nagajisの日不定記。
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1992年から10数年間にわたって繰り広げられた偽書騒動の話。つがるそとさんぐんし、と読むそうである。青森県の旧家から見つかった(とされる)この古文書は通説をひっくり返す大発見が書かれていて(ということになっていて)村史資料編で取り上げられたり歴史マニアが聖典のような扱いをしたりしていたのだけれども、 東奥日報の新聞記者だった著者が取材と裏付けを積み重ねて偽書だと看破した。その一部始終をまとめたものだ。あまり面白かったので3時間ぐらいで読み切ってしまった。
なんとも不思議な、しかし日本では確実に起こり得る話で、似たようなトンデモ学説だったりインチキ商法だったりが現在進行形で進んでいるのをよく見聞きしてるつもりだったのだけれども、このような偽書騒動が(しかもつい最近に)あったことを知らなかった。その頃は日本の正反対にいて勉強漬けだったもんな。
読んでいろいろ思うことがある。1000巻もの偽古文書を偽造し、東北に偽国家をでっちあげた和田氏のこと。生きるために手段を選んでいる暇などないと悟ってしまった人間は何をしでかすかわからないが、一度染めてしまった手の洗い方がわからず、嘘に嘘を重ねて自縛してしまう心理はわからんでもない。途中で「嘘でした」という勇気があればこんなに各方面を困惑させずに済んだだろうが、つきつづけることでプライドが保てるとか、毒を喰らわば皿まで的な発想になりがちだろうとは思う。
東北人が持つというプライドと劣等感が偽書流布の根っこにあるのかも知れないという話が随所で出てくるが、大分生れかつ郷土愛に乏しい私にはそれを正確に推し量ることができない。中央政権から蝦夷だとして迫害された恨みをいまでも根に持っていて、中央に対する反骨精神のようなものがくすぶっているというような表現をされている。そこまで古い恨みを覚えているもんだろうかと思わないでもなく、しかし「外三郡誌」の舞台が古代〜中世に存在したとされる東北政権を中心としているもんだから表現法としてそこらへんから持ってくるのが妥当なんだろう。そういう疎外感があったから奥羽列藩同盟ができ維新の不発につながったと考えてもいい(それが親>子>孫に伝わって今)。
自分はどうだったかなあ。大分県のいち田舎の町村に生まれて、中央に対する劣等感のようなものはなかった気がする。もちろん邪馬台国の位置とか考えたこともない。都会に対するれという感情もない。ともかく何もない平々凡々な田舎がいやで仕方なかった。別の世界に出たいという思いしかなかった。行き先を大阪に定めた理由はとくにない。あちらでは出るなら福岡、それを超えるなら大阪、という漠然としたイメージがあった。それより東の暮らしとか、日本海側の暮らしというのが全くイメージできなくて、そこが想像の行き止まりだった気がする。実際後になって名古屋や東京を目にした時に自分には住めない場所だと実感した。そうそう、出ていく方向ばかりなのだよな。地方にいて中央を見返してやろうというような発想は浮かばなかった。言い方を変えれば覇気がない県民性、全部よだきいで済ませがちな県民性なのかも知れない。
ひとたび嘘が広まってしまうと、それを訂正することが難しいということ。思い違いとか5時脱字なら可愛いもので、訂正される余地もあるかもしれないが、思想とか発想法とかは根絶されることはない。第三者が面白がって別の文脈で使ってみたりするからなおさら。陰謀論とか水の伝言とかすごく嫌なのだけれどもなくなることはないだろう。廃道を興味本位プギャー本位でしか見れない連中が一定数居続けてるようなものだ。
「外三郡誌」が世に出たのは1970年代なのだが、専門家が見れば明らかにニセモノだとわかるような稚拙な内容だったのに、それが町村の刊行物になったころから話がおかしくなる。最初にそれを防げなかった理由もあまりに日本的で「ファ〜〜〜」と思う。内容が怪しく思えたけれどもとりあえず書いて世に問うことにしたとか、第三者の検証を待つために、なんて、まるで同人誌じゃないか。と思った反面、そうやって逃げ続けているnagajisのスタンスもどうよ?と思わされた。そういうのは京味を持った人間が責任持って最後までやらなきゃいけないのよな。批評も誤字指摘もしてもらえないnagajisのような場合は特にな。
論争とはいうけれども、自分の発行している会誌・雑誌のなかで相手を避難しているだけに見えてしまう。書いて反論することほど無益で疲れることはない。自説に固執して時間をかけて書けばいくらでも反論のしようがあるから、結局はただの喧嘩で終わりがちだ。それを面倒くさく思わない、天性の書き馬鹿のほうが勝つという不毛地帯なんではなかろうか。
他にもいろいろ思い当たる節があったので折を見てかく。
はいはいアップデートアップデート。
テングタケ。
諏訪ノ森商店街で見かけた喫茶店。尋ねればきっと理由を教えてくれるのだろうがそうした時点で負けが確定してしまうような気がして聞くことができなかった。「口美ン」である可能性もないではない。そんなことを考えているうち「レミオロメンに似ているな」とも思った。
アップデートのお陰で画像をあげやすくなった。それをいいことにほいほい上げてみる実験。三国の西側で見かけた歯医者。名前とマークの連結が上手いようで上手くなく、いつまでもモヤモヤを引きずってしまう。形としては団子をモチーフにしたに違いなく、名称を逆にしたのだなと想像することはできるのだけれども、最後の一文字がどうしても「b」にしか見えず「ゴビ?」と思ってしまう。
げらげら。げらげらげらげら。瞠目。瞠目瞠目 。げらげらげらげらげらげら 。ほろり。 げらげらげら!
