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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2013-06-03 [長年日記] この日を編集

[煉瓦][企画] No.2

画像の説明

結構手間がかかっている。拓本を一つ取るのに約20分(霧吹きで湿気らせて紙を貼って半乾きになるまで待って拓本を取り終えるまで)、しわ伸ばしに約5分(霧吹きかけて抑えてつまようじでしわを伸ばして乾燥させて)、裏打ちに約5分(5cm角に切って湿気らせて7cm角の紙を貼って伸ばすまで)と考えても、30分×29個=約900分=約15時間。厚紙を升目に切るのに約1時間(これが結構神経を使う)。糊塗って貼り合わせて乾燥させるのに約1時間。ラベルを切って貼ってに約1時間。以上の作業時間に最低賃金をかけただけで大台に乗ってしまう。拾ってくる手間だとかモルタルを落とす苦労だとか情報整理だとか材料費だとか技術料だとか乾燥させる間強いられる不便な生活の苦労だとかを上乗せする隙などない。

額縁200円。厚紙10枚100円。スプレー糊100円。仙画紙?。湿拓墨。

画像の説明

ウリ:実物から採拓したリアルコピー。これだけ揃っているのはまず存在しない。刻印を記録&ディスプレイするのが目的なので細部に修正を加えてある。ふつうに取ったらこうはならない。この修正にセンスが要求される。

今後の課題:濃度の統一。もうちょっと濃いほうがいい。何枚か取る時にやや濃い薄い普通と3枚ずつ取っておくといい。

紙がなくなったら次は上等な紙を使ってみたい。どんくらい違うんだろ。

[ph.] 大嫌いな写真

画像の説明
地方の衰退ほど哀しいものはない。こんな写真大嫌いだ。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ TUKA [額装したのか! すげー 限定10部 シリアルナンバー入り 一部5000円 で売れそうですね。]

_ nagajis [TUKAさんがそういうのだったらそれくらいなんだろうなあ・・・。最低賃金もくりあできないけど。。。]


2013-06-05 [長年日記] この日を編集

[][煉瓦] 片付けた―>散らかった

とりあえずまとめた。しかしブツのほうの収拾がつかなくなった。せっかく堺煉瓦石だと思ったのに機械整形の三本線が出てくるとは&写真取りそこねた。そのうえK9などという新バージョンも登場。どうしたものか。終わらない。


2013-06-06 [長年日記] この日を編集

[] 片付けた

いい加減どうにかしないといけないので〆ることにした。区切りもいい。欲を言えば耐火煉瓦があと1つ〜3つ見つかれば。赤煉瓦もあと3つ見つかれば加えられる。そんなに都合よく見つかるとも思えないが。しかし歩けば必ず新しいものが見つかっている。これ迄が出来杉なのだろう。

集成を作成し切り(約8MB)、補足資料としての廃読No.39を作成中。大きな補填が必要なのは煉瓦サイズの項目の最後と、できれば耐火煉瓦史。でないと何で修正に耐火煉瓦が入っているのか伝わらない。耐火煉瓦の刻印のバリエーションは大変多く、新しいものも多く、なおかつ激しく流転しているので、赤煉瓦ほどの面白さはないかも知れないが、かえってそんなジャンルだからこそ対比表があらまほしい。どんな刻印があるかいっぺんまとめてみて損はないと思う。して必ずしも戦後のものばかりじゃない。耐火煉瓦は赤煉瓦よりも歴史が古く、のちの産業立国にも大いに役に立った、影の立役者だ。

韮山反射炉。泉布観・造兵工廠。炉材料としてだけでなくボイラーやエンジンの支持材料としても使用。工場にはかなりの確率で採用され、大阪市の特産品であった時期もある。それゆえ転石となったものが多い模様。インテリア・ガーデニングの素材としても使い手がある(ために方々に散ってしまい年代特定には利用し辛い)。マジ炉に使われた場合は消耗材。

明治20年代には岡山県三石での生産が始まる。品川白煉瓦分工場@大阪は伊賀地方の良土を使うため。SKナンバーの意味はわかったがいつ頃から表記しだすのか把握できていない。

[煉瓦] 刻印…?

画像の説明市街地で見つけた新しい煉瓦。これも刻印の一種か。

「日本煉瓦紀行」には樺戸集治監の落書き煉瓦が載ってたっけ。煉瓦を作っている人と「アア暑イ コレモオ国ノタメダ」とか何とかが描かれてるやつ。樺戸じゃなかったっけ。


2013-06-07 [長年日記] この日を編集

[近代デジタルライブラリー][煉瓦] メモ

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1141015/237

三石津久見工場

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/920412/103

丹治煉瓦合資会社は大正元年創業

[近代デジタルライブラリー][煉瓦] 大阪府授産所の位置

類聚大阪府布達全書. 第1編 第3巻 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788317/53

明治六年八月十二日第三百廿三号達 今般産業為引立上本町二丁目旧授産所跡並難波村新川平野町三丁目へ勧業場取開き絹綿織方メリヤス織方仕立縫煉化石製造漉紙養蚕其他百工の職業手広く教授せしめ候条人々力らに食むの旨趣に基き其業に志あるもの男女の差別なく右場所に附きて受業可致事
上本町二丁目/難波村新川/平野町三丁目、なのねえ。煉瓦工場はたしか第二勧業場で、平野は第三なので、たぶん難波村新川が「阪府授産所」の生誕地。藤伝の製革場=煉瓦工場は難波新地六番町で、難波新川を挟んだ反対側(今の南海なんば駅の附近)になる。しかし授産所は難波新地六番町にあったことになっとーる。ま、難波新川=難波新地六番町ということなんやろな。

[近代デジタルライブラリー][煉瓦] 明治大正大阪市史. 第4巻

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1237091/366

ちゃんと書いとるやん。明治5年8月から明治6年8月まで授産所、その後第二勧業場。ここだけは長続きして、明治11年3月に藤伝に払い下げ。

なんば駅の開設は明治18年。なので19年の図には載っていない。まあ、15年に地元に買われているわけだし、そこまで長続きしたわけじゃない。

うん、だんだんわかってきたなー。

三石 大正5年10月27日 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1237091/366

人生の大半の問題はスルー力で解決する -- スルー力研究専門家


2013-06-08 [長年日記] この日を編集

[独言][煉瓦工場] 煉瓦工場のあった街(貝塚煉瓦→大阪窯業貝塚工場)@貝塚市脇浜

画像の説明
煉瓦工場のあった街を歩くのは楽しい。あちこちに古い煉瓦が残されている。川の護岸も煉瓦。溝も煉瓦。小さな地蔵堂も煉瓦。もちろん工場跡地にも。

大阪窯業貝塚工場はもと貝塚煉瓦の工場があった場所だから、市街地には貝塚煉瓦の井桁を見かける。しかし明治40年に大阪窯業に合併されたので総量としては少なく、むしろお隣の岸和田から流入してきた×印のほうが多い。大阪窯業もあるにはあるが、貝塚工場は耐酸舗道特殊煉瓦を製造していたから、赤煉瓦でかつ刻印のあるものは少ないようだ。多い順でいえば岸和田煉瓦>大阪窯業>貝塚煉瓦か。

工場跡地の北東側と南西側に煉瓦壁が残っている。貝塚工場の壁だろう。北東の壁にはぶ厚くて茶色い舗装煉瓦が使われていた。南西の壁には特殊な空洞煉瓦(下写真)。煉瓦4個分くらいの嵩の孔空き煉瓦で、中に空洞が2本通っている。この空洞に6kgレールを入れ、モルタルを充填して横の結着力を強からしめたらしく、その一部が割れて顔を覗かせていた。なるほどこうやって使うのか。そういやこれを空洞煉瓦というのだろうか?軽量煉瓦とどう違う?

画像の説明

軽量煉瓦・耐震煉瓦だったとしたら明治39年から試作を始めている。舗装煉瓦の製造は大正10年以降。T12には舗装煉瓦の製造設備を拡充したと『大阪窯業五十年史』にあるのでその頃かも知れない。しかしこの舗装煉瓦にはディンプルも年号も入っていない。試作品なのかも知れぬ(ということは年号入りようも古い?)。なお煉瓦壁に使われている赤煉瓦はどれも機械整形で刻印がなかった。これこそ大阪窯業の機械整形煉瓦なのだろう。またその一部にスクラッチ入の化粧煉瓦が混じっていた。これも年代特定に使えるかしらん。

舗装煉瓦は非常に厚みがあり、直方体というよりも四角柱を寸切りにしたよう。敷き詰めて使うものだからそのほうが理に適っている。持った時のずっしり感もずいぶん違う。いかにも密度が高くて摩耗しそうにない質感だ。

で、あったらいいなぁと思っていた狙い通りのものが落ちていた。しかし解釈に苦しむブツではある。耐酸煉瓦の製造開始も明治39年。その年12月に貝塚煉瓦の合併が決まり、翌年実施。


2013-06-10 [長年日記] この日を編集

[煉瓦][煉瓦刻印] 清掃修了(大阪窯業舗装煉瓦)

大阪窯業舗装煉瓦

ディンプルの底に溜まったモルタルを取るのに苦労したが、まあ、こんだけ綺麗なったら上出来だろう。

工場内に敷設されていた舗装煉瓦には「1923」の刻印があったそうなのだが(1923=関東大震災の年。この年に貝塚工場は舗装煉瓦の製造ラインを増強している。震災とは関係なく、たまたまこの年から本格化したのではなかったか)、刻印の場所は煉瓦の右隅にであって、こいつにはそれがない。大阪窯業マークの縁の平らな部分も少し狭い。それ以外のディンプルの感じとかサイズとかは中家住宅にあった「1923」と全く同じだ。

この煉瓦をどう解釈したものか悩む。試験用に作られたものとも思えるし、(あとで左隅に入れるようになった)年度を潰して使いまわしたものとも取れる。舗装煉瓦自体は大正9年頃から開発が始められ、同10年には大阪市街や兵庫県の武庫郡役所前などに採用されたという(『大阪窯業五十年史』)。また東京八王子にも舗装煉瓦が残っているが、こちらはおそらく八王子工場で作ったもので、「大阪窯業」「OSAKA YOUGYOU」の文字が入っている。

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/dokai/pdf/07-02-0021.pdf

『道路の改良』第7巻第2号(大正14年2月)。煉瓦舗装の実際。大阪では比較的大規模に煉瓦舗装を採用。霞町玉造線とか九条高津線とか鶴橋線@大阪市都計とか。アメリカのものに比べて靭性が高く、施工の際にハンマーで叩いて表面が剥離することも。施工後も摩耗より薄くはがれる破損のほうが多かったらしく、2年ほどで剥離が目立つ状態になった。道路を横断する伸縮目地を入れた場合には、その目地の前後で傷んだ。また目地に隣り合う煉瓦が目地方向に押し出されて目地が割れる>その後ろの一列が同じように割れる>次々波及するという悪循環が発生。なので伸縮目地は不要という論。

剥離破壊?の原因は機械で押し出すことにより生じるラミネーション現象とされた。機械で粘土を押し出して煉瓦の形にするとき、押し出し口に接している部分と中央部分とで粘土の動く速さが違う(口に接しているほうが遅く中央が速い)ので素地内部に円筒形状の層ができる。衝撃を与えた時にその層で剥離する。抜き出し後にプレスするとかえって層が崩れる?のでよくないとか何とか。


2013-06-11 [長年日記] この日を編集

[] やっと終わった

廃読に思いの外時間を取られた。大和谷は次号に回す。そういや近遺調には1度も出かけてないから書くことがねえ。これも一回休みか、大峰鉱山の件を簡単に書いて終わろう。

書いてすっきりしたかというとそうでもない。解らないことの解明に挑んで、その7割くらいまで進行した時点の途中経過を書いたわけだから(しかも100%解明は不可能だろうし)、もやもやをもやもやのままで提示している。これを膨らませて(自分が)先に進むための叩き台だ。また読者おいてけぼりとか言われるんだろうが、はっきりいって「どうでもいい」。読みたくなきゃ読まなけりゃいいんだ。そのために『廃読』を切り離したのだし誰も読まない第二部に引き篭っているのだ。

年を重ねるにつれて書きたいことが書けなくなってきた。興味が広がれば広がるほど他者と共通する共感事項は薄れていって、だからといって無理に阿ったことを書くのも嫌だ。おべんちゃらひーこひこで生きながらえなければならないほどnagajisの生に価値はない。


2013-06-12 [長年日記] この日を編集

楽しいなァ楽しいなァ


2013-06-13 [長年日記] この日を編集

楽しいなァ楽しいなァ


2013-06-14 [長年日記] この日を編集

楽しいナァ楽しいナァ

引き寄せの法則実践中。ウザがられようとも窯わんさ。もとい鎌○ンさ。

[] 追記

幹事会のついでに図書館に寄って、念のためにと思って近デジに収録されていない統計書を読んだら、そこに重要な情報が3件くらい書かれてた。まさかB.C.H.J.の起源が豊中市にあったとは思わず、成金商社=若井工場だったとも思わず、宮崎商会の出自がわかるとも思わず。ギリギリ入れ込んだせいで発行が遅れること確実になった。あと、和泉煉瓦株式会社・社長田端治平だと勘違いしていた。和泉株式会社なのだ。貝塚煉瓦が大阪窯業に買収されたあと、その社長・田端治平は瓦製造会社を興し直したということ。それはそれで面白い歴史。

大阪府統計書は府立図書館になく市立図書館に揃っているという不思議。市立は古い図書のコピーの制限がないのが有り難い。あ、機械の写真さしかえなきゃ。

[煉瓦] 煉瓦製造業@高砂市

大正〜昭和期に煉瓦製造業がぽこぽこぽこぽこ勃興した印南郡。すでに調べられているかと思い、図書館に尋ねてみたが、高砂市史近現代編は現在絶賛編集中なのだそうだ。工場の正確な位置も不明。一部の煉瓦工場は戦後も操業していたらしく、そういうところは現地で聞けばわかるかも、という話だった。しかしなあ・・・中筋村とか伊保村とか阿弥陀村とか言っても結構範囲広いのだよね。位置特定まで到れるかしらん。

とかいいながら、一部工場については地番まで書かれているのがあったことを思い出した。大正煉瓦、関野煉瓦、中播合同煉瓦、あともう一つ。それが現在の地番と一致する保証はないけれどもアテにはなるだろう。この地域は中世には瓦製造・土器製造が盛んだったそうだ。それが明治時代をスルーして大正期に煉瓦生産が興るのは不思議かも知れない。

[煉瓦工場] 岸和田煉瓦パンフと岸和田の街(岸和田煉瓦本社)@岸和田市並松町,上野町

画像の説明

画像の説明
大正6年頃に作っていた煉瓦(機械整形)は、抜きの潤滑に油を使っていて、 それによって表面が緻密に仕上がり水を吸わないとされていたらしい。同社パンフでは「油抜煉瓦」とかなんとか表現されていた。手元にあるのはかなりよく焼けた色をしているがえらく水を吸う。製造時期が違うのかな?

