nagajisの日不定記。
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訪問者の迷惑など考えずに貼っつける(つーか自分も見れない。ブラウザの表示倍率を変えて何とか全貌が分かる程度)。どうしてもこうなるよな。長尾山第二隧道前柵なんかこの三倍幅が要る。
何とも馬鹿なことを始めたものである。そして馬鹿にのめり込んでいる。せんだってなどは仕事上がりの足で夜の武田尾第2柵へ向かった。雨のそぼ降る真っ暗闇の中、レールの数を数え、銘を読み、§切りをやり直して、都合三度目の訪問にしてやっと銘整理が完了した。終わったのは夜中の十時半であった。手ぬぐいを失くすという代償まで払った。全く馬鹿な仕業である。
そこまで頑張ってみたところで誰も褒めちゃあくれないのである。世が求めている仕事でもないのである。そうじゃない。褒められも役立ちもしないことだとわかっているからこそ、なのだ。自分自身がこの柵を完全把握したいのだ。単にDARLINGTON 70見つけたと言いたいだけならそうすれば済む。どの柵にあれとこれとそれがあると言えば済む。しかしそれじゃあそれだけでお終いになる気がする。ふーん、あそこにあるんかい、で終わってしまう気がする。異国の地でチビるまでこき使われたうえに本来用途でない用途に回されその格好で百年以上放置されてきた彼らなのだ、もうちょっと注目してあげないと可哀想じゃないか。少なくともその存在に気づいてしまった本人くらいは。
先日福知山線へ行った時、探索中に缶コーヒーを飲んで、あとで回収して帰るつもりでガードレールの上に置いていった。30分ほどして戻ってきたら、その上にデカビタCの空き缶が載せてあった。誰か別の人間が捨てていった缶だ。全くもって典型的な割れ窓理論の発現で心底呆れたことだった。ゴミが捨ててある場所ならゴミを捨ててもいいと考える幼稚で浅墓な思想は唾棄すべきである。実行者は恥じて顔を洗って出直してきて右斜め後ろの隠しカメラに向かって尻振り百回してもらいたい。その上で同じことを繰り返してもらいたい。
2003年の長旅で茨川の我がテントの前にゴミを置いて去っていったRVを思い出さずにはいられない(言っておくが未だに根に持っている)。まあ最初に置いたのは自分だし、別にそれに「あとで回収するから一寸置かせてチョーダイ」と張り紙をしていたわけでもないからな。同罪だ。
7の次がはっきりしなくて撮ってあったものだが、あとで見なおした時にCO LIMDでもCO LIMTDでもないことに気づいた。どう読んでもCO LD。そうして7の次は「7」っぽい。即ち1877製。同じレールの別部位にも77に見える痕跡があった。
Tさんにいただいた資料を見ていたら、三越からもCO LD 77 が見つかっているとのことだった。superscriptなのも一緒。鮮明な先行事例があることの有り難さを噛みしめる今日このごろである。
年代だけで判断すると京都~大津間あたりに使われたということになるのだが、だとすると1890のCAMMELLはなんなんだということになる。構内側線を追加するとか傷んだ個所を補修するためとかで追加で買ったのがあったのかも知れない。魚梁瀬林鉄だって久木越えの最急勾配区間に使われていたレールは数ヶ月でダメになったと聞いている。大阪~大津間にそこまで急な区間はなかったはずだしひっくり返すという手もあるのだけれども柔らかい錬鉄製だとどうだったろうかだし曲げちゃったやつはひっくり返すの大変だろうし。うん、わからんことだらけである。
9日晩から12日晩迄外出していたせいでその後を突っ走らなければならなかった。しかも8日は福知山線へ行ってまる一日。その前の日曜日も福知山線。ついでに雨中捜索もしたはず。頑張ったほうだと思うのだ。うん。
今回の旅行後は珍しく[きたく]を書かなかった。余りに充実した旅だったものだからその必要を感じなかったのだ。撮ってきた写真を見直すこともほとんどしていない。書いたり写真を見返したりすることが却って旅の思い出を薄めてしまうような気がしてならなかったのだ。見返すものがなかったんじゃない。見返す必要を感じないほど濃密な時間を過ごし充実の経験をしたと感じている。珍しいことだと思う。
一連のシーケンスから数枚を取り出して掲げることは可能だろうが状況説明が追いつかないようにも思った。無理に掲げれば廃道ポルノにしかならぬ。なので止めておく。そうして忘れて後で困るのは自分なのである。
片付けなければならないことがいっぱいだ。言いたいこともいっぱいだ。しかし書く時間がない。まとめ方もむずかしい。いやそんなこともないか、すべての行動のままに起承転結と成果があっただろ。書く手間惜しむな。流れを忘れるな。だからずっと反芻し続けている。
