nagajisの日不定記。
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何故かいっぱいになっちゃった>s97。仕事を0.8個×2片付けてから直す。今日中にもう1個。明日までに0.3個。
選奨土木遺産の概略はホントに間違ってます.ご注意.
動き続けることはできないが・・・起きてるうちは進めないと。
進捗率20%。
言っても/書いても効果がないだろう、という時に言う/書くだろうか。この部録なんかは言う/書くなんだが、対個人の時は言わない/書かないが多いような気がする。それはそれで嫌らしいかも知れない。人は人の考えがあって、それを尊重したいというだけなのだけれど。よっぽど間違ってるとか主義主張に反するとかしない限り。
右手が痺れてきた。It's a time of throwing. 何投げる? 目の前にブナ製サジはあるが、これ投げたらコーヒー飲まれへん。 というわけで強制終了する。
木枯らしが吹き世の中のいろいろを吹き飛ばしてくれたお陰で氷のような青さの寒空が広がっている。CMYKでは決して表現できない類いの青に純白の雲。その底が冬を孕んで鈍色に光っている。そんな美しい光景を横目に私はまた具のないラーメンを作って二階堂を30cc程呷って寝るのです。ふはは。
で、また魘されるんだろ>nagajis。マスの端が微妙につながらなかったり、敷いた図のコンターと道をトレースし続けたり、何故か廃隧道を見つけたりして。つまんねえなあ。もうちょっと奥の深い夢を見ようとは、思わんのかね?
なんでここでネタ紹介したくなるのかよくわからない。「俺こんなこと知ってンだぜそのうえ無償公開する俺スゲー」とか何とか言いたいだけちゃうんか。
というわけで、奈良県が再成立するのは明治20年のことであり、道路環境整備の話もそれ以降の時代のものばかりが文章になっている(特に県側の資料では)。しかしそれ以前の堺県時代に道路改修がなかったわけではなく、例えば上田口の伊勢本街道秋霧・深霧隧道や佐倉峠辺などはこの時期の改修だ。
伊勢本街道と伊勢南街道(和歌山街道)を連絡する請取峠が改修されたのもこの頃。文献では受取新道という名前がよく使われている。そうとは知らずに2002年に越えた。あまり写真を撮っていないのが悔やまれる&新設林道が峠のすぐそばまで来ていたのが気になるところだ。そのうえ南のほうには消失区間がある。自分は太良木の辺で降りてしまった。(ここに「奈良県へは通り抜けできません」という看板が建っている。当時は「何でわざわざ?」と思ったがちゃんと意味のあることだったのだ)
陸地測量部 明治20年代測量1:20,000図 波瀬村(のはず)
ちなみに佐倉峠にも旧峠がある。明治10年代に開削された最初の峠はいまの峠の東の鞍部。現在峠にある石碑もソレ関連じゃなかったっけか。南側がえらい坂なのよね>現道南側。
高見峠が車道に改修されるのはとても遅い。木津隧道などは明治頃には出来ていたそうなのだがその先が続かなかったらしい。車道として開通するのは戦後のことで、長い間いわゆる不通県道だった。地形図を明治の初版から順に見て行くと、最初は県道表記だったものがだんだんランクダウンしていくさまが見て取れ、面白い。このへんのことは東吉野村の発行したいい資料がある。
ひどくどうでもよいことだが、2002年に請取峠道で取ったこの2枚組写真、I氏の受けが良かった。こんなん撮ってるんだったら峠道撮っとけと。
つまりはこういうこと。
家を書く時は四角ツール>R・回転>コピー>パスファインダ・切り抜き でうまくいくことを発見。わしわし家建てたった。
けれども全部作った所で「こっからどうする?」がない。寝て考えよう(またかよ)
というか、GoogleMaapsくらい見せてくれよな>Mozilla@OS9。キャプチャしてくるしかないのは不便。
まあ、これも文化的な生活だ。きっとそうだ。YoutubeもMapsもない、ATOKで類似語出してくれたり校正してくれたりもしない、静かな静かな環境。JavascriptはOFF推奨。
だそうだ。関連して疑問が一つ。道路のこれに相当する記念日はあるのだろうか。
北海道(稚内か釧路)から鹿児島まで舗装道路が全通したのはいつだろう。青函トンネルや関門トンネルの開通が最後の一コマだった可能性は高いけれども、そうだとしたら本州だけに絞って、例えば青森から下関まで舗装がつながった、というのは何時のことか。あるいは幹線国道で何時いつにどこそこからここまで舗装になった、みたいな話を、ご存知の方はおられまいか。
少なくとも戦前ではあるまい(間違いなく違う)。戦後の高度経済成長期+αのことだろうか。国道の改良工事の年度を一つひとつ調べあげて行けば推測できるのかも知れないが、そこまでやる根気がない。東海道筋よりも先に中山道経由で繋がってたとか、どこかの府県道でこそっと繋がってたりとかしたら面白いのに、と思う。
すぐにおかわりが来そうなきもする。むーん。
トリといえば2001年のこの写真。鐘ヶ坂隧道の北口道路端で遭遇したチャボの番。あの辺のことをご存知な方はわかると思うが付近に民家などなく、野生化したやつだったとしか思えない。
そういう遭遇もそうだが、慌ててシャッターを切った&この薮だというのに、見事にピントが合ったのには驚いた。恐るべし6900Zとか何とか思ったことだ(当時。しかもオートだしな。どういう具合でフォーカス当たったんだろう???
