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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2018-10-01 [長年日記] この日を編集

[独言] 台風一過

わずかに直撃を免れたお陰でビニールシートっが吹き飛ぶようなことはなかった。賭けに勝ったようだ。

それにしても、と思う。いまは衛生写真や天気図で台風の姿形を知ることができ、今どの辺りにいていつ頃通過するのかリアルタイムでわかる。そうした便利なものがなかった時代の台風ーーー野分とか何とか呼ばれていた頃の台風を、人々はどう理解していたんだろうかと思ったりする。

例えば二昨日まで天気がぐずついていて、曇りっぱなしの空から降ったり止んだりしていた。一昨日はそれが一変して馬鹿みたいに晴れ上がった。雲ひとつ無い青空だった。住み慣れた町の真ん中で迷子になりそうな晴れだった。そうして昨日は朝から淀んだ雲一面の空。雨も降っていた。夕方ころには多少風も強くなって、傘がひっくり返りそうになるほどだったのだけれども、まあ普通にあり得る程度の風だったし、夜にはもうその雨もあがって、外で蟋蟀が鳴いていたりする。以上の経緯の中に今日の台風直撃を予感させる要素はない。もし仮にニュースも天気図も見ていなければ台風が直撃するなんてことは想像もできないように思う。ただ夕方の雲の具合が不穏な雰囲気を醸していたことくらい。山の向こう海の果てまで曇に埋もれているような空。動きも早かった。それくらい。

そうして台風情報を知らなかった私(仮)は今日の大雨と強風に苛まれることになるわけだげれども、直撃を受けている間もニュースなしでは現在地を推し量ることもできなかった。例えば夜7時頃に雨の中歩いたのだけれどもこの時すでに横殴りの雨で暴風雨と呼んで差し支えないだろうというような天候だった。倉庫に詰めてからのほうが雨風は弱くなったような気がするし、和歌山に上陸したという9時頃にもそれほどの勢いを感じなかった。そうして10時過ぎくらいからまた強風を伴う雨を感じた気がする。これが吹き返しだったのだろう。そういう変化だけから台風の現在地を知ることはできなかった。ニュースが言っている「和歌山に上陸」という言葉から吹き返しなのだと理解しただけだ。

当たり前だが自分は1人しかいないから、台風が接近している時のある地点の風向だとか降り方だとかしか知れない。舞鶴と大阪と和歌山の現在のようすを同時に体験することはできない。各地の情報を突き合わせて初めて上陸地点なり通過ルートなりがわかるわけで、電話とか通信とか未整備の時代にはその突き合わせすら難しかったはず。台風が過ぎてからやっと進路が判明する、という時代が長く続いたことと思う。

台風のかたち、も地表からの観察で理解し得たものかどうか。直撃されて台風の目の中にいたらわかるかも知れないけど、そうそうある機会ではないだろう。渦巻状で左回りに風が吹くとかいうことも理解されていたんだろうか。そうではなく、なんかようわからんけどめっさ風が吹き雨が降る自然現象として理解されていたりしたかも知れない。野分のことを詳細に記した古文書なんて、探せばあるような気も、ないような気もする。どうなんだろう。岩波か中公あたりの新書で「台風と日本人」とかあったりしないかなあ。知ってどうするというわけじゃないけど。


2018-10-03 [長年日記] この日を編集

[料理] 一口カツを揚げ、食べる

最近運気が下がりつつあるのをひしひしと感じるのでその挽回を目論んで、というわけではないのだが一口カツを自作してみることにした。前回の揚げ物の時に豚ロース一口カツ用というのが安かったので買ってきてその2/3ほどが残っていた。それをかたそうと思ったのだ。

一口カツ用とかシチュー用とか用途明示で売られているお肉をその明示のとおりに調理したことがない。たいてい適当に焼いてタレつけて食うか、そもそもそういう肉を買わない。貧しいからだ。どれも喰ったら一緒だろうがということで豚バラ肉ブロックをぶつ切りにしてカレーに入れたり牛すじ肉を入れたりする。今回はたまたまそれが安かったので買ったというだけだ。

まず衣から困った。小麦粉をまぶしてから溶き卵につけるのか、溶き卵につけてから小麦粉をまぶすのかわからなくなる。パン粉の裏書にちゃんと書いているのだけれども、それを読んでいざつけようとする段階になって急にあやふやになる。溶き卵がついていたほうが小麦粉がよく塗れていいんじゃないかと思ってしまうためだ。そうしてそのとおりの順にしたあとパン粉をまぶす段階で間違いに気づくわけである。粉まみれの肉表面にパン粉がつくわげかないのである。

さらに油の温度の感覚がわからない。説明書きには「パン粉を落として底につく前に浮き上がってくるくらいの温度」とあるのだがいくらパン粉を落としても沈みすらしない。油表面でじうじう言うばかりである。結局そのへんも適当にやらざるを得なかった。

結果的には中々上出来なものができあがったと思う。何がうまいかってサクサクの衣がうまい。そしてスパイシーなとんかつソースがうまい。肉はどこいったという感じだが実際その2者が上出来であるように思うのでどうでもよいのである。んで一口カツ9つ揚げてパクパク食べてしまった。残りの油と小麦粉でナス揚げたり蓮根揚げたり長芋揚げたりもした。贅沢の極みである。

[] かく

写真だけ通しで入れた。キャプションはもっと工夫しなければいけない。長いので単調になりやすく似たような言い回しと言葉とが頻出するせいで余計に冗長である。nagajisは冗長不安定。


2018-10-04 [長年日記] この日を編集

[奇妙なポテンシャル] 罠山谷暗渠

わなやまだにあんきょ、と読むのだが、何故か正しく発音できない。特に連続してわなやまだにわなやまだにわなやまだにと喋ることができない。わなやなだにとかやまわなだにとかわやあななにとかやなやなだにとかになってしまう。文字に起こしても一抹の不安がよぎる。わやなあだにとかわなやまだにとかやまやまやまとか。正解が混じっていても気がつかない。困ったことである。

普段殆ど喋らないので口の筋肉が退化していると感じている。咀嚼に困難を覚えるようなことはないが喋るという行為に関しては不得手を自覚している。そのくせ独り言は多い。口を大きく開けまして、の発話が下手なのだ。多少なりとも鍛えておいたほうが旅先での聞き込みとか電話で凸とかには役に立つと思うのだがまさかそれだけのためにあえいうえおあおかけきくけこかこぱたりろとか練習するわけにも行かぬ。訳に行かないというより愚である。だったら普段の会話に役立つべく普段の会話で喋る練習をしておりさえすればよいだけの話なのである。

[][奇妙なポテンシャル] 穂村弘「絶叫委員会」(ちくま文庫)

密かに敬愛する歌人穂村弘氏のエッセイ。短歌以外の著作をじっくり読むのは初めてなのだがまったくもって共感した。要するに私が「奇妙なポテンシャル」と名付けてなんとかかんとか分析しようとしているあの違和感を、詩人の感性で端的かつ見事にことばにしてくられている。

例えば「天使の叫び」。すれ違った小学生集団のうちの一人が叫んだ

マツダのちんこはまるっこいです

という言葉に感銘を受けたという一文である。特に「まるっこい」というところに注目をしておられる。

 これが「ちっこい」とか「でっかい」では駄目だ。「ちんこ」が「ちっこい」とか「でっかい」っていうのは、現実世界における分類や価値体系のなかにすんなりと収まってしまう表現だと思う。
「まるい」でもまだ弱い。「まるっこい」の「っこい」がポイントで、ここに、なんというか、実際に手で握って確かめた実感があると思うのだ。
「っこい」には、現実の分類からはみ出して、世界の奥行きを柔らかく回復させる力が宿っている。褒めすぎだ。
(「天使の叫び」)

私がもしその現場にいてその言葉を聞いたとしたらきっと同じ感銘を受けるだろう。ちんこを「まるっこい」とする表現のしかたがあることを知りそれが素晴らしくフィットすることに瞠目して高度な奇妙なポテンシャルを見出しただろう。しかし言葉遣いの氏はさすがである。そこに世界の生命の回復をみる。世界というものが決して薄っぺらいものではなく「なんだか得体の知れない奥行きをもった場所」にしてくれる力を宿したことばと分析する。すばらしい。私には至れない境地である。