そんな岸和田煉瓦のあった街。確かに立派な煉瓦壁があったり煉瓦製の「うだつ」があったりしたのだけれども、 貝塚に比べると少ない印象がした。結構細かく裏道を歩いたつもりなのだが「おお!」という発見には至らず。工場跡がすっかり改変され(跡地に建てられていた温泉リゾート施設は現在絶賛解体中。大阪窯業敷地もその駐車場となってアスファルトの下だ)ているうえ、街全体がずいぶん改まっている感じだ。

見つかった刻印は岸和田煉瓦のペケ印一色。びっくりするほどキシレンしかない。見る煉瓦見る煉瓦すべてペケ印、刻印がないのは機械整形。あ、ペケ印云うたら怒られるんかな。初代社長の山岡尹方は敬虔なクリスチャンで (以前TUKAさんが探していた岡部長職が洗礼のきっかけになった。新島襄を紹介されたのだ) 、社章もキリスト教のセントアンドリュースクロスから取ったそうだ。だから同志社大学に岸和田煉瓦が使われているわけなのだな。このへんは以前こけさんが指摘してくれたことが全面的に正しい。以上入れ込む暇がなかった情報。

書き直す時は工場の系譜を軸に書くとよさげだ。全面的に推測と断って。研究ノートとして。ノートは確か枚数制限が厳しい筈だがうまくやろう。

廃れてしまった産業のことをいまさら掘り下げても、世の中の99.9%の人には役に立たないが、自分には面白い。自分が面白いと思うことをやらないでこのクソッタレな世界を生きる価値があるもんかってんだ。その認識は今に始まったことじゃないが。

[独言] 37.9℃

暑い暑いと思っていたがそこまで上がっていたとは思わなかった@豊中市。ここの気温測定装置は伊丹空港の辺りにあるからなおさら高く出るのかも知れない。滑走路のアスファルトの照り返しがあるうえに内陸部。。。猪名川のそばとは言え風がそこまで上がってくるようには思えぬ。

ハッ、うちが暑いのは伊丹空港のせいかッ!

[料理] 焼きうどん

最近焼きうどんばかり食べている。4玉98円と安い上に簡単に作れてお腹いっぱいになれるから。焼きうどんの味付けはずっと醤油味だとばかり思っていたが、ある時焼きそばソースを使ってみていたく瞠目して以来ソース味派になっている。テフロンの禿げたフライパンで作っても焦げ付かないのがまずいい。焼きそばほどしつこくもならない。野菜だけ先に炒めて皿にあけ同じフライパンでうどんを茹でて水洗いして一緒に炒めてというスキームも確立できた。てなわけでソース味の焼きうどんおすすめ!と誇らしげに語ったら、それが世の中のアタリマエであったことを聞かされて若干悄気た。しかしソース味の焼きうどんはうまい。これに野菜を入れて溶き卵を落としてもいい。すき焼き風味のような、そうでないような未知の味わいになる。野菜はなんでもいい。いまの時期はゴーヤがうまい。しかしマヨネーズは入れないほうがいい。

[独言] 煉瓦雑感・感情移入

手整形のは特にだが、煉瓦を見ていると「どうやって作ったんだろう」と思って止まなくなる。何だって感情移入はできるだろうけれども手整形の煉瓦ほど人間味のある工業品はない。壁に塗り込められて見えなくなってしまうものだから適度に手抜きがある。刻印も「とりあえず押せばいいんだろ」的な適当なものが多い。ピシッと正しく押されたものに出会うとうれしくなる。

右か左かに偏った(深さが均等でない)刻印から、作業者の利き腕や作業時の位置がわかるんじゃないかと思っている。右利きであったら右斜め上から左斜め下に向かって振り下ろされることになるので右側が深くならないような向きに煉瓦と正対すると、それが作業時の煉瓦の配置になる。

大阪窯業や★刻印など天地がはっきり区別できる刻印なら、その刻印の方向と刻印の偏りとで作業の流れが読めるんじゃないか。刻印を天地逆に押すことはないだろうから、刻印が正しく見える向きが即ち作業時の配置。★刻印煉瓦の溝は★の下側についていたから、やはり先に裏面に刻印を打ってひっくり返したということになる。

刻印が長手と直角に押されていることは意外と少ない。どちらかに傾いていることが多い。これも、目の前にある煉瓦に無意識的に刻印を打ったためだろう。人間の腕は体の左右についているから、体の正面にあるものに手を伸ばすとまっすぐにはならない。

焼く前の煉瓦は柔らかい。その柔らかい煉瓦を移動させるのはちょいとばかし工夫が要る。特に長手や小口を触らずに動かすにはどうしたらいいか(煉瓦は小口や長手を見せるように積むのが基本なので、そこに手形がついたりしたら商品にならない)。煉瓦の重さは一個2kgくらい。焼く前の水分を含んだ状態ならなおさら重い。別の板の上に抜いて、板ごと運べばいいわけだが、最後までその状態ではなかった。どこかで積み上げておかないと乾燥場が足りなくなる。

煉瓦は焼くと収縮する。その収縮したサイズが東京型や並型の規格に合わなければならないわけで、それを見越して型枠を(素地を)大きく作っておく必要があった。そのアワイはどうやって決められていたのだろう。どれぐらい収縮するかとか、土の配合でどれくらい変わるかとか、わかってたんだろうか。 何か経験則があったのだろうか。

手整形の煉瓦は全体的に下向きに反っていることが多い。裏面と表面とで収縮の差があったらしい(表面のほうが収縮しやすい)。やはり詰める粘土の密さが違うからだろうか。下にある粘土ほどよく押し付けられて密になる。上の方の粘土はそこまで押さえられない。上から押し込む行為がある種のラミネーション現象を起こす可能性も考えられる。二度三度と粘土を足すとその足し目で若干の違いが出てきそうな気がする。

煉瓦は必ずしも全てに刻印が押されたわけではないらしい。樽井煉瓦跡に残されていたへっつい用煉瓦は刻印ありと刻印なしとが半々くらいの割合だった。平を見せて積むこともあるのだから、その時のためにわざと無刻印のを用意したのかも知れない。作業者全員に同じ刻印を用意するのはそれなりに手間だし、何万個も打っていたら摩耗もしただろうから、時には打てない煉瓦もあったんじゃなかろうか。結局のところ刻印はその会社の宣伝目的という側面もあったのだから、例えばまとまった数を受注し納品するような場合には押さなくても困りはしなかったはず。なんなら他社から買い漁って数合わせてもいい。購入する側にとってみれば必要なサイズの煉瓦が必要な数あればいいわけだからな。

明治30年代、大阪窯業は小売をしなかった。堺煉瓦や貝塚煉瓦は小売もした(卸売業者に販売?)。建物の基礎や屋敷境界の煉瓦壁だと複数社の刻印が混じっているのが普通で、卸売業者を介した購入だったからではないか(業者の倉庫で混じってしまうというパターン)。少なくともその都度工場から買ったようには思えぬ。そんな小さな工事で。

明治30年代の後半にはすでに煉瓦の小売業者が存在した。土木請負会社もあちこちから買ったのかも知れぬ。一社だけだとリスキーだから。あるいは仕上げ用と根敷のような3級品4級品とで会社を使い分けたか。薬水橋梁も見えにくいところには雑な作りの堺煉瓦が使われている。表はよく焼けた色の揃った赤煉瓦が使われている。

あと、機械式の煉瓦製造機も明治の終わり頃には国産化されていたらしい。正確な名前と年度を忘れてしまったがそんな機械製造会社の名前を見た覚えがある。普及したかどうかはさておき。

機械整形は「練り」に機械力を使ったところに注意しなければならない。切断はあくまで手作業。本質は「練り」の機械化。割れた手整形煉瓦の断面を見ると、赤っぽい土と白っぽい土とが明確な層状を呈した状態で焼かれていることが多い。よく混じっていない証拠。機械式だとより均等に混ざり強度も高くなる。はず。

機械整形のちりめんじわがモルタルの付着力を高めるという話があったが、実際にそれを剥がしてみた経験から言うと、それほど大差ない感じがする。むしろモルタルの質に大きく左右される。滅法固くてうまくはつれないこともあればサクサク削れてしまうこともあり、モルタルの一部だけしつこく残ることもある。硬化の進み具合だとか養生の仕方とか砂砂利セメントの比とかでも変わってくるものと思う。

昭和初期(大阪窯業五十年史編纂の頃)に敷設された舗装煉瓦にはディンプルがない。かわりに横一文字に溝のついたものが坂道用として作られていた。これは京都の四条大橋(だったっけ)の橋詰めなどに使われている。ノーマルのは大阪の卸売市場の構内に大量に使われた。またこの頃の舗装煉瓦には側面に刻印があった模様。貝塚工場の煉瓦壁のには見られなかったな。

先日見かけた穴の空いた煉瓦は「ホロータイル」が正式名称。漢字では空洞煉瓦。軽量煉瓦、空洞煉瓦はいまもJIS規格にある。軽量煉瓦は小さな孔をたくさん開けたもの。空洞煉瓦は2〜3個の大型の孔。貝塚工場近くの民家の軒下に3個穴の空洞煉瓦があったな。あれも大阪窯業製かも知れぬ。刻印はなかったはず。ホロータイルは耐震性を持たせるために考案されたが煉瓦そのものへの忌避感からあまり売れなかったらしい。実際の効果もあんまりだったかも(だって貝塚工場のは横目地で割れて倒れてるんだもの。縦の接着力は普通の煉瓦と同じで、其の点では金森の鉄筋煉瓦のほうが効果的だった)。むしろ化粧タイルとかスクラッチタイルだとかのほうが売れた。綿業会館のも大阪窯業製。化粧タイルはおもに向日町工場にて作成。

金森の鉄筋煉瓦も大阪窯業が製品化。実際に使われた構造物がいくつかある。関東のほうばかりだった気がする。辰野金吾?妻木頼黄?の耐震工法はホロータイルのに似ていて、煉瓦積み何段かに一段鉄板を挟んで、それを鉄筋と固定するというやり方だった。横浜開港記念館の冊子に写真がある。

煉瓦に温かみが感じられるというが、その感覚は正直よくわからない。ノスタルジアがそう思わせるだけなんじゃないか。当時は文明開化の象徴であり権威の象徴だったのだから温かみも何もない。人を威圧するため誇るために煉瓦を使ったのだ。作っているほうだって過酷な重労働だった。「いいものだ」と思って作っていた人なんていないんじゃないか。汚れてしまうと急におどろおどろしさが出るしな。それはコンクリートでも一緒か。

古い市街地では石梁を道路側溝の縁石に使っているところが多い。十三の駅周辺とか貝塚とか。規格がほぼ一緒なのが興味深い。それが最初の排水溝の企画で、阪急岡町のようなのはコンクリートになるまでの過渡期のものだったかも知れない。石梁溝は深さが煉瓦一個or二個分ほど。その下に煉瓦を埋めているところもあった(表面はコンクリで覆われているが枡のところで断面が見えている)。そういえば出入橋の下手の阪神高速下道路でも排水渠の主構造に煉瓦が使われていたな。下水周りはとかく煉瓦が多用されている印象。


2013-06-15 [長年日記] この日を編集

楽しいなあ楽しいなあ

楽しそうさが足りないな。音符でもつけてみるか。

楽しいな♪楽しいな♬楽しいな♭楽しいな♯

うん、若干楽しそうだ!

[独言] カテゴリ名を設定しないと変になる

昔よく歌の歌い出しに書いていた折れ線の記号って、あれって一体何だったのだろう。そういう楽譜記号でもあるのだろうか。「きごう」で変換しても出てこない。

Androindのデフォルトフォントにはいろんな機種依存記号が入っているのだな。テープドライブ”✇”とか使う機会があるのだろうか?

