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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2012-06-01 [長年日記] この日を編集

[独言] 大事なところで寝過ごすな!

最初に目が覚めた時はマジで7時頃だと思ってた.余裕こきすぎ.万死に値する.

[奈良近遺調][橋梁] 吉野川の橋梁の転用

画像の説明

先代の千石橋(大淀町~下市町)は鋼トラスだったのだが,1960年代に架け替えられた余材が五條市の大昭橋(大正橋)に流用されていたらしい.その大昭橋も2002年,単径間のRCアーチに架け替えられた(写真).部材はどこへ行ったやら.

五條市の御蔵橋(吊橋)も同様の転変をしてる.1929年に吊り橋になり,戦後にトラスに架け替えられて,余材は相谷橋になったのだとか(1955竣工).相谷といえば真土トンネルのある辺り.ネットで画像を探してみたけれどもそれらしい写真は見つからず.そばを通っているはずなんだけど,写真撮ってないよなあ・・・

以上,「橋梁史年表」より.

大野橋も北山川小口橋を流用(S36.『吉野町史』p.161)


2012-06-02 [長年日記] この日を編集

[KINIAS] 見学会

画像の説明

無事終了.最大の収穫はこれ.ホフマン窯で煉瓦を焼く時,このような井桁を組んでいたという.以前杉本隧道でゲッツした不良煉瓦がなぜあの形だったのかはっきり理解された.

この積み方は中山煉瓦で実際に行なわれていたものだとか.かつてここで働いていた人がたまたま見学に来て教えてくれたという.こういう偶然の伝承はとても貴重だと思う.書いて残しておく.記憶せよ諸氏諸嬢.

(中山煉瓦の煉瓦が杉本隧道に使われたということではない.杉本のそれ専用に設けた施設で作られたらしいし,中山煉瓦以外にも小さな煉瓦工場がいくつもあったそうだ).

中山煉瓦へ向かうバスの中で地元のおばあちゃんと話し込んだ(このバスにこんなに多くの人が乗るのは珍しいといって驚いていた.今回は総勢20人近い参加者).若い頃は煉瓦の素材になる土を運んでいるのをよく見たという.田畑の表面の土(アマツチというそうだ)をはがし,その下にある赤土を,ちょうど煉瓦のサイズに切り取って運んでいたという.それをチャプチャプ水が入るほどに舟いっぱいに積んで,八幡掘を通って中山煉瓦へ運んでいた.仕事に従事したのはみな身持ちの男性ばかりだったという.そうでなければ勤まらない重労働だったという.

その土をママ乾かして焼くのかと思ったらそうではないらしい.石井さん曰く,近江八幡一帯の赤土は砂分が少なく,煉瓦向きではないとか.砂を加えて練り直し,素材にしたそうだ.その機械も残されていたが…名前を忘れてしまった.


2012-06-03 [長年日記] この日を編集

[独言] 嗚呼吉野行きてえ

なんでこうこまごまと見たいところ出てくるかね.大野橋は確か見てるんだ.銘板見てスルーしたんだ.くそ.

自転車でちゃちゃっと行ける距離でもなく,ましてやくるまもばいくもないnagajisは鼻を垂らして指咥えてみーてーるーだーけーなのが悔しい.まあその前に篠原行けっていう話だが.世界にここにしかない文字列“大和白煉瓦合資会社”探しに行ってもいいけど.いやその前に月報書いとけよ.5日〆なの忘れてるだろ.


2012-06-04 [長年日記] この日を編集

うーん。キーボードが調子悪い。右のほうがギコギコいうとるよ。

[奈良近遺調] バージョンが.

調査票を作っていたのだが、あらかた作り終えたところで古いフォーマットを使っていることが発覚してしまった。なんということだ。慌てて全ページ作り直したがまだpdf化できてねえ。一ページ変換するのに2、3分かかるのはどうにかしてほしい。多分自分の設定がよくないんだろうけど(画像の大きさとかなんとか)。

若干ジャギジャギ言っているがこれでよしとしよう。OKOK。

なんだこのやろう。デフォルトが1番使いやすいじゃんか。

おっぺけぺーおっぺけぺー。

[独言] 掃除したった。

旅行以来放置気味だった部屋を片付けた。居間と台所と両方ともを片付ける本格的な掃除。そうして蚊取り線香を初点灯。この香りが夏を思い起こさせて好きなのだ。


2012-06-05 [長年日記] この日を編集

[独言] 土木学会関西支部はすばらしく、八郎橋は見つからない。

府立図書館に寄った帰り、ふと思いついて「橋梁工学の最近の諸問題」を見に行った。事前に電話するのが筋だろうと思い、電話して、OKをもらえたので行ってみると、なんとその本を貸していただけるという。何処の馬の骨かわからないような自分に。 有り難いことだ。大事に読まなければ。忘れずに返却しなければ。

掲載されていたトピックがどれも一度はしっかり知っておきたかったことばかりだったのも高ポイント 。高力ボルトの仕組みや理論を紹介した文章。曲線桁の設計法。全部理解できるとは思えないがいつかは理解してみたいと思っていたことばかりだ。

で、肝心の八郎橋がなぜか見つからず・・・。どういうことだ。巻末リストにあるんちゃうかったんけ?


