nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
こういうの作らないと整理できない頭になった。未完成。とりあえずアジ歴の個々の資料の分は突っ込んだ。(Keyword:友島、友ヶ島、虎島、拝島)
加えて検閲諸表の交通路を記入。概算長さと記載の延長が合うルートを選んだが第一~第二砲台間連絡交通路だけはどうにも合わない。よほど大回りしないと810mにもならないし幅2mのもない。困ったことだ。
すでに仕込んでいる。
M24.9.4. 軽砲座胸壁高変更、掩体部に当初設計になかった排気筒を設ける伺→に加えてアーチ下壁を抜き積みにして通気良くする指令 C07050357500
なのだった。そうそう第4砲台には外廊がないのである。それで排気筒つけたほうがいいんじゃね?という伺になり、おkおk、そんかわりアーチ下の煉瓦を抜いて排気口作っときなということになったのだった。外廊のある第三砲台にも排気口はあるが下面がモルタルで塗られている。
第2砲台も第4砲台を真似て外廊の一部を一部省略しようとしたが却下された。
はじめM29.9.4と書いてて「えーまんま堺煉瓦じゃん」とか思った。ばーかばーか>nagajis
第三・第四砲台連絡交通路の右に衛舎、左に厠って、どう考えても現況と合わない。衛舎の周辺には厠跡がなかった筈だし現存厠は第一砲台方面だし。残っていない年代の頃に変更があったんじゃろうかとも思うがどうだろう。第一砲台麓からあがってくる道も連絡交通路でかつ現存厠の向かいに衛舎があったとすれば納得いくが。確かに現存している衛舎は将校用と説明されている。砲台守のなら小さいのでよい。集屯所胸墻中にという言葉もあったりするしな。門柱はC、D点二箇所に設けることになっておる。
以前にゆうさんから頂いていた外付けHDDがおかしくなってしまった。シャットダウンしようとしたらランプがチカチカして一向に落ちない。やっと落ちたと思ったら今度は立ち上がらぬ。起きる前のういーー↑ーー↑ーー↑ーんが最初の一回あたりでこけている。カッコンじじじじじまで届かない。やべえ。これにここ数年分の写真とかORJの元データとか入れてるのに。読めなくなったら氏ねる。
という状況を出社前に確認してしまい、そこから何もできないまま業務した。業務しながら考えた。そういえば最近HDDの立ち上がりにこけることが多かった。一回目スイッチオンであがらないからもう一回スイッチを入れ直してやってたっけ。んで、どうも中のHDDが4台とも立ち上がっておらぬ(4台ひとまとめにして1TBに認識されるようになっているのである。故に取り出してパソコンに繋げば済む話でもない)。ともかくひとつだけが飛んで起動不能になっているわけではあるまい。
要するに電源がヘタって定格出力が出なくなっているのではないか。
ということは代わりのハコを入手すれば復帰する可能性がある。しかしゆうさんからの戴き物ゆえメーカーも型番も存じ上げぬ(というか帰ってハコを確認したがメーカー名も型番も書かれていなかった・・・)。うろ覚えでいろいろ検索してみた結果、NOVACの4台はい~るシリーズであるらしいことがわかった。SATAじゃなくIDE時代のものだ。
で、全く同じものはすでに入手できなくなってる。Amazonにもも楽天にもヨドバシにもヤフオクにさえもない。SATAバージョンはいくらでもあるが、たとえ電源だけが必要なのだとしてもIDE時代のやつでないとだめだ。ジャンクでも手に入らんとなると困ったことになる。
で、さらに考えた。出力不足で立ち上がらんのなら、他所からHDDの馬力だけ持ってきたらいいのではないか。
会社の余剰パソコンを借りることも考えたのだが、思い出せばはるか昔にメインマシンにしていたDELL Preciion420がまだ取ってあった。ワークステーションタワーだから電源コネクタはアホほどついてる。あいつを引っ張り出してきて、電源コネクタだけ外付けHDDのHDDにぶっ刺して起動させれば、いいのではないか。
これなら行けるかもしれんと思い、急いで帰宅しようとしてあやうく歯医者をすっぽかすところだったが、それを乗り越えて今に至っている。Just I think, 彼は無事立ち上がってくれた。そうして他の空いている外付けHDDにバックアップ中である。すべて完了しているわけではないが、このままなんとか持ってくれそうな塩梅だ。半分移すのに残り112分……今夜はこれで潰れるな。
