nagajisの日不定記。
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好きな人や物が多過ぎて 見放されてしまいそうだ
虚勢を張る気は無いのだけれど 取分け怖いこと等ない
此の河は絶えず流れゆき
一つでも浮かべてはならない花などが在るだろうか
無い筈だ
僕を認めてよ
明日 くたばるかも知れない
だから今すぐ振り絞る
只 伝わるものならば 僕に後悔はない
椎名林檎「月に負け犬」
いつも体を冷やし続けて無言の季節に立ち尽くしつつ浴びせる罵倒に耳を澄ませて数字ばかりの世に埋まる一年にしたいと思う。後ろ向きなのではない。世界が自分と違うほうを向いているのだ。自分は自分の進みたい未来を向いている。あるいは自分のできる極く些細なことを些細じゃ無くするために自己敷衍しているノミナリズム。
美輪明宏の声量に圧倒され昨年のヨイトマケを見に行ったついでにメドレーを聞いてしまい蕎麦が遅刻しそうになった。その流れで原田神社に行ったら中吉だった。「願望 心配多くして其功すくなく急ぐな」と。うん。良い感じじゃないか。しかし「失物 出るが役にたゝず」ってのは、ひどくね?
人っ子一人いなくて気持ち悪かった。
この間の祭りの影響か超迷子のDBがおかしくなり検索できなくなっていたので修正をばした。てゆーか2010年以前の日記をsqueezeしてなくて検索に引っかかってなかった模様。そのへんの日記は利用価値のある情報ではないので困りはしないのだが、とまれこの部録”、検索ができないと最後の存在価値を失うことになる。あとで検索して自分で利用するために書き散らしておるのだ。
お勤め。明治初期から大正まで仕上げた。あとは近世以前の作成と昭和の見直し。府県道一覧/図は諦める。ページ足りひん。写真どんだけ入るやろ。まあなくてもいいか。
PM-870cを使っている。今年の年賀状をプリントアウトし終えたところで黒が出なくなった。いつもならヘッド拭き掃除で復旧していたのだが今回のはちと重症らしい。いくらオイルで吹こうとも戻らない。線の一本すら出ない。
いま調べたら2002年発売モデルというからもう12年も使っていることになる。そう頻繁に使うものではないがないと困る。発送状とか印刷できないし。 なので徹底的に分解してヘッドを洗浄することにした。これでダメなら別のを探す。
http://opacsvr02.library.pref.nara.jp/mylimedio/dl/page.do?bookid=100305220&tocid=0&page=364&pageseq=364
五月橋架橋の件
吉野山林鉄道 丹治から迫まで!
http://opacsvr02.library.pref.nara.jp/mylimedio/dl/page.do?bookid=100312847&tocid=0&page=287&pageseq=287
砂防
西熊野街道T12
西熊野街道T4 この頃未だ熊野街道
車坂 M31
_ 蛾背大衆 [ランドセルとは本来「蘭背瘤」と書く。江戸時代にオランダ(蘭)から洋式軍備を導入した際、兵士が「こぶ」を背負っているように見えたことに由来するという。 という記述を民明書房の本から引用されたときの..]