高校の時に大枚をはたいて買った本が入荷した。厚さ5cmを超えているうえ100円にもならないような値崩れ本なんでBO行き確実とみて回収してしまった。こんな大巻読む暇あるんだろうかと思いつつ、げらげら笑いながら読み続けてしまい、もう1/3も消費してしまった。勿体ねえ。
それにしてもこんな面白い本だったかなあと思うこと数百度。あらすじもほとんど覚えていなくてすごく新鮮な気持ちで読むことができた。高校ン時のは読んだうちに入らんなぁ。「なんて冗長な本なんだ」と思ってしまったのは仕方あるめえ。作者は計算してわざとそう書いている。 最適なスピードなのだ。主人公古橋の異常な移り気も三文作家ぶりを実にうまく想像させてくれる。
コピーし忘れてた。2,000いくつもあるのでftpでダウンロードしアップロードするのも能がなく何より面倒で時間がかかると思いつつnutsのメモがやっぱりメモされてなくてパスワードがすぐに出てこないためssh接続することもできず時間浪費を承知のうえでdlしたらあろうことかdlした場所がかわからなくなり結局リマインダメールからパスワードを拾ってシェシェってcpしたら一つ上で*.*してしまうという馬鹿を演じディレクトリを汚染した。くそ。くそ。ダボが。死ね。ハゲ。ボケ。
-recursiveつけてなかっただけまし。つーか最初からcp -rfT [new_directory]/*.* [old_directory]で済んだんだろがい。なおオプションはうろおぼえである。
高校時分の自分が吉里吉里人を面白く思えなかったのは、それが単純な笑いで構成された本だったからかも知れない。筒井康隆だってドタバタよりも中隊長以降のほうが好きだった。いかにも物語然としていてストーリーテリングで引き込まれるものよりも想像力が刺激され異質な空間描写であるはずなのにありありとその光景が思い浮かべられるようなやつのほうが心に残っている。「虚人たち」とか「残像に口紅を」とか「夢の木坂分岐点」とか。「吉里吉里人」はそうじゃない。王道の笑いをこれでもかこれでもかと投げつけてくる。いかにも劇調に話が展開し、しつこいくらいに笑いが仕組まれている。言い方は悪いが安いシュークリームのようなくどさがある。口が甘いものを欲しがっている時はこれ以上最適なものはないし、そうでなくても1個2個なら美味しく食べられるのだが、3つ4つと食べ続けているとだんだん食傷気味になってくる。吉本新喜劇に例えてもよい。勉強勉強で笑う余裕もなかった当時はそんな笑いを受け止められなくて、だからずいぶん飛ばし読みした。それは正しい鑑賞方法でない。笑いの間に重要なことがらがまんべんなく含まれているので飛ばし読めば読むほど重要事項が抜け落ちる。その笑いの対極にあって、笑いの存在によって引き立てられている真意の部分(ゴンタザエモン沼袋老人の演説とか)が翳ってしまう。そうじゃないのだ。この本は深く考えずにげらげら笑いながら読み続けておればよかったのだ。
夜食にどん兵衛を食おうと思い立ち、コンビニまでの夜道を歩いている道すがら、次のカレンダーのネタとして「煉瓦」を思いつき一人でゲラゲラ笑ったことだった。あれも入れられるこれも入れられる裏面日付欄には刻印入りだと思いつく連鎖の早いこと早いこと。陽子ー反陽子の対消滅の反応速度よりも早かったに違いない。何より誰も欲しがらないであろうこと明白なことが笑いのツボだ。次点で「どの写真を使うか」に頭を悩ませねばならぬところ。しかも悩んだところで煉瓦しか写ってないというバカさ加減。1年間12月めくってもめくっても煉瓦。春夏秋冬無関係に煉瓦。さも大仰そうに恭しく撮影された煉瓦が12個。壮観じゃないか。
「隧」に倣ってタイトルを1文字にすべきかどうか悩み始めたところで反応速度が頭打ちになった。ものの意味としては「瓦」のほうを取りたいのだが、そうすると屋根瓦と混同されてしまいはしないか。「煉化」の立つ瀬もなくなってしまう。となると「煉」のほうを使うべきだな。しかし「煉」だけではあの直方体を連想しにくいぞ。どうしよう。あと、ちゃんと12ヶ月分の煉瓦を用意できるかどうか。採取月で割り振っていいのだがそれは次善策だ。その月に設立された煉瓦工場の煉瓦でなければ凄みが出ない。
