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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2018-05-01 [長年日記] この日を編集

[独言][煉瓦] 元の木阿弥に戻った

中川煉瓦で平の筋の成因を教わった!やった!とかなんとかほざいてしまったが、後日電話で再確認した結果、私が早とちりしていただけであったことが判明した。なんということだ……。お互いなまじっか知っているだけにちょっとした言葉尻にも反応して論理回路をショートさせやすくなっているのがよろしくないのかもしれぬ。もしあの通りであるのなら由良要塞の笠石の濡れ縁はすべて長手積みになっていなければならないが、微塵もそんなことはなかったのだった。

もうちょっともちつけ。而して懲りずに続けるつもりでいる。次に聞くならあそこしかあるめえ。


2018-05-06 [長年日記] この日を編集

[古レール] Finished. Relatively finished. Damm.


2018-05-08 [長年日記] この日を編集

[古レール] 50PS ◇s 1956 IIIIIIIIIII

画像の説明

ふくちやませんはたのしいよ。こんなれーるがみられーるよ。

「1978年2月にできた柵なんだから古いレールは使われてないだろ(=おもんないやろ)」とか思ってスルーしていた私が浅墓であった。何故か釜石の富士製鉄のレールが使われている。まこと、油断ならない廃線敷である。

藪からぬっと出てきたところを子どもに見られて「びっくりした~」「びっくりした~」「びっくりした~」と三度言われた。この間のおっちゃんと全く同じ反応ではないか。どういうことだ。人類共通の普遍的心理がそう言わせるのか。

[煉瓦][煉瓦刻印] 大津膳所再訪

翌日は懲りずにまた大津へ行く。さんざん歩き回って所望の煉瓦刻印を入手したが、入手したところで何かが解決したわけではなく、謎は謎のまま手元に蟠っているばかりである。

膳所駅前でゲッツした煉瓦も不発。ただあの煉瓦、どう考えても馬場駅由来くさいんだよな。出土位置といい大きさといい。駅西方にある暗渠のインバートにはあれと同じ極厚煉瓦が使われてあったし、さらに引けば桂川の辺りで見られる極厚煉瓦と同系譜な塩梅。大津市街の「○+甲二」も米原の「勢陽組井」も同じサイズの極厚煉瓦であった。あれが最初期の鉄道建設の定形であったのかも知れない(無論通常サイズの煉瓦も使われているが。先述暗渠もアーチ部は普通のたぶん並型)。

そういや鐘ヶ坂の篠山口の煉瓦もでかかったな……手元にないから比較できないが、確かエッセイに寸法を書いているはず。厚70数ミリ、長230mm超、だったっけか。

追記:このサイズは小野田氏のクラスタ分析のI群に相当するもの。東海道線沿線の 滋賀県下と愛知の辺りで集中的に 、そして直江津のあたりで1件見られるようだ。半場川橋梁と直江津のには小口にアルファベット印がある。それがわかっているのであれば逆にこの線が建設された頃に使われたサイズと見ていいのかも知れぬ。井桁菱カとか○甲とかもそれ絡みで作られたものと。他で使ってるの見たことないもんこのサイズのは。あ、だとしたら愛知のは勢陽組の煉瓦かも知らんな。米原まで来てたぐらいだから愛知方面はあって当然だ。

[独言] いろいろなものが降ってくる

珍しい5月である。例年この月は何も起こらないか酷く運気が下降するかのどちらかなんだけれど。いやまて、これが上昇運と決まったわけでもないのだぜ>nagajis

[道路元標] 大津市道路元標

画像の説明近頃はGoogleマップに道路元標が載るようになったみたいで、出先で元標に出会うことが多くなった。便利な世の中になったものだ。

大津市の道路元標は磨き仕上げの御影石。裏に「滋賀縣」と銘がある。たぶん県道路線上にしかないのではないか。奈良県のように。

[道路元標] 安芸町道路元標

画像の説明 高知の安芸町(安芸市)のもそうだった。ただし裏には何も書かれていない。

マップに掲載されるようになったのは有り難いことだけれども、元標自身の有り難みが低下する気がして仕方ないのは否めない。まあ、彼らにしてみれば「復権」なわけなのだから祝いであげるべきだろうな。それに何の予習もしていない旅先で元標位置がわかれば予備知識なしで旧幹線を知ることができるわけで街歩きにはたいへん便利なのだ(お前の街歩きはおかしいだろ、というツッコミを期待したりはしない)。

[道路元標] 木津町道路元標

画像の説明

おっと、これもだった。京都府木津町のも出先でマップを見ていて気づいた一基。この元標のある辻の北にかつて泉橋が架かっていて、それで木津川を渡っていた。旧版地形図を持っていってたからそれがわかったようなもので、今の寂れっぷりからその過去を想起するのは難しい。

[] 岩波新書 シリーズ日本近現代史

のっけから啓蒙される。ペリーとの交渉が決して弱腰交渉でなかったとのこと。以前ならそんな「自分の知識の誤謬を正される記述」に全面依存してしまうところだが、何でも疑う癖がついてしまった昨今はそうでもなくなっている。自分の知らなかった事実をさも新発見のように騒ぎ立ててしまいがちだった自分への反省として。何も正から負へ反転しなくてもいいのである。そういう見方もある、というのを頭に入れておいて、じっくり熟成させればよいだけなんだ。それを重ねていくうちにだんだんベクトルが揃っていく。

「竜馬がゆく」を読んで坂本龍馬に陶酔してしまうような愚。あれ全部史実だと思ってしまうから間違うのだ。司馬さんの作品はあくまで創作として楽しまなければならない。この間林真理子女子が「司馬さんだって間違いを書いている」なんて言っていたけれども、なんだかなあとしか思えず、よって西郷どんには興味が持てない。

史実ってなんだ。「歴史」ってなんだ。起こったことは唯一無二だとしても、見方・切取り方で解釈は様々に変わる。結んだ内容は不平等条約であったし締結までぐだついたみたいだけれども、米国と日本との力量差が明確に存在する中で最大限の交渉と譲歩をした結果がそれであったわけで、結果だけで幕府を腰抜け呼ばわりするのは酷だろう。ということを学んだ。