氏は別の編で、駅の伝言板に書かれていたという 次の一文を紹介して、そこに潜む「どうみても変な言葉でありながら、その全体から奇妙な真剣さが伝わってくる点」に最も興味を惹かれたと書いてある。

犬、特にシーズ犬

書いた人物の頭の中にはこの一文に達するまでに切実な思考の流れがあっただろうと感じ、「この不合理でナンセンスで真剣な言葉」を一字一句違わずメモ帳に記録したそうだ。そうしてこの一言を「天使の呟き?」とみている。生涯に一度会えるかどうかのメッセージとさえ考えておられる。この、ことばに対する執着の姿勢はさすがだと思った。私だったら「奇妙なポテンシャル」に分類しこそすれ、その絶対値を定量して書き示すことはおろか、 ポテンシャルの湧き出づるポイントを的確に指し示すことすら叶わなかっただろう。

畢竟詩句とはそういうものなのかも知れない。 画一的なことばで塗り固められた「日常」の壁を、鋭い感性と分析力で打ち砕いて、壁の向こうにあるものを切り取って持ち帰ってくることーーーことばの限界を押し広めて世界の奥行きをつくることが詩作句作なのかも知れない。ことばで世界を探検し未開の地平を切り開いて得た新たなた知見を私たちにもたらしてくれる人々が詩人であり歌人であり俳人であるのかも知れない(本のどこかにそのようなことが書いてあったように思うのだけど今慌てて探してみても見つからなかった) 。 奇妙なポテンシャルの追求もそれに似た意義があるように思われたことだった。

ならば奇妙なポテンシャルは即ち詩なのか。奇妙なポテンシャルを追求する奇妙なポテンシャリストは詩人歌人俳人と同義と云えるのか。多分違う。彼らは自ら詩歌を生み出すけれども奇妙なポテンシャリストは奇妙なポテンシャルを生み出すことはない。あくまでも日常生活の端々に垣間見える奇妙なポテンシャルを補足し分析するだけである。 日常の裂け目から顔を覗かせる見逃し難い違和感をとっ捕まえて鑑賞するだけである。徹頭徹尾受動的な行ないであって、せいぜい観察者とか観賞者止まり、それによって世界の生命が回復したりは決してしない。自ら奇妙なポテンシャルを生み出したりすれば、それは世界を混沌に落とし込む蛮行にしかなるまいと思う。あるいはただの自作自演、廃人の行ないである。


2018-10-06 [長年日記] この日を編集

[][煉瓦] 関西煉瓦海を渡る(大阪毎日新聞明治23年1月24日4面)

関西煉瓦のB.C.△H.J.はハンター商会が外国に輸出するつもりで作り始めたちう記事が「日本煉瓦史の研究」にあるのだけれども、それを裏付ける記事を見つけた。毎度毎度の毎索からである。

●関西煉瓦製造会社 当地の和田半兵衛難波二郎三郎氏等の発起にて昨春資本金十万円を以て播州舞子浜に設置したる関西煉瓦製造会社にては此程来既に充分の成績を得一日に三万個宛の製造をなし居れる由なるが同会社の製品は重に外国船のバラスに積むものにして過半は加那太地方に向て輸出する者なりと
(大阪毎日 明治23年1月24日 4面)

船のバラスに、というのはイギリスでも例があるようだ。帰り荷が空になるので煉瓦でバランスをとったのだろう。それにしてもカナダ行が多かったとはちょっと意外なカンジ。なお「重に」はnagajisの誤字に非ず。

[独言][煉瓦][煉瓦刻印] 国際煉瓦コレクター協会

これもnagajisの妄想ではない。本当に存在する。しかもはるかなはるかな昔から活動してはる由緒正しい協会らしい。

↑の記事を読んで、ひょっとしたらカナダでB.C.△H.J.が見つかってやしないだろうかと思って検索していくとDave Sallery氏の"Old Bricks - history at your feet"に遭遇。そこから辿っていったら協会のページに行き当たった。世界には確かに煉瓦収集家がいて---イギリスだけでなくアメリカとかロシアとかにもいてはるぞ---5000とかいう単位の煉瓦を集めているようだ。おそろしいことである。

諸外国の煉瓦はプレス成形が基本形で、平の凹みに会社名とか略号とかマークとかが刻まれている。会社名や所在地がフルネームで刻まれていることも多いのでどこの製品か突き止めやすいようだ。ざくっと眺めてみた限り日本みたいにマークだけで済ます会社は少なかったように見える。どうしてこうジャパンアズガラパゴースなんだろう。ふしぎなことだ。

英語で名前を刻む→アルファベットが記号にしか見えなかった→煉瓦には記号を押すものであるという認識、とか。でも阪府授産所は阪府授産所だけどな。

[奇妙なポテンシャル] 寄書

毎索を見ていておそろしい記事に出会った。大阪毎日新聞明治23年1月4日の記事である。時間がなくてコピー出来なかったが、記憶を頼りにその紙面を再現してみた。

画像の説明

松の内明けながら未だ目出度い言葉が居並んでいる6段組の紙面。その5段目の終わりから6段目いっぱいにかけて地模様のようなものが並んでいた。あれ、なんだこの記事、と思ったら「〓」記号でつらつらと埋められていたのだった。印刷で空白を埋めるためにゲタ記号が使われるという知識は持っていたけれども、その実物を(しかも実際に発行された新聞で!)見るのは初めてだった。

〓記号は印刷活字のオシリの形で、活字をひっくり返して刷るとこの模様になるそうだ。そうやって仮処理したものがそのまま紙面になってしまったのだろう。しかし印刷されたものは掠れているのかインクが載り過ぎたせいなのか「コ」文字のようになっているものも多かった。また横二線のゲタだけでなく縦になったものもある。そのせいで何か未知の言語のようにも見えてしまう。

タイトルはちゃんと「寄書」となっていた。誰かが投稿した文章(が乗る予定)だったのだろう。その文字と二リコ二コ二リの配置を見ているうちに「奇書」のようにも見えてきてなるほど確かにと思ってしまったりもした。

画像の説明そうして何よりこわかったのが、たった一箇所だけ「然れども」という語が生きていたことだった。謎の記号群のなかに突如紛れ込んだ日常語が正常な理解を歪ませずにいない。その前後の二リコ二二と二コ二リリが実は普通の人には読める言葉であって正しく逆接の接続関係にあったりするのか。小坂淳氏の疎通にも似た不気味さが感じられてならない。

素面で考えれば原稿の入稿が間に合わずこのようなゲタ埋めになったのだろう(「然れども」は前記事の残りなのだろう)とは想像されるのだが、だからといって1月5日号にお詫びの記事が載っているようなことはなかった。それもまた不気味な事実だ。正常な日常の一記事として処理され、何事も無く百数十年間埋もれていた地雷を、私は踏んでしまったのであろうか。


2018-10-07 [長年日記] この日を編集

[きたく][滋賀県道元標] どっちも好きだが好いてはくれない

画像の説明

なにその不審な目。確かに不審者だけどさ。加減があるだろ。ないか。

画像の説明

「長浜み~な」記事を参考に行ってみた。なかなかがんばったほうだとおもうがフィルターきったねえまんまで撮ってしまって写真が汚い汚い。そうして白黒写真から読み取ったとおりのことを点検してきた。b1・b2の暗渠だけ肉厚煉瓦が使われている。

そのまま関ヶ原駅まで旧線を辿りつつ煉瓦暗渠を3つほど回収した。米原市域のとは異なり拡幅されていないのが謎。複線化と短絡線建設と柏原線の建設のタイミングを解きほぐさないといけない。

画像の説明今日最大の発見。やっぱ、滋賀県道にはコレがあるのだ・・・! しかも六尺五分とキタモンダ。

画像の説明

関ヶ原町でしつこく煉瓦を探した時の成果。愛知窯業(株)の耐火煉瓦。隣にO.Y.K.がある。ただしこいつには大窯マークが入ってねえ。その他ここが東西の境であることをかくにんした。