やっと最後の記事があがった。いらんことせにゃよかったな。キニチョかかると雪だるま式に図が増えるの、忘れてた。
ひさしぶりにことえりさんの返還もとい変換の悪さにイラッときた稀農協もとい昨日今日。GoogleIMEがいかに便利か再認識した。文章が架けなくなったのはその成果も知れないが名。
謹慎もせず資料を取りに行く@府立図書館。そうして新聞記事を検索していて積年の疑問を晴らす記事を見つけた。隧道という言葉が使われなくなったきっかけかも知れない記事だ。
ものは読売新聞昭和38年1月6日の「気流」欄。よくある読者投稿欄である。
「隧道」は新しい呼び名に
▽伊豆地方をバスで旅行して気がついたことは「××隧道(すいどう)」と呼ばれる山をくり抜いて作った道路の多かったことです。「隧道」とは、もともと棺を埋めるために地上より斜めに墓穴に通じた道、すなわち墓道の意味であり、転じて地中を通ずる道、トンネルとなったもので、汽車の通るトンネルと区別するために「隧道」と名づけたと思われますが、交通事故の多い現在のこととて、私はそこを通るたびにいやなことを連想しました。
▽この漢字は当用漢字にはいっていません。他に適切なことばがないために使っているのだと思いますが、当用漢字制定の意義を生かすために私はこの際、新しい呼び名に改めたらと思います。なお、ガイドさんはこれを「ずいどう」と呼んでいましたし世間でもそう読む人が多いようですが、正しい読み方は「すいどう」です。(茨城県・中学校教員・K生 35)読売新聞 昭和38年1月6日朝刊「気流」
何このnagajisみたような物言い。いかにも日本人的潔癖症的俺は正しいこと知ってるんだぜへヘン的な投稿で、自説とそんなに変わらないにも関わらず鼻白んでしまった。とはいえこの欄、本来そういう率直素朴な意見を交わすコーナーなのだから何の問題もない。上記投稿を読んで「上から目線」というワードが思い浮かんでしまったほうが卑しいのだ。
正しい対応はこう。記事が載った6日後に反論の意見が寄せられている。同月12日「潮流」欄より引用。
「隧道」は「トンネル」でよい
▽六日の本欄-「隧道」は新しい呼び名に-という意見に対して異議がある。私はしいて新しい呼び名を付ける必要はなく、今日では完全な日本語になりきっているトンネルでいいと思う。K氏は汽車の通るトンネルと区別して、人や自動車の通るのを「隧道」と呼んでいるように解釈していられるが「隧道」という文字がわが国で一般に使用されるようになったのは、明治以後鉄道が山地の地下を貫通するようになったころからのことで、トンネルと同義語にほかならない。「隧道」の本来の意味が隧道であるということは別に気にするほどのことはないと思うが、当用漢字にない文字を使うことはやめた方がよいと思う。トンネルの原語は英語のTunnelであるが、決して汽車だけの通る地下道の意味ではなく、坑道のようなもをも意味しているし一様にトンネルと呼んでさしつかえない。(栃木県・自由業・荒江啓郎 73)
読売新聞 昭和38年1月12日朝刊「気流」
要するに、隧道は昔からトンネルなのだからトンネルと言えばよい、ということ。至極穏当な意見である。
この読者投稿欄がきっかけとなって「トンネル」と呼ばれるようになった、かどうかはわからない。所詮一新聞の一読子の意見であるし、そもそも自分が覚えている記事はこんなんじゃなかったような気もする。「隧道」を「すいどう」と読むべしという下りは特に覚えがない(それは隧道詳説を書いていた頃に私が勝手に言い出したものだ)。
けれども、自分が記憶している記事(確か書籍の文章だったと思う)でも「隧道=墓穴のことだからヤメロという話が出てトンネルになった」という流れだったし、昭和38年のというのが妙にしっくりくる。この頃を境に道路隧道を○○トンネルと命名し始めるような超漠然とした印象がある。
「隧」の文字が当用漢字に採用されなかったことが衰退理由の一つであることは確かだろう。当用漢字は国語の簡素化を目的にGHQの指導のもと昭和21年に制定された。昭和31年には当用漢字表にない文字を使った熟語を別の漢字で書き換える指針「同音の漢字による書きかえ」が国語審議会から出されている。「沈澱」を「沈殿」と書くとか何とか。使用できる漢字を制限するなんてことは立国以来の大変革であったから、その実施についてはさまざま議論が巻き起こったけれども、結局いつのまにかスタンダードになって今みたいになった。そんな当用漢字が浸透しつつある時代の投稿で、件の誌上論戦(てほどでもないか)が中学校先生によって始められているのも当世風か。
おまけ。明治15年10月15日付朝日新聞大阪版、伊勢本街道の田口の隧道開鑿を報じる記事では「隧道」と書いて「トン子ル」とルビが振られている。読売新聞明治11年(1878)11月20日読売新聞、和歌山県の熊野街道に3つのトンネルを穿つ計画が民間から持ち上がったという報では「墜道」に「ほらみち」。同新聞明治16年(1883)10月13日、鐘ヶ坂隧道の完成を報じる記事では隧道に「とんねる」である。この頃の他の記事をもっと見ておけばよかった。鉄道トンネルの工事の話が良く出てくるから。田辺朔郎が書いた隧道工学の教科書も、題はまんま「とんねる」であったが、大正11年刊なのでちょっと毛色が違うか。
_ 随道が正しいです by 国土交通省 [個人的はコンピュータ等で隧のつくりのてっぺんが何故「八」なのか気になっています。歴史的経緯なんでしょうか... まあコンピュータ的にはユニコードの異体字セレクタというものが出来て選択可能になっ..]
