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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2019-03-01 [長年日記] この日を編集

[煉瓦工場] T9

何を寝惚けていたのか知らないが工場通覧T9版のデータがごっそり抜けていた。確実に工場だと言える貴重なデータだというのになんというぞんざいな扱い。慌ててテキスト化してExcelに放って表に反映させたら五稜郭煉瓦工場とか上毛煉瓦工場とかここでしか出て来ない工場がいつくも見つかって阿の鼻が叫ぶ喚くである。

大阪近傍では明治30年という年に一つの境があって、この頃に登場した数多の煉瓦工場の中から日本煉瓦とか津守煉瓦とか丹後竹村とかが成長していく。全国的にそういう傾向なんだろうと思っていたけれども、それはどうやら早とちりで、せいぜい西日本にしかあてはまらないようだ。関東ではそこまで明確なマジックナンバーではない。むしろ大正6,7,8年の大戦景気の頃に株式の会社がバカスカ生まれて皆死んでいく。大戦バブルを具現化している。関西ではどうだろう?その頃生まれた工場といえば印南郡辺しか思いつかぬ。大阪煉瓦(二代目)とかもそうかしら。

工場通覧T9を作り終えた後で日本全国商工人名録M25が気になってめくり直してみたら日本煉瓦製造の社章が見つかった。そういえばこれ入れてなかったな。他のはどうなんだろ。とか思って調べ直したら大正時代にも出てるのね商工人名録。こいつには社章屋号の記載がある。それでざっくり眺めてみたら大久保煉瓦工場(大久保清吉)の屋号マルキヨを発掘したりした。白石耐火もあったが若干不鮮明。それっぽいのをでっちあげておく。

商工人名録は東日本よりもむしろ西日本で発見があり。愛知の明治煉瓦の社章を拾ったりーーーこれは長くやっていた工場だからどこかで刻印煉瓦が見つかりそうな気がするーーー平坂煉瓦のもっと鮮明なのを見つけたり。大分県の県章みたいなあのマークは「平」の字を意匠化したものなんだななるほどな。明治煉瓦だけ作って反映させておく。

なんだかんだいって東日本も社章屋号がずいぶん溜まった。ただ屋号印はほとんど出て来ない気がする。北海道のマルコメとかヤマダイとかマルキヨとかは聞かないもんな。それが誰も見てないせいなのか本当に使ってなかったのかは判断しかねるが。

サイトー煉瓦のマルサと和歌山の○サは同じものか否か。函館製瓦の|||と加藤春吉商店の|||と岸和田の|||は。敦賀のミツワは石黒煉瓦なのか片山煉瓦なのか。大正期にもなると舟運隆盛でバラス的に積んで運んだのが出て来そうな気もするのであるが、それでもやっぱり潮岬を回って東西に行き来していた姿は想像しにくい。鉄道でひたすら運んでいったという想像も難い。だいいちそんな長距離をガタガタ揺られて運んでいたら角が欠けまくるだろ。いくら薦で巻いていたとしても角打ったら欠けるに違いなく。


2019-03-02 [長年日記] この日を編集

[きたく] geragera warahu

瀬戸谷橋にて。

画像の説明画像の説明

どないせいっちゅうねん。

したけどさ。


2019-03-03 [長年日記] この日を編集

[独言] うう

連絡せにゃいかんところがいっぱいあるのだが整理がつかぬ。

ひとつ片付ける。

今日はUSB3.0 TypeBとかゆう変なケーブルを買うためにヨドバシカメラへ出かけたので、そのついでに北区某所の煉瓦壁を見に行った。こないだ情報をいただいたやつである。そしたらば、予想外の不思議空間であったうえに、目当ての壁以外にも煉瓦瓦礫が多数あって。第二のぱらいそになるかも知れない(磯じゃないけど)。ざっと見て回って大阪窯業岸和田煉瓦日本煉瓦長破線漢数字小など出てきた。幅広い年代の雑多な建造物の煉瓦瓦礫が集積されているというカンジ。特に漢数字小の存在が意外。下手すりゃ明治20年代まで遡ることになるんだぜ。

その足で恒例の上神崎川橋梁視察へ。ついに下流側橋脚の揉み崩し始まる。コンクリ橋脚がまだ半分くらいだったからもう少し先だと思ってたのだけど、なるほど下流側をすっかり片付けてから台船を動かして上流にかかるわけだね。