煉瓦建築の写真に逃げるテもないではない。そのほうが見栄えもするだろう。しかしそんな阿ったことはしたくないぞ。あくまで素の煉瓦でなければならぬぞ。素の煉瓦の写真12枚+αでなければならぬぞ。そう思った。そして近畿圏以外のことはハナから頭にない。ひどいものである。
長年使ってきたLCDが天に召された。死亡時刻は11月8日午前2時20分ころ。版下の最後の最後のいいところで呻吟していたら、画面の下半分が暗くなり、あっと思う間もなく真っ暗に。入力を切り替えると一瞬映るのだが、1秒もしないうちに消えてしまう。この忙しい時に狙いすましたようにお亡くなりになられるとは、よほど恨みが募っていたようだ。許せよ。
iiyamaの17インチ液晶ディスプレイ。入力ポートが2つあって、ボタン一つで切り替えられる便利ものだった。一応ピボットになっていて縦画面も可能だったがそれで原稿書くのはブンピツギョー臭くてやらなかった。なんかぬめぬめしそうだし。MacとWindowsを行ったり来たりする自分には2ポートだけで充分だったのだ。ああ。悔やんでも仕方ない。モノはいずれ壊れる運命にある。それよか次どうするか考えねば。
症状からして下陰極管が切れたような貴ガス。こういう時のために実はジャンクの17インチがあったりするのだが、流用できるかどうかは確認していない。インバーターごと死んでいる可能性だってある。そうしてジャンクは押し入れの奥底か第二机の下の密度が高いごちゃごちゃの中だ。夜中の3時にごそごそするのもアレだし、いい加減寝ないとゆうれいに連れて行かれてしまうので今日は寝る。明日晩交換してみてダメだったらポンバシだ。
それにしても痛いな……収入が激減したこの期に及んで。それよか2系統繋がるやつってまだあるんだろうか。そうじゃなかったら面倒倍増だ。デュアルなんてゆー電気代食いもしたくないぞ。
以前使っていた14インチはどうしたっけ。あれも残してなかったっけか。それとも送りつけ処分てしまったんだっけ。でも今更800×600には戻れんよなぁ……。トホホホホ。
そういう悲劇が待ち構えていようとは露知らず、今すぐ読む暇もないことも知りつつ、とりあえず確保した一冊だった。すき家で腹ごしらえをしつつ数ページ読んで泣きそうになった。私も宮本氏のような心を持ちたい。
石工の話。大変な仕事で子供には継がせたくないが、自分は死ぬまでやるつもりでいる。しっかりした仕事を残すことに生きがいを感じている。美しくしっかり積まれた石垣を見ると同じような仕事をしなければと思い、そう思って成した仕事には自信が持てる。請負仕事だと正直身が入らないこともあるが、そんな石垣は雨が降るたびに壊れはしまいかとびくびくしてしまう。自分の得心のいった仕事はいくら雨が降っても大丈夫だという自信がある。安心がある、だったっけか。そういう安心をするために、良い仕事をしなければならないと思っている。
だはあ。
後々の自分のために良い仕事を残す。腕を誇るわけでも高い賃金を得るためでもなく、自分が納得したいがために一生懸命な仕事をする。それが仕事というものの真髄なんじゃないだろうか(と宮本氏も言っている)。原稿書きだって同じだろう。書き捨てるようなものをいくら書いたって意味がない。その上に次の一個を載せても揺らがないようにするために反吐を吐く思いで積んでおるのだ。眠い目をしばたかかせこすってつねってふげこらひいほう言いながら石をひとつ積んでおるのだ。そういう苦労に水を差す今回の故障ではあるのだが、落胆したり腹を立てたりする暇があったらもっと自信を持てるものを書け。わかったかハゲジス。
それぞれの分野には大家と呼べる人がいる。民俗学における柳田國男とか宮本常一とか。そういう人物になろうと思うのは、そりゃ結構なことだろうが、成就するかどうか。師と仰ぎ目標と設定した時点でそれを越えられなくなる気がする。他人の知識や経験を上回ってなお成果を積み重ねるなんて、どだい無理な話じゃん、と思う。そう感じてしまう時点で器が小さいとも思うけれども。
第一人者になるのは無理だから、せめて実践者になろう。良いと思うこと是と思うことをやり続けよう。その点に関してだけはまだ落第していない。「つもり」をつけずにそう言い切れる。ORJをやってきて唯一言えること。