問題はこれからどうするか……。同じ型の外付けHDDハコが見つかるまで外付け×2で我慢するのか、いっそのこと新しい外付けHDDを買って移すか。いつまでも戴き物に頼っていてはダメだと思う一方、せっかくの戴き物を無碍に廃してしまうのも道義的でないと思ったりもする。それに今月は会場代で懐が抉られるのだ。散財は控えておかねばならない時期なのだ。。。
4.4m×7.6mの空間に私説関西煉瓦製造業史を詰め込むのである。
展示数72。最大108。
掲示物 36+1+1+サテライト1.8mx1.8m。と展示名称幕。
正面壁面。
を一時間ちょっとで掲げてしまわないといけないなんて無理ぽん。
中国地方も含め72個に収めることは可能。重複や耐火煉瓦耐酸煉瓦舗装煉瓦やちょっとそれはさすがにまずいだろうというあれとかそれとか会社不明のイリヤマ火とかを省いて尚多少の余裕がある。それらを許容するなら煩悩の数用意することはできる。できるが運べない。あと展示する時間がない。
正面壁面の消長グラフをいかに短時間で張り上げるかにかかっておる。かかっておるのである。
富田林の寺内町の外れで。石垣に石臼を生け込む?と石垣が安定するという言い伝えがあるそうで、自分が住んでいるところの近くにもあるのだが、ここで見たものは中々本格的かつデカい。直径2尺はあるんじゃなかろうか。こんな大きな石臼をどうやって回したんだろうと思う。廃棄処分と決めるのもなかなか勇気のいることだったのではなかろうか。だって高価そうじゃん。
寺内町ではこのほかにも唐臼の台とか駒繋ぎ石とかもあった。このへんまではまだ想定の範囲内だが意外と煉瓦も多かったりした。やはり古くから保たれている街並みにはどこからともなく入り込んで抜け出せなくなった煉瓦が多いようだ。保存されない住宅地ではこうはいかない。
ここ数年、岡町の住宅街を横断する生活をして、当初思っていた以上に速い速度で建物が建て変わっていくのを目の当たりにしている。気づいた時からすでに壊れかけで放置の態だった古民家が取り壊されるのはもちろん、安泰だろうと思っていた準豪邸が何の前触れもなく取り壊され更地になってしまったり、その跡地にそそくさとプレハブ住宅が育ち素知らぬ顔をし始めるのを目撃したりもする。岡町を知るようになってからこのかた変わった街区の戸数は両手じゃ足りない。下手したら両足使ってもなお不足する。
そういう跡地で煉瓦を採取したこともあるけれども、チリ一つない更地になっていることのほうが多い。ここ何十年かの間に2度3度と建て替えられた結果かも知らぬ。少なくとも戦前を保っている家はごくわずかしかないはずで(両手両足の例えをまた使いそうになった)、その割に煉瓦溝が残っているのは逆に興味深い現象なのかも知れぬ。区画の民家が古いから煉瓦溝も無傷なのではなく煉瓦溝を残して上っ面ばかり更改されている場合も多いようなのだ。どこかに必ず民家跡更地がある状況が定常状態なのであり、至って普通の状況であるのか、それとも特に今が建て替えの時期なのかはわからない。ただ言えるのはそうした改修によって煉瓦溝まで無くなるケースが多いであろうことと、今後も増え続けるだろうということだ。そのうちすっかりコンクリ溝になってしまったらそれはそれで寂しいものがあるけれども、だからといって保存する価値(普遍的に通用する価値)があるかと問われたら否と応えるしかあるまい。どう考えたって煉瓦溝のほうが不便なのだ。破壊に乗じて普段見ることのできないものを見ることができている現状を受け止め感謝しておくほうが建設的でもあるだろう。
太鼓はらったった。機械破壊運動はらっだいと。名前が違うから認めないとか認めないからな。
解説フォーマットは略決まったけれども書き直さなければならないことが多く一筋縄ではいかないことに気付き始めている。まあ6ヶ月先の話だ、急ぐ必要はあるまい。
煉瓦にばかりかまけていると思われるのも癪なので数日前からすでに原稿を書いていることを主張しようと思ったのだけれども結局煉瓦の話なのであって釈明にも糞にもならないのだった。くそ。
何の拍子か、セックスレスの夫婦に釈迦が生まれるというドタバタ話を思いつく。筒井康隆かヨコジュンあたりがすでに書いてはる気もするけれども。而して思いついただけである。何をするあてもない。
自分の非を認めず自己弁護ばかりする姿は見苦しいものだ。自分の身を守るっていうこと自体は動物本能であって仕方ないことかも知れないけれども行き過ぎた防御自省のない反応は社会性の欠如と取られてしまうことに気づくべき。そういう正確だから類を呼び込んで友にするのだろうし取り巻く環境を変えられない。変える必要があることも多分理解できてない。さあどうしたものか。と現実世界の愚痴をネットに投げ込んで消化する。