画像の説明

でっけえ蛇の抜け殻。しわくちゃな状態で1.8mにわずかに届かない。伸ばしたら一間行く。さすがに財布には入りそうにないのでナイナイはしなかった。

帰りに瀬田に寄って井桁菱カを取得してきた。ちゃんと家の人に断ったからな。しかしあとちょっと遅かったら壁撤去とともに失われていたかも知れぬ。


2018-10-08 [長年日記] この日を編集

[独言] 10/7メモ

明治四十二年四月三日 改修人 辻村嘉○

A1_x108x53
_x107x54
_x107x52
A2224x107x54
225x54x111
226x56x111
両端延伸? A1長手、中央は測れず A2長手はかなり誤差あり
B2224x110x79
(B1)225x112x78
225x114x77
継ぎ目なし
C1223x110x54
224x108x54
223x109x55
C2228x_x56
229x_x58
229x_x58
南側1/3ほど延伸←花崗岩
D1227x107x53
229x109x53
226x110x53
D内218x106x53
220x108x53
221x109x54
D2_x_x53
_x_x55
_x_x53
南側1/3ほどのところに継ぎ目? 外側は石灰岩、内部は石灰岩+花崗岩
藤井測定不能 幅4m
玉(小:子安地蔵)220x_x52
222x_x54
219x_x53
幅90cm
玉(大)225x105x53
226x106x52
229x106x52
幅3m

[独言][ph.] 硫酸瓶

画像の説明

どこかで撮っているはずなのだがいつも見つけられなくなる。必要なときに必要なものが出て来ないのは部屋だけではないようだ。なのでメモがわりにはっとく。ファイル名「DSCF8229.JPG」


2018-10-09 [長年日記] この日を編集

[] 堀川監獄での煉瓦製造

明治22年に堀川監獄で煉瓦の製造をやっていたことは以前東雲新聞の広告で見つけていたが、同じ広告が大阪毎日のM22.5.10 6面にもあった。そうして話にはもう少し続きがあるらしい。

M22.5.10 6面 大阪府堀川監獄の煉化石製造事業広告 東雲新聞に載っていたのと同じ広告 15日午前10時までに入札の事

文面は東雲新聞のとまったく一緒。材料を納入したら囚人が素地煉瓦を作って返す、のはず(後述参照)で、この時点でもう確かに製造はしていたと考えられる。

そうしてその月の末頃にこんな記事があった。

●囚徒の入替 当府堺監獄に服役中なる囚徒百一名を昨日堀川監獄へ送り彼の囚徒と入れ替えありし由なるが右は工場の都合に依るとの事なり (M22.5.21 2面)

鉄道寮が堺の函館会所跡で煉瓦を製造し始めた頃から囚人を使役していたことは堺市史第3編なんかにもある。そんな経験者を堀川監獄に移動させたのだと想像される。

してその年の暮れにこんな記事。

●監獄の煉化工業 来る二十三年より当府監獄の囚徒をして煉化工業に従事せしめんが為め固監獄内へ煉化工場を設置せんとの議案に対し常置委員の意見にては既に之れを賛成せしが以来同会にては調査委員を選んで実際の利害を調査し一昨日来同会の議に附し居たる所昨日の同会に於て愈よ此の工業を起すことに決したり(M22.12.1 2面)

5月の広告の素地製造がうまくいったので監獄内で焼いて出荷するということを始めることにしたのだと思われる。つまり小菅集治監と同じような監獄煉瓦製造をやり始めると。この当時監獄費は府県負担であったから、多少でも収入を得て出費を抑えようとしたのだろう。

●煉化工業受負の建議 来る廿三年度より当堀川なる府監獄内へ煉化工場を建設し囚徒をして其工業に従事せしむる事は目下開場中の当府会に於て既に議決せしが右工業の義は一昨日の同会にて六十八番(前川)よりの発議により専ら人民の注文に応じ凡て受負となすべき事を府知事へ建議するに決したり(M22.12.5 2面)

続いてこのような記事も出ていた。これはちょっと建議の意図がつかみにくい。「人民の注文」に限る必要はなぜか。鉄道建設とかに供給したらだめなのか。「凡て受負」というのは。そのへんわからんもんだろうかと思い、デジコレで『大阪府会史』を発掘してきたが、可決建議之部に議題名が掲げられているだけであった。多少でも理由書きがあったらよかったのに。議事録は明治12年の最初の会のみ。。府立にもM22のはないようだ。

堀川監獄で焼成までやっていたのであれば、小菅が桜印を使ったように大阪でも桜印を使ってて、桜+漢数字とか桜+カナの出処を帰結させられたりせえへんかなあと思っただけの話である。

とかなんとか書きながら、府会史を引き続いて読んでいて翌年3月の臨時府会で工場計画が廃案になったのを知った。場内工場の操業を民間に請け負わせ(労働力は囚人)るということだったけれども請負人が出入りせねばならんのは保安上大変な問題であるし私企業が私利私欲を追求し始めても困るし「更生案のごとくするも囚徒の全部を就役せしむる能わず尚空手徒食の輩を生ぜしむ」し計画なお不十分の恐れあるしで。実際、この本の最初の方にある監獄建築の新改築の一覧に煉瓦工場はない。煉瓦造の浴場とか薫蒸場とかはあるんだけど。そうなんだよな、府会の採択がそのまま実行に移されるわけじゃないのな。建議→府から監獄費修正案こみで実行案が提示される→府会で審議→承認or非承認、てな流れなんだ。要するにここまで書いたことがすべて無駄ということに!! おーいえ。

この計画は結局どうなったのだろう。臨時府会で「○○の件外△案が無事可決」みたいなのがほとんどなので、その△案のなかに監獄費修正案が含まれていたのかも知れない。少なくとも監獄内工場の案は無くなったはずだが、例えば堺煉瓦などは囚人使役の記録があるし、それと関係があるのかないのか気になるところだ。一応府会史を堺煉瓦創始のころまで追ってみたけれども具体的な話は出て来なかった。どのみちこの府会史が概略だけなので戦後に発行された方のを読まないとダメなのかも知れない。奈良県の議会史みたいにさ。

[独言] 藤沢周平原作「耳鳴り」

実はここ一週間ほど耳鳴りがひどくてnagajisついに更年期突入か短い人生だったなゴホッゴホッ(迫真)などと滅入っていたのであるが、ふと思い立って耳鼻科へ行ってみたところ、先生が苦笑するほど耳垢が溜まっていただけだった。ばーかばーかばーか。

吸引器できれいに取ってもらったら(器具が目詰りするほど溜まっとった!)ずいぶんスッキリした。左上間近でブラウン管が点灯しているような、遠くでセミが鳴いているような「ミーーーーーーー」というノイズがしなくなってまったく晴れ晴れである。多少は残っている気がするが一週間ちかく響いてたわけだし元より内から湧き出づる音なのだしで全く絶えることはないのだろう。絶えた時はそれこそナガジsの絶える時である。

診察・施術には約1400円かかった。世のお母さん方の無償の愛情も実はそれくらいの価値のあるものなんだと知る。独り身にはなおさら納得の費用である。

[独言] 亀の瀬見学会

鷹を括って10時半ごろに電話したらすでに8割くらい埋まっていて13:00と13:30の回しか空いてなかった。未だに人気があるのだなあ。

前回は確かまだ右足を引きずっていて、じっくり見て回れなかった。写真も間違って800x600とかで撮っていたはず。今回は悔いの残らないようにしたい&新たな発見をしたい。


2018-10-10 [長年日記] この日を編集

[料理] 木通

画像の説明日曜日の探索で久しぶりに木通を食った。見れば見るほど芋虫に見えてグロいがたまんねえ甘さ。こんな甘いものが野山にあるということが時おり不思議に思えてしまう。柿とか栗とかもここまで甘くない。蓮華草はちょっぴりだし。

