nagajisの日不定記。
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やっぱり書いとかないと忘れそうだ。書いておけばあとで楽できるだろうし。
昨日の電車に忘れ物をして、それが姫路駅まで行っちゃってることが、家に帰り着いてから判明した。翌日それを取りに行かねばならなくなり……。それだけの目的で往復電車代すうせんえんを支払うのは、例え自分の不注意に起因することだとしても(や、そうだからこそなおさら)癪だ。あれこれ考えた末、香呂の西播煉瓦跡へ足を伸ばすことにした。この雨の中。
開戦直後の工場は香呂200番地にあったという。その場所も特定できていた。しかしその場所には立派な屋敷があるばかりだった。煉瓦が使われているようなこともない。これじゃあなぁ……ということであちこち尋ね歩くことにした。昨日怖じけてピンポンできなかったことの反省の意味も込めて。kousenさんを見習わなきゃ。
最初は商工会に行ってみたが手がかりなし。香呂駅西には姫路市立図書館の分館があったりもするが月曜日は休館だ。仕方なく引き返して200番地の周辺で聞き込みをした。角の商店で話し込んでいる方がいたので、「すんませーん……」と割り込んで。親切な方々で良かった。
・工場はいまの市民プールの場所。現200番地とは線路を挟んだ対角線上だ。
・今から15年ほど前まで工場があった。その頃はマサ(真砂土=風化花崗岩の粉末。園芸土や紙漉きの添加物に使われる)を作っていた。いま市川でマサを作っている会社の分工場だった、というようなことを仰ってた記憶がある。
・近くに住むOさんがその工場に勤めてたから聞いてみなはれ。
という流れに。こんな感じで強制的にピンポンしなければならない状況に追い込んだほうがいいようだ。自分の場合は。
そうしてOさん宅を尋ねてみた。確かにその工場に勤めておられたそうで、それ以前は別の工場に勤めていたが、昭和25年に呼ばれて移ってきたという。戦前戦後に耐火レンガを作っていたことは知っているけれども、それ以前の赤煉瓦を作っていた頃は詳しく知らないと仰る。確かに文献では昭和13年版から東亜耐火工業所に、同24年版では片上耐火煉瓦(株)香呂工場になっている。昭和26版より後は載らなくなるのでこの頃マサ製造に移行したのだろう。
岡山や相生に大きな耐火煉瓦工場があったことを教わったり、赤煉瓦の製造史のことなどを話題にひとしきり話して辞した。大変参考になったピンポーンだった。Oさんにとってはいい迷惑だったかも知らぬが……。
その足で線路の西側の工場跡地へ行ってみる。相坂隧道の煉瓦は駅の西側にあった工場で焼かれたと言われているが、その通りの立地だったわけだ。但し現在はご覧のとおり。市民プールがあり、その南に幼稚園保育園を建設中で、周囲にも工事現場にも煉瓦が転がっているようなことはない。
市民プールの西方から東を向いて撮影。まあ、こんなところである。足元の道を西へ向かえば相坂隧道方面に出られる。そこで使う煉瓦を作るにはまあ悪くない場所だし、何より播但線のすぐ隣だから遠方への輸出にも向いていただろう(実際西播煉瓦の製品は姫路・阪神方面ばかりか鳥取島根にも送られたらしい。えっと、それはどこで読んだっけ?)。
さあて、ここからどうするか……。アテはここまでしかついてない。残りは直感で歩きまわるしかない。というわけで足が向いたのは相坂隧道方面。そこまで登るつもりはなかったが、なんとなくそっちの家々のほうが古いように思えたので。
その直感は正しかった。途中の路傍で見かけた煉瓦に「セ」の刻印があったのだ。お前はゴッドハンドか!と罵りつつ拾ってみる。裏表に「セ」が刻まれていた。セイバンのセ、と考えたいところだが、印南郡の関野煉瓦の刻印である可能性もゼロじゃない(工場跡地では煉瓦すら見つからなかったからな)。けれども西播=「セ」だとすると、以前生野で見た「セ」刻印との繋がりも見えてくる。播但線で北へ進めば生野なのだから。
作業者の識別符丁とも考えにくいな。47人分も割り振り切ることはまずないだろうし、他のイロハはこのへんでは見かけなかった。
いずれにしても、播州の煉瓦工場はカナ一文字が流行だったようだ(除く大正煉瓦)。大阪の煉瓦業者が幾何学模様の組み合わせだったのと似ている。
さらに煉瓦を求めて西へ。路傍に煉瓦を見るたびにひっくり返してみるが「セ」刻印は見つからなかった。手成形であっても無刻印だったり。確認した煉瓦の個数分の刻印数を計算すると客観的なデータになることに気づいたのだが、時既にお寿司だった。
山際の集落のところまで来た。あてもなく路地裏へ入り込んでいった。そのほうぼうで煉瓦と遭遇した。最初の出会いは写真の煉瓦壁。結構な年代物らしく手成形の歪んだ煉瓦が使われている。笠石の裏を覗き込みつつ歩いたが刻印は見つからなかった。
これだけでも充分な発見なのだが、もっと上をゆく発見が。お寺の下の路地裏ではさらに見事な煉瓦壁。こんなところにこんな近代風が吹いているとは誰も気がつくまい。
しかもこのお宅、大路地側にも煉瓦壁が築かれていて、こんなアーチ門になっていさえする。左のアーチは大路地から屋敷の庭の高さにあがる階段があり、右は倉庫か何かに使っていたものらしい。路地側の目に付く場所には上等品の煉瓦が使われていて見栄えを意識していることがよくわかる。
この2軒のお宅は、あとでピンポンした。前者はちょうど奥さんが帰宅されたところに出会えたが、もう何代も変わっているので詳しいことはわからないとのこと。立派なアーチ門のお宅は留守であった……。残念。
後者はぜひとも話を聞きたかった。なぜなら、
壁には「K8」刻印煉瓦が使われていたからだ。見える位置にある刻印すべてが「K8」。後ほど在所の別の場所でも「K8」の転石を見た。このエリアでは「K8」優勢なのだ。
共同販売用説に則ると、西播煉瓦がK8を作っていたのでは? という推測に行き着く。お宅の方が煉瓦の出処を知っていれば(例えば駅西の工場で焼いたやつだ、とか)、説の裏付け&n=8の場合を証明できる。そう思ってピンポンしたのだが、月曜昼2時なんて、フツーは誰もおらんやろね……。
在所の中の転石には、むしろ写真のごとくな刻印が多かった。これだけではただの棒線だが、
これを見ると漢数字だったことがわかる。
そうして「セ」が1つも見つからなかった。やはり「セ」=西播ではないのだろうか? それとも時期によって使用刻印が違うのか? 大正6年から昭和11年頃という比較的長期間操業していた工場だから、いろんなパターンがあってもおかしくないだろうが……。
少なくとも、西播ノットイコール○Sだとはわかった。
昨日の見野行きで○S刻印を発見していた。同じ刻印煉瓦を伊丹市で採取している。頭文字がSの会社だろうと想像していて、その候補の1つとして西播煉瓦もあったのだが、香呂では○Sに遭遇しなかった。
こんな地味な絞り込みを続けていけば、いつかは答えに辿り着けるだろう。
