nagajisの日不定記。
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メールの返事を書くのに随分手間取った。実現不可能なこととして半ば諦めかけていた初心に戻る機会が与えられて、しかし結局は的確に言い表す言葉を探してうろついて。要するにここ十数年間進歩がなかったということである。
要するに、縁のない土地と縁を結ぶきっかけとして「道の歴史を知る」ってことが利用できる。うーん。いまいち。どこにでも道がある。見慣れている。それを糸口として縁のない土地の歴史に接近することができる。わかればなんのことはない、実は既に妙な機縁で結ばれていたりすることに気がついたりする。見慣れたもの聞き慣れたものの発祥の地であったりする。そうやって親近感が増す。親近感が増せば行きたくなる。同情もする。奈良の南半分はブラックホール、なんて口が裂けても言えなくなる。そういう親近感を全国民に持ってもらいたい。したら多分、世の中はもう少し明るくなる。無茶な注文だろうか。でも廃道を通せばそれができそうな気がしたんだ。
わずか1時間の間に資料を手繰り手繰って知りたかった事実に逢着した×2。なかなか頑張ったと思う。京都鉄道印は南桑煉瓦製でほぼ確定。松風洞は昭和26年竣工、実は戦前に手が付けられている。後者はもっと掘り下げたいが舞鶴市史にもないのであれば不可能かも知れぬ。しかし戦前のという直感が当たっていたのはすごいな。この時期日本海側の交通網を大慌てで弥縫しようとした潮流があったのかも知れぬ。
ようやく理一郎氏の字に慣れてきて、あらすじが掴みかけた頃、どうも大事なところが抜けているような気がしてならなくなった。何で3万/30万個の仮契約を40万/300万個に十倍増したのか。そのうちどれだけ納入を済ませたのか。煉瓦に関わる部分は前回のコピーで尽くしたつもりだったけれど、考えれば考えるほど見落としがあるような気がしてきて。それで今回。
結局穴は埋められなかったけれども、細かな見落としがいくつかあって、M31の動向などは必須のものであった。資料編で活字化されている以外のところにも重要な記述がある。総じてこの日記から南桑煉瓦の全部を復元することは困難で、3割くらいは推測を交えないといけないことが確信できた。篠村史の記述には誤りはないけれども確実確かな情報だけで構成した場合の最精最純な南桑煉瓦史があれであり、全部の3割くらいにしかなっていない。ていうかやっぱり日記以外に詳しい資料があるはずなんだ・・・総会議事録とか解散決定時の配布資料とか。日記なんて書捨てなんだから過去に遡って訂正したりしないもんな。自身忘れ難い数字とか書いたりしないもんな。
鉄道局、と出てくるのは、たぶん京都鉄道の鉄道掛くらいの意味と思われるのだが、だとするとなぜあのタイミングで変更願を出さなければならなかったのか理解に苦しむ。要求された改良のサイズより小さいものにして一個当りの土の使用量を減らすとかいう苦肉のビホウ策だった、くらしか思いつかない。ほんとに鉄道局であったら京都鉄道が仕法書に書いた以外のサイズを使わせてくれと申請したと取れなくもないが、京鉄が出した申請を南桑が訂正するのは変だろうし。
田中源がこの件の癌のように思えてならないが、明治初年代生まれの理一郎氏は日記に不満をぶちまけて腹立ちを抑えたりするようなことをしない生粋の明治人であった。真相はやはり闇の中。
帰りにトロッコ列車に乗った。最終便下りはスカスカで比較的自由がきいた。立地は福知山線の峡谷地帯そっくりだが福知山線ほど古い古レール柵はないようである。
煉瓦を探して路地裏を歩いていると、ごく希に、こんな落書きに出会うことがある。家の前の道路にチョークで落書きをしたもの。昭和の子供的所業であり絶滅危惧種といってもよいと思う。そのようなものだから出会うとちょっとほっこりする。が、川島で見かけたこの落書きは、ちょっと考えさせられた。
