nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
極太の明朝体が遠目で見にくくなることを再認識させられる夢。明朝体は縦線が太く、横線が細いものだが、その細い方が遠目で見ると掠れて見えてしまうため、看板なんかではあまり使われない(はず)。そういう認識を夢の中でも再確認したというほかない。紙に印刷されてあるのを見てそう思った。特に英数字が見にくく感じられた。果たしてこれは何を意味しているのだろう・・・。
明日は一日寝たいなあ・・・部屋の片付けもしたいなあ・・・
近畿地方では一昨日だったかその前だったか、もっと早くにだったかに木枯らし一号が吹いたというニュースが流れていた(そういや土曜日よりも前だったな)けれども、今日の風の方がずいぶん寒く感じられた。着実に秋が深まっているようだ、とようやく実感した次第。
家の前の自販機もホットに切り替わった。個人的には自販機のコーヒーがホットに切り替わるのも秋を感じさせる重要要素だ。吉野のほうでは早くからホットってたけれども、それが市街にも降りてきて、家の前までやってきたということだ。
南天は夏頃の大きさで生育が止まって、大きな枝の葉の先が赤く染まり始めている。このまま紅葉してしまうんだろうか? 紅葉すると葉が落ちて枯れてしまうんだっけか? 大きくなりはしたものの、実をつけないままでここまで来た。きっと来年以降だろう、と思っていたものの、葉が落ちてしまったら元の木阿弥なんじゃないかしらん、とこっそり心配している。
そういう心配をする前に着るものの心配をしなきゃな。そろそろ冬物のありかを確認せねば。ぱんつ洗わないと。もう替えがない。
冬に突入する前に葛城方面へ行きたいな。行き残している天皇陵参道と道路元標を回収しつつ横井戸群を見てみたい。横井戸はいつも通るあの道路のそばのはずなんだが。
田原と五打以後天皇陵はどうするかね・・・あの2つは遠いからなあ。でも行かんと終わらんからなあ。あ、そうやった、前書いた調査票まだ提出してねえや。忘れないうちに片付けておこう。
最近教えてもらって知ったんだがそういうのがあるそうだ。1970年頃か、ってなんか伝説の坊さんみたいだ。お前は椿念和尚(A.C.680~732頃か)か。
こういう時本人が書き直せないルールってのはどうかと思うが、まあ所詮はnagajisだし、つけあわせのブロッコリーみたいな意味合いで作られたんだろうし。 書くべきところにはちゃんと書いてあるしな。 ついでだから短小包茎右曲がり、毛がフサフサで毎日床屋に通ってるって書いといてくれ>誰か。
新淀川新橋の時に頑張ってまとめておいて良かった(それを思い出して良かった)。見直したらあっさりまとめ直すことができた。過不足なく。誰の役にも立たないだろうと思っていたがしっかり自分の役にたっとーる。あれだな、ちょうど講義ノートを自分で作ったようなもんだな。誰もが当たり前にやっているだろうことをやっていただけだが、自分にしては珍しいことだ。故に書いてみる。しかし[都計]タグを打つまでもなかったかも知れぬ。
情報の価値がどうとかこうとか書きすぎた気がするので、しばらくは深く考えずにヘラヘラ過ごそうかと思ってみたりしている。信念を常に表明し続けるのはエネルギーが要る。自分を追い込むことになる。やり過ぎると自分が暴走することは必定だ(すでにしていると思うが)。ようは大石蔵之助ろうという魂胆。信念信念言っているとそれこそ椿念和尚になる(誰
今日の昼間、気分転換のつもりで散歩に出掛けたところ、近くの神社でフリーマーケットというか蚤の市というかな催し物に行き当たった。端切れを山積みにして売っているかと思えば、文房具ばかり並べて大安売りしている出店が隣っていたり、その向こうで鈴カステラ屋が繁盛していたりした。何の賑わいだろうと思ったら、そうか、今は七五三シーズンなのだな。綺麗なべべ着たお嬢ちゃんが爺ちゃん婆ちゃんに手を引かれて拝殿へ向かっているのを見つけてそう気づいた。
そんなカオスな境内の一角で、オモチャ?を売っている店があり、そこで売られている招き猫が、ちらっと目に入った。取り立てて何ということはない普通の招き猫である。強いて言えばケバいくらいにカラフル。もちろんオーソドックスな白もあったが、ブルー、ピンク、イエロー、そういう原色系のやつのほうが多く、目立っていた。地の色を変えただけだのでただただケバく、はしたない感じすらする。そんな中にある白招き猫が、ふいに欲しくなった。
生まれてこの方、招き猫を欲しいと思ったことはなかった(特別に可愛いやつは別である。商店の店先で見かけるようなフツーのやつ、時に油埃を被って薄汚れていたりする、あの招き猫にそんな感情を抱いたことはない)。なぜ急に欲しくなったのだろう。呼ぶものがあったのだろうか。それとも招き猫に頼らなければならないほどに困窮しているのか。そうかも知れないがとりあえずその可能性は脇に置いておく。話が進まないから。
結局その招き猫を購うことはなかったのだが、なぜ欲しいと思ったのかをつくづく考えてみて、最終的な結論は「そういうお年頃なのだろう」というところに落ち着いた。世の中に未だにこの手の招き猫が存在するのは、やはり需要があるからであって、そういう需要の層はある年齢以上の人からなる層のはずである。何の目的があるわけでもないが、招き猫いいよな、日本の心だよな和だよな、と思ってしまう年齢の層が。ほら、年を重ねると寺社仏閣巡りをしたくなったりだとか、仏像に興味を持ったりだとか、したくなるっていう話、よく聞くじゃん。そういう人らによって古い文化が継承されていくと思うんよ。若いもんには伝統の良さがわからんもんなんよ。急に馴れ馴れしくなったのは別に理由はない。
世の中の「普通」に反発するような生き方を続けるのは難しい。いつかどこかで思わず知らずに日和ってしまうことがあり、その日和りがかえって信念の呵責?となって疲れを倍増させてしまう。「招き猫なんて」と思っていた心に隙ができ、その隙を突いて飛び込んで来られた時、どう対処していいのかわからなくなって、180度返した掌で受け止めるしかなくなるのではないか。そういう瞬間だったのではないだろうか。
理由がわかった(ような気がした;それを書き尽くせたとは思っていない)のでしばらくは招き猫を買わずに済みそうだ。しかし気を抜いているといつのまにかコケシとか木彫りの熊とかが部屋の隅に鎮座しているという事態になりかねない。気を付けなければならない。
あんまり手が入れられなかったのは最初のデキが良かったからでも投げやりになったからでもないと思う。今までにない新しい感覚だ。どうも脳が悪くなってきたらしい。いや元からずいぶんひどいんだけどね。おかしいことに気づけなくなったのかも知れぬ。
直しても仕方ないかなと思った場面はいくらでもあるのだ。それを直したところで何という反応もないことも予期したりもしたし。そういうものだというテイカン? うん、テイカンかも知れない。
新しい言葉が欲しいなあ。今回はいくつか得られたような気もする。漠然と。そんな感じなのだな。遅い。
というか考えたら新規のが殆どないんだった今回。そりゃーそうだ。道理で速いわけだ。
ふと「アナルコ・サンジカリズム」というワードが頭をよぎって検索したら大杉栄だった。大杉氏元気にしているだろうか。 もう何ヵ月も人に会っていないような気がしている。
子供の頃の思い出話をして下さる(思い出話ができる)古老は偉いと思う。自分なんかまだ30数年前のことなのに忘れている。太田電気の脇のドブに落ちたのはいつだっけか。暗渠の下で蛆の沸いた犬死体を見たのはいつだっけか。石田ビルが緑色に塗り直されたのは。何月何日は無理としても、何年の出来事だったか、とっさに答えられる自信がない。
何のために生きるのか、ではなくて、何をして生きるのか、かも知れないなあ。生きるために何かする方が大変なことであって、それを何とかしながらみんな生きてるんじゃないかなあ。それが人間、世の中っちゅうもんなんじゃないかなあ。 そこに余裕ができない限り、新しいこととか鋭利な思想とか 高尚な目標は生まれないんじゃないかなあ。貧すれば鈍す。赤い貧乏も結構だが他の色も試してみてはどうか>nagajis。
なんだったかひどく面白かった奇妙なポテンシャルがあった気がするのだが思い出せない。今朝も何かの夢を見た気がするがこれもやはり[D]にできぬ。曰く疲労しているのだと思う。それほど神経をすり減らしているようには思えず見えずのnagajisだが。実際こうやって毎夜毎夜クソ垂れ流してもなお眠れないのだからそうなんじゃないかしらん。秋がのしかかってきてふりほどけないから熱いコーヒーが飲みたくなるのだろう。そうだろう?