2012-06-06 [長年日記] この日を編集

[独言][] おっつかねえ

ORJ原稿の方の月報の原稿を書いているのだが、いまだ大淀町のあたりをうろついている。この調子だと4日分書くのにどんだけかかることか。明日から本気出す。場合によっては総括+個別事案で切り抜けることになるかも知れないが、次回自分のメイン原稿はメイン原稿と呼べるものがなさげなので、月報のほうにいろいろ詰め込むべきであったりする。かといって現状のだらだら書きじゃあ面白くも糞もねえ。果たしてどうなることやらぬ。

やっぱり総括+個別にしたほうがええかなあ。現状のでは旅のルポなのか報告なのかも曖昧だ。

[独言] 吉野郡史料

大塔村の住宅地図コピーが第一義にあったんだが、時間があったので吉野郡史料を見直し、賀名生村以南の道路・橋梁について一通り目を通して、要所をコピっておいた。橋梁に関してはこれといった新事実無し。西熊野街道の最初の改修が明治20年頃に行われていたこと、永谷街道のこと、大塔村から北へ向かう唯一の荷車道が富貴街道であったこと@大正中期等は収穫と言えるのだがな。ただ東熊野街道ほど詳細な歴史は追うことができなさそう。関連しそうな情報が断片的に載っているだけで、土倉翁と対をなすヒーローも居なさそうな塩梅。

郵便局の変遷、小学校の設置と統廃合も追っかけておいた方がいいのかも知れない。思いがけない建物が旧庁舎であったり小学校の建物だったりすることがある模様。

[独言] CAUTION!

UFOが落ちてきても知らないぞーーーーーッ!!(いくつか混じってる)


2012-06-07 [長年日記] この日を編集

[独言][] だだなげえ

ぐだぐだ書く記事になると断っておいたのだから,そうなったところで何をか恥じる必要やある.そう開き直ってぐだぐだ書くことにした.ようやく一通り書き終えた現在,約25000W,長さ的には80%,完成度は40%.はて,ここからどう持っていくかな.月報だから2分割するわけにもイカンザスシチー.

五新線に過去の探索の結果も混ぜ込むことにした.特定層の若干の興味を引く記事になるかも知れない.大した発見はないのだけど,生子トンネルより北はこれで網羅できた(できる)筈.ここだけ紙芝居にしてもいいか.

[独言] 歳を取って

歳を取って賢くなったとは思えない.単に狡猾さが身についただけだ.


2012-06-08 [長年日記] この日を編集

[奈良近遺調] 奈良県道路元標


より大きな地図で 奈良県道路元標 を表示

一部未入力とりあえず入れた.位置は結構てきとう.

香芝市の図書館・博物館 館長メルマガ 『かん館メールマガジン』(vol.44, 2009.5.1.)に端的にまとまったオハナシが.これは参考になる.

■ かしばの文化財-44

 下田村、二上村道路元標

概要

道路元標は旧道路法(法律第58号、大正8年4月10日公布)に基づき、道路の起点や終点、経過地を表示するための標識のことで、旧道路法施行令(勅令第460号、同年11月4日公布)に詳しい。

それによると、元標は各市町村に1ヶ所設置し、その位置は知事が定めることになっていました。

奈良県では、奈良県告示第92号(同9年4月1日)にて「道路法施行令第八條ニ依リ道路元標ノ位置左ノ通定ム」とあり、市内では「五位堂村 大字五位堂、字本屋敷二百六十七番地先」、「二上村 大字穴虫、巡査駐在所前」、「下田村 大字下田、字中ノ町千二百九十五番地先」、「志都美村 大字高、字南ノ筋七十二番地先」とあります。

また、内務省令第20号(同11年8月公布、改正:内務省令第15号、同14年9月24日公布)には、元標は耐久性を考慮し石材等を使用することや、法量や文字等が細かく規定されています。

しかし、新道路法(法律第180号、昭和27年6月10日公布)が制定され、その新施行令(政令第479号、昭和27年12月4日公布)の附則2―二において、旧施行令が廃止されたため、設置基準がなくなり、単なる道路の付属物としての扱いになっています。

そのため、道路の拡幅や市町村の合併等によって、その多くが失われました。

市内では、下田と二上の2基の元標が残されています。

ということは,T9~S27に変遷があった市町村は道路元標を更改しなければならなかったことになる.

