nagajisの日不定記。
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インストールできんくなってね? まいったなあ。。。
温泉寺の本堂を支える石垣がなかなか味わい深い。2つの曲面石の隙間にぴったり落とし込まれた尖石の安定感、笠石の天辺の安穏に対する底面の凸凹。水鳥のたゆたう姿とその脚の脈動の比に似ている。
天辺石の根のあたりを観察すると、切り込み接ぎの加工が面(つら)の部分だけであることがよくわかる。根の方はある意味適当でも構わなかった。表面さえきっちり噛ませてあれば十分なのだし経済的にも可能な範囲であった。而して律儀に根のほうまで加工したのが備前閑谷学校の外壁。現代石工がいくら金を積まれても同じものは作れないと宣った理由はその辺にある。
看板が置かれているのは閉鎖された駐車場の端だった。恐らくその辺に駐車場のOUTがあったのだろうが金網で塞がれていて用をなしていない。そこから出ることはできない。故にテープで目隠しをされたのだろうとは理解できるがその結果出来上がったこれには玄妙な味わい深さがある。矢印によって示された「方向」の存在感は健在でありしかしそのベクトルの「価値」、あるいは「ベクトルの絶対値」といってもよいかもしれない、は隠されている。純に方向を示すだけの矢印。
矢印にもテープを張るべきだったのではないかと思ったりもするが現状でも必要十分なようでもあるしどう張ったら適確な目隠しとなるかにわかには思いつかない。矢印の鏃の部分にだけ貼っても不足しそうだしかえって目立ってしまうかも知れぬ。
ふだん何気なく見ているもの・聞いているものが奇妙な変形をしたときに「おもしろさ」を感じる。済ましたお嬢さんが屁をこくとか威厳高々のおっさんのヅラは取れたとかいうときの意外性。「ふとんがふっとんだ」という、聞き慣れたことばの組み合わせの意外性。「ふとん」も「ふっとぶ」もそれ単体では面白くもないが二つ組み合わさった時に生じる第三の意味に意外性を感じ、笑うことができる。これ即ち、常識からわずかにズレたところに着眼することから生じる面白さである。
「面白い」という感情を煎じて煮詰めていけば「快」の刺激であるだろう。腹が立つムカムカすることを面白いとは思わない。そうして人間は原理的に「快」の感情を好む。「快」を感じること、「面白い」を追求した結果が、言語であり恊働であり技術であり現代社会であるんじゃないか。
その間の変化が決して一足飛びでないのは、「ちょっとずれた興味」を「面白いもの」として追求し続けた結果ではないか。δfの積み重ねによるものではないか。核融合炉が完成していない時点でそれ以上のエネルギー源を発現することはできないだろうし(想像することはできるにしても)携帯電話に金を払っているうちはテレパシーなど発達すまい。時おり突拍子もない発明があったりするとはいえ、やはり身近な何かから発生した「隣接する何か」であるだろう。前の例もあまり相応しくない。セロテープの代わりにウドバヘリンとか豆を挽かなくても飲めるホヌールとかいうようなものは出て来ない。そんな感じ。
「ちょっとしたずれ」に「快」を感じるのは神経回路網の開閉とそれによって生じる微弱電流と関係有るのかも知れない。「ちょっとずれたもの」のほうが脳の中でもなんとなく近いところにありそうで、そういうのだから繋がりやすく(開路を形成しやすく)、そうして繋がった回路にシグナルが周ることで「快」を感じるようにできているのかも知れない。思いもよらぬものが繋がった時のおかしさは脳内遠方の記憶領域同士が繋がった特殊な状態ゆえに[面白い」が深かったりゲラゲラ笑ったりするのかもしれない。ただそんな遠方との連絡は万人に同様に起こるわけではないだろうから「新しいものは理解されるのに時間が掛かる」とか「新しいものは醜いので理解されない」とかいったピカソの言葉のごとくな状況を生み出す。岡本太郎の絵だってリアルタイムで見ていた者にはわかりづらいところがあった。勢いがあるというばかりで「良さ」を感じなかった(子供だったのもあるだろうし)。けれどもいまそれを見てみた時には大きな「快」を感じてこういうのを芸術というのだろうなあと思う。しかしそれも岡本太郎の作品を自身の歴史の中に取り込んで捉えているから「すこしずれたもの」に見えるだけなのかも知れない。要は「見慣れたもの」との対比で捉えられるようになったからであるかも知れない(そうしてどんな「見慣れたもの」とも合致しない美がある故にuniqueなもものと理解されるようになったわけであるかも知れない)。そうして今度はそれを原点としてδfを求めるようになり、自分はまあ無理だとしても、そこからまた別の異なる新しいものを生み出す人が現れていくことだろう。そんなことの積み重ね。バロック音楽からいきなりヘヴィーメタルは生まれない。
「お約束」を少し傾けてみること。角を削ってそこに草を生やしてみること。「お約束」の周りだけでやっていれば多分ずっと世間に近くでいられる。削った角から生やした草の先に花を咲かせてその蜜を集めて蜂蜜を作ったりし始めると世間と乖離し始める。「お約束」に依存せずとも「快」を究めることはできるはずで、そうして周縁部へ周縁部へと向かっていき続ければnagajisになるわけだ。自分の「快」のみ追求していけば彼岸の彼方にだって宇宙にだって行ける。それを良しとしない人だけが人の域に留まって世の発展に尽くすことができるのだろう。他に誰も興味を抱かないでっかいΔfを踏んでいる私はただそれだけの存在である。
てな感じのことを昨晩寝ながら考えていたのだけれども、はて、本当にこんな感じだったかしらん。もっと根本原理っぽいことを気づいた気がするんだがな。それに自他不二の事事無礙法界が絡んできたごちぁる。異にして同、の中におけるnagajisの立ち位置と考えた時に、結局のところ同の方向へ進んだところで同は同であってなんもない。異の方向にδfを尖らせたほうが同の総体としてδf増える。そうしてどんなにがんばってもδfにしかならない。それで構わない。そういうもの。
世の中の他人を全くの他人と見れば生きづらい。それを自分のある面を反映する鏡だと見れば、結構冷静になれる。いきがっているヤンキーの兄ちゃんも、自分が抱く自尊心を拡大解釈濃縮還元したものと見ればなるほどなと思われる。子供っぽい言動で困らせる人、同じ話題を繰り返して飽きない人、常に怒りをぶちまけている人。自分が抱く同じ感情の延長線上のものと考えると別段苦にならないというかスルーできるというか。その延長を試みることが即ち事事無礙なりし法界なんではないかしらん。同情、ともちょっと違うな、そう理解すること。δfを測ること。無縁のものと突き放すから快くないわけだ。
土曜日に歩き回ったのが日曜日を透過して今日まで続いている感じ。そんなに足を使ったかなあと首をかしげるような行程だったしむしろ運動量としては先週いっぱいの復旧活動のほうが体を使っていると思うのだけれども。まるで筋肉痛が翌々日に発生したような状況ではある。しかし傷みは筋肉痛らしくない。単にパンパンに張っているだけのよう。今まであまり感じたことのない類の疲労感。
荷もそんなに重くなかったし(後半は煉瓦1個積んでいたが)。等比級数的に廊下が進んでいるのだろうか。動く歩道的な。えっさほいさ駆け続けないと土間まで押し流されそうだ。
あ、あれ塗って毟っとかないと…そのために風呂入ったのにもう足が乾いてしまった。
[独言]タグは独り言とか見栄を切ったくせに該投稿にはついてねーじゃねーか。ばーかばーか>nagajis
