nagajisの日不定記。
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さも全くチェックしてないような断定口調で言われることほど腹が立つことはない。さも他店より手抜きしているような断定をされるとな。
で、なんか書いて返信しようと思ったがやめた。定型文でも食っとけ。
入口のボロンボロンのマットを片付けた。劣化して千切れた擬似芝を箒でかき集めてゴミ袋に入れたのはよいが、千切れ芝と一緒に砂利が沢山入ってしまい、それはまあ仕方ないと諦めるつもりであったのだが、またなんか文句言われそうな気がしたので、ポリバケツに水を張って中身をそこにぶちまけ、浮いてきた擬似芝だけをすくい集めて袋詰めして出すことにした。うむ我ながら賢いと自画自賛。残った砂利はほげたあなにほかした。入口がきれいになって通路の穴もちょっとふさがって一石一・五鳥くらいだ。
明日は草刈りでもしよう。ナタ持っていく事。
定期的にちまちま書き続けた甲斐あって中くらいの二つできそうな塩梅。由良要塞は第一砲台で切ってもええんじゃね。でまた次回西熊野と由良要塞の二本立ててお送りしますンガッンックンと。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C07050476600?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E6%B7%B1%E5%B1%B1%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%A0%B2%E5%8F%B0&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&
久しぶりにペペロンチーノを作ってみてそこそこ美味かったものだから調子に乗って3日連続ペペロンチーノを作っては食い作っては食いしている。100えんローソンでニンニク3個100円ごめんね税込み108円だったりするのがいけない。同じ場でベーコンが手に入ったりするのがいけない。今日などは舞茸まで購って入れてしまった。旨くない訳がないだろう。
値段を気にせず好きなだけニンニクを使えるというのは考えてみれば贅沢なことだ。それこそ米粒一個の勢いで大事に大事に使っていた過去が遠い昔のように思われる。もっとこうニンニクを使う料理を開発しておけば良かったなあ。そしたら今の食生活はもっと豊かになっていたんじゃなかろうか。もっと料理好きになってたんじゃないか。そう思うことがあるが今更という気のほうが勝るのでとやかくは言わない。
3日目となるペペロンチーノを食べてからうたた寝し、起きたら微妙に腹が減っていて、(急に|何故か)おにぎりが食べたくなり、米炊いておにぎりにして食っている午前零時である。わざわざ握っておいて箸で食うのが自分でも可笑しいが一切の瑕疵無く旨いと言える塩加減および具材であったのでどうでもいい。ついでに緑茶も旨い。
自分がなすことにいちいち理由とか合理性とか求めるようなA型じゃないからな。そんな窮屈な血は要らない。こっちから願い下げだ。
おにぎりが旨いのは手の脂がついているからだと信じて疑わない。ついでに摂取している雑菌も風味に関与しているのではないかと思う。あ、ひょっとしたら手で握ったおにぎりを食さなくなったことがアレルギー体質の増加と関係があるのかも知れないな。そういうところから不衛生物質とか雑菌とかを摂取しなくなった結果少量異物に過剰反応するよう成長してしまうと。花粉症とか食物アレルギーとかは世の中がキレイになりすぎたからだと個人的には思っている。小バエの落ち込んだコーヒーとかハエの歩いたおにぎりとか3秒ルールの焼き肉片とか飲み食いして吝かでない体質は世の流行病とも無縁でいられて有り難い。
結局東プレのリアルフォースを買ってしまい、というようなこともなく、予備に確保しておいたG4 Graphiteのキーボード980えんがあったことをおもいだし仕事用にはそれをあてがって充足している。なるほどWindowsに使うとA横Ctrlになるわけだね。慣れればこちらのほうがZXCVやりやすくていいのだけれどもCtrlとShiftを交互に使うような操作がまだぎこちない。それ以外97%は満足。あ、あとCapsLockで日本語英語の切り替えはいまいちだなあ。スペースでやるようにしようか。
