nagajisの日不定記。
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「1978年2月にできた柵なんだから古いレールは使われてないだろ(=おもんないやろ)」とか思ってスルーしていた私が浅墓であった。何故か釜石の富士製鉄のレールが使われている。まこと、油断ならない廃線敷である。
藪からぬっと出てきたところを子どもに見られて「びっくりした~」「びっくりした~」「びっくりした~」と三度言われた。この間のおっちゃんと全く同じ反応ではないか。どういうことだ。人類共通の普遍的心理がそう言わせるのか。
翌日は懲りずにまた大津へ行く。さんざん歩き回って所望の煉瓦刻印を入手したが、入手したところで何かが解決したわけではなく、謎は謎のまま手元に蟠っているばかりである。
膳所駅前でゲッツした煉瓦も不発。ただあの煉瓦、どう考えても馬場駅由来くさいんだよな。出土位置といい大きさといい。駅西方にある暗渠のインバートにはあれと同じ極厚煉瓦が使われてあったし、さらに引けば桂川の辺りで見られる極厚煉瓦と同系譜な塩梅。大津市街の「○+甲二」も米原の「勢陽組井」も同じサイズの極厚煉瓦であった。あれが最初期の鉄道建設の定形であったのかも知れない(無論通常サイズの煉瓦も使われているが。先述暗渠もアーチ部は普通のたぶん並型)。
そういや鐘ヶ坂の篠山口の煉瓦もでかかったな……手元にないから比較できないが、確かエッセイに寸法を書いているはず。厚70数ミリ、長230mm超、だったっけか。
追記:このサイズは小野田氏のクラスタ分析のI群に相当するもの。東海道線沿線の 滋賀県下と愛知の辺りで集中的に 、そして直江津のあたりで1件見られるようだ。半場川橋梁と直江津のには小口にアルファベット印がある。それがわかっているのであれば逆にこの線が建設された頃に使われたサイズと見ていいのかも知れぬ。井桁菱カとか○甲とかもそれ絡みで作られたものと。他で使ってるの見たことないもんこのサイズのは。あ、だとしたら愛知のは勢陽組の煉瓦かも知らんな。米原まで来てたぐらいだから愛知方面はあって当然だ。
珍しい5月である。例年この月は何も起こらないか酷く運気が下降するかのどちらかなんだけれど。いやまて、これが上昇運と決まったわけでもないのだぜ>nagajis
近頃はGoogleマップに道路元標が載るようになったみたいで、出先で元標に出会うことが多くなった。便利な世の中になったものだ。
大津市の道路元標は磨き仕上げの御影石。裏に「滋賀縣」と銘がある。たぶん県道路線上にしかないのではないか。奈良県のように。
高知の安芸町(安芸市)のもそうだった。ただし裏には何も書かれていない。
マップに掲載されるようになったのは有り難いことだけれども、元標自身の有り難みが低下する気がして仕方ないのは否めない。まあ、彼らにしてみれば「復権」なわけなのだから祝いであげるべきだろうな。それに何の予習もしていない旅先で元標位置がわかれば予備知識なしで旧幹線を知ることができるわけで街歩きにはたいへん便利なのだ(お前の街歩きはおかしいだろ、というツッコミを期待したりはしない)。
おっと、これもだった。京都府木津町のも出先でマップを見ていて気づいた一基。この元標のある辻の北にかつて泉橋が架かっていて、それで木津川を渡っていた。旧版地形図を持っていってたからそれがわかったようなもので、今の寂れっぷりからその過去を想起するのは難しい。
のっけから啓蒙される。ペリーとの交渉が決して弱腰交渉でなかったとのこと。以前ならそんな「自分の知識の誤謬を正される記述」に全面依存してしまうところだが、何でも疑う癖がついてしまった昨今はそうでもなくなっている。自分の知らなかった事実をさも新発見のように騒ぎ立ててしまいがちだった自分への反省として。何も正から負へ反転しなくてもいいのである。そういう見方もある、というのを頭に入れておいて、じっくり熟成させればよいだけなんだ。それを重ねていくうちにだんだんベクトルが揃っていく。