で、きれいに撮れたところで使い道がない。どっかの有名人を携帯で撮るようなものか。そういえばテで撮られた写真ってどうなったんだろうな。どうせ与り知らぬ所でゴニョゴニョされてるんだろうが。それをネタに強請られるとか、いやだなあ。
ついでにこれもあげておこう。I氏の琴線に触れた写真その2。霞峠の峠道にみかんが落ちていた。
6900Zは発色が見事。ケバいとも言われたがWindows向けでなかったのかも知れない。初期のFinepixはどちらかというとMac向けに彩度調整されていたような気がする。たぶん気のせい。
いままで使っていた携帯ラジオがダメダメになってしまったので新しいのを購入した。これくらいの娯楽は許されるだろ。
新調したラジオ980えんはいいぞ! アンテナがついてて音もクリアー! FMも聞けるんだ!
・・・という余計な買い物に気を取られてA4用紙買ってくるのを忘れた・・・今から行ってくるくる。
急に不安になって書き足しをしてみたが、肝心なところがちっとも進まない。そんだけしか思い入れがないってことか。
考えてみればごくごく当然だということに改めて気づかされたことが多かった。それを改めて書くのが愚かしい。が、そういう愚かな者という意識で書けばよいだけの話だ。ますます独言っぽい記事になりそうだが元々そんな記事だとも思う<こういう行ったり来たりも多いよね。どっちかにしてしまえたら気が楽なんだけどなぁ。
あと、昨秋の訪問をどう入れ込むか。流れで峠まで書いてしまったおかげでそれ以外が挟めない。範囲も上北山側だから次回に回すのが無難。
閲覧申請通過の連絡。急ぐ必要がなくなったので少し先にする。旧旧市町村名のわかる資料を用意するの、忘れないように。それか現地で吟味するのは諦めて撮影に専念するか。むしろ県議会議事録に注力したい。泊まり込むくらいの勢いで。
/.Jを見ていると日本の議論は相手の欠点を見い出すところから始まるのだなあとつくづく思う。や、それが悪とか外国は云々いうのではない。そういう国民性なのだと思うし、厳しい淘汰を経たものだからこそ日本製品が海外に通用したりするのだと思う。自分だって最初に気づくのはアラだ。確かこれは誰かが言ってたことなのでボソと呟くに留めておく。
そういう意識がどこから始まっているのか気になるところ(いち民俗学好きとして。本当は民族学の範疇だと思うけれど)。和を尊ぶのを是とする、みたいな言い方がされる一方でネットに罵詈雑言が溢れていることとも関係するのだろうな。ネット=個であって帰属する集団ではないということかも知れない。集団という足枷を外された個が取る暴発行動、みたいな。そもそも戦争後から集団への帰属意識は薄れていると思うし、それ以前から個の突出はあったろうけれども。判官贔屓だとか心中物の流行だとかはそのよい例になりはしないか。個人崇拝の最たるものだし。
ちょっとどうかなと思うことに何かを加えて良いものにする労力と、貶してポイする労力をくらべれば、後者のほうがはるかに小さな労力で済む。やりやすいといえばそれまで。しかしそういう厳しい淘汰を経たものは真にいいものだろうと思う。頑張ろう頑張ろう。とか思いつつ錬る6日。
モゾ
http://yamagata-np.jp/news/200911/10/kj_2009111000167.php
犯人はnagajis
一人逮捕されますた
結局BEST!進められてないな・・・次月に入るとずんずん遅れてしまう。申し訳ない。
それ以外の仕事は結構頑張ってると思う・・・次号は寄稿が3件もあるよ!(表紙写真の投稿含む)ってこれは自分の頑張りじゃねえよなあ。
AIの上位バージョンにより透過つきで作成されたpdfをAcrobat5.0でps化しDistillerにかけると透過が保存されることを発見。厳密にいえば透過部分を別画像にしてくれる。4.0で保存するとベタになってしまう。
_ The Kate [通報しまた]
作っておいたのがいまいちだったので作り直した。結構いい感じ。↑がミソと見た。
切ないことよのう遣る瀬ないことよのう。
フィルムの入れ替えで感度や風味が変わるように、カセット状になった撮像素子を差し換えて違う風味の写真が写せるデジカメがあったらいいなあ、みたいなことを想像していたことがあるのだけれど、こう来るとは思わなかった。確かにレンズ一体型にしないとホコリが入ったり傷が入ったりしそうだし、素子とレンズの相性ってのもあるだろう。そもそも冒頭のような要求はCPUにフィルムシミュレーションさせたほうが早いのな。
何とはなしにラジオを聞いていて記憶に残った。象徴という立場は大変だと思う。これほど多くの人のことを気にかけている方はいないんじゃないか。
思考が断片化中。なんもまとまらんちん。デフラグかけたいがかけたところで何も変わらないだろう。
ここ数が月で10年分くらい年を取ったなと思う。いろいろ悟った気になり、やり尽した気になり、気力が衰え、体力が衰え。全然そんなことないはずなんだが「そんなはずない!」と思うことも「それは自嘲だ」と思うこともない。しなければならないことも、実はないしな。
_ とと [色々な意味で“同意”]
15日中には発光するよ。いや発行するよ。いつもの記事に加えて今回は寄稿が2本もっ!表紙画像の投稿もあるでよ!(<これは公開までひみつ)
碓氷峠 御巡幸道路 (前編)
超有名な峠に隠された明治新道を踏査します。明治天皇の巡幸のために開かれた道はいま・・・
旧橋紀行(32) 福島県・十綱橋
湯の町に残るブレースドリブタイドアーチ。そこに到るまでの変遷をたどる純TUKA風旧橋紀行。
有峰林道小見線(by 磯部さん)
いただいちゃいましたよ? 有峰林道の成立とその意義までわかる氏謹製pdf。グッとくる廃隧道写真多数!