西播煉瓦を訪問し、「セ」刻印に遭遇して、「セ」≠関野煉瓦であることを証明する必要が出てきた。雨も上がったことだし(蒸し暑いこと限りなしだが)ついでに足を伸ばしてみようという気になった。前回関野煉瓦跡を訪問した時には工場跡地しか見れなかったから、もう一度曽根の街中を歩いて確認しなければと思っていたのもある。
もう何度目になるかわからない曽根駅で下車。そこから歩いて南下してゆく。新幹線の高架を越えた辺りから路地裏に入り、煉瓦を探しつつ行くと……。あるわあるわ、古そげな煉瓦構造物が。
最初に見つけたのはこの壁。民家の裏手にあって、屋敷の垣根ではなく煉瓦積みの小屋の一部であるらしかった。段になっているところに平が露出しているので、うんとこしょして覗いてみたら、「K7」がびっしり。
出た。「Kn」。n=7は尼崎で目撃していたけれども、まとまった量使われているのは初めて見た。最寄りの工場は播煉合同曽根工場→伊藤窯業だが、天川の川向こうには大正煉瓦の曽根工場があったし、下流には関野煉瓦もあったから、これだけではどこと推定することもできない。しかしn=7の出処がこの附近にあったらしことは言える。他所でも転石になったK7を見た。&、ここもn一定であるのでライン番号説を否定する材料になる。
別の場所では煉瓦積みの蔵も目撃。2棟ほど。写真のものは腰壁に煉瓦が採用されていて、すべて播煉合同の「ヲ」が見られた。
そういうわかりやすいもの?ばかりだといいのだが、そうは問屋が卸さない。
最初に掲げた壁の前の空き地に転がっていたもの。 一文字 「へ」と打刻されている。実はこの刻印、似たようなものを尼崎で目撃している。セオリーでは作業者の識別符丁っぽいのだが、だとするとイロハが識別符丁に使われていたことになり、「イ」が伊藤窯業とか「ワ」が和田煉瓦だとか言いにくくなる。
別所村に最初にできた別所煉瓦、もしくは大正10年版に記載がある別所窯業の「べ」であるのかも知れず、今のところそれが最有力候補だ。しかしこの工場、資料では大正初期と10年頃にピヨっと現れるだけなので経歴がよくわからない。印南郡ではこれ1つしか見つからなかった(うえに工場から離れた所で発見した)のも説の根拠を揺るがす事態である。
このほかにも、楕円に十字が入った刻印煉瓦の断片を採取した。これもちょっと解釈が難しい。こじつけかも知らぬが原田煉瓦の「田」を意匠化したものではなかろーかと思っているが、原田工場の周辺にはなかったし、1つしか見つかっていないので、話題の俎上に載せにくい(とかいってここに書いてるけど。そういうところだ>ここ)。煉瓦自体はこの辺りでよく見る焦げ茶系の煉瓦だったのだがなぁ。
それで肝心の「セ」刻印は見つからずじまい。古い民家が残っているのは曽根町を東西に横切っている県道718号の北側で、小字でいえば南之町、東之町といった辺りになるが、かなり細かく入り込んで(というよりも迷い込んで)かなりの量の古煉瓦をひっくり返したつもりなのだが見つからなかった。
「セ」=西播だとすると、今度は関野煉瓦は何?って話になる。大正14年の「重要貨物調書」煉瓦編、曽根の煉瓦工場の筆頭に関野煉瓦があがってるくらいだから、それなりにでっかかったはずなのだが……(ちなみに他には中播と大正煉瓦が挙げられていて、曽根駅の貨物輸出量は合わせて16000トンとなっている。曽根駅からの煉瓦輸出は山陽本線中では耐火煉瓦でおなじみの三石に次いで多かった)。
1つ引っかかるのは、ちうよりも無理くり引っ掛けるならば、広島の吉名煉瓦が使っていたのと同じ刻印の煉瓦が見つかっていること。今回の曽根歩きでも見つかった。具体的には①曽根町の国道西側の旧家の敷石、②播煉中筋工場近くの民家の敷石、③曽根町南之町の畑の中、の三箇所だ。まとまって使われている例はまだ見ない。○を三等分した記号はYoshinaのYを○で囲ったものとされていて『煉瓦刻印集成』にもそう載っている。広島県の煉瓦工場の記録『赤れんが物語』でも大きな工場だったことが紹介されている。しかし遠く離れた兵庫県まで分布しているものだろうか。&、それ以外の広島の煉瓦が見られないのも疑問符。だいいち大阪の煉瓦さえ入ってきていないようなところなのだ。印南郡は。
関野煉瓦の所有者は関野與平という人なので、YoheiのYを○囲いしたもの、とこじつけられなくもないな、と帰りの電車の中で思った。他に該当しそうな刻印が見られないのだし。どっちにしても発見数が少なすぎ、現状では判断を下せない。頭の片隅に置いて熟成発酵させるほかないだろう。
煉瓦刻印のマッチングはマインスイーパーと同じような面白さがある。最初は見当もつかない地雷原だが、一つひとつ理詰めで考え、外してはいけない法則を押さえ、従っていけば、そのうち解けるような気がする)。解けたところで誰の役に立つかは考えてない。面白いからやっているだけだ 。
使い途のない写真の供養。四郷町見野で見かけた火の見櫓。足元が倉庫になっていて、
非常に立派な石製額が掲げてあった。しかも左書きだ。消防器具倉庫でこんなに立派なのは初めて見た。
火の見櫓の構造もちょっと面白い。同じようなアーチが採用されたものを郡内他所でも見かけた。
C60もどき。曽根町中之町集会所前の公園にて。こういうのも取り上げてたらきりがないが、なぜか写真に収めていたので、片付ける。
http://megalodon.jp/2013-0731-1923-57/www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2958760/11104051
http://megalodon.jp/2013-0731-1923-19/www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2013071208581322/
吉野町2p、和田2p。中間子論。2600。後ろ2者のほうが大変。じっくり構成を練るしかないが……時間があるだろうか? 思想を反映させずに2600年なんて書けるんかね? と思ったりもするがnagajisにはそもそも確固たる思想なんてないだろ。利害関係も有してないし、ある意味適任者なのかも知れないな。最低賃金以下の収入しかなく生活保護すら検討しているようなヒキニート部外者だからこそ書けることだってあるだろう。
○○と自分に言い聞かせてやる仕事なんてつまんないからな。すべては自分のするべきこと。誰かのためにやってるんじゃなく自分のためにやっている。そう言い聞かせずに自然に認識したいものだ。
二回目の訪問の時に関野煉瓦跡に足を伸ばしていたのだが書き忘れていた。つーか写真からして撮り忘れてる。それほど収穫のなかった足伸ばしだった。
工場の所在地はマップ左下の赤マーカーの位置。この一角は町工場が発展成長して新工場を手に入れた!的な中規模工場が立ち並んでいる。鉄骨組にスレート葺き・2,3階分吹き抜けで天井にガントリークレーンが渡してある、みたいな。敷地はもちろんその周辺も整地し直されている。微塵も古さを留めていない。