「竜馬がゆく」を読んで坂本龍馬に陶酔してしまうような愚。あれ全部史実だと思ってしまうから間違うのだ。司馬さんの作品はあくまで創作として楽しまなければならない。この間林真理子女子が「司馬さんだって間違いを書いている」なんて言っていたけれども、なんだかなあとしか思えず、よって西郷どんには興味が持てない。
史実ってなんだ。「歴史」ってなんだ。起こったことは唯一無二だとしても、見方・切取り方で解釈は様々に変わる。結んだ内容は不平等条約であったし締結までぐだついたみたいだけれども、米国と日本との力量差が明確に存在する中で最大限の交渉と譲歩をした結果がそれであったわけで、結果だけで幕府を腰抜け呼ばわりするのは酷だろう。ということを学んだ。
しかしまあ、そんなことをいっていたら、いつになったら自分の歴史観ができあがるんだろうな。右にふれ左にふれするぶよぶよなものを振り回しつつ当面の課題を解決していかなければならないってえのは大変である。いっそのことそんなもの捨ててテキトーに場当たり的に書いたほうが気が楽だ。何の成果も残らんだろうがな。歴史観ロック。ゴーゴー。ゴーゴー。
ここに書く時は常に脊髄反射である。思いついたとおりに思いついたことを書いている。冒頭の
「こんなれーるがみられーるよ」
もそうである。そうしてこの文字列を見直すたびに「だめだこりゃ」と思っている。口合いとしては成立しているとしても余りにも間が抜けている。間が抜けていると評するのさえ憚られるほど下らない。下らないも何も下げにすらなっていない。これだったらオヤジギャグのほうが数段崇高であるだろう。オヤジギャグに泣いて謝って命乞いして斬られるべきである。
この文字列を書いた時の心持ちを過不足なく書き表すのが目的なら長音記号など入れずに続けて書けば良かった。そう書き直そうかと何度思ったか知れぬ。長音記号は魔が差したとしか思えない。けれども今更書き直すのは過去の悪行を揉み消すようで気が引ける。nagajisの馬鹿さ加減つまらない人間さ加減を表明するうえではそのままにしておくべきであると思うのであーる。
ほらね。これは、よくない。
Oさんからデータを頂くわbdbを見た方からご連絡を頂くわ滋賀県Uさんから身の縮み上がるようなご提案を頂くわでなんとも慌ただしい。4月末から含めたらやましろ投稿もそうじゃないか。降り続けだ。そうして指先のしびれが手首にまで及んできていてこちらも大変だ。
4月の終わり頃にクレカの更新が届いていたらしいのだが、ドアポストに不在通知が投函されていたために全然気付かなかった(いやドアポスト投函が正しいやり方なんだろうけれど。わたしゃ滅多に見ないのよドアポストは)。GW過ぎてようやくそれを発見した時には保管期限などとうの昔に切れていた。しかも2行ぶんだ。
電話で問い合わせたところ、一行はすごく丁寧に対応してくれ、すでに再送中であると教えてくれた。ご不便をおかけしてまことに申し訳ありません、てさ。いえいえ別にカード無くても困っちゃないんですけどね機能さえしてくれれば。楽天の方も多分再送中だと踏んで問い合わせはしなかった。さっき届いていたメッセージを見てみたら、やはり再送したとの連絡。「必ず受け取れよゴルァ」と言わんばかりの高圧的文面で、こういう所にも品の差が出るのだなあと思ったことだった。さすがは楽天である。
通勤中にふと「情報の価値はdivで測られるべきではないか」的なことを考えた。
貴金属や貨幣、不動産といった「モノ」は、それがそこにあるだけで価値を有している。1000えん持っているというただそれだけで私は幸せになれる。ダイアモンドは例え自分のものでないとしてもそれ自身に価値があることがわかる。それがモノの価値である。