JR山陰本線のラチスガーダー(by ホルモン焼きさん)
いつも小さなスペースで我慢していただいていたので、大写真の独立記事に。まず見ることのないラチスガーダーの、しかも裏側まで激写〜
いつもの。
問題は150ページもあることだな>東熊野
何とかここまで来た・・・。というかnagajis動き遅ッ!
最初はどうなることかと思ったが、ラインナップを見るとかなり洗練&充実のネタという感じがする。さあて、ここからがまた大変。執筆者の皆さん、来年4月の発行に向けて頑張りましょう(台割確定したわけではないけど)。
川上村(吉野)の木馬道は異常。
有巣峠の件は今月中に片付ける事。
滑検査所の資料読みはKINIAS的によいネタなのではないか、とじわじわ思いつつある昨今。その前に吉野の筏業もちっと勉強しなければならないだろうが。吉野町史/川上村史/五条市史新旧/山が学校だった/天理のビブリア(の冊子)読んだくらいじゃ太刀打ちできないだろうなあ(そうそう、吉野林業叢書みたいな大鑑があったはずだ。未見)。今度Iさんに相談してみよう。
副次的に木馬道の開通年が推測できたりしないかと思ったり思わなかったり。そういう輸送路との絡みで。でもあれか、大正〜昭和初期というと吉野発電所ができた頃だから、大滝より下流しかわからないわけか。ふむ。とすると飯貝とあわせれば吉野発電所水路をどんだけの筏が通ったのかわかるわけだ。というかそういうのって既にあるんじゃね。まあたいつもの回りくどいことになるなあ。
その前に摺子を投稿しておきたい>KINIAS
わはは、謎なぞになってしまった。時にはこんなイミフなんがあってもいいでしょう。ヒントはスキッパー。御主人様は昭和30年代に天に召されましたとさ。
そういや前回テに犬釘を出展したが、慌てて詰め込んだせいでどこの犬釘かわからんようになった。沢川、水越線が混じっているはずだが。
戦前の鉄は純度が高く厚さ計測用の放射性物質も入っていないからいい鉄だと聞いた事がある。液シンの測定室なんかはそういう鉄を鉄筋に使ってたとか何とか。陸奥からサルベージした陸奥鉄とか。それはどうでもいいとして、煮豆の時に使うと美味しくなるらしい。試した事はないし試す機会もなさそうだが。
いやいや、これはいつかやってみよう。お笑いネタ。錆を落とすところから始めないとな。
思ったより難しいぞ>蛇腹折り
どつぼ表を読み込んだ以外は次号予告に書いたことから進んでない。23日朝に大台ヶ原山頂駐車場集合。周回コースを通って尾鷲辻の南から軌道跡に入る。長2305間1分8厘(4 191m)、巾1間(1.8m)、最急勾配18分1(5.5%)、最小半径7間(12.6m)、時速2km歩行で首尾よく行けば大蛇グラの隧道×2まで行けるか。雨天中止。求む探索者。とりあえず参加してみたい方はnagajisあっとまーくblue.ocn.ne.jp辺りにでもメールください。
・盛土1042.111立坪。石垣89.997坪。最大高31尺。橋梁一カ所二間、木造暗渠(巾1〜6尺、深さ1〜4尺)41箇所、最大高10mクラスの桟道20間、隧道76間、105間の2つ。尾鷲辻の尾根筋から別れるところは大掛かりな斫取工が目印になる。隧道前にも巨大な切取。隧道2つを抜けた先が最もやばい。
大蛇グラ・蒸篭グラの間の一坑口は確実に開口しているらしいが、それ以外の三坑口いずれかが閉塞していたらジ・エンド。巻く事はできない。
隧道を抜けたところに桟道。これも地味にダンガー。距離は36mしかないが10mマジ昇り降りしなければならない。
奈良県に提出した工事許可申請書類(奈良県立図書情報館)の設計書は奈良県にかかる部分のみ。林道延長は六千百三間、相賀村大字相賀字岩井谷まで。
現時点では23日は曇り/降水確率40%。この天候だと降るだろうか・・・。
まっぷ1枚Distillる(でいすてぃるる)のに2400秒もかけんな>Mac
第二海堡邪魔ッ!
