nagajisの日不定記。
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今回わかったこと
https://lab.ndl.go.jp/dl/book/803740?keyword=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%85%89%E7%93%A6%E6%A0%AA%E5%BC%8F&page=135
明治4年4月 刈谷藩知事土井利教らが中心となって「刈谷士卒生産義社」を起業。農工業を中心とし、後に金銭貸付・質取りも行う(刈谷商社)。一時は横浜、平坂、刈谷に支店をおいていたが明治9年~12年にかけ各支店は解散。
「刈谷士族会」が生産義社の事業を引き継ぐ。明治12年に大野介蔵らによって「東洋組刈谷士族就産所」設立(発展史)。
レファレンス協同データベースに大の煉瓦工場についてのレファレンス事例がある。
刈谷市史年表 P280,284,291,295,310,313,329に"大野介蔵"。
・明治10年内国勧業博覧会に煉化石と瓦を出品。P280
・明治12年東洋組刈谷士族就産所を設立し、鎮台建築用煉瓦の製造を始める。P284
・明治20年旧刈谷士族授産所は鉄道用煉瓦の製造を開始する。P295
『刈谷が市になるまでの発展史』1955
・p58「四八、刈谷町綜合運動場設置(現公認刈谷球場)」刈谷町に大運動場を設ける為、刈谷旧城跡の隣接地で、元は刈谷授産所であった大野一造所有の
大野煉瓦工場敷地を提供したことについての記載あり
刈谷町誌 p.221~ に大野煉瓦工場の項目あり。
町誌編纂時点(S7前後)の規模
敷地坪数6000坪
建物坪数800坪
一箇年生産額300万個
工場主 大野一造
明治初年全国に六鎮台を設ける計画、この工事に使う煉瓦の製造を企て、明治13年大村某が資本金15万円にてこれが製造に当たらんと福島藩士齋藤實高(ママ)をして各地方を物色せしめ、西参の土質が最も適当とわかり、これを大野定に交渉。定は元士族救済の意味にてこの事業に賛成し旧士族授産所なるものを起こし煉瓦製造を始めた。
斎藤氏は同様の意味で西尾、岡崎、田原の有志にも勧め、結果刈谷と西尾に煉瓦工場、岡崎に土管工場、田原に石灰工場。
事業開始後鎮台建築が木造に変更され、陸軍に交渉して瓦製造工場に変更、一時は隆盛したが暫時経営困難。知事国貞廉平「大器晩成」の額送る。東海道鉄道創設により再び煉瓦製造を復活。後に大野煉瓦工場となる。
同書には刈谷町窯業生産額一覧あり。M40~の瓦、煉瓦、土管の生産額数。
人物 地方自治功労者の項目に大野定、弟介蔵の記載。煉瓦見本を抱えて町に売りに出たが一本も売れず川に投げ込んで帰ったという逸話などあり。
大野介蔵は松本奎堂の顕彰会などにも参加。lab.ndl.go.jpで検索のこと。
西尾市史 第4巻 p.108~に詳細あり。
(四)士族生産所の煉化石製造
齋藤実堯:師匠・宇都宮三郎 旧尾張藩士、蘭学系の化学・窯業の大家。新政府の工部権大技長としてセメント、耐火レンガ、人造石の製造にあたってきたが、M16からこれらの事業を民間に移すことになり、愛知県で育成しようと考えた。東京府の士族、旧盛岡藩南部家の家臣、斎藤三平の子
M14頃名古屋に。
三河の土が最適とみて、碧海郡大浜村や知多郡の瓦職人を説得し試作品を作成、上京して陸軍省の砲台築造にあてようと運動した。買い上げが決まったので名古屋に帰り起業に着手。しかし無資力の大山師・虚喝の売名者などと猜疑の声も多かった(大浜村での生産も軌道に乗らず)。
県令や碧海郡長市川一貫、幡豆郡長所重礼らの賛同をとりつける。
旧西尾藩 旧藩主の相続人松平乗承(のりつぐ)が金2000円、粟生重寔(しげただ)以下600人、 旧刈谷藩では大野定以下一藩全て 旧岡崎藩では玉置政治はじめ372人 旧吉田藩(豊橋)松井譲以下390人、 旧田原藩佐藤信邦ほか74人が参加 旧犬山藩にも参加の動き。
設立趣意書に「煉化石の需要は今は三砲台築造用だが、将来は四八砲台が築造されるので需要は無限である」。灯台でも鎮台でもなく砲台を意図してたはず。
東京→西尾の役員への書簡
製造の煉瓦は土質並びに焼き上り頗るよろしく陸軍省の品位検査で第一等に位する由→斎藤某に御用命ぜられたる由
斎藤氏資本金5000円にて製造所建築に着手決定の由
曩きに大浜村天王で製造失敗している(幡豆郡長所重礼談)ので、万一事業失敗したらと心配しているが、探偵を雇って調べさせたら国貞県令より岩倉具視に上申あり、岩倉公も大いに賛成し300円のご加入相成る(政府より応分の就産金貸渡し相成るべし)
