nagajisの日不定記。
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撮影中にズームさせたらタイガーショットになるんじゃね?と思って試した一枚が今頃になって出てきたうえにそれっぽい出来だった。もうちょっと練習してみよう。部屋の散らかりように関しては、ノーコメント。そして「タイガーショットとは何か」を説明しない非道をゆく。N氏が番組内容を語ってくれただけで実物は見たことがない。
相沢時正『隧道新書』にある阿仁鉱山の隧道。長2508尺=760mとあり、『明治工業史 土木編』に三坂隧道と書かれている阿手隧道(尾小屋越え)の433間=787.2mに次いで明治期第三位の長さだった。この長さは戦前第3位でもある。どの本だったか思い出せないが阿仁鉱山隧道を第二位にしていたものがあったような気もする。ともかくそんな長大隧道の割に情報がない。どこからでてきた情報なのか気になっていた。
今年の8月にkindai.daのコンテンツが拡充され、追加された資料の中にポインタを発見。本日ようやくコピーを入手してきた。要するに阿手隧道と同様の出自。旧坑道を延長して掘削した鉱山内連絡用隧道だ。ただし掘削にはドイツから輸入した削岩機+赤羽工作所で作ったコンプレッサーを使用したという結構近代的な工事だったようだ。
……あ、原本には25町8間とある……。ということは2.741kmとなって、ちょっと話が変わってくるぞ。人道専用だったらこっちが最長ってことになるな。数字あってんの? 高さは7尺、幅6尺だから若干広い坑道という程度か。
別子銅山の第三通洞が1.8km、大正に完成した第四通洞が4.5km。これらは鉱山軌道のトンネルという位置づけなのか、それとも坑道の一種とされてるのか、いわゆる道路隧道には含まれていない>「日本の近代土木遺産」ほか。そうなると阿仁のも阿手も入らんことになるが、阿手は歩行者専用で一般にも解放されていたらしいからな。阿仁鉱山のはどうやろ。
ついでにメモ。例の絵葉書はたぶんこれ。http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764408/47
昨年の今日、足を怪我してドツボにはまったわけだけれども、それから1年経った現在、全く元通りになったというわけでない。多少ひねった程度では痛まないけれども長く歩くとまず右足が痛くなる。翌日は足首がガクガクになる。ついでに右膝も痛む。変な歩き方になっていて、それで膝にも影響が出ているらしい。注意一秒怪我一生やな、ほんと。
でもまあ。以前よりは格段に良くなって、日常生活には何ら支障がないし、自転車で旅に出ることもできるほどになった。梅地下を歩く速度も以前並みになった。もう少し爪先立ち的歩き方を心がけて足首の筋と筋肉を使えばも少し良くなると思う。
んでこの一年間を振り返ってみて、思った以上にいろんなことをしているなと思った。カレンダー作って杖突いて発送しに行った12月。廃道をゆく3書いたり三重県の道路行政をほじくり返したりKINIAS学会誌作ったりした春。安治トン資料を追究した5月。67月はこれといったことができんかったな。8910は久しぶりにあちこちへ行ったうえに原稿書きまくった。総じてそんなに悪くなかったような気がする。まだしなきゃいかんことがあるみたいだしな。
絵葉書集めだしたのも怪我以降か。古物市で一枚100えんのを中心に漁ってる。根気よく探しているといろいろ面白い発見があっていい。例えば函嶺洞門。外観がよくわかる一枚。
別のところで内部の絵葉書を見つけた。昔は2車線じゃなかったんだなとか砂利道だったとか(道はどこでもそうだったろうが)わかって面白い。あと、基本的に著作権を意識しないで使えるのが楽。
以前の続き。もう一方の遠景。
上で満足していたらこんなのもあった。南口?のアップ+彩色。この彩色は綺麗なほう。ついでに北口?の引きもあったが購入はやめておいた。そこまで縁があるわけじゃない。なお北口の20mほど手前から左山手へ越えていく道が写っていた。隧道以前の道だったか、近くの寺社仏閣?に向かうものか。
今朝は屁で目が覚めた。
尋常ならざる屁であった。30秒近くぶーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーと出続けたのだ。屁が。虚ろな頭で「時計見て何秒続くか確認しようか」と思ったものの、その時点ですでに十秒近く続いていて今更測定しても厳密な値が得られるわけでなし、近くに置いて寝た覚えもないのでやめにしたのだが、その時点からさらに続いて屁が出続けた。どんだけガスが溜まってるんだ、とか、麹菌による醸しと同様に寝てる=静置してると発酵が促進されて云々、とか思ってもやはり出続けた。止まったあと布団を剥ぐのが怖かったほどだ。
という感じで、記憶のうちでは切れ目なく止めどなく長々と屁をこいたように思っているのだが、実際はそうでなかったのかも知れない。この事象が目覚めの瞬間を跨いでいるからだ。最後は確実に目が覚めていて屁をこいていることを知覚していたのだが、始まりが睡眠中というか夢の中というか、そういうところから始まっている。人が睡眠中に感じる「時間の長さ」はとてもあいまいであると聞いたことがある。長い尋問と弾劾的裁判の末に斬首刑になる夢を見て、首を斬られた瞬間に目が覚め、と同時に外れて落ちてきたベッドの部品が首に当たった、という体験談by心理学者があるそうだ(確か宮城音弥「夢」)。首にものが当たった感触から逆算的に長い夢を再構成する、あたかも長い夢を見た末に首を切られたかのような錯覚に陥るようなことがある、ということらしい。ということは先述の屁も覚醒後の少々長い屁から超長屁を時間軸後ろ向きに延伸させただけなのかも知れない。そう考えたほうが辻褄が合う。恐る恐る嗅いだ布団はそれほど臭くもなかったからだ。
受け軸にガタが来ていたらしく突然ギュルギュル飯田市て困っていたノートPCのファンを交換したった。適当なファンが手に入れば…と思ってポンバシへ行ってみると同じメーカーの一つ新しいモデルでヒンジ割れ・液晶キーボードメモリHDDなしという超ジャンク¥480を発見。この値段でファンを買うのだと思えば安いものだ。んで入れ替えたったら、おお、こんなに静かだったのかと感心することしきり。ついでにバッテリーが生きていてちょっと得した気分。
懸案だった電源も購入した。いただいた直後に電源が死んでしまいお蔵入り状態になっていたものがあるのだ。¥680かと思っていたら¥880でちょっと悄気、帰って接続しようとすると4pinが一つ足りなくてさらに悄気たが、8pinオスを4pinメスに無理矢理差して完工。やはり速い@_@。余りに速いのでカシミール3Dでフルトレーシングして遊んでみたり。動画はやらないのでちょっと勿体無いスペックではある。これでも画像処理はfreq.約半分のMacのほうが速い不思議。PhotoshopとGIMPを比べたらあかんのやろうな。
以上、珍しく外れのなかったポンバシ徘徊の話おわり。帰りの電車であの屁はどう考えても長すぎたよなと納得し夢だったんだという結論に達した。古本屋で購入し鞄に入れたままになっていた『滋賀県誌』¥300を読んでいると、見知らぬおっちゃんに「なんや難しそうな本読んどるな〜どこぞのセンセイか〜」と話しかけられたりした。「いやいや大した本やおまへん、おっちゃんらが若いころとか子供の頃とかに見て知ってるようなことが書いとるだけですわあはは」と答えておいた。大阪は面白い街である。
滋賀県高等学校社会科教育委研究会地理部会編・地人書房刊・昭和49年初版発行。大津、湖西、湖東、湖北のそれぞれについて略史や風土、産業なんかが完結にまとめられていて、そうかと思うと地場産業の発達史が細かく書かれてたりもし、「滋賀県とはなんぞや」を把握したい向きにおすすめな一冊。特に地域の産業史に関しては戦後から昭和50年ころにかけての話が多いので、ちょうど自分が抜けている辺りが補えるのが有り難かった。厚さの割に結構網羅的に書かれてあるのもお買い得感を増長する。内容が覚えられるかどうかはさておき。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/15-12-0115.pdf
いつも忘れるのでメモしておく.「道路の改良」昭和8年(1933)12月号に杉山豊吉の寄稿文がある.この年に行われた第一回道路大会に参加しての感想文だ.この時杉山は河村協とともに参加して阪神国道の見学をしている.河村協はのちに竹筋コンクリートの研究を「道路の改良」誌に投稿し,また竹筋Cの著述も残した.
