nagajisの日不定記。
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今日最後の収穫。これで全部繋がったことになるのだろうか。
きたく。疲労した。91点。最後にきしめん+ミニかつどんを食べなければ92点。
一日目は静岡から菊川の間の煉瓦をみる。最大の驚きは、石部トンネルでこいつに遭遇したこと。岸和田煉瓦で9ft井筒の撥Eを作っていたとは初見のうえに井筒ではなくトンネルに使われているという予想外。B'zのライブに行ったらスペシャルゲストでたまが出てきたみたいな驚き。
裏込めの嵩増しのところに使われていたので余ったものを転用したらしい。そうしてこいつとアルファベットのみのEと、さらには大野煉瓦の丗七+「乙」とかもある。楕円形ウヱルの乙形かとも思ったが寸法はEと変わらない。どっちかが間違っていると思われる(規格と突き合せての検証はまだ)。
初代坑口の延伸部、および複線化線の煉瓦はほぼ全部東京煉瓦の◯T。若干数の大野煉瓦と未特定の漢数字刻印。少なくともここには東京と愛知と大阪の煉瓦が一緒に使われていたことになる。なかなかにグローバルである。
これも有り難かった。石部と磯浜の間にあった無名の暗渠。スパン3ft、M21.10.竣工。実はあの瓦礫の中に初代石部の煉瓦はない。崩壊しているのは複線化時に延伸されたらしい坑口部分だけだ。だから江尻か金谷かの煉瓦工場の製品の平および断面はこれでみるほかないのだった。
金谷の沢川暗渠はおそらく後年改築されている。124哩139呎21鎖の無名暗渠は肉厚煉瓦だし。3呎スパンのくせによく作ったな(昨日の写真参照。ちゃんと要石っぽいのを作ってはめ込んでいるのが至芸であるが実は割って作ってある)。
二日目は西尾で煉瓦掘りと資料撮影。よくあの瓦礫を見つけたものだと思う。あれがなかったら70点だろうな。市街でもいくつか大きな発見、しかし答えそのものは出てこない。□+漢字自体使われた期間がごっつ短かかったのかも知れぬ。なにしろ数十人で約300万個だからな、一人30万回も押していたら摩耗して使えなくなって当然だろうし。
両日とも朝5、6時から行動開始してほぼ弛まず動き続けて20時終りという日々。よく頑張ったとおもうよ。
小楕円形井筒の煉瓦規格を追記した。こうしてみると円形9ftのEと小楕円形の乙はよく似ている。撥先の幅が約1cm違うだけだ。だからEと乙を混ぜて積むことも不可能ではないわけだ。
小楕円形井筒の積み方も改めて見てみると面白い。外から甲乙丙丁と積む段と乙乙丙と積む段を交互に重ねる。確かにそうしないと芋目地面ができてしまう。ゆえに乙の量が飛び抜けて多い(1ft当り326個、次いで丙の168個、甲の62個、丁の29個と続く)。異形煉瓦は楕円の両端のカーブのきついところだけで、他は普通煉瓦で積むことになっている(640個)。これを考えると第一浜名橋梁で見た複線化線の井筒が似た構造であった。外側二枚分を石に置き換えている。ということはあの撥形の下はどうなっていたのか。甲丙で巻いてあったりしたのだろうか。
今後しばらくこの数値にうなされそうな塩梅である。果たして煉瓦は等方的に焼き縮むのか。0.5寸の違いがどこから来るのか。そもそもnagajisのとってつけた統計処理が妥当なんか。最後のがいちばんあやしい。
しかもこれ、小楕円形ウエルの丙じゃねえんだぜ。などと書いても現代日本にこの意味が理解できる人間は誰一人いないだろう(nagajisは人でなしなのでカウント外)。
今年の1月に桑名へ行って、これを見つけてからこのかた、
というところまで判明した。“ビー”=“B”と気づかなければこれ全部なかったことになる。えらいぞ1月のおれ。
めったに出会わないはずの井筒の残骸(井筒用異形煉瓦)に思いのほか出会えているのは運がいいというべきか執拗過ぎるというべきか。揖斐川、木曽川、浜名第一第二、天竜川、宇曽川、仁保川に勢陽組跡地のあれと諸戸家か。なんにしても謎が明らかになるのは楽しい。明らかになって得することはないが楽しい。
中川煉瓦ホフマン窯の天井にあったじゃないか。小口“イ”。
これがこれなんだ。
だから仁保川橋梁の“丙丁+英数字”は中川さんとこで作られたのは間違いない……!!!