人は何で他人より優位に立ちたがるのだろうな。名を挙げようとか出し抜こうとか儲けようとか考えてしまうのだろうな。他人は他人、自分は自分、そう切り分けたうえで屈託なき笑顔で握手のできるような人になりたいものだ。自分はまだまだそうなれそうにないのでせめて自己主張はしないようにしたい。どの口が、と思わんでもないけどな。いやこの場合はどの指が、か。
泉布観と住友銅吹所跡から見つかっている「MLAY」刻印は、「鉄道一瞥」にある工部省煉瓦工場の少属・村井のことなんでは中廊下。煉瓦製造を究めたとか書いてあるし。画像がどっかあったはずなんだが見つけられず。泉布観改修報告書のコピーは不鮮明だし集合写真だし…煉瓦のまちタイルのまちにあった気もするけど見つからないし。MLAY。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155035/524
住吉橋通北2丁・南2丁。もと箱館会所といい明治2年に改称。北海道産物の輸入改など行う。3年6月北海道開拓使の所管、5年北海道累年凶作のため向こう三年間の運上を免除することになったため堺会所は他の会所とともに閉鎖。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155035/529
煉瓦製造は、安政四年に幕府長崎に製鉄所を設けた際、瓦屋に命じて焼かしめたのを以て創始といわれている。明治になってからは二年に造幣局の建築起工に際し、用材として製造された。当時瓦製造師として有名であった東湊の瓦屋藤吉に用命した。藤吉は大阪諸藩用達仁屋松之助の助力を得、造幣局の雇英人キンドル Thomas William Kinder. から製造術を伝習し、初めて堺製の煉瓦を製造したのである。(小澤扶公氏談話筆記)次いで三年工部省鉄道寮が、当時民部省の所属であった住吉橋通二丁目旧箱館会所跡に煉瓦製造所を設け、京都府、兵庫県の陶器職工、屋根瓦職工を招いて製造法を教え、囚徒等を使役して盛んに製造した。斯様に煉瓦製造地として堺が第一に着目せられたのは、此附近に煉瓦の原料となる良質の粘土が産出したからである。当時焼窯は陶器職が慣用していた登り窯三座を築き一座を八室乃至十室とし、土練は足蹈、白地は手押式に依り、型は木枠を用い、風日に乾燥せしめた。此堺製の煉瓦は普通の二、四、八型(二寸、四寸、八寸)で広島で製造していた山陽型より小さかった。其後六年になって此製造所は原口仲太郎に払下げられた。(鉄道一瞥) 政府が工場を設立して以来此新工業に従事するもの相踵ぎ、就中舳松村の瓦師丹治利右衛門は其率先者であった。同家は屋根瓦製造を業としていたが、三年少林寺町引接寺跡に工場を建設した。かく製造は漸く其緒に就いたが主に官衙用に供せられたのみで、未だ一般世人の需要を喚起する迄には至らなかった。(丹治利右衛門煉瓦業沿革、大阪府市、第三回内国勧業博覧会出品解説書)
堺市史第三編 pp.884-885
この段の前の方に箱館会所の記事がある。住吉橋二丁目北・南。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155035/563
煉瓦は十五、六年頃より盛んに製造され、次で十七、八年に至っては鉄道敷設工事や紡績会社を初め、其他諸会社の勃興により官私両方面に需要が激増したので製造工場も次第に増加し、二十一年には九個所を数うるに至った。(堺史料類纂工業之部)
p.945
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155035/676
窯業では煉瓦、土管、硝子、琺瑯鉄器の製造を数えることが出来る。煉瓦は明治二十一年を最盛期として、其後衰微に傾き、二十四年其極度に達したが、二十七、八年戦役後頽勢を挽回し、其間大阪窯業株式会社堺分工場、日本煉瓦株式会社、堺煉瓦株式会社、丹治煉瓦製造所等の製造所が並立して堺煉瓦の全盛時代を作った。新機械を輸入して製法に改善が加えられたのも此時の事である。其中大阪窯業株式会社堺分工場が規模最大であった。同社は大阪に本社を有し、二十九年一月南附洲新田に堺分工場が設けられた。三十七、八年戦役以後は販路の拡張となり、満鮮地方に盛んに輸出され、米国よりの注文を見る程活況を呈して来た。(堺資料類纂工業之部、大阪毎日新聞堺周報)
p.1151-
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899286/54
附録 鉄道瑣談
○煉瓦創製の事