しかしまあ、そんなことをいっていたら、いつになったら自分の歴史観ができあがるんだろうな。右にふれ左にふれするぶよぶよなものを振り回しつつ当面の課題を解決していかなければならないってえのは大変である。いっそのことそんなもの捨ててテキトーに場当たり的に書いたほうが気が楽だ。何の成果も残らんだろうがな。歴史観ロック。ゴーゴー。ゴーゴー。

[独言] よくない。とてもよくない。

ここに書く時は常に脊髄反射である。思いついたとおりに思いついたことを書いている。冒頭の

「こんなれーるがみられーるよ」

もそうである。そうしてこの文字列を見直すたびに「だめだこりゃ」と思っている。口合いとしては成立しているとしても余りにも間が抜けている。間が抜けていると評するのさえ憚られるほど下らない。下らないも何も下げにすらなっていない。これだったらオヤジギャグのほうが数段崇高であるだろう。オヤジギャグに泣いて謝って命乞いして斬られるべきである。

この文字列を書いた時の心持ちを過不足なく書き表すのが目的なら長音記号など入れずに続けて書けば良かった。そう書き直そうかと何度思ったか知れぬ。長音記号は魔が差したとしか思えない。けれども今更書き直すのは過去の悪行を揉み消すようで気が引ける。nagajisの馬鹿さ加減つまらない人間さ加減を表明するうえではそのままにしておくべきであると思うのであーる。

ほらね。これは、よくない。


2018-05-10 [長年日記] この日を編集

[独言][ToDo] よく降る

Oさんからデータを頂くわbdbを見た方からご連絡を頂くわ滋賀県Uさんから身の縮み上がるようなご提案を頂くわでなんとも慌ただしい。4月末から含めたらやましろ投稿もそうじゃないか。降り続けだ。そうして指先のしびれが手首にまで及んできていてこちらも大変だ。

[独言] カードの更新

4月の終わり頃にクレカの更新が届いていたらしいのだが、ドアポストに不在通知が投函されていたために全然気付かなかった(いやドアポスト投函が正しいやり方なんだろうけれど。わたしゃ滅多に見ないのよドアポストは)。GW過ぎてようやくそれを発見した時には保管期限などとうの昔に切れていた。しかも2行ぶんだ。

電話で問い合わせたところ、一行はすごく丁寧に対応してくれ、すでに再送中であると教えてくれた。ご不便をおかけしてまことに申し訳ありません、てさ。いえいえ別にカード無くても困っちゃないんですけどね機能さえしてくれれば。楽天の方も多分再送中だと踏んで問い合わせはしなかった。さっき届いていたメッセージを見てみたら、やはり再送したとの連絡。「必ず受け取れよゴルァ」と言わんばかりの高圧的文面で、こういう所にも品の差が出るのだなあと思ったことだった。さすがは楽天である。

[独言] 情報の価値

通勤中にふと「情報の価値はdivで測られるべきではないか」的なことを考えた。

貴金属や貨幣、不動産といった「モノ」は、それがそこにあるだけで価値を有している。1000えん持っているというただそれだけで私は幸せになれる。ダイアモンドは例え自分のものでないとしてもそれ自身に価値があることがわかる。それがモノの価値である。

昨今は「情報」にも価値があるという。しかし「情報の価値」と「モノの価値」はちょっと違うように思われる。情報は持っているだけでは価値がない。そこにあるだけでは価値がない。例えば私が「勢陽組の煉瓦が米原まで進出していた」という情報を持っていたとしても、誰にも言わずにニヤニヤ笑って反芻しているだけでは何の価値も生じない。どこかに書いて誰かに知らせ、そのことに興味を持ってくれる人に伝わらなければ無価値である(刻印煉瓦自体はまあ、あればあったでなんらかの価値があるかも知れぬが、それはモノの価値だろう)。村田鶴の履歴書が滋賀県庁に保管されていてもアクセス不可能であれば全く無意味で価値も有さない。それが公開され、中身が私に伝わった時に私にとってかけがえのない価値が生まれた。ただの古レールと思っていたものが、実は貴重な1本であるということがわかり、その情報が加わったことで価値が増したというのもそうだ。貴重だという情報が加わらなかったらだの鉄の塊であり続けていただろう。加わった後のレールには価値がでたとしても、それを可能にした情報にも価値を認めなければならないのではないか。お金だってそうか。日本銀行が価値を保証してくれるという情報が加わっているから価値があるのであって、その情報が伝わってない世捨て人とかコロポックルとかにとっちゃあただの紙切れであるだろう。ケツ拭くのにもチラ裏を書くにも使えない難儀な紙切れである。

要するに、情報は「伝わる」「加わる」時に価値が生まれるのではないか。情報は「移動する」際のなにか(速度?加速度?単位時間量?)によって価値が測られるべきできはないか。と、そういうようなことを思いついたのだった。

んで、電磁気学かろうじて可だった脳みそが「divで考えろ」と宣っている。発散とか∇とかでてくるやつだ。しかしどう適用すればいいのかよくわからない。そもそも情報は三次元のベクトルでよいのか。スカラーでgradでも構わないのではないか。

それはまあ脇に置いといて、情報を「動かす」のであれば、そこにやっぱりエネルギーが必要となる。文字を書くとか写真を撮るとか能動的な行動を必要とする。情報に価値を与えるためにはエネルギーが要る。それが代償である。位まで考えたところで頭がショートした。惜しいな。


2018-05-11 [長年日記] この日を編集

[古レール] CONSTECOの正体見たり代理店

https://archive.org/details/bethlehemstructu00bethuoft?q=CONSOLIDATED+STEEL+CORPORATION

https://archive.org/stream/transactionsofen03engi#page/n87/mode/2up/search/CONSTECO

下の資料のほうがわかりやすい。Consolidated Steel Corporationという会社で例の紡錘形マークをTRADE MARKとしていた。BETHLEHEM STEEL、LACKAWANNA STEELほか数十社の製品の輸出を一手に引き受けていたようだ。だからLACKAWANNAにもある&わざわざMADE IN USAを謳っておるのである。ということをサボって書いている午後6時。