※天王 新川町史では新川町鶴ケ崎
開業時期は明らかでないが、明治15年12月8日に設立という手紙の文言、明治16年3月15日の日付のある株券などあり。M15末~16年初め頃か
工場は碧海郡米津村荒子(米津町川向)22~47蕃、1町5反5畝16歩と、その地続きの幡豆郡上町村北大山5、6、7、12、13蕃、4反9畝2歩 土地名義は副社長粟生重寔
p.115
西尾分局 M16下半期の営業収支あり。薪代が粘土代の二倍以上。
M16.10.二度にわたって暴風雨、工場四棟倒壊、煉瓦の損害も大。この頃工員 士族347人、内男子283人、女子64人
p.117
「皇居御造営御用煉瓦及び水筒(道)管製造費概算」
M17 煉瓦一日16598個、土管105個、瓦500枚
月並み定費 2591円
この頃には砲台建築が休止となり皇居用に土管や瓦を製造して凌ぐ。また陸軍省兵営建築用の煉瓦製造に転換。
M17以降資金繰りが悪化、役員からも不満が出る。工費渡しも遅れ気味。よってM18.7より東洋組を離れ西尾工場として独立(『愛知県史』第三巻)。
はじめ天工会社(M18.2.10付定款、M18.4.14付営業規則)。名称変更して精成社となり、上町から塩町に移転と同時に休業(塩町の士族会所・松月堂に本社所在地を移したものとみられる)。
工場敷地や諸機械一式を東京深川亀住町在の笠原光雄に売却。笠原は旧西尾藩主松平家の家令なので、実際の買主は旧藩主相続人松平乗承と考えられる。これを西尾士族に再び貸与する形で同年三月「西尾士族生産所」を設立。 改名で済まさなかったのはいったん解散して債務を帳消しにする意図があった。
「西尾士族生産所」としての操業はM19.3.5より開始。「この節は鉄道局御用の大形煉瓦を製造中」で、10日までに30000個あまりができたが、11日に寒波があり未乾燥のもの1万個が凍てて崩れてしまう その余波で工場一箇所も倒壊。現在の就業人員は男女100人余り、その中で鉄道御用煉瓦の製造能力のあるものはわずかに17、8人に過ぎないので募集に努めている(書簡2 南→笠原書簡)
※鉄道省煉瓦は精成社時代に受注
書簡4 鉄道局御用煉瓦も色合いや焼成方法に種々苦しんだが、漸く色合いも十分なものができるようになり、先般注文の50万個のほかの10萬あるいは20万個の至急の注文分は悉皆上納済み、、50萬個のほうも15、6万は上納済み 先月上納済みの分代金763円を領収した。「右は東洋組創立以来品物を差し出し該代金領収候は全く初めての趣にて今井初め一同雀踊致し候」
刈谷士族生産所その他の煉瓦製造業者はみな鉄道局めあてであるが、規格そのほかで合格せず、どこも瓦解の姿、ひとり西尾工場の発展を「怨望」している さりながら今般郡内楠村において煉瓦製造所出来鉄道省に売り込みの計画をなす赴風聞 金主は大阪のもの 太田庄造は組合目論見候由なり」(太田は地元の著名な鋳物屋
p.126[88K] 精成社→西尾士族時の建物・地所・施設等明細
p.138 「職工人名」表あり。錦城町矢島貞一蔵。144名
開業2か年目、明治20年の生産状況「御貸下金実況取調書」←生産所操業開始から20年3月までの1カ年の成績。
一ヶ月50万個製造の計画だったが、明治用水の開鑿が始まり出稼ぎ人員が減少して不可能に
期間中に使用した粘土の買入量 1820立坪5合余、薪買入高は86万9365貫目、焼き上げた煉瓦はA、B、C厚型、並形合わせて253万1187個、売上個数は228万5352個。計画の半分以下。
明治20年10月11月中棚揚げの表あり。鉄道省納入分は主に豊橋へ送った。ほかに愛知県師範学校へも。
棚揚げ表より
下等交り煉化石 138831枚 1銭につき7枚
上等イー形 37882本 1000枚につき8.15円
同 デー形 5,381本 1000枚につき7.00円
同 ABC形 52607 1000枚につき6.00円
同 厚形 64672 1000枚につき8.15円
同 並形 1,889 1000枚につき4.00円
同 イロハ印形 1395 8370 1000枚につき6.00円
下等交り形 33,070 1銭につき8枚
エー形白地 7,168 1000枚に付き 1.10円
デー形白地 6947 1000枚につき 1.17
M21下半期「計算書」あり。煉化石売却代は前資料の約三分の一まで低下。末尾にM22.3.27の日付あり。