履歴書を書いている時ほど情けなさを感じる時はない。いかに無駄な、無意味な人生を送ってきたか身につまされる。 誰からも必要とされない人間であることを再確認するために書いているようにも思える。そういう人生しか送れないからこそ底辺にいるのだし、そうでありながらしかし数年間は生きて来れたのだから万々歳なんじゃないかしらん。よくここまで頑張った。あとは何十年も前から約束された結末に向かってゆるゆるだらだらと流されていくだけだとしても、ここまで頑張ったことをとりあえずは褒めておいてやろう>nagajis。お、まだ少しは前向きにものを考えられているらしいな。

カシミール3Dが起動しないせいで最後の一枚が作れない。びっぐしっとである。とーたりーあびっぐしっとである。いくら再インストールしても治らないところをみると中枢のサーバがおかしいらしい。こういう時「どいつもこいつも寄ってたかって邪魔しやがって」などと思わないほうがいい。思ったところでイライラが解決されるわけじゃないからな。むしろ、予め発行延期を宣言していたことを「しめた」と思うべきだな。うん。しかし明日明後日に解決するという保証はないぞ。はてどうするか。目測でそれっぽいのを作成するのか。

以前からDVD-RAMメディアが品薄になってきているのを痛感していたが本格的にヤバくなってきた。行きつけの店の店頭から消え失せ、あちこち回ってやっと一軒置いている店を発見した。ここも在庫がなくなればどうなることか。Amazonにはまだ豊富にあるけれどもなあ。そもそも円盤メディアでバックアップするなんてのが時代錯誤なのかも知れない。保存にも取り出しにも時間がかかるのでホントにバックアップしただけで終わっている。データの再利用ができてない。これなら機械的な故障を前提条件として受け入れて外付けHDDに入れたほうがいいのではないか。バイト単位の単価もそのほうが安上がりだろう。

[料理] 回鍋肉饂飩

迂闊にもソースが切れかけであるのを忘れたまま焼きうどん作りを始めてしまい困惑した挙句甘味噌味仕立てにすることを思いついて実行した結果出来上がったものは回鍋肉に饂飩が入ったけったいなもの。美味かったので何の問題もないのだが次をどうするか考えものだ。おとなしくご飯にふりかけかけて食え。ふりかけだって米だって贅沢な食べ物だぞ。

[コアダンプ] 必要以上の言葉と

ナントカ。そのナントカが思いつくようで思いつかない。無駄なもの。よけいなもの。redundunt。annoyance。蛇足は常にやるので悪くは言われない。しかしそういうものこそ不必要なんだろう。5W1Hだけで書いてみたらそれはそれですっきりするかもよ。

「信念」はしっくり来る。興味のない人間の信念ほど要らないものはない。尊重してもらえる、なんて希望的観測もいいところだからな。だけどもそれを捨ててしまったらそれこそなあんも残らないからな。

「説明」でもよい。けれども言葉と近し過ぎる。端的な説明は難しい。それは誰もが知っているだろうから+αになることを、というのは誰もが持つ老婆心であり欲であるだろう。あれ、結局どっちもうざったいか。耳障りのいい口当たりのいい食べ慣れた知っている味。ほうれん草の白和えよりもコーラとか吉牛とか。つまらない話だ。

「説明」っていう姿勢だけで拒絶反応を起こされる。知りたくもないことを説明されると思われる。上司の朝礼だとか校長先生の談話とか。けれどもさ、そういうのの中から何かを引き出すことができるようになれば、無駄な時間は減るのだよね。っていう説明もnegられたんじゃあやってけない。

「間」。間の使い過ぎはよろしくない。一文一行の時代小説みたいで。間は大事だがわざと使えるほど/使いこなせるほど達者じゃないものなー

上を見ればきりがなく、下を嗤おうにも底抜けで、かといって横には誰もいないから同意を求めることさえできない。そんな状況で、足元に転がる石の姿形や雲の流れ行くさまに心動かされたり草の色合いを確かめたりして湧いてきた思いを、さてどうするか。穴でも掘って埋めておくのがいちばん無難なんだろうがな。

ことばは喰えぬ。喰えぬはことば。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ ずーるー [>歌の歌い出しに書いていた折れ線の記号 庵点(いおりてん)の事でしょうか? http://ja.wikipedia.org/wiki/庵点]

_  [〽 役物、ユニコードなら表示出来るのか♫♩ ♠♦♥♣←こんなので40桁25行だった時代を思い出してみたり……]

_ どこかの中の人 [機種依存記号... そうですね、「テープドライブ」はMacの文字集合由来ですね(MacDingbats)。それがUnicodeに収録されたのでAndroidでもサポートされている感じですかね。 庵..]


2013-06-17 [長年日記] この日を編集

楽しいナァ!

ナイキスケートボードシューズのケースです。 使用される3つの靴はエアマックス90らしく、眼(ま)ばたき を一つした。 「しかし、英雄の器(うつわ)じゃありません。その証拠は、やはり今日の戦ですな。烏江(うこう)に追い つめられた時の楚の軍は、たった二十八騎です。雲霞(うんか)のような味方の大軍に対して、戦った所が、 仕方はありません。それに、烏江の亭長(ていちょう)は、わざわざ迎えに出て、江東(こうとう)へ舟で渡 そうと云ったそうですな。もし項羽(こうう)に英雄の器があれば、垢を含んでも、烏江を渡るです。そうし て捲土重来(けんどちょうらい)するです。面目(めんもく)なぞをかまっている場合じゃありません。。 あ なたはただ、これらの施設に子供をドロップにも縄目(なわめ 乾燥は摂氏50から80度で発生します光沢のある ダイヤル