確か道路大会は道路改良会主宰で開かれたもの.各県から2人の技師・技手が参加して,道路法令やら何やらの諸問題を議論した.数年間続いたはず.詳細はぐぐれ>jis
移籍組のなかでgooglableなのはこの杉山と遠山貞吉だけだ.吉田勇は同姓同名さんが多くて判別し難し.淀川の沖野忠雄の銅像再建協賛者にも吉田勇氏の名があるが,彼が彼なのかは不明.銅像は1979年再建.
『全国市長銘鑑 自治制実施五十周年記念』帝国自治協会著,昭和13(1938)
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1458365/69
廃道36選に苦し紛れに突っ込んでおいた和田峠.トンネル脇の道跡?が道跡!である証拠の絵葉書をみつけた.つうても『本邦道路隧道集覧』の和田嶺隧道を見れば明々白々なのだけれど,そこにスノーシェッドがあった時期があったとは思わなかった.(絵葉書は北口と思われる.『本邦〜』を見ればわかるように隧道は胸壁つきで作られているので絵葉書の口≠隧道北口だ)
和田嶺隧道の開削は昭和8年(1933).熱心なクリスチャンであり土木技師でもあった青山士の監督による.完成した坑門構にはエスペラント語で「人類の願望のために」「人類愛の努力をもって」という意味の銘板が埋め込まれている.
このへんね.2002年に旅した時はそうと知らずに抜けてしまって(&道跡を半分ほど辿って引き返して),撮った写真はこの一枚しかない.ネットで探してもこのプレートの写真が見つけられなかった.もしお持ちの方があったら教えてほしい.というかこの坑門工明らかに改修してるやろ.どう見ても昭和8年製とは思えない新しさだし,隧道銘板は右書きになってる.
北側坑口は当時のままっぽい.
先日掲載の続き物と思われる一枚.別の店の一山百文の束の中(の×5)から発掘した.変形が進行し,古レールで補強された亀の瀬隧道が写っている.壁の様子からすると大正期に作られたC製隧道のほうだろうと思う.写っているのは誰だろうか.土木学会誌読んだらわかるかも知れない.
古絵葉書は,ある人にとっては無価値なものでも,ある人にとってはとても有益なものになったりするから面白い.すごくニッチなジャンルに興味があって,転売する気も儲ける気もない自分にはちょうどいい対象だと思う.
ようやく本日香料したとの連絡。旧版地形図を沢山使い過ぎて国土地理院を煩わせたらしい。次は気をつけよう。
てか、ことえりの辞書には「稿了校了」という言葉がないのだな。永遠に書いてロッテか。
というわけで校了祝いに吉野家へ行った.吉野家へ行くと,生姜入れのトングの扱いというか,トングを生姜入れにどのように収納すべきなのかが気になる.毎度々々気になって仕方ない.
よく見られるのは,トングの一方を器の内側に沿わせる形で真っ直ぐ挿し込む収納法だ.「垂直法」とでも呼んでおこう.この方法は店員さんが生姜を詰め直した後でやっているのをよく見る(気がする)からオフィシャルな収納法であるのかも知れない.生姜は固体であり,トングを自由自在に突っ込むことができないことは言を俟たない.その点器の内壁に沿わせる「垂直法」は条件如何に関わらず施すことができる.簡単かつすっきりする収納法と言える.
しかし,トングの片方が外に出てしまうのは少々いただけない.衛生面の点で瑕疵がある.トングの作用点に埃がつく可能性があるのは明白なことで,生姜のかけらがついたままだったりしようものなら次回使った人が干からびた生姜を食うはめになる.自分以前にその場所に座っていた人物の飛散唾液がついている可能性だってなきにしもあらずだ.特にこれから寒くなる季節.インフルエンザ菌が付着したりしたら宜しくないのではないか.いや,自分はどうでもいいのだが,リターナブル箸すら使いたくない人のために割り箸を用意しているような吉野家なのだから,そこまで徹底したっていいんじゃないかと思う.
トングの先端を保護する観点からは,器に突っ込んで蓋をするほうが宜しいように思われる.先の命名に倣って「水平法」と呼ぼう.この収納法も,万全のように見えて陥穽がある.蓋に開けられたトングを通す穴の径が小さいために,蓋と本体との間に支えてしまいがちだ.特に生姜がたっぷり入った器だと絶望的に浮いてしまう.
かといって,中身が少ない器であってもきっちり閉まらない.トングは付け根に向かうにつれて太くなっており,器の奥に挿し込めば挿し込むほど蓋との間で支えてしまう.「水平法」できっちり閉められるのは生姜量が器のおよそ半分ほどの時だけで,そういう状況にある生姜器に出会うことは稀だ.
そうしてわずかに浮いた蓋を見ながら,きっちり締まってないイライラを目前にしつつ,あるいはちょびっと生姜のついたトングの片方を眺めつつ,牛丼なり豚丼なり牛鍋丼なりを黙々と食うことになる.他に考えることがない故にトングの事ばかり考えてしまう.なぜこの穴の大きさにしたのだろう.理解に苦しむ.穴がもう少し広ければ「水平法」で何の問題もなく収まるのだが.いやいや,あまり大きくし過ぎても,虫や埃が落ち込んだり,生姜の乾燥が早まったり,店内が生姜臭紛々になってしまうといった問題が発生するのだろう.やはり「垂直法」がオフィシャルな収納法なのだろうか.そういう下らないことに思考を費やして店を出ることになる.いろいろと無駄である.
「どうにかならんものかいな」と思い続けて早や数年.ひとつの解答を得た.右図のような蓋にすればよいのである.
ユーザー側でどうにもならないものだから,解決法としては下策だが,もし今後生姜入れを更改する機会があったら検討していただきたいものだ.よそしく吉野家.
「ムックだと本扱いしてもらえない.書評さえ書いてくれない新聞社の鼻を明かしたい」という野望に乗りました.あれ,これじゃ答えにならんか.そうなるとは限らないのだし.
デジタルメディアは所詮ネット上でしか流通しない.紙媒体がデジタルの世界に入ってくるのも(日本じゃ)もうしばらくかかる.両方ともやっとかないとこっちが干からびるだけだと思うなぁ.
あ,間違えた.何となく新企画を思いついて進めているという話.使い道のない写真を供養するような企画を思いついて,試しに作ってみている.もうちょっとひねりがほしい.現状ではただの旅日記だ.土日で考えてみよう.
タイトルとDisclaimerはいい.導入が意味不明.そのままでもいいかと思う.この際だからいろいろ試してみるといい.・・・って,最後は書きなおしたんだっけ.あれ.
本題.さいの目に切ったじゃがいもを炒めて焼飯に入れれば新食感が体験できるのではないかと思い,試してみたのだが,全くだめだった.混ぜている最中に潰れて得体の知れないものになってしまった.まずくはないんだがとにかくくどい.
「焼飯を作る時,先に卵を混ぜ込んでから焼くといい」てなことを最近知って,おいそりゃ本当かいと試してみているのだが,上記のような余計事を同時にやったりするせいで効果が見分けられない.一度でいいから王将鍋とあのコンロで思う存分炒めてみたい.