追記:あと数ページというところまで読んだ。民俗学の視点や論点がうまいことまとめられていて、民俗学ちゃ何かを知りたい時にちょうどいい本だということに気づいた。オシラサマのその後(柳田翁とネフスキーの頑張ってた頃以降)が判ったりするし。
結局ポンバシで新しいのを買ってくる羽目になった。予備ディスプレイはうんともゆんとも言わないし、取っておいたはずのジャンクパーツはいつのまにかほかしてて見当たらないし、15インチの陰極管が18.1インチのに入るはずもないし。しかしSXGAのディスプレイが2480えんで手に入るご時世になっていたとは思わなかった。無保証ジャンクでなく動作保証1ヶ月のお品が、だ。隔世の感がある。
新しくなったお陰で左上隅の黒ずみと焼付と複数本のライン抜けからも開放された。この際だから焼け太ってもいいかなと思ってみたりしたんだがまたnagajisのくせになまいきだと言われるのが目に見えているから止めた。
ディスプレイ切り替えの件も解決。怪しいパーツ系の店でKVMスイッチャ(新品700えん)を発見した。ご丁寧にUSBも切り替えられる一品だ。ただしUSBのバスパワーから電源を取っているらしくて強制的にそれを利用させられる。スキャナ+プリンタは共用だからまあ便利ちゃ便利なんだけど。あとMacがディスプレイを正しく認識できなくて起動のたびに640×480になる。起動時にオンザフライ確認しにいくからそこでこけてリセットされる模様。立ち上げ後に手動で設定してやらねばならぬ。あれ、オンザフライってこんな使い方だっけ。
早く済ませようと思って午前中から出かけたのに店が昼12時オープンで無駄な時間を過ごした。雨の中歩き回ってへとへと。そのせいで肝心のpdfが進まず。ひととおりさいごまで入れたが細部ができてねえ。
(追記:KVMスイッチャの件は解決した。1280x1024 75Hzを選んでおけば桶)
様々な障害を乗り越えて。中身はいつものとおり。なんでさくっと書けないかね。なんで説教臭くなるんだろうね。また面白く無いって書かれるのが落ちだとわかってるだろ。わかってやってるだろ。そういうのを確信犯って言わないんだぞ。いや、違わないのか。この原稿もある意味宗教的政治的信念のもとに行なわれる犯罪だ。
11月11日。11,11という並びが下駄の歯に見えるので下駄の日なんだそうだが、だったら二月二日でよかったんじゃね。
導入の茶碗の所有とフォーク・ナイフの非所有のくだり(個人主義の本家と目されている欧米ではナイフもフォークも共有物である一方、非個人主義的と見なされがちな日本では大昔から私の茶碗私の箸があった。日本の子供にパーソナルスペースがないのは板塀土壁襖による簡便な区画方法が普及したからという建物構造に因る所が大きく、煉瓦や石造りの発達して部屋を明確に区切る欧米だから子供部屋が存在し得た。そういう風土の違いを無視して個人主義マンセー子供の人権を守れだとか何だとか叫ぶ自称知識人の多いこと多いこと云々)を読んで、あれ、どっかで読んだことがあるなあと思ったら、6年前にエロマンガを買った時に一緒に買っているではないか。愚か者め。
しかし本棚の見える範囲にはそれが存在しない。どこにやったのか。無くしたのなら確保しといたほうがいいな。そしてエロマンガも存在しない。どんなエロマンガを買ったのかも思い出せない。
2004年14刷は奥付に誤植がある。「第14刷」と書くべき所が「策14刷」になっている。ここだけならまだしも初刷表記も「策1刷」だ。ひょっとしたら初刷から間違えたままなのか。コピペした時とか改刷した時とかに気づかんもんなんかな。
たぶん「インド人を右に」式の誤植。キーの打ち間違いでは少なくともない。というわけで完結は明日に持ち越し。
仕上げた余勢でもう一つ。意外と豊富に資料が見つかって、急拵えの割に充実したものになりそうな塩梅。しかし妙にノッてしまったため明日は余裕がない。
しかしあれだよな、こっちは歴史的事実を知りたいだけなのに、開いただけで軍歌が流れたり私情怨念たっぷりの文章を読まされたりするwebは苦痛だ。なんとかならないものか。あれだけ愚駄愚駄書いときながらどの口が言うかと思ったりもするが、自分の残したものに価値があるとは思っていないだけマシなんじゃないだろうか。あと政府とか学者とかがやったことを政府や学者がやったことだからというただその一点のみを理由にして否定するのは愚かなことだと思うね。