さらにその足で2度目の下新庄彷徨。したらば35播煉5が見つかって吃驚。しかも播煉マークが逆。これがレール刻印だったら界隈の注目ネタになるのだろうが煉瓦じゃ誰も驚かない。nagajisだけが勝手に驚いて勝手に感心している現状である(その現状に不満は全くない)。

それよりも下新庄のはずれでまた大量の煉瓦瓦礫に遭遇してだね。Kとか讃岐煉瓦とか貝塚煉瓦とか大阪窯業とか岸煉とか日本煉瓦とかねもう何でこんなに沢山確保してたんだろうこの方はというような遭遇をする。全部見切れなかった。そうしてここで書いていない1つが衝撃的でもあり超妥当でもある発見。あって然るべきだかそう来るかという斜め上っぷり&私的納得大盛況な状況。全形でないのが酷く惜しいが仕方あるまい。これでまた真理に近づけそうだ(しかしこれあったらNDAなんでゴホゴホエヘンなのだが仕方ない順序であるしあくまで転石だからなぁ)。

それにしてもこうも二次集散が立て続くと刻印分布を記録する意味に疑義がが。


2019-03-04 [長年日記] この日を編集

[奇妙なポテンシャル] 不須触

画像の説明

「終わりの日は近い」系の看板かと思ったらそうではなかった。読み解いていくうちに「入庫」が弄るべからずな貴い言の葉のようにさえ思えてきて、一周も二周も旋回した奇妙なポテンシャルを覚えたことだった。

[] 危機感

指先は相変わらず痺れているし足などは椅子に座っているだけでも違和感なので何とも御し難く今日は不貞寝することに決めた。

前回の原稿で明神口橋を見下ろした時に覚えた感情をうまく説明できず宿題とした。あの感覚はとても大事なものだと思い、もっと丁寧に書かなくてはならぬと思いつつそれができなかった故に逃げたわけである。見ず知らずの昔の人の感覚と<全く>同じ感覚を覚えたに違いないという発見。それはいい。それが廃道探索ならではのものであり探索の醍醐味である、文書では決して伝わらない感覚というものを知覚することこそ廃道歩きなのだ、といったようなことを書こうとして断念した。その発見がnagajis史上初といっていいくらいの鮮明なものだったということが原動力となっているが何かがとても不足していた。過去と変わらぬモノを見、同じ<ような>感覚を得ることくらいなら廃道を歩くだけでも構わない。過去の道を、過去の人とほとんど変わらぬ感覚で歩くことはいくらもできる。が廃道は厳密には過去の姿そのものではない。草木が生い茂り道が崩れ落ち雑草が育って姿を変えている。その草生した姿は過去の人は見ていない。線形は変わってないにしても道幅なんかは変わっていそう。故に廃道だけから全く同じ感覚を得ることができぬ。明神口橋は当時とほとんど変わっていない故に同じ感覚を得られたのだと思う。同じ感覚を得ることは楽しいがもしそれを主目的にしてしまうと感じられる機会はひどく限られてしまう。旧県道のような特異な条件下でならなくなるわけで、だとすると廃道の専売特許というわけでもなくなってしまうのだった。そのへんに論の無理がある。

なんなら廃道でなくったっていいわけである。その感覚を知れさえすればいいのなら。美術館で明治の彫刻なり絵画なりに触れたっていい。廃道は余計なお膳立てがない生提示という点が優れているのみ。

昔の人の感覚を再現する。追体験する。追体験という言葉もちょっと合わない気がした。意味的にはそうなるのだろうけど、何というか、没入感が足りない。それそのものになりきってみたい。現在に身を置いておいしいところだけ楽して取ってくる、みたいな感じがある。あの瞬間はそうじゃなかった。過去になり切って、過去の人になり切って見ている自分に気づいてハッとしたのだ。先にいろいろ書いたけれどもそのような没入観は廃道を歩いていたからこそなんだと思う。より近づけるのは間違いない。そこを本当に「廃道でなくてはならない」と思わせるような書きようがあるはずなんだ。それが伝われば、それに則って歩いてくれたら、きっと廃道歩きの本質的面白さに気づいて貰えると思うんだ。悲しいかなその才が足りない。気力も不足している。

理解してもらってどうするの?と思わないでもなかった。本質的に私は誰かを訓導するような物言いはしたくない。そういう器でないことは誰よりもわかっている。だとすると結局、自分がどれだけ面白く思ったかを可能な限りの言葉で言い表して共感を求めるしかない。しかしそれも限界を感じている。ふだんから共感を求めていないものが急に共感共感言い出したって誰もresonantするわけがないだろう。「伝わらない」だろう。結局のところ体のいい身繕いでしかねえ。てなかんじで自分の生き方の根っこにも絡まってくるわけでさ。