とか何とかいいながら今日はOさんに頂いたレール断面図を使ってゲージを作成してみたりなどした。福知山線で使うことになるのはおそらく半分もないと思われるのだけれども&同じポンド数の番号違いがドウ違うのかよくわからないまま作ってみたのだけれども、自らの手で型抜きしてゲージを作って実際にフィットさせてみていくうちにわかってくるだろうとも思う。そういや銘を調べるばかりでレールの規格については一切考えてなかったな。断面番号が書いてあればいいのだけれどない場合はどうすんのっちゅう話。だから断面ゲージが必要なのだな。きっと。まあ最初っから完全は望まないほうが身のためだ。こんなんありました、で掲げてツッコミ待ちでいいのではないか。
煉瓦刻印もレールのブランディングも同じ刻印なんだなあと今更のように気づいてみたり、同じ刻印でも厳格性?重み?刻印の一意性?にずいぶんな違いがあるなあと思ってみたりしている。煉瓦刻印を探して歩き回り、珍しいのに遭遇すると妙に嬉しくなってしまったり来歴に思いを馳せたくなったりする。モノから何かを読み取ること、が共根的に好きなのだろう。そしてちゃらんぽらんな私はやはり煉瓦のほうが性に合っている。
8日に福知山線へ行った時、倒れていた電信柱の足掛け出っ張りに太腿をしたたか打ち付けて悶絶した。
電信柱が倒れてそこに在ることは意識のうちにあったのだけれども、それと垂直に突起が伸びていることには露も思い至らず、その倒れた電信柱に沿って歩けば楽だろうという認識の元で全体重をかけて移動した刹那に太腿を強打したのだった。激痛を覚えた瞬間は何が起こったのかさっぱりわからなかったが、臓腑が底から迫り上がってくるような嘔吐感と「血の気の引いた顔」と云うレトリックを当事者視点で確認るよの顔面のさむさ、続いて流れる脂汗。右足をダメにしたあの瞬間の状況とそっくりで、それで「まずいことをした」と気づき、しかしそうやって気づいた時には既に時お寿司、しかも翌日の晩には夜行バスに乗って安芸へ行かねばならないと云う現状把握がさらに血潮を引かせるのであった。
現場から歩いて道場駅へ向かう分には全く差し支えなかったのだが、膝を180度曲げで座るとか、なるほど合点と膝を打ったりしようものなら悶絶してひっくり返ってしまうような状況。裸になって見てみればそこだけうっすら青くなっていたりもした(思っていたほど酷くはなかったが)。なるほど内出血して血液流通量が減少下から血の気が引いたのだな脂汗も出たのだなと納得してみたりもした。
偶々持ち合わせていた強力湿布薬を貼り続け、翌日昼間も何度か張替え、さらに塗り薬タイプのものを塗りたくったりもして無理やり収めて出発した。ザックにも湿布薬を入れていった。そんな準備が功を奏したのか現地に着いて安芸市街を散策している頃には立ったり座ったりに違和を感じることもなくなり、剰え旧県道の金網潜りデスマッチまでこなしたのだ。翌日本丸に行った時には打撲したことさえ忘れていた始末。
あれから一週間が経過したが打撲個所は今でも触れれば少し疼く。内出血部は直後よりも更に黒くなって、そのかわり表皮は何故か黄んなくなっている。右足の時も確かこんなだったような気がする。それにしても打撲が左太腿で良かった。もし右太腿だったらおればかり不公平だといってストライキを起こされていたかも知れぬ。そも右足は足首の打撲をかばって歩いたせいで膝も痛めやすくなっておるのだ(昨年冬のジョギングの時みたいに)。これ以上右ばっかり苦労させたら右足に謀反を起こされ夜中に後ろから刺されるかも知れずおちおち夜道も歩けない。しかもその刺客は四六の24時間ずっと我が身のそばにいて行く先々までついて回るのだ。恐ろしいことである。
今日はTさんのお誘いで大津で見つかった中川煉瓦の刻印と思われるものを拝見しに行った。これについては後日詳報するとして、その後単独行動で歩いた時にもなかなかな収穫があったから、そちらのことを書き残しておくことにする。
まず、大津市街の廃町家の一角で初見の煉瓦刻印に遭遇した。大ぶりの○に「甲二」「甲六」とあるもので---写真は後者、「甲」の字に粘土が被って読みにくくなっている---、地理的に蹴上の○印を彷彿とさせた。厚75mmを超える分厚さも特徴的で、随分古いもののように思われる。とりあえず確保したというばかりで工場のアテ等はついていないのだが、記録に残っていない初期の工場か、滋賀村にM42前後のわずかな期間だけ存在した楠江煉瓦工場のものかも知れない(あ、これもクなんだな)。
そこから京阪浜大津駅まで歩き、膳所本町へ。あわよくば膳所監獄の煉瓦をと思って訪れたのだけれども、ここでも初見の刻印に出会ったばかりか、焼損煉瓦を使った壁に遭遇したりした。長屋門的なものまで煉瓦で作ってあるという本格的なものである(この門のところと壁の天辺だけ機械成形の製品煉瓦を用い、それ以外は「超」のつく焼損煉瓦が積まれている。どれも相当にゆがんでいるうえ目地の仕上げも雑なのでお世辞にもきれいとは言い難いが、ここまで徹底的に焼損煉瓦を利用しているのはまあ珍しいかも知れない。近江八幡のヴォーリズの壁はどうだったろう?門柱だけとか壁に埋め込みとかだったような気もするな。いや大きな壁も見たっけか)。