2013-06-19 [長年日記] この日を編集

完全なテキスト置き場。を少し整理した

[近代デジタルライブラリー][煉瓦] 兵庫

○兵庫県管内工場一覧. 昭和2年12月末日現在

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146093/19

・旭硝子株式会社尼崎工場

尼崎市大洲村

明治40年9月

耐火煉瓦製造業

山田直一

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146093/43

・中播煉瓦株式会社西神吉分工場

西神吉村

大正5年5月

赤煉瓦製造業

小田千代蔵

・播陽窯業株式会社

別所村北宿

大正8年11月

赤煉瓦製造業

渡邊市太郎

・山本窯業所

伊保村北宿

大正14年4月

赤煉瓦製造業

山本栄太郎

・和田窯業所

伊保村中筋

大正8年4月

赤煉瓦製造業

若田好一

・関野煉瓦製造所

曽根町

大正5年5月

赤煉瓦製造業

関野与平

・大正煉瓦株式会社曽根工場

曽根町

大正6年5月

赤煉瓦製造業

門川棄三郎

・中播煉瓦株式会社

曽根町

大正5年5月

赤煉瓦製造業

小田千代蔵

・加藤耐火煉瓦会社

飾磨町

明治29年5月

耐火煉瓦製造業

神崎徳

・http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146093/45

西播煉瓦株式会社

香呂村香呂

大正6年10月

東京式赤煉瓦製造業

伊賀徳三郎

・http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146093/46

(「清)姫路煉瓦所

旭陽村

大正11年7月

煉瓦製造業

見満清太郎

・http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146093/48

三石耐火煉瓦株式会社那波分工場

赤穂郡那波村

大正12年11月

耐火煉瓦耐火モルタル製造業

明石三二

○兵庫県工場一覧. 昭和13年12月末日現在

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116422/6

伊久留化学工業研究所

神戸市灘区味泥町1丁目

昭和8年3

煉瓦及耐火物製造業

耐火煉瓦

伊久留親之助

・石田アス煉瓦製造所

神戸市灘区味泥町3丁目

昭和10年4月

煉瓦及び耐火物製造業

アス煉瓦

石田雅喜

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116422/33

・吉野硬化煉瓦製造所

尼崎市難波新町

昭和11年6月

煉瓦及耐火物製造業

硬化煉瓦

吉野悦二

・マグネシヤ工業株式会社

尼崎市築地南浜

大正9年6月

煉瓦及び耐火物製造業

マグネシヤ並型煉瓦

吉田貫太

・尼崎市耐火煉瓦製造所

昭和北通

昭和10年8月

煉瓦及び耐火物製造業

耐火煉瓦

東阪正春

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116422/46

・伊丹煉瓦製造所

川辺郡伊丹町

昭和9年12月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦

武田末太郎

・http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116422/48

日の本窯業株式会社

有馬郡本庄村四ツ辻

昭和11年4月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦

熊本義雄

・http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116422/67

日本炉材製造株式会社高砂工場

加古郡荒井村荒井

昭和13年6月

煉瓦及び耐火物製造業

硅石煉瓦

加藤孝治

・http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116422/68

伊藤窯業株式会社

印南郡曽根町

昭和7年9月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦

伊藤窯業株式会社

・大正煉瓦曽根工場

曽根町

大正6年5月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦石

糟谷集次

・関野煉瓦製造所

曽根町

大正5年5月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦

関野広吉

・和田煉瓦株式会社

印南郡伊保村中筋

昭和2年7月

煉瓦及び耐火物製造業

煉瓦

和田煉瓦株式会社

・播州煉瓦合同株式会社

伊保村中筋

昭和3年11月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦

播州煉瓦合同株式会社

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116422/69

・播州煉瓦合同株式会社岸工場

印南郡西神吉村岸

昭和3年11月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦

高谷耕司

・大正煉瓦株式会社阿弥陀工場

印南郡阿弥陀村阿弥陀

大正9年3月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦

糟谷集次

・弘栄煉瓦製造所

印南郡阿弥陀村魚橋

昭和6年12月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦

高谷克巳

・加藤耐火煉瓦株式会社

飾磨郡飾磨町細江

明治29年5月

煉瓦及び耐火物製造業

耐火煉瓦

神崎徳

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116422/71

・東山工業所

飾磨郡四郷村見野

大正7年3月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦セメント瓦

赤藤松二

・http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116422/73

豊国耐火工業株式会社

神崎郡粟賀村中村

昭和13年1月

耐火煉瓦製造業

耐火煉瓦

佐々木喜三郎

・東亜耐火工業所

香呂村香呂

昭和12年9月

耐火煉瓦製造業

耐火煉瓦

天城観乗

・http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116422/77

三和窯業株式会社赤穂工場

赤穂町真島

昭和11年3月

煉瓦及び耐火物製造業

耐火煉瓦

三和窯業株式会社赤穂工場

・三石耐火煉瓦株式会社那波工場

赤穂郡相生町那波大避

大正12年8月

煉瓦及び耐火物製造業

耐火煉瓦

万波章太郎

○兵庫県統計書. 明治37年

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807363/647

藤原耐火煉瓦

耐火煉瓦

飾磨郡飾磨町

明治31年2月

職10/2

○兵庫県管内工場一覧. 昭和3年12月末日現在

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146097/19

旭硝子株式会社煉瓦工場

尼崎市大洲村

明治40年9月

煉瓦製造業

采野善治郎

・マグネシヤ工業株式会社

尼崎市築地町

大正8年6月

マグネシヤ煉瓦製造業

吉田貫太

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146097/33

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146097/42

・播州煉瓦合同株式会社曽根工場

印南郡曽根町

大正5年5月

煉瓦製造業

高谷耕司

・関野煉瓦製造所

曽根町

大正5年5月

赤煉瓦製造業

関野与平

・大正煉瓦株式会社曽根工場

曽根町

大正6年5月

赤煉瓦製造業

門川棄三郎

・和田煉瓦株式会社

伊保村中筋

昭和2年7月

煉瓦製造業

田中政吉

・播州煉瓦合同株式会社中筋工場

伊保村中筋

昭和3年11月

煉瓦製造業

高谷耕司

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146097/44

・中播煉瓦株式会社西神吉分工場

西神吉村

大正3年5月

煉瓦製造業

小田千代蔵

・原田商会

印南郡阿弥陀村

大正6年2月

煉瓦製造業

原田貞作

・大正煉瓦株式会社

阿弥陀村

大正9年9月

煉瓦製造業

門川棄三郎

・播陽窯業株式会社

別所村北宿

大正8年11月

煉瓦製造業

渡邊市太郎

・加藤耐火煉瓦株式会社

飾磨町細江

明治29年5月

煉瓦製造業

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146097/46

・西播煉瓦株式会社

香呂村香呂

大正6年10月

伊賀徳三郎

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146097/48

・三石耐火煉瓦株式会社那波分工場

赤穂郡那波村

大正12年8月

煉瓦製造業

明石三二

○兵庫県工場一覧. 昭和9年12月末日現在

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116402/20

・マグネシヤ工業株式会社

尼崎市築地南浜4丁目

大正9年6月

煉瓦及び耐火物製造業

マグネシヤ煉瓦

吉田貫太

・旭硝子株式会社煉瓦工場

尼崎市西向島町

大正5年8月

煉瓦及び耐火物製造業

耐火煉瓦

采野善治郎

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116402/31

・伊丹煉瓦製造所

伊丹町大鹿

大正3年3月

煉瓦製造業

赤煉瓦

武田末太郎

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116402/49

・伊藤煉瓦株式会社

印南郡曽根町

昭和7年9月

煉瓦製造所

伊藤重吉

・関野煉瓦製造所

印南郡曽根町

大正5年5月

関野与平

・大正煉瓦株式会社曽根工場

印南郡曽根町

大正6年5月

煉瓦製造所

糟谷集次

・和田煉瓦株式会社

印南郡伊保村中筋

昭和2年7月

煉瓦製造業

和田煉瓦株式会社

・播州煉瓦合同株式会社

伊保村中筋

昭和3年11月

煉瓦製造業

石原勝博

・播州煉瓦合同株式会社岸工場

印南郡西神吉村岸

昭和3年10月

煉瓦製造業

高谷耕司

・大正煉瓦株式会社阿弥陀工場

阿弥陀村阿弥陀

大正9年3月

松下「逓-之繞」助

・弘栄煉瓦製造所

阿弥陀村魚橋

昭和6年12月

弘栄煉瓦製造所

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116402/51

・加藤耐火煉瓦株式会社

飾磨町細江

明治29年5月

煉瓦及び耐火物製造業

窯業

神崎徳

・東山工業所

飾磨郡四郷村見野

大正7年3月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦

赤藤松二

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116402/55

・西播煉瓦株式会社

香呂村香呂

大正6年10月

煉瓦製造業

煉瓦

伊賀徳三郎

・清水煉瓦合資会社

揖保郡神岡村東「嘴-口」崎

大正6年1月

煉瓦製造業

赤煉瓦

清水覚治

・三石耐火煉瓦株式会社那波工場

赤穂郡那波村那波

大正12年8月

煉瓦及び耐火物製造業

耐火煉瓦

万波章太郎

○兵庫県工場一覧. 昭和4年12月末日現在

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146099/32

・マグネシヤ工業株式会社

尼崎市築地南浜通4丁目

大正8年6月

煉瓦製造業

マグネシヤ煉瓦

吉田貫太

・旭硝子株式会社煉瓦工場

尼崎市西向島町

明治40年9月

煉瓦製造業

耐火煉瓦

山田直一

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146099/52

・伊丹煉瓦製造所

伊丹町大鹿

大正14年12月

煉瓦製造業

普通煉瓦

武田長蔵

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146099/84

・播州煉瓦合同株式会社本工場

印南郡曽根町

昭和3年1月

煉瓦製造業

普通煉瓦

高谷耕司

・大正煉瓦曽根工場

曽根町

大正6年5月

煉瓦製造業

普通煉瓦

糟谷集次

・関野煉瓦製造所

印南郡曽根町

大正5年5月

煉瓦製造業

普通煉瓦

関野与平

・和田煉瓦株式会社

伊保村中筋

昭和2年7月

煉瓦製造業

普通煉瓦

和田煉瓦株式会社

・播州煉瓦合同株式会社中筋工場

伊保村中筋

昭和3年11月

煉瓦製造業

普通煉瓦

原義雄

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146099/88

・播州煉瓦合同株式会社岸工場

印南郡西神吉村岸

昭和3年

煉瓦製造業

普通煉瓦

高谷耕司

・大正煉瓦阿弥陀分工場

印南郡阿弥陀村阿弥陀

大正9年5月

煉瓦製造業

普通煉瓦

松下虎助

・合名会社原田商会工場

印南郡阿弥陀村魚橋

大正6年12月

煉瓦製造業

普通煉瓦

原田貞作

・播州煉瓦合同株式会社別所工場

別所村北宿

昭和3年11月

煉瓦製造業

普通煉瓦

高谷耕司

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146099/91

・加藤耐火煉瓦株式会社

飾磨郡飾磨町細江

明治29年5月

煉瓦製造業

耐火煉瓦

加藤耐火煉瓦株式会社

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146099/92

・東山工業所

飾磨郡四郷村見野

大正14年4月

煉瓦製造業

普通煉瓦

赤藤松二

・西播煉瓦株式会社

香呂村香呂

大正6年11月

煉瓦製造業

普通煉瓦

伊賀徳三郎

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146099/101

・清水煉瓦合資会社

揖保郡神岡村東「嘴-口」崎

大正4年5月

煉瓦製造業

普通煉瓦

清水覚治

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146099/106

・三石耐火煉瓦株式会社那波分工場

赤穂郡那波村那波

大正12年8月

煉瓦製造業

耐火煉瓦

明石三二

○兵庫県工場一覧. 昭和10年12月末日現在

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116407/32

・伊丹煉瓦製造所

川辺郡伊丹町大鹿

昭和9年12月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦

武田末太郎

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116407/35

・明石陶管合資会社

明石郡魚住村中尾

昭和8年7月

煉瓦及び耐火物製造業

煉瓦

明石陶管合資会社

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116407/51

・伊藤窯業株式会社

印南郡曽根町

昭和7年8月

煉瓦製造業

赤煉瓦

伊藤重吉

・大正煉瓦株式会社

印南郡曽根町

大正6年5月

煉瓦製造業

糟谷集次

・関野煉瓦製造所

印南郡曽根町

大正5年5月

煉瓦製造業

関野広吉

・播州煉瓦合同株式会社

印南郡伊保村中筋

昭和3年11月

煉瓦製造業

赤煉瓦

播州煉瓦合同株式会社

・和田煉瓦株式会社

印南郡伊保村中筋

昭和2年7月

煉瓦製造業

和田煉瓦株式会社

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116407/53

・播州煉瓦合同株式会社岸工場

印南郡西神吉村岸

昭和3年10月

煉瓦製造業

赤煉瓦

高谷耕司

・大正煉瓦株式会社阿弥陀工場

印南郡阿弥陀村阿弥陀

大正9年3月

煉瓦製造業

煉瓦

松下「逓ー之繞」助

・弘栄煉瓦製造所

印南郡阿弥陀村魚橋

昭和6年12月

煉瓦製造業

赤煉瓦

高谷克巳

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116407/54

・東山工業所

飾磨郡四郷村見野

大正7年3月

煉瓦及び耐火物製造業

赤煉瓦

赤藤松二

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116407/57

・西播煉瓦株式会社

香呂村香呂

大正6年10月

煉瓦及び耐火物製造業

煉瓦

伊賀徳三郎

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116407/58

・清水煉瓦合資会社

揖保郡神岡村東はし崎

大正6年1月

煉瓦製造業

赤煉瓦

清水煉瓦合資会社

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116407/60

・三石耐火煉瓦株式会社那波工場

赤穂郡那波村那波

大正12年8月

煉瓦及び耐火物製造業

耐火煉瓦

万波章太郎

[近代デジタルライブラリー] メモ

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1073080/24

S13和歌山市勧業統計要覧 煉瓦生産量あり

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1028819/12

JES規格 普通・空洞・耐火 215x65x105ってのは目地を入れずに敷き詰めるため

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780112/170

日本全国諸会社役員録 明治26-から。株式会社以上? 役員等

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956899/238


2013-06-20 [長年日記] この日を編集

[煉瓦][] 相坂隧道

画像の説明

西播煉瓦製造会社社長の名前がある。確か西側が上がれる。笠石に平が露出。3年前にKateさんに連れてってもらった時に確認しとけばよかった。

[煉瓦] 兵庫印南郡メモ

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00060448&TYPE=HTML_FILE&POS=1 。大正14年の記事。

山陽窯業>印南郡伊保村中筋・中筋煉瓦株式会社(山本)+飾磨郡四郷村見野・東山工業所(赤藤)とあるが中筋煉瓦ってのは存在しない。=山本窯業所。和田煉瓦は別にあるので中筋工場=山本窯業所=播州煉瓦合同になったはず。

その前に棲森煉瓦が挟まっている(S3)。棲森煉瓦の社長は播州煉瓦合同の所有者と同じ(S4以降)。しかし本工場は曽根。もと中播煉瓦曽根工場。やっぱり全部追わないと無理だな。うんこたっぷりのぱずるだ。

山陽窯業の中筋の工場は中播煉瓦に発祥か。明治28年創業。のちに西神吉村に移る? 印南郡誌 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1880087/208 は煉瓦工場パンデミックの前(T2)であまり役に立たず。

発祥だとしたら結局中播から分かれた山陽窯業が元のさやに収まったことになる。東山工業所だけ別になって。しかし「ヲ」ってなんやねん。Amida Brick Company でABCなのはよくわかるが。

曽根町勢要覧 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1875475/14 番地が解ってもこまるのである。

兵庫県会社一覧は昭和15年まである。印南郡で検索。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956901/1225

三重県は軒並みわかるのだなあ。悔しいなあ(何が

[煉瓦][近代デジタルライブラリー] 滋賀奈良和歌山

○全国工場通覧. 昭和7年7月版

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212137/281

中川煉瓦製造所

滋賀県蒲生郡岡山村

明治16年4月

煉瓦

中川市三郎

江州煉瓦株式会社山田工場

滋賀県栗太郡山田村

明治44年6月

煉瓦耐火物

上田元治郎

江州煉瓦株式会社

滋賀県栗太郡物部村

大正7年10月

煉瓦

和歌山煉瓦製造所

和歌山県和歌山市太田

大正5年5月

東京型煉瓦

吉村吉太郎

西村瓦工場

奈良県添上郡帯解町

明治44年2月

煉瓦

西村ハナ

大和煉瓦稲田工場

奈良県添上郡帯解村

大正10年5月

煉瓦

稲田修二

○滋賀県統計全書. 明治19−21年度

湖東組

蒲生郡船木村

明治19年6月

職工3000人、雇人300人(明治21)

収入9800、支出8640

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807255/84

○滋賀県統計全書. 明治22年度

湖東組

煉化石製造

蒲生郡八幡町

明治19年6月

資本金10000、払5900、職13

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807256/123

○滋賀県統計全書. 明治23年度

湖東組

煉化石製造

甲賀郡岡山村大字舟木

明治19年6月

資本金3150、払3150、職115

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807257/126

○滋賀県統計全書. 明治24年度

湖東組

煉化石製造

蒲生郡岡山村大字船木

明治19年6月

資本金5000、払5000、職22

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807258/142

○滋賀県統計全書. 明治25,26年度

湖東組

煉化製造

蒲生郡岡山村大字船木

明治19年6月

資本金4000、払3500、職20

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807259/163

○滋賀県統計全書. 明治30年度

杉本煉瓦製造場

煉化石

甲賀郡寺庄村大字葛木

杉本喜三郎

明治21年1月

職26/10

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807260/112

31年度なし

○滋賀県統計全書. 明治32年度

田中煉瓦製造場

煉化

栗太郡瀬田村大字南大萱

田中宇兵衛

明治17年7月

職15/5

33年度なし

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807263/1

34年度読めず

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807264/92

37年なし

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807267/1

○滋賀県統計全書. 明治38年度

田中煉瓦製造所

職13/3

明治14年7月

栗太郡瀬田村

田中治三郎

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807268/117

栗太郡3、甲賀郡1,蒲生郡3

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807268/124

○滋賀県統計全書. 明治39年度

田中煉瓦製造所

職10/2、

明治14年7月

栗太郡瀬田村

田中治三郎

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807269/211

○滋賀県統計全書. 明治40年度

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807270/219

近江煉瓦製造所

職8/6

明治40年8月

栗太郡老上村

堀井半次郎

田中煉瓦製造所

職8/2

明治14年7月

栗太郡瀬田村

田中治三郎

黒川煉瓦工場

職22/-

明治35年5月

栗太郡山田村

黒川梶次郎

○滋賀県統計全書. 明治41年度

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807271/214

田中煉瓦製造所

職9/2

明治14年7月

栗太郡瀬田村

田中治三郎

黒川製瓦場

職22

明治35年5月

栗太郡山田村

黒川梶次郎

近江煉瓦製造所

職6/7

明治40年9月

栗太郡老上村

堀井半次郎

○工場通覧. 1冊 明治40年12月末日現在

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/802717/210

黒川製瓦場

煉瓦

栗太郡山田村

黒川梶次郎

明治35年5月

職22

近江煉瓦製造所

煉瓦石

栗太郡老上村

堀井半次郎

明治40年8月

職8/6

田中煉化製造所

煉化

栗太郡瀬田村

田中治三郎

明治14年7月

職8/2

○工場通覧. 2冊 明治42年12月末日現在

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/802718/519

大和煉瓦土管稲田製造本店

煉瓦

添上郡帯解村今市

稲田修治

明治40年8月

職4/3

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/802718/530

市村煉瓦工場

煉瓦

滋賀郡石山村

市村弥兵衛

職10/3

大萱田中煉瓦工場

煉瓦

栗太郡瀬田村字南大萱

田中卯兵衛

明治17年5月

職12/3

中川煉瓦製造工場

煉瓦、耐火煉瓦

蒲生郡岡山村大字船木

中川長九郎

明治18年6月

職18/12

中川工場

煉瓦、耐火煉瓦

甲賀郡水口村字水口

中川喜代松

明治39年7月

職5/2

黒川煉瓦製造所

煉瓦、耐火煉瓦

栗太郡山田村南山田

黒川梶次郎

明治35年5月

職5/2

○大日本商工録 : 公認. 第1輯

稲田修治

添上郡帯解村今市

煉瓦

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956898/510

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956898/529

中川市三郎

蒲生郡岡山村舟木38

煉瓦

黒川梶次郎

滋賀郡膳所町錦?