木通にとってこの甘さは何かの利点になるんだろうか? 甘さと匂いで鳥か何かを呼び寄せようとしているのだろうか。柳田翁ならきっと「人間のため」というだろうけれども(そういう独善者だったというわけじゃなく、時おり見せる諧謔として)。

[独言] 関ヶ原市関ヶ原の歩道橋

画像の説明なかなか思い切った作り。住宅密集地の中を通る国道21号を跨ぎ越して、国道に面する路地の一本に脚を突っ込んでいる。店や住宅が国道の際まで迫っているので国道脇に脚を下ろすことができないのだ。路地はこの歩道橋のためだけにあり、そこで行き止まりになった格好(徒歩であれば階段脇をすり抜けることができるが)。

[煉瓦][煉瓦刻印] 松本煉瓦○M@豊中市中桜塚

画像の説明何千回もその脇を通ったはずの見慣れた路地---というよりもその奥まったところにある民家の通用口の花壇に、松本煉瓦の○M刻印を発見した。不審者丸出しでお宅の門越しに望遠で撮った。豊中ではすでに山陽煉瓦MRKとか吉名煉瓦の○Yとか中国煉瓦の◇中とかも見つけていたので第4の広島製煉瓦ということになる。

自宅から直線距離で200mも離れていない。これが最近接、といいたいところだが約100mの位置で□リを採取しているのだから記録更新にはならなかった。

以前は豊中市岡町が特異な存在で、特に煉瓦が集まってくる場所であったのかも知れないと考えていたけれども、長い時間をかけて観察しているからたくさん見つかっているだけなのかも知れない。無論明治の昔に開発が始まった住宅地だったというのは大きいと思うけれども、それにして多種多様だし、比較的新興のエリアである桜塚でも見つかっているわけだから。そういや桜塚の共同墓地には讃岐煉瓦の松葉菱サがあったりもしたな。妙に瀬戸内圏の勢力が強い。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ しゃちお [それこそ船のバラスだったのかも。]


2018-10-12 [長年日記] この日を編集

[独言] Googleに嫌がらせをされる

画像の説明原稿を書いていたつい数日前まで、Googleマップの北陸道葉原トンネルが「葉原トンネル」になっていた。二度見三度見して確かに「トンネル」だったことを確認したから夢まぼろしではなかったと思う。そうしてそれを記事の中でネタにしていた。

ところが、pdfを作成し、リンクを貼る段階になったついさっき確認すると、ただの「トンネル」に戻っていた。なんということだ。

まるで狐につつまれた気分。つままれたでもいいけど包まれたほうが気持ちいいと思う。せめて気持ちよく騙されたい。「トンネル」だった頃のキャプチャを撮っておけば証拠になっただろうがそんなもの撮っちゃいない。頭おかしくなったんだろうかと自分でも怪しくなったものの、しかしこの付近で「トンネル」と検索すれば葉原トンネルの位置にピンが立つ。内部情報としては残っておるに違いないのだ。

くそ。Goolgeがおれの地図閲覧履歴を記録していて、二度見三度見したことに基いてチェックしたに違いないぞ。悪の帝国Googleがついにその牙を剥き始めたのに違いないぞ。恐ろしいことだ悲しいことだ。

[独言] 松茸狩り男性相次いで遭難

ここ数日、五條市大塔町で松茸狩りの男性が遭難したというニュースを立て続けに聞いている。前回は確か9日、篠原だったかと記憶する。今日は字まで聞かなかった。100mほど滑落したそうである。

あの辺り確かに赤松の林が多い。松茸山だという警告看板も見た気がする。しかしそれは通年そうであって今年ばかり事故が相次いでいる原因にはならない。夏が暑かったせいで松茸が豊作になっており、狩りに熱中しているうちに誤って、とか何とか……あるいは台風が何度も直撃して松が枯れていたり落枝が多かったりして誤ってボキッといってしまったのか。ともかく残念なことだ。松茸ごときで命を落とすのは勿体無い。松茸はまた生えてくるだろうが人はそうは行かぬ。

[独言] ORJを始めてからこのかた

mixiが流行し廃墟になった。

Google+が起こり廃墟になった。

Facebookが起こり個人情報を撒き散らしている。

Twitterが起こり広告ツールに成り果てた。

Geocitiesが跡形もなく消えようとしている。

廃道は変わらず廃道でありつづけている。いい気なものである。


2018-10-13 [長年日記] この日を編集

[独言] 問い合わせ不発×2

長浜鉄道スクエアに井桁は八の件を問い合わせてもう2週間以上経つ。折り返し電話がかかってこないという一番悩ましい事態。電話番号を伝え間違えたのかと思うが関東大震災の年を言い間違えるはずもないので多分忘れられているのだろうと思う。

過日は河合町に煉瓦工場の件を訪ねてみたが同上。町史に書かれてあれば近遺調の時にリストアップされているんじゃないかと思う。なのでこのmuteは無の便りなんだと思うことにする。といっても尋ねたのは数日前だから未だ調査中であるのかも知れない。速攻で返事をされるよりもありがたいことではあるがそこまで深く調べていただくというのも何だか申し訳ない気がする。言ってみれば一個人の興味の問題でしかないのだから現時点では。

大輪田の工場は不成立の可能性も十分にある。広告はあくまで職人募集の広告だし親会社がその年限りで消えてしまうし隧道の完成はその数年後だし。奈良駅転車台の「山」だって申し訳程度に持ち込んだものであるやも知れぬのだし。だから亀の瀬の煉瓦の再確認が必要だと思う。

日曜日は峠集落のほうにも行ってみよう。東口は確か土木事務所の敷地内で立ち入れるかどうかちょっと怪しい。

[煉瓦][] 実地土木工学

各国煉瓦と日本の煉瓦のサイズ。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845819/39


2018-10-14 [長年日記] この日を編集

[きたく] とりあえず

画像の説明

2018-10-15 [長年日記] この日を編集

[独言] どうも

どうも、あたまがわるい・・・


2018-10-16 [長年日記] この日を編集

[独言] メール2通かく から始まる大騒動

title/only.余計にこんがらがらせるだけかも知れぬが発行後の気安さに乗じて長文をおくりつけてしまう。さすが非道なnagajis。

ハガキを偽造する。せっかく送って頂いた出欠ハガキを汚してしまったため新たに買って来てスキャンした文面を印刷してさらに書くという暴挙に出る。こういう悪事はバラしておくに限る。

なんだかんだしてたら大掃除に発展。といっても数ヶ月放置していた隣部屋を片付けようとしただけなのだが謎の生物が発生してるわ天ぷら油をひっくり返すわで阿鼻叫喚の巷を現出させてしまう。なんということだ。

送りつけるための資料を作成する。地震が挟まってしまって伸び伸びサロンシップになってしまっていたものである。明日には発送したい。


2018-10-17 [長年日記] この日を編集

[独言] ひょうごの橋梁・トンネル名選150

こんな内容で投稿するとか、確信犯だろ(正しい意味で)。

洲本市由良町に明治20年代に建設された由良要塞。その専用道路(軍道)として建設された路線に当時の煉瓦アーチ橋が残る。県や町の管理台帳では昭和年間竣工とされているが、この年度は昭和9年に軍道を廃止し県道へ移管したことを示すものと思われ、実際この移管時に各橋梁が存在していた記録がある(例えばアジア歴史資料センターアーカイブの公文書 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C01006622600?IS_KIND=SimpleSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InD&IS_KEY_S1=C01006622600& など)。

アジア歴史資料センターのアーカイブで建設当時の公文書を探すと、

・小池川橋、小佐毘川橋=由良軍道第一部 (県道76号小池川橋~佐尾大谷の分岐点:小池川橋・小佐毘川橋):明治25年4月9日着工〔アジ歴資料レファレンスコード:C07050399800〕
・大谷川下軍橋=由良軍道第三部(県道76号佐毘大谷分岐点~由良要塞砲台):明治25年4月9日着工〔アジ歴資料同上〕
・宮川橋、寺谷川橋、禅寺川橋=由良軍道第四部(洲本市道由良山田線、字宮ケ谷~連隊営舎):明治27年5月22日竣工〔C10060479200〕
・婦野川橋・婦野谷第2号橋・婦野谷第1号橋=伊張山堡塁交通路(市道婦野谷線):明治27年7月31日用地買収〔C10060559800〕