仕事用のDELLキーボード200えんは我が家に戻ってきて今それを打っている。充分にシリコングリスを馴染ませてあるからストレスなく打鍵できて心地よい。ただしこのキーボードでげんこうをかくことはほとんどないはずで変更したことが良くも悪くも影響を及ぼすようなことはないと思われる。
G4キーボードに慣れたらDELLメンブレンでも重く感じるのな。指の筋肉が退化してるんじゃね。
流しの下を漁っていたらパスタが一袋出てきて遂に4連続ペ(略)となった。できあがってさあ食おうという段階になって「なんか色が乏しくね?」と気づいた。パスタのクリーム色。まいたけの白とグレー。ほどよく黄色に色づいたニンニク。全体的に白っぽい。赤が足りない。もっととうがらしを入れるべきだったな、と一瞬考えてからそうかベーコンを忘れていた、と真理に到達した。ベーコンだけ別に炒めて載せて食った。美味かった。
以前はベーコンも贅沢品だった。それだけのためにベーコンを買うことが身の丈に合ってないような気がしていた。大量の麺を塩と辛さとガーリック風味で舌と喉を欺き胃に押し込むようなぺ(略)をよく食った。その頃に比べれば幸せな食生活が送れている。
要点を言えた気がしているがきっと通用しない。
人が購い手にとって読み始めて初めて存在し始める彼。読まれる前売れる前には彼すら存在しない、買って存在させたげてください、ということを書いておけばよかった。次は空白を入れよう。
性懲りもなく今日も(略)。舞茸がなかったので20えん引きのシメジが投入された。先にシメジを炒めたほうがよかったな。火が通る間にニンニクが焦げてしまった。
503故データへ反映することができぬ。しばし待たれたい。
セカイの拡張の件につき長々と修正している。あからさまに余談なことを長々と書く非道。アスにはカタス。カタサネバならナイ。
それでもやつらは止めねえんだ。今日は最初にシメジを入れておいてからニンニンをもといニンニクをスライスして放り込んでベーコンを刻んで入れて炒めた。よい具合いになった。麺の量に対する具の量の少きことをいつも心配するのだが結局は麺ばかり啜って最終的に具沢山になるので問題ない。それよりもパスタばかり大量に食っているせいかニンニンをもといニンニクを大量に入れるせいか臭い臭い屁が大量に出て困る。便も妙に粘性を帯びている気がする。下腹部に溜まっていることが明らかに知覚されるのだけれどもそれが心地よく下野してくれない。ちったぁ西郷さんを見習え。
結論:イタリアの人は屁が臭く宿便気味であるに違いない。
滅びていく宿命の商材に滅びていくとわかっていながら固執し続ける姿はそういう比喩が当て嵌りそうだと気づく。ナウシカが輩出されたとしても救世主どころか滅びを確定させちゃうだけという。恐ろしいことである。汚物は消毒だ。
「汚物は消毒だ」という言葉、じつは意外と興味深い。これを読んで「汚物」が「消毒」と同義だ、汚物=消毒だと思う人はまずいない。無理矢理読めばそう読めるというまでではなかろうか。しかしこの一文だけで「汚物を消毒するぜヒャッハー」と理解せよというのも無理がある。あくまでも漫画を通し共通認識として条件反射的にそう読んでいるに過ぎず「北斗の拳」を読んだことのない人にこの一文を読ませても意味不明なんじゃないかと思う。逆に北斗の拳世代には細かいニュアンスまで丸わかり丸伝わりで、自分でも使ってみたくなるはず。
ことばとは、人口に膾炙する文章とは、多かれ少なかれそういうものだ。
地図…
早いものでもう一週間。みなさまはいかが過ごされましたでしょうか。私は(略)ばかり食べております。そのうち白くてヒョロヒョロしたものになってしまうにちがいありません。しかもニンニク臭い。最近よく屁が出るのはニンニクのせいだと信じて疑わない昨今でございます。
部屋にゴキブリが大繁殖しているのである。昨晩夜中に目が覚めてなんかカサカサ音がすると思ったらでっかいやつがうろついている。1匹くらいならまあよくあるが部屋の対面では2匹連れもて歩いてやがる。この間からよく見るなと思っていたらそんなに潜んでおったのか。
んでそこから大殺戮大会が始まってしまい小一時間のうちに大小合わせて5、6匹退治たのだがまだ潜んでおるようだ。普段から汚い部屋だと認識しているがゴキブリが繁殖するほどとは思っていなかった。油断した。
