画事業並年度割決定の件」のなかで二等大路第一類第八十号安治川市岡線の一部(起点北安治川通・終点南安治川通)が実施対象になってる。つまるところこの時に安治トン建設(安治トンだけの建設)が確定したわけだ。
なので、このへんの経緯を厳密に言おうとするととてもややこしい。昭和3年に建設が決まったわけではないし、当初から安治トン込みの安治川市岡線であったわけでもないことになる。建設が正式に決まったのは昭和7年の第二次大阪都市計画実施計画のなかでということになる(?)。ちなみにこの告示では実施年度割も決まってて、全体で昭和7年〜14年に実施ということになっていた。
たしかに、「大阪市会史」を斜め読みすると、昭和4年昭和3年と5年に安治川架橋の速成建議がなされてる(原文不明)。昭和10年11月の「概略」でも昭和2年にトランスポーテーション・ブリッジを考えた人があり云々という書き方であり昭和5年に関市長が土木学会に検討依頼とか何とかいう流れになっていた。だから、昭和3年の「大阪総合都市計画」認可後にずいぶん運動があって、それで安治川架橋が実現することになり、昭和5年に検討依頼、昭和6年に土木学会答申、昭和7年に正式な告示という流れかと思う。んで、昭和8年頃には新聞や雑誌で隧道計画が紹介されるまでになる、と。
ひとつ気がかりなのが・・・昭和12年に「第三次都市計画」ができたようで、そこで路線に修正が入ったらしいのだが、第三次都計については今回ノーチェックで帰ってきてしまった。次回行った頃には忘れてるような気がする。忘れないようにしたい。
なお、第二次都計は実施率60%、第三次に至っては15%ほどだったらしい(「新修大阪市史第7巻」)。かろうじて完成した安治トンと、完成しなかった新淀川新橋との明暗の差は、やっぱり鉄材使用量の違いと、作りかけと今後本体を造るのとという違いからだろう。
ついでに大阪市立図書館で米軍撮影の航空写真(しかも4倍引き伸ばし!)を閲覧できることを発見しGETしてきた。いえい。
肝心の写真撮影は1時間弱で終わってしまった&後半にこれといった大発見はなし。例の主塔を再撮できたのは結果論的に良かったが。前回前々回に少し気合を入れてたら終わってたよな。うん。あんまりホールドしておくといろいろ迷惑かけちゃいそうなんでこまめに&迅速に撮るべし。
安治トン前の道路が疎開道路と呼ばれている件。これは戦局の激化にともなって「政府が」疎開を勧めた結果であるらしい。「新修大阪市史」第7巻によると、昭和18年12月21日に「都市疎開実施要項」が閣議決定され、東京都区部、横浜市、川崎市、名古屋市、大阪市、神戸市、尼崎市、門司市、小倉市、戸畑市、若松市、八幡市に対して人員や施設・建物疎開が実施されるようになった。「建物疎開は『疎開空地』を造成して、防火区画を作り、それに相当数の疎開空地を配して、防空都市の形を整えるというものであった。」(新修大阪市史第7巻P673)とあって、空地を結んで空地帯としたところの多くは都市計画路線に組入れられたという。
こんなのも書いてある。「内務大臣が防空法の規定によって一定の区画を指定し、知事がその地区の家屋所有者または管理者に対して、一定の期日までに建物除却を命令することになっていた」(同P674)。大阪市の場合は昭和19年2月4日の内務省告示で初めて指定があり、3月中旬の最初の大阪空襲までに5回の指定があった。空襲後は緊急疎開事業として実施され、6月7日からは勅令によって知事が地区指定の権限を持つようになった。最初の頃は1カ月猶予があったり疎開者懇談会を開いたりしていたようだが、第一回空襲以降は有無を言わせず“除却”された例が多くあるらしい。あと、「市会史」では最初は補助金を出して疎開を促したことが書かれてあったはず。
だから、直接的に軍部の要請によって疎開道路ができたわけではないことになる。末期は行政≒軍部的だったとはいえ関与は間接的なものであって、防火が第一義にあったとみるべきだろう。
上記の告示を調べていったら安治トン前の疎開が行なわれた時期がわかるはず。というより安治トン完成の翌年に第2回空襲で被災しているのだから、完成時には疎開が始まっていたか完了してた可能性が高いと思われる。
閲覧したき書類出てくる。また迷惑をかける。。。でも1橋1簿冊だから。それほど誰得じゃないはずだから。
月ヶ瀬橋というと真っ先に4連RCアーチだった頃の姿を思い浮かべてしまうが(それはおかしいという説は甘んじて受ける),その一世代前?には木製ボーストリング曲弦トラスだった.まったく役に立たない豆知識である.ちなみに木製ハウ平行弦トラスだった頃もある.
昭和6年にRCアーチへ架替,戦後に高山ダムができ湖中に沈んだ.奈良県には沈んだRCアーチが多いような気がする...下北山村の前鬼橋とか.