煉瓦

○工場通覧. 大正8年10月

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/931903/386

大和白煉瓦合資会社

耐火煉瓦

北葛飾郡王寺町

代表者 大西馬造

大正5年5月

職13/-

大和煉瓦製造所

煉瓦

添上郡帯解村

稲田修治

明治40年6月

職8/6

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/931903/392

大阪窯業株式会社近江工場

煉瓦

栗太郡山田村

大阪窯業株式会社

明治43年12月

職63/14、他1/70馬力

中川煉瓦製造所

煉瓦

蒲生郡岡山村

中川市三郎

明治18年6月

職38/6 他2/52馬力

黒川煉瓦製造所

煉瓦

滋賀郡膳所町

黒川梶次郎

明治42年4月

職19/8,他1/3馬力

楠江煉瓦製造工場

煉瓦

滋賀郡滋賀村

楠江正治郎

大正6年12月

○工場通覧. 大正10年11月

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/931905/445

大阪窯業株式会社近江工場

東京形赤煉瓦

栗太郡山田村

大阪窯業株式会社

明治43年12月

職48/34、他3/73馬力

中川煉瓦製造工場

赤煉瓦

蒲生郡岡本村舟木

中川市三郎

明治18年4月

職33/6、他2/50

江州煉瓦株式会社膳所工場

煉瓦

滋賀郡膳所町

江州煉瓦株式会社

明治42年4月

職28/7、他1/3馬力

江州煉瓦株式会社守山工場

煉瓦

栗太郡物部村

江州煉瓦株式会社

大正7年10月

職33/16、他1/5馬力

○全国工場通覧. 昭和4年末現在

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1027282/348

中川煉瓦製造所

滋賀県蒲生郡岡山村

明治16年4月

普通煉瓦

中川市三郎

江州煉瓦株式会社山田工場

栗太郡山田村

明治44年6月

普通煉瓦

上田元次郎

江州煉瓦株式会社山田工場

栗太郡物部村

大正7年10月

普通煉瓦

上田元次郎

和歌山煉瓦製造所

和歌山県和歌山市太田

大正5年5月

並型煉瓦

吉村吉太郎

○大日本商工録. 昭和6年版 全国

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107975/1557

○西村瓦煉瓦製造所

添上郡帯解町中今市

瓦、煉瓦製造

明治44年

西村ハナ

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107975/1536

吉村吉太郎

和歌山太田

紀泉煉瓦株式会社

和歌山橋町4

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1107975/1574

江崎煉瓦株式会社(江州煉瓦)

栗太郡物部村

資本金250000、払全

上田元治郎

中川市三郎

蒲生郡岡山村船木

○全国工場通覧. 昭和9年9月版

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212170/379

和歌山煉瓦製造所

和歌山県和歌山市太田61

大正5年5月

東京形煉瓦

大和煉瓦稲田工場

奈良県添上郡帯解町今市

大正10年5月

煉瓦

稲田修治

中川煉瓦製造業

滋賀県蒲生郡岡山村5

明治16年4月

煉瓦

中川市三郎

江州煉瓦株式会社

栗太郡物部村319

大正7年10月

煉瓦

上田元治郎

江州煉瓦株式会社山田工場

栗太郡山田村

明治44年6月

煉瓦

上田元治郎

○全国工場通覧. 昭和10年版 窯業・印刷製本篇

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1036811/20

和歌山煉瓦製造所

和歌山県和歌山市太田61

大正5年5月

煉瓦

吉村義千代

西村瓦及煉瓦工場

奈良県添上郡帯解町今市

明治44年2月

煉瓦

西村ハナ

大和煉瓦稲田工場

奈良県添上郡帯解町今市

大正10年5月

煉瓦

稲田修治

小島煉瓦工場

奈良県南葛飾郡掖上村柏原

大正3年4月

煉瓦

小島安次郎

中川煉瓦製造所

滋賀県蒲生郡岡山村字船木5

明治16年4月

煉瓦

中川市三郎

江州煉瓦株式会社

栗太郡物部村大字浮気319

大正7年10月

煉瓦

山田元治郎

○全国工場鉱山事業場名簿. 昭和22年

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1124365/246

江州煉瓦株式会社

煉瓦製造業

野洲郡守山町大字浮気

山本辰次郎

職84/42

○滋賀県蒲生郡統計撮要. 明治44

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/913843/36

中川煉瓦製造場

赤煉瓦

蒲生郡岡山村大字船木

明治18年6月

職7/4 一ヶ年250日、14時間

○近江栗太郡志. 卷參

大正15年刊行

守山煉瓦株式会社

物部村大字浮気、大正7年10月創業、資本金50万円、年生産額1000万個

大阪窯業株式会社近江工場

明治44年3月栗太郡山田村大字南山田の湖畔に工場を設置し煉瓦を製し近江工場と称す、年産額500万個

○窯業銘観大正14年

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016563/359

煉瓦製造業

中川市三郎

蒲生郡岡山村大字船木

江州煉瓦株式会社

滋賀郡膳所町平田

設立大正7年10月

資本金15万円、払42000円

取締役岡田八十司、同黒川梶次郎、馬杉庄平、薮田勘兵衛、監査役鵜飼重教、同池岡又吉、森勘治

馬川梶次郎

滋賀郡膳所町錦

煉瓦製造業

煉瓦製造業

稲田修治

添上郡帯解町今市

煉瓦製造業

吉野煉瓦株式会社

吉野郡大淀町字下淵

大和窯業株式会社

添上郡帯解村

設立大正8年12月

資本金50万円

払205000円

取締役稲田修治

同稲田幸治、同保田友右衛門、同石黒宇宙、同水戸為美、監査役近江「金+寮」一、同森田四郎兵衛

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016563/433

煉瓦製造販売

小島保太郎

湊本町□丁目

煉瓦製造業

和歌山窯業株式会社

資本金50万円

海草郡和佐村字岩橋

取締役西本健次郎

各種煉瓦製造

○合資会社川口煉瓦製造所

有田郡湯浅町

○大日本商工録 : 公認. 大正14年版

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956901/1136

播磨煉瓦株式会社

印南郡阿弥陀村

資10万、払五万

西播煉瓦株式会社

神崎郡香呂村

資10万

日本耐火煉瓦株式会社

神戸市栄町2

資100万

加藤耐火煉瓦株式会社

飾磨郡飾磨町細江

資10万

長田煉瓦株式会社

神戸市湊町1

資10万

浪速窯業株式会社

尼崎市大洲村

資15万円

○明石窯業株式会社

明石郡魚住村中尾

機械製土管煉製造

大正6年

資25万円

尼崎窯業株式会社

尼崎市大洲村

資本金14万50円

山陽窯業株式会社

印南郡伊保村

資25万円

関野与平

印南郡曽根町

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956901/1192

和歌山窯業株式会社

海草郡西分佐村

資本金50万円

川口煉瓦製作所(合資)

有田郡湯浅町湯字

資本金10万円

安原煉瓦株式会社

海草郡安原村江南

資本金5万円

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956901/1205

大和窯業株式会社

添上郡帯解村今市

資本金12万5000円

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956901/1241

江際煉瓦株式会社(江州煉瓦)

滋賀郡膳所町錦

資本金45万円

中川市三郎

蒲生郡岡山村船木

[煉瓦] 関西煉瓦会社

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780109/161

日本全国諸会社役員録. 明治27年  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780112/170

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ TUKA [> 日本全国諸会社役員録 やばい。。。これもお宝の山だ。 未開業のまま消えた軌道会社とか載っとるな。。。 しかも量が多い。。。。 やばい。睡眠時間やばい。。。]

_ nagajis [手を付けるとえらいことになりそうで怖いです。>役員表]


2013-06-21 [長年日記] この日を編集

[近遺調] かいた

満足した。

今さら思ったのだが、遷都1300年を大々的に祝ってせんと君まで作ったような奈良県なのに、なんで2600年の再評価をしないのだろう。あれはなかったことにしたいのだろうか。もう充分風化しているし、あと100年もしたら日本人の大部分が (1300年も含めて) 「なんで?」と思うに違いない。 歴史の教科書に 「バツが悪いのでなかったことにしました」と書かれるか、それさえも書けずに250年前の明治維新すごいで終わったままかも知れない。んで裏で裏話だとか知られざる真実だとかがまことしやかに風説流布るのだ。「今調べなくてもいいのでは」という言葉は正直落胆した。そういう意識だから100年前の煉瓦の作り方さえわからなくなっているんじゃないか。「耶馬台国は実は○○にあった!」的な本で書架1つが埋め尽くされている現状を、笑って見ている分にはいいが、それが明治大正昭和初期まで対象になったらえらいことになるぜ。

あるいはそうか、ただ経済効果を期待して便乗して祝ったに過ぎないことがバレるのが嫌か。空想の人物の生誕から空想で2600年を数えて国を挙げて祝ったというのも考えてみればとんでもない空騒ぎなのだが、「先を案じて」やったという点では2600年事業のほうが真摯だろう。そんな祭りの後片付けをしないまま次の祭りが始まって終わってせんと君だけが残っている現状も異常と言えば異常である。

そういう「根拠薄弱な空騒ぎ」が奈良県の特色であるのかも知れない。観光で人を呼び続けなければ存続できなかった県ではあるからな。

聞かれてもいないことを口走ってしまう癖はどうにかしたほうがいいぞ>nagajis。道路の項目がないことを聞かれたのであって、別に写真では伝わらないこととか切り通しの年代が確定できないとかいうことは聞かれちゃいない。「あってほしい」の一言で済む話だ。ただ冒頭のwhy-becauseが現場では思い至らなかった。それを踏まえた上で言えば「なくてもよい。かわりに2600年事業と公園入れて」だ。東熊野街道は奈良県全体の特色とは言い難いから。それなら西熊野街道天辻隧道で事足りる。

[独言] しまった

昭和12年以降の工場通覧は二年前の一ヵ年の調査結果なのだよな。統計書はみな前年の結果なのでぜんぶそのつもりで作ってしまった。この辺は泉南市年報の丸引用だし中間点だから特に大きな影響はないと思うけれど、他県のを作る時は気をつけておかないといけない。その論調でいくと大和煉瓦は昭和13年頃には操業停止。載らなくなった即ち廃止とも限らないけどね。従業員が10人を割っただけかもしれんし。

[独言] しまった2

「T」刻印を東洋煉瓦と推定したのは早急すぎたかも知れない。兵庫には大正煉瓦があり戦前まで操業していた。京都には市街に竹村煉瓦があった。現状淀川以北にしか見つかっていないのならそのどちらかから流入してきた可能性がある。江州煉瓦が茨木まで来ているくらいだからなあ。

東京銀座の煉瓦街を築く時、煉瓦が不足して大阪まで打診が来たらしい。実際に採用されたかどうかは不明だが見本を納入したりはしたようだ。明治初年代ゆえの珍事だろう。

[近代デジタルライブラリー] 柳田翁没後50年

ゆえにいろいろな著書が掲載されつつある。蝸牛考は実はまだ読んだことがなかったが導入が珍しく固くてとっつきにくかった。 むしろ大日本山林会の山間語彙集のほうが興味深く面白く読めた。また今度、もっと精神にゆとりのある時に読もう。

バカアホの境界とか雑煮の中身とかは蝸牛考の頃から進歩してないのだよな。言葉を集めて分類してみて、さてどうするか。境界がわかったよということは確かに面白いけれども、それで国民生活が豊かになるかどうか。民俗学は何を意図した学問なのか(何を意図して始められたのか)を考えてみたくなる。

最初はそうやって、国の隅々で言葉が違い、あるいは同じであることを不思議に思い、取り集めて分類してみようという純粋興味から始まったはず。方言採集が盛んに行なわれ、その結果京を中心とした同心円状に似た言葉が分布している傾向が見えてきたりした。けれども多くは採集しただけで終わった。いつまで経っても集め続けられるか、あるいは全く集まらない空白地域があったり。そこが埋まるまで待っていられなかったり自分が言い出したことゆえ少しは進捗していることを表明するために柳田翁がまとめることもあった集めた結果をどうするのか、何に用いるのかという問題は常に考問題提起として掲げてある。

そうやって地方の違同に気づくことで、日本の隅と隅とで同じ話題を語らい、心置きなく意思疎通ができるようになることを願っているとどこかで読んだ記憶がある。方言の通用するエリアでは腹のうちを方言で言い合えるから問題ない。しかし青森と鹿児島の人間が心の襞までわかりあうためには互いの方言を理解しなければならなかった。あるいは標準語という不恰好な服を着てつき合うか(そんな下手な比喩じゃなかったはずだが思い出せない)。方言採取と分類は前者のための下準備という意味が強かった。しかし標準語教育が思った以上に進んでしまい、まるで標準語じゃなければ日本語じゃない的な世の中になってしまって、方言採取の意義が薄れてしまった。翁の晩年の頃にはすでに、消え行く言葉を残しておくという消極的な目的か、「こんな変な言葉がある」という面白おかしい話のネタとして集められる程度のものになっていた。(確か標準語教育にも噛んでたんじゃなかったっけ。自分で自分の首を締めた格好だが意思疎通の潤滑化という目標は達した)

(方言採取ばかりが民俗学じゃないけれど)民俗学の成立と変化はいろいろな教訓を与えてくれる。廃道にも通じるところがある。行ってどうするの。書いて残してどうするの。「こんなのがあった!」を報告するだけなら誰だってできる。たくさん集めることだってそれはそれで意味があるかも知れない。しかしその先をどうするのか。個々事例から共通項を見つけ出して人間心理に迫るとか何とかしないと一過性で終わっちまうよなあ。と常々思う。だから技術史を横糸にして考えたりするのだけれども、ハナから興味のない人にはよけいな蛇足としか取ってもらえないらしい。


2013-06-24 [長年日記] この日を編集

[きたく] 貴宅

kINIAS見学会に出席した足で川上村へ行ってきた。おもに聞き取り調査のため。ついでに東吉野村まで足を伸ばし、また行きがけに小島煉瓦跡地を探してきた。今回出会った方々はみな親切な方ばかりで有難かった。これもまた運也。

道連れの書は柳田国男全集26。明治大正世相史編をじっくり読んだ。昭和初期に明治大正それ以前を振り返って書いた世相変遷史。そこからさらにどう変わったか照らしながら読むと興味深い。さらなる変化を遂げた事象もあれば、もっと転じて元に戻ってしまったこともある。「プロペラ船は写真が伝えるものになる」という翁の予言は見事的中。

[奈良近遺調] メモ

中村組@中奥。鍛冶屋は白川渡?の青垣氏。S18生まれで小学生時分にはまだ伐採してた。

[煉瓦工場] 小島煉瓦@奈良県御所市柏原

画像の説明

目星も何もないまま現地に行って、最初に出会った方に尋ねたら、そのお宅の目の前がそうだった。現・中本ゴム工業工場。

刻印のことはご存知でなかったが、JR線の西側の在所のなかをうろついて、例の野球ボールをいくつも発見した。

[橋梁] 蟻通橋

画像の説明

いくら言っても/誰も見に行ってくれないので自分で見てきた。単純桁×3ではなく三径間の連続桁。見た目はアーチっぽいけれども左岸側は岩盤ではないからアーチとしての支持力を期待していないはず。単に桁高さを節約するためのものだろう(けどそんなに例があるわけじゃない。一番近いのは乙栗子橋、もしくは石の本橋)。