追記:単純にCONSOLIDATED+STEEL+CORPORATIONで検索すると製鋼・造船会社がヒットするがそれとは無関係の模様。上資料のCopylightは1920年だし下のカナダ技術学会報は1919八甲田(1920年1月号)。

追記2:資料の下の方にあるCable codeは電信に使う暗号書の記述。うちはこれを使えるよっていうことらしい。電信文を短くして料金を節約するためだろうか、単語を数文字の英数字に短縮した「暗号<>単語の一覧表」みたいな本が作られていたようである。Bentrey'sなんちゃらphraseなんかはそんな本。Archives.orgで検索すると出てくる。考えてみたらそーだよな、日本でも電報は短縮型で送ってた。公文書に挟まってたやつとか。国内だけなら単一コモンセンスで成立しただろうけど国間でやりとりしようとしたら色んな略し方が出てきて収拾がつかなくなりそう。そういう時に予めなんちゃらphraseの暗号に沿って送受信すると決めてればよいわけだ。うん。

http://www.picturesheffield.com/frontend.php?keywords=Ref_No_increment;EQUALS;u04363&pos=2&action=zoom

自然がテーマなんだから自然の本で戦えよ。カエレ。


2018-05-12 [長年日記] この日を編集

[古レール][] Darlington Iron Co 略歴

出典:特記なき限り https://gracesguide.co.uk/Darlington_Iron_Co

Darlington Iron Works。William BarninghamがAlbert Hillに興す。Darlington最初の可鍛鉄(鍛鉄)を製造。

1858
もともとマンチェスター郊外にPendleton Iron Worksを有していたW. Barminghamが、ダーリントンAlbert Hillに新工場を建設。ロンドン-ダーリントン間の鉄道や北港・東北港に近いので外国からの注文に応えるのに便利な場所としてこの地を選んだ。またSouth Durham Iron Coの高炉(blast furnaces)から輸送料無料で銑鉄(pig-iron)を入手できることも利点。
工場の機器はPendleton工場で製造。製錬プラント(pudding plant)や圧延プラント(rolling plant)の屋根はマンチェスターから輸入。←Manchester Art Treasures Exhibition of 1852の会場の建物。付近を通る列車からの眺めが印象的だった。
1859
Albert hillの工場が完成する前にSpringfield farmも購入。
1859
5月に工場稼働。東インド鉄道(Eastern Bengal Railway)から受注したレールを製造。
1862年時点で45の溶銑反射炉(puddling furnaces)(当時Darlingtonには646の溶銑反射炉が所在していた)、6つのスチームハンマー、2つのレール圧延機(rail mills)を備え、500~600トン/週を製造。これは1864年までに800トン/週まで増加した。
Springfield Ironworksはメインラインの西・Skerneの北方にあって'Five Arch Bridge'を経由して鉄道でつながっていた。この工場は後にOld farmと呼ばれる。メイン工場(Albert Hill Ironworks)でレールに圧延する棒鉄(bar iron)を製造。
1860
Albert Hill工場はロンドン初の市街電車のレールを受注。WestminsterのVictoria-streetに敷設された。マンチェスターでも実験的な短い市電が建設されPendelton工場がレールを供給している(https://www.gracesguide.co.uk/William_Barningham)。
1864
Darlington Iron Company設立。800トン/週の錬鉄製品を製造(推計によれば73の炉と300のpuddlers,全体で1000人の従業員)。
1869
この頃レールチェア、切替器、クロッシングも製造。
1872
二つのサイトで1,600の従業員。1875年には約2000人まで増加。
1872
隔週の支払い(fortnightly wages bill)は5,000ポンドに達し、毎年80,000トンの鉄製品を製造。短期間に大儲けする。
1872
Pendleton工場でベッセマー鋼の製造を開始Darlington Iron Company Ltdを設立。BarminghamはOld farmから275,000ポンドの分け前を支払われる。新会社は1株20ポンドで350,000ポンドの調達を目論み、またTees valleyの大きな製鉄家を取締役に迎えた。198の溶銑反射炉を備え1873の終わりまで13ヶ月の間に80,000ポンドの収益を上げ、31.5%の配当を支払い、かなりの金額を積み立てた。が、直後の貿易不振がたたって二度と配当を支払うことはなかった。
1875
この頃メイン工場に105のパドル、40の溶銑炉、Springfield工場に92の炉を備えていた。自社所有の蒸気機関車でAlbert Hill工場に錬鉄バー(注:レールの原材となる棒状の錬鉄)を運び、実質的に唯一の商品たるレールを製造。当時イギリスで最大規模のレール製造会社と考えられる。(注:Barninghamは、とあるのでPendletonも含むかも知れぬ)インドのほとんどすべての鉄道のレール、Pacific Railroadを含む多くのアメリカの鉄道、ロシアにもレールを供給した。
1878
全従業員を解雇。
1879
1879年の終わり頃までに20,000ポンドの損失。ベッセマー炉の建設を開始。
1880
(which had collapsedな iron railsのtradeをやめ)ベッセマー鋼を使ったレールの製造を開始。当初は上々な商いだったがHematite鉱の購入のために多額の費用を費やす(注:当時のベッセマー炉は燐・硫黄分の含有量が少ないHematite鋼を使わなければならなかった)。社債を募るも金は集まらず、また工場購入費用に35,000ポンドの債務を負う(注:と訳すべきはず・・・)。
1881
会社再建、Darlington Steel and Iron Company Ltd.設立(この年William Barningham死去)。1878年にBarninghamが発注したベッセマー転炉は1884年にしか稼働されず(were delivered only in 1884、直訳すると「この年にだけ配達された」になるがあまりにあんまりだ)、Springfield工場を冗長なものにした。
1885
Albert Hill工場に新動力を導入するなどして再建が進められた一方、この年Springfield工場が放棄される。
1888
鉄道や炭鉱などのさまざまな製品を作っていたPendleton工場が閉鎖される。
1894
ヒュー・ベル卿(Sir Hugh Bell)に工場が売却され、翌年ミドルスブラに移された。敷地はDarlington Forge Coが継承(清算のため。事業は引き継がず)。
1902
Albert Hill工場(跡)がDarlington Forge Coのプレスショップに取って代わられる。
1919
Thomas Summerson and SonsがBarringhamの工場敷地(おそらくSpringfield工場の敷地も)に拡張。