そういうわけでゴキブリ退治餌を買ってきてあちこち設置したのだが、果たして効果があるんだろうか。ゴキブリホイホイのほうが良かったな。隠れて隅のほうで死なれてもいやだ。誰がいつ片付けるというのか。だいいちそんな餌食うよりもレンセイ製菓のロシアケーキの屑とか折れたパスタの欠片とか食えるものは幾らでも落ちているはずなのだ。
このモヤモヤとした感じも文字にしてしまえば無味乾燥脱臭済みになってどこにも伝わらぬ。ゴキブリの存在感がTCP/IPに乗って伝送されたりなどしない。したらしたで嫌だけどな。
圧電式でなかなか点かないという話はずいぶん以前に書いた。昨年暮れの大掃除でキレイにしたら点火の確率があがったのだが、今でも点きにくいことに変わりはない。ガチャガチャと数回回して点かないのでライターを発掘してきてそのライターを持った手で捻ったら一発点火したりする。同じ手に持っていることが必要なのか。
乾燥パスタの麺をひっくり返して落としてしまった時の絶望感ったらない。鳥の巣を枝一本も折らずに解体撤去する作業に神経が衰弱する。
ここまで来ると半ば義務感、半ば中毒である。昼飯が遅く、また珍しく大量に食してしまったうえにレンセイ製菓のロシアケーキを2つほど食ってしまっていたせいもあり勃起した陰茎束は無理であった。その1/2ほどで妥協する。
そういや徳島産生ニンニクというものを買ってきていたな。袋から出さないとまずいんじゃないかあれ。
何とか終わりまで持っていったが冒頭にずいぶん書き足さなければならなかったはずだ。そこが懸念材料。中くらいのを2つって長いの一つ書くより大変だ。んであとで読んでみるとしょぼくてゲンメツするという遣る瀬無い終わり。
元町アーケードだったかセンター街だったかの東の端に大きなのがあった気がするのだけど、あれはもうずいぶん前に無くなってしまったんだろうか。ずいぶん探したのに見つけられなかった。
センター街の中ほどのお店は見つかった。あそこは良い物が納得いく価格で置いてあることが多い。「大阪の橋」があったので(喫緊に要するものではないが)回収しておいた。
元町アーケードの古本倶楽部はいろんな本が雑然と置いてあってワクワクするのだが必要としている本を見つけたい時には苦行である。せめて各ブース?の中だけでも整理してほしいものだ。「十津川」5000えんは今回はパス。杉森久栄「天才と狂人の間」500えんかあ。あの頃のは軒並高いからなあ。
その前にはモトコーで時間をかけて探して回る。見つかるとは限らないのにある気がして、しかしやっぱり見つからない。一度逃がした魚なので(いや釣り糸垂らしてもいなかったのだが)余計にざんねんだ。「兵庫の街道」800えんを贖ったのみ。
せっかく9連続を食い止めたのに食事に悩むと結局ペペロンチーノになってしまうのはもう勝手にしやがれとしか言いようがない。今日は生にんにくをつかった。予想通りカビが生えつつあった。ニンニクのカビはヤバイやつじゃなかったっけか。
出品とクレーム対応に追われる自分、帰って不眠不休で原稿を書きpdfを作って1ヶ月周期で首を括るようなことをしている自分、人の前に置かれて頭の悪い愛玩犬か猫前の鼠のごとくな自分、探索をしている時の自分、いずれも重なるところがわずかで、いくつもの別の生活をしている気分になる。昔はそのなかのどれかが本当の自分、とか巫山戯た頭皮嗜好をもとい逃避思考をしていたが、なんのこたあねえ全部ひっくるめておれだろうが、と思えるようになった今日このごろなので幸せである。まいったかnagajis。そして明日も(日付的には今日も)首を吊る。
リンゴココナツとパインチェリーを混同していた。なんという体たらくなんという不義。ピーナッツマカロンのバリバリ加減も好きだがやはり食べやすいリンゴココナツが今のところお気に入りトップだ。
そうかこの懐かしい感じは丸ボーロの食感なのだ。開封して2、3日空気に晒してぱっさぱさだよマリコちゃんどーしてくれんだマリコちゃんのあの食感がベースになっているのだ。パッサパサな丸ボーロをもっと疎にして種々コーティングしたのがレンセイ製菓のロシアケーキ。商品名はクリームサンドクッキー。クッキーと言われると結構腑に落ち価格も妥当に思えるのが不思議。
明治32年12月28日