感じていた奇妙なポテンシャルを思い出した。商店街のはずれにある通称ゾウさん公園で、バザーか何かの準備なのだろう、白線で区画割りを引いているのを見たのだった。その区画割りに、奇ポテを感じたのだ。
┏━┳━┳━┳━┳━┓
┃E┃D┃C┃B┃A┃
妙な心地悪さを感じないだろうか。この一ブロックだけだろうかと思ったが、そうでもなく、十数ある区画がすべてこのような振られ方をしていたのだった。
そのおかしさに突っ込みたくなったのではなく、なぜ心地悪さを感じたのかを考えた。アルファベットは左書きなのだから、左から右に並んでいるのが自然であって、それに反した不自然状態であるから心地悪く感じたのは間違いない。負のエントロピーを生成しているように見えて実は正という熱力学法則に悖る行為であるから「・・・」を感じたのだろう。けれども、じゃあどうしたら良かったのか。アルファベットのかわりに数字を使っても解決しない。そもそも左から振るヨロシな案は却下である。左からA、B、Cと振れない不可避な理由があったからこそこうなったんだろう。作っている本人らも不格好を承知しつつしぶしぶ書いているのだろう。
あ、い、う、・・・、もしくはイ、ロ、ハ、・・・であったら良かったのかも知れない。日本語なら右書きの存在が許容してくれる。「まあ、それもありだよね」と包容してくれる。何なら一文字ずつ5行と考えてもいい。「ね」のようなややこしい文字とか「シ」「ツ」区別とかを白線で書ける保証はない、18も区画があったかどうかは見てないけれども、とりあえずそれを結論にした。
そういやeNL来てねえなあと思い,確認したら,ちゃんと送信できてなかったらしい・・・.う○こブラウザのせいだ.くそ.3日遅れでとにかく再発行した.
どうも最近,KINIAS方面で失敗が多い.Macと同じでちゃんと思いを向けとかないとうまく回らないものなのかも知れない.他のパソコンに浮気すると途端に機嫌が悪くなるというアレだ.
いまの環境だとこのページを表示させるとタイトルで見切れてしまうため同じタイトルだとまるで更新されてないように見えるのが悔しいので若干変えてみたりなどしてみただけである。
今日は一日原稿書き。意外と詰まるかと思いきや略完成させることができた。そりゃまあそうだ、詰め込む作業でもないのだし、自分の感想垂れ流しで済むのだし、丸一日書いてればそんくらいにはなるだろう。後半紙芝居は若干姑息だが、最初の発見が山場なこともあるし、あまり長引かせるのも良くないだろうと思う。
続けてミニ探索にかかろうかと思ったがさすがにしんどいのでやめる。というか先日の突発的探索於能勢電でもいいよな・・・と思い始めている。いま検索したらネットには国鉄川西前のしか出てこなかった。2、3ページしか見ていないから下のほうにはあるのかも知れないけれども。ついでに久しぶりに笹部隧道引っ張り出してやるか。大正12年竣工、忘れられたフランス積み隧道。そういやおかも君とか張り子の虎君とか元気にしているんだろうか。無事青春を謳歌してるんだろうか。やあ、おっさんは相変わらず人でなしだよ。
↑は例によって電車内書きをしていて、あと行ってないのは能勢電だよなあと思い、ふらふらと行ってみたものの、能勢の山里風景があまりに懐かしくて降りてしまったことに端を発している。カメラも持たずに行ってしまったのでまた行かねばならない。そうしてあと一ヶ所行き残している。ちなみに笹部へ行ったのではない。あそこはどう頑張っても能勢電の敷地内だからな。一度OKもらったからといって未来永刧効力があるなんて思っちゃい内。
3日と4日のページを別タブで開いて片方閉じるとアニメーションが見られる。
眠れぬ夜の浅ましさに過去の日記を読み返したりなどして今年初めには都計橋梁やってたんだなあと思い出したりしている。もうずいぶん前の話のような気がする。すっかり忘れてたせいでFさんに2度振りしたりもしたよな。もうちょっと何かに役立てたいもんだ。
歩き回ったこと自体は効果があった。お陰でずいぶん動けるようになった気がする。GW以降にあちこち行けたのもそういう素地があったからではないか。今はもう翌日まで響くことは(ほとんど)無くなった。探索中に痛み出すことはまだあるが。
考えてみればこれまでの人生のなかでこれだけ長い間日記を続けてきたことはない。夏休みの宿題の絵日記かあさがお観察日記くらいしか書いたことがなかった(いや、大学時代の黒歴史があったか。あれはもう捨てたんで読み直して赤面することもないぞ安心しろnagajis)。最近になってようやく日記を書くことの真価がわかり始めている。忘れるに備える録ではないのだ。書いて忘れることに意義があるのだ。覚えることをしなくなった昨今だが、書くことでわずかでも記憶に残り、ひっかかりを作れればいいのだ。
紅葉はきれいだったが、収穫はいまいちの上(KINIAS的には上の中か)。そういう水路導線であるとは気がつかなかった。&一度水田になっていたことを見抜けなかった。
儚い跡であるがゆえに記録して残しておく必要がある。
きょうはしんどい・・・。収穫が少ない時ほど疲れは出るものだ。I先生のほうがたいへんだっただろうけど。
それなりに面白い、よい夢だった気がする。ここのところ毎日そんな夢を見ている(いい悪いは別;見たことは覚えているが内容を覚えてないという意味で)。睡眠が浅い証拠である。昨晩朝4時半に仕掛けた目覚ましで起きる前もそうだった。悔しいぞ。
時系列無視。能勢電鉄の電車の中でそんな会話を聞いた。 開業以来もう何百万回も発せられたであろう言葉のはずで、本来ならスルーすべき出来事だったのだが、実はそういう発想を持ったことがなかったために新鮮に聞こえてしまったのが悔しい。多田のダイエーで何度も買い物したし、多田神社にも行ったし、吉牛を食ったりしたりもしたことがある。にもかかわらずそんな発想はなかった。毛の先ほども持ち合わせていなかった。
妙見口駅の乗り越し券売機になけなしの1000えんさつを入れたら詰まってしまった。駅員さんが何とかしてくれると思ったら、あそこは無人駅なのだった。インターホン越しに全てを処理してくれた。「真ん中の改札開けますので、外の券売機へ行ってください」「インターホンボタンを押してください」「おつりをお返しします」で券売機からおつりが出てきた。ホウホウ、そういうシステムだったか。
きっぷを無くすのと同じくらいの頻度で1000えん札を詰まらせる。財布が悪いのはわかっている。折り畳んででないと入りにくく、そうやって入れると端1cmがカールしてしまい、無理に入れるとそのカールが引っ掛かって出て来なくなる。尿意を催している時などにやってしまうと、機械を罵るよりもむしろ自分を叩きのめしたくなる。
nagaisは言うだけ太郎であるということを23000文字くらいで書き立ててみたい気がしているが書いたところで反省にも誉め殺しにもならないことは自明なのでやめておく。そもそもその16文字で全部いい尽くせてるし。
言うだけ太郎であることを提示して、さてどうするか考えてないところも太郎らしい。あとさき考えてないなら言うな。とか言い出したら何にもできなくなっちまうがな・・・。まあ道化っぽさは出るだろう。プギャーAA略して笑えばよろしいのである。
情報は古くなる。人は生まれ、知らない者が増えていく。情報はますます古くなる。
皆が忘れた頃、過去の情報を発掘してくる者がいる。さも新発見であるかの如くに報じられる。しかし情報は古いままだ。「新発見」された当初の状態を保つことが是なので。
ちょっと巷を賑わせてまた忘れられる。情報はさらに忘れられていく。
最新の情報しか価値がないのだろうか?
一気に仕上げた。やればできるじゃん>nagajis
一個詰まるとどんどん雪崩を打って崩れていくなあ。かといって「なじょしたらええべ」がすぐに思い付かない。ここで命を投げ打つようなタイミングでもなさげだし。や、そうかも知れんな。
鹿の数が増えたら狩る。反感が出る。だからといって止めたらなおさら増える。断じて行うしかないんじゃないだろうか。同じことは何についても言える。評価を気にして言いたいことを言わなかったら何も変わらんのさ。いまは反感すらない状況だけれども名。
雪が降る前に&天川村の調査結果を聞いたうえで天川村へ行きたい。あそこがいちばん、戦前のいろいろが残っていそうな気がする。天川発電所(跡)、川合・弥山・和田発電所、川合の堰堤に九尾堰堤。そして大峰鉱山とその索道。黒木辻の特製柱(跡)、たぶん虻峠の35米突支柱(跡)とか。洞電の終点もよくわかってない。川迫森林土工組合の軌道とかもな。ええとあの写真は「林道のあゆみ」であったか「天川村史」であったか。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00053394&TYPE=HTML_FILE&POS=1
覚え書き。あ、新聞記事文庫直った?