そんな工場街の外側、マップの黄色ピンの位置に、古ぼけた木造建物があって朽ちかけていた。その前にある広場は南隣の鋳物工場の駐車場として利用されている模様。そんな旧区の西側にわずかばかりだが煉瓦壁が残っていた。平の面が露出していたことも覚えている。しかし写真を残してないということは、ここに刻印はなかったということだろう。
区画の中には金網で囲まれた空き地もあったが、夏草の茂る今時分に行っても雑草が眺められるだけだ。春先にもう一度行って再確認しておくほうがいいかも知れぬ。先の駐車場の煉瓦壁も含めて。
せめて区画の周囲を回ってみようということになり、南のほうに行ったのはいいが、そうすると広大な東洋紡敷地を一周せねばならなくなって、ひどく悲しく寂しい思いをした。
関野跡地へゆく前に区画の北側にある広い空き地で煉瓦刻印を発見している。瓦礫の山に紛れた煉瓦をひっくり返すと播煉の「ヲ」が見つかった(複数個あった気がする)。そうしてFさんが松葉菱+イ刻印の煉瓦を発見した。柱状に積まれた煉瓦の塊の中に。鏨とハンマーで割って回収しておいた。
ここはそもそも何の工場跡だったんだろう? と思って調べると、1963(昭和38)の国土基本図では高圧コンクリート工場ということになっている。古い木造建物が残っていた辺りにはひと繋がりの大きな工場があったようだが名前は記載されていない。
動水圧230尺、ってそういう単位じゃないと思うのだけど・・・。水頭のことを言っているのだろうか? そうすると単純に水頭約70mということでいいのだろうか。慣れない分野なのでよくわからない。それとも平方尺で考える? うーん頭がチリチリする。まあそこから考えなくとも毎秒0.7立方尺を防火用に使うことを想定してた、ってのを引っ張ったら委員ジャマイカ。
曽根の市街地で目撃。括弧内の言葉はいま勝手に作った造語である。要するに煉瓦サイズのコンクリートブロックだ。それを積んで作った壁が曽根の旧市街にあったという話だ。
機能的な観点では煉瓦と同じサイズである必要はなかったはずで、むしろ大きなほうがいろいろ利があったはずだ(目地を少なくできるとか施工が早く済むとか。隧道のコンクリートブロックなどは最初から大きなものが作られてた)。煉瓦があのサイズなのは中まで火が通るようにするため・焼くことで生じる収縮をゼロにできなかったから(大きければ大きいほど誤差がでかくなる)・手のひらの大きさに合わせてのことだったから。焼く必要のないコンクリートならなおさら厚く大きくていい。なのに煉瓦サイズのコンクリートブロックであるところが面白く思われた。ずいぶん古そうだったし、調べたら意外と刻印があったりしたのかも知れぬ。
今まで何度も言及してた割に、写真をあげてなかったな。これが播煉の「ヲ」刻印。『大日本商工録』に登録があるので間違いない。どれも同じ印影(書体)で、いくつかバリエーションがある和田煉瓦の「ワ」、播陽窯業の「ハ」、大正煉瓦の「大」とはちと違う。そのへんも会社の大きさを反映していると言えるかも知れない。それ用の刻印(印母)を作業人数分用意してたってことだからな。
それって結構面倒なことだったと思うんだ。何万個も打ってれば摩耗したり欠けたりすることもあっただろう。大量注文が入って一度に沢山作らなきゃいけない時もあっただろう(作業者の数が急に増えたり)。そういう時に備えて予備の印母を用意してなかったから、急ごしらえの印を作ってみたり摩耗したやつで不鮮明な刻印を打ったりしたんだろう。播煉合同は最盛期には4つも工場があったのだからなおさら大変だったはず。それぞれで揃いの刻印を用意しなきゃいけなかったわけだからな。
しかし未だに「なんで「ヲ」?」なのかわからない。初代社長が小田千代蔵だから「ヲダ」の「ヲ」なんだろうか。確かに『諸会社役員録』なんかでは「ヲ」の欄に「オ」も並んでる。ルの次に大阪煉瓦があったり尾崎商会があったりする。このへんの感覚はわかるようでわからない。「オ」=「ヲ」なら「ヲヲサカ」でもいいはずだがそういう表記は見かけない。昔は「ヲ」と「オ」で発音が違ったともいうけれどもイロハ順では混同されてる。一定のルールがなかった、でFAかも知らんがもやもやする話だ。
法隆寺の裏山にある阿摩池。同寺の防火用水の貯水池として大正14年に建設が始まり、昭和2年に竣工した(翌年落慶法要)。高低差を利用して法隆寺まで送水し、消火ホースで放水するだけでなく寺院の周囲90箇所に設置された放水銃から絶え間なく水が放たれる仕組み。池の取水塔やそれに連なる連絡橋は用途を意識した和風意匠になっている。
そのような防火施設がありながら、金堂壁画は昭和24年に焼失した。あまつさえ消火の勢いで他の壁画を損傷したという。
事実だけ並べると「なんだ役に立たなかったんジャン」となりそうだが、果たしてそうだろうか。消火設備がなかったら金堂は全焼して瓦しか残らなかったろう。他の建物に類焼していたかも知れない。「かけがえのない国宝が喪われた」と捉えるか「一つで済んだ」と捉えるか。日本人的にはたぶん前者。あまり建設的とはいえない。
金堂壁画が焼けたのは1月26日で、これを機に文化財保護法が制定され文化財防火デーが始まった。全国各地の文化財でこの日消火訓練が行われる。そうした訓練がもう半世紀も続けられているのに消失した文化財はいくらもある。この論文によると、文化財保護法施行下で、昭和26年以降平成6年までに14件の国宝・重要文化財が焼失により指定解除されているそうだ。同期間の全解除数の7割を占める。その割合の大きさは木造建築が多いのだから当然かも知れない。ゼロにできないものであるとも言える。
何が言いたいのかよくわからなくなってきたが、要するに阿摩池の扱いがあんまりだと思う。「金堂壁画を守れなかった」というレッテルが暗に貼られているせいで評価しにくい雰囲気にある。金堂消火の際のエピソードはいくらでも書かれているのに、その消火に何を使ったのか教えてくれるものがない。五重塔への放水に備えて相当な水頭を取っていたことが鶏頭牛刀になったのか、それとも消防ポンプとか消防車とかを使ったのか。消火訓練とか手順の取り決めとかやっていなかったのか。そのへんを知りたいのだがなぁ。
防火池や消火設備の建設に際して県土木課では専門の部署を設けて事にあたった。課長を務めた特徴的な名前のあの人はその後民間会社に下って空襲で亡くなっている。
個人的にはこちらのほうがうれしい発見。十津川村川津で小島煉瓦の刻印煉瓦を発見した。力強く打ち込んだせいでずいぶん深くえぐれている。しかしその底に刻まれた野球ボールは見紛うことない小島煉瓦である。
小島煉瓦は昭和13年頃に退転しているので、それ以前に作られ運ばれてきたことになる。そのころの西熊野街道(府県道五條新宮線)を。御所から重坂峠か風の森峠を越えて五條を経由し500m登って天辻隧道を潜りさらに数十キロ登ったり下ったりしつつ運ばれた煉瓦である。感慨が沸かないわけがない。しかもあった場所に意味がある。
電車待ちの間に橋本市をうろうろしたら、国道脇の民家の境界石?で分銅型の刻印を発見。私は初見だがkousenさんが友ヶ島や多奈川で発見されている。どうも和歌山か大阪南部の工場の刻印らしい。聴音所の建設時期で絞り込めるか?