こんだけだと何のことやらさっぱりわからんな。
流し台の蛇口が設置されている奥行き12cmほどのスペースに台所用洗剤を置いている。左をひねれば湯が出て右をひねれば水が出てという普通の蛇口である。その蛇口の右側に洗剤を立てている。その洗剤が、水の蛇口を捻るたびに落ちる。
洗剤はそこにしか置き場がなくて仕方なく置いている。できるだけ蛇口から離したところに置こうと心がけている。にもかかわらず3回に1回くらい手が当たって落ちる。右にひねると水が出るから、ちょうど洗剤を引き倒す方向に手が当たってしまう。そうして洗剤が落ちる。そのたびに拾って立て直している。
いつだったか、面倒臭がってそのままにしておいたら中身が流れ出て1/3も無駄にした。茹でたそうめんの上に洗剤が落ちたこともある。もっと別のところに置きたいとか、落ちないような工夫がしたいとは常々考えているのだけれども、その処置を施す前に手が当たり、洗剤は落ちてしまう。
つくづく愚かだとは思うのだ。落ちることがわかっていながら対処しないのは、不便だ不便だと文句を垂れてばかりで何らアクションを起こさない[禁則事項です]そのものじゃないか。情けないじゃないか。じゃあ何とかしろと思うのだ。思うのだけれども、対処を施す前に洗剤が落ちるのだ。
何とかならないものだろうか。
N氏とのツール・ド・北九州でこんな感じの構図の写真を撮ったような気がする。今から22年も前の話。さんふらわあやこがねでも撮ったはず。フェリーの描く航跡がそんなに好きか、と思う。
好きなんだろうな。後ろを振り返ることが。行く先はぶっちゃけどうでもいい。なるようにしかならない。自分が通ってきた世界、うしろの世界にばかり興味がある。見落としたものがあるかも知れない。気が付かなかった何かがあるかも知れない。振り返ってみて初めてわかることも多々ある。そこが「自分が知っている場所」だという安心感があるからか。
ひいこらひいこら言って登った峠から、自分が登ってきた道をはるか眼下に見下げるあの瞬間が好き。そこに自分の知る空間があって、Vacantな森がただ広がってるだけじゃないってことを確認する。見渡す限りの海原で、知ってるもナニもない世界だからこそ軌跡としての航跡を心の拠り所にしたいのかも知れない。
右足がイカレポンチになってから長時間歩くと小指の付け根の辺りがジンジンするようになって困っていたのだが、巨大なタコができたせいでそうなっているのだとつい最近気づいた。タコとタコでないところとの境のところで皮膚がヨレて痛むのだ。
ならばと思い、風呂に入りながらヤスリでゴリゴリ削ってみている。角質取りのヤスリではなく、100円ショップで木工用鉄工用として売っていたごく普通のヤスリである。いかにも肉体改造してるっていう気分になる。そんなのでいいのかと思ったりもするが、意外や意外、効果覿面担々麺、御免ボーメンはい残念だ。
しかし加減がよくわからぬ。時々ぴりっと痛むのだがそれがタコでない皮膚を削ってしまったことによるものなのかタコ−非タコの境界部が痛いのか判別しづらい。しかも小指の付け根だから目視しながらの加工は不可能だ。嘘だと思うならやってみるといい。あぐらをくんで右足を掴んで足の裏を持ち上げて見ようとすると見事にひっくり返る。浮力場に支配された風呂桶のなかではなおさらだ。
いつものごとくのタイミングで記事up。何とか間に合ったようだ。あとは埋草など整えればOK。今号はアンケのコメントすらないので楽ちゃ楽。まあ回答がないこと自体は大昔から何度もあるのでどうということはない。粛々と作るのみである。
TUKAさんが自宅の水道工事をしなければならず、その間家を空けなければならないということだったのだが、それがこの土日に当たってしまったため最後のチェックをしていただけない。間違えないように発行し。
あ。
TUKAさんの編集後記、頂いてないや。
いつも全部終わってからもらってたものな・・・自分もそうだ。最後の最後に書いていた。すっかり忘れてた。