建築の快感 目的の遂行
17時ジャストに飛び込んで発送。しばらく受注がないと見落としがち。&、ステッカー発送用の封筒が見つからず見送ってしまいました。明日こそは必ず>ステッカーの方
郵便受けを覗いたらエボルタが20本入ってたッ!
何だろう何だろう? とりあえず神様からのプレゼントということにして有り難く使わせていただくことにするする(そんなんでいいのか)。間違って投函してしまった方nagajisまでご連絡ください。
17日PM10:00、曇り時々晴れ、30%。これがリミットか?
今回OFF探索の対象とする四日市製紙軌道(大台林業軌道)は、大台ヶ原に破壊を齎し、蛇蝎のごとくに嫌われている感がある大正期伐採の“立役者”であった。みたいな書き出しで書いてみるが余計にわからんな。うん。
大台ヶ原の東半分(いわゆる東大台と呼ばれるエリア・正木ヶ原牛石ケ原といった辺り)は大正時代に一度丸裸にされている。四日市製紙という製紙会社に買収され、トウヒやツガなどを中心とする針葉樹の原生林が伐採された(伐採は四日市製紙がこのためだけに設立した大台林業株式会社という会社が行なっている。ちなみに今も同名の会社があるが別物だろう)。
付近山林は上北山村の所有するものだったが、大正5年?に四日市製紙に買収され、立木がことごとく伐採された。買収された山林は692町歩、尺〆で106万8000本相当の原生林。特にシオカラ谷には見事なトウヒ原生林で、目通し6尺とか1丈とかいう大径木がそこここにあったらしい。それも尽く切り倒された。牛木ケ原や正木ヶ原の辺りはいまだ当時の姿には再生していないと聞く。
この伐採のことは夙に有名だが、じゃあその伐採した木をどうやって運んだ? という辺りまで考える人は少ないようだ。ヒネクレ者のnagajisはそのへんの興味が大台ヶ原という山への興味のきっかけなのだから捻けていると言わざるを得ない。それはまあいいとして、当時土倉道(筏場道)か小橡からの参詣道しかなかった大台ヶ原から、どうやって3尺〜6尺〆もの巨木を運んだか。その答えが今回の探索対象というわけだ。
はっきりした道筋は未だよくわからない。奈良県に提出された資料によれば「木材搬出道路」だが実際はトロ軌道であったことは確か。例えばここやここなんかで当時の写真を見ることができる。
シオカラ谷の左岸を起点に、台地状になった東大台の中腹を半時計回りに回る搬出道路を作り、堂倉山の南を経て三重県側へ搬出するという流れのルート。堂倉山より東は尾根伝いに軌道・インクラを伸ばし、最後に索道で銚子発電所の辺りへ下ろしたらしい。全長は6800間。
今回探索するのはそのうちの奈良県側2305間だ。この区間に限って言えば工事設計書によって石垣の場所さえわかるのだが、いかんせん実地との突き合わせがうまくいかない。特に大蛇グラの隧道とその先の土工が。
奈良県側の沿線には3つの難所があったと推定される。大蛇グラと蒸籠グラ?に穿たれた隧道。シオカラ谷から蒸籠グラにかけての断崖。地味に今の興味は後者にある。そこまでして搬出する価値ありと判断されたのだろうか。ともかく、とんでもない場所だ。
探索は堂倉山の側から時計回りに回って隧道へ向かう。隧道が閉塞している場合はジ・エンドと何度か書いたがここから上へ上がった人もいるようだ。上がっても観光客たくさんの遊歩道だと思うのでできれば避けたい。ともかくこのトロ道でシオカラ谷まで行けるものか。そうしてその先にあるものが何なのか。確認したいのよ。
トロ道自体はまだ存在して、歩いた人の記録もネットにある(ようだ。私は悔しいので見ていない)。新奇性はないが、大台に興味をもつきっかけとなった四日市製紙の伐採がどんなものであったのか見てみたい。自然と人の営みの接点みたいなもの@大正を見てみたい。
実際のところ大台ヶ原周辺の伐採は四日市製紙よりも先に土倉庄三郎が行なっている。大杉谷西谷の原生林を買い受け、伐採し、その伐材を運び出すために筏場道(土倉街道)は作られた。その伐採と四日市製紙のそれとは本質的に変わらないはずだが、なぜこうも扱いが違うのか。庄三郎はそれをただ搬出路とするだけでなく船津にまで伸ばして一般に供した功績があるだろうが、それとて後の大杉谷国有林伐採につながったのだから。もし四日市製紙の破壊を怒るなら土倉翁の業績も貶さなければならぬ。現場に立って何を考えるか、行って確かめてみたい。
いろいろうまくいかないぜ・・・10重くらい不幸重なり中。メール遅延してます少々お待ち下さい。