この門は南大手門跡より浜側にあって、当初はこれが膳所監獄の?と思っていたのだけれども、そこから南へ進むほどに同類の焼損煉瓦壁の民家を見、思い直して工場表を再確認すれば、なんの事はない江州煉瓦の膳所工場があったのだった。最初に見つけた一壁は天辺に○Gがあったりしたし。この○Gには「18」らしい添え印があったりもして興味深かった。江州煉瓦で添え印があるのは初めて見た。
初見の刻印は小判型の中に「ク二」とあって、おそらく膳所江州の前身の黒川煉瓦工場のものだろうと思う。ひょっとしたら楠江かもしれないが、黒川氏の工場は先に山田村(現草津市)にでき、その後膳所にもできているので、第二工場の意味の「二」なんじゃないかと思った。そこはまあ楠江の内部識別符丁二でもありえるのだけれども。何しろ統計で一度しか出てこなかったし大津では見なかったしな-。山田村の黒川工場は大阪窯業時代を経て江州煉瓦山田工場となった(S4)。膳所の黒川工場はT9頃。いずれも長くは続かなかったがその痕跡はこの通り残っているのだった。
焼損煉瓦を使った壁の中でも横田眼科のそれが上手い。ふくれた平を表に見えるように積んである&似たような膨れ具合のものを揃えてあるのでそこそこ見栄えがする。
そこからさらに東へ。瀬田には大萱田中煉瓦工場があった。明治17年創業とされる工場で(ただし17-42の間ずっとやっていたとは思えず。後述参照)住所も瀬田村大字南大萱とわかっている。
いま現在の地図で「南大萱」を検索すると随分山手のほうを示されてしまうけれども、種々観点から考えてそれはないだろうと思い、探索範囲を駅北方に絞った。その勘は結果的には大正解であった。いまの大字大萱は草津の大萱と区別するために明治7年に南大萱と改名されていたと、大萱会館の前に建っていた標柱が教えてくれた。
細路地が自由闊達に伸び廻る大萱二丁目の一帯から、丘陵の裾の五丁目字浜口まで、かなり仔細に歩き回った。しかしこれといって煉瓦が目立って多かったわけではなく、あっても○Gか無刻印の手整形ばかりだった。17年からずっと作り続けていたらもっと見つかってしかるべきだろう。もう一度原本から見直さなければならないかもしれない。
とはいいながら、日が落ちる寸前のところでようやく刻印煉瓦に遭遇した。しかもこれも未見の一個だ。
一見ただの貝塚煉瓦。しかし井桁の中に「カ」と入っている。貝塚井桁菱に添え印が入っているのは見たことがない。井桁菱にKはあるけど(しかもKもカでありえるのだけれども)。実は逆さまで4なのかも知れないと思ったりもし、讃岐煉瓦を連想しもしたが、違う違う、あれは松葉菱だ。
この煉瓦も厚77~78mm≒2.5寸に達するデカブツ。今日は規格外にばかり縁があるようだ。手整形で質感は古め、似たサイズの煉瓦をそこから駅まで向かう間に2個見たけれども、そちらには刻印は無かったし、同サイズのは結局その3個だけだった。このエリアで優勢なサイズというわけでもないらしい。全く謎である。
総じて、滋賀はまことに江州煉瓦一強という印象。大阪窯業や岸和田煉瓦さえ見ない。いや窯業は一個あったっけ、それと何故かACID PROOFが1つ。大津でも見る煉瓦見る煉瓦機械整形の○Gで見飽きるほどだった。比較的遅くまで操業していたというのが最大要因だろうけれども堺系の煉瓦がここまで侵食し得なかったとは思っていず意外な感じを受けたことだった。逆に言えばこれだけ大量にあることが即ち強力な浸透圧となって京都奈良大阪吹田くんだりまで溢れ出てきていたのだと理解される。堺亡き後の京阪神奈の需要を満たしたのは江州だとか印南郡だとか広島だとか讃岐だとかいった周縁部の煉瓦なのだ。
福知山線の古レールの件、早く片付けてしまいたいのは山々なのだが、日曜日しか入れないラストの一区間が残っているため手がつけられないでいる。そうこうしているうちにTさんから膨大な量の資料を頂いてしまい、それを読み始めたらますます完成が遠のいてしまいそうな塩梅だ。知りたくて知り得なかったアレヤコレヤのマル秘情報が満載で、踏み込んだが最後戻って来れなくなりそうでもある。恐ろしいことである。
そんな資料から得た知識をひとつ。レールには製造者や製造年だけでなく「熔鋼番号(製鋼番号)」と呼ばれる文字列も刻印されている。その会社のどの溶鉱炉で製造したインゴットから作ったのか、そのインゴットを転圧してレールの形にした後裁断するわけだがその裁断の何番目のものなのかがわかるようにしている。ロット番号みたいな役割の文字列である。
福知山線柵はほとんど塗装がなされていないお陰で右写真のような陰刻英数字列を見ることがある。これって何だろうと思っていたら、これが熔鋼番号なのだった。駅舎のレールは分厚いペンキに埋もれて見えないことが多いはず。