ここでようやく、こんなところでようやく、またひとつの謎が解けた。うれしいことだ。
これこそが探していた湖東組製品! と断言したいところだが、湖東線建設時(M22)=湖東組時代の製品なのか、複線化時(M34)=中川煉瓦時代なのかをこれだけで断定することはできない。中川煉瓦のホフマン窯は明治45/大正元年建造だ。どちらでもあり得る。時間軸で見れば後者のほうがあり得るようにも思える。
だがしかし、余った異形煉瓦が工場でも持て余されるくらいに邪魔だったらしいことは勢陽組工場跡の状況が物語っている。池田本町には間違いなく後年製の堺煉瓦の異形煉瓦だとか“E”だとかもあった。その一方で西尾士族生産所製らしい漢数字印もあた。池田本町の瓦礫は新旧の井筒の残骸であることは間違いなく。してM34には堺煉瓦だったり岸和田煉瓦だったりといった大工場が安価で大量供給できるようになっていた。競争入札せねばならなくもあった。複線化時には異形煉瓦を作らなかったのではないか>中川さん。即ち丙丁+英数字を湖東組製品とみてよいのではないか。
ああ、見えないものが見えてくる。僅かな残余物がものをいう。無いものを勝手に見ているだけ、幻聴しているだけでも構わない。理論的にはその可能性が高いというまでよ。
全形の”C"を探しに行った。なんとか取得した。モルタルが硬い上にヒビが入っているのに気づかなくて粉々にしてしまったが……何とかここまで清掃した。長約 9 in.
これともう一つの”C”断面を見る限り、やはり横せり形の異形煉瓦とみてよいようである。2-1/4 in. と2-1/8 in. を意図して作ってあるらしい。残存橋脚の小アーチのを測っても判然としないのだが単体でモルタルをはがした上で測ると明瞭に違いがわかる。&インチメジャーで測ると面白いように収束する。ミリで測るとかえって厳密を追いすぎてわからなくなるのだ。
そのほか井筒に鉄筋が使われているかどうかを確認。半分以上埋もれていてわかるだろうかと思ったものの最初の数掬いで鉄筋に到達した。径1-1/2 in. の鉄筋が確かに使われている。ボイルの六郷川橋梁の工事報告にあるのと同じ。やり方は桂川橋梁の頃から変わっていないはず。(鉄筋は複線化線の井筒にもある)
あと橋脚の小アーチの径を測りたかった。スプリングラインの少し上まで護岸の石張りがきているせいできっちり測ることができなかったが、その石張りの面のところですでに6ftを少し超えるような感じ。天神川の左岸にあるものは旧橋脚井筒の下流側と複線化線の井筒の頭が露出していたので、それを利用して井筒の芯-芯間を測ってみると18ftくらいあった。ということは井筒半径6ft✕2を差し引いて径6ftと考えていいことになる。
その1@6ftのアーチに横迫り形の異形煉瓦を使ってあることになり、それはそれでちょいと謎である。他の暗渠では6ftくらいならわざわざ迫形異形を使わなくても積めているのだ。アーチが真円ではないためか。それとも桂川橋梁だけ念入りに作ろうとしたのか。
逢魔ヶ時に、してやられた。まさかこう来るとは。
追記:前河原避溢橋のネズミ男のビンタの如きビビビ列にも痺れたが---Iさんはこの橋梁のことを言っていたのだろうか。3年前の煉瓦展示の時に「有名な3連の煉瓦アーチ」に刻印を見つけたという話をされていて、しかしその写真がカメラロールから発掘できず、その場限りの話で終わっていたーーーなおその足で田村の先まで歩き通して煉瓦橋梁をみてきたが「ビ」が見られるのはここだけだった---、最後の最後、鯉川橋梁で「まさか向川暗渠みたいなことは起きないよな」と思ってめくった葛の下に「キ」があってぶったまげた。んじゃあさっき見た海サンバ川のアーチにもあったりしたら嫌だなあと再度立ち寄ってみれば”○シ”を見つけ出して。結局日暮れまでうろつくことになった。