'08の沢川林鉄探索のとき、盤台直下でmasaさんが見つけたコーヒーって、これじゃなかったっけか。色合いやデザインはまさにこんな感じだったし「カスタム」というのにも見覚えがある気がする。
一仕事終えたので弛んでいる。次にすることを考えないといけない。冬の間のネタとか。いい加減都計を何とかしないといけない気もする。亅拭かないままパンツ履いてしまっているような心地悪さがある。あれもこれも。
円安になる前にアレしとくこと。忘れないよう。
みゅっと眠りにおちかけて、夢のかけらを拾いもしたのだが、何かの拍子に目が覚めてしまって、以来眠気がどこかへ行ってしまった。困ったことだ。
どうしても起きていなければならない時、逆に10分程度の仮眠を取ると目が冴えるというけれども、それよりも短い睡眠もどきで同じ効果を得てしまった格好。今さらそんな技を身に付けてどうしようと言うのだろう>nagajis。とはいうものの、こういう眠り損ないは以前からよくあった。最近はあまりなかったのだが。久しぶりだ。
で、何かを書いて疲れようという目論みも上手く行かなさげ。書きたいと思うことが特にない。書かなければならないことがない。書いて楽しく思えるようなことがない。ゆく4やらOdysseyやらで書き尽くしたからだろうか。
Oさんが打ち合わせに来てくださった時、書く気力が薄れてきてるんですよと弱音を吐いたら、らしくないと励ましてくれた。そのうえで6+12ページも奢ってくださった。応えられただろうか? 自分は最善を尽くしたつもりでいるが。「道の変遷」も3人共著をものにすることができた(これは渡辺さんとのがなさんが良い記事を書いてくださったお陰)。額もここでは使い回し気味のネタだけれども、企画ページは自分のイメージしていたような盛りだくさん感を出せたんではないかと思っている。まあ、自分が思っているだけで評価は他人のする仕事だから。言うだけならば多田だし。
今回は何をしようか・・・檸檬ネタは前回やっちゃったしなあ。本編にはいろいろ爆弾を仕掛けておいたんだけどなあ。iso-2022-jpとか合わせ鏡的自己言及とか。
ふと「石垣が好きだ」の系列で「橋が好きだ」をやってみようかと思ったりした。かえって難しいかな。あのノリでやると。技術の塊を技術抜きで書き表すのは。いやいやあのノリでやってみることが即ち凝り固まったnagajisの頭を爆破解体して再構築することになり新紀元を画することになるんじゃないかしらん。最近は易い探索ルポばかりに流れてるしな。問題は「今さら橋がすきだー」と叫ぶこっぱずかしさに耐えられるかどうかだけだ。
ん、でもまあ、過去一年間に書いたものを振り返ると、それなりに幅が広がってるんじゃないかなと思う。年にひとつは徹底追求する記事を残すことが続けられている。それはいいことだ。受付とジスオも頑張ってくれてるしな。さて来年は何を追求するか。何の新しいことを始めるか。
○○研究家とか○○専門家って、よくまあそんな大それたことが臆面もなく名乗れるなあと思う。よほど自分のやっていること・考えたことが間違ってないという自信があるのだろう。早くそういう境地になりたいものだ(廃道研究家になりたいという訳ではない。そんな肩書きは願い下げだ)。
もっとじっくり道を歩いてみたい。何度も同じ道を歩いてみたい。人に話を聞いてみたい。そちらをメインにする方向に今後は移ってくんじゃなかろうか。いや移っていくべきなんじゃなかろうか。やっとまともに歩けるようになったんだから、次は自転車旅の練習だ。
他人を貶したり貶めたりするのは簡単なことで、そうやって自尊心を保つことはできるだろうが、それで保った「自分というもの」の価値がどれほどのものか、省みればすぐにわかる。故に貶したり貶めたりする気にはなれない。この論を突き詰めていくと他人に共感したりしてもらったりることも意味をなさなくなってしまう。賢く仲良く生き延びたところでタノシイ現世が待っているわけでもないしな。自分の興味はいつも明後日を向いていて、それを追求する限りにおいてはこの世はとりあえず用がない。社会に阿る必要もない。虚空に向かって空虚を叫んでいれば万事である。
書いたものを読み直していて「易い探索ルポ」を「易いポルノ」と空目した。良い傾向である。
ふだん人と話をする機会が少ないので、発話した情報の量よりも書いて出した情報量のほうがはるかに多い。けれども書いたものの絶対量なんてたかが知れているので略把握しているつもりでいる。話したことのほうが「そんなこと言ったっけ?」と思うことが多い。その点書いた情報は検索して確認することもできるので便利だ。閣雲堂の件っていつか書いたことがなかったっけ?と思って検索し、確認したり。チキン!
未提出の調査票おくる。天川村の動向をきく。できれば訪問日時のけってい。感電問い合わせ。一度奈良図に行く必要があるか。KNT。
と書いてDQNと読む例の読めない名前、実は「諱」が先祖返りして発露したものではないかという仮説を立てている。
その昔、名前を識られるということは即ち呪詛対象にされ得るということであった。神に願掛けをする時はその神の名を唱えることで効果が増すものと信じられていた。神の御名を第一声に唱えるのは、私はあなたを知っているのだ、だから願いを叶えてくれ、という脅しに他ならなかったのだ。だから昔の人は「人に呼ばせる名前」=通名とは別に、本当の名前=諱を持っていた。
世の中が進み、社会が複雑になってくると、人の名を呼ばねばならない機会が格段に増えた。人が無闇に増えた結果、自他を明瞭に区別してもらい、あわよくば自分が一つ抜きん出て覚えられることを望むようにもなった。だから通名を連呼し、わざわざ名刺に刷って配るまでになって、自身あたかも通名=本名であるように錯覚し始めた。人に覚えてもらうためにわかりよい名前をつけることも多くなった(選挙立候補者が下の名前をひらがな書きにしたり等)。そうして諱なるものが存在したことさえ忘れられてしまった。
そして今日、DQNネームと称される「読めない名前」が増えている。敢えて読みにくい名前にしているとしか思えないような珍妙な読みをするものが多い。それが今までの通例通りでないため人の耳目を集めている。やがてはこれが普通になってしまうのだろう。ここではDQNネームの良し悪しを論ずるつもりはない(してもいない約束を勝手に破っているだけであるから)。そうではなく、何故「読めない名前」が流行るのかを考察する。
この、シニフィアンとシニフィエの乖離に準えるべき現象に対し、筆者は諱の精神に通じる何かを感じるのである。特徴的な名前にすることで人に覚えてもらうことを狙っただけでなく、しかしそれが発話できないという罠を仕掛けることで、声に出して呼ばれること即ち呪詛の対象になることを避けようとしているのではないかと思うのだ。そう狙っているわけではないかも知れないが、DNAに刻み込まれた諱精神が心の奥底で作用しているに違いないと思う。だから先祖返りだという表現がぴったりだと思うのだ。
んでそうなった原因は「千と千尋の神隠し」。あれが全部悪い。
そういえば、人の名前に「さん」をつけて呼ぶようになったのはいつ頃からだろう。昔は(諱があったから)呼び捨てにしていただろうが、もしくは「殿」をつけて呼んでたはずだが。「さん」って何のことなんだろう。「どん」は「との」の訛化だろうけど「さん」はわからない。方向を指す「さ」かも知れん。
の帰りに考え事をしながら下車し、考え事をしながら改札に向かって、切符を入れずに通り抜けてしまった。もちろんピコンピコン鳴ったうえドアに叩かれた。駅員さんの視線が痛かった。お前は自動改札を知らない十数年前のおれか。呆け云々以前の問題である。切符は降りる時に使うものだ。覚えとけnagajis。
デジカメで撮影した写真は、 印刷物にすると、どう頑張ってもデジタルだとバレてしまう。特に料理写真。うっすらスモークがかかったようになって、色が鮮やかでなくて、とても旨そうに見えない。画面で見る分には申し分ないのだが、印刷すると途端にまずそうに見える。それを無理栗補正したギットギトな画像も目につく。あれは一体なぜなんだろう。RGB →CMYK変換を失敗したわけでもないだろうに。
CanonのEOS-1Ds mkIIなんかはきれいに出ててさすがと思った記憶がある(自分が持ってたわけではない)。そのせいでCanonのほうがいい発色という先入観があるが、どのパンフレットも似たり寄ったりになってきた。みながみなNikonに流れたわけでもあるまい。
大鯛木馬道、と沢山書いておいたら買ってくれそうな人興味を持ってくれた人がいっぱい引っ掛かるのだろうか。トップがORJなだけましか。(ていうか何であんなに沢山載るんだ。一日のだけでいいのに。月間とかは検索にかからないようにしてえ)