といった路線の着竣工の記録が見つかる。砲台や堡塁が完成した明治27年~28年頃には完成していたものと推定される(要塞建築には煉瓦アーチが多数採用されている。その技法を道路橋に応用したものか)。ただし小池川橋だけは明治34年頃に小池川の付け替えと練兵場拡張のため架換が行なわれている〔C07071895400〕。この橋梁だけ使われている煉瓦が異なるのはそのためだろう。

明治27年ころまでに完成していたとすれば、丹波市柏原町の徒輿橋(明治16年)に次いで全国でも2番めに古い道路用煉瓦アーチ橋となる(そもそも道路橋に煉瓦アーチを採用した例は全国でも数少ない)。また煉瓦製の軍道橋梁が多数現存しているのも稀。

橋梁名は『兵庫県の近代化遺産』から。宮川橋は左岸側の藪に「宮川軍橋」の銘の入った石材が残されている。また大谷川下軍橋と対になる「大谷川上軍橋」も存在したようで、現地には他の軍橋にも見られる欄干石が放置されている。その他陸軍連隊敷地内を流れる川にはアーチ部をフランス積みで築いた煉瓦橋の跡がある。

洲本市由良町由良、小佐毘、佐毘大谷

宮川橋:東経 134 度 56 分 32.597 秒 ,北緯 34 度 17 分 30.023 秒
寺谷川橋:東経 134 度 56 分 35.822 秒 ,北緯 34 度 17 分 22.621 秒
禅寺川橋:東経 134 度 56 分 38.371 秒 ,北緯 34 度 17 分 17.754 秒
l小池川橋:東経 134 度 56 分 47.940 秒 ,北緯 34 度 17 分 5.521 秒
小佐毘川橋:東経 134 度 56 分 51.461 秒 ,北緯 34 度 16 分 44.936 秒
大谷川下軍橋:東経 134 度 56 分 56.990 秒 ,北緯 34 度 16 分 25.266 秒
(大谷川上軍橋:東経 134 度 56 分 49.074 秒 ,北緯 34 度 16 分 17.479 秒 現存せず)
婦野川橋:東経 134 度 56 分 34.408 秒 ,北緯 34 度 17 分 7.969 秒
婦野谷2号橋:東経 134 度 56 分 13.236 秒 ,北緯 34 度 16 分 43.590 秒
婦野谷1号橋:東経 134 度 55 分 52.014 秒 ,北緯 34 度 16 分 32.628 秒
(連隊内橋梁跡:東経 134 度 56 分 36.830 秒 ,北緯 34 度 17 分 6.828 秒)

湊川隧道や武庫大橋や、もちろん明石大橋や鳴門大橋やも推したいけれども、その辺はきっと適任の誰かが投稿してくれるはず。だいいちこんな情報提供なんか期待されちゃいねえんだよ>nagajis

[独言] 10/20

友ヶ島へいく。いくったらいく。ご一緒されたい方があったらどうぞ~。たぶん始発便で渡って、帰ってこない可能性大。

[独言][滋賀県道元標] なんか、おる。


滋賀県の県道起終点には「元標」があったらしい。 122号貴生川停車場線。 509号間田長浜線。531号藤川春照線。形式はまちまちだが石で作られた標柱。径6寸5分≒20cmくらい。県の県道指定をみてググルマップで起点をみたら、それっぽいものがあるところが他にもありそげ。つづら尾崎は県道の境目(ここのは歌碑かなんかかもしらんが)。橋の親柱にもたれかけさせてるやつとか。隣に台座付きでほおってあるやつとか、いかにもそれくさい。なんなんだろう。どういう例規に沿って設けられたのか。県の道路標識の告示は平成20年代に入って制定されたあたらしいやつで看板の文字とか大きさとかを指定してる。ソレ以前に何か存在したのか。それとも道路法の付帯構造に名前だけ紛れ込んでいる「道路元標」を拡大解釈したものなのか。

いまで言う青看板とか六角看板とかで県道番号が指示されるようになる以前、県道路線を示そうとしたら、やっぱりこんな石碑を使うのが一般的だったんだろうか。既に検出している三基にはこれといった共通点がない(指定年度が昭和30年代末〜40年代初頭っていうくらいか。だからといって同じ頃の県道に必ずあるようでもないし)。長浜のは「終点」で他は「起点」。それぞれの対になるものがあるかどうかは未確認。他の県道も同様。


2018-10-18 [長年日記] この日を編集

[滋賀県道元標] 竹生島線

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E9%81%93319%E5%8F%B7%E7%AB%B9%E7%94%9F%E5%B3%B6%E7%B7%9A

竹生島の県道にも存在する。指定は昭和33年。http://www.pref.shiga.lg.jp/jourei/reiki_int/reiki_honbun/k001RG00000823.html

[滋賀県道元標] 557号終点?288号起点?

道標のようにも見える。

[滋賀県道元標] 33号西浅井余呉線起点?

これも道標のようにも見える。。。


2018-10-19 [長年日記] この日を編集

[滋賀県道元標] 281号川合千田線

紛らわしい、違うの。

滋賀県道274号虎姫停車場線

怪しい細いの

273 東野虎姫線

間違いないソレ。

134旧上馬杉寺庄線

怪しい、折れたの。


2018-10-24 [長年日記] この日を編集

[きたく] きたく

画像の説明

2018-10-25 〆のいちにち [長年日記] この日を編集

[きたく][煉瓦] 由良洞

捜し物はなんですか みつけにくいものですか ポータル上も 周囲の藪も 捜したけれどみつからないのに

画像の説明

這いつくばって這いつくばって水抜き穴の裏に漢数字十八を検出。由良側向かって右の壁の入り口から3ばんめ。nagajisはやればできる子。

そうしてまだわかやまである。@19:52

[きたく][煉瓦] きたく

出たり入ったりの怒涛の6日間。厚かましく使い込んでやった。言いたいことはいろいろあるが、とりあえず今日の発見をひとつ。

画像の説明

湯浅町重伝建地区にある角長醤油の壁。ただの長手積みかと思いきやそんなことはなく、 画像の説明

こういう形の特殊な異形煉瓦が使われている。図で書けば


 ┌┐  ┌┐
┌┘└──┘└┐
│  ┌┐  │
│┌┐││┌┐│
└┘└┘└┘└┘

的な断面をしていて、これを1個積むだけで一枚積みの煉瓦壁ができあがる。この断面の幅=長手幅=23cmだったはず。煉瓦厚は62mmくらい。面白いことにまったく手成形の肌をしている。

同じものを山田川対岸の字向島の辺りでも見た。割れてたけど。その断片には刻印は見られず。こいつが川口煉瓦の製品だったら面白いのに。

[道路元標] 湯浅町道路元標

画像の説明

偶然行き当たった湯浅町道路元標。表を彫り窪めたうえで字を刻んでいるのが面白い。こういう形式の道路元標は初めて見た。

隣に熊野古道の道標もあり、立ち止まって見る人が多いのだろうか、向かいの八百屋のおっちゃんが解説をしてくれた。熊野古道道標より元標に興味がいっちゃう人も今まで何人かいたようである。埋もれている部分まで書いて示してあげた人もいたそうだ。