熔鋼番号の表記法は会社によって違ったようで、例えば八幡製鉄所なら「M12345」とか「2S291841」とかいうパターン。末尾5桁はその年・その炉の第n番目の製造インゴットから作ったことを示し、頭のアルファベットは製造工場を示す(M:第一工場、S:第二工場、T:第三工場、K:第四工場)。さらに頭に数字がつく場合は第m番目の切断レールである。最初の一本には数字がつかない。1インゴットから大体3本くらいのレールがとれ、熔鋼番号は各レールの先頭から1mくらいのところに押されていたそうである。
写真のレールは「M75784」と読める陰刻があり、それ以外に刻印を確認することができなかった。しかしこの熔鋼番号のお陰で八幡製鉄所第一工場の炉でその年75784番目に製造したインゴットから取られた1本目ということがわかる。面白い。
カーネギーは下3桁がn番目に溶鉱炉から出たことを、頭の1or2文字の数字が溶鉱炉の番号を示す。S15頃には溶鉱炉(平炉)が16基あったので1-16の数字で始まることになるが、3は転炉にあてがわれていて下の数字も4桁であったらしい。末尾にはアルファベットのA〜F、これが第n番目の切断を示す。 (「線路軌範上」p.115-116)
各規格のレールが全国にどれだけ敷設されているか書かれていた資料を見た気がするのだが改めて確認しようと思って探してみたものの見つけられない。56ポンド軌条が田川線だけでなく九州鉄道のあっちやらこっちやらに使われていること(阪鶴は出ていなかった=T以降の資料か?)や、それよりもどこかに60mくらいしか敷設されていない極マイナーな軌条があったこと等書かれていた気がするのだが。ううむ。
Tさんから頂いた資料群の中だったか、それとも国立国会図書館デジタルコレクションの中だったか。毀損軌条之研究には図があるが、それではなくて、文字で書かれてあったように記憶する。横書きだったようにも思う。Tさんの資料は今までに開いた分は全て開いて確認したはずなんだがなぁ。国コレなら「軌条」か「保線」のキーワードで出てくる資料のどれか。ここにURLを貼ったかも知れんのだが更新せずに閉じてしまったようで↑がたった2個しか残ってねえ。くそう。
あ、なんか最初にでっかい円グラフがあった気がするなあ↑の資料。それに続いて個々規格の説明と使用割合が書かれてあったような。ともかくこれは直近で必要になる資料ではないのだけれどもどっか行っちゃったのが非常に気になって仕方ない。
下段URLは戦時中に満鉄のレールをはがして朝鮮に送ったっていう記録。
双頭レールの断面図は鉄道院の物品図に図面があるけど多分あの寸法だけでは図が書けない。実寸断面と高さ幅ウェブ幅のみ数値がある。満鉄は規格の断面図S18「軌条」に。
国コレの日本鉄道だったか関西・参宮だったかの保線資料には同線内に56ポンドレールが使われていると書かれてある(具体的な場所はふめい)。その他にもこまごま各種重量。そういう感じで阪鶴にもわずかに使われていたのかもしれず、その補修用に九州鉄道のお古が回ってきたとすると納得がいく(だとすれば他にもあっていいんじゃないか)。日本明治工業史鉄道編は何故かこれだけがデータ送信限定という非道。嫌がらせだな>NDL
Tさんに頂いた毀損軌条之研究はじっくり読むと面白い。レールメーカーごとに成分とか破損状況とかかかれてあってCarnegieは砕け散るような破損をしたらしくかなりダメダメな評価が下されてる。だから阪鶴のは総とっかえされたのかも知れぬ(いや単に60ポンドやめただけか。S20の図はどうなってたっけ)。平炉になる前のやつのはずだし。Illinoisはどうなんだろう。
保線のハンドブックには枕木のメーカー鋲の説明があったり設備関係のメーカーの略号が書かれてあったりして面白い。福知山線の枕木で見たあの釘はメーカーとか防腐処理会社とかを表しているらしい。へー。しかしレールの銘は結構適当。CAMMELLのTOUGHENED STEELが70ENED STEXIとか何とか書かれてあったりして。手書きを写植に直すときにおかしくなってる。
日曜日。気合入れて朝6時に出発したのに岡町駅に折り畳み自転車のネジを忘れてきてしまってW.B.ショックレー、というところから一日が始まり夜8時までレール柵に取り付いていた馬鹿である。
野田尾の全柵を調べ終えた。期待していたような古いレールはなかったけれどもWENDELが出てきてフランス枠が埋まった。英国米国独逸国に白耳義仏蘭西が出揃ってそれだけでなんか楽しい。あと野田尾隧道の入口柵は32Kgの満鉄レールだった。こんなところにまで広がっていたのか>MR。