うーん。空欄にして発行するしかないか。先に言わなかった自分のせいだなぁ。部屋掃除も洗濯も食事も後回しにして作り続けてるっちゅうねん。
受付から「死ぬ気でやってる?」と電話があった。おそらくどこかで「nagajis死ぬ気でやれ」といっている連中がいるのだろう。やっとるっちゅうねん。
バルカン砲がちゃんと機能するか確認しておかないといけない。発行後に久しぶりに使わないといけない。返事があるかどうかはわからないが。
受付に画像をもらって埋め草を2つ。教えたとおりにやってくれたので刻印写真が2つ増えた。ありがたいことだ(とゴマを摺っておかないとすぐ不機嫌になるから)。
「今月の煉瓦」を始めた頃にはここまで続くとは思ってなかったなあ。岡町住宅地が刻印見本市だと知って以来 、 着実に興味の重心を奪っていっている。しかしもう一歩を踏み出すべき浅瀬が見つからぬ。深淵にどんどん引っ張り込まれていくばかり。なんとかして片付けたいんだがなあ。
月末にKINIASで発表しなければならないのだがテーマが定まっていない。煉瓦を研究すること・煉瓦製造業の歴史を明らかにするうえで課題になると思われる事項を列挙。あまり旨くない。府下工場(刻印が明らかになっているもの)を列挙しても終わらないだろうし。課題のほうは煉瓦製造業組合のこととか、、なんかそればかり。
猫飼いたいなあ。
受付に画像をもらって埋め草を2つ。教えたとおりにやってくれたので刻印写真が2つ増えた。ありがたいことだ(とゴマを摺っておかないとすぐ不機嫌になるから)。
「今月の煉瓦」を始めた頃にはここまで続くとは思ってなかったなあ。岡町住宅地が刻印見本市だと知って以来 、 着実に興味の重心を奪っていっている。しかしもう一歩を踏み出すべき浅瀬が見つからぬ。深淵にどんどん引っ張り込まれていくばかり。なんとかして片付けたいんだがなあ。
月末にKINIASで発表しなければならないのだがテーマが定まっていない。煉瓦を研究すること・煉瓦製造業の歴史を明らかにするうえで課題になると思われる事項を列挙。あまり旨くない。府下工場(刻印が明らかになっているもの)を列挙しても終わらないだろうし。課題のほうは煉瓦製造業組合のこととか、、なんかそればかり。
猫飼いたいなあ。
川辺なので風が止まないことが判明。ペットボトルで風よけを作るとかなんとかしないと無理。あとまだ紅葉してない。駅近くは見頃だったのに。なんでだろう。温泉のせいで水が温いのか。日が差さないから寒暖差が生じないのか。
18時を回ったころにすべてを終えてトップページも確認したところで503祭が始まった。そんなに慌てなくても廃隧道pdfは逃げやしないのに、といつも思う。転送量の約8割はアレだからなおさら勿体無いのだが痛くも痒くもないので放置している。そんな暇があったら落ちてるゴミを拾うか頭の上の蝿を追えばよいのにね。
隠し持っていた文庫本をごにょごにょして読み始めた。一時期こればかり繰り返し読んでいたことがあったから懐かしくてたまらない。ビッチバードのコンパス。 異常色欲の糊。ただ数を数えるだけの存在であるナンバリング。ナルシストな赤インク。大なり小なり自分の性癖と通じるところがあって、それを拡大して見せつけられているような感覚に囚われ、しかしそれをニヤニヤしながら読んでしまった自分をふと思い出して、おどりゃ今自分を嘲笑っただろと思う。読むことで自己を客観視し、要らない部分をそぎ落とし、切り捨てることができる。これほど身になった本は他にない。
第二章の鼬史にさしかかるとがくんとスピードが落ちる。やはり自分は生き物よりもモノのほうに感情移入しやすい質のようだ。
初めて読んだ文庫本は引っ越しの時に後輩が引き取ってくれた。その後古本屋で投げ売りされていた単行本を入手したよなあ。これで三冊目だ。アホだ。
と書いて思い出した。単行本はまだ手元にあったのだった。箱付き傷み汚れありだが初版第一刷な単行本が。ダボが。
を読んだという内容を書いて送信しようとしたらエラーが出て消えた。しやごしやご! ついでに話が噛み合わなかった理由がわかった(最初の「行かん?」を「要らん?」と聞き違えていた。余っているからあげるという話だと思って喋ってたのだ)ということも消えた。しやごしゃしやごしゃ!!!