地味に苦手だ。特に相手の状況がわからない場合。zipで固めた.epsがEncapsulated Post Scriptなのかイラレなのか判断してもらえるのかとか、で.sitで別建て作ったらファイルいっぱいあるよ〜になりそうな気もするし。うむむ。そもそもイラレは.aiだろーがと言われそうだがEPS形式でイラレ保存したらやっぱりepsだよなあーとか。無駄な気苦労大杉柾之助。
多田銀山へ向かう幹線道だった場所。中央の凹みが旧道。左右に広い平場があり、一種の関所のような役割の建物があったと推定されている。掘立て柱の跡や井戸跡、土塁の石垣などもあり。今の川沿いの道が作られたのは明治10年代というからある種の明治道ではある。
車道整備で失われそうになったのを働きかけ残したのはIさんだ。こういう素敵な方に出会うと気分が晴れる思いがする。何かできないだろうかという気になる。
多田銀銅山徘徊、始めてみようか。実際のところはすでにIさんの立派な報告書があって、素人が加えることはないだろうけれども。
横須賀トンネルマップの入稿が予想通りの不慮の事故続きでうまくいかず。入稿で失敗しそうなところをことごとく失敗している。前職のいやーないやーな思い出が蘇るぜッ!
何とかリカバリーしたつもりだが、どうなることやら。しかも当日は対応できない。心の安心は金では買えないから二重三重のバックアップを取って了とす。
というわけでみんな! ヨッキれん氏の横須賀トンネル巡りはnagajis謹製のパンフがお供するぜ!(するはずだぜ!(無事に行けば))。みうみう言いながら全部マウスで描いたnagajisを想像して笑ってくれっ。
※注 最終版下にはいません
うまくいってるんかな・・・
OFF報告は次号に間に合わせたい。東熊野次回も書きたいが・・・めっさ長くなるか短くするかで悩み中。Nさんをほおっておくわけにはいかないからな。時間軸がひどく入り組んだ回になるはず。あるいは続きを休んで異聞(山葵谷軌道・伯母谷木馬道)にするか。あらましは書き終えているし。
あと、洛北発電所の件も探近土で。書かなきゃいかんことが結構ありまするな。
村田鶴略年表を完成させようとしたら全然略年表にならなかった現実。どうするべ・・・早く終わらせないと。
デジカメ用のACアダプターが行方不明。ヨッキ氏の家に忘れてきたか、どこかに落としたんじゃあるまいか。なくても何とかなるが、心地が悪い。
そもそも22日の探索でデジカメの外部液晶を壊してしまった。ファインダが生きているから使えないことはないのだが・・・色々不便でこちらも気を揉む。せっかく使いこなせるようになったというのに。
なんだか頭がポヤポヤしてて思考がまとまらない。以前からそうだが昨晩以来ひどい。書かなければいけないことが溜まっているからか。もっと遡ればKINIAS発表でずいぶんガス抜きしたせいで骨抜きになっている。パンフもそうだわ。
やらなければいけないことをやり終えて気が抜ける期間が長過ぎる性格だと自分では思っている。あっ、そこのあなた、まさにその想像のとおり、あのあとの虚無感の如しでございまする。書かなければいけないと思うからいけないのだろう。書きたければ書けばいい。やらなければならないと思ってやることほど虚無いことはない。しばし海路の日和を待ってみようと思う。
ゆえにしばらくお休みをいただくかも知れず。大事なことは書かないはずだからココ巡回しなくてもい〜ですよ〜
4年目にしてまた振り出しに戻る。村田さん、あんたって人は・・・。
真実は確かにそこにあるのだ。けれどもそこへの道がか細い。森の木陰に岩陰に紛れて見えないその道を道だと嗅ぎ取る能力がほしい。大正5年から昭和11年までの県議会議事録を8時間で理解しながらすべて読み解き張り巡らされた計略を見破る脳味噌がほしい。
雑物を篩にかけようとするから遠回りになるのか。すべてを元素分析するくらいの気概がないと真実には近付けないのではないか。それをハナから「無理だ」と諦めていけはいけない。そうやって数年前、身を投じたんじゃなかったのか?>ジソ。
滋賀県庁でいろいろ判明したということ。いままでの成果が覆るものではないが、説明に困る。&、全然時間が足りない。ついでに佐和山と横山の面白い情報を入手。ついでに北国街道・若狭街道の設計図入手。吟味する時間もねぇぜ。その前にHDD片付けないと写真入らねぇ。三台目を増設するしかないのか・・・?