[独言] いかんいかん

メールやらハガキやらなにやらたまっちょる。怒涛の返信をせねばならんが届くのはたぶん来週。


2018-10-26 [長年日記] この日を編集

[独言] 総括

1.出掛けなければ何も得られないという至極当然の現実を再確認。5日目の休養日のダルダルさを忘れてはならない。

2.友ヶ島汽船は晴れて無風でも渡れないことがある(整理券がなくなる)。

3.一度で全部を見たと思うなよ>nagajis。再訪は初訪。新鮮な処方。

4.揖斐川沿いと揖保川沿いは似ている。

4.5.長良川鉄道には1橋だけピントラスが混じっている。

5.久しぶりに担ぐと注意力が散漫になる。越美通洞、有料じゃなくて良かったな。

6.なぜ勝山に宿をとるのか。お陰でナイトランになったじゃねーか。

7.えちぜん鉄道勝山線は大野までつながっていない。

8.えちぜん鉄道勝山線は石アーチがある。

9.永春寺の沓脱ぎ石は現存しているが確認はできない。

10.中華料理北京のラーメンはフツー。食べ終わる頃にちょうどいい濃さになる。

11.湯浅町は予想通りの煉瓦パラダイス。市街地からの距離・隔離感は湯浅町くらいがベスト。

12.鹿瀬洞から湯浅まで意外と長い。

13.道端に落ちているみかんは意外と食える。

http://www.jca-library.jp/kangokukyoukaizassi/PDF2/05-01.pdf


2018-10-27 [長年日記] この日を編集

[戦前特許] 煉瓦関係:特明4734 建築用材料製造法

比較的熔解しにくい材料で粗く形をつくり、焼いて可熔成分を固めた後圧縮して所望の形状につくる。発明者(特許権者・以下同):エドワード・クリプトン・ブライス

[戦前特許] 煉瓦関係:特明12430 擬石建築材

クローム鉱を混ぜた素材を焼成して擬花崗岩の人造石を製造する 発明者:野吹秀太郎、藤江永孝、立野列助、海福悠

[戦前特許] 煉瓦関係:特明14999 装飾煉瓦石

陶磁器素地原料に雲母、マンガナイト、黄鉄鉱の粉末を混ぜて梨地様小斑紋の化粧煉瓦を製造 発明者:品川白煉瓦

[戦前特許] 煉瓦関係:特明14999 熱音響及湿気を防ぐ建築用煉瓦及板

穴あき煉瓦(等の構造物)にコルクや砂・煉瓦粉末などを充填して熱音響・湿気を防ぐ構造材料 発明者:アルノー・テッツネル

[戦前特許] 煉瓦関係:特明22482 人造石製造法

黒色白色透明の破片に石英砂・白粘土・ソーダ灰・硼砂の溶液を塗布して焼くことで作る人造石 発明者:加藤虎三郎

[戦前特許] 煉瓦関係:特明23078 天然石の廃物より人造石を製造する方法

(略) 発明者:ウォルフ・ラウフェル

[戦前特許] 煉瓦関係:特明37161 擬御影焼

白地の化粧煉瓦素地に特殊な珪石粉末を加えて焼いて作る御影石風化粧煉瓦 発明者:金森玄八、品川白煉瓦

[戦前特許] 煉瓦関係:特明40582 御影質磁器製造法

(略) 発明者:川本友太郎、加藤五助

[戦前特許] 煉瓦関係:特明60231 舗道用煉瓦

珪石粉末と粘土の混合物にポルトランドセメントを加え珪酸ソーダの水溶液を加えて練って焼成する 発明者:山内良太郎、品川白煉瓦

[戦前特許] 煉瓦関係:特明60231 舗道用煉瓦

珪石粉末と粘土の混合物にポルトランドセメントを加え珪酸ソーダの水溶液を加えて練って焼成する 発明者:山内良太郎、品川白煉瓦

[戦前特許] 煉瓦関係:特明63893 人造花崗岩の製造法

ソーダ灰を混和し圧搾成形後表面に浮き出す白色粉末に加熱した砂を付着させて焼成する 発明者:佐野時造、清水照吉

[戦前特許] 煉瓦関係:特明64786 人造温石製造法

黒鉛粘土食塩を混和して焼成 比熱の大きな「温石」を製造 発明者:古田覚念

[戦前特許] 煉瓦関係:特明65208 煉瓦製造法

耐火粘土と酸化鉄含有粘土で耐久力強大な煉瓦を製造 発明者:水野竹次郎、永田恒治

[戦前特許] 煉瓦関係:特明65208 陶磁製建築外装材料の製造法

割面を装飾に使う陶磁製外装 発明者:浅原真一、大阪陶業

[戦前特許] 煉瓦関係:特明71684 人造花崗岩

(略) 発明者:佐野時造、西遠建材工業株式会社

[戦前特許] 煉瓦関係:特明76040 御影模様擬石製造法

(略) 発明者:伊藤清吉

[戦前特許] 煉瓦関係:特明100460 「テラコッタ」製造法

(略) 発明者:三日月貞吉

[戦前特許] 煉瓦関係:特明3550 煉瓦製造機 M32.6.21

箱形の枠 四方がぱかっと開く 発明者:佐々木初吉

[戦前特許] 煉瓦関係:特明3647 煉瓦製造機

押出・切断・移動を連続的に行なう 発明者:西浦円治

[戦前特許] 煉瓦関係:特明12591 煉瓦製造機 M40.7.25

押出・切断・移動を連続的に行なう 発明者:ウォルター・オーガスタス・デハビラント

[戦前特許] 煉瓦関係:特明12591 煉瓦素地仕上機 T7.7.10

煉瓦素地を迅速に成形 小口長手をギュッとはさんで平をけずる 発明者:野崎留吉、特許権者:大阪窯業株式会社

https://www.j-platpat.inpit.go.jp/web/PU/JPC_32984/623F78CDE786EFD0E061645220893424

うーん、面白そうなんがすくないなぁ・・・

↑は湯浅町角長の煉瓦の特許とか意匠登録とかしてねえかなあと思って始めたこと。わざわざ特許総目録をコピってきて「れんが」の項目を総当りしたりしてみたけれども見当たらず。実用新案もあたってみたけど勘所がわかってないからなー。そういや金森氏の鉄筋煉瓦も出てこなかったな、あれ特許取ってなかったけか。別の鉄筋煉瓦は出てきたんだけどさ。

[独言] 煉瓦に塩

「大阪では煉瓦の発色をよくするために塩を入れて焼く」云々という話を どこかで読んだ記憶があるのだけれども出典を見つけられず。つい最近仕入れた情報だった筈なんだが。近デジで「煉瓦」総当りした時だったか、新聞記事だったか、そのいずれでもない何かか。出処のわからない情報ほどもやもやするものはない。況んや⊿div=0の原点が自分自身というに於てをや。

胎土を数ヶ月〜数年寝かせてから使うのも「近年ではほとんどしなくなった」と読んだことがある。それは近デジの煉瓦製造法のどれか。発行日降順で古いのから順に見ていったどこかやねん。くそう。そういうメモをするためにここがあるんちゃうんか>nagajis。

そんなこんなに記憶が怪しくなりつつある昨今(否昨今に始まったことでもないか)。その如き状況下で仮説を積み上げ続けるのは危険極まりなく、だから一度「確実なこと」を書きまとめて基壇を作っておかねばならんのではないかと焦っているのである。


2018-10-28 [長年日記] この日を編集

[独言][煉瓦刻印][煉瓦工場] 藪蛇な発見

画像の説明

思い余って丹治に行ってみたのだけれども、最後の最後に、外壁の一部に大正丹治(左ズレ)刻印があるのを発見してしまった。しかも4、5個。

現時点ではこの刻印、大正時代の合資会社時代の社章と考えていたのだけれども、だとすると建物自体も比較的新しいものということになってしまう。而してこの基礎、建物本体の角の柱状部(白く塗られている部分)に踏まれている。追築ではあり得ないということに。(載っている壁は新しく見えるけれども、表張りをし変えただけのようで、建物側は他と同じ煉瓦が全面に積まれている)

表の透かし積みの煉瓦には確かに丸丹マークがある。そしてその煉瓦とは質を異にする化粧仕上げの煉瓦が壁面には使われている。表面を撫でて磨いてあるつるつるした煉瓦だ(故に取り砂が一切ついていない)。左ズレの煉瓦や建物内部に面しているものは普通の仕上げだ。

丹治のシェフさん曰く、正確な竣工年はわかってないとのことだったけれども……。わかればこの謎も解けるんだろうか。それとも謎が重なって身動き取れなくなるだけだろーか。