ここで宣伝するのをいつも忘れる.12日(土)に京都で琵琶湖疏水に関する講演会ほかが行なわれます.近畿産業考古学会主催.詳細は左記リンク参照.産業観光の大家,疎水を世界遺産にしようと最前線で頑張っている方々の話も聞けますー.
pdbとtdbを独自ドメインに変更した.特に深い意味はない&rottenなroute.phpを除いてチェックしているが,そういやtdbの変更箇所表は機能してるんだろうか?ちぇっくしてなかったや.あとAlpslab Clipが使えんくなったんでGoogle Maps の StaticMapに変えた.これから有料制になるってことをつい最近知ったのだが,日に2万もアクセスがあるわけがないから何も対策するつもりなし.それより最近激重のコアサーバをどうにかしてほしい.そんな子は斜め45度チョップだ.うりゃ.
せっかくなのでこれも上げておく.少し前に上げた時計橋千歳橋とセットになっていたもので,確か蓬莱橋といったはず.宝塚駅前に架かる,対岸に渡るためのあの橋だ.構図も駅前から対岸を見る形.他にも宝塚動物園の絵葉書が2枚.こちらはこちらでその筋の人に喜ばれるかも知れない(し,既知のものかも知れぬ.今では存在しない動物園だ)
阪神大水害ではこの橋も流された.流失直後の絵葉書をどこかで見たことがある.高かったのだか小さな写真だったかで買わなかったが,そういうのがあるということだけメモしとこう.
ゴーゴー.ゴーゴー.「つつましさ」とか「忍耐強さ」とか「もったいない」とかいった日本人の美徳と云われる道徳観って実は戦中戦後の10数年間に出来上がったのではないかと思ってみたりする.戦前からあったものがこの時期に誇張され刷り込まれて凝り固まったんじゃないか.青鞜社は明治末の設立だし,宮武骸骨刊みたいな奇を衒った雑誌に満ち溢れていたし,エロ・グロ・ナンセンスも発祥しているし.戦争突入→敗戦のごくわずかな時間がいかに歪んでいたかをいろんな点から思わされる.鬼胎の時代とはよく言ったものだ.しかしその時代がなければ今が存在しない.耐えて忍んで時折後ろを振り返ってというほうがよく感じる.個人の勝手な意見だが.
_ ocoze@三重 [>投稿したあとで逡巡してもだめですよう 確信犯なので不都合があれば管理者削除してもらえばよろし。 CDなど固定メディアでの出版はそうなのですね。ISBNがないと義務はないのかと思っていましたが。..]
うしろのほうの日記で起こったことが表沙汰にならないのはちと考えものだ。さて、どうコメントを返したらいいものか。
張り切って早くに寝て早くに出たわりに無事終わった。蹴上発電所内部の写真が公開できないのは勿体無い。写真はいかにも嘘臭い中途半端な写真。無鄰菴にて。
講演の内容もたいへん刺激的だった。琵琶湖を世界遺産(産業遺産)にするためにはどうすればいいか、どのような問題があるのか。産業観光のあり方。地域を変えるのは3つのモノ。メモがどっかいって思い出せんが「よそ者」と「馬鹿者」だということ。
昨日連れていっていただいた川上村で、西河の銀杏がライトアップされているのを見つけた。周りが暗いので余計映える。いろいろ工夫してみたけれど結局これが一番しっくり来るのだった。
街路灯を廃して、すべてこのような街路樹のライトアップに切り替えてみてはどうだろう。返照で充分明るいし、寂しい感じも軽減される。
琵琶湖疏水、徳俊橋〜夷川発電所の間だったか。青一色。
疲れた時はNyan Catを観て,それからNyan Cat Dance [Indian Bollywood Version]を観てげらげら笑うといいよ.
コバルト棟で照射実験してた頃は臭いがあったな.数千Ciの60Coを使ってγ線照射するんだけど,オペ室の扉を開けた直後に入ると微かな刺激臭がした.もちろんコバルトは鉛箱にしまってある.数十秒前まで放射線をバリバリ出す放射性物質があったところへ入ると臭うのだ.たぶんオゾンが発生してたんだと思う.
O2→2O・
O2+O・+e-→O3
この臭いを戯れに「放射能の臭い」と言っていたけれども,まさかマジで使い出す人が出ようとは思わなかった.本気で臭いを感じる人がいたらその人はその時点で即死してる.1Ci=3.7×1010Bq,その103倍のオーダーで放射線を浴びてることになるからな.
日曜日,校了報告のつもりで土倉庄三郎の墓を訪ねた.大滝上手の龍泉寺の墓所にあるとは聞いていたが,訪れるのは初めてだ.
墓所の一番低い所に垣根に囲まれた一区画があり,それが土倉家と植田家の墓地のようだった.植田家は妻の政子の実家であって,その縁で一所にまとめられているらしい.垣根は低く,よく見渡せるのだけれども,入り口に門があったりしたこともあって,中に入るのはよしておいた.
遠くから見るとどれが庄三郎の墓なのかわからない.あとで聞いたところ,一番奥の右から?番目ということだった(自由に入ってもよいとのこと).政子の墓はたまたま通路に近いところにあったので気づくことができた.真ん中の段の階段の左にあるのがそれだ.
この中に庄三郎の墓があるんだな,と思いながら見渡して真っ先に思ったのは,とても小さく質素なものだということ.稀代の土豪一家でありながら,墓はどれもつつましやかで,それは他の家の墓石と変わるところがない.一家の中でも庄三郎のが特に大きいということもない.村に生き,村に死んだ一人の人物というまでである.いろいろと物思わされる.
寝るとかいいながらよく眠れない.コーヒーのせいかも知れない.なんか書いて時間をつぶす.
この間東京メトロのトイレで見た張り紙.最後の一文が気にかかる.なんでそこで切るんだろう&そういう揃え方にするのだろう&最後から1Lが一画落としじゃないんだろう.
いや,そうせざるを得なかった理由はわかってるんだ.頭一画落としで本文4行目と5行目を続けてしまうと「。」が行尻になる.Wordのデフォルトは確か追い出しだったはずで,そうすると最後の行が「す。」で終わってしまう.格好悪い.かといってぶら下がりにすると枠と干渉する.これも格好悪い.追い込みにはならなさそうな気がする.横幅96%にするとかいう手段も姑息でしかない.とか何とかいう感じで,あれこれ悩んだ結果「もうどうでもいいや」といって投げたに違いないんだ.
表題の「禁煙についてのお願い」というのもいまいちよくない.喫煙不可を伝える内容なのだから,ストレートに「禁煙のお願い」でいいんじゃないか.「…についての」などと書くと他に何かありそうなように読めてしまい,最後まで読まないとはっきりしない.まどろっこしい.
「禁煙にご協力して頂いております」という表現もまわりくどい.このトイレの所有者は東京メトロだ.そこで禁煙を求めるのにそんなへりくだる必要はあるまいよ.「トイレ内は禁煙です」でいいじゃないか.そうすると3行目は不要になるが.「ご協力*して*頂いて」というのが妙に感じるのかも知れぬ.「(第三者が)ご協力する」とは言わないんじゃないか.なんか,もやもやする.
別にメトロに文句を言っているのではない.自分が書きなおすことを考えた場合に,これという代替文/妙案が浮かばないからもやつくのだ.
_ ocoze@三重 [メトロどぜうことば ]
@15日PM10:32
@15日PM11:35
KINIAS経由で案内をもらってて,確か明日だよなと再確認したら,午後6時30分から8時30分迄という奇妙な時間帯だった.そのほうが一般の方も参加しやすいのだろうか.寝過ごすことはないと思うので参加してみようと思う.大阪公会堂3階会議室にて.