明治25年頃には廃絶したとされる。ただし明治23年地所を売却したという記録もあり(西尾市史6 年表)
→明治23年「8月11日、 士族生産所の煉瓦工場跡地三町二反を一三七〇円で、煉瓦屑一万六〇〇〇本を一車三銭ずつで、下町の荒川仁太郎が買って、西域用水から水を引いて耕地化した。(士族生産所の廃絶の時機が明確でないので、この年月には疑問がある)。」
明治工業史 第9編 化学工業編 pp.547~548
小菅集治監の登り窯=三河からの技術輸入。
M15、6年の交、陸軍省で富津・観音崎灯台の建設に際し東京産煉瓦の品質に不安があると聞いて旧南部藩士にして大学南校で応用化学を収めた齋藤實堯が碧海郡大浜村字新川で煉瓦製造工場を開設し見本を陸軍省に供す→直ちに採用され更に幡豆郡西尾町、額田郡岡崎町等に製造所を起こし、当時東京集治監の技師たりし小倉常祐、高木忠五郎を聘して盛んにその事業を拡張。一面には士族授産の目的にもそわしめる。愛知県知事国貞県令もこれを大いに支援。ついで皇居御造営に際してもその煉瓦の大半を調達すべき命を受けそんなこんなで三河の煉瓦業は一時に大発達。ただしその製法は、普通手抜天日乾燥で、英国式の野焼釜を築き燃料には専ら紀州熊野産の松薪を用いた。経済上において失敗。のち明治19年東海道線の建設が始まり需要激増し、登り窯を築いてその供給力を増進。関東各地の製造所に三河人多し。
関東からの技術指導があったとすれば製法は関東風になっているはずだが、上記指導は刈谷分局に対してなのか、西尾分局なのか、あるいは両方か。
開校廿周年記念東三河産業功労者伝に詳細あり。明治11年頃三重県で紡績業を指導、染色法の著作もあり。この本では田原でのセメント製造への関与を中心に書かれている。
西尾士族生産所の資料を見ていて、21年の棚揚げの表に「並形」煉瓦の納入が記されていることに気づく。これとは別に「厚形」もあって、量はそちらのほうが多い。この「並形」は並形という形式に言及した最初期のものと思う。
東海道線中京区間の建設に使われた煉瓦はことごとく肉厚の煉瓦であった節があり、この状況は天竜川橋梁の辺りまでは確認できた(つーても浜名湖と天竜川しかみていないのだけど)。『西尾市史』にある手紙にも鉄道局御用の厚形煉瓦と書いてあった。もしかしたら全線的に、規格として肉厚煉瓦が採用されていたのかも知れない。この建設に合わせて従来より厚い煉瓦を採用することになり、その厚形煉瓦と従来の煉瓦を区別するために「並形」という表現が生まれ、それが関西方面に逆輸入されたのかも知れぬ。時期としては合うのである。『建築学提要』の頃にはまだ大阪形と呼称していた。それがM25頃の市場価格調査では並形になっている。M24には作業局が普通煉瓦の規格を定めていることもあり、従来品を特に呼ぶ呼称は必要性を増していたはずである。
そうか、同じ頃山陽鉄道も肉厚の山陽形を作り始めていた。『建築学提要』では大阪形東京形と並んで山陽形が掲げられている。
じゃあなんで東海道線建設で肉厚煉瓦が採用されるようになったのかという話。そこに村井嘱の三工場が関わってくるのではないかと想像する。静岡県下に三工場を設けて煉瓦を供給したわけだが、付近の粘土は関西の土ほど良好ではなかったはずで、関西で製造していたような厚さの煉瓦を焼くのが難しかったゆえに、厚さを増すことで対応しようとしたのではないか。少なくとも5種類以上あった異形煉瓦なんかは焼製時に変形してしまうと規格をたてた意味がなくなる。
陸幼日記を2022年の日付で投稿してしまったので削除し昭和16年に移したのだが一度書き込んだ日の日記は空欄のまま残ってしまうのだった。なんか催促しているみたいなのが嫌なので間違えたことを書いておく。8月17日まで限定の未来日記である。
あー、そういう使い方ができたら面白いのかもな。何か予定がある将来の日に予め書き込んでおくとToDoみたいな使い方ができそうだ。しかしそうすると最も大きなタイムスタンプの日記がトップに表示される仕様上一つまでしか予定に気づけない。
陸幼日記は10月に突入。あと2ヶ月で太平洋戦争に突入する。その危機感はこの時期の日記には現れていなくて、鉄棒大振りを会得したことに喜んだり同級生の話の上手さに感心したり急に寒くなった気温に震えたりしている。これから大変になるんだよと声をかけたくなってしまう。無駄なやきもきである。
とりあえず北口まで北。野々脇峠を越えて林道に入って、峠を探ったところあたりで前編了でよかろうと思っている。直後に旅メモを書いているお陰で細部を思い出せてありがたい(旅以降何度も場面を反芻したというのもあるけれど、メモを書くこと自体が最初の反芻であっただろうしな)。毎回此れくらい書いておかないと、自分の脳みそはもう細部を覚えられなくなっている。