年月日変更の種類
1921(T10).2.11町制/改称生駒郡 生駒町生駒郡 北生駒村
町制吉野郡 大淀町吉野郡 大淀村
1923(T12).1.1町制磯城郡 柳本町磯城郡 柳本村
1923(T12).4.1編入奈良市奈良市, 添上郡 佐保村
1923(T12).8.31町制北葛城郡 新庄町北葛城郡 新庄村
1926(T15).2.11町制北葛城郡 王寺町北葛城郡 王寺村
1927(S2).4.29町制北葛城郡 箸尾町北葛城郡 箸尾村
1927(S2).8.22編入北葛城郡 高田町北葛城郡 高田町, 土庫村, 松塚村
1927(S2).11.3町制添上郡 帯解町添上郡 帯解村
1928(S3).2.11町制/改称高市郡 畝傍町高市郡 白橿村
1928(S3).4.29町制吉野郡 吉野町吉野郡 吉野村
1928(S3).11.3町制宇智郡 野原町宇智郡 野原村
1935(S10).2.11新設生駒郡 昭和村生駒郡 本多村, 平端村
1935(S10).4.29町制宇陀郡 宇太町宇陀郡 宇太村
1939(S14).4.1境界変更奈良市奈良市, 添上郡 東市村の一部
1940(S15).11.3編入奈良市奈良市, 生駒郡 都跡村
1941(S16).1.1編入北葛城郡 高田町北葛城郡 高田町, 浮孔村, 磐園村
1941(S16).3.10編入生駒郡 郡山町生駒郡 郡山町, 筒井村
1942(S17).2.11新設宇陀郡 大宇陀町宇陀郡 松山町, 神戸村, 政始村, 吉野郡 上龍門村
1942(S17).4.1新設磯城郡 桜井町磯城郡 桜井町, 城島村
1947(S22).2.11新設生駒郡 斑鳩町生駒郡 龍田町, 法隆寺村, 富郷村
1948(S23).1.1市制/改称大和高田市北葛城郡 高田町
1949(S24).1.1境界変更吉野郡 小川村吉野郡 小川村, 高見村の一部
1949(S24).5.3境界変更吉野郡 秋野村吉野郡 秋野村, 黒滝村の一部
1949(S24).6.8境界変更高市郡 八木町高市郡 八木町, 磯城郡 耳成村の一部
1950(S25).5.5町制生駒郡 片桐町生駒郡 片桐村
1950(S25).7.1町制生駒郡 伏見町生駒郡 伏見村
1951(S26).4.1編入奈良市奈良市, 添上郡 大安寺村, 東市村, 生駒郡 平城村
1952(S27).7.1境界変更吉野郡 大淀町吉野郡 大淀町, 宇智郡 大阿太村の一部

画像の説明画像の説明

実際,橿原神宮駅前の植え込みの中には「畝傍町道路元標」がある.その一方で昭和3年に町制を敷いた野原町には「野原村道路元標」しか残っていない.そのへんは結構適当だったみたいだ.

そう言われてみれば,畝傍町の元標は若干形状が違うなあ・・・


2012-06-09 [長年日記] この日を編集

[奈良近遺調][] 吉野郡史料 第三巻?第五編 交通史

探しものをしていたら見つかった別件.自分用メモ.

吉野鉄道

 吉野鉄道は明治四十四年四月七日の設立に係る株式会社にして資本金五十二万円を募す本社は大淀村大字北六田にあり貨物及旅客の運搬を目的とし官線(関西線)吉野口駅より分岐し大淀村大字下淵を経て同村大字北六田に達す此哩数七哩二にして停車場は大淀村大字下淵(下市口駅)同村北六田(吉野駅)の二ヶ所に設く

 初め明治四十一年四月大淀村大字新野森栄造県道に沿いて馬車鉄道を計画せる折柄軽便鉄道法発布せられしに依り之を軽便鉄道に変更し同四十三年九月資本金二十万円を以て設置の許可を得森栄造外十二人の発起人は株券の募集に着手せしに有力者中脱退するものありて為めに中絶の止むを得ざるに至り当時の郡長谷原岸松大に之を遺憾とし同年十二月十四日材木業組合役員及び郡の有力者町村長等を郡会議事堂に会集し本郡将来の発展を図らんには鉄道を敷設し交通運輸の道を開かざるべからざるを説諭し遂に郡の事業として之を継続経営すること並に元発起人全部を除却し新に発起人選定方を谷原郡長の指名に一任することに決議したり同月二十八日井上[人偏+喜]作郎富谷松蔵大北源太郎木村熊治郎森栄造を発起人とし更に阪本仙次を以て発起人総代とせり資本金も亦三十万円に増額し株式募集に着手せしを郡長の熱誠なる斡旋と町村長並に郡役所吏員等の尽力により同四十四年二月末日までに予定に対する超過の成績を得て遂に此に完決し三月三十一日其創立総会を開きここに本会社を設立す爾来実測設計に着手し同年六月十二日工事施工の認可を得七月十三日森栄造に工事を請負わしめ七月十九日起工翌大正元年十月十五日工を竣え同月二十日検査を了し同月二十五日開業することとなせりまた資本金は明治四十四年十二月十九日の臨時株主総会に於て三十万円を更に五十二万円に増額す其再募額は翌年三月三十一日迄に定額を完了せり

 大正元年十一月一日より大正二年四月三十日に至る百八十一日間の乗客貨物の員数賃金運輸の成績等左の如し

乗車人員 191,652人 一日平均 1059人弱

貨物噸数 15975噸3分 一日平均 88噸3分弱

客車収入 28672円200

貨車収入 5475円420

雑収入 2506円270 一日平均 202円508

収入一哩平均 5090円818

運輸収入を月別にすれば左の如し

(略)

本鉄道敷設に関しては社長阪本仙次の苦辛実に言うべからずものありしも熱誠敢為遂に能く目的を達したるものなり現在の役員左の如し

取締役社長 阪本仙次  取締役 木村宗四郎
取締役   永田藤兵衛 同   木村熊治郎
同     北岡惣太郎 同   富谷松造
同     大北源一郎 監査役 井上[人偏+喜]作郎
監査役   山本源次郎 同   福西泰一郎
同     阪本庄九郎 同   船津弥八郎

洞川電気索道

 洞川電気索道会社は大正元年十二月二十七日の設立にして下市町大字下市に本社を置く其目的は水力電気の動力により架空鉄索道を設け貨物を運輸し電燈並に動力供給を営むにありて資本金二十五万円の株式会社なり起点下市町大字下市より終点天川村大字洞川に至るまで十一哩十二鎖間に数ヶ所の停留所を設け貨物の運輸に便ならしむ