県道722号のニールセンローゼ。パッと見てわかる位置に竣工銘板がなく、なんで川津大橋が二つ並んでいるのかは謎のまま。(橋梁史年表には三弦トラスのほうが載ってるんやな)
主桁が下に撓んでいるように見える。これはカメラのせいではなく、実際にこんな感じだった。テンション足りないんじゃないだろうか? もしくは暑さのせい? いずれにしてもこの付近の橋はどれも放置気味で、塗装禿げまくり&錆びまくりなのが納得行かない。
奈良県長寿命化計画によれば「新川津大橋」で1989年(昭和64/平成元)竣工。やはり6t制限ではやっていけなかったのだろう。五百瀬、杉清方面を十津川に結びつける唯一のルートだからな。
豊中まで帰り着いて食った牛丼大盛り+卵がとてつもなく美味かった。これ以上ないという位に美味かった。ドラマやCMで牛丼をもりもりがつがつ食っているシーンがあると思うが、まさしくあんな感じ。どかどかどかっと一気呵成に食えてしまった。はしたなく山盛りに盛った紅生姜の爽やかさ。卵のぬるぬる。濃い味付けの牛肉。すべてが五臓六腑に染み渡り胃や腸ばかりか指先足先にまで行き渡るのを感じた。涙を流さんばかりの勢いでがっつく自分を省みて、ああおれはこれを欲してたんだなと思いつつ一気に嚥下し平らげたことだった。そのうえ完食後に「もう一杯行けるかも」と思ったほどだった。
本当に疲れ、空腹になっている時の食事はうまい。たまらなくうまい。きっとそれは上等肉のステーキとか国産鰻のふっくら蒲焼とか一貫数千円の上トロ寿司とかよりもはるかに得難い食だ。幸せな食だ。わずか490えんで手に入る幸せだ。涅槃だ。越天楽だ。ああ、自分は再びこんな幸せな牛丼を食う機会があるだろうか。きっとないだろう。体調、空腹度合い、疲労感、口寂しさ喉の乾き、様々な未知係数を含む多次元関数の解を試行錯誤なしで探り当てたような快感。今日は偶々それを探り当てることができたに過ぎぬ。毎回答えが得られるはずがない。次回食ったら完食する前に満腹感を感じて食い難くなるに違いない。
N氏と庄原市の公園で食ったカレーが懐かしい。あのとびきり旨いカレーは何度も夢見て挑戦するが再現できた試しがない。トルコみやげのあの唐辛子の酢漬けが見つからない。高級スーパーにあると教えてもらったが貧乏人には立ち入り難い。加えて根本原理として炭火で作らねばならないような気がしている。未だその条件だけは再現できていない。ガス火ではいくら火にかけたところでどろどろになるだけだ。遠赤外線で一気に火を通す必要があるのではないか。 ガス火で長時間煮込んでいると旨み成分や辛味成分が変質してしまうのではないか。あああのカレーがくいたい。
最近いなばのタイカレーの缶詰が旨いと教わった。これはマジで旨い。というかタイカレーの食べ方を間違っていた。少量ずつかけるかルーを先に口に含んでご飯を投入すべきだったのだ。ごはんにぶっかけてしまうとシャバシャバしたものになってしまい哀しいカレーになる。そんなことをしてはいけない。タイカレーの陵辱だ。インドカレーも本来そうやって味わいつつ食すべきものだったかもしれない。しかしもうメタル食品は存在せず版権?を買い取って作っていた大同食品も製品を見かけなくなった。
ああ牛丼はうまい。まるで麻薬だ。疲労し空き切った胃袋に紅生姜たっぷりの汁だくの牛丼を掻き込みたい。しばらく足を遠ざけて、思い出した頃に思い出したように食いに行くといいかも知れない。疲弊しきった体をひきずって。嗚呼。
捨てた結果どうなるか、を直截的に示している看板。物事のあとさきや因果関係にまず頭が回るような人ならすんなり理解できるだろうが、そういう人が不法投棄をしたりはしないだろうから、効果的な表現とはいい難い。
パンチって、最近あまり聞かないような気がする。あってもネコパンチとかアンパンチとかちょっと違ったものになっている。パンチという言葉が持っていた魅力も威力も殺がれてしまっている。そんな気がする。
熊野地方の漁師は豊漁のまじないにオコゼの干物を携行したという。山の神が醜い顔をしているので、それよりも酷い顔をしたオコゼを見ると喜ぶといった。確か笑い祭も熊野じゃなかったっけか。山の神を馬鹿にした一寸ひどい話ではあるが、そういい始めた最初を考えると興味深いものがある。
豊猟の祈りがオコゼ自身に向かうこともある。猟に行く時、小さなオコゼの干物を半紙で包み「獲物を取らせて下さったらこの世の光をお見せしましょう」とまじなう。獲物が捕れたら捕れたでまた紙で包み「もう一度捕らせてくれたら今度こそこの世の光をお見せしましょう」。そうやってオコゼは騙され続けることになる。代々受け継がれ何重にも紙に包まれているオコゼもあるそうだ(以上柳田翁)。十津川の猟師もオコゼを所有した。頭をちらっと見せて「豊猟にしてくれたら全部見せる」。捕れたら尻尾だけ見せた。祈る対象を騙すところはいっしょだ。
山の神を女性に仮託したのは何でだろう。しかも全国一様に。そういえば山姥もそうだ。山爺も山男もないではないが圧倒的に山姥のほうが多い。女なのに山にいて、恐ろしい形相で追いかけてきたり強力を発したりするというところが、恐ろしさを増幅させる設定として好まれたのだろうか。山の恵みを与えてくれる母なる大地だからか。
友ヶ島の海軍聴音所は昭和期に建設されたものと「ヒストリア」の煉瓦特集の論文にあった。ならば和歌山の煉瓦工場のでもいい。統計書や工場通覧で和歌山県に煉瓦工場が現れるのは大正期も後半になってから。和歌山窯業や和歌山煉瓦、南出煉瓦製造所なんかが存在した。
この論文では手成形=明治大正期の煉瓦、 昭和期=JIS規格とかかっていて、手成形のJIS規格でない分銅刻印煉瓦が聴音所に使われていることに疑問をなげかけているが、手成形煉瓦なんて戦後まで作られていたのだし、JESに完全統一されてたわけでもないことは引用文献「日本煉瓦史の研究」にも書かれてあるはずなんだけどなあ。
そういえば五條駅の近くで見かけたあの煉瓦刻印も分銅だったかも知れない。薄暗くなってきた頃に見つけたうえ印影も薄くてはっきりわからなかった。 最初に「Cか?」と思ったのは分銅の片側半分をそう見誤ったのだろう。
昭和10年代から40年代にかけて操業していた鉱山。このへんで「B」といったら播州くらいしか思いつかないのだが播州窯業っていう会社はない。番匠も窯業じゃないし耐火煉瓦作ってたという記録もないし。