共感してもらえなくていいから、とにかく、この場で感じた感覚を余す所なく書きたい。そこから何かが伝わって「旧感覚への没入」の面白さに気づいてくれる人がいれば。「面白さ」という語もなんか違うのだ。それはとっても素敵なことなんだ。知ればきっとものの見方ががらっと変わる、興味を持てることが世の中に溢れかえりあまりの多さに謙虚にならざるを得ないかわり生きるのが少しは楽しくなるというか本質的な生き方ができそうな勢い位のいいことなんだと思うのだ。ああそういうことに気づいた人が宗教家になったり宣教師になったりするんだろうなというような。いまの世の中にはそれが透徹して欠けている。気づいてくれたらもちっと世の中平和になる。きっと。「思いやりの心」は近いけれどやっぱり主客の関係を免れない。その人そのものになり切って感じること。もしかしたらそれが「父母未生以前の自分」なのかも知れぬ。禅的悟りの境地なのかも知れぬ。


2019-03-09 [長年日記] この日を編集

[煉瓦工場] 野幌

『野幌窯業史』を使って工場の継承関係などを確認する。通覧と統計書から組み立てた改廃と大筋で一致していて『窯業史』で一言二言に済まされている沢村工場とか小なんとか工場とかちゃんと拾えていることとか言及されていない工場を2つほど拾ってたりしてほくそ笑みつつ野幌窯業(株)のS14のデータを変なところに放り込んでて永久に噛み合わないところだったのを発見したり江別太煉化石の前身に複数の工場があったらしいことを知ったり佐藤煉瓦に昭和煉瓦を無理矢理くっつけていたり(西野幌と字野幌は違うんじゃボケー)馬場崎工場布川工場の前後の継承関係も把握できてなかったりといった誤りを多々見つけたりもして結局は4割くらい修正する必要があった。特に佐藤煉瓦はS11に報国窯業になったと考えたほうが辻褄が合う。ただし同じ頃違う場所に佐藤氏所有の昭和煉瓦工場が存在するのは謎のまま。昭和煉瓦(株)の前駆体なのかそうでないのかよくわからない。昭和煉瓦(株)があるうちに佐藤氏の名前が煉瓦製造業者として別置されたりしておるし。館脇+岩田=野幌煉瓦(株)はうすうす感じていたらしく並べ置いていたのは褒めちゃろう。S14データを間違えてさえいなければきちんと嵌ってたはず。

ともかく野幌は密集しすぎていて難しい。通覧では大正頃まで番地がでてこず字●●としてあってなおかつそれが誤字たり略されたりしておるのでどの地域にあった工場なのか判断するのも難しい。そのへんを略図や出典もつけて解説してくられている『窯業史』はまこと有り難い存在である。自分の仕事の低精度もよくわかつた。

本当は表整理などすぐ終わるものと鷹をくくっていたのだがみっちり5時間かかった。『窯業史』の後半に目を通す暇もなし。


2019-03-13 [長年日記] この日を編集

[偽補完] 宝塚花組 明日海りお退団へ写真

を「明日、海お断りへ」と読んだ。どこをどう補完したのだろう。海以外の何がOKなのだろう。

[独言][料理] とても悔しい

先日スーパーで「しそわかめ」というふりかけを見つけ、これをペペロンチーノに加えたら美味いに違いないと思い購っておいたのだが、本日それを試してみる機会に恵まれた。やってみればまことに美味であり海藻類もたっぷり摂れてなんとまあ素晴らしい閃きよと自画自賛していたのだが、たったいまその袋の裏を見ると、そのとおりのレシピが紹介されていた。

悔しい。とても悔しい。おれの貴重なセルフ・コンパッションをかえせ。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ あきら@大阪 [>悔しい。とても悔しい。おれの貴重なセルフ・コンパッションをかえせ 場面や状況は違えど似た様なのが身に覚え有りすぎて、申し訳ないぐらい声出してワロタwww]