昨今は「情報」にも価値があるという。しかし「情報の価値」と「モノの価値」はちょっと違うように思われる。情報は持っているだけでは価値がない。そこにあるだけでは価値がない。例えば私が「勢陽組の煉瓦が米原まで進出していた」という情報を持っていたとしても、誰にも言わずにニヤニヤ笑って反芻しているだけでは何の価値も生じない。どこかに書いて誰かに知らせ、そのことに興味を持ってくれる人に伝わらなければ無価値である(刻印煉瓦自体はまあ、あればあったでなんらかの価値があるかも知れぬが、それはモノの価値だろう)。村田鶴の履歴書が滋賀県庁に保管されていてもアクセス不可能であれば全く無意味で価値も有さない。それが公開され、中身が私に伝わった時に私にとってかけがえのない価値が生まれた。ただの古レールと思っていたものが、実は貴重な1本であるということがわかり、その情報が加わったことで価値が増したというのもそうだ。貴重だという情報が加わらなかったらだの鉄の塊であり続けていただろう。加わった後のレールには価値がでたとしても、それを可能にした情報にも価値を認めなければならないのではないか。お金だってそうか。日本銀行が価値を保証してくれるという情報が加わっているから価値があるのであって、その情報が伝わってない世捨て人とかコロポックルとかにとっちゃあただの紙切れであるだろう。ケツ拭くのにもチラ裏を書くにも使えない難儀な紙切れである。
要するに、情報は「伝わる」「加わる」時に価値が生まれるのではないか。情報は「移動する」際のなにか(速度?加速度?単位時間量?)によって価値が測られるべきできはないか。と、そういうようなことを思いついたのだった。
んで、電磁気学かろうじて可だった脳みそが「divで考えろ」と宣っている。発散とか∇とかでてくるやつだ。しかしどう適用すればいいのかよくわからない。そもそも情報は三次元のベクトルでよいのか。スカラーでgradでも構わないのではないか。
それはまあ脇に置いといて、情報を「動かす」のであれば、そこにやっぱりエネルギーが必要となる。文字を書くとか写真を撮るとか能動的な行動を必要とする。情報に価値を与えるためにはエネルギーが要る。それが代償である。位まで考えたところで頭がショートした。惜しいな。
https://archive.org/details/bethlehemstructu00bethuoft?q=CONSOLIDATED+STEEL+CORPORATION
https://archive.org/stream/transactionsofen03engi#page/n87/mode/2up/search/CONSTECO
下の資料のほうがわかりやすい。Consolidated Steel Corporationという会社で例の紡錘形マークをTRADE MARKとしていた。BETHLEHEM STEEL、LACKAWANNA STEELほか数十社の製品の輸出を一手に引き受けていたようだ。だからLACKAWANNAにもある&わざわざMADE IN USAを謳っておるのである。ということをサボって書いている午後6時。
追記:単純にCONSOLIDATED+STEEL+CORPORATIONで検索すると製鋼・造船会社がヒットするがそれとは無関係の模様。上資料のCopylightは1920年だし下のカナダ技術学会報は1919八甲田(1920年1月号)。
追記2:資料の下の方にあるCable codeは電信に使う暗号書の記述。うちはこれを使えるよっていうことらしい。電信文を短くして料金を節約するためだろうか、単語を数文字の英数字に短縮した「暗号<>単語の一覧表」みたいな本が作られていたようである。Bentrey'sなんちゃらphraseなんかはそんな本。Archives.orgで検索すると出てくる。考えてみたらそーだよな、日本でも電報は短縮型で送ってた。公文書に挟まってたやつとか。国内だけなら単一コモンセンスで成立しただろうけど国間でやりとりしようとしたら色んな略し方が出てきて収拾がつかなくなりそう。そういう時に予めなんちゃらphraseの暗号に沿って送受信すると決めてればよいわけだ。うん。