電車の中でいい〆を思いついたが忘れた。何のためにメモ帳持ってッたのか。
うわ! うわ! 古写真の場所同定したっ! でもここが貯木場だとしたら、どげしてトロに載せるンえ??? FIFOで前から?
おれの記憶やるから、かわりに誰か書いてくれ。
こういうことをやっている割には書くのが遅いという自負がある。ちゃっちゃと書いているように見えるのは幻影だ。0.5mmの誤差で煉瓦を積もうとしているような、無駄な苦労をしながら書いていることが多い。何とか形になっているのは単に時間をかけたせいだろうと思う。
しばらく書かずにいて、わしわし書いてみる気分になった時、書かなかった分だけ書けるかといえば、そんなこともない。休む以前と同様、だらだら書いてはそこここを入れ替え、うまくいったのいかないの、体裁ばかり気にしてちっとも進まない。最初にざっくり書き上げ(例えば言い回しが思いつかない時なんかは空欄にして)、あとでゴテゴテつけていくやり方は、よくないと思うがそういう書き方しかできない。無い頭捻っても仕方がないのだよ>nagajis
書かなければならないことが「しなければならないこと」の1つである以上、常に「しなければならないこと」に追われているようで、気が休まらない。書き終えるまでの時間が読めないからますます先行きが見えない。行き当たりばったりで書いているnagajisは生き方も行き当たりばったりだ。
今日はKINIAS関係の仕事を2つ片付け。未だ1つ大事なことが残ってる。その後CDを発送して、原稿を書いて。先に大台ヶ原にかかるべきだったかも知れない。伯母谷の南を書き始めてずるずる時間が経ってしまった。
伯母谷峠の南の回は都合4度の訪問を● ● ●使わずにごたまぜにして書いてみようかと思っている。特に意味や狙いがあるわけではない。いつも時系列を意識して書いているから、そうでない場合にどんなになるか見てみたいと思うだけだ(が現状ではやはり別れてるな。もっとぐっちゃぐちゃにしてみたいぞ)。最初だけはっきりさせておけば、あとは写真でいつのことかわかるんじゃまいか。そのかわり後半は前回と同じ4/2の出来事がメインになる。
大台OFFは追加資料が届いてからに。これによって結論や方向性が変わるかも知れず。建設側の資料がきっちり残っている(がアクセスしづらいところにある)というのがちとヤキモキする。適当なこと書いて後で大間違いだった、てなこともあるだろうしな。
尾鷲地方は昔から索道の利用が盛んで、例えば又口の辺りだと明治末には既に索道が入っていて、ここで製板された材が尾鷲の港に運び出されていた。中には稜線軌道−索道−稜線軌道−インクラ−平地軌道なんていう複雑極まりない搬出ルートもあったそうだ。そういうのが入ってきていない保証はない。
明日はORJ BEST!(仮)方面を進める。前回せっかく増えたのに続く企画を立てられなかったせいで購読数が元に戻ってしまった。その対策の意味も込めて今年中には出したい。できればカレンダーも作りたいところだが、これはやっぱり取りかかりが遅かったのが致命的だな。今さら作って捌けるのかという危惧がないでもない。
1本200円/3本セットで500円という中巻きが半額になっていたので喜んで買ったら、250円ではなく300円が正しい値段であったらしい。通過したレジの2人がそんなことを言っていた。しかし「まあいいや」はないだろう>レジの人、といってもわざわざ50円払いに行くような律儀な生き物でもないがな、nagajisは。そんな金があったら見切り野菜をも1つ買ってる。
先日出会った茨は強力だった。枝の伸びる方向とは逆向きに2本の鈎、その対面に枝方向へ伸びる鈎がついていて、進めば2本に引っ掛かるし、戻ればもう1本に引っ掛かって、見事に絡め取られてしまう。葉が少ないのもわざとなのだろう。タオルなんかが巻き付いてしまうと二進も三進もいかなくなる。よくできた植物だと思う。そういう棘がある割に、種はエンドウみたいな鞘に入っていて、例えばヌスビトハギやバカチン(と呼んでいたが正式名称は何だろう?)のように絡み付き運ばれることで生育範囲を広げるようなものでもない。無闇に絡まるだけの枝だ。案外いまの自分に似ているような気もする。捉まえてどうするのだ、という。
思ったこと・感じたことを余さず書ける能力がほしい。こうあってほしいというイメージはあっても、到底それに至っていない。いつもどこか足りないような、それでいて一部だけ突出していて人を引っ掻くような、そういうものしか書けていない。気がするではなくそうだと思う。(多分)人のために書いているのではない現状/かといって媚びるものは書きたくない現状、残された目標は「いかに自分の思ったことを文字にするか」だけだ。そういうものが喜んで読んでもらえる筈はなく、自慰的な何かでしかなく、売り上げ減もむべなるかなと思う。以前はもう少し尖ることができた。苦しい暮らしに耐えて書くことに専念できた。今はどうだろうか。ここ数カ月で急激に年を取ったと思うと書いたのは畢竟その辺りの気力の衰えに起因するものだと思う(目標に到達したからでは決して無い)。いずれ行き詰まることは自明の道を無理繰り切り開いて進んできた、その反動だ。