2019-03-17 [長年日記] この日を編集

[独言] 本棚を新設する

恥ずかしい本ばかり読んできました。

画像の説明

この部屋に住むようになって初めてといっていい模様替え。新たな本棚を設置しパソコンの向きを変えた。新棚には文庫~A6版までの書籍を、元のスチールラックにはここに収まらない函装丁の本―――野幌窯業史とか日本の橋とか大阪の橋とか道路元標を尋ねてとか吉野の民俗誌とか揖斐郡教育会「道」とか昭和の道路史とか大阪安治川口の研究とか大阪市水道六十年史とか―――とA4版大型本---治山林道の変遷とか造幣局百年史とか日本の近代土木遺産初・改定版とか謎のお雇い外国人ウォートルスを追ってとか煉瓦のまちタイルのまちとか関西窯業の近代Iとか奈良県の近代化遺産とかTHEレイルNo.108とか長浜みーなとか五體字類とか---を置く。いまM6以上の地震が起これば、これらに潰されて死ねる。

長旅に出る前に筒井康隆の文庫本を全て処分したほかは基本的に保持して来れている。大学時代に貧しい収入を割いて購入した峠本も全てある。貧乏性なので捨てられない。いま自分の財産といえるものはこれくらいしかない(これと元本棚の資料群と、か)。

ちなみにこの本棚、裏にも置ける。そちらには辞書と消費される方面の本と、重石に煉瓦を置いてある。襖を開けて隣の部屋から取り出すという算段である。


2019-03-18 [長年日記] この日を編集

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807209/109

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807210/461


2019-03-19 [長年日記] この日を編集

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/973041/87


2019-03-25 [長年日記] この日を編集

[独言][煉瓦工場] 勝間・住吉・安立界隈

工場表大阪編の整理をしていて墨江村の三栄社ともう一つが安立町に移っているらしいことに気づいた。それを突破口にして周辺の煉瓦工場を整理し、そのついでに再三再四となる現地訪問。ほんとは山陰本線方面に行こうかと思ってたんだけどな。寝過ごした。

墨江村周辺はたぶん4回ほど訪れたことになる。最初は勝間村の尾崎煉瓦工場と三栄組を探しに。2度目は千体村方面。3度めは住吉神社から東へ池田家住宅辺りをうろついた。そして今回。それだけ歩き回っても三栄組の痕跡は見つけられない。尾崎煉瓦も尻尾を掴めぬ。この地域に特有の煉瓦というものが見いだせぬ。明治前半期の三栄組はともかく尾崎煉瓦はあってもいいと思うのだ。それが見つけられないってことは要するに刻印を使っていなかったということになると思う。手成形煉瓦はかなりあるのだ。

今回は各村の旧市街地を徹底的に歩き回った。望みのものはなかったかわり、意外に他種類の刻印と遭遇。懐かしいものもいくつか。

画像の説明

勝間村域で大阪煉瓦。前回は旧市街地の端を掠めただけだったのでこういうのさえ見つけられなかった。 画像の説明

画像の説明粉浜街道沿いに南下していく途中で見つけた和泉煉瓦(大正)。これだけを使った小路がひっそり残っている。ここだけ大正初期~中期な一角だ。

画像の説明

粉浜の商店街にさしかかったところでは貝塚煉瓦にも遭遇した。これが今回もっとも古い(明治27~40:恐らく後半の作)。

画像の説明

細長い安立町は特に念入りに歩き回ったつもり。そんな安立で久しぶりに朝日窯業を検出。T6~9まで絞り込める貴重な刻印。これと並んで大阪窯業もあった。豊中の朝日窯業(亡失)も確か大阪窯業刻印煉瓦と共使いになっていたはずで、その流通に同じバックグラウンドがありそうなかんじ。(共使いの大阪窯業はマークのみ・長手に寄った端のほうに押されていた)

画像の説明

安立3丁目、本通商店街の脇の細道では「S」刻印に出会う。堺市堀上町で1つ見つけたきりの(自分にとっては)レアな刻印。同型のがいくつか見つかってくれないと新種認定できないからな、こういうのは有難い。

画像の説明

おまけ。空地で検出したYFB耐火煉瓦(扇型異形)。上に「2」が見える。YFBちうとYokoyama Fire Brickを連想するが、横浜耐火煉瓦である可能性もないわけではないからな・・・。

[橋梁][煉瓦刻印] 阪堺大和川橋梁の北側の小橋梁

画像の説明

偶然行き合わせた煉瓦橋脚の橋。この天辺に平が露出している。 画像の説明

いかにも機械成形という肌をした煉瓦に、比較的整った平に岸和田煉瓦の×マークが押された煉瓦が混じっている。はじめは後者を手成形かと思ったのだけれども、よくよく見ると小石をひこずった弧形の傷(以下擦過傷)があり機械成形とわかる。 画像の説明