えっと,どこでだっけか(爆
場所:京都私学会館2F (京都市下京区室町高辻上ル山王町566)
時間:午後1時〜5時
冷やかしのつもりだったけれどもアレとかコレとか依頼しておこうかしらん.少し慌てないといけないけどな.
原稿で忙しいから書かないっていうのを真に受けた自分が馬鹿だったというだけだ.
発行直前になって次号予告を作り忘れていることに気づき,慌てて思いついた新淀川新橋を入れてみたけれども,そういやTRDBを連作にするつもりだったんだよな.しばらくは細いのを多めに書くことにしようと思っている.大きなネタはないし.
Defragはやっぱり中途半端なまんまになった.埋草的実験記事なので評価はいらない.使い途のない写真を使うという以外に,全体を通して何かテーマなり構成なりを考えられたら,もう少し興味深いものになったんじゃないかと思う.けれどもそんな第二軸を思いつくことができなかった.最初は説明的な説明文章で始めて,それがだんだん壊れていくとか時制が変わっていくとか暴走し始めるとかいう細工をしてみたかった.2004で終わっているのもそのせいだというのが正直なところ.無論そればっかりじゃない.2005年以降は写真量が激増するから選択が難しいし,必然的にORJを始める前後の話をしなければならず,愚痴ばかりになりそうな予感がしたからだった.記事に使わなかった写真で裏話的なことを書けばそれなりに意味がつくだろうが,そうする前に愚痴になりそうだと.や,書いたわけじゃないけれど,想像したら真っ先にそんな姿を想像してしまった.そういう時はどう頑張ってもそうなる.
結局のところ「写真供養」でしかなくなったわけだが,全く無駄というわけでもない.いろいろ思い出したし,再訪したいところがあったのも思い出した.予定通り行くことができたら入れ込む.但馬と絡めて行くか.今年は暖冬であってほしい.
新淀川新橋を夢幻にして,旧橋は別に入れ込むかな.龍ノ渡井.いやいや,CEHも書きかけだった.
「偉人伝」の宣伝は改めてここに書く.今回は紙面で広告する気になれなかった.書くんならちゃんと書いとかないと.あ,いけね,補足ページ作りかけだ.さっさと作っておこう.動画と,後に入手した絵葉書と,使用写真のpdfと...
ずいぶん前に掲げていたやつのもう一枚.上の駅.何だかよくわからない白い粘性物質がついているのが惜しまれるが,所詮100えんなのだから仕方ない.あちこちで絵葉書を探すようになって,朝熊山とか比叡とか摩耶山とかは山のように見かけたけれども,能勢妙見ケーブルのは未だにこの2枚しか見つけられない.そういえば愛宕ケーブルも見たことがないな.
今は伊香保ケーブルの陸橋が写ったやつがほしい.ケーブルを集めたいというわけではなく,このケーブルカーの橋に用がある.
ようは廃隧道ェ・・・と書こうと思っただけだ.ないかも知れないが.栃原にも行ってみたい.
すごく勘違いしていた.16日にやってたのは精華小のシンポだったorz.まあ保存運動の署名をした手前,すこしは関わっておかないと義理が立つまい.
小学校=学区の象徴.関係費用は学区内でまかなう仕組み.なので小学校は学区の象徴たり得た.昭和2年に学区制が廃止され,その駆け込み需要で豪華な学校が多数建てられ,その一つが精華小学校.正直嫉妬するぐらいに贅沢な作りだ.冬にぞうきんがけしたらその端から凍っていくような木造校舎で過ごした自分としては悔しい限りである.
学区が建てた学校ならば,地域が買い受けるなり譲り受けるなりできないものだろうか.市に何かを期待するのが難しく,もとが地域の公会堂的・富の象徴的なものであるならなおさらだ.
これは私に限ったことなので同意を求めるつもりはない.「建築」にとっつきにくいのは,それが富の象徴という側面があるからではないか.「誇るために作るもの」「金さえあれば作れるもの」というのはあまり好きではない.社会一般としてはそういう誇ることをやったほうがいいと思うし,建物も残すべきで,そうした保存活動にも賛同するが,私個人としてはなじまない.自分のものではないという意識が強い.そんなことを発見した.おそらく隧道だって,単に贅を尽くしただけのものなら興味を抱いたりしなかっただろう.誰もが使うインフラ・生活の頼みの綱としての道だから,親近感もて接することができたんジャマイカ.
公会堂といえば,先日大滝へ行った時に大滝の公会堂があることを知った.大変きれいな和風の建築である.ひょっとしたら元は学校だったのかも知れない.おそらく戦前からあるもの.波打ったガラスがそれを語っていた.
ということで検索してみると半分正解.昭和2年完成.土倉庄三郎が興した大滝修身会の道場として建てられ,剣道場としても利用されているそうだ.
阪急に乗るべく梅地下NorthMallを北へ向かって歩きながら,こんなことを考えた.
お?(ま|ち)んこ
性器表現である.
案外誰もが考えていそうなことと思ったのだがそうでもないらしい.なんて文化的なんだろう,と思う.単にGoogle先生に検閲されているだけかも知れないが.
もう少し拡張できないかと思っていろいろ考えてみたが,案外難しい.
お?((ま|ち)ん){1,2}
本当はここに「こ」を含めたかったが上手くいかなかった.関西風に「め」を入れ込むのはもっと至難である.ずらずら並べるのは論外.別の方面から攻めるべきなのかも知れない.
やがてあれこれそれの異名を思い出す前に「どこまでが性器なのか」という問題に突き当たった.あれこれそれはそうだとわかるが,性の特徴を表す器官ということであれば,例えば顔でもいいことになるのではないか.ムキムキマッチョなお兄さんの隆々な筋肉であってもいいわけだし,女性の体のママレモン容器の如き曲線美であってもよいことになる.いや別にクリームクレンザー自負でもいいのだけど.睫毛.唇.マニキュアの有無.そういうのもある.逆に,各々の性にしか無い器官を性器というのであれば胸は性器でないことになる.そういう印象はないような気がするが私な無知なだけだろうか.無知なだけだろう.
そんなことを考えながら顰め面で歩いていたが,そんな馬鹿な事を考えているとは誰も思わないだろうなと思ったところで口の端が緩んでしまった.敗北である.
あ,そうか.こうすればいいのか.
お?((ま|ち)ん|め)こ
なんで用がある時に限って休館日なのだ図書館は.(四文字ワード).しかも兵庫県立は以前もやったぞ確か.(四文字ワード).いや,わかってるんだ,悪いのはおれなんだ.事前に確認しないおれが.くそ.(検閲).まあ現地に行く前だったのはよしとしておこう.そうしてこれから何かをしようという欲も失せた.睡眠時間のコントロールにも失敗した.5章はまた今度だ.
使用写真をまとめるのはいいことだと思うんだが,そこに未使用おまけ写真を紛れ込ませたのは失敗かも知れない.ややこしいこと限無く,ページがすっかすかだよマリコちゃんになってしまう弊害も現出する.だからといってページの写真を削除しなければイミフになるのだ.ああ無駄.λ.
∧_∧
≦・λ・≧ きつねさん!
今日手配ができないとなると,週明けからというのが難しくなりそげなかんじがする.やはり自分でフェッチて来いということか.片道千なんぼも出さないといけないのは辛いが,国土地理院で買うよりかは安上がりだな.
現地で入手するというのもあるのか・・
ねえもんはねえんだよ!!!(4文字自粛)
神戸市立には戦後以降のならある.
支離滅裂→尻はもとから裂けている,ってどこから得たフレーズだっけ.『脱走と追跡のサンバ』だったっけか.「知能才能放射能,頭脳樟脳看々能」および「韜晦誤魔化し目眩まし露天の風呂は吹き曝し」は確かそうだった.3度目.