どこにもないからわざわざORJに書いているのになぁ。とはいえ先行性なんて、他の誰かが行って書くまでの間の価値しかない。そうしてそうなってほしいと願っている。誰かがもっと掘り下げて調べてくれることを望んでいる(もちろん自分もするけれど;それをORJでやってるつもりだけど)。ORJに載って終いじゃ物件が可哀想だ。
その可哀想に思う気持ちと400円で買ってくれる方への還元を秤にかけて黙っているnagajisは卑怯者である。ふはは。
明治の偉人の所業に触れる機会があった。彼らはよく「国のために働く」という言葉を残していて、そのように働いたと描かれることが多い。自分もそうだろうと思っている。欧米列強に追い付け追い越せのために立ち振る舞って成果を残した人々だと。そういう人を偉人だと誉めそやしたくも思う。
今はどうだろう。国のために働いている人はどれだけいるだろうか。確かにいるだろうけれども、見えてこない気がする。企業の利益(株主の利益)のために働いている人ばかりな気がする。いないわけじゃない。表に出てきてないだけ。元より見えにくいし、そういう人は自分からそうだと主張したりするはずもない。
結果的に国のために働いたのだという「たのだ」の部分に未消化なもやもやを感じる。誰だって支えようと思って働いたわけではないだろう。 産業戦士諸君はよく働いたと思うけれども、みながみな尊敬に値する生き方をしてきたわけでもあるまい。
国の行く末を考える人が不在な気がする。そういう人を求めない風潮もあるように感じる。ちょっと俯瞰でものごとを考えただけで「上から目線」と揶揄される。森の中で向こうを見通しどれぐらいの広さに広がっているかを知ることはできない。高いところから眺めて初めて森の全体像がわかる。そういうものの見方をする人がいてほしい。
と上から目線でものごとを考える必要性を感じるが、かくいう自分だって自分一人を何とか生かすので精一杯だ。身の回り半径数mにしか興味が行かず、影響も与えられない自分だ。そう自覚したうえで「結果はあとからついてくる」という言葉だけにすがって生きてていいのかい? と思う。
はて、この人はいったい何をしたいのだろう。
赤、黒、白。いまいちだな。一部を切り取った方がいい。
また寝損ねた・・・。ちゃんと抜いて寝たのにな。明かりつけっぱだったのがいかんのだろう。残り1日分を無理にでも消費しようと考えていたが、いろいろ無理そうだ。
以下、編集長ではないnagajis個人の考えなので鵜呑みにしないよう。編集部内で相談したこともないしそういう混線流石得られているわけでもない。どこかからつつかれたから書くわけでもない。書いて疲れるためだけに書いている。
ORJの価値はあまり考えないようにしている。ORJの、というより記事やネタの価値のことは。そりゃ未発見の珍しい物件を載せた方が喜ばれるに決まっているが、毎回毎回世紀の発見をお伝えできるわけでもないし、書いているほうもしんどい。歴史や背後関係をまとめるだけで一苦労するうえ、売れなければ知られない情報なわけで、苦労が無駄になる確率のほうが高い。だからといって中身をおろそかにするつもりもない。書いても読まれないことをわかっていながらどこまで追求することができるか。役に立たないものだと思われているものにどれだけの価値を見いだし付け足していくことができるか。そんな板挟みに勝手に挟まれて苦悶煩悶し、その結果出来上がったものを見て落胆することにこそ価値があると思っている。
創刊当初から言っているが、ORJは同人誌である。書きたい人間が好き勝手に書きたいことを書いている。そういうためのpdfである。知れば得をするかも知れないが知らなかったからといって人生に支障が出ることはない。かつて有料化するにあたって、ORJ買うくらいならその数百円をガソリン代に回すと宣っていた方があった。それも真理だろうと思う。その人にとっては。売れなくて泣きを見、飢えて死ぬるのは私だけでよい。
書いていろいろ追求する場としてのORJを維持するためにORJを売っている。お代を頂いて場を維持している。要するに遊べる砂場がほしいから、入場料をいただいて維持管理費に充てているようなものだーーーその小さな砂場のお山の大将に、なりたければなればいいーーー私は願い下げだがーーー。砂場の砂に価値があるから値踏みしているのでも、金が貯まった暁に砂場ぶっ壊してビルを建設するようなつもりもない。あくまで砂場である。そんな砂場で遊びたいという方がいる限り続けたい。
無理に呼び込むのはどうかと思う。 タダで遊べる遊具が他にも沢山あるのだし砂場を卒業した人もあるだろう。
どんな小さなことでも、積み重ねていけば何かがわかってくる。その上にものを乗せられる基礎になる。ピラミッドは裾が広大だから高いのであって、何も積まずに高いもの・輝くものを望んでも出来上がったりはしない。歩みは遅くても一つまたひとつと積んでいけば、そのうち自分の墓標とするくらいの大きさにはなるだろう。そうして墓ほど他人の役に立たないものはない。もういないから安心しろという証明にしかならぬ。
19日の話である。日の出直前に寝たにも関わらず10時前に目覚めることができ、なんだか勿体ない気がしてきたため、一転して徒歩調査へ赴いた。洞の共同井戸、洞池を回った時点で15時過ぎ。せっかくだからと、忍海村と新庄村の道路元標を回収しに行った。行ったのである。行ったんだってば。行ったんだよ。しかも、そこで・・・。
どちらが新しいのかよくわからなかったが2つは水路で繋がっている模様なうえ2つとも大字洞にあるらしいことを境界標のお陰で知った(また境界標かよ!と思ったあなたは正しい)。さてどう料理したものか。
誰も来ねえだろうと思っていたら2人もすれ違ったのが妙。よほどよく踏まれた道なので畝傍山に登る道としてメジャーなのかもしれん。
肝心の水の出所がいまいちよくわからなかった。岩盤から染み出てくるのを貯めていたのだろうか?にしては水量が少なすぎる。以前は沢山出ていたのだと説明されてしまうとそれっきりな気もするがモノは現実的でないなあ。場所も谷筋ではなく尾根筋に近いところにある。湧水豊富そうには思えぬ。
さっそく書いてみたがあれが洞池という確証がないのな。下の池は新池という名前らしいし(「橿原神宮と建国奉仕隊」図より)、その図には上の駅書かれてないし。ううむ。
里程元標のほうも進まない。奈良県は明治21~23頃に里程標の設置を行った?公文書「里程一件」なるものが存在するらし(伝聞形)い上に市町村のは木標であった。んで何故か左のこめかみが痛い。
御所、天川へ向かうタイミングが掴めない。寒いのは我慢するが、それ以外の要因でいろいろと。先にやらないかんこととか。
「天川ガイドマップ」によれば川迫から来た軌道は沢谷で終点。南角に土場、神童子や弥山の奥に製材所があったという。索道中継点というのは、当時は屈曲停車場を作れなかったため。あ、「天川ガイドマップ」の写真の搬器はロー式やな・・・。電索は玉村式やなかったっけ。
うん、たぶん違う。大阪荷箱のんじゃねえの?
とある教会を訪れた時、中でドールの撮影会らしきものが行われていて、それを見て小さな嫌悪感を抱いたのだが、どこにどう嫌悪を感じたのかうまく説明できなかった。直感的な生理的嫌悪ほど質の悪いものはなく、根拠のない嫌悪感であったのかも知れないと思ったりもするが、そうだと言い切ることもできず、もやもやしている。
大の大人が人形を弄ぶというところを是非するのではない。それがダンボーであってもコスプレ撮影会であっても同様の情を抱いただろうと思う。発端はドールではなく、公共の場で自分の趣味を全開開陳している姿に嫌悪を感じたのだろう。その場を場違いな空気で占用していると感じたから腹ただしく思うのだろう。壁に書かれた落書きを見たときの嫌悪感、駅のホームで線路にゴミを投げ捨てる東京人を見たときの嫌悪感と同質のものだろうと思う。
教会建築はさすがに歴史が古いだけに「よく仕組まれている」。薄暗く、天井の高い室内に、ステンドグラスを通して洩れてくる色々の光が射し込んで、壮麗な装飾を浮かび上がらせる。色はあれだけ賑やかしいのに、底に静謐の憂いを漂わせていて、その対比の美しいこと・非日常的なことにはキリスト教徒でなくてもハッとさせられる。「敬虔」とはこういう気分なのかと悟らされ、悪くないものだな、と思ったりもした。そんな空間の一角に見知らぬ他人の自我が持ち込まれ、人臭さ欲深さを撒き散らしているーーー彼らだってこの光景がきれいだと思うからわざわざ持ち込んで写真を撮ってるのだろうーーーことに、強烈な違和感を感じたのだろう。