東京横浜間創業の際には世に煉瓦製造者なく又沿線附近に佳良の粘土なければ創製すること容易ならず、依て石材のみ使用したり、大阪神戸地方にも最初煉瓦製造者ある筈なきも堺附近に恰好の粘土産出し且つ燃料として紀州地方より松薪を得ること容易なれば鉄道寮は此の地に煉瓦創製の計画を立てたり
堺大浜通に旧幕府に属せし函館物産会所の廃邸あり、周囲広闊にして掘割を以て港口に通し小船出入の便あり、当時堺県の所轄なりしが鉄道寮其の引継を受け之に煉瓦製造所を設けたるは明治三年某月なり、製造の主任者は中属長谷川彦兵衛にして大属原川魁助庶務を総理し製造総指揮者は傭外国人にして外に数十名の官員従業し従来当地の屋根瓦製造業者たりし丹治長蔵なる者職工長として勤務せり、当時煉瓦製造を知るものなきを以て鉄道寮は京都府、兵庫県へ照会して管内の陶器職工又は屋根瓦職工を命令的に堺に召集し傭外国人之に製造法を教授したり、窯は陶器職が慣用せし登り窯三座を築き一座は八室乃至十室にして白地一万二三千枚を容るに足れり、土煉は足蹈にして白地は手押式に依り型は木枠を用い風日に乾燥せしむ、粘土は製造所を距る十町乃至二十町の万代八幡辺にて採取し胴木は紀州又は四国産を集め差木は赤穂の小割材を用いたり、粘土質は佳良なるを以て形状正しく且つ堅緻にして石を凌ぐ如きものを製すを得、品位は三等に分ち上中下とせり、而して製品は小帆船を以て大阪、尼ヶ崎、西宮、神戸に運搬し各建設所に車力を以て配給せり
明治五年の秋中属岡崎正作、権少属村井正利の二人堺製造所勤務となり従来の官員は概ね転免せられ只二三の等外吏をとどめたり、是れ従業員多きに過ぎ経費嵩むを以て冗員を淘汰し製造所の経済を維持せんが為めなり、爾来岡崎、村井の二人之が経営の任に当りしが村井(後鉄道属、事務官は一介の漢学書生にして煉瓦の知識あらざりしも前に東京府に奉職して教育所掛に勤務し稍々細民の事情を解し之を使うに慣れたれば専ら職工に接触して製造法を究め火度火色の判断に熟するに至り監督肯綮を得て漸次経費も節減し得たり、後明治一九年東海道線起工に際し江尻、金谷、中泉の三箇所に煉瓦工場を設け沼津天龍間に遅滞なく供給したる成績は明治五年の堺に於ける経験に基くものと村井自ら常に語れり
明治六年の夏に至り堺煉瓦製造所払下の議寮内に起り鹿児島県人永井庄右衛門、原口亀太郎の両人に地所建物機械一切を払下げ製品は必要に応じ時々買上ぐることと成れり、是より先中属岡崎正作は本寮に還り少属宇都宮正信代って来任したりしが払下決定の命に接し村井と共に他に転じたり
pp.55-56
MLAY…MLAY!
大阪府各省局官員録. 明治11年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779121/34 前年のでは正則になってる。
あちこちに文献資料を書き留めておいたが所要のものをすぐに見つけられなくなってきたので一覧を作成する。愚の骨頂あるいは車輪の大発明。つーか[煉瓦資料]とかでカテってたら済む話だろ。
改めて読んでみるといろいろ見落としている。テキスト化までしても頭にはいらなくなったか。老化だなあ。なんやらかんやらの怒りの感情とか批評への苛立ちとかはいつまでも残っているのになあ。その反応部位をフォーマットして記憶領域に転用できたらどんなに助かるかわからん。煉瓦製造業組合を通した販売のこと、遠方の販売には介入しない件、確か窯業会雑誌のはず。確認しとけよ。
あ、そうだった、そのために触れかなったんだった、と唐突に思い出した。こういう時のための沈黙なんだから利用しないと意味ないぜ>nagajis
大阪府誌の「軍挙暴進」という表現が引っかかる。日清戦争中・後の急激な増加と30年代全半期の急衰退をそう言っている。軍勢のように多数の工場が勃興し粗製濫造したことを言っているんだと思うのだが、由良要塞の建設と重なる所があるから「陸軍主導の挙」かも知れんと思ってしまい、疑念がぬぐえない。まさかなあ。
問題は、これと大阪の間に扇四番とか漢数字刻印とか挟まっていること……。加太トンネルのためだけに一ツ屋に窯作ったんか?それとも亀山方面から?
それから…集成には「扇形は鉄道院製造の可能性」なんて書いてある。関西本線は関西鉄道ェ……。
電車の中でずいぶん片付いた。ここに見られるカナ刻印はおそらく勢陽組のもの。汐留遺跡からこのテの「井」に「勢陽組印」を組み合わせたものが見つかっている。勢陽組分工場が河曲郡岸岡町にあった。沿線ではないが近いだろう。んで最も遠い加太では現地で焼いて。鉄道院?は汐留から寝かした扇型+縦に「銕道」が見つかっているからか。しかし隅ケイで囲ったやつとか小判型とかもあるんだわ。