是より先天川村紀野奈良市外九名同村大字洞川字洞川に流下せし水力を利用し付近の電燈及び各種の工業用動力に供する目的を以て資本金三万五千円の洞川水力電気株式会社を設立せしを明治四十五年一月二十六日更に水力使用願を為し同年五月三十一日之が認許を得続て大阪市才賀商会工学士松本某をして実地踏査と設計とを嘱託し同年四月十日遂に電気経営許可申請を為せり

抑々此地域下市町より秋野丹生黒滝を経て天川村に通ずるの街路は既に開削改修の工を得ると雖も尚僅に人肩馬牛の背に依りて貨物の運搬を為すに過ぎず而して森林の財土中に埋没する所の鉄鉱大理石等の巨材宝蔵あるも之を輸出するの便なく所謂金玉を渓谷の中に投没するに異らざれば有志の甚だ憂苦する所なりき然るに今幸に此の天恵の水電あり事以て成るべきを知るや谷原吉野郡長其有力者を招集し前記発起者紀野奈良市外九名の出願に係る洞川水力電気株式会社を移して之を此の洞川電気索道株式会社と為すの利害を解諭するに及び衆皆其事業の有望なるを知り大に之を賛同し茲に此の本会社を組織するの基礎成り事業遂行の為め先ず其代表者を選定し其事を執行せしむ之が代表者たる者下市町にて畠山壽太郎天川村紀野奈良市元南芳野村家治佐太郎秋野村岡田豊蔵とす此に於てか其設立に関する利害の講究と先例の実行事蹟等を調査し同四十五年六月十一日発起人発会を為し資本金を定額し之を二十万円となし株式を以て之を蒐集す其十月十七日資本金五万円を増加し遂に二十五万円と成して又其募財を完了することを得たり依て同十二月二十一日架空鉄索願の許可を得同月二十七日を以て創立総会を下市町願行寺に開き諸役人の撰定を了す其役員に当選する者を左の人員とす

取締役並社長 永田藤兵衛   取締役 大嶋甚三
取締役    木村熊次郎   同   木村己三郎
同      井口岩松    同   米田治兵衛
同      紀野奈良市   同   福西泰一郎
同      羽根増治郎   同   山本信一郎
支配人    梨原又新    監査役 西村伊吉
監査役    植村徳次郎   同   岩井清平
同      岡田豊蔵    同   西川寅太郎


2012-06-11 [長年日記] この日を編集

[独言] winmail.dat

このご時世にもなってwinmail.datに苦しめられるとは思っていなかった。ギコギコ動くツールをDLして何とかしようと思ったが、中に閉じ込められているファイルを取り出すところからうまくいかない。MIMEのデコードからして失敗している模様。なので生のメールデータをテキストに取ってMac(Classic)に送ってMPack1.5で解凍し(ここでいろいろHeaderいじり)、pureなwinmai.datを取得。これをツールにかけてようやくuntitled documentなバイナリを得た。

しかしこいつが開かない。バイナリエディタで開いてみて、10行くらいスクロールしたところに"8BPS"の文字列を発見、どうやらPhotoshop形式らしいと見て、それより前のゴミデータをざっくり削除して、ようやく開くことができた・・・。

以前はこういうアクロバットをよくやった。数十通に分割されたMIME PARTを手動でくっつけて復元したり、添付ファイルを添付ファイルのまま転送して文字化けたやつに手動でboundaryを取り付けてやったり。詰まったメールボックスを片付けるためPOP3とオハナシしたこともある。よくやったわと思う一方、そういう苦労を殆どせずに済むようになった今日の密かに便利になっていることに気づかされたことだった。


2012-06-12 [長年日記] この日を編集

[南天] ずいぶん育った

根本のほうでわしわし育って土が見透かせないくらいになった.ちょっと密度が高すぎじゃね.君ら窒息しちまうよ.そんなことを考えなら傍観している.

根本近くからするすると一本の枝が伸び始め,頭ひとつ抜きん出たところで葉を拡げつつある.これを個々の枝の生存競争と考えるのも面白いし,単なる偶然,樹が生き残るためのモンテカルロの一過程と捉えてもよい.どんな大木も最初はこうやって伸びたり枯れたりしたんだろうと思う.


2012-06-13 [長年日記] この日を編集

[独言][] いちわけんかつ

よみきりさざえさんでないとおこられそうなあんばいなのでそうしようとしているのだがかなりむりがあることをおもいしらされている。ぴーでぃーえふにするのもくろうする。きのうのごじからはじめてじゅうにじかんかかってまだおわらない。というかごまんじもだれがよむのか。ながじすにはようきゅうされてないだろ。てきとうにきりあげてしまえ。もういっこのほうおわらせろ。ぽげむたぴげなみょーん。

いや、いろいろ間違っているのはわかっている。膨らませられるところは切り出して別記事にすればいい。小出しにするという意味ではなく一つ一つを大切にするという意味でそうすべき。現状ではどうあがいても浅広にしかならず、無理に濃くしてただ脂っこいだけの塊になっている。 これでまたネタゼロになり首を占めるのも明らかなのだ。 そりゃわかってる。わかってるが。

一つネタでとことん引っ張るのは何度かやったからな。それ以外をやってみるのもいいんじゃね>nagajis。失敗だと思うことをやってみてどう失敗したかを確認するのだってありだろうさ。

[独言] 土木学会関西支部は(以下同文

一週間前に借りた本を返しに行き、かわりに別の一冊を借りてきた。「読んでもらわないと( 資料が)可哀想だから」と仰る。すてき。

これで戦後~高度経済成長期の橋梁一覧が揃ったことになる。けれども八郎橋が見つからないままだ。一体どこに記されているというのだろう。本文にちょろっと出てくるのだろうか。そこまで読み込む時間は今のところない。今号終わってからじっくりと。


2012-06-14 [長年日記] この日を編集

めんどくせえ。

やっぱり塞いじゃうのね。せめてブロック置くとかで済ませてくれないかな・・・

糞パーレンが!