のじぎく文庫が届くのを見計らって,23日前後を目すべきか.これは多分ただちには届かない.寒くなりそうだ.
少しは真面目に書いたつもりなので真面目に宣伝しておく.表題の本が出る.ぜひ買っていただきたい.
テーマはOさんに与えられたもので,確か昨年の中頃から話があったと思う.道に関わった人の面白いエピソードを集めて書いてみないか,と.最初はためらった.まず思ったのは,数千字の原稿ですらまともにまとめられない自分が16万文字もの量を書けるだろうか? ということ.とりあえずてけてけ打っていれば,そりゃ量はクリアできるだろうが,一冊の本として纏まったものになるかどうかわからなかった.しかも伝記のようなことを複数人分やれという.土倉庄三郎だって『評伝』があったから書けたようなもので,要するに引用だ.そういう伝記のない人を書くことができるのか.それ以前に,すでに伝記がある人を又書きして価値のあるものになるだろうか? そういうテーマがいまの時代に一般受けするとも思いづらかった.Oさんは「それでもいい」という.
一度でいいから「自分の本」を作ってみたいという思いはあった.小さな夢だ.編集会社に務めていて,文章というもの(とくに雑誌に書かれるようなもの)がただの消費物として扱われていることを知っていても,紙媒体の衰退を目の当たりにしてきていても,本を作ってみたいと思っていた.そういう状況だからこそ.売って儲けようという魂胆はさらさらない.やったことがなく難しいことだからやってみたいというだけだ.
もう一つ,先日もちょっと書いたが,ムックは本扱いしてもらえない.その時々に話題にはなってもいつかは忘れられてしまう.日に何十冊も出る有象無象のムック本の一つとして埋もれて消えていく.それが惜しいというようなことを,確かOさんは言った.自分もそう思う.かつて買ったそういう手の本は,その瞬間には役に立ったり,好奇心を満たしてくれたりしたけれども,それを今でも大切に持っていて,見直したり思い出したりするようなことはなかなかない.消費されて捨てられていくだけだ.そういうものだと割り切ってものを書くことができる性格だったら,いまごろは職業ライターの末席を汚して暮らしていたかも知れないが,残念ながらそういう諦めができなかった.馬鹿みたいな理由で怒鳴られながら搾り出すようにして書いた1000Wがただの埋草にしかならず,誰の目に止まることもなく捨てられていくのが嫌だった(プライドが高かったのだろうか? 自分はそうは思わないが,傍から見ればそうなんだろう.単に苦労が報われないのがいやなだけだ).いまORJでも同じようなことをやっているが,自分の思いもしないことを書かされたりすることがないだけましだと思っている.共感を得たいのならSNSでもやっていればいい.
そんなこんなで書かせてもらうことにした.最初は10人前後を,という話だったように思う.それではさすがに大変だ,ということで,5人に絞ることにした.本当はもっと多くしたほうが良かったのだろうが,無理なものは無理と諦めたほうがよい.人が多いとジャンルが被ってくるだろうし,一人分の文量が少なくなって書きたいことも書けなかっただろうと,書き終えた今になって思っている.
禅海和尚と村田が重なるところがあるが,僧侶と官吏だし,村田の本質は隧道屋ではなかったわけだから,まあ分けられたほうだと思う.
本を通して言いたかったことは「はじめに」でほぼ言い尽くしたつもりでいる.書店で品定めする時はこの見開き1ページをざっと読むといい.あとは単純に,人物の紹介(「人,その生涯」)と,その人の作った道がいまどのようになっているか(「道,その後」)を書いてある.本当は人物紹介がメインになるはずだったが,書いているうちに道紹介の比重が大きくなって,半々かそれ以上になった.写真を活用できる場面がそこくらいしかなかったし,せっかく取材に行ったのだから,その時の写真を使わないと勿体無い.同じ内容でORJ向けに書き直すこともないだろうと思う(青の洞門はそのうち追記をするかも知れない.執筆後に絵葉書が増えた).
心配していた伝記パートは,増田淳で相当苦労したほかはそこそこ思い通りになった.土倉庄三郎はORJ記事を若干添削・追記しただけ,村田鶴も流用があるが,他は新規に書いた.「道,その後」はすべて新規である.道紹介はルポ風が抜け切れなかった.もう少し淡々と書いたほうが良かったかも知れないが,どうせ自分の本なのだから売れなくても自分のせいにできるのだと思い,好きなようにさせてもらった.
個々の章についての話はおいおい書いていくことにする.原稿を書き始めたのは今年の夏からで,それまではネタの収集と準備,構成を考えるのに費やした.書き始めてからもあちこちへ出かける必要が生じて,最後のほうはずいぶんカツカツになった.ORJ用の原稿が足りなくなって2日半徹で書いたこともある.締め切りを伸ばしてもらったり,初校と再校でまるっきり書き換えたりもした.Oさんだけでなくデザイナーさんにも迷惑をかけたと思う.そうやって苦労させられる側にいて,自分はしまいと思っていたはずなのにね.最も大きな不測の事態は,村田鶴のご子息であるKさんが入院され,しばらく連絡を取れなかったことだ.こればかりはどうしようもない.10月頭にようやくお会いすることができ,その結果を反映させていたらずいぶん遅れてしまった.
当初心配していた「16万文字も書けるのか」は,3/5まで書いた辺りで大幅に超過してしまうことが判明し,ざっくり削るはめになった.村田鶴は当初は7万文字にもなってしまい,構成を元に戻して半分以下にしている.これは自分が欲を出したせいだ.最初から他と同じ体裁で書いていれば何の問題もなかった.減らしたことでかえって本総体として纏まっただろう.
反省を書けばきりがないので脇へ置いておく.写真をふんだんに入れることができたのは良かったと思う.「人,その生涯」のパートはうるさくない程度に,「道,その後」は道の様子が掴める程度にふんだんに使わせてもらった.禅海和尚の章などはかなり贅沢である.絵葉書だけで4ページ半も取ってある.天爵大神は実地調査が行き届かなかったこともあって,旧版地形図でお茶を濁したを豊富に盛り込んだ.そのせいで国土地理院のチェックが間に合わず,発行が遅れてしまったのだが,それもたぶん自分のせいだろう.
総じて,ずいぶん好き勝手にさせてもらった.峠本を読み漁っていた頃に「ここはこうしたらいいのに」だとか「ここは物足りないな」と思ったことを極力反映したつもりでいる.もちろん,これが100%の正答でないことや,自分の最適解が他人のそれでないことも知っている.読んでスカっとするようなものは期待しないほうがいい.
本で使用した写真は高画質のpdfにしてネットにあげておくことにする.リンク先は本の中に書いてあるので(明示的にそうとは書いてないし,最後の校正で無理矢理入れ込んだので反映されていないかも知れないが)確認していただきたい.訂正だとか追記だとか,本編に入れられなかった写真類もそこへ置いていくことにする.
本の話をいただいたきっかけであることもあり,土倉庄三郎と東熊野街道の話が第一章を飾ることになった.「人,その生涯」はORJの記事そのままだが,Oさんに不要不急なエピソードを削っていただいている.道そのものの話が始まるまでが長いので,ということだった.自分では勿体無がって削れなかっただろうが,ざっくり削って頂いたおかげでとてもすっきりした.自分はぼんやりと,この話を3章4章辺りに持ってくることを考えていたが(より直裁的に道と関わった人の話を前半に,脇道でエピソード豊富な人を後半にして,読んで慣れて来た頃の変化にしようと思っていた.思っていただけで相談したことはないのだが),巻頭にするのであれば確かに冗長で,さくっと道に繋がったほうがよいと思う.後にして思えば街道建設の辺りもっとシンプルにするか,「道,その後」のほうへ持っていったほうがよかったかも知れない.道路趣味に縁のない人や,ただの伝記だと思って手に取った人にとっては,工費が幾らかかっただとか文書の道筋云々は不要な情報だ.そういうわけで「道,その後」も土倉街道から始まるようにした.