取り掛かっている。原稿はすでに8割方できてるんだから楽勝楽勝……などと余裕をぶっこいていたら案の定遅々として進まない。十数回にわたって撮影した写真の山から該当場面を探し出すのに時間がかかる。残り2割の書き足しに手間を取られる。できあがっているはずの8割に手を加えたくなる(なんか根本的なところを間違ってるし)。相変わらずの体たらくである。これに関連リンクとかつけはじめたらそれだけで一晩潰れそうな塩梅だ。
6月末締め切りの原稿2本を上げたところで半分燃え尽きた模様である。音水を断念した残念を叩き込んだしな。そして上述の通り原稿の粗筋はできていたという気安さもある。しかし案の定たることが案の定判明して案の定の焦り中。あと落合川橋梁も書かなあかんのよ君。
だいたいさぁ、調査のキモだった大879−2を間違えるなんて、どーよ。他人事みたようなじゃないか。え。これからはKINIAS投稿を最終版として重要なデータはそっからとってくるように>nagajis。
ようやく感覚として理解されるようになった気がする。日本史世界史を暗記するように、あるいは数学の定理のように、「そういうものとして理解する」んではなくて、省悟として。&、取って返さないと死人禅だということも。だってそれこそ無法地帯だものな、自分も他人も同一物なら手当り次第にぬっ殺しても金品を奪ってもお咎めなしってことになる。そうじゃない。同じだからこそ大切にせよってゆう話。だし勝手に帰ってくるもののはず。
多少見え方は変わるけれどもモノは以前通りのモノであり続けているはずで。あ。仏陀はモノまで言及してねえか。でもまあ人に優しくする理由にはなるだろうなあ、それが自分自身でもあるのなら大事にしなきゃあ。いや違うか、「自分自身」というものもないのだなあ。巨大な一つの集合知みたいなもんか。
あれ、自己嫌悪ってどこに落ち着くんだろう? 自分が嫌いだったらこの感覚は生まれない。齢をとって自己嫌悪に飽きちゃったということかしらんねぇ。
https://archive.org/stream/steelrailstheir02sellgoog#page/n28/mode/2up/search/A.S.C.E+rail+standard
1893年8月2日に提出された。明治26年。じゃあ日本がM30に採用したっていうのは何なんだ。
上記資料は結構おもしろい。ASCEの重レールが製造業者に受け入れられなかったのはベースのエッジが薄すぎて作るのが難しかったためだという。んでARAがARAためて1907年10月に提出した規格の重レールができる。ARA-AとARA-Bの2シェイプ。これもいろいろ問題があったっぽくて、これとは別にPennsylvania Railroad systemのjoint comitte(東西ピッツバーグの機械・土木技術者の集まり)が85ポンドと100ポンドを再設計している。1907年9月のこと。してそれも多少修正が加えられて現在?に至る。そんな感じのことが事細かく書かれてある。
最も困るやつである。自分自身がナニモノなのかわかっていない人間が自身の肩書を正しく設定できるわけがない。研究者でもなければ物書きでもない、しかしマニアとは呼ばれたくなく数奇者という語は文脈的に相応しくない。一個人も同様。初めて会う人間に「人です」と自己紹介されても困るだろうしそもそも誌の品位を貶めるわけにはゆかぬ。そんなよくわかんない奴に書かせるような誌なのかと思われては困る。しかも本文で大見得を切っている以上それなりに納得されるようなナニかを肩に載せねばならない。困ったことだ。
ほんとうは以前にここで書いたみたいに「肩書はnagajis」と言いたいところなのだが許されないんだろうなあ。実際他に無いんだから「ありません」で通らねえかなあ。
岡町の商店街の裏で遭遇。嗚呼こんな所にも三石窯業が。標記のしかたは比較的新しいもので耐火度の記載が義務付けられなくなって以降三石窯業が三石耐火煉瓦に吸収合併されるまでの間のもののはず。今のJISだとC類とつくのは耐火断熱煉瓦になるのだけれども、さてこれはどうだろうか。質感は耐火っぽいけれどそもそも耐火断熱煉瓦のC類は硬いやつなんだよね。
国立国会図書館関西館まで行って取ってきた旧JIS、ちゃんと使わないと損だよなあ。
ぼろんちょ。ぷいぷいのしげる。
最近野菜が安くなってくれたお陰で野菜をたっぷり入れたラーメンを食べることができてうれしい。しかし水加減の勘所がなかなか掴めない。すんげえ濃いちょっぴりのスープになるか汁気たっぷりの薄々なスープかの両極端にしかならぬ。丁度いい濃さの適量の野菜たっぷりラーメンを食したいものである。
煮てスープを投入した野菜群に別に茹でて湯切りした麺を合わせるという技を編み出してみた。こうすると野菜に邪魔されて麺が解けないという悲しい状況は少なくとも回避できる。別に野菜を茹でることでスープ量も調整できると思いきやそれでも上手く行かないのは単に目分量の目盛りが較正されてないからだろうと思い何度も繰り返してはいるが結局薄々スープにしかならないのは具であるもとい愚であるだろう。
最近は薄味になることを見越してアジフライだとかコロッケだとかを買い添えるという暴挙に出るようになった。ソースをドバドバかけて品のない濃い味にした揚げ物と交互に食べることでバランスを取ろうという魂胆である。これもまた愚かなことである。そういえばコロッケの中身の素材が何なのか未だに知らない。すりつぶしたジャガイモか何かだろうか。
よく行くスーパーには惣菜売り場が二箇所あって揚げ物も二箇所で売られている。よく行く時間帯には一方は20%引きでそこでばかり買っていたけれども今日もう一方のを覗いたら半額になっていた。同じようなコロッケ2個が20%引きと半額とだったら半額のほうを買わずにはおれない。また少し賢くなったように思う。
そういや最近牛肉を食べてないなあ。食べたいという思いはないが何となくバランスが悪いとは思う。動物性タンパク質を摂るためだけなら鶏肉でも豚肉でもよいと思うし必要十分なのだけれども気づいてしまうとちょっとあれだ。贅沢なものだ。久しぶりに牛すじ肉でカレーでも作ろうか。しかしこの暑さだとカレーの作りおきができそうにないなあ。そんなもの作る暇があったら後編をあげてしまえと思わないでもないし。
https://en.wikipedia.org/wiki/Lackawanna_Steel_Company
やっぱりenは充実してるねえ。いいねえ。
すっかり見くびっていたけれども、Lackawannaは米国の独立系製鋼会社の雄だった時期があるような大会社であったそうだ。ペンシルベニア州の小さな町にScrantonファミリーの個人工場として始まり(1840)独自設計の高炉を完成させるのに苦労したりしたものの(1841-43)米国初のTレール製造とエリー鉄道への供給(1846頃)を契機として大手製鋼会社にのしあがった。工場の周りに街ができ、鉄道会社も含めた「垂直統合経営」をして、それで町の名もScrantonと改名されている(1851)。
LACKAWANNAを名乗り始めるのは1853年。Lackawanna Iron and Coal CompanyをScraton Co.が経営する格好。しかし人件費の高騰だとか1873年前後の不況だとかでずいぶん苦んだ末に1900年にニューヨーク州ウェストセネカに本拠地を移す。オンタリオ湖の南岸少々内陸部。して1902年にはLackawanna Steel Companyに再編されて、この頃には「世界最大」の独立系製鋼会社の誉を恣にした。しかしここでも市との折り合いがうまくいかなかったり労働争議に巻き込まれたり苦労した模様である。