出典:特記なき限り https://gracesguide.co.uk/Darlington_Iron_Co
Darlington Iron Works。William BarninghamがAlbert Hillに興す。Darlington最初の可鍛鉄(鍛鉄)を製造。
ええい要するにだ、1972にベッセマー鋼を作り始めたのはBarlinghamが所有していたマンチェスターにあったPendleton Iron Worksのほうで、Darlington Iron Co(Albert Hill工場+Springfield製錬所)にベッセマー転炉が導入されたのは1878年、鋼レールの製造は1880年から数年間だけだったっちゅうこと! やっぱ機械翻訳はあてにならんわー、適当ゆうたらあかんわー。
出典:Graces' guide https://www.gracesguide.co.uk/Johnson,_Cammell_and_Co、https://www.gracesguide.co.uk/Charles_Cammell_and_Co
以降はhttps://www.gracesguide.co.uk/Cammell,_Laird_and_Coへ。以降造船・鉄道車両の製造がメインになってく。
1891年頃のトレードマークは「駱駝」。まんまCAMELなわけだ。
https://www.gracesguide.co.uk/Barrow_Hematite_Steel_Co
その後Barrow Ironworks Ltdは他社に買収され、1960年代まで製造(屑鉄熔解)をしていたが1963年3月31日に閉鎖。Barrow Hematite Steel CoはGeneral and Engineering Industriesの子会社として1964年まで存続(同社管財人となる?)。Barrow Steelworks は後にBritish Steelの一部となり、その敷地は工業団地になっている。らしい。
こーして見るとDarlingtonだけが製鋼開始が遅かったことがわかる 。他社は1870年よりも前から鋼を製造していた。たしかダイアックだったか誰かが「鋼は有望だけれども始まったばかりで品質が安定していない」とかなんとか言って錬鉄レールを採用したんじゃなかったっけか。それが桂川~京都間でCAMMMELLの鋼レールを採用し、また錬鉄平底が思いの外早く摩耗したんで慌てて明治13年頃から鋼平底レールへの置き換えを始めた(このへんの典拠は「帝国鐡道大観」(昭和2:図書館送信)のp.552)。
https://www.gracesguide.co.uk/Dowlais_Ironworks
ウェールズ・マーサー・ティドビルの主要な鉄工所。同地4大工場の1@19th century。他はCyfarthfa、Plymouth、Penydarren Ironworks。
なげえ。しかし250年も前に誕生した工場の来歴がこれだけ詳しく判明している(ここでいう「判明している」はネット上accesibleな場所に体系的にまとめられているという意味)のはさすが産業革命の御国だと敬服する。鉄道がらみはともかくとして、例えば足立鉄工所とか丹治煉瓦とかの歴史がわが国にあるかっちゅうと、どがいかや。製鉄製鋼とそれ以外じゃ調べる意味合いも違うかもしれんけど。
麗流學人=レール学徒、に違いなく候。『道路の改良』で田中好が路政僧なるペンネームを使っていたようなもの。誰だ、この恩人は。
だから・・・アンケート機能してないのを発行前に気づくなと。発行時にちゃんと確認しろと。こういうミスは直反射して返ってくるもんなんだから、ちゃんとしないと。
出典:https://www.gracesguide.co.uk/Moss_Bay_Hematite_Iron_and_Steel_Co
Uk、カンバーランド(Cumberland)、ワーキントンに所在。現在の地名でいえばイギリス:イングランド北西部:カンブリア県北西部:アラーデール地区