機械成形煉瓦に押されたキシレン刻印。目立つ大きな傷は機械成形に伴うものではないらしい(傷が平行or同心円状についているわけではないので。あとこの傷が刻印の底にまで達している。刻印が押されたあとについた傷だ)。そうではなく、刻印の上のほうに、小口の辺に平行にささくれ傷がついている。この方向にささくれが向くのは以前掲げた米国式連続整形機で切ったからではないか。大阪窯業式の機械成形だったら長手と平行に近い形でつくはずだ。
橋本駅前の繁華街の周縁部が絶賛区画整理中で、更地になった住宅跡でいくつかの刻印煉瓦を見ることができた。写真の刻印は「10」入の日本煉瓦刻印が並んでいた基礎の一角で見つけたもの。まるでダブルダガー「‡」だが日煉刻印を縦に2つつなげて押したものだろう。どちらかが掠れているわけでもないから意図的にこう重ねたことがわかる。そりゃ日に数百個も作ってたら飽きるだろう。遊んで単調打破したくもなるだろう。
おしゃれ住宅の庭先に使われていたもの。B.C.△H.J.を彷彿とさせるプレス成形。調べるとオーストラリアのトゥーンバという都市で作られたものらしい。 煉瓦は南半球からもやってきているのである。
トゥーンバにはいくつかの煉瓦工場があるみたいだが特定は叶わなかった。Darling Downs Brick Salesというのが最も古くからある大きな会社の模様。
「橋梁工学の最近の諸問題」を見返して、三弦トラスって結構あったもんなんだなと知る。高知県の下津井橋とか静岡県の万世橋とか。
以前十三で見かけ、和田煉瓦工場跡で見かけ、宝殿の生石神社の東方でも見かけたこの刻印は愛媛県の三津浜煉瓦のものだという。印南郡の煉瓦工場跡探索に付き合って下さったFさんが教えてくれた。出典は「山村文化」第31号(山村研究会、平成15年)。有難き情報提供也。
三津浜の煉瓦が関西地方まで流通していたことは地誌や地誌を引用したネット情報にもあるみたいたし、大正期の関西煉瓦カルテルに讃岐煉瓦とともに参加しているから、流入している可能性は充分にある。それを実物で裏付けた格好。 西へ行くほど発見数が多くなる傾向もいかにもだ。
天下茶屋の民家の塀に「K3」と並んで使われていたのも三津浜煉瓦なのだろうか。そう考えたほうがすっきりする。Kn=昭和期以降の可能性が高くなってきたので、明治20年の”堺煉化石”刻印と共使いされている可能性は相対的に低くなる。
とすると今度は十三の壁でこの刻印と共使いされていた三ツ矢刻印が謎だ。ここに使われていた煉瓦(写真)は機械成形。『ヒストリア』の論文では初代の和泉煉瓦を想定しているみたいで、大窯の貝塚工場跡地で見つかっているほか、淡路のナントカという所でも大阪窯業と一緒に使われていたそうだが、明治39年に無くなった煉瓦工場の刻印が、三津浜に成形機械が導入されて以降の煉瓦と共使いされ得るかどうか。 まずは三津浜にいつ星形機械が導入されたか調べる必要がある。といっても工場通欄見る以外にアテがないが。同社は明治18年創業、昭和30年代まで操業していた模様。
そもそもあれか、熊取の中家住宅で1923の年号入り舗装用煉瓦と三ツ矢刻印煉瓦が共使いされてたか。此の時点で三ツ矢≠初代和泉と見るべきなはず。かといって他にどこのものというアテもない。
案外三ツ矢も三津浜煉瓦だったりしてな、と「三」の文字だけ見て勢いで言ってみるテスト。そう考えたことがこれまで無かったわけではない。
先日「遊ぶな山陽窯業」と題してさんざコケにした山陽窯業だが、実は濡れ衣だった可能性が高い。曽根で似たような刻印を見つけていたことを思い出し、あれもそうだったんだろうpgrしようとしたのだが、拓本を取ってみて「全く同じ」ものだということに気づいてしまった。もし「山」刻印をひっくり返して重ね打ちしたなら多少は形が違うはず。なのに「全く同じ」ということは、そもそもそういう刻印だったと見るほかない。
左が見野で採拓したもの。右が写真の中筋で採取した刻印の拓本。中筋の刻印にはオデキ状のでっぱりがついていて、これが上だとばかり思っていたのだが、そうじゃないらしい(この部分だけ別のモノで押されている模様)。向きを変え、このオデキを隠してみると見野の刻印と全く同じになる。右上の角が丸くなっているところや、右辺が左辺より若干長いところ、下辺が傾いているところなど。。。
じーっと見ていると漢字の「日」に見えてくる。右上の丸みも一画目ー二画目の間の止めのよう。刻印の底を見ていると特にそう感じる(拓本は表の型しか取れないので本当の印影を再現できていない。できるだけそれに近づくよう工夫しているが、よほど条件のいい刻印でなければ100%再現するのは不可能だ。だから前回「山」2つ重ねだろうと推測したりしたのだ)。
仮に「日」だったとして、果たしてどこの会社のものなのだろう。明石だったか赤穂だったかにわずかな期間だが日ノ本窯業所という工場があったことになっているが、少々遠いし、印南郡にまんべんなく極く小数分布していることと合致しにくい。もっとサンプルを集めないと何とも言えない。
せっかく印南郡の穴埋めができたのに…と思わないでもないし、 ドヤ顔で披瀝した分余計に恥ずかしくもあるが 、我田引水嘘八百を撒き散らすわけにもいかんからな。勘違いやまぬけは仕方ないが堕落嘘はよくない。
街で見かけた野良猫と恐る恐るコンタクトを取るnagajis。顔が見えないアングルなのは嫌らしくニヤけていたからに違いない。
この子猫は左右で目の色が違った。昔うちにいた猫もこんなだったような気が幽かにする。これで左右同じように見えているのだろうか不思議なものだ。しかし外人さんと日本人とで違う色彩に見えることはないはずなので虹彩の色は関係ないのだろう。
どの在所も一番高いところに墓地がある。在所を見渡せる高台の一等地、日当たりも最高にいい場所をわざと選んだかのようなところに墓地がある。吉野のように極端に平地が少ない土地ではなおさらそのことが印象に残る。
墓地が高い所にある理由はいろいろあるだろう。高みに家を築けば見晴らしがいいかわりに水が得にくく登り降りも大変だ(だから在所は横へ広がろうとする)。墓地を築いて上辺を限ってしまっても特に問題にならない。在所と同じ平面に墓地を築くと左右を限ることになり在所の拡がりを妨げることになる。そう易易と移動させられるものじゃないし。墓は。