最終的に1922年、Bethlehem Steel Co.に買収されて独歩をやめた。そうして1982年まで同社工場として稼働した末廃止。工場の一部はLackawanna市の所有となり小規模な鉄鋼製品工場としていまでも稼働中(のはず。ただし2016年に大規模な火災に見舞われとる)。
Lackawanna谷(Scranton市の周辺)は石炭も無煙炭も鉄鉱石も産出した。一つところで完結できる強みがあったようだ。メサビ鉄山にも近いみたいだしニューヨークもすぐそこだしねぇ。なんで日本に入ってくるのが遅かったんだろう。
予告通り今夜はカレー。牛すじ肉は馬鹿みたいに高かったのでパス、かわりに豚バラブロックをつかってセロリ一束ニンジン二本馬鈴薯五個を放り込んで余ってたチンゲンサイ一株および小松菜を入れて。最後に味噌を入れて味噌風味カレーを試してみようかとも思ったのだが既のところで止めた。失敗したら嫌だからな。
火口がひとつしかないので完成するまで3時間近くかかるのがつらい。そのかわり並行仕事が捗って有難い。
http://www.albert-gieseler.de/dampf_de/firmen0/firmadet259.shtml
すばらしい!ドイツにもこういうページがあるんだ。独語はチンゲンサイ、じゃねえチンプンカンプンなので機械翻訳頼り。
無論de.wikipedia.orgにもページが有る。
https://de.wikipedia.org/wiki/Gewerkschaft_Deutscher_Kaiser
Gewerkschaft=労働組合。ドイツ皇帝労働組合、ってなんかかっこええなあ。でも元は炭鉱会社で、1885年にティッセンがKuxe(鉱山組合の株みたいなもん)を購入しティッセン傘下っぽくなって、1890年にBruckhausen製鋼所を併設(シーメンス平炉)、そして1897年頃には高炉も備えて銑鉄一貫工場に(といってもどうなんだろ、単一の工場としてではないんだと思う。エリアにおける製鉄コングロマリットとかいうやつのはず)。1919年には August-Thyssen-Hütte と Gewerkschaft Friedrich Thyssenに分割されて後者は1926年にヴェレニッテ・シュタルヴェルケ(米国製鉄所AG)へ。ヴェレニッテ・シュタルヴェルケ。このドイツ感ときたらもう、たまらん。何遍でも呟いてしまいたくなる。
てことはそうか、DKレールは1890〜1919までしか存在しないんか。
独語も仏語もわからんのに一生懸命機械翻訳して理解を試みている。原理は英語と一緒。怪しいと思う訳は単語で検索してみる。お陰でVereinigte Stahlwerke AGの訳のおかしさに気づき、第一次大戦後にできた巨大カルテル・合同製鋼株式会社だと気づくことができた。どこが米国製鉄所やねん。
そんなこんなのちまちました書き直しを一日中続ける。誰かの役に立つためとか金銭のためとかいう次元を超えて純粋に「つくり上げること」に集中している。よきかなよきかな。そうやって蒔いた種がいつか奇妙な花になり自分の身になる実ができるかも試練。そう、これは試練なのである。
残すは・・・UNIONと○S×2のアキとホッパーの図。THYSSENまわり。まとめとEXCELの再整理。THYSSENという名のつく製鋼所は馬鹿みたいに多く変遷も複雑である。諦めて軽く流そうかしらん。
数少ない贅沢のひとつとして夏は白くまを食うことを自分に許している。小さい頃兄貴がうまそうに食べていたアイス。どこからそんな金を手に入れていたのか、今更聞く気も起らないが、当時はそれが不思議でならなかった。ブラックモンブランやホームランバーでさえ50円もした。白くまはその4倍近くする。それだけでもう贅沢の極みである。レディーボーデンハーゲンダッツ何するものぞ。白くまを食いたい時に食いたいだけ食う。至高の贅沢である。そういう無駄遣いの積み重ねが貧乏を呼ぶのだとわかっていても止められない。そういう星の下に生まれた、とは言わぬ。そうなるように自分で仕向けているだけであって第三者的お星様にその罪を着せるのは卑怯だろう。
原稿書きばかりしている日曜日の昼間は眠くて眠くて仕方ない。ちょっと書いては席を立ち、戻ってちょろっと書いてはまた立って、を繰り返して、最後は万年床に倒れ伏してしまう。このまま眠りたいと切に思う。けれどもそこで寝てしまうと生活リズムも進捗も狂ってしまう。悩む。
床の中で眠気に浸りつつ眠らないでいるひとときが結構憂鬱だ。進捗がはかばかしくない時は特に。もっと身になるようなこととか快楽に繋がることとかやったほうがなんぼか有益だろうになあと思うものの別の何かを始めるには遅すぎる時間帯。だったらちびちびとでも進めておいたほうがいいに違いないと思い直してやおら起き直り机に向かう。そうしてその改心も30分と持った試しがない。
結局原稿の大半は夕方以降に進み始めることになる。今日は特に、相撲中継を聞きながら一瞬だけ寝落ちしたのが効いたみたいだ。眠い時は10分ほどの仮眠が効果的だというけれども、完全な眠りに落ちる直前に現世に帰って来るような寝方でも結構きくものである。そんな眠りのおかげで少しはすっきりした。そうそう、その後にコーナンへ行ったのも効果があったと思う。
コーナンへ行ったのは目覚まし時計を新調しようと思っていたからだった。前職の頃から使っているベル式の目覚まし時計が最近不調になっている。脚が取れているとか電池蓋がどっかいったとかいうのはどうにでもなる不調でその調子で10数年使っているはず。問題はそこではなく、ベルのON/OFFスイッチが折れてしまって容易に止められなくなってしまったことと、ベルの槌の動きが弱くなってベルを打たなくなってしまい寝過ごしてしまうことが増えてしまったところにある。槌問題に関しては電池を交換すれば多少改善されるものの近年とみに消耗が早くなったようでなおかつ電磁石のパワーというか槌の振れ幅というかが弱っているようにも思われる。ベルを打たずにただカタカタカタと振動するばかりでは覚める目も覚めないというもの。仮に目覚めたとしても止めるのに苦労する。折れたスイッチの根っこにドライバーか何かを突っ込んでOFFらなければならない。寝ぼけた頭でやると覿面に上手く行かない。あるいは止めた時の安堵の大きさが二度寝を誘発してしまう。
コーナンで880えん位で購ったはずのもの。今回もその程度の出費と踏んででかけたのだけれども、目覚ましコーナーに並んでいた同型機は1480えんもした。スヌーズ機能なんていらないんだ。時間が来たらジリリリリとなってくれさえすればいい。スイッチ切り替えでON/OFFできればいい。だのにベル式はそれ一つしかなく。しかも電子音のがその半額で買えてしまうという状況だった(電子音では起きられない質なので問答外なのである)。それがなんだか悔しくて、結局買わなかった。
ケチったわけでは決してない。機能に見合う値段でないように思えたこと、その値段である蓋然性に乏しいと思われたことが不買の理由だ。費用対効果(商品の値段/ 求める機能に見合う値段 )が1を超えないと買う気がおこらないのである。
昔は「情報の共有」なんていう表現はなかったし、ましてや情報を共有することに今ほどの重みというか好評価というかが付随していたわけじゃなかったことを思い出した。インターネットが隆盛しだして以降急に言われ始めたのではなかったか。その端緒期に違和感を覚えたのではなかったか。