ええい要するにだ、1972にベッセマー鋼を作り始めたのはBarlinghamが所有していたマンチェスターにあったPendleton Iron Worksのほうで、Darlington Iron Co(Albert Hill工場+Springfield製錬所)にベッセマー転炉が導入されたのは1878年、鋼レールの製造は1880年から数年間だけだったっちゅうこと! やっぱ機械翻訳はあてにならんわー、適当ゆうたらあかんわー。


2018-05-13 [長年日記] この日を編集

[古レール][] Charles Cammell and Co

出典:Graces' guide https://www.gracesguide.co.uk/Johnson,_Cammell_and_Co、https://www.gracesguide.co.uk/Charles_Cammell_and_Co

1837
Charles Cammell、Thomas Manby Johnson、Henry Johnsonの鉄鋼業としてJohnson, Cammell and Co設立。
1845
Sheffield郊外の鉄道駅の近くにCyclops Steel Worksを設立。
1855
Charles Cammell and Coと改名
1861
レールや付帯部品を製造開始。
1863
アーマープレートの製造開始。
1863
ビジネスが順調でSheffield近傍のGrimesthorpeに新工場を建設。
1864
有限会社化(limited Company)
1864
PenistoneのYorkshire Steel and Iron Worksを買収。
1865
上場
1870
Dronfieldにレール車輪や鋼レール(steel rail)を製造する工場が開設される。
1873
Barnsley近郊のOaks Colliery(オークス炭鉱)を買収、種々レール製品の供給を確実にする。
1875
創業者の一人、Thomas Broadleyが76歳で死去。
1878
Sheffield工場はイタリアの戦艦Duilioにアーマープレートを供給。
1878
Charles Cammell死去。
1880
英国海軍にアーマープレートを供給。
1885
この時点で以下の工場・炭鉱を所有。
Cyclops Steel and Iron Works, Sheffield
Grimesthorpe Ordnance, Tyre and Spring works, Sheffield
Yorkshire Steel Works at Penistone
Derwent Steel and Iron Works at Workington
Old and new Oaks Collieries, near Barnsley
Other iron mines near Whitehaven
1903
Laird BrothersのBirkenhead造船所を引き継ぎCammell, Laird and Coとなる。

以降はhttps://www.gracesguide.co.uk/Cammell,_Laird_and_Coへ。以降造船・鉄道車両の製造がメインになってく。

1891年頃のトレードマークは「駱駝」。まんまCAMELなわけだ。

[古レール][] Barrow Hematite Steel Co

https://www.gracesguide.co.uk/Barrow_Hematite_Steel_Co

1859
Schneider, Hannay and Co設立。前年Furness at Hindpool に用地を購入。これが後のBarrow Hematite Steel Coとなる。Furness Railwayはこれによって鉄鉱石輸送量が激減したが、そのかわり銑鉄と石炭の輸送量が増え両者にとって利益となった。
1864
Barrow Hematite Steel Co設立。 (7th) Duke of Devonshire as ChairmaSir James Ramsden as MD and Josiah T. Smith as General Manager.
1865
Premises erected alongside Schneider and Hannay社の隣接に工場建設。10の溶鉱炉があり、5,000-5,500トン/週の出力。世界一と評された。
1866
5トンベッセマー転炉18を稼働。
1860年代
Furness Railwayを挟んでSteel worksとIron worksが(2つずつ?)所在。
1872
14の高炉の先端が排ガス利用のためにenclosedされる。(それだけの高炉があったということ)
Park炭鉱(1872年375,000トン産出)、Stank炭鉱など地方炭鉱のいくつかを管理下に。
1879
工場のキャパシティーを11の大きな転炉に、後日さらに8大転炉に集約。鋼は2トンインゴット。転炉は高炉・転炉の傍に設けられた250トン混銑炉(metal mixer)より「給餌」された。
出力の大部分は鋼レールの製造にあてられた。元は42 1/2インチのビームエンジンによって駆動される three-high-typeのミル。直径×6フィートのストロークで55ポンドの圧力、28ストローク/分。(このへん機械翻訳そのまま。蒸気エンジンの能力を示す記述で当時ならでは書き方があったはずだが理解できていない)
1880
この年までに11のsteam hammersがあったが 分塊圧延機(cogging mills)に置き換えられた.
ベッセマー転炉も段階的にシーメンス平炉(Siemens furnaces)に置き換えられたがレール製造は続けられた。
1880頃
二つの12トンシーメンス平炉(Siemens 12-ton open hearth furnaces)を備える。
1900
レールミルは二つの40x60 horizontal reversing enginesで駆動される36インチ分塊圧延機、 2つの48x54 inch direct-acting horizontal reversing enginesで駆動される28インチ粗圧延機(roughing mill), 同様の50x54 engines駆動の28インチ仕上圧延機(finishing mill)で構成。
1903
4つの18トン転炉が24時間に70個のキャストを製造。7000トン/週の製造能力
1914
蒸気機関車3台を製造
1920
W. F. A. Wadham が Directorに就任
1930s
この頃から70トン炉が使用される
WW2
第二次大戦の初期に steelworksは閉じられ予備役となる(mothballed)が、ironworksはBarrow Hematite Steel Co Ltdの名で稼働を続けた。
1942
steelworks が供給省に買収され生産を再開。
1948
Barrow Ironworks Ltdに買収されるが、Barrow Hematite Steel CoはStainton Limestone Quarries(ステイントン石灰石採石場)と the Pennington Ore Mill.(ペニントン・オード・ミル)を運営していた元子会社の持株会社として存続。

その後Barrow Ironworks Ltdは他社に買収され、1960年代まで製造(屑鉄熔解)をしていたが1963年3月31日に閉鎖。Barrow Hematite Steel CoはGeneral and Engineering Industriesの子会社として1964年まで存続(同社管財人となる?)。Barrow Steelworks は後にBritish Steelの一部となり、その敷地は工業団地になっている。らしい。