2012-06-15 [長年日記] この日を編集

[独言] 糞パーレンが

これは死ぬる。

[独言] 合い言葉

登録する時にきっと忘れるだろうと思った通りに忘れたが勘が当たった。間違えてはいない。

[独言] 発行した!

そして股間は発酵した。

縦書き明朝のページでパーレンが引っくり返って横書きになるとゆう謎現象が発生して苦しめられた。以前から何度かあったが今回は酷い。落として立ち上げ直しても他ページを表示させておいて該当ページをps化してもクリアできなかった。

原因はきゃぷしょんに使っているFGP角ゴシック体Caのせいであることはわかっていて、キャプションだけ外してやったのだけれども直らなかった。結局台紙の外に置いていたやつ(含PifontSym)が悪さをしていたようだった。

だいいち今どきTrueTypeとか使ってるからあかんのや。というツッコミは無視する。 スクロールバーに触れたら落ちるような アプリで凌いでおるのだ。だからといってATM買うわけにも行かぬのだ。せめて4.0でも手にはいればな。


2012-06-16 [長年日記] この日を編集

[独言] はて、どうしよう

いつものことながら書けるネタが尽きてしまった。今すぐ書ける(書かないといけない)というネタがない。中川煉瓦は今回使ったし、大和谷も本当はリベンジしてからにしたい。

今回の近遺調でつくづく勿体ないと思った。旧橋とか索道とか西熊野街道Questとか小分けにした方が長続きするのはわかっている。ネタが尽きるのが怖いのではなく結果的に個々が中途半端になってしまうのが惜しまれるのだ。次回同じような探索旅行に出たとしても同じように消費するだけだ。うーむ。

索道関係は余計にもったいなく、何とかしなければと思う。遺構が分散しているせいでいっぺんに辿ることができず、探索した結果をちまちま公開しているうちに情報が分散してしまう。全部わかった時点で一記事書くべきだろう。集約した記録として。そのためには親玉の天川村笠木峠黒木辻を攻略しなければならないが。

自転車で行けなければバスで行けばいいじゃないと悪魔が囁いている。お前はマリーか。劣化したR2D2みたいなロボットに名前呼ばせるぞ。

これという決定打がないまま使用中。

[奇妙なポテンシャル] 久しぶり過ぎて番号忘れた(#280)

ヤンヤン歌うスタジオ

の「ヤンヤン」って何のことだろう、とふと思った。何のこと、という問いは若干漠然としすぎか。「ヤンヤン」の品詞は何になるのだろう。

誰かの芸名・ユニット名だったような気もしていて、だとすると名詞ということになるのだが、例えば城みちる「イルカに乗った少年」などではバックコーラスがヤンヤン言っている。そういう場面で使われる「ヤンヤン」はたぶん名詞ではない。文字の感じからすると「かんかん」「きらきら」と同類の副詞であるようにも思われるのだが「ヤンヤン投げる」とか「ヤンヤン走る」とかは言わない。「ヤンヤン歌う」のみがしっくり来るがそれは「ヤンヤン歌うスタジオ」が存在するからであって「ヤンヤン(区切り)歌うスタジオ」であるはずだ。

ひょっとしたら擬音語擬態語なのかも知れないとも思う。しかしその擬音擬態がどういう音・状態を擬したものなのかよくわからない。数十年前なら肌で感じれただろうがナウでヤングな若者でなくなって久しい私には思い出せない。というかナウでヤングな若者になる前にそういうカテゴリが消滅してしまった。何をもってすればナウでヤングな若者になれたのかという根元的問いから始めなければならぬ。

グーグル先生に尋ねたら、尋ね方が悪かったのか、町子とかJUMPとかレゲエ歌手とかしか出てこなかった。答えは得られなかったが今でも生き残っていることに驚いたのでよしとする。そういえば松田くんのあだ名はダンダンだったな。松田くんのように足が長く格好よくなれば「ヤンヤン」の境地に近づけていたのかも知れない。

[橋梁] PC橋(Pre-stressed Concrete Bridge)

「滋賀県の近代化遺産」から入ったせいで何も疑わずに信じていたが、日本最初のPC橋は石川県七尾市の長生橋で、昭和26年竣工という。大戸川橋梁は昭和29年である。長生橋はプレテンション方式(形枠の中に引っ張ったピアノ線を渡しといてコンクリートを流し込む)、大戸川橋梁はポストテンション方式(埋め込んでおいた鞘に鋼棒を通してギリギリ締め付ける)。