WWWに情報を載せることを「情報の共有」と言い出して、それは単に外国語の和訳でしかなかったはずだけれども、それ以降急に「情報の共有」なくては世界は成り立たない社会は回らないみたいな言われ方をするようになった。本当に、そうだろうか。「情報の共有」は絶対善なのか。
WWWの最初のころってもっと単純な動機で成り立ってた気がする。せいぜい「情報提供」か「供出」とかいうべきもの。それがだんだん自己顕示欲ドリブンな世界になっていって、人を出し抜くことだとか唯一さだとか見栄えだとかを競うようになった。自己顕示欲が「情報の共有」と命名されて、まるで至上命題のごとくに祭り上げられた感がある。それってなんだか嫌らしい気がする。自分の欲望を臆せずさらけ出すことにつき尤もそうな言葉でもって祭り上げて肯定している。そうすることがさも当然のことというように。無限大か無限小に発散するだけの正のフィードバックなんじゃなかろうか。
「共有」という言葉にはどこか強制的なニュアンスを感じずにはいられない。他人を巻き込まなければ気が済まない、教化して取り込まなければならない、というような。知りたくもない情報はいくらでもある。知らせたくないこともある。知らせたいことも知らせたくないことも一緒くたに投げ込んで、必要な人が必要なときに拾っていけばいい。そんな態度が過去にあった 記憶。そうして私は今もその態度でこの世界を生きている。自分の人生を充実したものにするために書いたり読んだり収集したり整理したりしている。それ以上は望まない。
このクソ忙しい時に「1984」を手にしてしまい、慌ただしく読み通して、上記のようなことを思ったことだった。なぜだろう? ある意味ビッグブラザーに監視されているこの世界、それが即死に繋がらないことはまあ確かなので、そのことに安堵し自らを祝福してみたくなっただけなのかも知れない。
淡々他端胆立たんと作る。これでもうしばらくは背伸びして書かなくて済みそうなので、それだけでもホッとしている。
以前お教えいただいたことにつき、大きな勘違いをしていたことを悟って、近々再訪したいものだと考えていた。そうして行ってきた。この酷暑の中。確か前回もそんな暑さの最中だったと思う。溶けはしなかったが帰りがきつかった。
胡乱な記憶を整理して、現場状況を確認して、また煉瓦を掘り繰り返して、結果あれやこれやがストレートに繋がった。そうなのだ。この橋台が「建て増し」されたものであるとせば、刻印の違いも厚さの違いも説明できるのだ。而して実際ケロヨン君のいるほうは厚56mm、そうでないほうは厚54mmという違いがある。目地の仕上げも違うのだよ。
……あれ。よく見たら右と左でアーチの大きさ違うじゃん。
探しものは、最初に手に取った一個で自摸和了。地和ってやつか。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796879/115
[鉄道作業局]規程類聚. 附録 明治三十四年九月現行。桂川橋梁の橋脚跡はたしかに12フィートだった。
いずれも「日本鉄道史」中編
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960215/71
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127166/101
61.5ポンド→60ポンドの変更のあたり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960215/74
とくに関ヶ原長岡間は従来の1/40勾配を1/100に改めるべく新線開設。
M38年には東海道線全線の複線化が完了。しかし翌年から75ポンドに葺き替えることにしたってんだからまあ無駄遣いだよなあ。
[鉄道作業局]規程類聚. 明治三十四年九月現行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796878/151
明治29年8月31日鉄工第1749号(課長達)で異形煉瓦の形状を示す。配置図は遅れて明治30年4月22日鉄工第755号(部長達)で。
その付図が
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796879/115
と
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796879/131
。12ftウェルはA~Cの3種類。9ftはA~Eの5種類。A~Cの段(AをわったA'も使う)とC~Eの段を交互に?あ、違うな、ウエルの沓の段だけA~Cなんか。よって複線化の時の井筒はA~Cであるべき。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796878/296
追記:煉瓦個数はこっちを参照のこと。https://dl.ndl.go.jp/pid/1349960/1/434
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796878/126
○米国製造「カ子ーギ」製軌条敷設方ノ件 明治30年4月6日 鉄工第631号(課長達)
今般千八百九十六年米国に於て製造せし「カ子ーギ」製「レール」計理課より回送の筈付ては他の「レール」と混同して敷設せざる様御取扱可有之此段及御達候成
ほう・・・この時局線にもCARNEGIEが回っておったのか。これがこの年に定規が変わったことと関係してたら面白いのだけど、見つかっているのは60-1?だそうだし。
あー、"THE-LONGEST-DH"にIRJのがあることになっとるけど、ほんとかなあ・・・。そんなのがあったような気もしてきたなあ。
うん、そう。上記CARNEGIE 1896 IRJが60-2に相当するやつで、それをM30.5.18に定規にしちょる。多分。附図の「新旧断面」なんちゃらの「新」に相当するやつの寸法図に「カアー子ギイ-」と書いてて第2種断面。↓
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796879/13
カーネギーめ、なんでそんなやたらめったらいろんな断面を送り込んできたのか。しかも第二種は米国内ではobsoleteになりかけてたやつらしいじゃねえか(中編工事其他の節)。M38にはもう入手しにくくなっててASCE断面60-3への変更を余儀なくされた。Carnegieは諸悪の根源である。
鉄道系はndlからいろいろ拾えてしまうからいけない。調べようと思ったらいくらでも手立てがあるからついのめり込んでしまうのだ。
草いきれの海を泳いだ記憶がある
あまりに暑いと思考がまだるくなり、言葉を重ねて表現するのが面倒くさくなる。できるだけ手短かに済ませてしまいたくなる。そういう蒸し暑い亜熱帯気候の夏が575を生み短歌俳句出したのではないかと、河川敷の叢を漕ぎながら思ったことだった。ロシア語の「 Здравствуйте(こんにちは)」が唇をほとんど動かさずに発話できる、みたいな因縁(あまりに寒いと口を動かすのもつらいから。さらに寒いと「Здра」だけになる )。しかしまあそんな真夏の藪漕ぎも久しくやっていない。懐かしくもあり愚かしくもあり。昔は元気だった。今は現金。
今号記事で触れ損ねた話。素人的にはこういうのも面白く思われたのでどっかに入れようかと思っていたのだけどもあまりに枝葉末節過ぎるなあと思い直してやめたのだった。
