nagajisの日不定記。
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官報 1907年05月09日
>登記:近江煉化合資会社 N40.4.19 清算結了 5.2登記
官報 1907年06月18日 https://dl.ndl.go.jp/pid/2950535/1/15
登記:花又煉化製造合資会社 設立
官報 1907年07月08日 https://dl.ndl.go.jp/pid/2950552/1/9
登記:花又煉化 目的 清涼なる粘土及其他の原料を購求し之れを煉化に製造して販売するを以て目的とす と変更 M40.6.22
官報 1907年08月26日 https://dl.ndl.go.jp/pid/2950594/1/15
登記:名古屋煉化合資会社 設立 M40.8.1
官報 1907年12月02日 https://dl.ndl.go.jp/pid/2950676/1/14
登記;東豊煉化石製造合名会社 北豊島郡 設立 M40.11.25
官報 1911年12月28日 https://dl.ndl.go.jp/pid/2951915/1/35
登記:合資会社四日市煉化製造所
目的 煉化を製造し之を販売するを以て目的とし 且瓦及土管の製造販売を為し所有地に借家を作り賃貸を為すを以て兼業とす 設立:M44.12.20
ができあがった。吟味も検証もしていない糞データである。
官報から煉瓦の購買数と納入場所を拾えることがわかったので、それを足したら建設に要した煉瓦の数を概算できるんじゃね? と思いついて始めたのだが、
NDLの検索は「煉瓦」と「煉化」が正規化されていない。おかげで「煉化」で検索すれば鉄道省入札が中心にヒットする(鉄道庁|鉄道作業局|帝国鉄道庁は終始「煉化石」と呼んでいたので―――たぶんM24の達で「煉化石検査標準の件」とした頃からの慣習―――)。ただし時々「練化」と拾われていることがあるので「煉化」「練化」「異形」辺りのワードで重複スキャンしている。拾い損ねはほとんどないと思う。あるとすれば同じページに二個以上の入札があった場合。各地に鉄道管理局ができた頃から数年が怪しい。
年度ごとの入札数の多寡は煉瓦製造業の盛衰とほぼ一致している。明治29・30頃の増加、M40頃の爆造、そうした増加に当て込んで煉瓦製造会社を興し、衰退とともに消えていった工場が無数にあった。M30前後の入札には「満二年以上従事」の条件がついていたのでそうした新興工場がどの程度参加できたか不明だが、繁盛したのは官営鉄道だけでなかったと思われるので(鉄道建設自体が国内の経済状態の盛衰と直結的に連動してた)その目的ではなかったかも知らぬ。あるいは大工場が入札←中小工場が代理で製造し納入というようなことも多かったのではないか。とにかく需要が急増した頃に納入条件が厳しくなっているように見え(これは鉄道局よりも陸海軍の入札に顕著、陸海軍入札は監督者の履歴書を要した頃もある)、それは新参工場の粗製乱造に業を煮やした結果と思われる。その後は条件が緩和され従事年数の縛りは撤廃された(ように見えるがどうだろう、会計規則69条の証明云々とある規則は生きていて必須のため書かなかったのかも知らぬ)。このことと現場近傍に臨時工場を設けた者との関係や如何。北海道の久保煉瓦工場とか山陰線沿いの工場とか。中江煉瓦工場などはM40.5設立となっているのでM42.5以降でないと入札できなかったことになる。しかし物品購入の一部のみ2年以上従事の条件をつけているものがあったっけ、鉄道作業局の物品購入で。
M43、44辺りは極端に入札数が減っているが、この辺りから指名入札になったか物品購買も含めた請負に変わっていっているのではないか。
いろいろ言えそうなことはあるのだが広範過ぎてまとめられぬ。
東洋組製品と他の製品をと見分ける方法を発見して独り興奮している。東洋組西尾分局の胎土には大量の雲母が入っている。そうして刈谷の後年の製品や新川辺の煉瓦には雲母は含まれていない。他の工場でも雲母を含むものは少ないので雲母の有無で簡単に絞り込むことができる。