ピーエス三菱のホームページによると、長生橋は2001年に解体され、公園に移設されたという。大戸川橋梁が登録文化財にされているのを考えると若干勿体ないような気もする。あと、我が国初のプレストレストコンクリート橋と言ってしまうと間違い>大戸川橋梁


2012-06-17 [長年日記] この日を編集

[独言] 天ノ川発電所関連整理

手元の公文書写しを整理、索道と軌道と索道台帳を付き合わせる。索道完成前に軌道に着手しているのを除けば、一応は辻褄が合う。それだってタイミング悪い時に認可されたので仕方なく、と読める。

索道工事申請→着工→土地収用→ごだごだ →土地収用成立→期限延長 ×2→そうこうしているうちに軌道申請認可→軌道着工→軌道竣工延期→索道竣工→合併→ 軌道竣工延期 ×3 →Fade out. そしてS13?に竣工する。

T11.5.11.の竣工届が見つかればすべて解決するのだが、どこに存在するのかわからない。少なくとも索道台帳では設計変更等無かったことになっている。

石田美喜蔵の特許はT4。しかしロー式を採用ということになっている>日本近代の架空索道。石田の特許ではロー式は1/4勾配が限度,特許によって1/2強の勾配までOKということになっている.ただあの付近は下手すると100%行くからな.直線距離でも500mを越える.

既知の情報を統合すれば、完成していなければならないのだ。未既知の情報が出てこない限りは。

火曜日は奈良図籠る。 旧認可3通、設計変更、S12九尾堰堤 ×2、M~Tの許認可台帳を当たれ。軌道の縦断図も。って相当量だな・・・。

安全索道80年史取り寄せ。

[索道] 索道事業関係の法令

S2.9.3. 索道事業認可に関する件 逓信省訓令第2号

同日附、索道事業規則 逓信省令第36号


2012-06-18 [長年日記] この日を編集

[索道] 大正10年頃 安全索道商会の納入先

同社『架空運搬装置』より.

特許安全架空索道供給表(供給先の重なるもののみ記す)

供給先

内務省新潟土木出張所
本溪湖煤鉄公司
古川鉱業飯盛鉱山
三菱生野鉱山
合名会社藤田組
三井佐野鉱山
久原鉱業株式会社
龍王銅山
白瀧鉱山
樅の木鉱山
八盛鉱業所
吉乃鉱山
十文字吉乃間索道
桜セメント株式会社
台湾炭砿会社索道
信濃電気会社索道
神戸製鋼所高野鉄山索道
播磨煉瓦索道
沢原索道
神戸市役所
神戸水道水源地
三菱吉岡鉱山
大和索道延長線
三島索道会社
大川鉱山
三井岩雄登鉱山
仏国ラザラ商会
三菱索道会社
旭セメント会社
大崎採石所
南満鉄道撫順炭坑
日本鋼管会社大峰鉄山
京城電気株式会社
三菱直島索道
本溪湖黒貝鉄山索道
株式会社 日本製鋼所
北海道炭砿空知索道
帝国炭業株式会社
支那保晋公司
貝島鉱業会社
橋本商事会社
朝鮮[人偏+介]川鉱山(第一期線,第二期線,第三期線)
第一大平索道
第二大平索道
神崎索道
陸軍兵器本廠用 第一組
同 第二組
同 第三組
同 第四組
同 第五組
更級炭砿索道
浅野セメント会社索道
鉄道院
紀南索道株式会社
大正水力株式会社
北日本炭砿株式会社
豊田炭砿株式会社
奈良安全索道株式会社
豊国セメント株式会社
大和索道第二延長線
大阪荷箱材料株式会社
大石田炭坑
吉井炭砿株式会社
大阪化学肥料株式会社
大阪瓦斯株式会社
熊泊硫黄株式会社
台湾総督府
長崎市役所
土佐石灰索道株式会社
白山水力株式会社
紀南索道延長線
(以下略之)
右表中にて左記索道は連絡輸送す
□大和索道本線,第一,第二延長線 合計拾八哩
□大川索道,白瀧索道,三島索道 合計十五哩半
□大峰索道,荷箱材料索道 合計二十一哩

大和索道の第三期線は免許を取得したものの実現しなかった.大峰索道と荷箱材料の索道が直結?していたというのは面白い発見.


2012-06-19 [長年日記] この日を編集

[独言] むう

岡町図書館も休みかい.まあ,仕方ないな.

[独言] すげえ嫌われている

あきら氏にメールの返事を送ったのだがthe-orj.orgドメインもgmailもプロバイダのも接続拒否されてしまった。そんなに何か悪いことしたっけか>the-orj, ocn。というかgmailでもあかんのすか。困った。要は来るときは一報くれないと片付いてないよーということだけ伝えたいのだが。

[独言] ほらね

おれが準備万端で待ち構えてると何にも起こらんのだよ。コロッケ五個も買って備えていたのに。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ あきら@大阪 [コロッケ五個に吹いたwww どうでもいいけど、コロッケは普通の、昔ながらの芋(肉)コロがいいです。 特にこちらでは何も設定はしておりませんが、何故ですかねぃ(汗]

_ nagajis [たぶんウチのせいでしょう。the-orjもocnもorjからのお知らせメールに使っているのでSPAMブラックリストに載っている可能性大です。プロバイダのSPAMフィルタを利用していたりする正しい人..]