という結果になった。多いのか少ないのかわからん。70kgの16%ということは脂肪として10kg抱えているということになるわけだから、そりゃ体重いわと思う。自転車に乗っていると重くてかなわない。未だに適正体重は60kg弱と思っているが特に根拠はない。昔そうだったからというだけだ。
まあどうせこの夏でまたコッテリ絞られることになるんだろうしな…ちょっと動いただけで滝汗をかくのはいただけない。汗も汗臭い汗である。さっさと絞りきってさっぱりしたいところだ。
誕生日プレゼントだ、くれてやる!
の橋脚の古写真がほしい。
もともとはこの写真が発端。
『日本鉄道史 上編』(M20頃) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127152/313
橋脚は楕円形あるいは小判型で、両端は石積みだったとみられる。長良川橋梁もこうだったな。壁体はどうだったか。てなことを考えていたら妙に丈が低い気がしてきた。一度嵩上げされてるんじゃないか。
ネットでみつけた古写真ではもっと高い気がする。そのへんを高画質の画像で確認したい。
『地理写真帖. 内國之部第4帙』(M33) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761461/28
初代の200ftトラス。構門構のアップはあるんだ・・・
『写真集明治大正昭和浜松 : ふるさとの想い出7』(T2頃) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9537739/52
大正2年複線化時の工事中の写真。橋脚は端が石積みなのは間違いない。壁体はどうやねん。影の付き方からして北側から撮ってるはずで、だとすればやはり上流側に拡幅したことになる。
『静岡県磐田郡誌』(T10) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965680/37
やっとあったけど…やっぱりわかりづらいな。見る限り別に嵩上げはされてないみたいだ。
というわけで解決したが、しかし肝心の煉瓦瓦礫の件が解決しない。ビー3個横並びにAらしいものがくっついた瓦礫とか、明らかに水切りっぽい尖った積み方をした瓦礫とかあって、どうも楕円形井筒と結びつかない。何やったんやろうと思うけれども、たぶん今頃は増水で流されている。
これは大丈夫だろうな…。旧橋脚の天辺に乗っていたはずの切石。なかなかでかい一枚岩で、ひどくもったいない。こういう石が潤沢に切り出せるエリアだったから石を多用したんだろう。
『日本鉄道史』上編p.495に東海道線沼津天龍川間を南清が担任したとある。それで省線の肉厚煉瓦が南清経由で山陽鉄道に!とか早とちりした。南清の山陽鉄道就任はM23。線路測量は日本土木会社、当初の土木技師(長?)はヒュー・オルター・ベルチャー(英)でM20.10.12より3年間の契約。南はその後を継いだ。(『山陽鉄道物語』)
なのでベルチャーが目地込み3吋で設計したから山陽型がああなったわけだ。
財団法人山口県同郷会五十年史 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1457787/17
大阪府工業概覧 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/802675/220
M27創業中央セメント株式会社取締役 監査に野田吉兵衛
中央セメントは日本会社銀行録. 虎の巻 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803741/110 のほうが詳しい
神戸開港三十年史. 下 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992516/318
M24 この頃各地に銅像建立ブームがあり、神戸でも井伊直弼の銅像建設が計画された 発起人に井上勝彦 しかし井上に故障があって計画は中止
皇室之藩屏 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780697/360
井上勝の妻宇佐は井上勝彦の長女
_ tyaffic [vs脂肪率 って事で。 というか、お久しぶりです]