海サンバ川の小口に”○+カナ”が出現したことで、京阪神地域で見ていた”○+カナ”が”○+英字”に繋がっていく可能性が出てきた。もしかしたらそれが”キ””メ”にも続いてさらには石部の無名暗渠のカナ印とも繋がっていったりするのか。前河原以北の肉厚アーチ群は一応小口も見たつもりではいるのだけれども、そのつもりでいた海サンバ川や鯉川で小口印を見過ごすところだったことを考えるとちょっと怪しい。愛知川の北の2つなんか大丈夫だろうか。
京阪神地域の”○+カナ”とはサイズ感が違うと思っていたけれど、も手元の”○ホ”の型を取って同じ条件で比較する必要がある。一連の刻印は型取材ですべて採取してある。
海サンバ川の○カナと一連の○英数字は同じ径。刻印の作りもすごく似ている。縁の○などはすごく鋭く尖った感じ。これと大阪城○ホは明らかにサイズが異なる。うえにエッジも鈍い。
シ・・・42文字目 メ・・・40文字目 キ・・・38文字目。イロハの最後の方。使い切って英字? 英字もB、C、D、F、Iとはじめのほうばかり見つかっておる。
○英字は特徴的な摩耗をしている。印中央から左右にかけて摩耗していて、これはまっすぐ押すのが難しいからだろう。小口面が体の正面に縦にある状態で小口に印を押すと印の上下を平行にすることは見ずに感覚的にできるが、それが右や左に傾いているかどうかまではわからない。やってみるといい。印を寝かしすぎたり立てたりする。その打刻の繰り返しで印の右左が先に摩耗する。
○ホと”B"添印とが同じ大きさなのは、5分というキリの良さによる普遍性もあるだろうが。その前に”B”添印が「た」くさいのが気になる。同じセットで検出したのは「タ」だった。「タ」か「た」という共通性は偶然かどうか。識別印なら他のがあっていいし(それが○ホであったりするかも知れないが)。
瀬田の田中煉瓦の存在。工場通覧ではさほど頻繁には出て来ないが工場主田中宇兵衛(卯兵衛)は京都煉瓦製造の社長であった。京都煉瓦製造はM28~31、それが廃業した頃大萱田中煉瓦を興している(@滋賀県統計書M32。その時にはM14~17創業といってる。これはもしや逢坂山トンネル工場と関係が?)。ふむ。宇治火薬製造所はM28頃だから○カナを京都煉瓦製造と推定してみてはどうか。その京都煉瓦製造が解散したあと大萱で製造を続け、それが○タ○たをなんとなーく使ってM33の瀬田川橋梁複線化に供給(草津-膳所間複線化はM33.6.7.)。その余りを自分はみているという可能性。初代はたぶん湖東組。その余りが前河原でビビビ。大阪京都間は堺の影響力大だし逢坂山越えが大変。料金もかかるんじゃねえか。
○カナを京都煉瓦製造と見れば大阪でめったに見ないのもわかる。宇治は当然近い。三高に煉瓦提供。京都煉瓦製造業組合。あと例の公文書。大阪城も陸軍関係と見れば。
見つけたものが多い上に、それぞれがあてはまるべき場所があって、なんかもうすごいことになってきた。残るは○英字・カナセットだがこいつはちょっと散ってる範囲が広すぎて困る。近江にgradA=0を求めれば半場川は中京工事の最東端でそこまでの線路はできている。直江津線も長浜陸揚げ敦賀へ送って船送でいい。もちろん中京のどこかでも構わないが、中京から湖東線の各現場に送るのは手間だ(湖東線ができあがってないから)。長浜から最寄りの港と考えられなくもないけれどだったら湖東組に任せりゃいいじゃん。結局のところこれも湖東組の所為にしてしまえたら非常にすっきりするのであるがしかし近江八幡市街では見なかったのだよ数年前の話だけれど。天竜川へ豊田町方面から向かってしまったことがつくづく悔やまれる悔やまれる。