意匠的に成功してるかというと、そうでもないような。快な感じはあまりしない。あと右岸上流側に工事銘板が残っている。

[橋梁] 翁橋

画像の説明

現在補修工事中。高欄を撤去して新しい鉄筋を埋め込んであった。 オリジナルが失われるのは残念だけれども、外側に張り出す格好で街灯を取り付けるようで、それで安全になってくれればいいと思う。親柱は残すみたいだしね。「オリジナル高欄が貴重」というのは半世紀以上の時を経てなお実用を足しているところにあるわけで、それだけ持たせることができた施工技術の高さや丁寧さが貴いわけだから、残っていてもボロボロになってしまっていては及第点しかあげられない。

桁のほうも手を加えるのかな。側面から橋型を目視できないほど大々的に足場を組んで何かしてはった。

[橋梁] 中奥橋

画像の説明

教育委員会さんの情報で大正11年架設(の主塔のみ残存)と知る。裏に書いてあるのかと思ったらそうじゃなかった。ちゃんと見える側にそう書いてある。

対岸に残っているのも見に行こうと思ったのだが、釣り人の人がいて断念した。釣ってるところをわさわさ渡ってったらドヤされるだろうからなあ……

[奈良近遺調] 吉野水電事務所

画像の説明

速攻で建て替えられてこの通り。吉野郡林業基幹センターだったか、そのような建物になっていた。以前より階が低くなっているのは身の丈なのかも知れぬ。せっかく取り壊したのだから新しい歴史を永く刻んでいってほしい。

[奈良近遺調] 宮滝筏水路掘割

画像の説明

初めて吉野に触れた場所。石本先生がここへ連れていって下さった。とても懐かしい場所だ。

その後何度も近くを通ったけれども、掘割までゆくことはなかった。全行程を終えて帰ってきて、「ついで」のつもりで足を伸ばしてみたのだが、あにはからんや、以前来た時には気づかなかった新発見が。「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれているだけじゃないのだな。以前はどうして気が付かなかったのだろう。H23年の大雨で苔が洗われて現れたのだろうか。いや、石本先生が教えてくださったのに自分が忘れてしまっただけかも知れない。

[奇妙なポテンシャル] #

東吉野村に「原裕句碑」なるものがあって、その案内看板を見た時に「はらひろし句碑」と読んでしまい、あれ違うかなと思いつつ「はらひろしはらひろし」と呟きながら走った。そうして口を突いて出た一句。

はらひろし。はらひろし。はらほろひれはれはらひろし。

謝れ。全国の原宏さん原博さん原浩さん原莫さんに両手を付いて謝れ。左記以外のはらひれほろひろしさんにも誤れ。


2013-06-25 [長年日記] この日を編集

[煉瓦] 煉瓦製造会社@日本全国諸会社役員録

拾ってみたのはいいがあまりウマくない。もう少しやり方を検討してからのほうがよさそうだ。例えば目次から煉瓦会社を拾ってリンクだけ貼るとか、通年拾って会社役員・規模の変化を見るとか。ここにあるからといって煉瓦を製造していたとも限らない。阪堺煉瓦とか泉陽煉瓦とかは工場通覧でも職工数ゼロのまま2、3年もせずして消えている@統計書。

大阪煉瓦石と津守煉瓦には直接の関係はなさげ・・・。むしろ大阪煉瓦石に伊藤定吉がいたのが発見。解散直後に高橋宇吉とともに阪堺煉瓦を設立している。

大和煉瓦は大和郡山に会社所在地があった。県の公文書でもそうだったはず。それを稲田氏が引き受けて経営を続けたのだったと思う。

明治27年

関西煉瓦株式会社

明石郡垂水村の内山田村
設立年21年1月24日
○目的 煉瓦製造及販売
○資本金 6万円
○株数 2000株
○一株 30円
社長 和田半兵衛
取締役 難波二郎三郎
同 志方勢七
監査役 金澤仁兵衛
同 永見吉明
明治28年明治29年明治30年

堺煉瓦株式会社

堺市吾妻橋通二丁
○設立年 明治26年6月
○目的 煉瓦製造販売
○資本金 10万円
社長 福本元之助
取締役 辻吉敬
同 市川六郎兵衛
監査役 岡崎栄次郎
同 正野玄三
同 青木嘉兵衛
支配人 岡村猪之吉

旭株式会社

堺市柳之町西三丁
○設立年 明治19年6月
○目的 煉瓦製造販売
○資本金 22500円
社長 喜多羅守三郎
取締役 黒田吉三郎
同 岡田源七
監査役 井筒為次郎
同 尾方善四郎
同 河盛新兵衛

岸和田煉瓦株式会社

南郡岸和田大字岸和田並松
○設立年 明治20年7月6日
○目的 煉瓦石製造並に購買及販売
○資本金 14000円
○株数 700株
○一株 20円
社長 山岡尹方
取締役 木谷七平
取締役 広海惣太郎
同 寺田甚與茂
同 金納源十郎

大阪窯業株式会社

西成郡川南村大字湊屋
○設立 明治15年1月12日
○目的 煉瓦製造販売
○資本金 40000円
○株数 2000株
○一株20円
社長 長尾藤三
取締役 山口幸七
同兼支配人 白井唯一
監査役 小田米治郎
同 山田伊兵衛

貝塚煉瓦株式会社

南郡貝塚町大字貝塚南
○設立 明治27年6月26日
○目的 煉化石を製造し或は購買し之を内外に販売す
○資本金 5000円
○株数 250株
○一株 20円
社長 田端治平
取締役 広海益十郎
同 左納権四郎
同 塩谷五平

日本全国諸会社役員録. 明治29年

明治29年

山陽煉瓦合資会社

明石郡大久保町
設立 明治26年9月
資本金 30000円
社長 澤田清兵衛 神戸市兵庫匠町
理事 財田永七 明石郡押部谷村

大阪煉化石合資会社

西成郡川南村
設立明治20年4月、資本金8000円
業務担当社員 岡嶋嘉平次 西成郡川南村
同 木寺総次 同上
同 高橋宇吉 西区京町堀一
同 伊藤定吉 西成郡川南村
社員 佐藤国松 岸本克巳 畑

日本全国諸会社役員録. 明治30年

大阪煉瓦株式会社

西成郡川南村炭屋
設立年 明治29年10月
資本金 15万円
一株 50円
払込高 37500円
積立金 1250円
社長 岡嶋嘉平次 西成郡川南村
取締役 高田勝吉 西区江戸堀南一
同 五百井清右衛門 西区西道頓堀五
同 森本半四郎 東区南本二
同 本咲利一郎 兵庫県川辺郡尼ヶ崎
同 原田萬助 南郡南綿屋
社員 中嶋國松 佐藤国杢 畑五兵衛

●宇治煉瓦合資会社

久世郡宇治町
設立 明治30年1月
営業の目的 煉瓦製造業
資本金 12000円(払込済)
業務担当社員 井上仁左衛門 久世郡宇治町
同 梶菊松 同上

●南桑煉瓦製造合資会社

南桑田郡篠村
設立 明治29年12月
資本金 10000円
社長 山田理一郎
取締役 栗山治三郎
同 栗山信太郎
同 大橋茂左衛門
同 宇野多四郎 右南桑田郡篠村住

●関西煉瓦合資会社

相楽郡上狛村
設立 明治30年3月
営業の目的 煉瓦製造販売
資本金 10000円
業務担当社員 田中源人 相楽郡高麗村
同 井上新平 同上
同 小島政次郎 同郡上狛村
同 森本豊三郎 同上
同 落合良三 同上

三島煉瓦株式会社

三島郡茨木村
設立 明治30年1月
営業の目的 煉瓦及製造販売
資本金 10万円
一株 50円
払込高 25000円
社長 今井喜久治 三島郡鳥飼村
取締役 森芳太郎 同郡春日村
同 平尾幾太郎 同郡玉櫛村
同 今井慶十郎 同郡鳥飼村
同 三島賢二 同郡茨木村
監査役 白石純治 西成郡上福島村
同 中野廣太郎 三島郡新田村
同 岡村藤五郎 同郡春日村

日本煉瓦株式会社

泉北郡舳松村
設立 明治29年9月
資本金 300000円
一株 50円
社長 田端三郎平 泉北郡湊村
取締役 野田吉兵衛 東区高麗橋五
同 村上嘉兵衛 同上
同 日置善作 南河内郡日置荘村
同 石田庄兵衛 東区南本二
監査役 浮田桂造 南区安堂寺四
同 小西半兵衛 東区伏見四
同 岡崎栄次郎 東区博労二
支配人 安宅重三

河内煉瓦株式会社

南河内郡富田林村
設立 明治29年6月
営業の目的 煉化及瓦製造販売
資本金 50000円
一株 20円
払込高 12500円
社長 出水彌太郎 南河内郡平尾村
取締役 田守三郎平 同郡富田林村
同 石田紋次郎 同上
同兼支配人 松村肇 同郡東條村
監査役 杉山健二
同 越井醇三
同 杉本藤平

摂津煉瓦株式会社

泉北郡浜寺村
設立 明治30年1月
資本金 50000円
一株 20円
払込高 12500円
社長 長谷川忠七 東区糸屋一
事務取締役 恩智忠兵衛 西区江戸堀南一
同 高松正吉 北区木幡
取締役 川上楢次郎 南区長堀橋一

小栗煉瓦株式会社

泉南郡麻生郷村
設立 明治30年1月
資本金 30000円
一株 20円
払込高 7500円
社長 中野彌平治
専務取締役 上村八郎平
取締役 塚本彌十郎
同 小西與三郎
同 藤原管治郎

泉州煉瓦合資会社

泉南郡沼野村
設立 明治29年12月
資本金 50000円
業務担当社員 小寺幸次郎 東区備後町一
支配人 日吉端 泉南郡岸和田町

日本煉瓦製造合資会社

東成郡墨江村
設立 明治29年7月
資本金 35000円
業務担当社員 紀[王+章]司
専任業務担当社員 金光萬録
会計主任 入江市太郎

阪堺煉瓦合資会社

東成郡墨江村
設立 明治29年12月
資本金 30000円
業務担当社員 高橋宇吉 西区京町堀一
同 伊藤定吉 西区南堀江三
社員 武田為吉 東成郡墨江村

住吉煉瓦合資会社

西成郡粉浜村
業務担当社員 伊藤勝次郎 西成郡粉浜村
会計監査役 多田栄之助 西区新町南一
事務員 岡川五十六

湊煉瓦白地合資会社

泉北郡舳松村
設立 明治29年8月
資本金 10000円
払込高 4000円
業務担当社員 片桐和三郎
取締役兼支配人 定金岩次郎
取締役 丹治利右衛門
監査役 辻本安七
同 山本吉右衛門

浜寺煉瓦合資会社

泉北郡浜寺村船尾
設立 明治29年9月
資本金 3000円
業務担当社員 古藤清 泉北郡浜寺村
日本全国諸会社役員録. 明治30年

淡路煉化製造合資会社

津名郡岩屋町
設立 明治29年12月
資本金 25000円
社長 森本六兵衛 神戸市元町一
専務取締役 渡瀬茂平 津名郡岩屋村
取締役 千葉宮次郎 同郡野嶋村
同 石田富次郎 神戸市元町一
同 笹倉善助 同加納町五

赤穂煉化製造合資会社

赤穂郡赤穂町
設立 明治29年8月
資本金 10000円
業務担当社員 西川賢治

大和煉瓦株式会社

添下郡郡山町
設立 明治29年10月
資本金 80000円
一株 20円
払込高 20000円
社長 中村喜重郎
専務取締役 山本新吉
取締役 湊秀太郎 右添下郡郡山町住
同兼支配人 植田宇一 添上郡帯解村
取締役 松村庄五郎 同郡平和村
監査役 内藤富之 同郡帯解村
同 米田吉三郎 添上郡郡山町
庶務主任 西藤弘道

日本全国諸会社役員録. 明治31年

津守煉瓦株式会社

西区北堀江三番町
設立 明治30年5月
資本金 100000円
一株 50円
払込高 31825円
社長 林尚五郎
取締役 水落義平
同 樋口六左衛門
監査役 池田半兵衛
同 中島音次郎

豊島煉瓦株式会社

豊能郡豊中村
設立 明治30年5月
資本金 60000円
一株 20円
払込高 22000円
社長 中塚彌平 兵庫県川辺郡尼ヶ崎町
取締役 大塚茂十郎 同上
同 三浦長平 同上
同 榎原治兵衛 豊能郡小曽根村
同 遊上五良兵衛 同郡南豊島村
監査役 仲井源太郎 兵庫県川辺郡中谷村
同 伊達尊親 兵庫県川辺郡尼ヶ崎町
同 岡澤釣作 同上

泉陽煉瓦株式会社

泉南郡佐野村
設立 明治30年6月
資本金 60000円
一株 20円
払込高 24000円
社長 山本藤部 泉南郡佐野村
取締役 反保覚二郎 同郡田尻村
同 義本梶太郎 同郡日根野村
同 吉原善右衛門 南末吉橋二
同 中西庄三郎 同塩町三
監査役 岡崎栄次郎 東博労二
同 道下太郎與茂 泉南郡佐野村
同 新川栄助 同上
支配人 才新岩吉 同上
明治32年

麻生郷煉瓦株式会社

泉南郡麻生郷村
設立:明治29年11月
資本金:50000円,1株20円
払込高:25000円
社長 川崎九郎平
取締役 福原正雄
同 岸本熊三郎
同 宮崎治三郎
同兼支配人 縣平蔵
監査役 西田半右衛門
同 福原孫一
同 森川利與茂
同 溝端惣右衛門