岸煉が明治39年に導入した成形機械は米国Chamber Bros.社製で、自転車のホイールのようなやつがぐるんぐるん回って裁断する。ちょうど上写真のように、長手と平行気味の、全体的には小口―長手角から対角の小口角に抜けていくような感じ。阪堺の大和川橋梁は明治44年開業だからM39に購入したそれで作ってて不思議ではない。想像が裏付けられた格好。

そのことよりも、他の歪んだ煉瓦の存在に大きな示唆を受けた。平が波打ったような歪み型をしている無刻印の煉瓦が共使いされている(2つ前の写真参照)。質感は刻印入りのものと似ていて、ただ平が整っているかそうでないかという違いがあるだけだ。多分これも岸煉製なのだろう。波の繰り返しの方向が擦過傷の弧の方向と一致している。ホイール状の切断機が回転して切断する時、そのホイールの軸が緩んでいたり、スポークがビビったりしたらこんな波形になるのではなかろうか。

そうしてそんな平が波打った無刻印煉瓦は街なかで結構見かけるのだった。えらい歪んでんなーという機械成形の煉瓦を。あれも岸煉製で、チェンバー兄弟社のマシーンで作られたのだといえるとなかなか面白かろうと思う。刻印がなくても製造元を特定できる例として。

チェンバー兄弟社のマシーンを使ったのは管見の限り岸和田煉瓦しかない。他は大阪窯業流のアレ。上手い例えがありそうでなかなか思いつかないが、自分の頭のなかでは「ゆでたまごスライサー類似」と認識している。ピアノ線を張ったハープみたいなんを手前にギッタンと倒して切断するやつ。手動。あれだと長手から長手に抜ける円弧傷になる。こいつは構造が簡便なので多くの工場で使われた(はず)。とすると傷の付き方だけで製造元を推測することはできない。

[独言] 今回の総括

やはり煉瓦は幾らでも街なかに転がっている。探す場所さえズレてなければどんな街でも煉瓦を見つけられる。目印は旧街道。そこから一筋逸れた筋や、旧街道に面した民家商家の隙間を入っていく細道を、しつこい位に分け入っていけばよい。長屋前の細路地とか、旧街道脇の空き地の奥とかを徹底的に歩き回ればよい。

あと、市街地では今昔マップが便利。これで昔からある市街地を確認して、その範囲を徹底的に歩き回る。これ最強。

今回は日本煉瓦を飽きるほど見た。場所をメモしして刻印分布に登録したのはその半分くらいじゃなかろうか。大阪窯業や岸和田煉瓦を凌駕する勢い。なんでだろうな。販売形態とか流通経路とかが違うんだろうか? 大阪窯業・岸和田煉瓦は輪窯を10前後もこさえて超大量生産した。大口受注に応えられた。日本煉瓦はそこまで多く無かった筈。覚えてる範囲でも3基が最大だった気がする。そうすると1,000万個とかいう単位の需要には応えられなかったかわり、市中の用に供するには充分な規模だったのかも知れない。そうして煉瓦建築が激減した大正末頃から大会社はかえって苦しくなる。テラコッタとかタイルとか耐火煉瓦とかの製造に軸足を移していく。 小回りが利く中小工場のほうがかえって生き残りやすかったのかも知れない。

長屋の腰壁、路地の排水溝(特に水枡)、建物基礎、といったところには長い間需要があったようで、街なかで見る煉瓦はたいていそれか、その成れの果ての転石。特に排水溝。凝灰岩か何かを細長く切り出した石材で溝を作っているところも多いが、それの代用として?煉瓦を使ったところをよく見る。あの溝も煉瓦捜しの目印になるかも知れない(下水網は都市計画だっけ? 計画的広範囲に整備された地域はわかるものかしらん)。


2019-03-26 [長年日記] この日を編集

[bdb] マップ設置

画像の説明

刻印種別ごとの分布を表示するマップをつけてみる。かなりrawなことせにゃならんかと思っていたがそうでもなかった。メタデータを付与するプラグインにfunctionがついていたお陰でずいぶん楽できた。

SysbirdさんのBirdSITEをいじってる。個人使用ならOKなんかな・・・。こんどちゃんとライセンス確認せな。

これで目的の6割くらいはできた。あとは各刻印のマップをGoogleMapsのマイマップに依存しない形に作れれば。いまはiframeでマイマップを貼りこんでるに過ぎぬ。