現役の福知山線を全線調べたらさぞ面白いことになりそうな気がするけれども、沿線で最も難所だったのがこの廃線区間なのであって、他ではそんなに使っていないようにも思われるし、しかし阿草があれだったのだしなぁと思うと捨て置くこともできず。テイのいい泥沼である。渓谷沿いは怪しんだほうがよいのかも知れぬがこれ以上範囲を拡げるつもりはない。
どこで区切りをつけるか迷う。残すは北山隧道の辺りだけなのだが、あの辺りにある柵はどれも新しい柵で、その作りから察するに大正以降のレールがメインになっていると思う(事実そこにBSCO STEELTON>CONTESCO<を見た)。そこまで調べるとしたら少なくともあと一日二日は通わなければならないし柵図の作図だって馬鹿にならぬ労力だしそのくせ出発点の気概というか狙いというか、要するに「こんな古いレールがまとまって存在してた!」という発見の驚きと喜びとを希釈する方向にしか作用しないように思われてためらわれるのだ。しかも深入りすればするほど説明が必要になるわけで、レールの製造の話だとか規格の変遷だとかいうバックグラウンドの説明までしなければならなくなることは必至であり、首を突っ込み始めて間もない自分が自分以外に懇諭し尽くせるほど理解できているわけでは決して無いのだ。打ち切っても進めても泥沼の中であることに変わりがない。
午後から武田尾へ移ってCAMMELL 1874の拓本に挑戦する。長い上に肝心の年号のところに金具があって、なおかつ「4」が欠けている。苦労して作った割にはさっぱり役に立たないものになってしまった。まあいいこれも練習だ。Darlingtonの平底レールはそれなりに綺麗に取れたけれどもこれも年号が欠けている。B陰刻がとれたことに満足しておくか。そうそうこの柵の年号不明CAMMELLが1874であることを確認できたので都合3本の残存が確認できたことになる。CAMMELLの平底は他に1878があったっけ。考えてみたらこれも曲者だな。その頃には大阪京都間できてたでしょ。大津より東なのかな。
ついでに夜間雨中探索のとき落とした手拭いを回収することができた。ズズ汚れた汚ねえタオル、と思ったらそれだった。
先日大津へ行った時に見かけた看板。赤字が退色て読めなくなった、よくあるタイプの「穴埋め問題」看板。元は銭湯の中に掲げられてあったものらしくその場における注意事項が書かれてある。 なかなか難易度が高い。
最後のこの穴がどうしても埋められなかった。パソコンで「うきん」と入力し変換すれば答えが出てくるに違いないのだが、安易にわかっても身につかないだろうと思い控えている。そうしてここ二三日事あるごとに考えているのだが、やっぱりわからない。わかりそうでわからないのがいやらしい。
みなさんもどうか答えは教えないでいただきたい。
明治42年の鉄道統計図表にはこの当時官設鉄道に敷設されていた軌条が重量ごと・規格ごとに分類されて載っている。この中で「大津~馬場」間に双頭軌条が20余鎖残っていることになっている。あれ、なんでこんなところに? と思ったら、ここでいう大津駅は開業当初の大津駅、現在の京阪浜大津駅の辺りにあったやつのことで、馬場駅は現膳所駅なのだった。逢坂山隧道から大津に直接降りることができなかったので馬場駅=膳所駅でスイッチバックして湖畔の大津駅に達していた。そこから長浜まで湖上舟運というやつだ。んで件の資料のはその区間のこと(明治22年に米原まで繋がったあと貨物支線として残っていた。いちど旅客扱いが復活したみたいだけどややこしいのでパス。んで1960年代に完全廃止)。
京都~大津間建設の時は大阪~京都間で採用した平底レールから再び双頭軌条に戻った。この区間は明治11年(1878)着工、明治13年(1880)に開業。日本鉄道史上編なんかを読むと確かに鋼製双頭軌条を使ったとある(重さは61ポンド半。先に採用していた双頭レールは錬鉄製の60ポンド軌条:Darlington Iron製で、断面形状はそれと同じだが、密度の違いからちょっとだけ重かった)。故に1878銘のCAMMELLの双頭レールはここで使われた説が根強くある。
でもDarlingtonだって1872にベッセマー炉作ったっていうしなー。73以降のDrarlingtonの双頭レールだって鋼製である可能性が全くないわけじゃないんじゃね、と軽く考えてみたりしている。77とかあてはまりそうだし。切って密度測ったらなんかわかるんかな。厳密に1cm3切り出して重さ測るだけでわかるやろー。