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C02030223200?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2006083118211558900&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&
堡塁・砲台の構造基準の変更。確かその前のが明治29年とか書いてたようなきがする。
祝いの飯がまた(略)なんはどいうことやねん。しかもニンニク生焼けだ。
「しかもニンニク生焼けだ」ってすごく語感がいい。無闇にひとりごちて悦に浸っている。
何か似たようなフレーズがあった気がするのだが思い出せぬ。「ぼうさん火事場で丸儲け」とか何とかそういうやつだったような。しかしこれでは4−4−5だし「ごめんね税込み105円」みたいで良くないな。単なる口合いだ。3−4−5と畳み掛けるところがいいんじゃないか。「さんま蒲焼き108円」とか「トマト煮込めば型崩れ」とか「さしもしらじら柴わんこ」とか。
今回は日曜日を使って書くことが多かった気がするのだが結局いつもどおり遅くなった。合わせて4万字くらいしか書いてないのに。やはりダメ探索を取り繕うような原稿はちっとも進まないし出来もよくない。言い訳をはめこんでいくようなんはだめだ。
定点観測していた空き地に工事が入って煉瓦溝が掘り繰り返されていた。あぶねえあぶねえ、あと1日遅かったら回収できないところだった。運がいいな>nagajis
中部日本に於ける名古屋・大阪・東京三都の商圏比較 : 三都の対中部地方発送貨物を中心として観たる
S16の記述。煉瓦は個別には書かれてない。
生ニンニクは歯ごたえがあってよろしいが刻み唐辛子のかわりに七味とうがらしを使用するのは間違いであるようだ。ちっとも辛くねえ。同じ唐辛子であるはずなのに何故だろう。あの種がミソなのか。
親の敵が自傷行為のつもりで塩をぶち込むのがポイント。食う時もファッサーとかけて調整すること。なに、実情2食しか食ってねえんだから塩分過多にはなるまい。
台所に居付いているクロゴキブリ(大)が倒せない。殺虫餌をあちこちに仕掛けてあるのだがそんなもの見向きもしねえで舞茸なんぞ食いやがる。くそ。それはおれがぺ略に入れるつもりで取っておいたやつだぞ。貴様の為に置いてるんじゃねえ。そう思いながら奴の食いさしをペ略に放り込み咀嚼して嚥下して胃の腑に収めたったnagajisはゴキブリ以下である。ざまあみろ。
結局のところ物理で殴るのが現実的かつ妥当な倒し方なのだと思う。その用意はしてあるのだが目撃した時はいつも嫌らしいところに半身を隠しておるので思い切りぶっ叩けない。流しに落ち込んだら洗剤ぶっかけて即死させてやるのだがその隙も見せぬ。奴はかなりの手練かも知れぬ。
自分が間違っているかも知れないという発想をしたことがないんじゃないかって人、だな。常に自分が正しいと考えている、すべて自分の身に引き寄せて判断して自分が正しいと思ることは即ち真理であり他人にも通用すると思っている人。ある部分では我を通し、そのぶんどこかで譲歩する、ってのは普通だろうが、我の通しが全方位で、譲歩が欠如している人。譲歩? うーん。嵌まる言葉じゃないな。自省のない人、といえば以前書いたまんまか。
自分自身にもあてはまるよなぁ。最たるものだよなあ。煉瓦回収してくるのは正義! 探索のためなら私有地立入禁止も無視! みたいな。まあこれでも自重しているほうだと自分では思っている。そこにタチの悪さがある。自分では自重して正しいことをやっているつもりだが傍から見ればただの犯罪行為という。そういう認識を持っているだけましなだけ。
やらない善よりする偽善。そんなFakeな善でも繰り返しやってれば心変わり心移りして善になるかも知れぬ。この歳になって気づく真理もある。間違って誤ってカマかけて真理への漸近を試みる人生。1/x;x→∞で0に近づくが限りなく近いだけで0そのものではない、みたいな。そうそう自省してばかりではアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアz
寝落ちして気づいたらこうなってたのでとりあえずSubmitした。奇痴度があがってよいと思う。
しかし何と続けるつもりだったのだろう。自省だけでは進歩にならぬ、自省を踏まえた上で変化せねばならぬ、とでも書くつもりだったのだろうか。