この線より左が自由であるらしかった。何でも書いていい範囲として線引されたのかも知れないが、その区画には何も書かれていなかった。むしろこれは抽象的概念としての自由の区切りと見たほうが味わい深い。自由を限定する線であり自由の果てである。「ここから先、自由始まる」と読んでも良い。悲惨な最期を遂げる自由、路頭に迷って飢えて死ぬ自由、人様に迷惑をかける自由がこの先から認められている---但し認められているのは自由だけであってそれに対する制裁とか社会的責任とかは勿論ある---。じゃあ自由のないエリアではどうなのだろうか。自由がない即ち制限もないというわけではあるまい、自由もなく制限ばかりであるかも知れない。
前々回の亀岡で。カラーコーンとトラバーで作り得る最小の結界。
トラバーを使わなければここまで小さくできる。が、どう頑張っても立ち入るのは無理だろうと思った。そうしてこの隙間に無理やり立って「立入禁止に入ってみました」とかいう動画をアップするYouTuberを想像して哀れの涙を流したことだった。
後者は何で結界られているのか理解し難い。車止めが倒れそうだからだろうかと思ってみたがそうでもない様子だ。もし倒れそうであったらコーンともども倒れているような気がする。またこの車止めにぶつからないようにという注意喚起であることも考えられたがそもそも車止め自体がそういう注意喚起のための存在でありぶつかられる可能性は蓋然的に有しているわけでわざわざカラーコーンや黄色テープで結界しなくても良いように思う。ちなみにこの車止めの向こうは幅の広い歩道で、それに面してパーキングがある。パーキングを出た車は車止めの向こうを左から右に走って出て行くことになる。手前は完全な歩道。2人並んで歩いたら塞がってしまうようなそれだ。ゆえにこの車止めを突き破って車が突っ込んでくるようなことはかなり稀だと思われる。
のに幾らかかるだろうか、と考えている。
まず、大阪-京都間は26マイル46チェーン。約27マイルと考える。んで、明治31年『鉄道貨物運送便覧』東海道線の貸切貨物賃金の表によると、煉瓦を貸切で運ぶ場合、50マイル以下なら1銭5厘/mile・ton。
当時の貨車の積載可能荷重は前掲書に4噸or6720斤とある。また日本鉄道車両工業会の『日本の貨車-技術発達史-』第一章には5トンとある。
作業局形煉瓦のサンプルの重さを測ってみると2.6kgだった。仮に貨車一台に5トン積めたとして、煉瓦の個数は1923個。キリが悪いので2000個としておこう。
んで、1銭5厘=1.5*10^-2円、1.5*10^-2*27mile*5ton=2.025円の運賃。2000個運ぶのにこれだけかかるわけだから、1000個につき約1円、運賃がかかることになる。
M30年1月には、大阪市場の卸売価格、10.70円/千個。これが年末には7.4円/千個まで下がってしまう。ていうことは輸送量よりも市場価格の変動のほうが大きく、+1円くらいの輸送費はあんまり重要じゃなかったろうと言える。
問題はそれよりも貨車一台で2000個しか送れないということだ。大規模な建築なんかで、例えば100万個の煉瓦が必要だったとしたら、鉄道で送ると貨車500台分必要ということになる。一日5台を貸し切って100日かかる。不可能ではないにしても結構な量。
でも前掲『日本の貨車-技術発達史-』表によると明治30年に官設鉄道全体の貨物輸送量は158.3万トン。明治9年でも6万トン。500台で2.5万トンだから、まあ無理ではないか。
工場から大阪駅まで運ぶのが大変かも知れないが、大阪駅の入堀を利用すれば水運で大阪駅に直結できる。
北山第二トンネル隣の未成トンネルを再訪。そうそう、こんな感じの変な断面。入口付近は切り広げが進行していて幅4mくらいあるのだが、10mもいかないうちにそれが終わって導坑だけになってしまう。ガリバートンネルよろしく徐々に細くなっていく感じ。左右だけは。上下はざっくり切り下げられていて棚のようになっている。この掘削方式は日本式とも底設導坑ともベンチカットともちょっと違う。切り広げられた部分は路床レベル=軌道レベルで天井を切り上げる必要がある。導坑は幅が広いが天井は低い。1m強。前回訪れた時に天井に頭をしこたま打ち付けて悶絶したのを覚えている。