場違い、という言葉はかなり危うい。その場の雰囲気というものは、そこにそういういう雰囲気を感じ取った自分だけにしか通用しない。ある人にとってはドール撮影の最適空間であるかも知れない。ある人にとっては懺悔の念に駈られる空間かも知れない。ある人には単に色彩のハイコントラストを楽しめる場かも知れない。教会はこうあるべきというコンセンサスなんて存在せず、特にここのような、観光目的で移築された、教会としての機能を果たしていない教会では静謐も何もあったものではないと言うことも不可ではなかろう。
年を取ると新しいもの・新しい概念が受け入れられなくなるという。とてもその通りだと思う。基本的に二十歳前後から、鐘ヶ坂隧道に遭遇した頃くらいからnagajisは変わっていない。
それ以前から新しいものに興味がなかったような気がしないでもない。流行りの音楽を進んで聴くこともなかったし、物心ついて以降の各時代のアイドルの名前も覚えていない。ジャンプやマガジンの連載をリアルタイムで全話読んだ覚えもない。兄や友達がキン消しやカー消しの数を自慢していた頃、はて自分は何に熱をあげていたっけか。MSXとかファミコンとかがそうか。そればっかりだったな。
年を取って頑迷になるパターンは2種類あると思う。新しいものを吸収するのが面倒になったり、脳生理学的に?不可能になって、すでに習得している知識なり技量なりに縋って生きざるを得ない人。新しいものを否定する傾向がある(そのくせ不便をかこつ)。それとは逆に、既習得の技量で必要十分で、それで何でもこなせてしまう人。それはそれで不幸である。
20代を境に、脳がどんどん劣化していくのを実感している。一度読んだり見聞きしただけでは覚えられなくなった。何度も何度も繰り返さないとなかなか覚えられず、その繰り返しの回数は年齢に比例して増しているように思えてならない。そんな老化に対し、感性とか洞察力とかは(経験の蓄積によって研鑽されていくので)年を経るごとに高まっている気がする。記憶力の下降線と感性の上昇線が交差して、後者が前者を上回るようになったとき、生き方が変わるんじゃないかと思う。どういうふうにと問われると困るが、漠然とそんなことを思う。やがて記憶力が底をついた時には感性だけで叫ぶ喚く徘徊するの惚け老人になるのだろう。できればそうなりたくないので、せめて能力低下の度合いくらいは正確に把握しながら生きていきたい。
なんか頭が痛いので別のことをやって気を紛らす。 いついつどこへ行ってきましてん、だからお金くれ、の書類を書く。何ヵ月分も溜まっているので大変だったが月報を書いていたお陰で終えることができた。というかそのために月報を書いているのだ>おれ。次からは何時何分の電車に乗ってなんぼかかったか書いとくとヨロシ。
しかし(現地テント泊)とかどう計算されるんだろうな。自転車移動とか。呉れなくても全然構わないんだけど。
晩飯にたまごかけごはんをくう。食べるものがあることは幸せなことである。
漠然と考えていることを、文字という「形」にする作業は楽しい。そういうことが言いたかったんだということを端的な言葉で的確に表現できるとうれしい。それで誰かに伝わればなおうれしいが、とりあえず言葉にできた時点で満足してしまう。共感してもらうために言葉にするのではないように思う。自分の場合。そのせいで読みづらさが先行する。無理にそれを直そうとするからいろいろ失敗するのだし身の丈に合わない感じがぬぐえない何かになってしまうようだ。
考えたことを文字で表現し誰かに伝えるだけならダラダラ長々書けばよいようなものだが、ただただ長い愚痴の如きものになってしまい犬さえ食ってくれぬ。そういうのもありだろうと思うのと同じくらいに折角なら洗練されたものにしてみたいとも思うけれども、ようはキーを叩く回数を減らしたいだけなんじゃないか。ズボラがそうさせるのではないか。
変換ミスで「効率欲」なんていう単語が出てきたのだが、案外そんな欲があってそれに支配されているnagajisなのかも知れぬ。惰性ではなくそういう欲求にドリブンされているだけましなのかも知れぬ。欲があるということは進歩したいということであり、こう見えても進歩したいらしいのだから。実際少しは進歩した。自分の考えていることが誰かに伝わることなんてあり得ないことであり幻想のようなものだということが理解できるほどにはなった。伝わらないことに落胆したり憤慨したりすることもずいぶん少なくなった。自己研鑽の成果といって差し支えあるまい。
ふとした閃きをきっかけに、つながる、つながる。
20. 沢谷橋1914-3
橋名: 沢谷橋 ルビ: 開通年月日: 1914-3 橋長(m): 62 幅員(m): 2.5 形式: 鉄線吊橋 下部工: 特記事項: 場所: 奈良県 天川村 河川名: 天ノ川 出典:
1914=大正3
「架空鉄索道台帳」
http://opacsvr02.library.pref.nara.jp/mylimedio/dl/page.do?bookid=100289410&tocid=0&page=4&pageseq=4
本線 大正3年1月20日工事着手
大正4年2月11日 検査申請/同日竣功
大正4年2月12日 事業開始
おまけ。これも予期せぬ発見。なるほどだからやたら沢山の基礎があったわけだ。
支線 黒滝村笠木駅−吉野郡宗桧村大字西日浦
延長線 下市町−吉野鉄道下市口駅
フーン。なるほどなあ。一段シャープかけたほうがよい。
トリミング変更。
今日は結構思い通りの写真が撮れたカンジ。真っ暗な杉林のなかでの撮影はまだ慣れなくて、そういう場面ではS9100が恋しくなるが、思い出補正だったと割りきって開き直ってしまえばおk。
結論からいえば、現地で気づいた以上のクリーンヒット。電索の黒木駅、切抜峠支柱、川合駅、大峰索道黒木辻特製支柱跡を(おそらく)特定。電索関連遺構として旧沢谷橋橋台。T3開通天川丹生街道。たぶん旧弁天橋主塔。九尾堰堤。そして、ツテ。
なんだか胃の調子が悪い。間欠泉のごとくに思い出したようにムグッと来る。そのせいで食欲も沸かない。うんこして直すしかないのか。
この気持ち悪さは胃ではないのかも知れぬ。大腸がぐりゅぐりゅ鳴ったら少しはマシになった気がする。
自分だけに通用する特異な自照を得意気に語る、いわゆる「俺って異端?( フフッ」な発言は嫌われる。それがよくわかっているからよく使うのである。普通であることがどんなに幸せで大変なことかわかってないだろ、なあnagajis。
しかし胃腸炎だとわかったところで飲む薬もないしなあ。葛根湯でも飲んでおくか。
似たようなアレで「世の中についていけない」という愚痴がある。「ブームが嫌い」とか。振り返ってみると、生まれてこのかた乗ったビックウェーブといえばファミコンとネットくらいじゃないだろうか。服装も趣味もマンガも2chも携帯も、剰え社会通念道徳観さえ無関心で通してきた。そういう人間が社会に対して物申すなどちゃんちゃら可笑しいではないか。新しいmovementなんて起こせるわけがないし、仮にそうなったとして、さてそこからどうしようというのか。お山の大将にでもなってみるかい?>nagajis
そうわかっているから、社会の最低辺の隅っこで誰にも理解されない言語でガアガアがなっているだけの現況が、自分には相応しいと思う。そうして誰にも相手にされないまま、綺羅星の燃え残りカスから主星の元素構成を導出したり、祭りの跡に漂う香の薫とか踏み潰されたスイカの皮の数を書き留めて賑わいぶりを想像するような役回りが似合っている。粗大ゴミの日に捨てられたガラクタを拾い集めて再構築して使える何かを作ってみるほうが楽しい。例えそれが自分にしか通用しない面白さであってもだ。
うーむ。発行直前はやめてぇと言いたいところだが、天川村は外せないのだよな。しかも1日で終わるわけがないという。このタイミングで参加募集・泊まり込み調査をするつもりだったのだが、果たしてどうなるか。果たしてどうするか。
つか13日は木曜日じゃん。絡めるの不可能じゃん。といま気づいた。
多分iOSも同様。画像やwebを見ながらその内容をメモすることができない。ビューア・ブラウザとエディタもしくはメモアプリが同じ画面に出せたらどれだけ捗ることか。仕組み的に不可能なんだろうけど。。。
奈良県立図書情報館蔵公文書「架空鉄索道台帳」(http://opacsvr02.library.pref.nara.jp/mylimedio/dl/page.do?bookid=100289410&tocid=0&page=4&pageseq=4)より。
名称
- 洞川電気索道株式会社
- 願人住所・氏名
- 奈良県下市町 発起人 永田藤兵衛外廿四名
- (現)洞川電気索道株式会社 社長 永田藤兵衛
- 起終点及経過地
- 本 起点 吉野郡天川村大字洞川 終点 吉野郡下市町大字下市
- (廃止)支線 起点 現道停車場 黒滝村笠木駅 終点 吉野郡宗桧村大字西日裏