西尾の胎土に雲母が含まれることは横須賀市教育委員会さんから頂いた猿島遺跡の調査報告書(2002)に書かれてあった。そうか雲母か、と思って手持ちの煉瓦を確認してみると確かにキラキラ輝いていた。石英結晶に光が反射して光っているものもあるが、ライトでまんべんなく照らすか、光源をまともに受ける位置から煉瓦をくりくり傾けると違いがよくわかる。これを言語化しないといけない。金銅色に面で光るのだ。キラキラが揃っているのだ。粘土を型枠に放り込んでギュウギュウやっているうちに劈開面が型枠面に沿うようになるのか、あるいは小口長手と平行なやつが特に劈開して面を見せているのかわからぬが、いずれにしても顕著にキラキラと輝く。このキラキラを探せば西尾分局製を見つけることができる。
西尾の東方に八ツ面山というところがあって、そこにかつては雲母の鉱山があったそうである。そうして雲母を含む土は西尾から岡崎・豊橋方面に分布しているという。ん? ならば岡崎で採取したあの煉瓦も? と思って見てみれば確かにこれもキラキラ光る。直径1~2mmくらいの金雲母さえ確認できた。乙川沿岸の堆積土に含まれているかどうかによって、あれが西尾から持ってきたものなのか、それとも岡崎分局製(あるいは三工舎製)なのかが言えるかも知れない。
さらに興味深いことに、西尾士族生産所時代の製品には雲母が含まれていない。鉄道省の大型煉瓦を作る頃には原土を替えていたらしいのだ。確かに発色は全く違う。生産所時代の煉瓦は堺の煉瓦かと見紛うほど充分に赤い。胎土が違うということは西尾分局の後継工場の製品だと推測するその推測が間違っている可能性もなきにしもあらずではあるが、精成社→生産所の頃の往復書簡にこの頃ようやく鉄道省の求める色合いに焼けるようになったと南隼太が報告していた箇所があったはず(うん)。ずっと火加減によるものだと思っていたが原土を変えたと考えてもいいわけなのだ。
しかも興味深いことに〝□+カナ〟刻印煉瓦だけは雲母を含んでいる。微細な粒になっているが確かに雲母だろうと思う。石英結晶の光り方と違うもの。もしかしたら刻印の違いは使った土の違いなのかも知れない。以前の土では高火力で焼いても発色がよくないためにイロハ印の厚煉瓦は安かったのかも知れない。
雲母の有無で西尾の土と判断できるのであれば、「愛知名古屋/東洋組瓦磚/製造所之印」を西尾以前新川時代の印と考える推測の判断材料として雲母の有無が使えることになる。これはかなり画期的であり直截的であるだろう。ただし生産所時代の煉瓦も含んでいないわけなのでそのへんの言い訳を考える必要がある。
有り難いことに、雲母によるキラキラは長手や小口でも確認することができる。むしろそっちのほうがわかりやすい。型枠にまぶした砂に含まれていたものだろうか(もちろん胎土断面にも含有を確認できるがキラキラが揃っていない)。そういうわけなので平の露出や東洋組刻印を探さずともいい。
といったようなことを昨日発見し、それ以来誰かに教えたくてムズムズしている。これを知って喜んでくれるような人に伝えたくてたまらない。しかし残念ながらそういう人が周囲にいない。
つくづく思う。人はなぜ新知識をひけらかしたくなるのだろう。見つけたものや目にした後継をSNSにアップしたくなるのも同根の、人間に備わった人間的な欲のひとつなのだろうと思うが、そう考えると書いたり伝えたりする行為の虚しさのほうが先に立って萎えてしまう。聞かされたり読まされたりする側の気持ちになるとそう積極的になることができない。その前にnagajisが人かどうかを吟味する必要があるしな。
9日に猿島上陸を計画しているのだけれども「ガスコンロ持ち込み不可」なことを解決できていない。ガスコンロがないとおゆまるくんが溶かせない。お湯マルくんを溶かせないと刻印の採刻ができない。「刻印の型を取る為に必要なんです!」と力説したところで持ち込みが許可されるとは思えないし面倒臭い奴扱いされることは目に見えている。そもそも条例で持ち込み不可というんだから大人しく従うべきである。