こういう時は無理してでも苦労したほうが良いのかも知れない。次に現れるかも知れない些細な喜びを期待しつつ、苦労を重ねていくしかない。喜びが些細であればあるほど苦労を重くする必要がある。ヒモを引っ張れば明りが灯るような、そんな劇的な変化など人生にあるはずがなく、峠道を登り詰めるのと同じで、一歩一歩を確かに歩んでいかねばならないのだろう。人生の曲り角を曲れば相も変わらずの廃道。出会う切取工や石垣に心を震わせ、お地蔵様の笑顔に癒され、ふいに開けた展望に驚き、道端の空き缶に刻を想い。そういう些細な出会いに一喜一憂しながら歩む人生。そこにまで同行の志を求める必要はあるまい。
積んでは崩し、崩しては積みの賽の河原石としての奇妙なポテンシャル。
とあるガソリンスタンドにて。物に値段を付けるという行為、およびその物品を売込もうとすることの難しさを見事に体現している看板。あまりに没日常な体裁をしているが故に気になってしまった時の揺り戻しは大きい。
言葉を読む限りではなるほどと思い、細分化されたモデルケースとそれ相応の商品名に自分のあてはまるものを考えてしまいがちだと思うが、車を持たないわが身はかえって冷静に分析することができる。下に行くほど高級になる割には脈絡のない粘度表示(ずっと型番みたようなものだと思っていた)がconfuseを加速する。適当に混ぜてみたら燃費のよさげなものができとりあえず高値で売ろうということになってそれっぽい名前を付けただけのようにも思えてくる。何より解せないのは同じ粘度表記の10W-30に2倍近い価格差があることだ。流体としての特性が一緒ならばどれも同じなのではないのか。
そうこうしているうちに、本来ならばケチをつけるべきではないモデルケース表記にも目くじらが立ってきた。「燃費をよくしたい方へ」「もっともっと燃費をよくしたい方へ」という表現には、実は根拠のある差異を見出せない。あまりにも主観に過ぎるというものだ。そもそも「ロープライスを第一に考える」=「経済性を大切にしている」ではないのか。大切にしている、というところで差をつけたつもりなのだろうが、この何とでも取れる嫌らしい言い回しは大嫌いだ。最高級品の2,415円/Lオイルに至ってはちょっとそれは投げやりではないかとイチャモンをつけたくなる。輸入車やスポーティーカーに乗っていてめちゃめちゃ走りが好きで無い人って、いるんだろうか。それともあれか、暴走族みたいな人間をターゲットにしているというのか。
つらつら眺めているうちに、決定的な「尻尾」を捉まえた。上から2番目のSLと下から2番目のゼブロCEは全く同じものだ。ただ単に商品名が違うだけで、粘度も効能も全く同じじゃないか。きっと缶が違うだけで中身は一緒に違い無いぞ。色も匂いも、味だって一緒に違いないぞ。
そうこうしているうちに1つだけ「SM」であることにまで気になり出した。「ツーリングSL」「ユーロプラスSL」「レーシングSL」のなかにあって唯一のSMたる「マイルステージSM」。購買ターゲットは「燃費をよくしたい方」。ぞんざいな書き方がいかにも手抜きだが、このラインナップのなかにあってはかえって素直なものにも思えた。
買うならこれだ! 俺に相応しいオイルはマイルステージSMだ! と思った所で車を持たない現実に返った。給油を終えたFさんの車がガソリンスタンドを離れてゆく。Fさん曰く「オイルℓ数百円の差やったら燃費で吸収できるんちゃうん?」。ごもっとも。
暇だから書いてるんじゃないからな。することが他にないだけだ。
_ あきら@大阪 [>暇だから書いてるんじゃないからな。することが他にないだけだ。 そんなトコロに共通点めいたものを感じたりする(笑]
「今すぐ購入」がわかりにくいので、通常のアカウント方式で買うボタン「アカウント購入」(要はタイトルやサムネをクリックした時と同じリンク)を設置したうえで「お試し購入」に変更。でログインしている時には「お試し購入」ボタンを消す。そういう配慮が足りないよね>ORJ
いっぱい番号抜けてるなあ。
起き抜けに展開方法を思いつき、とっさにメモを取ってみて、その流れでプロット風なものを作成してみる。うまくいくだろうか。只今はそれに従ってあらましを書いている。
イベントが実施される時点で成功なのだから、何も恐れるこたあないでしょ。
少しだけ掴めた気がするが、思い通りにはいかないなあ・・・。
混ぜ過ぎた・・・北側徒小径と隧道南側と台座の件まで入れるべきではないのではないか。しかもつなぎが単調。
_ ヨッキれん [ありがと。 無事成功? 一応成功ということにしておこう。 CDも売れたよ。買ってくれた人、本当にありがとうございました!]