- 延長線 起点 現道終点 下市町ヨリ 終点 吉野鉄道下市口駅迄
- 経過地 天川村中越、川合、宗桧村勢井、黒滝村笠木、桂原、丹生、長瀬、秋野村□□,□,下市町善城
- 出願年月日
- 本 大正元年十月四日
- 支 大正五年六月十二日
- 延 大正六年三月二十九日
- 資本金
- 弐拾壱万五千円
- (現)弐拾五万円
- 事業目的
- 一般貨物運搬
- 原動力
- 電気
- 延長
- 本 十二哩十三鎖
- 延 七千七百七尺
- 支 二哩八二
- 幅員
- 一分間速力三〇〇尺(本延)一分間二〇〇尺(支)
- □□索條 四分ノ三吋(本延) 二吋八分ノ三(支)
- 許可又は処分年月日
- (本)大正元年十二月二十一日許可
- (支)大正五年七月二十八日許可
- (延)大正六年四月十三日許可
- 備考
- 本 大正三年一月二十五日 工事着手
- 〃 四年二月十一日 検査申請
- 〃 四年二月十一日 全線竣成
- 〃 四年二月十二日 事業開始
- 支 大正五年十月一日 工事着手
- 〃 六年二月十八日 検査申請
- 〃 〃 三月二十日 竣成
- 〃 〃 三月二十二日 開始
- 延 大正六年七月三日 工事着手
- 〃 〃 十一月二十八日 検査申請
- 〃 〃 十二月二十二日 竣成
- 〃 〃 〃 開始許可
- 会社存(立期限?) 三十ヶ年
- 大正元年十月四日
- 架空鉄索道□□(申請?)書提出
- 大正元年十二月十九日
- 発起人追加
- 大正元年十二月二十一日
- 索道架設許可
- 大正弐年一月八日
- 会社成立届出
- 大正弐年四月五日
- 工事着手延期願書提出
- 大正弐年六月十八日
- 索道工事着手認可
- 大正弐年十二月二十七日
- 工事着手認可
- 大正三年十一月十四日
- 認可申請書一部変更許可申請
- 大正四年二月十一日
- 検査申請
- 大正四年二月十二日
- 完成、事業開始
- 支 大正五年六月十二日
- 索道支線架設出願
- 大正五年七月二十八日
- 許可
- 大正六年二月十八日
- 竣成検査申請
- 大正六年三月二十二日
- 事業開始許可
- 延 大正六年三月二十九日
- 延長線架設出願
- 大正四年四月十七日
- 工事認可申請
- 大正四年六月十六日
- 認可
- 大正六年七月五日
- 工事着手
- 大正六年十一月二十八日
- 検査申請
- 大正六年十二月二十一日
- 許可
- 大正八年二月五日
- 軌道敷設出願 起点 吉野郡天川村川合、宗桧村、黒滝村、秋野村ヲ経テ下市町ニ至ル
- 大正八年七月十二日
- 申請書通達
- 大正八年十一月二十一日
- 支線(川股線)廃止
※軌道は大正十年に認可が降りたが一度失効し再提出された。下市〜洞川間は大峯登山電気鉄道と共願になり、同社が成立すれば峯鉄が電索を買収したうえで軌道敷設する計画だった?(天川村史p.283、公文書『大峯電気鉄道一件』を要確認。電索の再申請が通ればそこから買い取る計画だったか。しかし免許が不許可となったため立ち消え)。天川丹生街道の全通は大正3年。索道の優位性は当初から揺らいでいて、早くから軌道への転換を狙っていたようだ。
※虻峠の開通は昭和6年。昭和9年に撤去。
※支線は川股鉱山への連絡線。工事申請は延長線のほうが早いが、それよりも先に川股線のほうが開通している。
吉野郡史料も参照のこと。永田藤兵衛は吉野銀行頭取。
※1/4t積みの玉村式単線索道(玉村工務所架設)。次いで坂下索道(尾鷲索道)、北山索道。
会議の最後で財政問題が取り上げられた。かなり逼迫していると。原因はいろいろある。今年から学会誌の印刷を業者に丸々委託したこと(以前は製本だけお願いしていたが、手間が掛かりすぎるので全委託とした)、幹事会の会場費がかかるようになったこと(一回数千円なので年間万単位になる)、大会で講師謝礼が発生したりしたこと等々が重なって、とのことだった。サイトの維持費も地味にのしかかっている模様。
もともとうちは寄り合い所帯の小さな学会なので、あれやこれやを手弁当で済ませている。見学会の前には必ず下見に行かれているのだが、その費用は見学会担当の先生が被っているし、幹事会の出席にかかる電車代、資料印刷代、その他裏方作業はみな持ち出しだったりする。 人件費など二の次三の次な話だ。 個々にかかる¥はそれほどでないにせよ、積もり積もって結構な負担になっているのではないか。
何十万も不足するわけではないのだが、足を出さないようにすべきなことは言うまでもないことで、これまでも様々涙ぐましい努力が続けられてきた。レターの発行を隔月にしたりだとか、学会誌を高めの値段設定にしているとか。その上でさらに歳入を増やさなければならないとなった時、意外と途がないことを思い知らされて、途方に暮れている。会費を値上げするのもどうかと思うし(そもそも年間3000えんなんて破格の安さだと思うのだが、参加しやすさ継続のしやすさを犠牲にするわけにはいかない。ただでさえ人数が少ないのだから)。
ほかに削減できる経費といえば、学会のサーバ・ドメインの移管か。例えばxxxx辺りに移せば年間ん万円浮かすことができ、以前に一度相談したことがあるような気もするが、確か法人契約でなければならないという制約があり(以前個人契約でちょっとした失敗があったため)、それがネックになっている。法人契約できるところはどこも同じような出費になるとのことだった。正直なところ今のサーバがよいとは決して思えない。いまどき数十MBしか使えず、cgiがcgi-bin以下でしか動かせないのは時代錯誤も甚だしい。そこは費用対効果を取って個人契約で安いところに移した方がいいのではないだろうか・・・・・・。そうしたらもうちょっと使い手のあるサイトにできるだろうし、しようという気力も沸くんじゃないかしらん。管理者がこんなことを言ったら怒られるかも知れないが。
この問題は、残念ながら会員を増やしたら解決するものでもないらしい。会員増だけで解決しようとすると、たぶん2倍以上に増やさないといけない。会員が増えればその分作業の手間が増え、担当の先生の手を煩わせることにもなる。大学が独立行政法人化してより先生の忙しさは二倍増三倍増している。手の空いている自分ができればいいのだろうけれども、印刷だとか封だとか、印刷会社のツテだとかは大学の先生でなければ勤まらないだろうことは容易く想像される。
収入の悩みはORJにも通じるところがある。貧しいからといって一号価格をあげると買ってくれる人が減る(安いから読んでもらっているという側面が大きいと理解している)。よほどのことがない限り値上げできない。かといって貧困を抜本解決できるような臨時収入の途はないに等しい。アイテムやバックナンバーCDなんて利潤度外視・赤が出なければ恩の字で売っているのだ。ちゃんとした企業なら、値上げでどれだけ収入が増え、どれだけ部数が減るか、リサーチで計ることができるのだろうが、現状では読み間違えない自信などこれっぽっちもないのである。
「廃道本」が出、「廃道をゆく」がすでに4弾を重ねた現段階で今さら何を言うかと思われるに違いないが、廃道の入門書があるべきじゃないか?と思う。廃道の何が面白いのか、歩くことでどういうご利益があるのか、どのように歩き、調べたらいいのかを、懇切丁寧に説く内容の。 自分の食い扶持云々は脇に置いておき。
廃道探索はただの趣味で終わらせるには惜しい深みがあると信じている。廃道の面白さをもっと広めたいと思う。これまでは廃道=面白いという前提のもとで突っ走ってきた。多少興味を持っている人の刺激になればor深く楽しんでいる人の役に立てればと思って書いてきた。けれども、面白いと思っている人ばかり集まって面白がっているだけでは先が見えている。非効率でもある。外野が囃し立てることは簡単だが、グラウンドに乱入し、代わってプレーすることはできない。それを望んでいる観客もいまい。
廃道に興味を持つ集団がいることが 全国津々浦々に伝わり理解を示されるくらいにはなってほしい(未だに根に持っているわけではないが、こういう反応がなくなることを目標にしている)。そのなかから自分の地域の道に興味を持って調べてくれる人が次々と輩出されて、自分達の出番がなくなるくらいになってほしいと思う。その結果として地方のよさが見直され、活気が出ればなおいい。 一過性の名物だとかポッと出のユルキャラが一時の話題を提供して、数年後には元通り以下になるよりは、地元の方々が自分達の来し方を再認識し、それを誇りに思えるようになることのほうが、なんぼか有益なんじゃないだろうか。林鉄では早やその風が吹き始めている(ex. 木曽林鉄、魚梁瀬林鉄、上川町ほか北海道の森林鉄道)。そうなるための小さな小さな積み石のひとつとして、廃道に興味を持ってくれる層を増やすべくの入門書があらまほしく思う。