「隧」の解説が見つからなかったので「隊」を調べてみた。大修館書店『漢語林』改訂版によると「隊」の甲骨文字はこんなふうなのだそうだ。右辺は階段を表す部首。左は人を表しているが上下逆さま。階段から人が逆さまに落ちるさまを表す会意文字で「おちる」の意味を表しているという。今だと群れを意味する文字としか認識されていないけれども、抑は落ちるの意味を持っていたのだ>隊。とても意外だった。
これが篆文の頃に形声文字となり、「阝(こざとへん)」と旁の「タイ」の組み合わせになった。「タイ」は音符であると同時に落ちるの意味をもつ。で、「タイ」の頭の二画は「八」のように書くのが一般的だったようだ。これが楷書体→活字体と継承されていくことになる。「隊」も「墜」も旧字体は右辺頭が「八」だ。
で、件の記事の話に戻る。昭和21年に当用漢字が定められ、同24年に国語審議会によって当用漢字字体表が答申された。この字体表のなかで「隊」は2点にされている。他にも「遂」「墜」などが当用漢字となり2点表記にされた。一方「隧」は当用漢字にならなかったから以前の表記のままで置かれた。そんな当用漢字にない文字だから「隧道」という言葉をやめようと「気流」欄投稿者は主張しているわけである。
『漢語林』によれば、「隊」には谷あいの細い道だとか「はかみち」の意味もあるという。だから「隊道」という表記もあり得た。抑も「隧道」でなければならなかったことはないらしく、「隊道」「墜道」のような表記を戦前の文献ではよく見かける。また「タイ」の頭を二点で書くことも多かった。右の写真は小南峠隧道(明治36年だったかに竣工)の銘石で、「タイ」の頭を二点で書いている。
天辻隧道(大正11年竣工)扁額のように二点でも八でもないものさえある。
旧鈴鹿隧道(大正12年竣工)に掲げられていた金文的篆書額by堀田知事。「鈴鹿遂道」と書かれている。『漢語林』の「遂」の項目には「ほそみち」「はかみち」の意が列挙されていないけれども、T8起工の佐和山隧道に「茂進遂道」の草書額を寄せているところから考えても、堀田はトンネルの意味でわざとこの文字を選んでいたのだろうと思う。
これは昭和3年に作成された五社隧道期成同盟のパンフレット。冒頭に大きく「五社墜道ノ速成ヲ期セ」と書かれている。トンネルを作りたがっている側が当のトンネルの字を間違うとは思われず、「墜道」でふつうに通用していたと見るべきだろう。
以上の表記を草を生やしつつpgrするのは容易いことだ。「随道」をあげつらって嗤うのもいい。けれども私は、その文字が選ばれた理由があるに違いないと思う。その文字を書いた人には意図があったのだろうと思う。そういうのを考えて、昔人の心に思いを馳せるほうが、私は好きだ。
BCTableを作っていて、うちの近くに「豊島煉瓦株式会社」なるものが計画されていたことを知った。明治30年頃のことだ。『大阪府統計書』明治30年度版に所在地豊能郡豊中村、資本金60,000円、うち21,000円が払い込み済と記載され、それっきり消えてしまう。職工数が載っていないことから実稼働する前に解散してしまったのだろう。そんな会社だからあまり気にしていなかった。
けれども先日、府立図書館へ行って過去の新聞記事を見ていた時、豊島煉瓦の記事が出てきた。読売新聞1897年2月21日の朝刊5ページだ。