歳出経常部第十六疑、県吏員費に関する、二十六番丸橋茂平の質議。
「(略)尚ホ一ツハ土木吏員ガ近頃課長ガ更迭スル後ニ於テ多数ノ異動ガ生ジテ居ルノデアリマス、是ハ何レモ当局者ノゴ都合デ更迭スルコトト思ヒマス、元来官公吏総テノモノ、総テノ吏員ノ更迭ヲ行フト云フコトハ一面ニ利益ガアツテモ又一面ニハ害ヲ伴フモノデゴザイマシテ其人ニ依リマシテハ随分経歴トシテ総テノ方面ニ長所ノアルモノデアリマス、ソウ云フモノガ上司ノモノガ代ルト多ク異動ヲサレルト云フコトハ大イニ考慮スヘキ問題ト思フ、是等ハ何ウ云フ事情ニ依テ更迭サレルノデアルカ、課長ノ考ヘデ前ノ吏員ノ内ニサウ云フ経歴ノアルモノガ少イカラ之ヲ改善スル上ニ事務ニ精通スルモノヲ必要トシテ更迭サレタモノデアルカト云フコトヲ承リタイ」
これに対する堀田義次郎内務部長の答弁はいささか逃げ腰だ。要は土木工事が進歩すると新しい知識を必要とする、ゆえに進歩に伴って新しい知識をもつ技術者を入れなければならない、すると自然に前の者から替えて行くということにしなければならない。「唯普通ノ異動デアリマス、別段変ッタ考ヘデ異動ヲ行ナフノデハアリマセヌカラ左様御承知ヲ願ヒタイ」。引き金を引いた当事者であるはずの山田博愛土木課長はこの議会を欠席している。理由は「体調不良」だ。
十六疑議案の本題は佐和山隧道、横山隧道の建設監督として「五十円の技手」を雇うための県吏員費増額についてであった。そのことよりも隧道建設そのものや進め方に関する質議が何度かあっただけで議案は無修正で可決された。そうして大正六年七月に、埼玉県北足立郡技手遠山貞吉がやって来る。月棒45円、滋賀県技手で1円、隧道工営所主任でもう少し手当てが付いたのだろうか。
案ずるより横山やすし
メガネはデコの上にあるから心配するな。
案ずるより井上靖
甍のうえで紫尾が輝いている
案ずるより生むが野洲市
いらないんだったらやめちゃえば?建設中でも。
案ずるよりいかのおすし
nagajisについていかない/口車にのらない/すぐおこる/すぐジャンプする/何かあってもしんじない
案ずるより井伏鱒二
どのみち棲み家から出られないんだから諦めろ
案ずるより谷岡ヤスジ
アサー
(以下追記)
缶汁より水が安し
当たり前だ
鼻汁より膿が不味し
自明だがそんなもの啜るな
安城より雑司ヶ谷駅
3回乗り換え6,550円
関西一の大河である淀川の歴史は、洪水と河川改修の歴史でもある。なかでも大正6年10月1日は近代以降最大級の河川災害を齎した日として人々の記憶に刻まれている。俗にいう“大塚切れ”である。
淀川河川事務所のサイトに詳しい解説がある。記録的な低気圧に伴う暴風雨で淀川水位が上昇し、まず最初に支川・芥川の堤(高槻市)が切れた。その奔流が裏から本川堤を洗い、それが大塚堤防の致命的な決壊につながった。一昼夜で長200mもの堤防が流失したという。
大塚堤防の決壊箇所から流入した濁流は淀川右岸の町々を呑み込んで神崎川にまで達した。安威川山田川合流点、味舌村(現・摂津市三島町)味舌の堤防、岸辺村の南正尺堤防、吹田町竹の鼻堤防、宮島村野々宮堤防・・・。付近の支川堤防はことごとく決壊した。奔流は合一して下流大阪市まで被害を齎している。被災面積は5,871.3ha、色付けした図がどこかにあったと思うのだが、右岸は阪急線より東がすべて水に浸かったのではないかと思えるほど色が塗られていた気がする。
明治中期から近代技術をもってして行われた淀川改修(新川付け替え)は、実際の所、この洪水の前には全く無力であった。この大正6年の災害をきっかけにさらなる抜本改修が計画され、ただちに実行された。工事は大正12年まで続き、のちに第二次淀川改修と呼ばれることになる。
でだ。村田がここに関わっていたらしい。大正7年4月に埼玉県を退職し、同10月に滋賀県庁入りするまでのごくわずかな期間、村田は大阪府内務部土木課にいた。(つづく。と思う)
筏資料の件一歩前進。いちようやくいんっぽいしごとしたのでまんぞく。やはり通いになるかも知れない。
Before...
_ nagajis [冷えますねえ。ご自愛ください。]
_ TUKA [擬傷行動ってやつでしょうか。 意味深いですな・・・。]
_ nagajis [それです、その言葉が思い出せませんでした。 擬傷行動やと思います>件の鳥]