[煉瓦刻印] カナ刻印二題@堺市

画像の説明

画像の説明

こっちのほうは素直な発見。今まで堺市域で見つけられていなかったカナ刻印。上は翁橋町の空き地で。「ス」っていうことはイロハの最後だから、少なくとも50人以上はいた会社ということになる。下は賑町の煉瓦溝の近くで。以前来た時も見てたんじゃないか?という位置にあったが見逃している。

カナ=旭商社と推測するのであれば、堺市域でもカナ刻印が見つからなければオカシイ。この発見でそれをクリアしたことになる。できれば漢数字も見つかってほしいところだけれども……難しいだろ-な-。

[独言] 千体

帰りに千体村の辺りから北へ歩いてみたが、例によってめぼしい発見はなし。旧版地形図で市街地の位置を確認しつつ歩いてみたんだけれど。昭和初期にこの辺りにはいくつか工場があったらしいが跡地はいずれも学校になっていて痕跡を留めない。煉瓦センサーが反応する路地はあっても見つかるのは岸煉とか日本煉瓦とか六稜星とか、そして大半は無刻印手成形の崩れたやつ。三栄組とかあれとかこれとか、どこいっちゃったんやろ。

[独言] クリアにならないことが多すぎる

調べれば調べるほど謎が増えたり反証が出てきたりしてますますカオスになっていく。運気もなんだか下がりっぱなしなカンジだ。進め急いでいるのかも知れぬと思ってみたりもするしとにかく情報を蓄積していくべきかも知れぬとも思ってみたり。それか現状の情報を再整理して一度固めたほうがよいような気もする。しかしそれやっちゃうとやることがなくなりそうでもある。うーむ、八方塞がりってえやつか。

まー、できてもできなくっても世の中は変わんねえんだ。↑の状況なんか無視して続けたらええねん。やったらええねん。やってもやらんくてもnagajisの価値は変わらずゼロなんだぜ。


2018-10-29 [長年日記] この日を編集

[独言][煉瓦刻印] 丸丹マークと筋の関係

画像の説明

創作イタリアン丹治さんはずいぶん繁盛してはるようで、予約なしで行ってしまった私はいつ空くともわからない空き席を待つ羽目になった(そりゃそうだ、ジャストお昼時に飛び込みで行くほうが悪いのだよ)。その待ち時間の間に例の透かし積みを眺めていて面白いことを思いついた。刻印の向きと筋との位置関係をこの壁で確認できるんじゃないかと。

関西地方の手成形煉瓦には平の一方に顕著な傷がついている。一方の長手の縁から平内側に向かって数ミリ~1cmほど入ったところに長手に沿う傷がある。煉瓦を製造する際の作業痕と考えられていて、その成因にはいろんな説があるけれども、決定的なものがない。高々100年前の人の仕業であるのにどうやって作っていたかも不明になっているわけで、どうにかしてこの傷のつく理由を知りたいと常々考えている。

ありがたいことに?丸丹マークは天地がある。「丹」の字が正しく読める向きが、このマークを打刻した際に煉瓦が置かれていた向きであるはず。マークの向きが作業配置を記録しているともいえる。好き好んで逆さまに押したり横向きに押したりすることはまああるまい(よほど退屈して「違うことやったろ」とか思わん限り)。

このマークと筋の位置関係を確認したら、筋の成因についてなんかわかるんやないかと、そう思ったわけである。ついでに丸丹は裏表に押されるタイプなので必ず筋の側に刻印があるという利点もある。

丸丹マークが小口前(縦長配置で正しく読める向き)で押される場合は、マークの右側か左側かに筋がくることになる。左側を「|丹」、右側を「丹|」としよう(写真の煉瓦の場合は「|丹」)。長手前配置の場合は上か下かなので「 ̄丹」「_丹」とでもしとく。それで表の透かし積み煉瓦を端々まで確認した結果、明らかに筋が確認できたものだけで、

|丹:21個
丹|:19個
 ̄丹:4個
_丹:0個

という結果になった。まず「_丹」が全くなく長手前で押される場合は必ず筋が上になっている(筋が上になった配置の煉瓦に打刻されている)のが興味深い。そうして「 ̄丹」よりも「|丹」「丹|」のほうが多く、右左はほとんど同じくらいの数だというのも意外。どっちか一方しかなくても良さそうなのだけれど。煉瓦造りは流れ作業だったはずだから工場内で固定のやり方があったはずだし……。これはおそらく右利き左利きの反映ではないだろう。どちらも同じくらいの数だから。

煉瓦の表裏でマークの向きがどうなっているかも確認してみた。「|丹」や「丹|」の場合は裏表で刻印の向きが同じだった。「 ̄丹」は必ず逆になっている。長手軸にくるっと回すと刻印が正対するように押されている。長手を軸にしてひっくり返して打刻したことの証左だ。確かにそのほうがひっくり返しやすかろう、なにしろ2kgくらいある生乾きの煉瓦なのだから、必要最小限の移動回転で済む向きにひっくり返す方向に作業は洗練されていくはずだ。他社の刻印も長手前の場合は長手軸で回転させて打刻したものが多いような印象がある。五稜星なんかは長手前で、しかし筋側の刻印は筋を下にして置いた時に正対する向きだった。

以上の結果から勝手な想像をしてみた。播煉で伺った話では、前に粘土を詰めるための作業台、左手に台に直角に取り板を置いていたそうだ。作業台の上で型枠に詰めた粘土を型枠ごと持ち上げて回れ左して取り板に取った。幅約30cm、長さ約1mの取り板に4個から5個おナマをとって、それを取り板ごと一次乾燥場へ運んだ(天日干しする前に室内で乾燥させる場所があって、そこで一度ひっくり返して乾かしていた。取り板に取った際に下になっていた面も乾燥させ、天日干しで積み上げても型崩れしない程度に乾かしたわけである)。播煉では一次乾燥場でひっくり返す際に打刻したそうだが、丹治ではどうだったろう。

ふむ。「|丹」「丹|」「 ̄丹」が混在しているということは、成形時に押したものとは考えにくいちうことになる。成形者が型枠に詰めた直後に押していたら---粘土詰めてその場で打刻してという流れであったら例の筋との位置関係が単一になるだろう。刻印が押されるタイミングと筋がつくタイミングが同じ工程内であれば、丸丹マークが縦だったり横だったりはしないのではないか。(←は木枠の向きに好みがあったといことで説明できんこともないだろうけど。木枠を長手前に置いて粘土を詰めるのか小口前で粘土を詰めるのか二通りはあり得るが、播煉の方は長手前にしないと土を投げ込むのがうまくいかないといっていたし、確かにそうだと思うので、基本的にはみな同じようにやってたんじゃないかとは思う。少なくとも同じ工場内ではどちらか一方、流儀があったんじゃなかろうか)

筋が成形の時につくものだとして、ここで取り板が「左もしくは右」にあって、取り板の上で打刻したのだとしたら、「|丹」「丹|」が同じ程度の数できるかも知れない。例えば取り板を置く台が隣の作業者と供用になっていて、作業者の位置によっては回れ左だったり回れ右だったりすると。あ、そうすると粘土の山とか取り砂とかも共用できるな。こんなかんじで。

┌───────────────────────┐○:作業者
│  粘土    粘土    粘土    粘土  │
│  粘土    粘土    粘土    粘土  │
├┬───┬┬┬───┬┬┬───┬┬┬───┬┤
││○水○│││○水○│││○水○│││○水○││←取り板
└┘ ・ └┴┘ ・ └┴┘ ・ └┴┘ ・ └┘
   砂     砂     砂     砂

じゃあ「 ̄丹」が存在するのは何でなんだぜ? と考えた時に「|丹」または「|丹」と「 ̄丹」の比率がだいたい4:1だということに気づいた。取り板には5個くらい取ったというから、そのうちの1つだけ長手前で打刻した(その向きでの作業のほうが楽だった)としたら辻褄が合いやしないか。

┌───────────────────────┐○:作業者
│  粘土    粘土    粘土    粘土  │
│  粘土    粘土    粘土    粘土  │
├┬───┬┬┬───┬┬┬───┬┬┬───┬┤
││ 水○│││○水○│││○水○│││○水○││←取り板
└┘ ・ └┴┘ ・ └┴┘ ・ └┴┘ ・ └┘
○← 砂     砂     砂     砂