量的にはこの程度でいいんじゃなかろうか.あとは前振りと再建の件を整理,と.
日射しが燦々で暑いこと此の上無し。風があるのがせめてもの救い。そのお陰でクーラーが要らない(というか付けるタイミングを逸している)。これが真夏になったらそよりともしないんだろうな・・・。
電話了。waitに入る。
あれー、崩し字辞典がどっかいっちゃってる。。。
もう少し空気が抜けてくれると暮らしやすいんだがなあ.この部屋は.
そのせいではないと思うが原稿があつくるしくなった.もっとさっと終わらせるつもりだったのだが.要するにこの記事は碑文と高解像度瓦版画像がすべてだ.ぐだぐだ書く必要はない.
PCによって句読点の設定が違ってるのでどちらでさぎょうしているかがバレバレだ.
今日も公務員の横領のニュース.大阪どないなっとんねん,と憤慨する.
上級官吏は別として,戦前は基本的に異動が少なかったと聞いている.同じところに長く居るから知識が蓄積される.それが同時に官民癒着の原因にもなった.だから戦後は2,3年で強制的に入れ替えるように改められた.と聞いた覚えがある.どっちがいいんだろう.入れ替わりが激しいとかえって横領とかチョロマカシとかし易いんじゃないだろうか.入れ替わりが激しいから誰がどのように処理したか追いかけづらいので.
担当の入れ替わりが激しいといろいろ不便.あと数年も経てばまた安治トンも担当さん変わるんだろうな.
うまくいかない時はとことんうまく行かないものだねえ.あれもやらなきゃ,これもやらなきゃがあるのにそれ以外に手をつけてドツボにはまったりとか.大したことじゃないんだが一度雪崩ると手がつけられない.
深く考えずにちゃちゃっと片付けよう.
旧精華小学校の保存・活用を要望する署名が行われてますー.昭和4年に完成した小学校建築の粋.市街に残る唯一の戦前のRC造小学校建築です.詳細は精華小校舎愛好会のサイトを,署名はwebでも行えます.確か七月頭には提出するはずなのでお急ぎください。
このクソ暑い中、自転車で橋を見に行った。正確にいえば橋の橋脚だ。
南岸と特に変わりがあるわけではないのだが、考えてみたらガーダー部の橋脚がどんなになっているかマジマジと見たことがなかったことと、当初は小判型ウェルで設計され跳ね出し部はついてなかったことに、南岸から写した写真と航空写真を見てて気づいたからだった。確かに根元は設計図通りの小判型だがその上に打ち継いで広げてある。車線数は変りないので、一車線により余裕を持たせたか、御堂筋線を独立のアーチにしたことで幅を増す必要があったのだろう。写真手前の7号橋脚などは左右にも広げられてあって原型を留めていない。なお堤防近辺はこれといった発見無し。堤防以北はすべてΠラーメンの高架になっちょる。
ついでに水道橋の此岸も撮ってきた。かつてはも少し北岸が南へ寄っていて、この橋のところまで来ていたから、これだけの長さで済んだのだ。ただし渡した水管は岸の地下を東北東に伸ばされていたので7号橋脚8,9,11号橋脚と干渉した。
なんでこんな暑い中行ったのかは謎。ようやく自転車を修理して、ライオン屋にロングソックスを買いに行こうと思い立ち、その帰りに寄ってみようという軽い気持ちだった。13時発17時帰宅という暑い時間帯だけ走ったことになる。自転車に乗れるようになったのは有り難いがたったこれだけの距離なのに足がくたくたになった。そのうえケツが痛え。まだまだリハビリを重ねないといけないようだ。ていうかサドル買い替えないと。
自転車で南北に横断しようとすると随分遠回りさせられる。高架下の工事事務所行き止まりに迷い込んだりして少々ツボった。
_ しとろん [水道橋の写真、訳が判らないが強く惹かれるなり。]
旧精華小学校の保存・活用を要望する署名が行われてますー.昭和4年に完成した小学校建築の粋.市街に残る唯一の戦前のRC造小学校建築です.詳細は精華小校舎愛好会のサイトを,署名はwebでも行えます.web経由は7月3日(日)締切り〜。
片づけたのではない。羽根が割れていたのを直した。やはりエポキシ2液系の接着剤は最強だ。これで少しは過ごし易くなるが、しばらくは羽根が吹っ飛ぶかも知れない恐怖と闘うことになるだろう。
タイトルと本文がどんだけ乖離しているかを確認するために入れてみたが未だに動作せず。よっぽど乖離してるのか。月とスッポン、廃墟と廃道くらい懸け離れているか。ちぇっ
亀の瀬トンネル見学会が7月18日にあるらしい。大和川河川工事事務所のパンフ参照。昨年11月のは怪我で行けなかったから申し込んでみようかな・・・
旧精華小学校の保存・活用を要望する署名が行われてますー.昭和4年に完成した小学校建築の粋.市街に残る唯一の戦前のRC造小学校建築です.詳細は精華小校舎愛好会のサイトを,署名はwebでも行えます.