大事な祖先だから、できるだけ高いところに鎮座してもらい、村を見守ってもらいたいという思いもあるだろう。その根源には、子供の頃に小高い所から自分の生まれ在所を見晴らしてみたときの記憶、自分の村はこんななのだと初めて知った時の爽快感があるのかも知れない。老境に入り、山へあがるほどの元気もなくなった頃には、自分が生きてきた村を今生の別れにもう一度見てみたいと思うこともあっただろう。そういう思いが在所を見渡せる一等地に墓地を築かせたのかも知れない。
死の穢れを忌んで、できるだけ用のない遠くに遠ざけておきたいから、だとは思えない。最高所に墓地があるような在所ほど尾根筋や山腹を伝って旧街道が走っている。旧い道を辿っていくと村の背後に下り着く。得てして最初に墓地に出会うことになる。あるいは逆に墓地で在所と別れを告げることになる。他所へ行くには必ず墓地の脇を通らねばならない。それだけ身近な存在であったということだろう。
村の玄関口に墓地があると、それに塞ノ神的な役割が期待できたかも知れない。高津は他所の高みに墓地があり、そのかわり在所口の道端に塞ノ神がましましていた(明らかに塞ノ神として祀られているのは、そういえばあまりなかった気がする。不動さんが立っていることはよくあったけれども)。明治に開かれた上谷上道には墓も塞ぐ神もいなかったが、それ以前の旧道には地蔵様がいたはずだし、柏木に越える峠には確かにおられたと記憶する。上谷上道が無神なのは、ささいなことかも知れないが近代化の一端と言えなくもない。
何処の墓にも入れてもらえない筈の自分がこんなことを言うのも何だが、○○墓地公園とかに入れられたーーー追いやられた霊は可哀想だと思う。自分とは縁もゆかりのない場所で、目の前の赤の他人の墓石を見つめ続けなければならないから。気晴らしに墓を離れてみたところで見知らぬ世界が広がっているだけだ。在所の高みに祀られていつまでも見ているほうが数劫倍良いだろう。例えそこが廃村になり、誰も弔ってくれなくなったとしても、繁る草木や遊ぶ生き物たちを眺めて暮らす変化が残されている。朽ちこけていく石垣を一つまた一つと数えてみる暇つぶしもできるだろう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900260
どっちかにしろ、と思うと同時に「カネが入れば細けえことはどうでもええんや」という態度が気に食わない。そも最初は青いさくらんぼであったはずなのだから真ん中の絵も青にするべきだったろう。その矛盾を紙切れ一枚でごまかそうという姑息さも保安チョップ・保安キックものである。うりゃ。
mixiからのref.がキモいので消す。
先日いなばのタイカレーが旨いことを教わって瞠目した。近くのスーパーでも売ってないだろうかと思い、見て回ったところ、かわりにこのようなタイカレー缶詰を発見。Tomato Corporationという会社の輸入品だという。望みの品ではなかったが、1個98円だったし他になかったしで、半ば人柱のつもりで購入してみた。すると・・・
これが滅法旨い。世の中にこんな旨い食べ物があるのかと思うほどに旨い。ココナッツミルクをふんだんに使ったまろやかな口当たりで、かつスパイシー。そして旨みが深い。いなばのタイカレーももちろん旨く、具の多さはいなばに軍配が上がるーーー何しろこの缶詰にはほとんど具が入ってない。申し訳程度の鶏肉のかけらが2、3個とたまねぎの断片が入っている程度だ。いなばのには缶詰の底に敷き詰めるほどのチキンが詰まっていたーーーのだが、カレースープの旨さはそのハンデを補って余りある。缶160gというボリュームもよい。 これ一缶で2合は軽くいけるし、具を加えて調理してもよいものができるだろう。
スープばかりなのでごはんにかけて食うのには向かない。かえって貧相な味わいになってしまう。スープを口にして旨みを味わったあと、ご飯を食し、ご飯で辛さを拭うような食べ方がよいことを再確認した(そもそもそういう食べ物かも知れぬ>タイカレー)。
京都市中で最も長く操業していたのは深草フチ町の煉瓦工場。大正7年から「竹村煉瓦石製造所」の名で載るようになり、その名で終戦まで続いている。休止間際の「工場通覧」では「深草フチ町19」に所在し、経営者は山田重三郎となっている。丹後の竹村煉瓦工場(今もホフマン窯が残っているあの煉瓦工場だ)も山田重三郎の名で登録されているから、同じ人物が京都府の南北で煉瓦工場を営み、府下の煉瓦を供給していたようだ。
そうして戦後に同じ住所で「中島窯業㈱」が載るようになる。この工場はS34頃まで存在した。京都の煉瓦というと琵琶湖疏水事務所のものばかりを連想してしまうが、他にもちゃんと?煉瓦工場は存在したのだ。そうしてどんな刻印を使っていたのかわかっていない。
地下鉄竹田駅から深草フチ町を目指して歩いた。道すがらは全面的典型的な郊外住宅地。一戸建て住宅が軒を連ね、幹線道には大型チェーン店が切れ間なく続いている。そんな街だということは航空写真やストビューで確認できることだが、行ってみなければわからないことは多い(行ったからといってわからないことも、同じくらいに多いのだが)。
例えばそう、こんなところで「セ」煉瓦に遭遇するなんて、出かけてみなければわからないし、想像すらしていなかった。姫路の西播煉瓦のそばで見かけた「セ」刻印と寸分違わぬ「セ」刻印だ。一画目の最後を明瞭に描き、二画目の縦棒との間でループを作ってるところなんかはそっくり。イロハニホヘトのセでないことは明らかだ。
この煉瓦は深草フチ町に到達する前に発見した。名神高速道の高架下を通っている下道の脇だ。さっそく刻印が見つかったのはいいが……「セ」=西播煉瓦の仮説を揺るがす発見で、幸先のいいスタートとは言い難い。
現在の深草フチ町の区域は徹頭徹尾な住宅街。どの住宅もここ30年内外に建てられたものに見え、軒先に煉瓦が転がっていることも稀だった。あったとしても、こんな機械成形煉瓦だ……。縁が歪んでいたり長手に凹凸があったりして、それなりに古そうななりをしていたが、刻印が押されているようなことはなかった。
むしろ……これが戦後の中島窯業㈱の製品なのかも知れない。そう思わせるほどに数多くの似た質の歪んだ機械成形煉瓦を見た。
そんな深草フチ町ではあったが、手成形煉瓦が全くなかったわけでもなかった。とある住宅の脇、用水路に面した石垣の上にこんな刻印煉瓦を発見。1cm四方くらいの小さな四角に「レ」の文字が刻まれている。
国道側の隣町の畑でも似たパターンの刻印を発見した。地衣類に覆われてわかりづらいが□にへである。大阪市外では見かけないものだが……実は豊中市で「□イ」を見つけていたりする。この世のどこかにこのパターンを使っていた煉瓦工場が存在していたことは確かなのだ。