「道,その後」は書いた順でも最初になるのでずいぶん苦労した.結局は無人称(気味)で道をなぞって紹介していくことにした.要するに「廃道をゆく」と同じパターンだ.今回は書き手=私であることが明らかなので右顧左眄せず書けるのが楽だった.旧廃道を歩く面白さについて,取ってつけたようでなく入れ込めたのもよい(今回の本では旧廃道の話はあまり出てこない.現在も使われている道,ただし古い出自と関わったユニークな人がある道を紹介している).
「人」と「道」とを分けたのもよかったと思う.世の中の人は「土倉庄三郎の作った道」みたいなわかりやすい構図を求めるだろうけれども,そんな道はまずあり得ない.申請して路線選定して石を運んで土を削ってということを大勢でやった.そのなかで主役を演じたのが土倉庄三郎というだけで,そういう主役級の人ですら表沙汰にならないから特段取り上げて紹介しようという意図の本である.だから「人」「道」で分けて章で括るくらいでちょうどいい.
この原稿では「東熊野街道Odyssey」でおざなりになっていた事を二つ解決した.一つは土倉家文書の中身の紹介.それから,土倉庄三郎の紹介で始めた割に後で出てくることがなかったこと.それなりにちゃんと〆られたと思う.
個人的には一番のお気に入りである.愛知や福井の方には馴染みがあるかも知れない.神を名乗って道を改修しまくった人である.
事跡に関しては『天爵大神・水谷忠厚の足跡』という労書があるので苦労しなかった.そこで不足している「その道がいまどうなっているか」や,天爵大神が関わったとされる道(阪東ホウ崎だとか梅浦道だとか)が今のどの道に当たるのかを紹介するのが役目だと思って書いた.現地の様子を紹介できたのは『足跡』で触れられている道ばかりになってしまったが,そこはまあ,押さえるべき所は押さえたということにしておこう.どのみち全部辿っていたらページが幾らあっても足りない.
あえて旧版地形図を多用したのは,これを見て愛知や福井の人が道を訪ねてくれることを期待してのことだ.遠方なので微に入り細に入る探索をすることができない.むしろ地元の人がそういうことをやったほうが価値がある.他所者はそのきっかけになるくらいが丁度いい.
書いていく中で,『足跡』が教えてくれなかったことに気づけたのも良かった.なぜ彼が福井に行ったかは書いてあっても,福井で受け入れられた理由までは書かれていない.道は自分たちで直すべきものという全国普遍的な気分?があって,そのせいで道路改修が成功したような感じの書き方だったが,それだけでなかったことを発見した.福井が特別だったのだ.
愛知と福井という2県が全く別の文化圏だと思っていたが,そういうわけでもなかったことにも気付かされた.美濃街道を通して繋がっていたのだ.天爵大神が活躍した頃,ちょうど東海道線が長浜から名古屋まで達していて,長浜から北へは北陸線(敦賀線)が通じていた.敦賀より先は春日野新道を通っていける.そのルートだろうと当初は思っていたが,そうではなく,美濃街道をてくてく歩いて行ったんじゃないか.
取材が大変だった.大阪始発のJR+美濃太田から名電,尾張瀬戸駅で降り,瀬戸と赤津を見て,雨の降る中を瀬戸街道→天爵大神墓→一宮街道→天爵大神碑とハシゴした.そこから電車で福井へ直行,細呂木で夜を明かして福井を回った.大阪から福井へ行くには始発に乗っても10時11時着になるから,愛知から直行するしかなかったのだ.取材だからといって旅費が出るわけでもないし.それに,特急でだっひゅーんと目的地へ行くような旅はしたくない.過程をすっぽかして結論だけ得ても何が面白かろう.
どちらの土地も初めて旅をするところだったのでずいぶん心細い思いをした.愛知では馴染みのない都会の市街地を走る心細さを,福井では田舎道の寂しさを味わった.無茶な夕立にもやられた.そういう旅のほうがいい.
よく考えてみたら「廃道がない」という割に[廃道本]タグを打ってしまってた.まあいい.よくあることだ.
第3章は禅海和尚.青の洞門を作った有名人である.できるだけ無名に近く,道づくりの現場に近い人をと思って「土木県令」のような人物は入れなかったが,この人だけは敢えて取り上げさせてもらった.理由は読んでいただけばわかる(といいな).名前はよく知られているけれども,実のところはよくわかっていなくて,事実と創作とがごっちゃになっているという典型のような人だから,である.
だからといって「禅海和尚の真実はこうだ!」みたいなことが書けたとは口が裂けても言えない.創作である『恩讐の彼方に』ではこうなっている,資料が伝える禅海像はこうである,と並べてみただけだ.むしろ言いたかったことは,生半可に知ったつもりでいた私がこんな記事を書いている姿を通して「知っているつもりのことをもう一度見直してみること」「それが道路趣味をのポイントである(とnagajisが思っている)こと」を伝えたかった.要するに伝記と見せかけて道探索の面白さを訴えようという回りくどい記事である.nagajisがふつうのぶんしょー書けるかってんだ.
前半は『恩讐の彼方に』を長々と引用している.我慢して読んでいただきたい(読んだことのある人はすっ飛ばしていただいてよい).最後になってその意味がわかってもらえると思う.「道,その後」では,禅海和尚の作ったとされる初代隧道がどのような改修を経て今日の姿になったのかを追究しようとした.初代青の洞門は明治20年代に最初の大改修があり,同40年頃にも改修があったという.特に後者の改修は大規模なもので,それによって今日見られるような車道トンネルになった.初代隧道はごく一部が残っているだけだ.といったことは町史その他にも書かれてあるのだけれども,実際にどの程度の改修だったのか,どのへんを改修したのかといった具体的な話がなかなか見えてこない.近世の話は詳しく書かれていても,より身近なはずの近代以降の話がおざなりになっているというのも,ある種の典型だ.
それを解決するために「絵葉書を利用する」という無茶をやっている.当初はそこまでするつもりはなく,古写真がわりに使おうという程度の気持ちだったのだが,何枚か集まったところで「二種類ある」ことに気づいてしまった.以降注意して見ていると,出てくる出てくる,よくもまあこんなに沢山撮ったものだと思うくらいに(しかも同じ構図で).それでその集まった絵葉書を使って大改修の前後を見ていくことにした.ちなみに絵葉書はどれも古物市や古本屋を回って100えん程度で購入した.数あるせいで滅法安いのである.
絵葉書の比較で改修ストーリーに目星がつき,あとは現地に赴いてその裏付けをするだけ,と思っていたら,現地で謎の旧道を発見してしまい,若干こんがらがりながら書くはめになった.ちょっとすっきりしないところがあるかも知れないが,そのへんも「道探索にはよくあること」ということでお茶を濁しておく.校了後にもっといい絵葉書を発見したりもしてしまった.補足訂正記事を書いて例の資料ページに上げておかなければならないだろう(出る前からコレかよ!).
橋梁界では知らぬ者のない人物.大正末の日本に綺羅星のごとくに登場し,鬼神もかくやというペースで橋を設計した人である.その設計橋梁の多くが近代土木遺産に指定され国重要文化財級と評価されている.曰く白鬚橋,曰く千住大橋,曰く長浜大橋,etc, etc, etc, etc. 何より驚くべきことは物凄く沢山の種類の橋梁を設計していることだ.木桁RC桁SRC桁RCアーチ(開腹充腹)鋼鈑桁鋼トラス(プラットワーレン分格ペチットの上下路ゲルバー)フィーレンディールトレッスル鋼アーチ(スパンドレルブレースドバランスドブレースドリブブレースドリブタイドバランスドブレースドリブタイド)可動橋(バスキュールスウィングロール)とゲシュタルト崩壊を起こしそうなほどに多岐に渡っている.その当時世界に存在した橋梁形式の99%を設計したんじゃないか,と部録”の気安さでもって書いておく.実際増田淳が日本で初めてその形式を採用したというのが多い.そういう天才の話である.