レールのあの形を作るには熱した鋼材をロール(圧延機)に通してのして作るわけだけれども、その行程は結構面倒で、かつ様々な工夫が凝らされていた。自分は勝手に「四角の鋼材を一気にレールの形に圧延するのだろう」と思っていたのだけれども、そんなことはなく、少しずつ一回り小さな形にのしていって、徐々にレール型に近づけていくのだそうだ。右は「国産軌条に就て」(九州冶金学会誌、1935)掲載の図。最初の■い鋼材(資料では「鋼片」と呼ばれている)から9度の圧延を重ねてやっと製品ができあがる。矢印動線の示すごとく、ロールを抜けたらロールを逆転させて別の穴にさしこんでいく。鋼片は前に後ろに行ったり来たりしつつ流れていくわけである。なお日本製鉄では第一ロールに突っ込まれた時の鋼材の温度は約1150度。これが冷めるまでに製品形状にしなければならない。Darlingtonの頃には大の大人が寄ってたかって大ヤットコでひっつかまえてロールに放り込んで、と人力でやってた。さながら戦場のような光景だったろうと思う(そのシーンを描いた絵があるそうである。「近代機械講話」)
同報別図を引用。例えば50-PSだと最初の鋼片は210×155mmの直方体。これをのしてのしてのしてのして製品にする。わずかずつ変形していくその形状の変化のさせかたも地味に工夫の塊である。単にレールの形にするだけなら「工」を寝かせた形を一回りずつ小さくしていけば早いだろうけれども、そうするとウェブの部分の金属組織がウェブ方向に引き伸ばされたような形になってしまい、いわゆる「樹状組織」と呼ばれる偏った組織を形成してしまう。これはウェブがポッキリ折れる一番怖いタイプの破断の原因とされた良くない偏頗だ。だから一度伸ばしかけたものをぎゅっと押し縮めてみたり(第二形態→第三形態)、右から圧したり左から圧したりして(第四-第七形態)、ベースからウェブにかけての組織をほぐすようにして圧延してゆくのである。海外のものなんかだとほんとに潰したり伸ばしたりグニグニ揉んだりするような圧延を重ねているものがある。そうした処理は断面形状によっても必要性がかわってくるものと思う。
昭和13年アルス社発行「アルス工学全書」第11巻より、イリノイ製鋼会社南工場の軌条圧延工程図。最初に鋼塊圧延機で■鋼材を整形し、少し細くしておいて、一次荒仕上機→二次荒仕上機→中間仕上機→最終仕上機と、軌条圧延だけでも10回通していたことがわかる(前掲新日鉄の工程図は鋼塊圧延機を出たところから始まっている)。
工程中できるだけ温度を下げないために各ロールの作業は連続的に行えるようになっていた。上記「仕上げ機」も互いにさほど離れておらぬ場所に置かれて次々と通されていたものと思う。そのためにロールを縦に3個重ねて1圧延機で7パターンの圧延が行えるようになっていたりもしたようだ。
いうまでもなくレール標記の刻印字母は最後のロールに刻まれていた。刻印が摩耗してしまったりとか文字を間違えちゃったテヘペロ☆という時にそう簡単に交換できなかったことがこの図からもわかる。最後の型ロールだけ交換、というのはできず、上図Illinoisの例でいうところの「最終仕上機」のロールを全部交換しなければならなかった。ちなみにロールの交換時期は、日本製鉄ではだいたい15000トンから70000トンくらいで訪れておったようだ(「国産軌条に就て」)。同報文には製鉄所の重レール製造トン数と推移グラフがあるのだけれども、明治44年〜大正13年の間は5万〜7万トンで推移している。60ポンド以上だから75ポンドも随分含まれているはずで、そうすると1ロールの使用量はさらに少なくなるはず。たいていの場合は翌年度まで持ち越すことができ、そういう時には刻印の打ち替えが行なわれたのだろうと思う。
製造するレールの断面が変われば勿論ラインのロールを全交換せねばならぬ。何の資料だったか忘れてしまったが、DarlingutonだったかDowraisだったか、そんなロールを何十個もも保管している一角を写した写真を見た記憶がある。Archive.orgの図だったかなぁ。
「コンセプト」という言葉が正しく使えないというトラウマを植え付けられている私なので困ったことである。何をどう説明したらコンセプトを説明したことになるのかわかっていない。ダメ出しかOKかのデジタル裁許じゃ学べるものも学べんわなと今更愚痴ってみる。
現状では単に全体像を作ってみただけに過ぎない。ここから内容を書いていただくためには「何を書くか」「どう書くか」「配分は」を伝えないといけない。その点は移動本は楽だった。文字数と写真点数だけ与えられていてコレという方針もなかったものな。なくてあれだけ整った内容になったのはひとえに寄稿された皆さんの廃道に対する意識ベクトルが元々揃っていたからだろうと振り返ってみたりしている。そういう状況でない今回にどう青写真を描くか。しかもその青写真は独自言語独自仕様独自単位で書かれておる。どうやって翻訳・単位変換するか。というところから頭をひねらないといけない。
だからといって例示を出し過ぎると自分が関与したものになってしまうんだよなあ。そうじゃないんだ。
ことわざに「最悪死ぬ」をつけると面白い、というネタが何年も前に流行した。そのことを不意に思い出して試してみたりなどしている。 ことわざによって「ああそれは死に得るな」と思うものもあれば、汲んでも尽きせぬ奇妙なポテンシャルの湧出を感じるものもあって、その違いがまた奇妙なポテンシャルでもある。
二階から目薬 最悪死ぬ
猿も木から落ちる 最悪死ぬ
急いては事を仕損じる 最悪死ぬ
この辺りは素直に納得される例である。そんな高いところからものを落としたら衝撃で死に至るかも知れない。木から落ちて死ぬことがあるのは自明の理だ。泡展望もとい慌てん坊は死への一里塚。
待てば海路の日和あり 最悪死ぬ
だんだんPsが発生し始める。上手く行かすための方策を勧めながら実はその先に命を失うような失策が潜んでいる可能性を示唆しているのか。初めから罠なのか。漫才のボケのような味わいがある。
のれんに腕押し 最悪死ぬ
この辺になると辻褄の合わない可笑しみが滲み出てくる。手応えがないことの例えのはずなのにやりすぎると覿面な効果が現れる、ということか。暖簾を押すような微細な力仕事でも力尽きてしまう虚弱体質を言った言葉かも知れぬ。様々な背景が浮かんでは消えする。
三つ子の魂百まで 最悪死ぬ
これなどはどうにもよくわからない。そもそも「三つ子の魂百まで」の意味を曖昧に覚えているせいで、死ぬのが三つ子なのか、そのような境遇・性格の人物が死ぬのかはっきりしない。「雀百まで踊り忘れず 最悪死ぬ」と近しいはずなのだが、そちらは雀の死を想起しやすい。
雲仙に雲がかかると雨 最悪死ぬ
正確にはことわざではないけれどもひどく叙情があってよいと思った。火砕流が泥流となって再び麓を襲う可能性を示唆しているに違いないと思う。但し想起されるものが固定的なので想像の拡がりがないのは残念である。
そんなことを考えているうち、どうもしっくり来ないものもあるように思えるようになった。
豚に真珠 最悪死ぬ
Ps的ではあるがどうも意味内容が発散しすぎているように思われる。豚が死ぬようには読めないし豚に擬せられた人物が死ぬようにも読めない。どういうわけだろう。
泣きっ面に蜂 最悪死ぬ
一見素直に通りそうで通らない。蜂に刺されると死ぬこともあるという事実がPsを遠ざけるのだろうか。 酷い目が重なれば確かに死ぬこともあるだろう。刺された人が死ぬのか蜂が死ぬのかはっきりしないのもちょっとどうかである。「不気味の谷」のごとく、ある極小点より手前にあっても、向こうに行き過ぎても違和を覚えるものなのかも知れない。
五十歩百歩 最悪死ぬ