二次策としてお湯を湛えた保温ボトルに入れていく手段を考えているが、これも手際の良さを要求されるうえに実験では何度か失敗した。沸騰水で温めるのに比べてやはり粘度が不足気味。かなりうまくやらないといけない。そして失敗したときのリカバリーがどれだけできるか不透明である。採刻可能な回数も限られてくる。
そもそもその保温ボトルの湯をどこで確保するかが課題である。ガスコンロでゴーしても怪しまれない場所があるかどうか。三笠公園は人多そうだし火気禁止だろうし。途中のコンビニか管理棟でポットの湯を分けてもらうという手もないわけではないができる限り自己完結したい。
いざとなればバーベキューセットを借りてそれで湯を沸かすことができなくもないが、それだけのために2000えんも払うのは愚かだろうし何よりエコでない。炭の片付けも大変であるだろう。だったら管理棟にお願いして湯を分けてもらう等のほうがよいのではあるまいか。
アホなことをしようとしていることは重々承知の助なので自分だけの正義自分だけの大義名分を振りかざして強行しようとは思わぬ。そんな苦労をするくらいなら裏に回って合法的な抜け道を探して苦労したほうがよい。
てか、そもそもそんなにたくさん撮る刻印があるとも限らんのだけどな。やっちゃだめって言われたらそれまでだしよ。
2度も前を通っておきながら面倒臭がって頂いていかなかったことを今更後悔している。M16中に製造した煉瓦の個数は西尾分局より刈谷のほうが多いのだ。その煉瓦が向こうに行っていないとも限らない。それを見分けられるかどうか。
撮った写真を見る限りでは後の井桁印時代の胎土と同じようなのだけれども露出している白い石粒が石英長石系なのか白い雲母なのか確信が持てない。前者のようには見えるけれども後々まで同じ胎土を使い続けた保証もないわけなので。あと西尾分局のあれのような微細な雲母片だと写真に写っていないと思われる。
いや、少なくとも西尾分局も士族生産所もあそこまで石英は露出していないか。問題は側面だ。側面見ただけでわかるものかどうか。平には確かに露出していたが小口長手だけで判断できなければならない。帰って確認の事。
「愛のトンネル」の傾斜した区間の天井の煉瓦は小口の角を打ち欠いて使ってある。ぶっといL字形というかなんというかな形状。側壁は鉛直方向直角に(通路の傾斜を無視して水平に)積んである。スプリングラインは通路の傾斜と並行。それより上のアーチの煉瓦(小口巻)はことごとく打ち欠いている。はじめスプリングライン際だけかと思っていたがかなり上の方でも欠いているやつがあるようだ。
ガイドさんと検討したときにはわからなかったが、観音崎公園を歩きながら考えていてやっとわかった。ヴォールトの煉瓦もたぶん鉛直方向を向いて積んである。そう積まないと坑口のアーチがきれいにならない。もし普通に小口積みで巻いたら末端を削るなりなんなりの処理が必要になるが、仮に削ったとしても競り合わない煉瓦の断片が生じるうえに煉瓦形状が揃わなくなる。長手積みなら適当に鉛直に削ってしまえば済むだろうが、ここのアーチ端は2枚厚のフランス積み的煉瓦巻二重のアレなので長手が多数露出する。その面を垂直に巻いたとして、それより奥も同様に続けていこうとした結果と思う。
くそう!図が描けねえのがもどかしい!
そうか、末端はフランス積みだがヴォールトは小口積みなんだ。そこに連続はないはず。連続してたら削ったやつが使われているはずで、そうなってはなかったはず。この末端の処理、写真に撮ってなかった気がする・・・(うん撮ってなかった)
この欠きはヴォールト端のような薄い目地で積む場合には必要になる。理論的には必要になる。けれど結局はすごく厚い目地にしてあって意味をなさなくなっている。むしろ目地厚さが全部揃っているように見えるように打欠いたとかだろうか???