2019-03-27 [長年日記] この日を編集

https://goo.gl/maps/ofL121keYck


2019-03-29 [長年日記] この日を編集

[煉瓦] 「三吋型」規格

大手前大学史学研究所からいただいた『関西窯業の近代I』を読んでいて、ちょっと面白いことを発見した。明治36年第5回内国勧業博覧会に堺煉瓦と貝塚煉瓦が「三吋型」煉瓦を出品している(c.f.審査報告第5部巻之4・吸水率検定表)。表の他の出品と合わせて眺めると「東京型」や「並型」と同列の煉瓦規格を示すものらしい。そうして2社が出品しているということが単独社の思いつき規格でなかったこと即ち比較的流通していた規格だったことを物語っている。

3インチ=7.62センチ。これは東海道線の大津〜米原辺でよく見られる肉厚煉瓦のサイズに近い。旧桂川橋梁の下流側橋脚の異形煉瓦も厚7.6cm。このあたりが建設された頃、明治20年代〜30年代にこの厚さが流行したと推定していたが、それがどうやら「三吋型」煉瓦だったらしい。

実際、この厚さの煉瓦で堺煉瓦刻印が押されているものをいくつか検出している。例えば桂川橋梁跡で採取したnot異形の肉厚煉瓦。上新庄の異形煉瓦もそう。測ってはいないが遠目からでもそうだとわかる。 画像の説明

さらにいうと、瀬田で取得した井桁菱+カ、も厚7.6cmであったりする。この厚さと審査報告の記載、そして印影から、逆合算して貝塚煉瓦の刻印だと推断してもよいのではないか。 画像の説明

滋賀県甲賀市の杉本煉瓦工場があった在所でもこのサイズの肉厚煉瓦を多数検出する。膳所駅前の改修工事でも無刻印のこれが出てきていた。

厚い煉瓦というと山陽型煉瓦が連想されるが、これは目地込で3インチとなるよう設計されていた。三吋型は煉瓦だけで3インチあるわけだから、たぶん目地込み3・1/4インチみたいな感じなのだろう(構造物の煉瓦段数が4の倍数で作られてやしないだろうか。そこまでは合わせてないか…)。

三吋型は構造物の寸法をインチ準拠で作れるほかにどんな利点があっただろう。東京型や並型に比べて煉瓦1個の容量が大きいわけだから、同じ大きさの壁体を作るのに使用するモルタルの量を少なくすることができる。それから煉瓦の個数を減らすことができる。個数が減ればそのぶん「少ない手数」で積むことができる。煉瓦構造物の建造の手間は大部分が「積む作業の手数」なんじゃないだろうか。例えばの話、小まい煉瓦を4000積む必要があるところを3000で済むのであれば1000回の手間を節約できるわけで、これはかなりの利得だと思う。持ち上げて移動させてモルタル塗って乗せてという手間×1000回を減らせるのだし。少し重いので積む方はちょっと大変だったろうけど。

作る方の利点は。粘土の量が1.5倍ほど必要になるが、材料費増はたかが知れている。その一方で「手数を減らせる」という利点をウリに割高にすることはできただろう(高くしないと利益増にはならぬ。納入個数は減るのだからその分価格を上乗せしておかないと苦労し損だ)。焼いたり乾燥させたりするのは結構難しそう。厚い煉瓦をきちんと乾燥させ、火を通さねばならず、普通の感覚でやったらうまくいかないと思う。

堺煉瓦と貝塚煉瓦はキシレンや大阪窯業と比べて煉瓦1個の単価が安めに設定されていた(確かM34大阪府誌)。岸大の後塵を拝していた中堅会社。品質では負けるからそれなりの苦労をしたと思われ、その一つが三吋型なのかも知れぬ。

大高庄右衛門が煉瓦規格の統一を訴えたのは第5回内国勧業博覧会の2年後、明治38年。http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20180822&参照。この論文のなかでは三吋型というのは出て来ない(そのかわり「独逸型」が一時流行し廃れたことが書かれてる。これが三吋型なのかどうかは不明。ドイツの煉瓦は3・1/4だったか2・3/4だったか、ともかく端数があった@実地土木工学←検索窓で「各国 煉瓦」検索のこと)。鉄道構造物でも30年代後半からは肉厚煉瓦が現れなくなる。


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