「五十歩百歩」と「最悪死ぬ」の間に句読点を打つとすっきりPsするのだが、上記のように与えられるとやはりPsは感じられない。両者の間に脈絡が感じられないのである。
いろいろと試しているうちに、どうやら「慣用句に「最悪死ぬ」をつけたから」ではないかと思うようになった。ことわざと慣用句、明確な線引きはできないそうだが、文章として完結しているもの、それ単体として意味が通るものがことわざのように思われる。「待てば海路の日和あり」とか「急いては事を仕損じる」とか、原因が提示され結果が伴うという構図に対し「最悪死ぬ」は容易に接着する気がする。一方「泣きっ面に蜂」は、何か状況の例えであって、その文章だけで言わんとすることを全て言い尽くしているわけではない。そういうものに「最悪死ぬ」を添えてもちんぷんかんぷんなだけになるようだ。なにか添えて完結させたうえで「最悪死ぬ」を足すとPsが現れるようである。
五十歩百歩の争い 最悪死ぬ
四面楚歌の職場 最悪死ぬ
「最悪死ぬ」をつけてPsが生じればことわざ、生じなければ慣用句、という新しい線引方法を提案できるかもしれぬ。もう少し考えてみよう。
保冷所もといホレイショ・ネルソン・レーの件の広告の話が出て来るかもしれん思って読み始めたのだがそれ以外のところのほうが面白くて一気に読んでしまった。岩波の近現代史1を読んだ時も思ったことだが自分の学んだ近現代史は古過ぎたようだ。そうか定説ができあがっていない時代だから学んでも覆される可能性が高くて、だから表面をなぞるだけで終わったんだろう。
イギリスによる薩摩砲撃もイギリス下院議会でその正当性が議論され「国際法に違反するもの」と議決されていたりするのだそうだ。台風下で砲撃を受け、応戦、そこまではよいが翌日にロケット砲を放って鹿児島城下を灰燼に帰したところが問題とされたのだ(当時の慣例的な国際法では戦争に関係のない市街地に攻撃を加えることは違法とされていた。とはいってもあくまで慣習だし「文明国」間でしか通用しないようなものだったけれども)。こっちは武士道あっちは騎士道で戦っておったわけで、なんだか面白い。そうして戦争後にイギリスと手を結んでゆくあたりもいかにも武士道騎士道的で、だからこそ肝胆相照らすような仲になり急激に西欧化していくのだろうと思ったりもした。何もないところに突然文明が入ってきて一染したわけじゃなくて、さまざまな下地があったからこそ侵攻を受け入れて取り込み消化し自国のものにできたのだ、というのが今日における近代史の大方の共通認識になっているようだ。ある意味明治政府の情報操作を引き継いでいたのかも知れぬ>自分の受けた教育。
それを考えると外来語のカタカナの氾濫だって日本古来の性質であり得意技であったと言えなくもない。ともかく短期間のうちに技術を吸収し30年ほどでイギリスに互する紡績業立国になっちゃんだからなあ。新しいものを貪欲に取り込む姿勢。本質を見抜いて利用する能力。そのへんは他国にひけをとらなかった。自動車とかカメラとか、ケータイまではギリギリそうかな、とかく消化吸収と優れたもののアウトプット能力には長けてる。それがここ数十年で停滞しているのは何故だ。
漠然と、電気とか伝播とか電子回路とか、見て把握するのが難しいものについて把握するのが下手な感じがする。歯車を組み合わせて複雑な動きをする。精密な部品を作る。安価に上手に作る。そういうモノを作るのは得意。しかしIT技術とか統計処理とかは大体において苦手っぽい気がする。突出して優れた人物はいても市民感覚として多くの人が理解しているわけでもない。そういうのを使いこなすのも下手。魔法とかアニミズムとか霊とか血液型とか、目に見えない(目で把握できない)ものに対する盲目的信奉と関連するのかもしれん。
最後の最後に維新後の鹿児島県の産業低迷の話が出てきてナンデヤネンと思わないでもなかったが、あとがきを読んですらりと納得した。鹿児島新聞に連載された記事が元になっているのだ(鹿児島県立図書館に蔵されている「ザ・タイムズ」の幕末~明治初頭ぶんを元に話が展開される)。
そうそう、保冷処のことは首になったっていう話が数行で書かれていただけで原文はなし。それはもうどうでもよくなっている。
高校時代の同級生にM君という人物がいた。渾名がダンダンだったので以下M君と呼ぶ。
ある時M君が突然こんなことを言い出した。M君にとっての私はドラクエの町の人のようなものであるかも知れないと。M君の人生というRPGの一場面に登場し、重要かも知れないし重要でもないかも知れない発言をしてくれる、名も無き村人的な登場人物の一人なのであると。周囲にある街や建物や空や雲も、M君RPGを演出するために用意された大道具小道具なのであると。「もしぼくが死んでしまったら、周囲は全部消えてしまうんよ」。そんな感じのことも宣ったように記憶する。自分もそれに似たことを考えたことがないわけではなかったので言いたいことは充分にわかったのだが、改めて人から聞かされてみればひどい話だ、私自身の人生RPGのことは考慮の外に置かれておるではないか、と内心憤慨したりもした。そうして私PRGの登場人物たるM君にそのように言われたことが、人間社会の、このセカイのありようを見る見方に少なからぬ影響を与えたように思われるのだ。他人には他人の人生がある。成り代わってそのロールを演じることはできないし、深く立ち入って覗いてみることもできぬ。人は人、他人は他人、時おり出会って会話を交わしてハイそれまでよ、という視点でお互いを見ている世界がこのセカイなのかも知れぬと。そうしてそんな見方がついこの間まで続いていた。それが真理なのだと信じて止まない自己が常に何割かは存在していた。
そんな見方が、最近すっかり裏返ってしまった。禅でいうところの自他不二の境地、 主客未分とか事々無碍法界とかいう概念がよく理解できなくていろいろ考えを巡らしている時、ふとM君のRPG説を思い出して頓悟するところがあったのだ。自分という存在が思っているほど絶対的な存在ではないとしたら。自分以外のものを対照物として相対的にしか定義できないものだとしたら。自分の評価は周囲がどう評価しているかで決まるのであっていくらnagajis自身が「おれって天才」と信じていたとしても他人が認めなければ真ではない。人間のつもりでいても周囲が人間と認めていなければ人間ではあり得ない。nagajis一個だけがある世界でnagajisはnagajisたり得るかというと多分そうはならない。それしかないのであれば人間という定義も必要ないし生き物であるかどうかも必要としない(無対それ以外の存在としてのnagajis)だろう。
「自分以外の何か」がある故に、それを対照基準として「自分」を認識することができる。そしてそれは「自分以外の何か」にとっても同様。M君のRPGワールドにおいて私が一個の登場人物であると同時に私的RPGワールドの登場人物としてのM君があるように。互いに参照し合っている間柄、とも言える。
ということは即ち、私もM君も対等の立場にある。鏡で相照らしているようなもので、どちらかが欠けたらもう一方にも(大なり小なりの)影響を及ぼさずにはいない。
その考えを敷衍していくと、世の中すべてのものと否応なく関わり合っていることになる。RPGワールドマップにおける山とか野原とかもそうだ。私が山だ野原だ奇妙なポテンシャルだと認識していることは、私が認識をやめてしまえばその存在が消え失せてしまうか、違う誰かの人生にとっての演出物になってしまうに違いない。