_ あきら@大阪 [今更ながら報告。プロパイダで受信設定出来るので一応設定してみた。 まぁ、結果はどうなるか解らんw]


2012-06-20 [長年日記] この日を編集

[独言] 奈良図籠り

画像の説明

微妙に収穫がない。九尾堰堤絡み、その増設に伴う第一隧道の増強はわかった。九尾谷からも取水してたのな。どんだけかき集めてるんだという感じ。あと竣工写真が13枚保存されている。これは使えると思う。

大正水電の十津川発電所×2はその流路を確認した。作られなかったのだから一生懸命解読しても仕方ないのかも知れないが、十津川インクラインェ・・・。あれはあの堰堤の前に貯水池をつくって、そこまで引き上げて後は自分で水路に入ってねということであるらしい。考えてみたら下り一方向しか使えないじゃんか、と思ったが当時はそれで十分だな。吉野・樫尾だって筏を下す一方だ。

「十津川第三発電所」には雑多な資料がこれでもかという位に突っ込まれていて解読し切ることができなかった。長殿発電所の直系の祖先計画である天川水電 by 大和水電(これが大正水電の出願図面となっている)、その競願になっていた天川[疎]水の図面。天川水電が大正水電に吸い取られる過程(阪本仙次)。十津川発電所の最初の計画と「第三」発電所の設計図面とそれらと競願の和歌山水田、高野電鉄、あと一つの発電計画の図面(内務省宛図が一番わかりやすい。西吉野の丹生川沿いに大正水力の旧出願水路なるものも記されている)。大正水電に対して猛反発した地元の人々の陳情書は、どれも会社創立前のものなので、電力事業者として正式に創立する前の調整段階から猛反発していたことがわかる。この中で最も印象に残ったのは「最初は納得したが、各地の水電地を視察した結果、その惨憺たる状況を知り反対する(だったかより大きな補償を求めるだったか)」というもの。その最たる惨憺地として挙げられていたのが玖珠郡日田郡であり女子畑発電所であった。だから駒田晋明が視察に行っていたのだ。嗚呼この繋がりを烏賊にせん。

あとは軌道の縦断図を全写。これで路線の全ての桟橋の桟橋と土橋の位置が確定する。といってもほげふががぴげなみょんだからあまり意味がない。もやもやしたときに見て納得するためのものだ。


2012-06-21 [長年日記] この日を編集

[企画] 明治神宮外苑道路の写真を下さい

記事で使いたいのでどなたかお願いしたく候です。詳しくは説明しますのでnagajis@the-orj.orgまでご一報ください。


2012-06-22 [長年日記] この日を編集

[D] 6/22

そこに古い橋があることは知っていたけれども、大したものじゃないだろうと鷹を括っていた。近くを通るからついでに寄ってみよう、程度の気分で行ってみたのだ。

工場地帯の真ん中を流れる人口河川にその橋は架かっていて、川の両岸は高い防潮堤が築かれている。その壁づたいにつけられた無機質なアスファルト舗装を歩いていく。やがて道は護岸を離れて右へ曲がっていき、そのカーブの端から、工場裏へ入っていくような気配の細い路地が分かれて、なお壁伝いに伸びていく場面になる。橋にゆくなら後者を行かねばならないだろうことは地図を見なくてもわかる。

小路に入って幾らも行かないうちに橋が見えてきた。意外なことに和風高欄の人道橋だった。朱に塗られた高欄が若干弓なりになって架かっている姿は場の雰囲気にそぐわないが、ずいぶん色褪せて下地のクリーム色が浮き出ていたり、 床板の一部が朽ちて垂れ下がっていたりするところは、場末な感じに似合っていなくもない。

橋は防潮堤の壁よりもさら高いところに架かっていて ・・・ ・ ・ ・プールのスタート台を橋台にして、その上に桁を渡してあるのを、プールサイドの床視点で眺めているような感じだ。高さばかりが妙に目立つ。けれどもそのせいで橋全体を見渡すことができる。廃橋なのだろうか。登れるだろうか。登っても渡れないんじゃないか。そんなことを思いながら階段をあがった。あがって、驚いた。

欄干の色の掠れがはっきり見て取れるほど明るかったはずなのに、いつのまにか夜になっていて、対岸でネオンサインが点いたり消えたりしていた。その点滅が川面に映っていた。ゆらりともしない川面に映し取られたネオンサインは、まるで川自体にネオンを仕掛けてあるかのような鮮明さだ。赤青黄の三原色にネオン特有のはしたなさが感じられないのは、反射というワンクッションを挟んでいるせいだろうか、それとも絶対量が少ないせいか。賑わしさの中に一抹の寂しさが紛れ込んでいるように見え、その理由を考えるために暫く眺めていたくなるような輝きをしている。

何より背景の色が美しくてはっとさせられた。真っ青に晴れ上がった五月の空の天頂を、限りなく彩度を落として黒に近づけ、液体にして流し込んだかのような、 澄み渡った黒と紺と碧のグラデーションだ。もし飛び込めば、水に触れることもなく、そのままどこまでも果てしなく落ちていきそうだ。 そういう空とも闇とも見分けのつかない水面を背景にして、色とりどりのネオンが咲いている。返照で橋がぽっかり浮かびあがって見える。こんなに美しい色の取り合わせは現実でも見たことがない。今思い返してもそう断言できる。

現実にはないが・・・・・・似たような美しい紺色の夜を、 以前にも夢で見たことがある。その後に取った行動も全く一緒だった。この鮮やかさを写真に撮りたいと思った。 ただちに撮らなければならないと思った。急がなければ、夜の帳が閉じ切って、濃淡の組み合わせを崩してしまうだろう。