●明治煉瓦株式会社

泉南郡高石村
設立:明治30年3月
資本金:50000円,1株15円
払込高:26970円
専務取締役 福井米[イ+吉]
同 小林吉兵衛
取締役 山内奥武
同 石川仙太郎
同 西脇徳次郎
監査役 大矢奈良吉
同 田邊甚三郎
同 山川貞二
商議員 池邉源次郎

●北河内煉化株式会社

北河内郡水本村
設立:明治30年5月
資本金:50000円,1株15円
払込高:12500円
社長 井上誠一郎
北河内郡水本村
取締役 井上正家
同上
同 岡村市次郎
中河内郡枚岡村
同 中川六郎
北河内郡四条村
同 合川捨五郎
同上
同 大島寅太郎
同上
同 乾亀四郎
同,住道村
監査役 音川松三郎
中河内郡日根市村
同 井上岩三郎
同上
同 松井磯七
同,枚岡村
同 角谷勇蔵
北河内郡住道村

●泉南煉瓦株式会社

泉南郡南近義村
設立:明治30年1月
資本金:40000円,1株20円
払込高:22000円
専務取締役社長 嘉田小四郎
常務取締役 脇坂捨五郎
取締役 高松安治郎
同 喜多嘉治郎
同 角尾耕十郎

●桃山煉化株式会社

泉南郡沼野村
設立:明治31年1月
資本金:40000円,1株20円
払込高:20000円
取締役社長 石井鐵太郎
泉南郡岸和田町
専務取締役 藤原伊三郎
泉北郡忠岡村
取締役 五百井長平
西区南堀江上5
同 伊藤定吉
同,南堀江3
監査役 木谷伊助
同,同5
監査役 小倉幸
同,江戸堀北3

●富士煉瓦坩堝株式会社

北河内郡今津村
設立:明治29年12月
資本金:30000円,1株30円
払込高:15000円
専務取締役 永井貞一郎
中河内郡玉川村
取締役 中敬男
同,東六郷村
同 藤戸弥五郎
同,玉川村

天王寺煉瓦株式会社

設立:明治30年7月
資本金:12000円,1株20円
払込高:3833円
専務取締役 成瀬靖三
取締役 森田佐助
同 和田安蔵
監査役 瓜阪和吉

山城煉瓦株式会社

設立:明治30年8月
資本金:10000円,1株20円
払込高:2500円
社長 石井九郎右衛門
相楽郡瓶原村
取締役 橋村武治郎
同 尾崎晴治
同上

中播煉瓦株式会社

印南郡伊保村
設立:明治30年4月
資本金:30000円
払込高:15000円
取締役 船津吉太郎
同 伊達忠太郎
同 植杉安八
同 砂川卯平
同 岸田小三郎
監査役 松本善平
同 鈴木又造
同 馬場嘉一郎

●但馬煉瓦製造株式会社

城崎郡五荘村
設立:明治30年11月
資本金:10000円,1株20円
払込高:2500円
社長 森垣彌三右衛門
城崎郡五荘村
取締役 森垣弥右衛門
同上
同 垣添石松
同,新田村
監査役 斎藤[イ+舜]八
同 澤田五郎治
支配人 蜂須賀清助
同 北村武治

[煉瓦工場] 関西煉瓦>小曽根煉化

朝日新聞明治19年12月4日の記事。強調筆者。

●開業式 明日は豊島郡小曽根村字白山に設立せし煉瓦製造場の開業式を執行し其余興には相撲烟花等の催ほしあるよし但し其持主は彼の衣食住改良の目的を以て設立せし北区桜橋南詰の四明楼なりとの事

その3日後の12月7日版には次のようにある。

●煉瓦製造開業式の景況 一昨日府下豊島郡小曽根村に於て行ひたる煉瓦製造場の開業式は予記の如く烟花あり相撲あり又招待に応じて来会せしは紳士紳商あり鎮台士官あり和洋折衷混合の饗応にて芸妓の席上に周旋するあり頗る盛なりしかど何分一小村中へ多人数群衆したるものなれば接待向等非常の雑沓を極め其盛会なりといはんよりは寧ろ混雑なりろいうの適評なるが如きありさまにてありし

というわけで、小曽根村の煉瓦工場は村に似合わぬ賑やかさで始まった。さらに後日、この煉瓦工場の好況を伝える報があった。増資したうえで「関西煉瓦会社」と改名するというもの(なのだがプリントアウトし忘れた……)。

『大阪府統計表』明治19年版の工業の欄を見ると、確かに小曽根村に「関西煉瓦会社」がある。しかし翌年には「小曽根煉瓦工場」という素っ気ない名前に変わって、21、22とその名前で掲載が続き、明治23年版を最後に消えてしまう。

その一方で、兵庫県明石郡垂水村(の内の山田村)に「関西煉瓦会社」が興る。明治21年1月24日創業、その秋にはジョン・ウェイクフィールドなる英国人を招いて煉瓦製造の教授を受け、英国流儀に則ったプレス式の煉瓦製造を開始した。そうして出来たのが例のH.J.△B.C.刻印煉瓦であるらしい。

明石の「関西煉瓦会社」は明治30年頃まで操業したらしく、その煉瓦は大阪紡績所@大阪市大正区、吹田麦酒製造所@大阪府吹田市、神戸市旧外国人居留地なんかで見つかっている。西九条の市街地の壁や阪急十三駅の東側路傍に埋まっていたりもする。案外広範囲に流通したようだ。

その間「小曽根煉瓦」は何をしていたのだろうか? どんな煉瓦を作っていたのだろう? ひょっとしたら明石の「関西煉瓦会社」の第二工場的な役割を果たしてたんじゃなかろうか。みたいなことを考えた。


少し前、小曽根煉瓦工場の跡地を探しに小曽根に行ったことがあるのだけれども、その時には上記のような関係があったことを知らなかったし、それらしい場所を特定することもできなかった。改めて「小曽根村字白山」という地名を頼りに探してみることにした。

まず文献で「白山」という字を探すところから始めたのだが、そこからして難航。大正年間に発行された『小曽根村誌』に字一覧があったのだけれども、そこに白山なる字はない。もちろん煉瓦工場の話も出てこない。
うーむーと悩みつつ字一覧を眺めていて、「字向山」というのがあるのを見つけた。「白」と「向」、草書でしゃしゃっと書けば似てないこともない。ひょっとしたら字白山ではなく字向山なのではないか。


図書館の方に相談したら『豊中市史』第一巻の付図を出してくれた。現在の地図に小字を書き込んだものだ。それによると字向山(正確には字向イ山)はこのへんであるそうだ。今は若竹町といって、以前自分が見て回った小曽根町の北隣にあたる。小曽根村がそこまで広がっていたとは思わなかったので見逃していた。
地形的にもそれっぽい。小さな丘になっていて、その南方には広い耕作地、西には2つの大池があって粘土は豊富に入手できそうだ。丘ならば登り窯を築くことも易かっただろう。

画像の説明
画像の説明

というわけで再度行ってみたのだけれども、現地はすっかり新興住宅街になっていて、地面が露わになっているところを探すのさえ難しい状況。大きな写真は住吉神社の下から西のほうを向いて撮ったもので、あったのならここだろうという場所だ。府道に面したところはすべて商工業の建物で埋まり、その裏手の丘の麓も新しい住宅が占拠めていた。丘に登ればさらに新しい住宅街があって、嘘臭いほどに小奇麗な日常が展開されていた。

隣の字も含めてあちこち歩きまわってみたけれども、ズバリな痕跡も煉瓦も見つけられず。大阪窯業とか岸和田煉瓦とか六稜星とかは見つかったんだけどもな。唯一琴線に触れたのは写真の煉瓦。定格でない大型煉瓦で、こればかり使われている花壇が住宅街の中にあった。手成型煉瓦だが刻印はなく、いつどこで誰が作ったものかわからない。そばに六稜星煉瓦が転がっていたが関連は不明だ。

画像の説明西隣の字にはこんな地蔵堂があった。煉瓦が使われているけれども平が露出していない。隣の階段もコンクリートですっぽり覆われている。

まあ、そりゃそうだわな。。。今から100年以上前に、ほんのちょっとの間操業していた工場なのだから、痕跡が残っているほうが奇跡なのだ。しかもこんな市街地で。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ TUKA [計画だけで着工にすら至らなかった鉄道会社なんていくらでもあるのに、 載ってる会社、載ってない会社があるんだよなあ>日本全国諸会社役員録]

_ nagajis [釈迦に説法でしょうが、発起>免許取得>会社設立(その後未着工で解散)と、会社設立にも至らず修了したものとの違いではないでしょうか。 あるいはこの本の発行元である商業興信所の会員になっていたかどうか..]


2013-06-26 [長年日記] この日を編集

[煉瓦刻印] Kn刻印

後日書き直し:兵庫県旧印南郡を中心に「Kn」刻印(n=1-9の英数字)が分布している。尼崎市や大阪市街でも稀に見かける。この刻印、はじめは一工場のものだと思っていたが、どうもそうじゃないらしい。目撃を重ねるにつれ、印南郡周辺の複数の煉瓦工場が昭和初期に行なっていた共同販売のために各社が使っていた刻印ではないか、と思うようになった。K=Kyoudouの頭文字、nは工場ごとに割り振られた識別番号と。

理由は2つ。

・煉瓦工場があったとされる場所で集中的に見つかっていて、なおかつnの値に地域的偏りが見られる。
・構造物中に見られる時はn=一定の傾向が見られる。例えばK2ばかりとか、K8ばかりとか。ある工場の製造ライン(作業者)を識別するために番号が振られていたのなら、同じ構造物の中に複数のnが混じっているはずだが、そういう例は見つかっていない。必ずn=一定である。

共同販売の機構ははっきりわかっていないが、共通の受注窓口があり、注文に応じて最寄りの工場から煉瓦を供給した(その費用・代価は機構内で平準化した)んじゃないかと想像する。

煉瓦製造業 加古、印南、飾磨郡地方の物産では年産六十八万円余原料豊富ではあるが運搬、設備等不十分のため原料の採取製品の搬出に不利を招きつつある上に財界不況のため需要減退し業者競争激甚のため価格低下し採算困難となりしため申合を行って生産制限、共同販売を実行しつつあるも法律的拘束力がないため協定持続が困難である(注記:なので産業統制を行い組合を設立することが検討されている)

〔大阪毎日新聞 1933.5.25(昭和8)@神戸大学新聞記事文庫

というわけで「Kn」が見つかり次第ここに追記していく。2013年7月末現在「K4」以外は全て見つかっている。「K」だけが押された機械成形煉瓦も見つかったのでついでに掲げとく。

K1煉瓦刻印

K1@尼崎市潮江2丁目。印南郡では未発見。

K2煉瓦刻印

K2@尼崎市潮江2丁目(隣に「大」が転がっていた!)。神崎郡四郷村明田・見野に多数分布。特に見野の東山工業所の跡地(現在は民家)の煉瓦壁にこれが使われている。

K3煉瓦刻印

K3@西成区今宮。kousenさん情報で最初に知ったKnだ。

K5煉瓦刻印

K5@高砂市曽根町中筋。釘製「ワ」と並んでいたもの。最寄りは和田煉瓦だが工場跡地では見られなかったような記憶が。

K6煉瓦刻印

ちょっとわかりづらいけどK6@高砂市阿弥陀町阿弥陀の大正煉瓦跡。他に近くの住宅街の中でもK6を目撃している。

K7煉瓦刻印

K7@尼崎市の・・・えっとどこだっけ?潮江の一角? 曽根村旧市街地の建物にまとまって使用されてる。大正煉瓦阿弥陀工場の南でも1つ。

K8煉瓦刻印

K8@姫路市香寺町香呂の在所の転石。少し離れた所にある民家の煉瓦壁にもK8が選択的に使われていた。最寄りは西播煉瓦。

K9煉瓦刻印

K9@高砂市阿弥陀町一丁目。間違えて入り込んだ小路の先で発見。K9は十三の西の方でも見たことがある。最寄りは中播or大正煉瓦の別所工場。ただし別所村の工場は昭和5年頃にすべて廃止されている。印南郡の別の場所でも見たような気がするんだが……。

K煉瓦刻印 釘

Kのみ@弘栄煉瓦岸工場跡近く。このKは釘を使って機械成形の煉瓦に打刻されている(他のKnシリーズはみな手成形に実印?で押されている)。同様の構成で四郷町明田の路傍にも1つ。ここの最寄りは東山工業所。

追記:K4も見つかってコンプリート。ほかにも釘でKを象ったものとか数字が潰されたものとか数字のかわりに「・」とか諸々のバリエーションがある。困ったことである。


2013-06-27 [長年日記] この日を編集

[煉瓦] 兵庫県の戦前の煉瓦工場


より大きな地図で 兵庫県戦前煉瓦工場 を表示

S10以降(大正中期から戦前まで)。

[] 大和谷軌道

適当に書いている。

追記・だいたい了。「人に伝わるように書く」ことをハナから捨ててかかればこんなに楽なのだなあと思うことしきり。こういうののほうが書いていて楽しく、 また懐かしい感触だった。どーせどんなにどれだけの3Dで書いたって伝わらんものは伝わらんし理解しようとも思わない人に理解してもらったところで自分はちっとも嬉しくない。

[] 廃読

適当に書いている。

耐火煉瓦と他府県のをしなきゃいけなかったのをすっかり忘れ、道路元標を書き始めてしまった。急ぐものではないから後回しにしてもいい。しかし続は兵庫の煉瓦工場がもう少し明らかになってから書いてもよいような気もする。

和歌山県の統計書はなかったよなあ。あったけど煉瓦工場の記載はなし。何でだろう何でだろう。全部大阪府から来たってことなのか。

[煉瓦刻印] 日本煉瓦製造株式会社と日本煉瓦株式会社と日本煉瓦製造合資会社

埼玉県深谷市の日本煉瓦製造株式会社は明治20年創業で、渋沢栄一も関わった老舗中の老舗の煉瓦工場。こんな社章を使ってた。このマークよりも上敷免っていう刻印のほうが有名かも。

