nagajisの日不定記。
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土功の部に国県里道の別あり
因幡街道 浜坂~湯島
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807352/174
(豊岡街道が湯島まで延長、因幡街道が豊岡まで延長、湯島豊岡間が重複)
全図 土生を経由するが美濃坂は越えない
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807361/21
県道一覧復活
自鳥取経湯島至豊岡 平均幅員1.6間 坂道の平均勾配13.1分
自豊岡経香住至浜坂港
自鳥取経宮田至舞鶴 M37のを見よ
県道に番号付与
(2)自豊岡達津居山線
(9)自鳥取経湯島達豊岡
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807363/241
(74)自豊岡経香住達浜坂港 坊岡経由 橋の位置によるか(M35の全図では本見塚は経由しない)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807363/244
64号 竹野浜坂線
66号 豊岡竹野線
68号 豊岡城崎線
69号 香住豊岡線
123号 香住停車場線
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972563/6
美含郡の3坂について知るため兵庫県会史を読んでいる。その中で鐘ヶ坂隧道に関するちょっと気になる情報を見つけた。明治22年臨時郡部会の議論のなかに。
この臨時郡部会は同年発生した水害の復旧にあてるため土木費を再考するために開催されたものだが、その最後に「明治二十一年度所属鐘ヶ坂墜道修繕工事及八部郡須磨村ノ内西代村外四ヶ村所属県道及橋梁更正工事費不足二付二十二年県道更正費の剰余金を充用する件」という議案が審議され可決されている。但し次のような答申書つき。
本案に対しては事の止むを得ざるものと信ずるを以て諮問通り異議なしと雖も其事の止むを得ざるに至らしめたる原因に至りては特に主務者の注意を請わざるを得ざるものあり自今土木工事の設計の如きは一層精細緻密なる考案を要し嘗て議会の標準となしたる設計を変更せずんば実際工事に差支を生ずるが如き不都合を惹起することなからんことを切望す
右御諮問に対し答申候也
明治二十二年十一月十七日 兵庫県郡部会議長 内藤利八
兵庫県知事 内海忠勝殿
要するに明治21年度に鐘ヶ坂隧道の修繕工事を行なったらしいのだが、その工費が予定を超過してしまったため、22年度の県道更正費の剰余金でそれを充当したいんだがと諮問され、ちゃんと設計してくれよと文句をつけたうえで認めている。
ここでいう主務者は、たぶん氷上郡と多紀郡。この当時鐘ヶ坂隧道は県道丹後街道の一部を構成していたはずで(兵庫県統計書明治21年版には追入~市島間三里十八丁余りが車馬通行可能になっている。追入から瓶割峠あるいは佐仲峠を越えてはそうはいかない)この時期の場合は郡が県道改修の実務を行なっていた。
この時行なわれた改修が、隧道内部の坑道巻き立てなんじゃないか。鐘ヶ坂隧道が竣工した時には坑口付近しか巻き立てられていなかった(『丹波国鐘坂隧道略記』には「洞長さ百四十七間…磚の囲む所長さ八拾四間」とある)。現況の隧道は長250mに渡る巻き立てがあり中央付近が二重になっている&内側の巻き立てが崩壊している。この崩壊は昭和の盤下げ後の崩落によることはわかっていたけれど、そもそもこの中央の巻き立てがいつ作られたのか、しかも二度巻かれたのはなぜか、わかっていなかった。
上記想像があたっていれば、21年度工事で外側の巻き立てをしたが、それに不具合が生じてやり直しをしたのが22年度ということになりそうだ。これをもっと掘り下げるには22年度議会の議事録とか見つけ出すしかなさそうだ。或いは丹波新聞のその頃のバックナンバーを漁るとか。