問題はそこじゃなかった。なぜその頃の古レールが1910年代・20年代の古レールと一緒に柵になってるかってことだ。レールの寿命は大体20年くらいなのだそうだ。傷みやすいところはそれよりもっと短命だった(確か神戸大阪間だったか大阪~京都間だったかでも数ヶ月で数本ダメになったとどっかに書いてなかったか→雇外国人年報M12に)。1920年代のが古レールになっているということはそっからさらに20年以上は経過してのちに該柵が作られたってことなので、双頭レールはさらに20年も30年も古いことになる。例えて云うならじーちゃんととーちゃんが子のために柵になってる。そんなに残されてあるものだったんだろうか>双頭レールも初期の平底レールも。まあ同じレールの区間にしか使えなかったのだからその区間の補修用として残しておけば長い間持ったのかも知れないし、新しいやつだって極端に傷みやすい場所で使われていた新古品だったのかも知れないし。そのへんを考えるのは無駄なことなのかも知れぬ。大半は1880年代のものなんだから新しいものと古いものは特異的なブツとみなすほうが合理的だろう。
そういや野田尾のレール柵は横材に双頭レールを使っていながら途中で平底レールに変わっていた。あの柵を作る頃に双頭古レールの在庫が尽きちゃったので平底で代替した、とかだったら面白い。
以前ぶつくさこいていた資料は未だ見つからないのだけれど、このM42の統計を見ると九州鉄道の複数の線に56ポンドレールが使われていることがわかる。とりあえずこれで満足しとこう。でも考えてみたら56ポンドなんてPS&Coばかりじゃないのか。うーん。
おもに「日本鉄道史 上編」より。*はTさんからいただいた資料(岡崎睦「我が国の鉄道黎明期に敷設された鍛鉄製レール」「鉄の歴史-その技術と文化-」フォーラム 第4回公開研究発表会講演論文集(日本鉄鋼協会 社会鉄鋼工学部会)(2002.7.27))より。
なんでこんな瑣末なことを書いてるかというと、どの時点でレールを発注したことになるのかを確認したかったがため。
神戸~大阪~京都間
M3 | (1870) | 大阪神戸間建築の令 |
M3.7. | (1870) | 大阪・神戸に出張所設置(関西鉄道局) |
M3.7.30 | (1870) | 大阪・神戸間測量開始 |
M3.10.24 | (1870) | 石屋川隧道の開削に着手 |
M3.11. | (1870) | 全線の工を起こす |
M3.12 | (1870) | 〔新橋横浜間:横浜英国東洋銀行に一般用途を委託、諸器械買上げ品の検査を担当させる。これより先、ホレシオ・ネルソン・レーの例の先走りによる公債募集と資材購入の事件あり M2.11.に全権委任、M3.6.に75万ポンド分済、M3.12付で罷免 枕木は狭軌で購入済み〕 |
M4.3. | (1871) | 京都敦賀間測量の令 |
M4.4. | (1871) | 京都大阪間測量開始 |
M4.6.16 | (1871) | 京都大阪間測量開始 |
M5.2. | (1872) | 京都出張所設置(M5.3.15.開設) |
M5.1.23. | (1872) | 京都大阪間線路測量・経費予算の上申by井上勝 |
M5.2.5 | (1872) | 京都大阪間ルート決定 |
M5.3. | (1872) | 東鉄道寮設置 京都大阪間の建築を営せしむ 関西鉄道局は西鉄道寮 |
M5.7 | (1872) | 〔新橋横浜間:合円柱植立および鉄条敷設を完了 9.29新橋横浜間工事完工(p.52)〕 |
M5.9. | (1872) | 建築師(Engineer in chief)ボイル着任 |
M6.3. | (1873) | 建築費増額 +249,669弗(物価上昇&ボイルの再査による) |
M6.5.20. | (1873) | 神戸停車場より芦屋川隧道まで約8マイル間に建築列車の運転を試みる |
M6 | (1873) | 〔新橋横浜間:複線化用資材としてCAMMELL社の同断面の鋼鉄レールを発注・敷設(M14 1881 竣工))* |
M6.12.26. | (1873) | 京都大阪間起工 |
M7.5. | (1874) | 大阪神戸間工事落成、11日より運輸開始 60ポンド両双頭鉄条を敷設し鋳鉄製「ポットスリーパル」を用い神戸三ノ宮間は複線(「日本鉄道史 上巻」p.98) 桂川~大阪間には鍛鉄製の平底レール(60lb/yd)、桂川~京都間には鋼鉄平底レール(61.5lb/yd)を敷設。* |
M8.5. | (1875) | 安治川枝線工事竣工 大阪~安治川北岸 1マイル60チェーン 大阪造幣寮の旧馬車道敷地約2哩、鉄条、機関車1両を受領し該枝線の工を補った |
M9.7. | (1876) | 大阪~向日町22マイル57チェーン竣工 28日より開業 |
M10.2.5 | (1877) | 京都神戸間鉄道開業式、翌6日京都停車場開業
木製枕木、平底60ポンドの鉄条 「桂川~大阪間の鍛鉄の平底レールは、摩耗が早く、同12年の「雇外国人年報」には、 「軌条の摩耗は、依然として早過ぎるきらいがある。この12ヶ月間に、延長26mileの線路で、摩耗のため取外した軌条(3年間使用)は、84本に達した。」 と記録されている。このため鍛鉄レールは、翌13年頃から鋼鉄の61.51b/yd平底レール長さ30 ftと更換を始め、同19(1886)年頃、ほぼ全区問の取替えが終了したという。」* |