前回は工場消長表のことをお話しましたので、今回は煉瓦工場と刻印の対応について中心にお話したいと思います.できれば大阪府下の煉瓦製造業の歴史を概観できるようなものにしたいのですが、話があちこち飛ぶこととおもいますので、今回は「こんな刻印があるんだ」「こんな会社があるんだ」ということ、それから私が今現在課題と考えていることをお伝えし、ご助言いただければ。
所有煉瓦で最も古いものは阪府授産所。旧大阪府庁跡で見つかったもので、 M6-9云々.小口・長手.詳細は旧大阪府庁舎発掘跡.
阪府授産書の煉瓦は大阪府の煉瓦のなかでも最古級.造兵寮建設に伴い煉瓦を焼いたのが最初.泉布観には「YEGAWA」銘刻印,これは「江川某に焼かせた」という記述に一致する.
その次に古いものとして若井煉瓦。堺市に明治20年頃に興り、27年頃に消滅した会社.その前に「成金商社」と名乗っていた時期がある.例えば「大阪府統計書」明治●年版を見ると「盛金社」というのがあり、翌年の●年では同じ住所で若井煉瓦が興っている.盛金は成金の誤りだろうと思われます。春に紹介した消長表は基本的にこのような形で住所をキーにして継承を見ている.あるいは工場所有者が同じかどうか.より具体的な資料が見つかるまではこうやって継承関係を推測する他ないと思う。
若井煉瓦はもっと直接的な証拠があって興味深い.神戸外国人居留地の壁.これには若井煉瓦の刻印とともに成金商社の刻印もある.MANIFECTUREDという誤字はご愛嬌.
次に古いのは、前回の発表の際に持ってきていていたこの煉瓦。B.C.△H.J.という刻印があり、明治21年に創業した関西煉瓦という会社のもの。おなじものが旧グラバー邸で見つかっており、「日本煉瓦史の研究」ではグラバーの関与が疑われておりますがさだかではない。
工場は兵庫県明石市にありましたが、その元となった煉瓦工場が府下豊中市小曽根にあった。朝日新聞のバックナンバーにこのような記事。
また、官報にイギリス人の技師を配置したことが載っている。この煉瓦はプレス工法で作られている。ヨーロッパで主流だった作り方。しかし日本の土には合わなかったのか、以降プレス成形で作られることはなく、木枠に手で土を詰めて整形するのが主流。関西煉瓦の煉瓦もこのよう普通の煉瓦に陰刻したものが存在する。吹田の民家で使われていたもの。吹田のアサヒビール工場でも見つかっている。これが
ツキス。堺附洲煉瓦のものと思われる.これも明治19-30年代に存在した会社.この頃附洲にはいくつかの工場があったけれども.同社社長はツキス消滅後に日本煉瓦へ()。
明治21年頃。朝日新聞バックナンバー。小規模なものも含めると100件近くあるのではないかと。
旭商社の存在が大きかったと思われる。明治 年頃煉瓦製造業組合が成立、その後正式に登録?された時も旭商社の代表。しかしどのような会社であったのか、どのような刻印を使っていたかわからない。
後に関西最大の煉瓦製造業者となる大阪窯業も明治18年に創立。いまの 。それが明治31年頃堺に移転し、後に関西地方で最初に成形機械を導入し、改良型のホフマン窯を導入。
鉄道遺構に興味がある方にはお馴染みの堺煉瓦。成立には少々紆余曲折があった模様。宮崎商店→三栄社→堺煉瓦石 三本線から五本線へ。堺煉瓦は堺監獄の囚人を雇って製造していたところに特徴がある。東京の小菅周時間で煉瓦を製造していたのと似た構図。そのため安かった。