明治時代の県道とか道路行政とかを知りたいと思っても手取り足取り教えてくれる本とか記述とかはまずない。まずもって府県によってずいぶん違う。三重県なんかは確かかなり早い段階から補助里道の制度を設けていたけれども兵庫県には恒常的なその制度はなかったらしいだけでなく国県道の改修も全額地方税支弁というわけでなかったらしい。明治21年の制度では国県道改良工費の半額を地方税で、残りは協議費(関係町村から割賦して徴収)。三重県や奈良県の例があったので県道は地方費支弁が大前提みたいに思っていたけれども決してそうではなかったようだ。郡が国県道の改修をしてたというのも今までの理解から逸れている。この時代の郡はあくまでも県の出先機関のような存在であって、土木事業に関しては上寄りに関わっていたわけだから、自分が理解し損ねていただけなのだろう。確かに鐘ヶ坂隧道も工費の半分は地元住民の寄付金で賄われ(略記にも町村連合会が出てくる)残りは国庫補助。3坂に対する美含豊岡郡役所も監督者の立場。あれをものしたのは沿道町村であって郡はお金を出していない。当時は里道だから。鋳物師戻峠は県道因幡街道なので工費半額を負担して工事を実施している。
郡制は23年公布だが実施はもっと遅い。兵庫県は明治29年から。大阪はたしか32年で全国でも最後の方。さらに兵庫県は郡制以前から市部と郡部とで経済を分けていた。東京や京都、大阪、神奈川と同様の三部制。それをやり始めた時期や三部制なのか否か、23年の郡制の実施時期のちがいで県道里道の扱いがずいぶん違う。&、兵庫県は早くから「地方自治」熱が高かった。せっかくついた里道一等道路への地方税補助を「却って自治の精神を減殺するもの」として全廃したりしている。道路や河港の影響をその地方限りのものと考えがち=地方税による支弁に懐疑的なのも特徴かもしれない。あ、あと、他県が「仮定」県道を早くに見捨てて地方税支弁/補助/協議費の分別に切り替えていったのに対し国県里道制を比較的遵守してたという面もあるかも知れない。議会史第一巻のなかには「仮定県道」という言葉は一個しかみつけられなかった。
議会史やら例規集やら統計書やらを読み漁る日が何日も続いた割に理解が追いつかない。すとんと腑に落ちる理解をしたい。そのためだけに読んでいて、その時間がほしい。
兵庫県臨時会・県会・郡部会日誌 明治14年郡部会日誌より。M14郡部会にて土木費の審議がなされる中で20番議員・法貴発から動議。この動議自体も郡部の土木補助費の名目「河港道路堤防橋梁建築修繕費」を「河港道路堤防橋梁修繕補助費」と修正すべしだとか一等里道への補助費を全廃するだとか大変興味深いものなのだが、その里道補助費の廃止理由を述べたところにこんなことが書かれてある。
今之れを補助費となさざるの理由は近年河港道路等多くは大坂藤田組等の請負普請にして麁漫無法一も堅牢なる普請を見受けしものなし(中略)今之れを人民にて普請せば丁寧信切にして入費も減ずべし則ち官に於ては全く目今の土木課を廃するを得べく民に於ては特く入費の減ずるのみならず堅牢耐久の普請をなすを得べし
(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/785079/45)
『兵庫県百年史』によると、法貴発という人は民権運動の急先鋒みたような人だったそうで、この動議もそんな民権意識に拠って発せられている。本来里道の改修はその局地の人民が責任をもって行なうべきもの(協議費によって改修すべきもの)だし、人民が自助的自発的に地域を改善していくこと則ち民権の原理であると考えていたらしい。地方税の補助は県=官吏の恩着せであるという発想なわけだ。
それはともかく、彼は藤田組の土木工事を粗忽で無法な普請だと一刀両断している。これは法貴一人の極端な認識というわけでもなかったらしく、この動議に賛成して「藤田組に受負わすは甚だ喜ばず」と発言した議員もいた(21番重田)。
面白いことに、法貴は丹波篠山の出身で多紀郡選出議員だった。この議会の進行中には鐘ヶ坂隧道の建設の話が進んでいて(M13.12に着工)、その鐘ヶ坂隧道の工事を担当していたのが藤田組であったりする。工事にあたって何か悪い風聞をまき散らしていたのだろうか。あるいは藤田組式の近代的なやり方が旧慣にそぐわないところがあって住民感情を害するところがあったりしたのだろうか。
議会史や議事録を読んでいるとこういう機微に行き当たることがあって面白い。しかし量があまりにも多いので総体的に把握するのは難しい。前述動議も賛成者が少なく廃案になっているのだが、里道一等道路への補助の廃止自体は可決されている。この動議の続きを読んでいくと補助廃止か否かでかなり白熱した議論が交わされていることがわかる。
もともと兵庫県は県会が始まった最初から民権意識が高かった県で(初代県令伊藤博文とか大政奉還に先駆けて版籍を返還しようとした酒井忠邦とか、地方三新法よりも前に県会を始めた森岡昌純県令とか)、その発露が里道補助費の廃止となって表れているといえる。そしてそれが県会を重ねるごとに地方税補助を望む、易きに流れるほうに変わっていく。些細なことのように見えるが時代と地域性とを象徴する一シーンであったりするのだった。