一方、大阪の日本煉瓦株式会社はに明治29年創業で、日本煉瓦製造とは無関係の会社だったはずなのだが非常に紛らわしい名前をしている。しかも大阪では大阪窯業岸和田煉瓦に次いでよく見られ、余計に紛らわしい。

画像の説明

日本煉瓦の本式の社章。花を意匠化したものだろうとずっと思っていたのだが、日本煉瓦製造の社章の外側を逆にしたらこれになるのだな(イラレでいえば膨張-パンクの関係)と、ついさっき気がついた。そのへんわざと狙っていたのかも知れん。

なお明治30年代には日本煉瓦製造合資会社とかいう煉瓦会社まであった>大阪。工場を持たず、すぐに解散してしまったようだが、紛らわしいったらありゃしない。

「日本煉瓦」で検索すると日本煉瓦製造ばかりヒットする。大阪の煉瓦史においても、規模が大きかった割に素性がよくわからない会社の一つであったりする。情報は堺市史類纂にある調書くらいか。

日本煉瓦製造の機械成形煉瓦は機械整形だけれども刻印がある。一方大阪の大工場で機械成形煉瓦に刻印を押した例は見たことがない。何でだろう。


2013-06-28 [長年日記] この日を編集

[煉瓦] 桜塚高校煉瓦壁

女学校時代の煉瓦壁。昭和13年(だったっけ)に作られたもの。ここには大阪窯業と岸和田煉瓦の刻印がある。どこにでもある刻印だからあまり気にかけていなかったのだけれども、よく考えたら手成形煉瓦なのだよな、あれ。昭和初期の煉瓦のはずなのに。

昭和40年代まで手成形で煉瓦を作っていた工場もあるから、手成形であること即ち古い証拠ではない(逆もまた然り。機械成形だから新しいとは限らない)。問題は、明治大正期に機械を導入していたはずの大阪窯業・岸和田煉瓦が昭和初期まで手成形もやっていたというところにある。そりゃそうだよな、機械一台や二台じゃ年間数千万個も作られへんやろ。職工数だって多いのだし。並行して手成形でも作っていたと考えるべき。とnagajisに言い聞かせるために書く。

この壁に使われている、松葉菱にイの刻印の入った煉瓦は機械成形だ。側面のツルツルさでも判別できる。柱に相当する部位の特に上のほうにだけ使われていて、そこだけ目地も違う。崩れたのをあとで補った(その煉瓦に松葉菱イ印刻印煉瓦が使われた)と見るべきで、昭和13年に松葉菱イ印刻印煉瓦があった証拠にはならないようだ。

といったことを今日気づいた。何度もしつこく見ることで見えてくるものがある、というよりも一発で見抜けないnagajisが間抜けなのに違いない。煉瓦は難しく、そして面白い。

[煉瓦] 片面刻印・両面刻印

中国地方に昭和初期に興った煉瓦会社も機械成形煉瓦に刻印を押したところが多い。そして片面にしか押されていない。○Mの松本煉瓦、◇Tの東洋煉瓦、◇中の中国煉瓦は片面だった。□SRKは縁石の一部なので裏側がわからないが、抑え板に印があったのだから片面にしか打たれなかっただろう(同じ並びに刻印の見えないやつがあったからそれが裏だったかも知れない。また今度見とこ)。

大阪府域の煉瓦刻印は裏表に押してあるのが多い。六大窯業はみな両面打ちだったような。両面に打ってあると平が露出していれば必ず見えることになり、それが「大量に分布している」と感じる原因なのかも知れない。両側に打つのはそれなりに面倒だったろうにな。ただでさえ煉瓦工場が沢山あったところだから、積極的にアピールしないと紛れてしまうという不安があってそうなったのかも知れん。

手成形煉瓦だと表の平のほうが綺麗に仕上がるから、平を見せて積む時は表を表にしたいところ。とすると刻印は裏だけにしといてほしい。しかし作る側にとっては表のほうが押しやすい。わざわざひっくり返さないと裏に押すことができない。そんな条件でありながら裏表押しているところに何か特別な理由があったはずだ。作業的にそのほうが楽だとか、別の目的でひっくり返す工程が必須だったとかで、「わざわざ」がわざわざでなかったとか。上記のアピールのために「わざわざ」だったかも知れない。

若井煉瓦の煉瓦は片面だった。堺附洲も片面だけ。「★」は両面にある。 ある時期を境に両面打ちに切り替わったようだ。明確に何年と線引きすることはできないだろうが。裏面に横筋が入っているのが共通項なら、製造手順も共通であったはずでーーー堺で焼き始めた頃から脈々と受け継がれてきた不文律の製造手順がーーー、それがどこかで両面打ちになったと想像すると、それだけで愉快な気分になる。いつ誰が始めたものなのだろうか。周囲は嫌がらなかったのだろうか。

[煉瓦刻印] 推定山陽窯業/大正煉瓦@阿弥陀村

画像の説明

あるべきものがあるべきところにあって満足。やはり「T」刻印は大正煉瓦であったようだ。いやいや…….「T」ではないのかも知れぬ.後日近くで「山」を見た.大阪の「T」刻印よりもその「山」のほうに近い.とすると山陽窯業の可能性大.

画像の説明

「大」字のバリエーション.これは大正煉瓦で間違いない.

[キノコ] キノコ

画像の説明

きもいよ。


2013-06-29 [長年日記] この日を編集

[煉瓦工場] 大正煉瓦阿弥陀工場@印南郡阿弥陀村阿弥陀

画像の説明地図は6月27日のエントリ参照。高砂市阿弥陀村阿弥陀(元阿弥陀村阿弥陀)、国道2号とJRとの間にあった。大正9年5月創業。

例のごとく出先でマップアプリが落ちてしまい、記憶を頼りに歩くはめになる。最初は阿弥陀1丁目のほうへ行ってしまい収穫なしで終わった。そこから見えた古い街並みをアテに、東へ。

画像の説明たぶん旧街道だろうという道を歩いて行くと、だんだんと煉瓦転石が見られるようになった。ふらっと入り込んだ路地裏ではこんな一角も発見。焼損煉瓦を敷き詰めた小路だ。こういうのがあれば間違い無く近くに工場があったはず、と思ってスキャンのdpiを上げると、「大」という刻印のある煉瓦を発見した。この辺りで大正煉瓦の阿弥陀分工場だったことを思い出した。

「大」刻印は文字を意匠化したものと、四角い判に太楷書で「大」を刻んだものとがある。後者は機械成形の煉瓦に押されていた。さらに歩き回った結果、別の路地裏で「T」刻印も発見。ここで見た「T」刻印は、テトリスブロックのようなゴシック体で、サイズも小さめ。一円玉を載せたら隠れるくらいの小ささだった。

その刻印を眺めつつ、どう撮ろうか悩んでいると「どうしました?」と声をかけられた。その家の方らしい。「し、失礼しました、煉瓦工場を探してたもので」云々。冷や汗をかいたが、そのお陰で工場の場所を知ることができた。ほぼ目と鼻の先といっていい場所、旧街道を挟んだ北側にあったのだそうだ(工場通覧にあった番地そのままの場所)。

その方曰く、今から50年ほど前までは残っていて、大きな煙突も立っていていた(その頃にはすでに営業していなかった?)。しかし台風で倒壊してしまい、それを機に敷地を片付けてしまったのだそうだ。

画像の説明

教わった場所へ行くと、センチュリーアミーなるマンションと、その駐車場と、いかにも新しい住宅街があった。煉瓦工場の面影は一切ない。……と思ったら意外にも跡形があった。マンションの上り口や駐車場の外周壁に古いレンガが使われていたのだ。どれも手成形で大ぶりな煉瓦。もとからあった構造を流用したものではなく、解体で出てきた古煉瓦を積み直して作ったものらしい。

画像の説明ここに「T」or「大」刻印があるに違いない!と意気込んで見て回ったのだけれども、見つかったのは「K6」刻印だった。平を見せて並んでいるたくさんの煉瓦の中の2つに「K6」がある。その他にチョボが3つ並んだ刻印(らしきもの)も見つかった。これは1つだけ。んで、「T」や「大」は見つからなかった。

ここまで歩いてくる道すがらで「K9」「K7」刻印を見つけていた。Kなんちゃらというのは大阪でも見たことがある。そのバリエーションが遠く離れたこの場所に、そこそこの頻度で分布していたわけである。

ちょっとばかし謎だ。工場周囲には確かに「T」「大」刻印が分布していた。位置関係からいっても大正煉瓦の刻印と見ていい。しかし大元の大正煉瓦跡地にはそれがなく、「K」刻印が存在しているという……。

今から50年ほど前ということは1960年頃だから、大正煉瓦が戦後に名前を変えてこの刻印を使っていたのかも知れない。大正煉瓦が興った頃、少し離れた所に弘栄煉瓦製造所という工場があった。弘栄煉瓦製造所は「ABC」という社章を使っていたらしいが(大日本商工録参照。Amida 村にあった Brick Company だからな)、それが戦後に大正煉瓦を買収して「K」刻印に変えた……とか何とか遠回りな想像をせざるを得ない。ともかく「K」シリーズの出処が印南郡にあった可能性が出てきたわけで、ちょいとばかし驚いたことだった。

(工場の建物に自社煉瓦を使ったかどうかは検討の余地がある。少なくとも最初の窯は他所から煉瓦を買ってこないと築けないはずだからな)

昨日のエントリに上げた「T」刻印は旧街道の脇の花壇に使われていた。十三で見た「T」刻印と一緒!と思っていたのだが、よく見ると若干違った。Tの横棒の両端にセリフがついていなかった。たったそれだけの違いだから、同じ会社のものである可能性のほうが高いだろうが、最終的な判断は曽根工場の周辺を見て下したほうがよさそうだ。

[道路元標] 岸和田市道路元標・熊取村道路元標

画像の説明画像の説明

画像の説明熊村の元標には「昭和四年十一月」ナントカと彫られている。最後にわずかに文字が見えるのだがコンクリに埋まっている・・・。そこが結構重要なのに。恐らく「設置」か「建之」だと思うが。

大阪府の元標位置告示昭和四年十月。なのでその翌月にはもう設置されていたことになる。大阪府統計書昭和四年版(昭和四年十二月末調)を見る限りこの場所を府県道が通っていたわけではないので(現府道62号泉佐野打田線に相当する佐野粉河線は郡道上がりの府県道だったが)、村が独自に設置したものだろう。この頃にはすでに各市町村に一つという大前提が有名無実化していて、府県道の通らない市町村は無理に置く必要がないと考えられていたかったはずなのだが、それでも&告示直後に建標しているところに、道に対する熊取村の思いを読み取ることができる。形式行政の陋と取ることもできようがそれはあまりにあんまりだろう。

岸和田市の道路元標は現役場別館脇の旧紀州街道の辻の角に建っている。この辻は昭和16年まで国道16号が通っていたから、国道の管理者たる府県知事(府県)が設置する必要があった。大阪市や枚方町と同じ設置者なら、道路の真ん中に埋まっていた可能性があるのだが、いまは辻の角に、さも昔からこうでしたという顔をして建っている。遅くとも昭和58年頃にはすでに「建っていた」らしい。


2013-06-30 [長年日記] この日を編集

[独言] 掃除

特に理由はないが40lザックを洗った。買ってから初めてかも知れない。黒いやつなので汚れが目立たないのはいいが、洗うタイミングがわからない。ベトベトになって発酵臭がするような使い方もしてないし。しかし風呂桶に張った水はそれ相応に濁っていた。

資料の片付けもした。そろそろ棚が一杯になりつつある。

[独言][web] tDiary

いま出ている最新版がRuby1.8系列をサポートする最後のバージョンなのだそうだが、はて、どうしたものか。今のままで充分使えてるからな。できることもしたいこも充分間に合っているし、わざわざRDBに移す利点が(今のところは)思いつかないし。しかし一度乗り遅れると追いつくのが面倒だ。

[煉瓦] 大阪窯業と堺煉瓦の合併

大阪窯業が貝塚煉瓦・和泉煉瓦を合併した直後から「大阪煉瓦製造業者の大連合」みたいな話があったらしい(『大日本窯業協会雑誌』No.186、M41.2.)。なかでも大阪窯業と堺煉瓦の合併話はずいぶん進展し、大正2年の初頭には8、9割方成立すると見られていたという。しかしその年開催された堺煉瓦最後の総会で否決され実現しなかった。堺煉瓦は六大窯業会社のなかで最も営業成績が悪く、他の会社が配当を続けていた中で独り無配当を繰り返していたような状況だったから、どこかに救済して貰いたいという思いは強かっただろう。しかし土壇場で自力復興の道を選んだわけだ。

合併話がひっくり返った後、推進派重役が退任し反対派で固められた。そうして狭山村に分工場を設けて最新鋭の煉瓦製造窯を築いたり(京都陶磁器試験場長の設計に拠る遠煙突の上下引可能な輪窯だったという。どういう構造なのかはよくわからないがそう書かれる)、煉瓦製造機を新調したりした。そういう投資があって大正9年頃まで命を繋ぐことができたようだ。

そのほかにも日本煉瓦や岸和田煉瓦も合併話があったらしい。明治37年に成立した煉瓦業組合は同42年頃には六大窯業会社が加盟し実効力のある団体となっていた。合併云々はさておき横のつながりは昔から強かったようで、そんな状況を表すのに「トラスト」の語が使われているほどだ(以上同「大阪付近の煉瓦業」 No.246、T2.3.)。

といった小ネタを多数入手した。


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