廃線本がいくらでも存在するのは鉄道趣味を根城にすることができるからではないか。 潜在的なパイの大きさに加え、どうやって探ればよいか、どこに何があるかが明確で、掘り下げの方向もある程度固まっている。哀愁を誘って万事な部分もある。廃道で同じことをしようとすると上手くいかない気がする。自分は行っておいて「危険なので真似しないでね」では通用しない。それこそ特異性稀少性の自慢に過ぎないではないか。
パイの大きさ・利用者の多さでいえば道のほうが大きいはずで、しかし改めて道のことを考えてみようという人は少なく、その機会もなかなかないのがネックになっている。そこに「酷道」「険道」というキッチュなワードを突っ込んで拡げたからこそ「酷道をゆく」は売れたのだと思う。誰もが取りつきやすい島があり甘い水が用意されていて、だから蛍は寄り来たってさらなる仲間を呼んだ。廃道はそこからさらにもう一手間かけなければならないから辛い。川にカワニナを放流するところから始めなければならないようなものだ。だから、「道」「歴史」よりも「冒険」「探検」の方面から切り込んだほうが手っ取り早いし、受けもいいのに違いない。好奇心充足は誰もが潜在的に持っている欲求だからな。
踏査の重要性。資料調査の重要性。聞き取りの重要性。道と歴史の関連を読み解く面白さがあり、それが近代史の穴を埋めることになる。はずなのだ。ということを全面に出すと「ヒかれる」こと必至なので、そこはオブラートに包む必要がある。
慣れないことを書くからブラウザが落ちて[読]柳田国男全集16家閑談が消えてしまった。まあいいや。「恋愛と文学」の未来にいまの恋愛至上主義的歌謡曲があることを考えるといとおかし、ということを書きたかっただけ。というよりも適当に手を動かして疲れて寝たいだけだ。
歌を交わすことが男女の仲を取り持った昔から、小説の題材として美な恋奇異な恋が取り上げられ、それを手本として生きるようになって、恋愛そのものが変化した。恋愛の情を他人に求めるようになったというか (という内容だったかどうかは覚束ない) 。でも家の存続とか労働力確保とかいうより大きな目的にドリブンされた時代はとても長く続き、今のような「二人さえ良ければ」なのは比較的新しく短い世相である。なぜなのか。どのへんで変わったのか。考えてみるといろいろ不思議。社会制度の充実で孤独で死んでもまあ何とかなるようになったからだとか、子が健康に育つ確率が格段に高くなったからだとか、神や霊魂への信仰心が薄らいできたからだとか、いろいろあるだろうとは思うけれども。
うーん。言いたいことがいまいち不分明。恋愛に要求されたセンス(例えば歌を交わすのような)は昔のほうがはるかに高レベルで、かつ外部からの干渉も大きかったはずなのだが、そんな時代が長々と続き、より障害が少なくなり敷居が低くなったはずの今日のほうが、幸せな恋愛や婚姻が少ない気がする。出会いや恋愛が甘美なものともてはやされる今日のほうが。婚恋愛姻須く幸福たるべしと考えるのが幻想であり間違いなのかも知れぬ。
N先生の聞き取られた場所は "基礎"跡だとのことだ。ということはやはり支柱が建っていた場所と考えるべきで、ということはあれが電索笠木駅だと考えるべきなんだろうと思う。 違うかも知れない。あれは大峰索道の駅なのではないか。黒木辻特別支柱の方角とアレが一致している。洞電軌道の申請書を要確認の助。
ずっと書くタイミングを失していたが、この頃の駅はたんなる経由地の一つではなく、そこで索道が途切れていたというか、2つの索がそこで接していたというか、そういう構造だった。索道の1ループは直線でしか架けられなかった。ラインが大きく屈曲する場所に駅を設けて、そこで一方から一方へ積み替える必要があった(屈曲装置が発明される大正末頃までは)。なので駅の基礎は大規模で、場合によっては動力源を据え付けた基礎も残る。そうでなかったとしてもアンカーとか緊張装置だとかを設置するスペースが要った。後に川股線が接続し、都合3線の接合点となったからには特に大きかっただろうと思う。しかしながら駅構内での取り回しをどうしたのかはよくわからない。基礎の上にどのような構造物が載っていたのか、わかるのは大和索道樫辻駅くらいなもので、それも若干役足らずなところがある。その頃の索道の専門書をよく読んで勉強しろってことだ。
メジャー忘れたのが致命傷! わからんちんどはとっちめちんや。
たった1年の違いで地形図山上ヶ岳に掲載されなかったせいでこんなにも頭を悩まさせられている。そうして誰もが忘れている。そんなに要らない子であったのか。大峰索道は仕方ないにしても、電索くらいは誰か何とかしてほしい。余りに不憫だ。
売れているもの・名の知れたものが即ち正義ではないのだよ(ねえプラズマクラスター)。だからといって正義なら売れるわけではないことも肝に命じておくこと。成り立つのは「正義でないものは売れない・無名で終わる」という対隅だけだ。
あっ、これいいな。自慰カテゴリでも作ろうかしらん。コードに引っ掛かるならmassでもGでもいい。という時に限って作りゃせんのだよ。ザ・口だけ太郎。
立ち上がってWindows機に火を入れ電索軌道の件確認することさえ面倒い午前6時。さっさと寝るかどうにかしろって。ほらもう窓の外は瑠璃色に色づき始めているぞnagajis。貴重な11月29日が始まろうとしていて、それを浪費する気満々なところに原罪がある。あ、やべ、11月は30日までや・・・。
契約書
今般洞川電気索道株式会社取締役社長永田藤兵衛を甲とし大峰登山電気鉄道株式会社設立発起人惣代高橋太郎兵衛喜多長左衛門亀谷寅吉を乙とし軌道特許に関する左の事項を契約す
一、甲は乙に対し甲の既に特許を得たる奈良県吉野郡天川村大字川合より同県同郡下市町大字下市に至る間に於ける軌道特許に関し乙の経営出願に同意し乙が特許を得たる場合は速かに乙は甲に対し甲の要したる経費の内金として金五百円を提供するものとす
二、乙は大峰登山電気鉄道株式会社設立の場合は第一項の甲の経費残額金壱千円也を甲に提供するものとす
三、乙の会社が設立を為したる上は乙は甲の希望により甲の経営せる会社事業の一切を相当の価格を以て買収するの義務あるものとす
四、乙は甲の本社所在地付近に乙の停留所を設置するの義務あるものとす
右契約を証する為め本書二通を作成し各其一通を分有す
大正拾壱年七月八日
その後大峰登山電気鉄道の設立が不透明になり、洞電自ら軌道を敷設しようとするも、計画変更の必要があって着手に至らず、2度延期申請を出した末に最終期限の大正14年3月31日を過ぎ、5月2日に免許失効。
答申
六月十五日土第四四八〇号を以て軌道命令書一部変更に関する件に付御照会の趣謹承右は大峰登山電気鉄道に権利譲渡の契約有之に付其理由回報方御指示の処予め上申致置候如く大峰登山電気鉄道と当社間の契約は別紙謄本の如く同社特許出願に同意したる点にして未だ全然権利を譲渡したるものには無之同社設立の上幸いに合議協定成立を為したる上は当社へ特許されたる軌道敷設工事は自然着手するに至らざるも未だ大峰登山電気鉄道は会社の設立を為さざるのみならず何等事業の進捗せるを聞知せず若し不幸にして会社の不成立を見るが如き場合ありとせば当社に於ては進んで是れが軌道工事着手致度随て工事施工期限の延期をせし次第に有之候儀に付何卒特に御詮議の上延期御許可被成下候様御取計被成下度此段及答申候也
大正十二年六月十九日
奈良県吉野郡下市町大字下市
洞川電気索道株式会社
取締役社長 永田藤兵衛
奈良県
御中
調査意見
一 起業の成業の見込みあるや否や
本線は起業目論見書記載の如く吉野地方貨物輸送の必要より生まれたるものなるを以て必ずや成業の見込確実なりと認む、抑本線沿道区間はいわゆる吉野山林にして木材の搬出非常に夥しく珠に近年木材需要の激増に伴い従て価格の好調と相俟て製材製板等此の種事業の計画頻に起り生産頓に増加して同地方現今の輸送能力に於て問うて之が輸送し堪え得ざる状態にあり殊に本線起点天ノ川の地たるや、吉野山林の殆中央部に位置し既設洞川索道の経過地として且は県費支弁里道丹生天川街道の起点の地として木材其他物貨輻輳し近年著しく開発の域に在り尚地勢上東武吉野地方に通ずる能わざる西部地方に対しては所謂天ノ川の水運の便に拠りて大塔、十津川の各村に通ずるを得加之目下沿岸道路改修の計画を樹て逐次実施せられつつありて近き将来に於て前記各村と車馬相通じ以て大和索道(大塔村大字阪本終点)及西熊野街道(町村組合に依り改修しつつあるもの)と容易に連絡し得る見込なるを以て将来吉野産地交通の中心地として其の前途や頗る有望にして益発展の盛況を出現するの日蓋し遠からざるを信ず况んやこの地方は千古斧(斤)を加えざる欝蒼たる森林重畳起伏し木材無盡の宝庫を控ゆるに於てをや故に本線輸送の目的たる木材の搬出は決して一時的の現象に止まらず亦殆ど永久不滅のものとして其の将来を予期する決して過当にあらざるを以て従て本線出願の如く永久計画として毫も蹉跌なしと認む