てことは、もし、「すべてが自分なのだ」だと考えることにしたら、どうなるだろう? 自分を座標づけするために存在してるものも自分の一部であると考えたとしたら。世の中即ち自分を定義するもの即ち自分であるとしたら。それこそ「自他不二」というやつなんじゃねえ? 我であると同時に彼である、全部ぶっ続きの魂としてのRPGワールド全体が、おれ。nagajisは(そして過日のM君も)勝手にそのワールドの主人公だと思っているだけで、しかし主人公だからといってセカイをまるっきり改竄してしまうこともできないし、自分の都合の良いように回すこともできないけれども、それもまた自分の一部なのであればまあ仕方ないと思えてくる。自分の考えなんかこれっぽっちもわからないのだ。何しでかすかわからないことだってあるのだ。それと同じ状況が周囲で起こっている様々な事件であったりすれ違う人であったり道端で踏んづけた犬の糞であったりはしないだろうか。だったらなおさら、そういうものに腹を立てても仕方ないという気がしてくる。自分で自分に腹を立てても何の益にもならない。
この気分は25枚一組の雲形定規に似ている。長い間一緒にいたせいで精神感応して自分と他人の区別がつかなくなった25枚一組の雲形定規である。一番小さなのを罵ったらその数倍はあろうかという大型のやつにぶん殴られたり「あっちのおれはずいぶんくたびれているようだな、おれも気をつけろよ」「そういうおれこそ」というような会話が成立したりする彼である。私もおれ、彼もおれ、ニュースを喋っているアナウンサーもおれなら刺された女性(19)も犯人もおれ。自分に関わるものすべてがおれであり、そんなおれが知らない一面を覗かせて驚かされることもあれば奇妙なポテンシャルを湧出させたりもする。有り得そうなことである。
さらに敷衍すればモノだっておれだ。この文字を入力しているASUS TF101も台湾のおれたちが作ったおれ。寝転がっているソファもおれが作ってニトリのおれが売っていたのをおれが買ってきた。nagajisがいなくなれば認識されなくなるおれたち。コーヒーをこぼして汚したりするのも予期せぬフリーズで書いたものが消えてしまうアクシデントもおれのせい。そう考えるとモノに当たったりすることもなくなる。未だ見ぬモノ手に入れたいとか高価なモノに羨望したりとかすることもなくなる。それはおれなのだから。持っていようといまいとそれがおれならそれでおkなのである。物欲から開放されるわけである。なんともすがすがすがしい気分ではないか。
残るは形を伴わない何かの追求だけだけれども、情報という無形物への欲はいまだ捨てきれない。歴史を掘り下げてみたりとか煉瓦刻印や古レールから何かを読み取ってみようとしてみたりする追求は、ひとえに自分自身(の意識の隅)を追求することであり自分自身の省吾という意味があって、 だから面白いと感じるのかも知れぬ。自分の知らない自分なんていくらでもあるのだから、なるほどそれでは尽きること飽くこともないだろう。
みたいなことを果てしなく考えてしまうのがいわゆる死人禅の状態だと思われる。じっさい上記のことを言下に実行すればそれこそこの世から葬られそうだ。時おり現実世界に戻ってきてその中で立ち振る舞わなければならぬ。M君のRPGの登場人物としていかにも重要そうな発言をしたり無意味なことを喋ったり返事しなくてただのしかばねと推測されたりせねばならないのである。ふむ。
自分がセカイを疎んじればセカイは自分を疎んじる。セカイに躍り出てみれば両手を挙げて歓迎してくれる。そういうものなのにちがいない。
きかんしゃトーマスのトーマスが踏んでいるのは双頭レールなのかどうか。枕木への取り付けはスリーパーを使ってるように見える。あるいはブルヘッドかも知らんが。
そうか。1920年2月って八幡製鉄所で大きな労働争議があったのだな。前年秋から不穏な空気があって、労働団体(労友会)の幹部が解雇されたのをきっかけに2月5日未明から2万人余りがストに突入。幹部が逮捕され9日に平常運転に戻ったけれどもこの間高炉の火を落としたりしてる。んで労働側の要求が全然受け入れられなかったので24日に再度ストに入った。しかしこれも製鉄所側が高圧的態度で臨んだので3月2日には元通りにならざるを得なかった。要するに1920年2月は1-4日と10~23日くらいしか稼働してなかった。後者は高炉再点火とかでもっと短かっただろう。
そんなごちゃごちゃした月だったので「○S 60 A 1920 2」だったり「○S A 60 1920 II」だったり「○S 60 A 1920 II」だったりがあるのに違いない。それまで刻字を担当してた労働者がストってしまったんで慌てて他の人がやったために間違った、とか、罷業がうまいこといかなかった腹いせにわざと間違えたったざまーみさらせ>機能的には問題ないのでこのままでおk、とかなったんじゃないか。
「○S 60 A 192_〔blank〕」と重ね合わせて考えると面白いかも知れない。数字の書体だとか字間だとかは各年度で微妙に違うから、拓本とって比べてみたら1920年代のいつのものなのか突き止められたりしないだろうか。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00101846&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00101818&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
ほぼ予定通りこなす。久しぶりに七分丈ズボンを履いてったらふくらはぎの裏が焼けてひりひりしている。
終点は何故か多奈川駅。しかし行動したのは主に和歌山県下である。そうして謎がいくつも解決した。和歌山県行きして望んだ成果が得られたのは久しぶりかもしれん。
しかし写真はうまく撮れない。ゾンザイタロウである。
この年度のNANKAIレールはHANKAKUとともに輸入され大阪港・神戸港の軌条輸入レコードを樹立した(確か)。明治31年度統計参照。でもそもそもNANKAIは50ポンドレールなのだよな。だとしたらCammellの1897 NTK SEC351の候補で無くなるわけで有難い(そもそもSec300番台だろーが)
多奈川線は駅舎のレールより沿線柵のほうが面白いかも知れぬ。全部見たわけじゃないけれど富士製鉄のこれが混じってた。こんな頃までPS作ってたんだなあ。そうして多奈川駅の角にあるやつは日本製鉄の50 PS 2602。現行線には50N LD 1999辺りが使われているようだ。
駅舎のほうは○S 30 A 1930 IorIIばかり。深日港駅でようやっと1929を見かけただけ。
あ、レールが目的だったわけじゃないからな。今日は煉瓦の日のつもりで出かけて、多奈川線もその関係であった。レールはあくまで余技だ。(誰に対して弁明してるんだか)
銑鉄材料として古レールを盛んに輸入した件、およびそのような屑鉄として輸入したレールをレールとして使用していた例もある件。どこかで読んだ話、と漠然と記憶していたけれども神戸大学新聞記事文庫に丁度いい記事があった。
昭和8:アメリカの古鉄盛んに日本へ
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00053123&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
昭和5:屑鉄輸入税率決定の「改造用」に疑義 範囲限定を商業者が陳情 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00869338&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