こーして見るとDarlingtonだけが製鋼開始が遅かったことがわかる 。他社は1870年よりも前から鋼を製造していた。たしかダイアックだったか誰かが「鋼は有望だけれども始まったばかりで品質が安定していない」とかなんとか言って錬鉄レールを採用したんじゃなかったっけか。それが桂川~京都間でCAMMMELLの鋼レールを採用し、また錬鉄平底が思いの外早く摩耗したんで慌てて明治13年頃から鋼平底レールへの置き換えを始めた(このへんの典拠は「帝国鐡道大観」(昭和2:図書館送信)のp.552)。

https://www.gracesguide.co.uk/Dowlais_Ironworks


2018-05-14 [長年日記] この日を編集

[古レール][] Dowlais Ironworks

https://www.gracesguide.co.uk/Dowlais_Ironworks

ウェールズ・マーサー・ティドビルの主要な鉄工所。同地4大工場の1@19th century。他はCyfarthfa、Plymouth、Penydarren Ironworks。

1759
Thomas Lewis、Thomas Price、Richard Jenkins、Thomas Harris、John Curtis、Nathaniel Webb、John Jones、Isaac Wilkinson、Edward Blakeaway の9メンバーのパートナーシップにより設立。Merthyr Tydfilの近く。南ウェールズで2番めとなる石炭燃料の溶鉱炉だった。
1767
John Guestが同工場のマネージャーに指名される。彼はLewisの資産から(所有する土地から?)石炭を発見し製錬に使っていた木炭を置き換えた。
1782
John Guestはルイスとセールスマン・ William Taitt(後に彼の義理の息子になる)とビジネスパートナーになる。
1787
Thomas Guestが父親の跡を継ぐ。
1795
Dowlaisでは1753年ころから蒸気機関の要求(claims of steam power)があったが、1795年に高炉を吹くために蒸気機関を導入したのはThomasだったと考えられている。
1815
Johnの孫、John Josiah Guestがこの工場を管理していた頃、同社は世界最大の製鉄・製鋼会社(iron and steel producer)(といわれた)
1816
大きな争議。
1816
工場はレール製造の契約のお蔭で成功を収めた。鉄道が急速に発達しレール需要がますます増加したので。
この頃Dowlais Iron Co取引していたパートナー:Josiah John Guest、Wyndham Lewis、William Price Lewis、Thomas Hevel Guest
1824
Guest Lewis and Coは年間15,000トンを生産。
1839
DowlaisにIfor Worksを建設、既存の工場を拡張。
1845
7,300人を雇用、18の炉で毎年89,000トンの鉄(iron)を生産。
1848
William Price Lewis死去。彼はDowlaisの5分の16を所有し、彼の財産を彼の甥William Wyndham Lewisに残したが、意志の正確な意味が法廷で解決されるまでに数年かかった。
1851
Dowlais Iron Co, Guest, Lewis and Co, and Guest and Co,の商号・ファーム下でのSir John Josiah Guest と Edwin John Hutchins(製鉄家・採鉱家・ Dowlaisの商人)の間のパートナーシップが解消される。
1852
John Josiah Guestは、妻のLady Charlotte GuestによりDowlais Worksの管理を手伝われてた。John Josiah Guestの死によって、工場は彼の管財人であるGT ClarkとHenry Austin Bruce、1st Baron Aberdareによって管理される。
1850s
ベッセマープロセスライセンスの組織(に加入?)
1857までに
世界で最も強力な圧延機(rolling mill)を建造。
1850s
この頃使用していたエンジン。
ビームブローイングエンジン(beam blowing engine):空気圧シリンダー直径144インチ、ストローク12フィート
蒸気シリンダ(The steam cylinder):ストローク13フィート、ボア55インチ
エンジンは60psiの蒸気で650 HPを発生。20rpm。
エンジンとベッドプレートの重量:約300トン 以上1851年建造
圧延機(pair of rolling mill):24 rpmで約1000 HPを発生、重量約1000トン
直径45インチのシリンダー、ストローク10フィートビーム(高さ24フィートのの8つの鋳鉄製支柱で支えられる) 以上1857年建造
ブローエンジンと圧延機のエンジンのシリンダーはPerran Foundry社が鋳造、他のすべての部品はDowlais Iron Works社製。
1859
ペニーダーレン製鉄所(Penydarren Ironworks)の鉱床を購入
1865
最初のベッセマー鋼を製造。早い段階に鋼製造に転換したお陰で1930年代まで生き残ることができた(近くの Cyfarthfa Ironworks はそうでなかったので消滅)。
1869
70トンというモンスター級の鋳鉄塊を製造。スチームハンマー製造用に。真夜中から鋳型に注ぎ始め、翌日午後三時までかかった。熔解状態が12時間持続し完全に冷めるまで12-14日かかった
1882
Edward Pritchard Martin がジェネラルマネージャーに就任。彼は以降20年間その座に就いた。省力化機械(labour-saving machinery)を導入。
1882
Thomas F. Harvey が再生熱風ストーブ(Regenerative Hot Blast Stoves)を設計。
1888
同地で新しい工場を建設。
1888
Cardiff MoorsにDowlais-Cardiff Works設立。
1891
2月に二つの高炉(blast-furnaces)が稼働を始める。ふっ飛ばしたんじゃないよね。
1895
製鉄所(The steel works)と板圧延機(plate mills)が稼働を始める.製紙工場じゃねえよな。
1898
この年にG. T. Clarkが死去するとJohn Josiah's son, Ivor Bertie Guest, 1st Baron Wimborneが工場経営に積極的になった(became active in the management of the works)が彼は他の興味に気を取られた。彼は1899年にArthur Keenのアプローチに応える。
1900
6月9日 Dowlais Iron CompanyとGuest and Co(どっちもLord Wimborneの影響下にあった工場)がPatent Nut and Bolt Coと合併。 Patent Nut and Bolt CoはArthur Keenの所有。んで Guest, Keen and Coが設立される。この合併に因るKeenの会社は石炭と製鉄(iron upplies)を得、製品種を多様化させた。
1912
英国王ジョージV世ととメアリー・メアリーが訪問。
1926
7月8日 Dowlais-Cardiff Steel Works の元マネジャー・Mr James Thomas死去。
1930
GKN(かつてGuest,Keen,Nettlefoldsという名で知られていたエンジニアリング会社、産業革命期の1759年に創業)と Baldwins(1902創業の製鉄・製鋼業、石炭鉄商)の鉄・鋼部門を統合して新しい会社、British (Guest Keen, Baldwins) Iron and Steel Co が設立される。GKN は統合会社にDowlais Iron and Steel Worksを供出(contributed Dowlais Iron and Steel Works amongst other units)。
1935
Dowlais worksは余剰(redundant)になる。
1936
鉄製造を終える。East MoorsのCardiffのドックに隣接して新しい鉄・鋼製造所が建設される。この鋳造・工作工場は 地元では"Ivor Works"として知られた。 after Ivor Bertie Guest, son of John Josiah Guest。
1937
Dowlaisに残っていた高炉の一つは銑鉄不足に対応して操業に復帰。Dowlaisは1929年に閉鎖するまで170年間銑鉄を作っていた。
after WW2
第二次世界大戦後に新しい工場が建設される。Dowlais Foundry and Engineering Companyの名で数年間操業。
1951
British (Guest Keen, Baldwins) Iron and Steel Co 、鉄鋼法の下で国有化、国営企業Iron and Steel Corporation of Great Britainの一員となる。
1954
一貫製造(the whole production chain)を達成するため GKN はGuest Keen Iron and Steel Co をHolding and Realisation Agencyから再取得する.
1967
Dowlais Foundry and Engineering はオートメーション化された製鋼プラントをドイツに発注。包括的な再建計画の一環として(as part of a comprehensive re-equipment programme)
1967
British Steelの一部になる。
1987
廃業