導坑は右に左にヨロヨロしているような状態で、しかし路床の水平なことは特筆に値する。湧き水が流れずにうっすら水たまりを作っているような精度。レベルはしっかり取られているらしい。ただ左右のヨロヨロのせいで山を突き破ってしまっている。とても妙である。
一番確認したかったのは鑿岩機の掘鑿痕があるかどうか。確かにあるが導坑の区間にだけだった。入口附近の切り広げの辺りには見られない(当たり前かも知らんが)。直径は約3㎝。通常とは逆向き(坑道奥から外に向かって掘削した跡)があったり、膨張した三角形の如き穴もあったりした。発破の痕跡もある。
この三角形状の掘鑿痕は、確か青の洞門の崩落箇所の脇にあった旧道の壁にもあった。大きさもほぼ同じだ。これは長ノミでないとできない跡だと思う。鑿岩機の刃先はこんなじゃないし、ロッドも三角というのは考えづらい。長ノミを最小限に回して掘ればこんな三角形になりそうな気がする。
すっかり忘れていたのだが、福知山線には山陽形煉瓦が使われている。宝塚駅の2番ホームとか(上写真。一部改修され違う煉瓦が無理くり突っ込まれているので比較していただきたい)、北山第二・溝滝尾トンネルとか、この間にある煉瓦壁とか。メジャーを持って行きそびれたので正確なことは言えないが、70mm前後なのは間違いなく、また武庫川第二橋梁を渡ってから先は作業局型になってしまう。このへんは小野田さんの論文にもあるが(73mmとされている。だとすると3inch型になってまうな)。
しかしまあ…懐中電灯+手持ちでこれだけの写真が撮れるんだったら、フラッシュなんか要らないじゃんとか思ってしまう。便利な世の中になったものである。
柳ヶ瀬隧道に使ったなんて誰が言い出したデマやねん、と思ったら『鉄道技術発達史』第2篇 第3にそう書いてあった。マジか。本家が間違っとるんやないか。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2423737/16
『日本鉄道請負業史』には全手掘りでダイナマイト使用と書いてある。送風機も確かに使われていて、接着剤の硫黄臭のせいで作業員が苦しんだとも書いてある。『日本鉄道史』にも鑿岩機使用とは書いちゃいねえ。
M29.12.着工の笹子トンネル、ほぼ同時期に着工して少し先に完成していた冠着トンネルには鑿岩機が使われた。先述『発達史』には柳ヶ瀬からここまでほとんど発達を見なかったとか思わせぶりなことを書いてある。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017323
隧道工事編・船坂隧道。メモとして。
T11着工の清水トンネルの工事絵葉書から。ドリフターによる掘鑿。
https://books.google.co.jp/books?id=DS1MAQAAMAAJ&pg=PA25&lpg=PA25&dq=water+leyner+drill&source=bl&ots=Imwokz-HGJ&sig=ACfU3U2O_M-pnhadHr1foG4s5zGVpn_1Fw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjP-_yk2anqAhVGyYsBHWzBDOcQ6AEwBHoECAoQAQ#v=onepage&q=water%20leyner%20drill&f=false
俺もしつこいねえ。Water Leynerの発明は1898年……!だったらあの長さのゲフンゲフンでほげふがぴげなみょーんがないのはそれ以前のブツだというこガホングホン。
http://www.tokushuko.or.jp/publication/magazine/pdf/2015/magazine1505.pdf
クロムバナジウム鋼の発明は1860年代。国内での量産は1930年以降、八幡製鉄所に電気炉が設けられてから本格化。その間に日本で製造がなかったちうことはないと思うけれど。