それが即ち竹村煉瓦だと有難いのだが、そう断定するにはサンプル数が少なすぎる。無刻印手成形の煉瓦もなかったわけではないし(刻印煉瓦よりも数は多い)、何より京都はほとんど歩いていない。他の工場の煉瓦が流れ込んでいた可能性は十二分に高いのである。
何しろ京都は大阪と滋賀の間だ。どちらからも煉瓦が流入しているはず。その証拠に江州煉瓦の見本のような刻印煉瓦を発見した。滋賀県守山市に本社があった江州煉瓦、○にGの刻印だ。
そうして「セ」刻印も一つだけじゃない。深草フチ町の真ん中で一つ、西隣の町の畑でも一つ。都合3個の「セ」がこの付近に分布している。「セ」分布の重心が一気に東へ寄った格好だ。
少なくとも京都に「セ」のつく煉瓦工場はなかったから、他所から流入してきたもののはずだが、従前説の=西播煉瓦は再考の余地がある。西播跡地では1つしか見つかっていないし、西播くんだりから京都洛外まで運ばれたとも思いにくい。せめて考えるなら鉄道輸送の実績がある関野だろう。
他にも一つ出所不明な刻印煉瓦を見つけた。薄くてわかりづらいが漢数字の1に小さな点が添えられている。打刻に失敗して二度打ちしているものの、拓本でそうだと判断される(それはまた今度掲げる)。こういう家紋があったような気もするのだが。。。これは転石で1つだけだった。
その拓本。横線はもうちょっと太いようにも思うのだが、うまく再現できなかった。漢数字の一のようでもあるし、上のチョボと合わせて「∴」のような記号を(楷書で)書いたような感じもする。
あちこちで見かける「ATR」刻印の耐火煉瓦。深草フチ町でも目撃した。この煉瓦の製造者はわかるようでわからない。福岡の荒木窯業株式会社であるように思うのだが確証なし。「TAR」とかもあるもんな。
何の変哲もない大阪窯業刻印。そう言えばまだ挙げてなかったな、と思い掲げてみた。とか言いながら以前「改」つきのをupした気もするな。
大阪窯業や岸和田煉瓦のような大工場の刻印は、ぞんないな押され方をしたものが多いように思う。きれいな拓本が取れそうなやつは案外見かけない。マスプロダクションの精神?が浸透していて、そこまで丁寧な仕事をしようと思わなかったのかも知れない。あるいは単に、数が多くてよく見かける(上手いのも下手なのも)だけで、母数が多いせいでぞんざいと感じるだけなのか。
このクソ忙しいのに何やってんだと思われもしないだろうが過去の訪問記録を片付けておく。
古い地形図で窯業窯マークが連なっている内川のほとり。旭商社の窯もこの付近にあった。左手に見えるのが柳ノ町の住宅街(内川に降りて南を向いて撮影)。工場跡はすっかり住宅地になり切っていて、堀川も丁寧に整備され遊歩道と化している。この一帯に古煉瓦を見ることはできなかった。そもそもあれか…明治30年代に消滅した工場の刻印が見つかるのはかなり稀なことで、住宅地が掘り返されているところに遭遇するとかいう邂逅がなければまず無理だろう。
大阪窯業、岸和田煉瓦に次いで大きかった日本煉瓦の工場。いまその場所は堺市営住宅が占拠している。わずかに残る痕跡は敷地北西隅の煉瓦壁。北隣にある自動車工場との境界をなしているが、ここに日本煉瓦の刻印が見られることから、同社の築いたものと想像される。市街地でよく見られる数字入りのではなく、社章そのもののやつだ。
西の横綱・大阪窯業の繁栄の基礎を築いた堺工場。明治31年に操業を開始し大正13年まで赤煉瓦を製造した。いまの大浜公園の北半分と、南海鉄道(当時は阪堺)の線路際までの広大な敷地を工場としていたようだ。今この場所には「大阪窯業煉瓦工場之跡」の碑が立つだけになっている。線路際には大きなマンションが林立し、古煉瓦の一つも落ちていない。いや、公園隣の空き地にはカケラが落ちてたか。
大阪窯業が越してくる以前、この辺りに堺附洲煉瓦があったはずなのだが、それを買収して敷地を得たわけではないらしい。『大阪窯業五十年史』にはただ土地を得て開業したと書かれてあるだけだ。
堺にあった無数の煉瓦工場のなかで、唯一わかりやすい痕跡が残っているのが丹治煉瓦。明治30年代に作られたという会社事務所が残っている。いまは有志が手入れをして、事務所跡を中心とする街並み作りが進められているそうだ。ステンドグラスが使われていたりもする洒脱な煉瓦建築である。
大写真はその事務所。小は向かいにある民家の壁。他にも近くの佃煮屋さんが煉瓦建築で営業している。全く同じ煉瓦ワークが採用されており、関連する建物だったかも知れない(どれにも丸丹刻印が入っている)。ちなみに刻印を観察するには、透かし積みになった煉瓦の裏側を見るとよい。表側は砂埃が覆っていて見にくい。
樽井煉瓦の跡地は空地のまま残されている。南東隅に残るのは工場主だった矢代氏の住宅だろうか? さまざまな色の釉薬がけをした煉瓦が壁に使われている。煉瓦でもこんな鮮やかな色が出るのだ。
老舗の一つ・堺煉瓦の工場があった辺りを堅川の対岸から見る。いまは完全なる工場地帯である。もう少し厳密に言えば、いま国道26号が貫いている辺り(確かこの道はあとでできたものじゃなかったっけか)や、その東側のリーガロイヤルホテルの辺りまで広がっていたようだ。大正末の市街地図では長崎紡績所になっているが、この会社、堺煉瓦の社長・太田貞一がちゃっかり副社長に収まっていたりする。
国道26号堅川橋から南海堺駅方向を眺める。手前の大きなビルがリーガロイヤルである。
関西地方で最初に商業的に煉瓦製造を始めた原口煉瓦工場は、住吉橋通2丁目(新町)にあったという。それから約140年経過した今日、そこで煉瓦を探すのは、関ヶ原で甲冑や鏃を探すのと同じくらいに無駄なことである。歩き回ってみたけれども手成形煉瓦すら見つからなかった。
写真は新榮橋から北を向いて撮影。昔はここから北西方向に流れる堀川があって、住吉橋通は洲のようになっていた。
明治20年代の地形図を見るとここに3つの窯マークがある。全部原口工場のものだろう。原口工場はM25頃から記載されなくなり、かわりに子師工場、岩井工場(紀谷工場)、石井工場が登場する。敷地を分割し3つの個人工場が興ったのではないかと想像するのだが、裏付けとなる資料は見つかっていない。というよりもドコを当たればいいかもわからない。堺市に資料があったらこんな苦労はしないのだ。