S200EXRを取り出して構えた。何枚か撮った。が、感度がISO100のままじゃなかったか? 100ではこの色は出てくれないはずだ。せめて200、あるいは400でないと。EXRを効かせないと。

そう考えて、慌ててダイヤルを回したところまでは覚えている。

今日は胸が痛くなるような夢ばかり見た。静かに眠りたい。


2012-06-23 [長年日記] この日を編集

[pdf] 総目次

http://www.kyudou.org/documents/up.php?t=index_number_1207.pdf&m=d

74もよく作ったもんやわ。そうして毎回最後の2日でバタバタ仕上げて。1mmたりとも変わっていない。

統合版だけで機能することを確認してから次号のおまけにつける。

作業中にデータを飛ばしてしまって余計な作業が増えた。db_allを入れた頃から間違っていたわけだから、結局あんまり役立ってなかったことになるな。


2012-06-29 [長年日記] この日を編集

[][竹筋] 竹筋

新聞のバックナンバーを探していたらこんな記事を発見.メモメモ.

『竹筋コンクリート』の実験
国鉄が全国専門家の知慧集む

国鉄技術の水準向上を図るため鉄道省では先般工務、建設両局の技術会を打って一丸とした鉄道省土木技術会を創設、その第一回協議会を来る二十五、六両日午前十時から鉄道省大会議室で開くことになった当日研究発表される九件のうち最も注目されているのは次の三項目で国鉄ではこれら研究発表のうち可能なものからどんどん実際に使用して行こうとまで意気込んでいる

◇その一つは竹筋コンクリート研究で時節柄鉄の使用制限が非常に強化されている今日、鉄筋の代りに竹を代用しようというものである

所が竹は耐久力から見て鉄とは問題にならないほど弱い、竹をセメントと一緒にかためる時には竹が水分を吸って膨張し、いよいよかたまってしまった時には収縮してセメントと竹がしっくりくっつかない、その上セメントはアルカリ性なので竹をそのまま用いると腐ってくるという二つの欠点があり、これを補い竹の特長を生かすためには水の浸入しない、アルカリに腐食されない特殊の塗料を発見するため名鉄ならびに大鉄では線路の下水蓋、用地杭、棚垣、フォームの擁壁等々に竹筋コンクリートを用いて種々研究を重ねて来たがその実験報告が今回もたらされるのである

(以下略:出典・朝日新聞1941.2.19.朝刊7面)

…と引用したところで大鉄ノットイコール大阪電気軌道でないことに気づいたorz.大鉄は大井川鉄道なんだよ>nagajis

そう言われると,名古屋は盛んに竹筋を使ったところだという印象がある.水分橋の橋脚も一部は竹筋だったし(『道路』),竹筋をモニュメント展示しているところもあったはず.

[独言] 中之島図書館

橋下市長が他の施設に転用したがっている?という件を追いかけてみてますますわかんなくなってしまった.橋下市長は図書館でなくしたいと言っているらしい.松井知事もそれに同意したということになってる.けれども府教育委員会は...ああそうか,図書館やめないとは言ってないのな.

わからんでもない.中央図書館にいて中之島の資料がヒットしたり(しかもそんな時はたいてい日曜日で,中之島は休みだったりする),その逆だったり.どちらか一方に集まっていれば便利だろうと思ったことはある.けれどもあの時代遅れな空間が居心地良かったりもする.図書館でなくなったら寂しい思いをするだろう.

橋下市長は徹底的に合理的なんだなと思う.不便だから便利にする.収益のない図書館より美術館とかにしたほうが儲かる(現府庁移転して美術館に,って言ってたのは松井知事だっけ?橋下ったんだったっけ?).不便だけど居心地がいいとか月曜開いてて重宝するとか,どこかに瑕疵のあるような理由で存続を認めるようなことはしないのだと思う.それだけ徹底的にやってるから,色々問題も起こす一方,改革が進捗してるように見える.そこまでしないと大阪市ヤバイということでもあるのだろう.

近代建築・近代化遺産・産業遺産をどう残すかという問題の一側面.古いものを古いまま使い続けることは,それを使う人にとっては負担だ.誰だって子供の頃着ていた服をちんちくりんになっても着続けていたいとは思わない.宍粟の千年家だってあの家に住み続けろというのは酷で,住人の方は隣に建つ普通の住宅で暮らしてはった.家の形をしてはいるが家としては機能していない家だ.その論点で続ければ,図書館を図書館以外に使うこともまた可ということになる.旧銀行の建物をショップ団地?として使ったり,火力発電所の建屋を倉庫として使うのと代わりない.問題は少なからぬ数の人があの図書館を利用していて,無くなると困るということ「だけ」なんだよな.

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ おろろん [ ただ、合理化も過ぎれば、それ自体が不合理になったり、破綻の原因にもなってしまいますよね。合理性を追求したら其処に住まう人々の精神や健康を害した初期モダニズム建築とか、不合理性を徹底的に排除した筈..]

_ nagajis [私も感情的にはそのまま残してほしい派です。ああいう贅沢な図書館がひとつくらいあってもいいだろうと。ただ大阪市民でも頻繁に使う利用者でもないので結論は大阪市民の民意にお任せしておきます。 ##情報..]


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