M10.11.16 | (1877) | 大阪駅曽根崎川水路竣工 |
M10.12.1. | (1877) | 安治川枝線廃止 翌年敷地売却 |
京都大津間
M2.11. | (1869) | 東京~京都間に鉄道敷設を議決 枝線は東京~横浜、琵琶湖辺から敦賀、京都~神戸 |
M3.秋 | (1870) | 京都府、越前~京都間鉄道建設を建言 |
M4.1. | (1871) | 東海道・中山道の踏査結果復命 中山道を推す&敦賀線の重要性を説く |
M4.3.9 | (1871) | 京都~敦賀間測量の令 |
M5 | (1872) | 京都大津間測量終了 |
M6秋 | (1873) | 京都敦賀間測量着手 |
M7.12 | (1874) | さらに美濃路より名古屋に至る線路ロの測量着手 |
M9.2 | (1876) | 井上勝キレる 着工催促 |
M9.4. | (1876) | ボイル、測量結果とそれに基づく計画をを上申 長浜南方にある粘土を塩津に運び製造する瓦壺土樋は良質 煉化石を製造すれば堅硬なるものを産すべし故に此の近傍に於いて製造し陰渠等を造築する石に代用したらその費用を減少すべき(※他の地域は良質の石が採れるので特段の必要がない限り石を使うべきといっている http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960214/171 /米原名古屋間は鵜沼駅の東南凡そ25マイルを隔てた久尻村にあるが垂井加納の間に良質の粘土充分存在) |
M9.12.26 | (1876) | 工部卿、京都大津間鉄道建築費889280円を提示、本年度省費中より若干を流用し工事に着手せんことを稟議、 |
M10.2.1 | (1877) | 政府↑を許可 |
M10.2. | (1877) | 西南の役勃発、建設停滞 |
M11.4. | (1878) | 起業公債1250万円の6分利つき内国債発行、うち1333914円を京都大津間鉄道建築費にあてる |
M11.3.8 | (1878) | 工部卿(伊藤博文)京都大津間鉄道建設に関して伺書提出、工費1333914円を目処として着工したい |
M11.4.11. | (1878) | 聞き届け |
M11.5.21 | (1878) | 工部卿→鉄道局長 工費再査を命じる |
M11.6. | (1878) | ↑答申 ボイル計算は88万9284円だったが、そこからM8地租改正に伴う土地買い上げ代の増加、隧道穿通器械費廉増、外国注文品輸入税廉増、外国工師属員費用の減などで結局852410円になる(京都大津間建設) |
M11.8.21 | (1878) | 京都大津間建築着工 |
M11.9. | (1878) | 鴨川橋梁着工 |
M11.10.5. | (1878) | 逢坂山隧道東口着工 |
M11.12.5. | (1878) | 西口着工 |
M12.3.19 | (1879) | 大津湖濱に沿う枝線(大津~馬場間)の土工着工 |
M12.5.14 | (1879) | 鴨川以東東勧修寺村間4マイルに土砂運搬の機関車を往復 |
M12.9.12 | (1879) | 逢坂山隧道導坑貫通 |
M12.8.18 | (1879) | 京都~大谷間8マイル11チェーン竣工 仮運転開始 |
M12.8.27 | (1879) | 鉄道局長の意見により大津枝線建築方法変換を指令 もとは1/4マイルだったが3/4マイル延伸して湖辺に築出し停車場内船入場を拡張 |
M13.6.28 | (1879) | 逢坂山隧道竣工 これをもって京都大津間落成 軌条は61ポンド半の双頭鋼製 鋳鉄「ポット・スリーパル」を敷設 全線に用いた煉瓦は堺煉瓦工場(M6民有=原口煉瓦工場)の供給 |
「鉄道黎明期の~」の大阪京都間のレールの使い分けは何を出典にしたものだろう? 「日本鉄道史」には記述がない。もっと一次に近い資料かな。
お馬が土器はボーナスタイム。まさかここで勢陽組に遭遇するとはお釈迦様でも知らぬ仏のお富さんえっさおー元気だな。(逢魔ケ時くらい一発変換してほしいぞ>スマホのGIM)
中川煉瓦で大変重要な情報を手に入れた。手整形煉瓦の裏に筋がある理由を教わったのだ。聞けば教えてもらえることだったのに、アホなほど遠回りしながら近寄っていって、あと一歩という所まで迫っていながら辿り着けなかったのは正直悔しい気持ちもあるけれども、聞かなきゃラストワンマイルは永久に埋まらなかっただろう。
教わったことが真実かどうかは確定し得ていないがかなり信憑性が高いように思うし検証のしようもある。なによりそうだとすれば「すべて」が一繋がりに繋がっていく(しかもそれが全て今年に入って気づいたこと!他の方のささやかなヒトコトがきっかけで判明したこと!)。近代とそれ以前、土木と建築と産業が、同じ感性のもとで同じ意図を以てして展開していたことに気付かされる。