なげえ。しかし250年も前に誕生した工場の来歴がこれだけ詳しく判明している(ここでいう「判明している」はネット上accesibleな場所に体系的にまとめられているという意味)のはさすが産業革命の御国だと敬服する。鉄道がらみはともかくとして、例えば足立鉄工所とか丹治煉瓦とかの歴史がわが国にあるかっちゅうと、どがいかや。製鉄製鋼とそれ以外じゃ調べる意味合いも違うかもしれんけど。


2018-05-15 [長年日記] この日を編集

[古レール] 鼻血が出る

麗流學人=レール学徒、に違いなく候。『道路の改良』で田中好が路政僧なるペンネームを使っていたようなもの。誰だ、この恩人は。

[ORJ] 発行

だから・・・アンケート機能してないのを発行前に気づくなと。発行時にちゃんと確認しろと。こういうミスは直反射して返ってくるもんなんだから、ちゃんとしないと。


2018-05-16 [長年日記] この日を編集

[古レール][] Moss Bay Hematite Iron and Steel Co

出典:https://www.gracesguide.co.uk/Moss_Bay_Hematite_Iron_and_Steel_Co

Uk、カンバーランド(Cumberland)、ワーキントンに所在。現在の地名でいえばイギリス:イングランド北西部:カンブリア県北西部:アラーデール地区

1873
ウィーン万国博覧会で褒章授与(Medal of Merit)。
1881頃
Bessemer鋼、Siemens鋼を製造する工場のリストに記載(ページ脚注)
1891
3月25日会社登録(company was registered on 25 March)
1909
Workington Iron Co、Harrington Iron and Coal Co、Cammell Laird and CoのCumberland の資産(propaties)が自発的に合併してWorkington Iron and Steel Coとなる。この工場は1927年頃まで操業(https://www.gracesguide.co.uk/Harrington_Iron_and_Coal_Co)。
Cammell Laird and CoのCumberland propatiesは Solway Works(1870年創業、以前は Beckermet Mining Co Ltd の所有で1896年にCharles Cammell and Coへ売却された)。

なるほど、そういうことか。麗流氏のいうとおり。

[古レール][] Blaenavon Co

出典:https://www.gracesguide.co.uk/Blaenavon_Co

ウェールズの小さな炭鉱・鉄・鋼製造会社のひとつ。

1836
James Ashwell がBlaenavon Iron and Coal Worksに関する報告を求められる。彼は会社設立をアシストし社長に指名された。
1837
Blaenavon Ironworksの設計。
1837
Blaenavon Iron and Coal Worksを買収した Robert William Kennardの主導で(headed by)Blaenavon Iron and Coal Coが設立される。
1840
会社は資金不足に陥る。James Ashwell辞任。
1841
ロンドンや他の地域の企業家(Robert William Kennard含む)により買収される。
1864
すべての資産がMr C Waringに買収され、Blaenavon Worksを管理する会社としてBlaenavon Iron Coが設立される。
1870
旧Blaenavon Iron Coが新Blaenavon Iron and Steel Coに売却。
1879
Blaenavon Companyによって引き継がれたBlaenavon Iron and Steel Coが清算される。
1880
1月22日、Blaenavon Company登記。
1881
この年の広告に1851年ロンドン万博、1855年パリ万博で受賞との記録(1862 and Paris 1855).
1909
製鉄・製鋼所&underlying minerals。近代的な高炉×2、新しい40トンシーメンス・マーチン平炉(Siemens Martin open hearth)×3を所有。 高炉は「最新設計」, シーメンス・マーチン平炉、均熱炉(soaking pits)、 再熱炉(reheating furnaces)、 分塊圧延機(cogging mill), 仕上圧延機(finishing mill)とボイラーs。鋼車輪製造工場、採石場(quarry)、3つの炭鉱を所有。
1911
コークス炉(coke oven)と副産物工場の建設を行なって拡張
1911
コークス炉(coke oven)と副産物工場の建設を行なって拡張
WWI
鋼殻(shell steel)を製造。日本語で鋼殻というとシールド工法のトンネルの支保工に使うやつらしいんだけど。時期的にはあり得るか。単純に装甲板みたいなやつのことかもなあ
1937-41
稠密鋼車輪・車軸(solid steel wheel and axle)の工場を建設。
WWII
航空機用アルミニウム・マグネシウム合金製造プラントを開設