二、沿道町村に及ぼすべき影響
本線起点は天ノ川村に起り宗檜、黒滝、丹生、秋野各村を経て下市町に達するものにして是等沿道各町村内に於ける貨物輸送上の便益は勿論殊に中間経過地丹生村大字長谷地方は従来黒滝川の水運に拠り宇智郡五條町方面と連絡し居れるを以て本線の開通は前記交通運輸と相連繋し同地方の受くる便益甚だ大なりと認む
三、既成鉄道に及ぼすべき影響
本線区間内に既成鉄道の営業せるものなきを以て影響する所なし
四、既設鉄道に対し横過方法協議済なるや否や
前項の如く既設鉄道なきを以て横過のヶ所なし
五、願人信用資産
出願者洞川電気索道株式会社は資本金弐拾五万円にして大正元年の創設に繋り営業成績常に佳良なり殊に重役は地方一流の資産家のみにして本線建設費の増資等毫も苦痛なきものと認む
六、願書に押捺せる印影正確なり
七、公共道路上に敷設し得ざる理由
本線に並行して此の地方交通運輸の衝にある県費支弁里道丹生天川街道は近年の改修に繋り地勢上概ね急峻なる山地を開鑿せるものなるを以て勾配急にして加うるに路幅拡築の余地なき所鮮からず故に若し本線を併用せんとする場合は為に非常なる設備と工費とを要し尚且共用の目的を充分に達し能わざるのみならず今後道路維持に及ぼす影響甚しきを以て寧ろ道路の併用を避け主要道路と相接近して新設軌道を繋設せしむるを可なりと認む是れ却て経済的敷設の意に叶い而も有効に之が目的を達成し得るものと認む
奈良県、超太鼓判。実際に出来ていたらまた違った天川村になっていたかも知れぬ。長殿も捗ったんじゃ中廊下。
壱箇年間搬出すべき予想数量価格
一、搬出総数量 四百八拾万貫匁
内訳
栂樅雑木板 弐百参拾五万貫匁
同 丸太 弐百拾万貫匁
其他雑種 参拾五万貫匁
一、総価格概算 八拾三万五千円也
現在索道に依り運搬せる予想数量及価格
種類別
板類 百八拾万貫匁
丸太類 拾壱万貫匁
樽丸類 拾四万貫匁
木皮類 拾六万貫匁
薪炭類 拾九万弐千貫匁
其他木材類 弐拾五万壱千五百廿四貫匁
米雑穀其他雑貨 四拾四万九千百参拾参貫匁
合計 弐百九拾九万弐千六百五拾七貫匁
価格概算 弐百五拾万円
軌道敷設御願
弊社は架空鉄索条を架設し貨物運輸営業致し居り候処沿道地方の貨物倍増加し現在の索条一線を以て之が全部の運搬をなす能わず運輸機関のの設備に伴うて大に開発しつつある地方財源も徒に埋蔵するの止むなき状態に立ち至り斯くては地方及企業者の為め甚だ寒心に耐ざる次第なるを以て今般更に天川村大字川合を起点とし宗桧村黒滝村秋野村を経て下市町に至る弐拾弐哩間に軌道を敷設し専ら一般貨物の運搬致し仍て別紙企業目論見書、工事方法書並工事費概算書、図面及事業上の収支予算書相添提出候間右敷設之儀御許可被成降度此段奉願候也
大正八年二月五日
奈良県吉野郡下市町下市千八百四拾番地
洞川電気索道株式会社
取締役社長 永田藤兵衛
内務大臣床次竹二郎殿
そっか。以前やった大峯電気鉄道と洞電買収しようとした大峯登山電気鉄道は別物なんだな。大峯電気鉄道、山上軽便鉄道、大峯登山電気鉄道、洞川電索軌道、高野大峰電気鉄道と5本も計画があったことになる。どれひとつモノになってないのが不憫。この中で免許を得たのは人馬車軌道の洞電軌道のみという。
あと、天川村史の「T10に一度免許失効」ってのは間違いのはず。T8出願、T10に得た免許を最後までホールドし続けていた。大峰登山電気鉄道が会社設立したら軌道敷設権とともに事業を譲渡する約束だったが、当の会社が設立されず、工事も一向に進まなかったため、業を煮やした洞電が自力開削しようとして工事許可申請延期を申請したのだ。
「日本近代の架空索道」よりスペック。
日本鋼管株式会社 大峰鉱業所索道総距離: 22.07 km
T7開通
和歌山線吉野口駅-天川村大峰鉱業所(観音寺山)23.8km
安全索道式(ロー式) 8.8t/h
一般の貨物を受託輸送
安全索道式(ロー式)単線自動循環式索道
23.63km,3区間,4停留場,高低差役700m,最大高低差820m,搬器の積載量150kg,運転速度1.8m/s,間隔64秒ごと,下り荷8.8t/h,上り若干の雑貨
支柱数133基,動力合計150HP,搬器数420台,索条直径22mm
安全索道の受注:T6.4.24.開通T7.12.頃?(この頃鉱業所開設)
「架空鉄索道台帳」より。
- 名称
- 日本鋼管株式会社大峯索道
- 願人住所
- 神奈川県橘樹郡但馬村大字渡田字若尾新田2730番地
- 氏名
- 日本鋼管株式会社
- 起終点
- 起点 奈良県吉野郡天川村大字洞川
- 終点 同南葛城郡葛村(院線吉野口駅)
- 経過地
- 奈良県吉野郡天川村大字洞川、長瀬、下市町大字阿知賀、南葛城郡葛村
- 出願年月日
- 大正八年八月八日
- 資本金
- -
- 事業目的
- 十尺を超える長丸太材、知事の許可を予め協約せる木材及其加工品、日常生活の食料品及薪炭、其他洞川索道会社と協議を経たる場合前各号以外の貨物の運輸
- 原動力
- 吸入瓦斯発動機 七十馬力
- 延長
- 拾四哩八分
- 幅員
- ラングスレー中心麻入七条六束坩堝鋼製、直径八分ノ七吋、周囲二吋四分の三、最大抗張力二十六噸半
- 許可又は処分の年月日
- 大正九年一月二十四日許可
- 営業区域
- 吉野郡天川村大字洞川及南葛城郡葛村院線吉野口駅間
貨物積卸停車場 洞川(索道起点)虻峠(現在洞川屈曲停車場)阿知賀、吉野口ノ四駅処理順序
- 大正九年一月二十四日
- 貨物運搬営業許可
- 大正九年八月三日
- 貨物輸送計画の件許可
- 同日
- 大正九年一月二十四日下付の命令書第一条を変更し貨物積卸停車場を洞川(索道起点)虻峠(現在洞川屈曲停車場)阿知賀吉野口の四駅に変更
- 同日
- 大阪荷箱材料株式会社貨物運輸の件認可
- 大正九年八月二十一日
- 大正九年五月十八日福井県丹生郡吉川村熊田佐々木九郎長原(?)と締結したる運搬貨物に限り大正九年九月二十五日迄黒木辻駅より運搬の件承認
- 大正九年九月二十二日
- 黒木辻駅貨物運搬廃止の件申出
- 大正十四年六月二十九日
- 黒木辻駅、深谷駅に限り貨物運搬取扱許可
ながれ:T4洞電開通→T5洞電川股線開通→T6洞電下淵延伸→T7大峯索道が鉱山索道として開通→鉱山不振→T8洞電の軌道申請→T9大峯索道の貨物取扱申請(と大阪荷箱索道)。洞電と協議して扱う荷物を限り共存を図っていたことがわかる。黒木辻、深谷駅は一時的なものと思われ。
「日本近代の架空索道」
大阪荷箱材料索道
総距離: 5.67 km
T9
大阪荷箱材料株式会社
天川村知内双門滝-沢原間 原木輸送 安全索道商会 単線自動循環式索道 6.75km 225kg積み搬器100台 運転速度1.8m/s 間隔107秒ごと,5t/h,支柱数56基,動力50HP,索道直径22mm
沢原に製材所,製板を行なう 川合の北方にあった日本鋼管大峰鉱業所索道の屈曲停留場から荷役を委託して吉野口駅に送る P189
「架空鉄索道台帳」
- 名称
- 大阪荷箱材料株式会社専用索道
- 願人住所
- 大阪市西区幸町通四丁目十六番地
- 氏名
- 大阪荷箱材料株式会社
- 起終点及経過地
- 起点 吉野郡天川村大字中越字河原小屋
- 終点 同郡同村大字中越字槻の山
- 出願年月日
- 大正九年五月六日
- 建設費
- 十八万七千三十三円七十銭
- 事業目的
- 会社伐採の材木及日用品運搬の為
- 原動力
- 五十馬力 蒸気機関
- 延長
- 五哩六分
- 幅員
- 東京索綱株式会社の改良特許鋼 七線六束中心麻入ラング線 八分の七吋 周囲二吋四分の三 耐張力十五噸五
- 許可又は処分年月日
- 大正九年六月九日許可
- 備考
- 運搬貨物は出願計画に依る規定木材並自家用品に限る
処理順序
- 大正九年五月六日
- 架設申請
- 大正九年六月九日
- 許可
- 大正十年三月十八日
- 索道架設工事着手期限大正十年六月三十日迄延期の件許可
- 大正十年三月二十四日
- 計画変更の件認可
- 大正十年五月二十五日
- 工事着手届出
- 大正十年十一月二十日
- 工事竣成
- 大正十年十二月十二日
- 運輸開始許可
川合の北方ってどこやねん。それが大峯索道の洞川屈曲停車場のはずだが沢原に製材所ってのと合わない。深谷駅か。安全索道のパンフレットでは大阪荷箱索道と大峯索道が直結してたような書き方をしている。
今年も健在。
_ 渡辺 [どなたが修正したのかわかりませぬが、また違ってますよ>wikiの生誕日。私は修正の仕方がわかりません。]
_ 永冨 [それ、私がやりました!(嘘情報を拡散するnagajis]