そうなんだ。こういう失われた不文律を知りたいがために、煉瓦がどーたら裏筋がうんたらと時間を費やしてきたのだ。
機会を与えてくださったTさんSさん、中川さんにあらぬ方角から感謝を。
えっと「あらぬ方角」というのは本来の用件以外のところで収穫大だったことを指し示していてですね、なんだかこの機会を超私用に使ってしまった気がしてならないんですよええ。はたして自分、本来用途の用を果たしてきただろうか??? 言いたいことべらべら喋って帰ってきただけのような気もしないでもない。
5/1追記:後日電話で再取材を試みた結果、↑の件は自分の早とちりであったことが判明した。まったく困ったものである。恥を晒すために消さずに残しておく。まったく、あの感動を返せってんだ>nagajis。
かわらミュージアムの近くの民家の庭に見かけた耐火煉瓦。一見品川白煉瓦の旧品かと思い、次にSHIRAKAWAと読んで品川白煉瓦の白河工場?と誤認し、いまやっと「ŌMISAKURAKAWA」と読めた。現東近江市に近江鉄道の桜川駅があり佐久良川がある(どちらも今はSAKURAGAWAみたいだけど)。この辺りには戦後に織田煉瓦製造(株)や八日市窯業特別共同作業所があった。織田煉瓦製造は品目が「赤レンガ」、後者は「煉瓦粘土瓦」となっているので後者がこの耐火煉瓦を作ったのかも知れない。だとするとこれも気になっていた工場の消息だったのだなあ。
GW初日で人出が多い、とか何とかいうどうでもよいことは完全無視して福知山線へ。北山辺の柵を終わらせ、1977=2壁と長尾山第一出口のアレを除いて全調査を終了した。いや除いてたら全調査終了じゃねえやん。
高4mの擁壁の上のMRレールは2601と2602があり、それぞれ製造月に2種類がある。たった一つだけ「2602 IIIIIIIIII(10)」があり、皇紀1桁目の「2」は「1」を彫り直してあった。しかし「2602 IIIIIIIII(9)」にはそれらしい痕跡が見られなかったのはちょっとフシギ。ちゃんと見てなかっただけかも知れぬが。
「ああびっくりした」「ああびっくりした」「ああびっくりした」三度も言わんでも聞こえとるがな。振り向いてほしかったんだろうが、知るか、と無視して読んだ柵は"THREE-CALL WALL"と名付けることにした。それぞれの柵も勝手に通称をつけよう。MANCHURIAN WALLとかHANKAKU WALL BROS.-1とか。それぞれの柵は意外と特徴があって面白いのだ。
Namaze "MANCHURIAN" Handrail
Kitayama "TENNESSEE" fence
Kitayama "96-STK" fence
Kitayama "DEATH-MANCHURIAN" wall
Kitayama "HANKAKU-WALL-BROS.-ONE"
Kitayama "HANKAKU-WALL-BROS.-TWO"
Kitayama "○S-2603" wall
Kitayama "THREE-CALL" wall
Kitayama "C-ARCH" wall
Kitayama "HASE" fence
Mizotakio "LONELY" fence
Mizotakio "THE-GREATEST-DH" fence
Nagaoyama "FALL-DOWN" fence
Nagaoyama "THE-LONGEST" fence
Nagaoyama "WASHED" fence
Nagaoyama "BULLSHIT-BUSH" fence
Takedao "LIFTING-MOTION" fence
Takedao "ENCOUNTER" fence
Takedao "PENANCE" fence
Oomoyama "H-WENDEL" fence
Oomoyama "○S" fence
Notao "THYSSEN" fence
Notao "MANCHURIAN" wall
Notao "CARNEGIE" fence
Notao "COCKERILL" fence
Notao hopper
Notao "○S" fence
Notao "Cammell" fence
Notao "TRAPPY" fence
Notao "UPPER-LEFT" fence
Notao "MIRACLE" fence
Notao "BURIED-MOSS-BAY" fence
Akusa "ARTISTICE-1903" fence
_ TAKATAKATAKA [日本工業史鉄道編??明治工業史鉄道編ではないかな。]
_ nagajis [あ、すみません、その通りです(汗]