その他機関車を4台作ったみたいだけど日付不明だって。

1875のBlaenavonの場所を秘匿してはる理由が私にはわからない。貴重なものであるなら遍くその価値を知らしめるべきなんではないかしら。1875のBlaenavonは同志社大クラーク記念館の鉄骨でも見つかってて錬鉄製とわかっている。上記Grace's Guideでも1875頃は鋼製造とゆうてない。

Blaenavon製鉄所のサイトは2000年に世界遺産登録。いーなー橋発掘とか。

[古レール][] Bolckow, Vaughan and Co(BV&Co)

出典:https://www.gracesguide.co.uk/Bolckow,_Vaughan_and_Co

South Bank, Middlesbroughのironfounder(直訳すると鋳鉄製造家になる)。Cleveland Iron and Steel Worksを所有。

1841
Middlesbroughの石炭輸出港・Teesで製鉄・工作工場を開いていた ヘンリー・ボルコウ(Henry Bolckow)とジョン・ボーン(John Vaughan)が共同で事業開始。
1846
2人はダラムのWitton Parkで溶鉱炉を始める。
1850
VaughanはMiddlesbrough近郊で鉄鉱山の開発を始める。exploitなので単に利用ではないはず 彼らは炭鉱やライムストーン採石場、追加の鉄鉱石採取と煉瓦製造所も獲得
By 1855
パートナーは(2人は?)Tees近辺に製鉄高炉をたくさん所有(原文:By 1855 the partners had a dozen blast furnaces making iron on Teesside. 12の高炉でいいのかもしれん)
1864
会社名をBolckow and VaughanからBolckow, Vaughan and Co.に変更。この会社は同名の製鉄所・炭鉱を獲得するために設立された。
1864
↑有限会社として設立(Incorporated as a limited company)。
1866
この頃Estonに9、Middlesbroughに4、Witton Parkに4基の溶鉱炉を所有。あれ、Witton ParkだけTeesideやないんや。
1879
Thomas VaughanからSouthbank Ironworksを購入した(元々Bernhard Samuelsonによって1853年に設立された工場)
1879
Sidney Gilchrist Thomasは Bolckow, Vaughan and Co'の工場のマネージャである E. W. Richardsに対し、彼と彼の息子 Percy Gilchristが発明したプロセス-ベッセマー転炉で製造された鋳鉄塊に含まれる燐を調整し(dealing with)鋼を商業生産する-を試すよう説得。
1888
蒸気機関車をいくつか製造開始
1889
CabryとKinch'sによるrailway sleeperの改良
1900
Sir Bernhard SamuelsonのClay Lane Worksを取得。
1900
John L. Stevensonがチーフエンジニアから引退。顧問技師に就任するため(to take up practice of consulting engineer)。
1914
この頃の会社。Ironmasters, steel manufacturers and colliery owners. 生産品目: クリーブランド銑鉄(Cleveland pig iron)、 赤鉄鉱(hematite)、 マンガン鉄合金とスピーゲル(鏡鉄)鋼製レール・プレート(ferro-manganese and spiegeleisen steel rails and plates), 市電レール(tramrails),鉄鉱石(ironstone),石炭 、コークス、硫安・ベンゼン・トルエン・キシレン・ゾル・ナフサ・ガソリンなどの副生成品, b耐火煉瓦、板煉瓦(plate bricks)、ground annealed slag、加工石。 製鋼はベッセマー法(酸性)・シーメンス法(塩基性)どっちも採用。18,000人を雇用。
Early 1920s
Darlington Rolling Mills Coを買収
1923
Bolckow、Vaughan and Coは、生成鋼の販売先を確実にするために in order to secure an outlet for finished steel[10].完成鋼の出口を確保するためにロンドン、マンチェスター、エジンバラ、グラスゴーで建築鋼材を製造していたRedpath、Brown and Coに"重大な関心"を示した(同社を合併。)
1926
Roland D. Kitsonが社長.[11]
1929
Dorman, Long and Co.の傘下に。

ちゅーかhttps://www.gracesguide.co.uk/The_Basic_Industries_of_Great_Britain_by_Aberconway:_Chapter_XIIIを見ればよかったのね・・・。 ニューカッスルで穀物取引で成功した帰化人ボルコウと 1850年にクリーブランド鉱山の主脈・エストン鉱脈を発見することになるボーンが共同で開始。ミドルスブラの可能性に感銘を受けて鉄鉱石鉱山と圧延工場を始め、そうして石炭探脈の過程でみっけたエストン鉱脈を利用するためウィットンに高炉を建設する。云々。まあ大会社だわ。

[独言] えー

すでに持ってはったんだ……。大変失礼いたしました。そりゃそうだよな~あんなズバリな資料は~。はは。

ここで一生懸命ダボな翻訳を試みるよりアレをテキスト化したほうがはるかに有益かも知らん。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020043/282

[古レール][] これこれ!

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916720/98

ヨカッタ……幻覚を見てたんじゃなかったんだ。。。

[古レール][] 鹵獲レールふろむ露

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C03027568600?IS_KIND=MetaSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InD&IS_KEY_S1=%E9%9C%B2%20%E8%BB%8C%E6%9D%A1&

これしか見つけられなかった。しかも軽レール。うーん。


2018-05-17 [長年日記] この日を編集

https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mowa17.pdf

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272662/77


2018-05-18 [長年日記] この日を編集

[古レール] 60#-4と60#-5と60#-9

阪鶴鉄道に採用されていたレールは60ポンド第4種・60ポンド第5種・60ポンド第9種という3種類の規格だったそうである(というより国有化後にそう命名された。私鉄各社が各地から輸入した様々な断面のレールがあって、それを整理して第1種~第9種まで分けたっぽい)。60ポンド第4種は所謂ASCE規格。第5種と第9種は図面を見る限り全く同じ形状のように見え、なんで分ける必要があったのか理解に苦しむ。

改めて図面をよく見てみると、レール同士を繋ぐ継目板に若干の違いがあるように見える。穴の位置がわずに違う。60#-5はブッシュの首の付け根から少し離れたところに穴が開いてて、60#-9は首付根に穴の縁がかかっている。でもレールに開けられた穴の位置は同じなのだな。てことはこの継目板の形状の違いのために第5種と第9種を作ったことになるのだろうか?