「やらずに後悔するよりやって後悔」というのは失敗が約束されていることについてdoしてdieせよといってるのではない。もしかしたら成功するかも知れない、例え失敗しても成功への途が別ルートで見えてくるかもしれない、そして何より何もしなければ何も起こらない、ということをいっている。何もせずに食って生きていける貴族であった清少納言はそこを理解していない。我々のごとき負け組が倣えば現状維持すら覚束ぬ。飢えて死ぬか「ただ生を繋ぐだけの」人生しか残されない。それで構わないのであればnagajisなど要らんのだ。
ああ薄皮饅頭うめえ。
はよ終われ。眠い。阪急電車の中で二度傘を倒した。
目の前に2015年10月12日賞味期限の陣太鼓があって食べようかどうか迷っている。てか今年の鏡餅も鏡開き忘れていたな。まだ招き猫が乗ったままで机の上にある。嘆かわしいことだ。
胸糞悪い思いをしてふと思ったのだが「胸糞悪い」は何故「糞」まで悪い物扱いしているのだろう。腹立ち紛れないやり場のない怒り憤りを胸に感じた時に「胸糞悪い」とはいうけれども別に「糞」が悪さをしているわけでもなく便は常に下腹部にある。歯垢を歯糞耳垢を耳糞というが如くに胸に支えたモヤモヤしたものを糞に見立てているのやも知れぬがやはりそれを「悪い」とはいうまい。耳垢目脂が溜まった状態を「耳糞悪い」「目糞悪い」とはさらに言わない。
これは糞に対する熱い風評被害である。金輪際使ってはならない。
とはいえそういう感情を抱いてしまった場合の代替表現がなければ困るだろう。すぐに思いついたのは「けったくそ悪い」だが結局これも糞を蔑ろにするものであるので却下。糞のかわりにnagajisでもよいとは思うが如何せん語呂が悪い。「けったnagajis悪い」などとした日にはnagajisが蹴ったことへの非難に掏り替えられてしまいかねないので(事象を正しく表現するという目的においては)相応しくなかろう。何にせよ名詞を持ってくれば同様の悲劇が起こり得るので慎重に検討せねばならない。
いっそのこと記号にしてはどうか。「胸⊿悪い」とか「ケッタ○悪い」とか。できれば普段使わぬ記号意味を持たない記号が良いな、でないとなんだか伏せ字のように見えてしまう。「胸┴悪い」とか「胸㊨悪い」とか。後者は心臓疾患ぽくていかんか。
覚えとけ。商標大全めくって無い無い言うて浪費した時間を返せ。にんげんも返せ。
しかし若干時期がずれるのな。備前陶器→M42日本窯業。
台所の左翼隅に巣食っていた大ゴキブリを格闘の末にようやく退治した。あれだけ殺ゴキブリ餌を設置ていたにも関わらず活動し続けていた一匹である。叩き損ねて逃げられたことも数度ある手練。今日放った一撃がクリーンとはいかないまでもヒットして、動きが鈍ったところで台所用洗剤をぶっかけてやっと息の根を止めることができた。やはりゴキブリには台所用洗剤が最有効だ。あれだけしぶとい生き物が嘘のように息絶える。すまんなゴキブリ君、併記の閉鎖で、もとい平気の平左で共生しつづけられるほど私の神経は図太くなかった。
神社を参拝する際、手水鉢で手を清め、最後に柄杓の柄を洗うのが習わしだが、その起こりは
ナメクジが這い回っててベトベトするから
洗ったのが始まりなのではないかと気付き始めている6月末である。
ここのところ帰りが遅くて19時20時を回ることが多い。そんな時間帯に神社に詣でると、そしてこの湿度ベタベタな梅雨の時期に参詣すると、かなりの確率で柄杓の柄にナメクジが居る。そうと気づかずむんずと掴んでしまうことも多い。雨で軟体動物門腹足綱達がウキウキなうえに水気のあるところだから致し方ないことだろう。それでヌメヌメするところを避け、柄杓の首の辺りを手にして手濯ぎ漱ぐすることになる。最後に柄杓の柄を洗う時に意図的に多めの水を汲んでみたりもしたくなる。次の人がヌメヌメするのも可哀想だからだ。
日本史上最初に柄杓の柄を濯いだ人はナメクジを触って「うわっキモッ」となったんじゃないだろうか。だから二度も三度も手を濯いだ上に柄杓の柄を洗ったりしたのじゃないか。それを傍から見ていた人が「へえそうするのが作法ずらか」となってあの習わしが生まれたのではないか。かなり核心を衝いた考察だと思うのだが如何だろう。そうしてその考察を証明する手立ては我々には与えられていない。残念なことである。