なるほど、そういうことか。麗流氏のいうとおり。
出典:https://www.gracesguide.co.uk/Blaenavon_Co
ウェールズの小さな炭鉱・鉄・鋼製造会社のひとつ。
その他機関車を4台作ったみたいだけど日付不明だって。
1875のBlaenavonの場所を秘匿してはる理由が私にはわからない。貴重なものであるなら遍くその価値を知らしめるべきなんではないかしら。1875のBlaenavonは同志社大クラーク記念館の鉄骨でも見つかってて錬鉄製とわかっている。上記Grace's Guideでも1875頃は鋼製造とゆうてない。
Blaenavon製鉄所のサイトは2000年に世界遺産登録。いーなー橋発掘とか。
出典:https://www.gracesguide.co.uk/Bolckow,_Vaughan_and_Co
South Bank, Middlesbroughのironfounder(直訳すると鋳鉄製造家になる)。Cleveland Iron and Steel Worksを所有。
ちゅーかhttps://www.gracesguide.co.uk/The_Basic_Industries_of_Great_Britain_by_Aberconway:_Chapter_XIIIを見ればよかったのね・・・。 ニューカッスルで穀物取引で成功した帰化人ボルコウと 1850年にクリーブランド鉱山の主脈・エストン鉱脈を発見することになるボーンが共同で開始。ミドルスブラの可能性に感銘を受けて鉄鉱石鉱山と圧延工場を始め、そうして石炭探脈の過程でみっけたエストン鉱脈を利用するためウィットンに高炉を建設する。云々。まあ大会社だわ。
すでに持ってはったんだ……。大変失礼いたしました。そりゃそうだよな~あんなズバリな資料は~。はは。
ここで一生懸命ダボな翻訳を試みるよりアレをテキスト化したほうがはるかに有益かも知らん。
阪鶴鉄道に採用されていたレールは60ポンド第4種・60ポンド第5種・60ポンド第9種という3種類の規格だったそうである(というより国有化後にそう命名された。私鉄各社が各地から輸入した様々な断面のレールがあって、それを整理して第1種~第9種まで分けたっぽい)。60ポンド第4種は所謂ASCE規格。第5種と第9種は図面を見る限り全く同じ形状のように見え、なんで分ける必要があったのか理解に苦しむ。
改めて図面をよく見てみると、レール同士を繋ぐ継目板に若干の違いがあるように見える。穴の位置がわずに違う。60#-5はブッシュの首の付け根から少し離れたところに穴が開いてて、60#-9は首付根に穴の縁がかかっている。でもレールに開けられた穴の位置は同じなのだな。てことはこの継目板の形状の違いのために第5種と第9種を作ったことになるのだろうか?
60#-5の「元山陽新型」と付記されたほうの継目板には、この継目板だけ銘記があって「CARNEGIE 99 (山陽鉄道マーク)」と書かれてある。とすると同じCARNEGIEの1896 HANKAKUが60#-5に相当するのだろうか。だとすればもう一方の6015 ILLINOIS HANKAKUが60#-9なのか。といったことを 書きなぐってみたあとメモを確認したらどちらも60#-4と測っておった。ふむ。
そういやILLINOISには山陽鉄道マーク入りもあった。セクションナンバーは6007。Oさんに頂いた資料を見ると6015と6007で若干違う(当たり前だ馬鹿者)。それが60ポンド第6種「山陽旧型」になるのか。しかし山陽鉄道と思しきSTKはCARNEGIE 96 STKがあったしなあ。うーん、だから断面を調べなければならないわけか……
あ、俺えらい。CARNEGIE 96 STKは60#-5or60#-9と測ってた。だとしたらこれが60#-5でいいんだろう。じゃあ阪鶴の60#-5と60#-9はどこへいったんだ???