60#-5の「元山陽新型」と付記されたほうの継目板には、この継目板だけ銘記があって「CARNEGIE 99 (山陽鉄道マーク)」と書かれてある。とすると同じCARNEGIEの1896 HANKAKUが60#-5に相当するのだろうか。だとすればもう一方の6015 ILLINOIS HANKAKUが60#-9なのか。といったことを 書きなぐってみたあとメモを確認したらどちらも60#-4と測っておった。ふむ。

そういやILLINOISには山陽鉄道マーク入りもあった。セクションナンバーは6007。Oさんに頂いた資料を見ると6015と6007で若干違う(当たり前だ馬鹿者)。それが60ポンド第6種「山陽旧型」になるのか。しかし山陽鉄道と思しきSTKはCARNEGIE 96 STKがあったしなあ。うーん、だから断面を調べなければならないわけか……

あ、俺えらい。CARNEGIE 96 STKは60#-5or60#-9と測ってた。だとしたらこれが60#-5でいいんだろう。じゃあ阪鶴の60#-5と60#-9はどこへいったんだ???

ついでに60#-3と60#-4はボルト穴の位置が違うだけで断面形状は一緒であるらしい。そんなん柵に使われとったら判断でけへんやん。時々ボルト穴開いてたのもあったけどそこまでメモしちょらんけんな。

画像の説明

阪鶴線で使われていたものらしい継目板は、じつは一個見つけていたりする。しかし写真を見る限り、軌条及附属品図にある断面とは似ても似つかないかたちをしている。困ったことだ。


2018-05-21 [長年日記] この日を編集

急いては事を世尊寺流、なのかも知れずとここ数時間で思い直し中。うむ。公園を一周りして考えてみたりなどする。


2018-05-22 [長年日記] この日を編集

[古レール] 断面祭

画像の説明

仕事上がりの真夜中に柵を見に行くようになったら、末期にちがいない。

先日来から本格的にレール断面を気にするようになって、その疑問を解決するためにLONGEST-DH柵へ向かった。この柵は長いだけあって最も多くの種類が見られる。

結果、

B.V.,CAMMELL,BARROW他(各社)→ 60#1

6015 ILLINOIS (阪鶴鉄道発注)→ 60#ASCE=60#4

6009 ILLINOIS (官設鉄道発注)→ 60#2

6007 ILLINOIS (山陽鉄道発注)→ 60#5

CARNEGIE 1896 (阪鶴鉄道発注)→ 60#ASCE=60#4

CARNEGIE 1898 (山陽鉄道発注)→ 60#5

CARNEGIE 1900 (官設鉄道発注)→ 60#2

八幡製鉄所 60 A 1917      → 60#ASCE=60#3

八幡製鉄所 60 B 1906     → 60#2

UNION 1902 (官設鉄道発注)→ 60#2

てなことがわかってきた。やっぱりILLINOISの6015はASCE断面類似でよかったのだ。

んで、最初期のイギリス製レールはどれも60#1に類似している。ベースの傾斜が2段になってるやつ。それが最初に入ってきて、敷設距離も長いから、60ポンド「1種」と命名されたんだろうと思う。その次に入ってきたのが鋼産国としてメキメキ頭角を現していたドイツのレールであったので「第2種」。KRUPPなんかは1880年代の前半に入ってるものね(岩倉使節団も行ってるし)。そうして後発国ながらものごっつ鉄鋼業が発達したアメリカ。初期の頃、CARNEGIEやILLINOISの山陽鉄道納入品には独自規格の「60#5」相当のを送ってきたけれども、やがてASCE規格ができて、阪鶴にはそれを納入した。八幡製鉄所ができた時にはASCEを今後の規格の中心に据えるつもりで「A」をASCE断面に、「B」はドイツから技術とかレール圧延機とかを輸入したこともあってかドイツ規格の類似で。んで各社には各社がすでに導入している規格に合わせた形状で納入することもあったと(CARNEGIE1900とか)。

といったように、輸入元の順番、その国で基本となっていた形状、とかから1~9種が決まったのだと、逆にそう考えたほうがわかりやすいような気がする。もう既に誰かが言ってはるに違いないと思うけれども。←いやそれまんま「保線統計. 昭和6~8年度」の記述じゃん。うん。

福知山線にはドイツ製レールがたいへん少なく、UNIONくらいしかないので完結的にものをいうことができないけれども、全国的な傾向もだいたいそんな感じなんじゃないか。(1本だけDKが混じっているけれども測ったら70#2であった。)

後半はB.V.の印影撮影祭りとなった。夜中に行くと読銘が捗ってありがたい。見逃していたのをいくつも見つけ、その大半がB.V.だった。1893から1904まで5種類(5発注社)のんがあるっていうのはなかなかすごいことなんじゃないかしらん。しかしCOLDだったりCOLDだったりCOLDだったりとひどくまちまちなのはちょっと勘弁してほしい。同じ発注者でも違ったりするんじゃないだろうかと思うと夜も眠れず朝眠くなってしまう。

最大の疑問であった「60#9」の所在はわからないままだ。断面を調べた限り、阪鶴鉄道発注品の可能性があって、60#5もしくは60#9に相当するものというのが見当たらない。山陽鉄道の発注レールが60#5なだけで、それ以外に該当するものがないのだ。どういうことだろう。60#9は阪鶴鉄道のためだけに存在しているというのに。こうなってくると山陽鉄道が発注レールを阪鶴鉄道に横流しして一部区間でそれが使われてたんじゃね?とか勘ぐってしまいたくなる。「保線統計. 昭和6~8年度」でも「現存のもの見当たらず」とあるし。

アゴの角度が2度違うだけなのか…でもそもそも60#5のゲージがはまるやつからしてないんだってばよ。


2018-05-30 [長年日記] この日を編集

[古レール] 西成線

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127166/325

開通時は単線。


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