web経由は7月3日(日)締切り〜。
大阪でも初めて猛暑日を記録。既に梅雨明けして真夏に突入したかのような一日だった。夜も気温が下がらんな……数週間前にはひんやりした空気が楽しめてたのに。
明日は村田鶴の生誕127周年記念日です。という言い方でいいんだろうか? 人の年齢の数え方とか○○から×年とかの数え方がいまいち覚束無い。要するに2011−1884ということです。
津波碑、〆を除いて片付ける。拡大させるために結構高解像度&低圧縮にする必要があった。こういうのは生JPEGに敵わないがそれを配布するのも上手くないし拡大縮小移動が自由自在でない人も多かろう。
今号の記事を書くにあたって松坂国道工事事務所の20年史『20年のあゆみ』を読んだのだが、そこに興味深い記述があったので紹介したい(ちうことで外向き記事のつもりで襟正して書く)。モノは歴代の工事事務所長が発刊に寄せて書いた記事なのだが、そこに昭和40年頃の道路の捉えられ方というか、「通行止」に対する一般人の意識とでも言おうか、そういうものが書かれてあって、ちょっと考えさせられた。
ちょうど矢ノ川トンネルが建設されている時分の話だ。前提条件として尾鷲の特異な気候のことを頭に入れておくほうがいい。同じページにちょうどいい一文があったので引用しておく。
…尾鷲の雨は豪快である。時間100mmという、洋傘が中でシゴいて役に立たなくなるような強雨が、2時間でも3時間でも続く。勿論、車はワイパーを早くしても前が見えなくなり走れない。日雨量1,000mm、即ち、1日に1mの深さに相当する雨が降ったこともあった。…(松坂国道工事事務所『20年のあゆみ』)
時間100mmといえば大雨洪水警報が出て避難勧告のお釣りまで来るレベルの雨である。それが茶飯事であったのが尾鷲というところだ。
それで、焦点の話。
当時は飛騨川事故以前のことで、道路管理の考え方は“道路は少々無理しても止めない”であった。しかし、この険阻な工事中の山岳道路で、しかも名うての豪雨地帯ではこの考え方は、あまりにも危険すぎる。状況を判断して通行止めをすることとした。しばしば止めたので、本省から直接電話でお叱りを受けたこともあった。一般人も現今とは異り“自分が判断して通ろうというしているのだから止めるな”という考え方が強かった。だから通行止めをかけると言っても容易な事ではなかった。標識等は抜いて谷底に捨てられてしまう。ローラーを道路に直角に置いても翌朝は、どんな方法でするのか、車1台通れるように動かされている。ある時は通行止めをして、崩落の取片付をしていると……崩落取片付けも決死的なものである。……。地方の鮮魚輸送のトラックの運転手が、バールを手にして、折悪しく?現場に居合わせた私のそばに詰め寄って来て“通せ”と、殴りかゝらんばかりにすごまれた。(松坂国道工事事務所『20年のあゆみ』)
高々40数年前の話であるはずなのだが、ひどく隔世の感がある。それと同時に「通行止」の禁を犯した者に対して罰則規定がある理由(あるいは現今の行政が神経質な理由)がわかったような気もする。そうでもしなければ勝手に入って勝手に死なれるから−−−という書き方が決して大げさでないほど意識が低かったから−−−だ。飛騨川事故だって、改めて原因やら背景やらを読んでみれば随分酷い話である。
この文ではたまたま地元民が出てくるが、そんな土地柄だったという訳でもないだろう。続いてこんな話も書いてある。
矢の川トンネルが通れるようになると、まだ工事中で供用していないのに、大型バスまで現場内に入り込むようになった。日中はさすがに入らないが、現場に人が居なくなる夕刻や早朝に通って打込んだばかりのコンクリートを台無しにされる。造りかけの側溝にはまって動けないでいることもあった。(松坂国道工事事務所『20年のあゆみ』)
このような状態なので、法面も未完成、舗装もしないままで供用開始したそうである(昭和43年4月に開通式)。換気装置も未完なのでトンネル内はもうもうたる砂埃だったという。今のような快適なトンネルになったのはその数年後だった。
自分なら大丈夫。自分さえ良ければ。そういう考え方がごく当たり前で、疑われることなく通っていた時代。自分が生まれた10年前までそうだったのかと思うと「何だかなあ」と思ってしまう。もちろん、未舗装崖崩れ危険道路が至る所にあった時代だから、そういう危険に慣れていたのもあるだろうが。
_ TUKA [な、なにか問題でも・・・・。]
_ nagajis [いえいえ問題はないんです。紛らわしくてすみません。 TUKAさんの原稿が来るころなのに自分の原稿の目処がついていないので・・・こりゃいかんな、慌てなきゃなと。]