切石は厚9寸で、そこに厚2寸の煉瓦4個をはめ込んでいるので目地が1/4寸なんてことになっている。なおかつ切石はおそらく日本古来の発想で目地材を使わずに積んでいるためその上下の煉瓦4個の端の目地との取り合い?が合わなくなってしまっている。それを取り繕うためか極薄の目地で繋いでおいて表に見えている部分だけ削り取って3分の目地を塗り込んであったりする。石との取り合いの難しさに加えて見た目調整のための目地切のせいで表面で図る煉瓦寸法がすごくまちまちになってしまうようだ。本来は7.5×3.6×2寸の東京型であるはずなのだ。
東京型+厚9寸の切石を使い続ける限り切石との取り合いに悩まされることになる。目地も極端に狭くなる。それを嫌って東洋組には少し薄く作らせたのではあるまいか。由良要塞の初期の砲台とか。東洋組の煉瓦(猿島煉瓦壁)は57mm前後を示すものが多かった。
でもあれだな、M27の則で東京型選択したくせに切石厚は9寸じゃなかったかっけか。目地を使ってたんだっけか。これも帰って写真見ろ強い子のミロ。
2日めはいいことまるでなし。1日めで運を使い果たしたのだろう。
雲母の有無で判断するのは少し待ったほうがよさそうである。刈谷も西尾も雲母を含むことがわかったので。土地自体も雲母だらけ。境川では遊水地として造成されたところだけでなく今の護岸の上に溜まった砂にも大量の雲母を検出した(川底のものが大水の時に閖上られたものと思う)。
むしろそんな偏在する雲母が後年の製品ではとんと見られなくなることにむしろ注意しなければならないのかも知れない。大野工場の煉瓦も士族生産所煉瓦もよく焼けた赤煉瓦で雲母を見ない。これは赤煉瓦になるような高温で焼いたことで雲母が溶けるなり変性するなりして目立たなくなってしまった結果なのではないか。土を変えたとしても砂まで変えたとは思いにくい。そもそも胎土に含まれる雲母からして砂由来なんじゃないか。
人工的に製造した雲母は融点が1350度前後という研究があった。白雲母だったか金雲母だったかも1100~1300くらいとあったはず。当時の登り窯でその温度まで上がるかどうかのギリギリのラインなので融解はしていないかも知れないが、300~800度くらいで結晶中の水酸基が脱水反応を起こしアモルファス化(非結晶化)するらしい。となると東洋組製品は低温で焼かれたためにあんなキラキラした輝きのまま残っているだけで、それ以上の高温で焼くようになった後年の煉瓦では変性してしまって雲母と気づけなくなっているだけだという可能性がある。そうして猿島の煉瓦はたかだか800度台の焼成温度だったことがわかっちょる。とすれば東洋組煉瓦の雲母は脱水すらされていない。このへんのことをもうちょっと勉強しなければならぬ。
新川辺の土もそうなのだろうか。もろに境川下流なので砂は間違いなく含んでいるだろうが。岡田煉瓦もそういえばほぼ同じ、というか西尾の対岸だものな。それでいて含雲母だった記憶がない。
緩やかに傾斜したヴォールトを小口積みで作ろうとする時、煉瓦を鉛直方向に向けて積むなら「ああするしかない」。このたった50文字を説明するために100倍の文字を必要とするnagajis哀れ。
問題は「なぜ垂直に向ける必要があったのか」なんだ。後年そうならなくなる前の、思考錯誤の一枝葉なんだ。
_ しゃちお [固形燃料もダメなんですか? モバイルバッテリーと電気ヒーターじゃ高いですかね。]
_ nagajis [だめだそうです。マッチやライターも基本的に持ち込み禁止。なかなか徹底しています。(結局保温ボトル+熱湯で凌ぎました) この用途には80℃以上の温度が必要なので難儀します。電気ヒーターならなんとか..]