のいちばんひだりの作業者みたく。その向きでの打刻が次の作業に繋がりやすい向きだったのでこの側から打刻したと。

以上は成形担当が刻印を押すことを想定した場合だけれども、丹治煉瓦でも播煉同様一次乾燥のときに打刻したのだとすればどうだろう。最後の一個だけ長手前に押す向きで作業するのが楽だというひっくり返し方=長手軸でひっくり返す作業をしたのだとすれば、最後の一個は自然その向きから作業するほうが楽なんではないか。下図白丸の位置から長手軸に回転させようとするとかなり身を乗り出して作業せねばならない。そうでなくてもどちらかの手を長く差し出して作業せにゃならんのでそのうち疲れる。●の位置からだと同じ程度に手を伸ばして同じような力の入れ方で作業できるだろう。

 ┌──────────┐
 │┌┐┌┐┌┐┌┐┌┐│
           │ ●→│││││││││││
 │└┘└┘└┘└┘└┘│
   └───↑─↑─↑─↑┘
    ○ ○ ○ ○ 

ただこういう位置に立って作業できたかどうかは謎。棚から取り板ごと取り出して作業台か何かの上に移さないとこの立ち位置には立てないだろう。

取り板に取ったおナマの筋は、この時点ではすべて向きが揃っているはずで、それに対してどの位置から打刻するかによって小口前だったり長手前だったりするんではなかろうか。そうでなくて傷も一次乾燥場でつくんだったとしたら? それだと「|丹」「丹|」が同じ程度あること&「_丹」がないことを説明できないか。板のどちらがわから作業しても、その作業の手順が同じである限り同じものができあがりそうだ。

てなことを調べ、考え終えてもまだ空き席が生じなかったくらいに丹治さんは賑わっている。行くんだったら予め予約しとくべき。うん。

[独言] 御礼

てなことを書こうと考えながら仕事をしていると電話がかかってきた。丹治煉瓦の建物をリノベーションされた設計事務所の方からだった(泉大津越智嗣夫建築研究室さん)。レストランのシェフさんに厚かましくもお願いしていたワタリがこうも早く繋がろうとは思っていなかったのでビックリした。越智さんによればやはり建築年代は厳密にはわかっていないとのこと。堺市の教育委員会さんもずいぶん調べはったそうなので、それでもわからないということは本当にわからないのに違いない。先に住まわれていた方が住居として使用する際に手が加えられていたけれども、基本的な構造はほぼ当時のものと思われ(建具とかレリーフとか)、現在の形に改装するにあたってもできるだけ手をつけないよう&原型を保つよう苦心されたそうである。確かに内部の壁はわずかな鉄骨で効率的に補強してはる。考えてみればあの建物は煉瓦製の四角い箱でしかない(内部に間仕切りになるような構造がないのだ)からなあ。そうそう、リノベの際には遊離煉瓦は全く出てこなかったし、補強も最小限な加工でとどめたので、外面から確認できる刻印以外は見つかっていないとのことだった。そんなこんなの重要情報を賜ったのであった。

黄色矢印で示した位置には以前は別の建屋がくっついていたという(確かに壁にその屋根の形が残っている)。該煉瓦の辺りもその時に入替えられた可能性もないわけではない。ただその上の壁の煉瓦と本体建屋の壁の煉瓦は同じなので同時に作られたようでもあるし、ここだけ整形でないのは表から見えない部分だからかも知れぬ(建物本体も内壁側は通常仕上げの煉瓦だった)。このへんはもう一度よく観察してみないといかんな。

むしろ「丸丹」マークを使用し始めたのが「〓」マークより後だったとしたらどうだろう? 丸丹マークを明治時代の社章だと考えていたのはあの建物が明治30年頃建設されたという通説?に従ってそう考えていただけで、私自身は他の明治時代の建造物に丸丹マークを検出したことはないのだった(「〓」マークも年代が確定している構造物で見たことがないな、そういえば。箕面の桜井住宅地(M44分譲開始)で「〓」を見ているけれども溝だから確証は持てない) 。

↑の心配は杞憂。神戸臨港線の橋台(M40竣工)で丸丹が見つかっておる(神戸臨港線南本町架道橋範囲確認調査報告書)。

画像の説明「〓」マークは京阪神商工録(T7刊)に丹治煉瓦合資会社の社章として掲げられている。だとすると株式会社~合資会社の端境期、明治末から大正初期にかけてということになるのかも知れぬ。あるいは該当部分のみ大正期の後補と。そう考えるほうが精神衛生上よろしいのかも知れぬ。

ともあれ、お忙しい中手を止めて解説をしてくださったうえ、越智さんへご連絡してくださった上野シェフ、どこの馬の骨ともわからない私にご連絡下さった越智さんには、多大なる感謝を申し上げたい。(ここを見て下さったと言われてしまったのでビクビクしながら書いている私。なんとも小心者である)


2018-10-31 [長年日記] この日を編集

[煉瓦工場] 拡げる

まったくふじゅんなどうきからかくちょうをはじめる。わはは。そういう動機でもなければやらんだろ。やらんかったら中途半端で終わるだろ。

[独言][産業遺産] 勝山市 はたや記念館 ゆめおーれ勝山

先日勝山市を通った時に出会った記念館。もと羽二重織の工場だった建物を再生して勝山の織物工業の歴史を教えてくれる施設になっている。

2階のこの展示が素晴らしい。糸繰り機や整経機などが動態展示されている。糸はさすがにループで回してあるけれども、これだけ各種の機械が律儀に動いている姿はなかなか見られるもんじゃない。何よりステキなのが、当時のやりかたと全く同じ方法で動力を取っているところ。ひとつのモーターの回転を、革ベルトとプーリーを介して各機械に伝達するという、当時のやり方をそのまま再現している。この機械たちはたった一つのモーターで動いておるのだ。それが昔の工場の極普通であって、今じゃまず見ることのできない仕業なのである。素晴らしい。ああ素晴らしい。オーチンハラショー。

奥にある羽二重の織機も動かして下さった。樋を左右に飛ばす仕組みがどうしてもわからなかったのだが---要するにピンボールのフリッパーではたくような感じで左から右、右から左と飛ばすのだけれども、それに動作を与えているらしい回転が2回転したところで1度樋が飛ぶ。どういうタイミングの取り方をしてるんだろう---、樋を受け・飛ばす構造体とそれを動かすバーとを接続するのに厚い刺子の布を使ってあるのは意味がわかった。樋を受けた時のショックをそこで吸収しているのだ。刺子布は樋受け部についてる棒に半分巻き付くような形で取り付けられていて、それをグイと引っ張ることで樋を飛ばす。逆に樋を受ける場合はその布と棒の摩擦&厚い刺子織りが曲がることで衝撃を吸収する。もし樋受けと機構がリンク構造かなんかで結ばれていたら樋受けにあたった瞬間に跳ね返ってしまって送り返せないだろう。どこかにショックを吸収する機構を入れればリンクでもいいんだろうけど、たぶんすごく煩雑になる。そのへんのややこしいところを刺子布一枚で処理しているところに感動を覚えたことだった。

[料理][独言] チキンラーメンをくう

夜食にチキンラーメンをしばいたろうと思い立った時に常温保存かつ1週間ほど賞味期限が切れていた卵が出てきたのだが何の躊躇いもなく食べてしまえたところに生命讃歌を聴いた気がした。あちこちガタが来ているくせに胃袋と外因に対する免疫力だけは衰え知らずなようである。なにしろ金と食うものに困って2週間前の常温放置のサンドイッチを食っても何事も起らなかったような胃袋だからな。とはいえ症状が出るとしたら明日の朝とか今晩就寝中だろうからここで結果をご報告することができないのは残念である。

こんな胃袋でも貝類の毒には正しく反応するようで冷凍庫に一年間近く入れっぱなしになっていたホタテを食った時にはさすがに胃が痛くなった。偉いものだと思う。


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