ついでに60#-3と60#-4はボルト穴の位置が違うだけで断面形状は一緒であるらしい。そんなん柵に使われとったら判断でけへんやん。時々ボルト穴開いてたのもあったけどそこまでメモしちょらんけんな。
阪鶴線で使われていたものらしい継目板は、じつは一個見つけていたりする。しかし写真を見る限り、軌条及附属品図にある断面とは似ても似つかないかたちをしている。困ったことだ。
仕事上がりの真夜中に柵を見に行くようになったら、末期にちがいない。
先日来から本格的にレール断面を気にするようになって、その疑問を解決するためにLONGEST-DH柵へ向かった。この柵は長いだけあって最も多くの種類が見られる。
結果、
B.V.,CAMMELL,BARROW他(各社)→ 60#1
6015 ILLINOIS (阪鶴鉄道発注)→ 60#ASCE=60#4
6009 ILLINOIS (官設鉄道発注)→ 60#2
6007 ILLINOIS (山陽鉄道発注)→ 60#5
CARNEGIE 1896 (阪鶴鉄道発注)→ 60#ASCE=60#4
CARNEGIE 1898 (山陽鉄道発注)→ 60#5
CARNEGIE 1900 (官設鉄道発注)→ 60#2
八幡製鉄所 60 A 1917 → 60#ASCE=60#3
八幡製鉄所 60 B 1906 → 60#2
UNION 1902 (官設鉄道発注)→ 60#2
てなことがわかってきた。やっぱりILLINOISの6015はASCE断面類似でよかったのだ。
んで、最初期のイギリス製レールはどれも60#1に類似している。ベースの傾斜が2段になってるやつ。それが最初に入ってきて、敷設距離も長いから、60ポンド「1種」と命名されたんだろうと思う。その次に入ってきたのが鋼産国としてメキメキ頭角を現していたドイツのレールであったので「第2種」。KRUPPなんかは1880年代の前半に入ってるものね(岩倉使節団も行ってるし)。そうして後発国ながらものごっつ鉄鋼業が発達したアメリカ。初期の頃、CARNEGIEやILLINOISの山陽鉄道納入品には独自規格の「60#5」相当のを送ってきたけれども、やがてASCE規格ができて、阪鶴にはそれを納入した。八幡製鉄所ができた時にはASCEを今後の規格の中心に据えるつもりで「A」をASCE断面に、「B」はドイツから技術とかレール圧延機とかを輸入したこともあってかドイツ規格の類似で。んで各社には各社がすでに導入している規格に合わせた形状で納入することもあったと(CARNEGIE1900とか)。
といったように、輸入元の順番、その国で基本となっていた形状、とかから1~9種が決まったのだと、逆にそう考えたほうがわかりやすいような気がする。もう既に誰かが言ってはるに違いないと思うけれども。←いやそれまんま「保線統計. 昭和6~8年度」の記述じゃん。うん。
福知山線にはドイツ製レールがたいへん少なく、UNIONくらいしかないので完結的にものをいうことができないけれども、全国的な傾向もだいたいそんな感じなんじゃないか。(1本だけDKが混じっているけれども測ったら70#2であった。)
後半はB.V.の印影撮影祭りとなった。夜中に行くと読銘が捗ってありがたい。見逃していたのをいくつも見つけ、その大半がB.V.だった。1893から1904まで5種類(5発注社)のんがあるっていうのはなかなかすごいことなんじゃないかしらん。しかしCOLDだったりCOLDだったりCOLDだったりとひどくまちまちなのはちょっと勘弁してほしい。同じ発注者でも違ったりするんじゃないだろうかと思うと夜も眠れず朝眠くなってしまう。
最大の疑問であった「60#9」の所在はわからないままだ。断面を調べた限り、阪鶴鉄道発注品の可能性があって、60#5もしくは60#9に相当するものというのが見当たらない。山陽鉄道の発注レールが60#5なだけで、それ以外に該当するものがないのだ。どういうことだろう。60#9は阪鶴鉄道のためだけに存在しているというのに。こうなってくると山陽鉄道が発注レールを阪鶴鉄道に横流しして一部区間でそれが使われてたんじゃね?とか勘ぐってしまいたくなる。「保線統計. 昭和6~8年度」でも「現存のもの見当たらず」とあるし。
アゴの角度が2度違うだけなのか…でもそもそも60#5のゲージがはまるやつからしてないんだってばよ。