岸和田の第一煉瓦は明治27年に岸和田煉瓦と改名。以降一貫して煉瓦製造をつづける。少し後になるが2番目の成形機械を導入。
明治30年代は大阪の煉瓦製造業が大きく発展した時期。第一期の煉瓦黄金期といってよい(言い過ぎ)・
ちょっと前の明治29年頃の煉瓦生産量の記事.http://www.kyudou.org/cgi-bin/tdiary/?date=20140125#p02 堺附洲煉瓦は日本煉瓦に。加えて津守煉瓦。
堺、岸和田。大阪窯業が堺へ。またツキスが日本煉瓦に。この辺は「商工録」に社章があるので確定といってよい。丹治煉瓦は古くからあるけれどもどのような刻印を用いたかという明確な記録はない.ただし現存する社屋に「丹」記号があり,近畿各地に分布が見られる.和歌山県串本町でも見られるとか.
第一期の六工場時代の一角・津守煉瓦もはっきりしない.津守煉瓦はいまの南海汐見橋線木津駅の附近にあった.地図.この工場の刻印を六稜星とする説.私も賛成.跡地近くで焼損煉瓦らしき刻印煉瓦を見つけたし,後述する大阪煉瓦との関連.
もちろん小工場もたくさん。★印の推定塔本。ユニークなものとして樽井煉瓦。和泉煉瓦を岡町住宅地を例に。
煉瓦製増量は大正8年頃をピークにしている.府下に分布する刻印もこの頃のものが多いような印象.ただし丹治は下駄に.逆ズレもある.これも丹治煉瓦のものと見ると,その規模と分布量とが一致するように思われる.<このあたりどうしても定性的にならざるを得ない.課題.
大正中期に不況。堺煉瓦が脱落。煉瓦製造量も減少に向かう.その一方,例えば印南郡で多くの煉瓦製造業が勃興している.製造が周辺地域に移っていった傾向が見られる.事実
昭和期に大阪煉瓦が勃興。大阪煉瓦と津守煉瓦(狭山煉瓦)。
推測。
わからない例。桜ノ宮橋台の「○」。単純記号。○ヌ。堺市でよく見られる(■■で見つかっている)□数字。鉄道(大阪鉄道アルファベット、福知山線幾何学模様)。現場で焼いたということが多いがどうなんだろう。柏原市の〒。
小口火。1例のみ。漢数字。阪大医学部など。
煉瓦分布の傾向.あくまで定性的だが煉瓦製造所の附近に集中して分布する傾向は確かにある.その工場の近くでしか見られない刻印もある.兵庫県の煉瓦は兵庫県に.大阪に入っても北・中部にとどまる.K2とかバンレンとかワとか.とくに兵庫県煉瓦工場は昭和30年代・40年代まで生産を行っていた.大阪の煉瓦工場はセメント製造やプレキャスト製品,耐火物製造に移行.需要の隙間を印南郡や讃岐煉瓦,広島県の煉瓦が埋めていた感がある.
遠くは広島・愛媛からも煉瓦がきている.大正初期の煉瓦不況期に瀬戸内海沿岸の煉瓦製造業者が結託して生産統制を行った.それ以前からもあったはず(例:呉鎮守府の建物,愛媛県三津浜煉瓦跡,大阪府貞徳舎外壁に同じ刻印が見られる○ト).
なお大阪の煉瓦は全国各地に散っている.例えば大阪窯業は鳥取米子の鉄道工事に供給,北海道,関東,はては大連まで.堺煉瓦も舞鶴鎮守府の建物に刻印がある.明治37年.
大きな工場は大口需要を受けて大量生産・大量納入した.家庭で使う程度の小口は 日本煉瓦の刻印が多数見られるのは販路が小口に向いていたからではないか.
_ ゆうさん [5時、京味を指摘してほしいのかな?]
_ nagajis [当たり。さすがです。]