ふつうの人は「誰がこの橋を作ったのだろう」と考えることなどない.そもそも橋がそこにあることにさえ関心を持たないかも知れない.しかし橋はとても人臭い構築物で,子細を知れば知るほど面白い.橋が面白くなると「面白いもの」が身近に沢山あることに気づくことができ,退屈な日常が少しだけ楽しくなる.そうなってもらいたくて増田淳を取り上げさせてもらった.その方面に興味のない人に興味を持ってもらうには「人」を媒介にするのがいちばんだ.こんな人がこの橋を作った.同じ人が作った橋がこんなにある.橋には設計者の思いが込められている.そういうことをとりあえずは伝えたかった.
出来としては...やはり役足らずであったことは否めない.5人の原稿のうちで最後に書いたものだから,文字数を減らさなきゃという意識ばかりあって,親切丁寧な解説ができなかった.日本の橋梁史概観とか,廃読10のような橋梁形式の説明とか,なぜ橋梁形式が違うと話が変わってくるのか(その形式にどんな利点があるか)とか,構造力学的な話だとか入れたかったのだが,そこまですることができなかった(そもそもそういうのが書けるほど見識があるわけでもなし).人となりの話も少ししか入れられていない.増田の伝記は存在しないからね.この人のすごさを伝えるためには徹底的に調べ上げたうえで本一冊まるごと使わないと無理だろう.もっと適格な人にそれをやってもらいたい.
この編の存在価値は「作品リスト」に集約されていると思う.土木史研究の2論文を参考に増田淳設計橋梁の一覧を作った.元論文で漏れてる橋も入れてある.校正段階でずいぶん追加したり訂正入れたりしたから,デザイナーさんに迷惑をかけたはずだ.「道,その後」はそういう橋の見方もあるという一例になればと思ってわざと臭くした.さて,どっちに転ぶか.
補足情報には神通川橋梁の件と増田淳設計橋梁の絵葉書を入れてある.設計資料集の中にある神通川橋梁が神岡鉱山軌道のそれであるか否かを確認するため,わざわざ市立図書館へ行って『工事画報』をコピってきたうえに設計資料集を精査してスケルトンを図にしたりしたが,ページ数の関係(&あまりに瑣末な話ゆえ)から入れられなかった.結論だけ言えば「違う」.
滋賀県を道路隧道特異点たらしめた土木技術者.谷坂隧道や観音坂隧道といった意匠的な道路隧道を設計した人である.伝記や論文がすでにあって,それを参考にして書いた他の4人とは異なり,自分でゼロから調べ上げ,人となりまで突き止めて書いた.
そういう個人的な話は抜きにしても,それなりに価値のある一編だと思っている.村田鶴はノン・エリートの官吏だった人で,そういうレベルの官吏の生き様が明らかになることはまずない.そもそも隧道を設計した人物の名が伝わることからして稀だ.それがここまで明らかになったのだから.
ORJで書いたことに加え,ご子息のKさんにお会いして得た新情報を追加している.これ以上判ることはもうないだろう.
7年前に初めて谷坂隧道を見て以来,彼の経歴を追いかけてきた.その集大成のつもりで書いたせいでずいぶん苦労し,また編集のOさんにも迷惑をかけた.Kさんにお会いし,興奮醒めやらぬ頃に書き始めたのもよくなかっただろう.
最初は他の4人と体裁を変え,自分が話の中心となって,谷坂隧道の遭遇から今日に至るまでを逐一書き上げるような形式にしようと考えた.理由はいろいろある.5人のうちの1人として書くのが忍びないと思うほど肩入れれしていて,何かしら仕掛けを施して印象深くしたいと思ったのが一つ.全くの無名の人物だし,いくら自分が隧道好きだからといって,隧道設計者の話が万人の興味を引くと過信しているわけではない.「かっこいい隧道作ったんよ」「ふーん」で終わらせたくなかったのだ.
ここで書かなければ二度と機会はないだろうという思いもあった.「まず不可能だろう」と言われた判任官クラスの技術系官吏の経歴調査.薄氷を踏む思いで脈絡を繋いだ.行政の壁に阻まれ,迂回して核心に迫った.偶然を3つも4つも重ねて最後まで到達した.そのへんの苦労をぶちまけてやろうと.調査の過程を書くことが,同じようなことをしようという人の参考になるんじゃないかとも思った.
加えて,村田鶴の経歴調査をやった自分が「道と人との関わりの一例」だというメタ構造にしてみたかった(何も自分が偉人の仲間入りしたいからではない.書籍名が「偉人伝」に決まったのは村田の稿を書き終えた頃のことである.止めておいてよかった).偉人の経歴を紹介して「どうだすごいだろう」と主張するだけになってしまうのはつまらないし,そういう役ならもっと適格者がいるだろう.道に興味を持ち,道を訪ねて歩く趣味がどういうものか,具体例を示してみたかった.そういう細工をする前に文章何とかしろという意見は,ごもっともであるが脳が受け付けない.
というわけで,最初はそんな原稿を書いたのだが,書き終える頃に本全体の文字数がオーバーしそうな塩梅であることが判明し,村田鶴原稿7万文字を突っ込むことが不可能になった.そもそも上記の如き小細工をしたところで私が満足するだけだ.必要事項のみ抽出し,他とフォーマットを揃えたら半分以下になった.理解に必要な情報は減らしてないつもりなので,消された半分は個人的な余計事であったこと,即ち7年分の苦労とやらもその程度だとわかり,ずいぶん悄気た.しかしそれによって本の体裁は整ったはずで,村田鶴という人がどんな人であったかを伝えるというそもそもの役目は120%果たせたはず.省略した余計事は,またいつか,どこかで書けばいい.
表紙は吉崎道の切通し.天爵大神指揮のもと,細呂木の人々が掘ったものである(大正末期に改修が加えられているそうなので当時の姿そのものというわけではないと思われる).タイトルや写真選定は全くお任せしたが,出来上がったものにとても得心している.こういうのは変に凝らないほうがいい.
本文Q数(文字のおおきさ)は若干小さく思われるだろう.調子に乗ってあほみたいにたくさん書いたのがいけないのだ.
参考文献は,本文中に併記したものが多いので不要のようにも思われたし,相番振って明示するほどの親切心は起こらなかったが,個人的にはこの手のページがとても参考になったことが多く,入れさせてもらうことにした.紹介した人や道に真に興味を抱いてくれた方は,本文に書かれてあることを信じるよりも,この文献を読んで各自で理解を深めていただいたほうがよい.
プロフィールは「(できれば真面目に)」というご要望を受けて真面目に書いたつもりでいる.ご愛嬌はKINIASと旧道倶樂部が並列なところだけである.
今回JIS男の出番はない.そのかわり1つだけネタを仕込んである.気づいたらニヤッとしていただきたい.
以上,格好悪く徹底的に宣伝した.発行後にやったほうが著者必死だな感が増していいかも知れないと思ったが,ここでぶつくさ書いている限り変わらんだろう.(宣伝するという役も含め)肩の荷が降りてとにかくほっとしている.
これっぽっちも仕事しなかった.勤労してないくせに休むな>nagajis
いや待て,KINIASページを作ったのと議事録作ったんだっけ.いやいやそれは昨日のことではなかったか.資料ページも作ったような.眠りすぎて何したかも思い出せない.
連絡が来ないので25日出発で行ってみようかしらんと思う.いつものやりかたでいくか.あんまり遅くなると雪が降る寒くなるはしたなくなる.30日は役員会.