旧墨江村・千体村の周辺には明治20年代から30年代にかけていくつかの工場が興った。盛秀舘(M19-25)、三栄社(M20-34)、千躰煉瓦製造所(M20-26)、東洋煉化製造所(M27-30:創業はM19となっているがM27が初出)、など。この頃の資料には番地まで書かれていないので、資料だけではどの会社がどの工場を継承したのか特定することはできない。
一度だけこの辺りを歩いたことがある。古い民家はそこそこあって、手成形煉瓦や刻印煉瓦も見られたのだけれども、ここ特有の刻印というのは見つけられなかった。探した場所が悪いのかも知れない。旧版地形図を持っていくのを忘れ、どの辺りが中心街なのか把握できないまま闇雲に歩き回っただけだ。
町を東西に横切る川のほとり、取り壊しが済んだ住宅の跡(マーカーの位置)で、ちょっと面白い煉瓦を見つけている。上の小さな煉瓦がそう。下は東京形の煉瓦である。サイズ的には泉布観に使われている「YEGAWA」刻印の煉瓦と同じ。サイズだけで言えばずいぶん古そうなものである。残念ながら刻印はない。
↑うん、片付けといてよかった。姑息もいいところだが。結果的にnagajisしか書いてない号になったが自分の責任ではない。そうしてまた売り上げが半減するんだろうな(乾いた笑い)
書かないと言って書くのもある意味有言不実行だな。
煉瓦工場の件、少し追記しておこう。
久々に正統派な奇妙なポテンシャルに遭遇した。文面ではなく改行と字下げの仕方に奇妙なポテンシャルを感じる。何もしなければただのお願い文になってしまうような内容であり誰も好き好んで読もうとはしないであろう文章を、何とか目に留めてもらい読んでもらおうという思いがひしと伝わってくる。しかしその思いが伝わるのは、世間的にはごく少数の、些末事に拘って拘って自分でも嫌になるようなタイプの人間だけにであるだろう。ちと勿体無い感じもする。
最初の5つは具体的な「しないでください」の羅列。ホームの端云々は仕方ないとして、続く3つは文字数を揃えることで繰り返し効果を狙っている。5つ目の改行はあきらかに意図的なもので(改行せずとも入るのだし)、おそらくは最初の1つと対になるよう仕組まれたものだろう。クリームを3段挟んだビスコの如きものである。
続く
正しい乗車で 明るい社内に ぜひご協力を お願いします
などは語呂がよい上に美しい対称性がある。思わず口ずさんでしまいたくなる一文ではないだろうか。
それに続く、*印によって区切られた一文は、前段落までの対称性を破ることで文面(ふみづら)に脈動を与えている。ここまでの区切りのよさを放棄する「つり革(改行)などを」の改行は、一件なげやりなように見えて実は計算づくだ。ここに違和を置くことで「あれ?」と思わせ、もう一度前段落を読み返してみる気にさせる策略である。そう断言する。
最後のブロックはさらにもう一度の振り返りを求めてくる。読むものに謎を投げかけてくる。なぜこの字下げにする必要があったのか。何を狙っての字下げなのか。Ps道者としての私は次のように読んだ。サービスを提供する側である我々がお客様に対して命令することもございます、その時はどうぞ従ってくださいお願い致します、という平身低頭を三文字下げに込めているのではないかと。そは謙譲の具現化である。弱気の現れであり影に鬱憤が抑圧されている。(ここで前段落の*が生きてくる。文頭から前々段落までは4字下げで揃えられていて、最終段落だけ3字下げなので、もし*区切りがなければ下げ数の不一致が目立ってしまう。*区切りがあることで字下げの差異がかき乱され、「だいたいそのへんで揃えている」感じとなってすんなり受け入れることができるのである。そう断言する。
文面の真意はわからずとも、まじまじと見つめ二度三度と読み直してしまったうえに写真まで撮ってしまった時点で負けである。大阪市交通局の大勝利である。その思う壺に嵌ってしまっているのである。
敗北を吹聴し痛みを紛らわせようと思ってこんなことを書いているのではない。文字だけの広告でもここまで読ませることができるのだという見本として提示してみたのである。人の注意を惹くためだけに微笑うアイドルの顔写真を載せ、苦し紛れに小Q数でイメージガール云々とかいうキャプションを載っけたような粗製乱造広告は火に投げ込まれるべきものである。猛省を促したい。第一、テレビ持ってない人間にはアイドルの顔なんか識別でけへんっちゅうねん。誰やねんお前。
雷に打たれたらどんな声を出すだろう、と唐突に考えた。正解はその場になってみなければわからないが、おそらく「あうえ」とか「がっ」とか言葉にならない言葉を発するだろうと想像する。仮にそうなったとして、仮に誰かに聞き取られたりしたら、ちょっと嫌だ。「nagajisの最後の言葉は「おぎょ」でした」とか「電光一閃「ぷぎゅ」と叫んで息絶えた」とか伝聞されるのは恥ずかしい。せめて「生れてきてすみません」とか「もっと光を」とか気の利いた言葉を発して絶命したいものだと思った。誰に聞き取られなくても構わないから。
ちゃんこ屋の向かいが・・・
にゃんこやってん・・・
という話をK氏に振って微妙な空気に包んでしまった。奇妙なポテンシャルの伝道師を自認する者として自らに落第点を付けざるを得ない(認知の歪み)。
キシレンの機械成形煉瓦は前にも上げたことがあったはずだが、よりわかりやすいサンプルを発見した。中央上の凹みが刻印で、小口に対して垂直気味な円弧状の傷が入っている。これが大阪窯業だったら長手から長手に渡る円弧になる。
同上裏側。擦り傷の円弧はこっちのほうがわかりやすいが刻印は入っていない。上の写真も刻印がわかりにくいけどな……。
大阪窯業もそうだが、大会社ほど「これぞ!」というやつが見つからない。刻印/成形跡のサンプルになるようなものが少ない。マスプロダクションに伴う手抜きの現れなのかも知れぬ。
区画整理がいまいちな街なのに古煉瓦を見かけない。あっても刻印なしのIIS煉瓦だ。なんでだろうと訝しく思っていたが、理由は簡単なことで、戦後に駅が設けられ、そこから発展して今のようになったからだった。戦前には何もないところだったのだ。このへんは。
_ nogana [和みますなぁ。右端のジスオが「キモッ☆」とかいってるけど。 和みますなぁ。(疲れてる。)]
_ nagajis [お疲れのようですね.そういう時は空を見ましょう.雲を見ましょう.山を見ましょう.自分とは無関係に世界が回っていることを実感できます.]