昭和5:輸入屑鉄の検査厳重となる
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00052865&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
古レールは鉱山坑道の支保工としても利用された。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00056946&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
ちなみに第一大戦後の鉄鋼業概観。
戦後に於ける我鉄鋼業
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00045607&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
軽く絶望した。茹で上がりそうだ。
不明刻印2件のアタリがついたということは残る一個の変形*が南条工場ということになるのだが、それでいいのか? そもそも純正*の見当がついてねえ。
いやいや・・・和歌山では他にも漢数字ぽいやつとか(棒二本かも知れん)もあったのだな。川口製造所だって社章は判明しておるのだ。後回しになりがちな地域だからいろいろ後手に回っている。川口だって湯浅に行けばフツーに見られるものなのかも知れん。考えてみれば和歌山県下の工場のヒット率は高いのだよ。
Yさんが「日」を入手されたのはどの駅だったか…。それによって「日」=深日煉瓦説の確度があがるか下がるかするんだけどなぁ。旧深日駅を徹底調査するのは大変だしザックリざくざくして×印を見つけちゃったし。あそこじゃなかったんだろうか。
こんな場面に遭遇して写真を撮ってはみたものの、撮ったという以上のナニモノでもなさげ。廃句には滋味が足りないし面白画像には地味だし。
たぶん真正面から撮ってたら違ったんだと思う。ランプがついていればなお可。
サイゼリアで原稿書き始めたせいか頭がふらふらするよ。安原煉瓦のマークが内包する意図に妄想が届いたのでよしとするけれど、あらゆることばを抑揚をつけて大仰に発話されるのを聞かされつづけていたらそれどころではなくなってしまった。持ってた残の石とな術し。もとい以て他山の石と為すべし。迷惑だと思う人の振る舞いもまた自己を写す鏡なのだと思う。
涼しくなったのは有難いが干していた煉瓦が濡れてしまう事態に。また乾燥しなおさないといけない。
台風の行き先に先手を打って勝利?する。まさか山中トンネルで四日市煉瓦に出会うとは思ってなかった。スノーシェッドとか。
いろいろお返事書かねばならぬ。しばしお待ちを。
福知山線柵では見かけなかったルクセンブルクはサンブルモゼール社のレール。これも1924なのが興味深い。よほど強力な廉売攻勢をかけてきたのだろう>戦後の欧州軌条。
福井電鉄神明駅の軒庇を支えている。これを見に行ったわけではなく、たまたま近くを通ったので何気なく立ち寄ってみたらこれがあった。知らない土地で知っているものに出会うとほっとするーーーちうてもS&Mは初めて見たんだっけ、初見でもソレが何だかわかるくらいには知っているというモノーーー。道標とか石垣とか唐臼石とか、そのモノの素性を知っていて、心を寄せることができるようなものに出会えると、一人旅の心細さがいくぶんか和らげられる気がする。
そうして北陸本線旧線で福知山線廃線敷と同じことができることを発見してしまう業。沿線には75ポンドレールを使った柵があちこちにある。手を付けたら台風に巻き込まれて帰れなくなるうえに古レールマニアになってしまうと思い我慢しようとしたのだけれどもどだい無理な話であった。
2つ目の柵でGHHを見つけたので満足して諦める。GHHも福知山線には見られなかったメーカーだ。
そんなことを考えつつ先を急いでいたらこれを見つけてしまって命運が尽きた。 調べないでいられるわけがないじゃないか。(そもそも煉瓦と隧道が目当てで来たのであってロクに下調べもしてこなかった。敦賀市が公開している物件一覧pdfにはC製ロックシェードは載っているが1955製のコレは書かれていない。当然登録有形文化財にもなってない)。
意外というかやはりというか、雨風に晒されている外側のレールのほうが状態がよく、内部のは錆が回って判読しづらくなっている。八幡の1930年代の37kgレールがいくつか読めた程度。最表の向かって左の柱にはColoradoの1917年製。1916を打ち替えてある。Coloradoも(略。
桂川橋梁のことを書いていて、そういえば阪急にも官営鉄道の橋脚があったよなーちゃんと見てなかったよなーと思い出し、調べてみると、淡路の立体交差事業の絡みで撤去される予定になっているらしかった。毎度のことだがnagajisのアンテナ感度の鈍さには呆れる。いつだって撤去直前とか消滅直後とかに気づいて、そうして地団駄踏んで慌てるのだ。
神崎川橋梁の現況。昨年の11月に仮橋への切り替えが済んで、上部工が撤去された状態。打ち上げのコンクリートもすでになくなっている。官営鉄道時代の橋脚は川の中ほどにある2組の円形橋脚だ。
桂川橋梁の謎が解けたいま、上流側(写真奥側)のほうが初代橋脚、下流側がM32に複線化された際のものに違いないと思う。上に乗っている笠石の仕上げも上流側のほうが丁寧だ。そうして下流側からはかなりの確率で「A」「B」「C」の3つの刻印が出るはず。問題は上流側で、A~Eの4種類(きっとCがない)が出たとしても、それだけでは堺の官営工場後の原口煉瓦が製造したのか京都の浅田組だったっけかが製造したのか特定したことにはならない。どちらからも持っていける範囲だからな。違うものが出れば最も素直で良いのだけれども。A~Eが出たとしても書体比較で区別がつけられるかも知れぬ。
6番の煉瓦Pが謎。ここだけ五角形の水切り付きの煉瓦橋脚になっている。煉瓦の厚さは初代に近いように見えるが、やはり後年追築されたものだろうか? 充填コンクリに破砕した煉瓦を混ぜてあるのがちょっと面白い。
神崎川橋梁の南手、府道をまたぐ個所に残っているこの橋台も撤去される。上流の橋脚が古いと考えるなら、この橋台も大半がM32追築分と言わざるを得ない。足元にアーチが仕込んであっていかにも古そうに見えるのだけれども、線形が合わないのだ(写真は下新庄駅方向を向いている。左が上流側、右が下流側)。そうしてこの橋台はまだ継ぎ目がわかりやすい。そのうえ上流側の端をいくぶん削りとった痕跡がある。そもそもあれか、アーチ部が元からあったのだとしたら左を壊して継ぎ足したら左右非対称になるはずだよな。元はアーチのない一枚壁、それにアーチつきの壁を継ぎ足して左右対称にしたと考えねばならぬ。
盛土剥がしの始まった線路敷にはこんなものも出土していた。上記橋台とそっくりの橋台の遺構。アーチまでついている。金網越しに穴が空くほど見つめたけれども刻印は確認できなかった。古い側は仮線築堤の下に埋もれているはずで、そちらはどうしようもない。築堤の土留の矢板がぶっすり刺さっているはずである。
阪急電鉄さんにお尋ねすると、神崎川の橋脚は渇水期をねらって撤去するそうで、今年の11月頃まではこの状態で据え置かれるとのことだ。公的機関による調査も行なわれることになっているそうで、その点はちょっと安心している。そりゃそうだよな、阪急さんが無碍に壊してポイするはずも、吹田市がこれを見逃すはずもないもんな~。