福井で紐ぶったぎったシルバはどこにやったっけか.どこかで見たような覚えがあるのだが見つけられない.部屋を片付けなければ.あの時は確かヒップバッグのみだったはず.いや,サイドが一つあったな.あの中か.
牛革手袋さがす.腐ってなければいいが. 腐り気味
衣類はOK.米もある.味噌もある.
砂糖がない. スティックシュガーで代用,
念のため3サイドで?
ガスOK.2缶で行けるやろ.
弁当箱.
資料は減らすか…どうせ見ないキガス.地図のみ.
マジフォは洗ったのが乾いた. 紐通した.
サンダルってくか.
そういやインフレどうしたっけ. 発見.これとシルバ一所にしてたようなキガス. アタッシェケースの中から発掘.東京へ行った時に持ってったんだ.紐付け直した.
メガネケースも見当たらんのだった.
お,バッテリー復活か. 充電完了
S200EXRのバッテリーが2つ死んでいたのだが,端子をヤスリで磨いたうえでCRC-226を塗ったったら充電できるようになった.以前からそうかもしれないと思っていたのだが実施が先延ばしになっていたのだった.これで荷物が一つ減らせる.
確か昨年夏に北海道へ行くつもりで4バッテリー体制にしたのだが,実際には出ることもなく,せいぜい3,4泊の旅では2つでじゅうぶんですよであった.奥津へ行った時も大分も2個だったはず.4個もあるとかえってどれが充電済みかわからなくなる.一応それぞれに名前をつけていたが(高見山地の4つの峠の名をつけた),うち2つが仮死して以来ローテーションが崩れて困ってた.そういう意味でも祝・復活だ.
スキャンした。オビのアオリはOさんだろうか。少なくとも私ではない。自分ではここまで思い切ったことは書けないから有り難い。
一枚絵でも十分満足していたのだが、禅海和尚像と谷坂隧道竣工記念碑が加わった。碑文のこの場所である理由は本文かこのあたりを参照されたい。個人的にはこういうセレクションのほうが好きである。判った人は(納)得をする、という。
背表紙は表の文字色と同じになった。世界の約1割の方のためにも白縁は必要である。そのへんちゃんと考えてはるのだなと思う。
明日からのほうが天気がよさげなので出発を遅らせる。そういう判断を下したあとで明神索道の痕跡を発見。これだけ明らかだったら間違うことはないだろうが、どれだけ見て回れるか…。念のため地方測量部で見てこよう。
神子畑は鉱山事務所の辺りまで伸びていたことが確実だが、明延側が若干不明。奥山以降明延まで繋がっていたとすると5000mは若干長い。
生野には10時前に着く予定。土曜日は市街戦、日曜日以降はガチ探索になる。お暇な方はどうぞ。
追記:なぜかはわからないが近畿地方測量部には米軍撮影のがなかった.この辺りのがあったはずなのに.見れたのは観覧システムにある'76もの以降で,これならサイトで400dpiのを見たほうがよい.若干無駄足.とはいえH6の航空写真を見れたおかげで神子畑近くのラインがはっきりした.航空写真の見方の基本は守るべき.
明延側は奥山より西側に痕跡を見い出すことができず.そもそもH6は神子畑以西の航空写真がない.いまの隧道口付近が始点だったとしても,長さが合わない以外は辻褄が合わないわけではない(明延最奥の坑は奥谷で合する谷の上流にあった).計算間違いかも知れぬ.もしくは道沿いに伸びていたか,
何気なく検索してみたら新型が出てた!
http://www.marugo.ne.jp/product/work_shoes/magical_forester_003/pdf/pdf.pdf
#003はファスナーあり,#004はなし.ファスナー形状がこうなったのは履きやすそうで良さそうだが,ファスナーオープンで歩くことはできなくなりそうだ.しっかり開ききってないところに無理やり足を突っ込んで壊す事故も無くなるだろう.だいいち開けっぱで歩くとファスナー痛めやすいしな.
しかし#001からの欠点,一番痛む場所の対策がなされてない.マジフォはつま先の補強革とアイレット(紐通し)の土台の合皮との間が真っ先に痛む.先芯入ってるからつま先で地を蹴る時のヨレがここに集中するし,岩にぶつけたり潅木蹴ったりして擦りやすい場所でもある.ここはナイロンのほうが持つんじゃないか?
スパイクは最初からアテにしてない.ダブルピンってもともとじゃね? 着用一回目でもげたやつはそうなってたけどな.本気で用を為すものにするなら,ピンの底をつなげてスパイク同士で一体化するしかない(ピンの太さの鋼棒で繋ぐだけでもいい).スパイク個々独立のピンじゃもげてくださいと言ってるようなものでは.すでに充分軽いんだから,数十グラムくらい重くなっても構わんでしょ.
「当たりが出たらもう一冊!」というネタを仕込もうと思ったが,一冊しかない@梅田紀伊国屋のに当たりを仕込むのもちょっとどうかと思い断念した.ヘタレである.というか一冊しか置いてないのに在庫◎ってどうゆうことやねん.
今日の役員会で興味深い資料をいただいた.親学会の年次大会で九州国際大学のの清水憲一先生が発表された講演の資料.平たく言えば『産業遺産』とは何かという定義,および『産業遺産』をどう評価するか,といったことのガイドラインを策定しようという話の中間報告.その話に至るまでの前フリが必要なのだがかなり遠回りになるので今回は割愛する.要するに,九州・山口の近代化産業遺産群を世界遺産にしようという動きのなかで『産業*遺産*』という言葉が「遺跡・遺構」という先入観を与えることが問題視され(現在稼働中の機械・施設を『遺産』と呼ぶのは如何なものか的な),また近年出されたICOMOS-TICCIH共同原則でも稼働中のモノも対象にすべしということが盛り込まれた(ハズ)ので,改めてそういうものも包含するような評価基準(および日本での新しい訳語)を考えるべきではないかということになった.それで現在親学会のほうでWGが結成されガイドラインの策定を頑張ってはる.
産業考古学会が『産業遺産』と呼んでいるものはとても広範囲に渡る.それを共通の評価尺度で計ることは難しい(製鉄・機械・紡績・農林・エネルギー等々で「何が( ・∀・)イイ!!のか」が変わるのは自明).しかし今後はそれが必要になるだろうと.その選定のために,文化庁の『文化財』の定義・評価基準や,他分野における『○☓遺産』のそれを洗い出している.
世の中には『世界遺産』をはじめいろいろな『遺産』が存在していて,それぞれどのような基準でもってそれを『遺産』と認定してるのか,個人的にもこんがらがっていた.覚書のつもりで引用しとく.あとで自分が見返す用のものである.機関・学会によって「価値評価」「選定基準」「評価基準」等バラバラなので,勝手に「ものさし」と書き換えておく.あと,講演集を見ながら手打ちしているので誤字脱字勝手書換がある.そして後々追記してく多分.
12・2追記:新タグうって一覧は12・2にうつした.
Before...
_ nagajis [WindowsのデフォルトのIMEだと「きごう」→ひたすら変換してくと出てきますね.もうちょっとスマートな方法があるかも知れません. Google日本語入力では上記の方法か「とうごう」で=≒≠が選..]
_ ocoze@三重 [だうもおおきに。WinのIMEのアホさは諦めておったのですが,今月初めグルグルのがあるのをたまたま知り,以降専らそれを使っております。「とうごう」で試したら3種出ました。ことえり懐かし。丸漢。シス..]
_ nagajis [おお,先輩ですね.私は漢字Talk7以降です. 部屋にはDECの5インチの外付けハードディスク(300MB)があります.石臼の如き作動音が素敵でしたが,フルピッチの50pin SCSIなので,接続..]