○豊島煉瓦株式会社 兵庫県川辺郡尼ケ崎町の大塚茂十郎、中塚彌平、川口半三郎三氏外七名は資本金六万円(二十円株)にて標題の会社を大阪府下豊能郡豊中村大字桜塚に、工場を同郡豊中村大字桜塚字市ヶ谷及び豊島村大字長興寺字紅山に設けんとて此度設立認可願を出したる由
桜塚に会社を置く予定だった、と知って俄然興味が湧いてきた。なんとなれば今住んでいるところが中桜塚だからである。工場に至っては小字名まで記されている。この前知った小字図を使えば、それがどこなのかわかる。まあ、わかったところで実稼働したわけじゃないのだから、何の痕跡もないはずだが。
「大字桜塚字市ヶ谷」は、国道176号線沿いにあるロイヤルホストの辺り。岡町周辺は名前の通り岡のような地形になっているが、その岡の端の辺りに相当する。ちょっと錯綜していて小さな飛び地もあるようだった。「豊島村大字長興寺字紅山」は緑地公園の一角になっている。南西端にある「服部緑地ウォーターランド」の付近がそれで、中ノ池・山の池という二つの池の北畔だ。特に紅山は、小曽根煉瓦(関西煉瓦石会社の前身)があった小曽根村に隣接していて、小曽根煉瓦との関係も伺える。
ちなみにこの付近の旧街道(能勢街道)は地図で水色線で示したところを通っていた。市ヶ谷は街道の西側、紅山は街道から東へ2、3の尾根を離れたところになる。途中には嘉永巳酉(1849)に設置された道標もあって池田道(=能勢街道)と勝尾寺へ向かう道の岐れを示している。勝尾寺道はいまの府道43号。能勢街道は国道173号の前身ということになるが、現在の国道線は昭和9年に開かれた新道だ。
山の池の北岸。向こうに見えるのは大字石蓮寺の集落。左岸が字紅山にあたるが、緑地公園が整備された今日、昔の姿を留めているものはない。またウォーターランドが陸地の大半を選挙していて歩き回れる範囲も限られている。ここに工場を作ろうとしたのはやはり池の底土をアテにしていたからだろうか。
字市ヶ谷。今は南桜塚一丁目になっている。すっかり住宅街になっていて地形を読み取ることも難い。
朝日新聞大阪版1888年5月2日朝刊4ページより引用。
●煉瓦の製造額 輓近建築工事の盛んなるより煉瓦の需要頗る多く孰れの製造所も多忙を極むる由なるが今是が一ヶ月の製造額を取調べしに一万以上を製出する所は左表の如くなるよし
製造所名 所在の地 一ヶ月製造額 浅田組第一工場 西成郡野田村 耐火 二万五千 第二工場 同 難波村 五十四万 共栄組 同 同 二十万 煉瓦石製造会社 豊島郡小曽根村 三十万 西の宮煉瓦製会社 西の宮 三十万 協煉瓦製造会社 堺 四十五万 旭商社 同 四十万 成金社 同 三十万 稲荷組 同 三十万 原口煉瓦製造所 同 四十万 青山組 同 二十万 佐藤組 同 三十万 花岡組 同 二十万 作田組 同 二十万 三栄組 住吉 三十万 真善会 同 二十五万 小山組 同 十万 岸和田第一製造所 岸和田 四十万※ ※数日後に訂正記事があり、岸和田第一製造所は百二十万とされている。
「製造額」とはあるけれども生産個数のことらしい。一ヶ月に10万円も20万円も稼いでいたらウハウハ過ぎる。
朝日新聞東京版1897年4月15日朝刊6ページより引用。
●大阪の煉瓦製造額 近年鉄道、船渠、築港、家屋其他種々の土木事業続起し随いて煉瓦の需要日一日増加するより大阪府下の煉瓦工場の如き孰れも非常の繁忙を極め現在組合を組織し居る工場のみにても昨二十九年中の製造高及価格を挙ぐれば
工場 個数※ 価格※ 堺煉瓦会社 651万個 1万6155円 岸和田煉瓦会社 1003万3470個 5万6266円50銭7厘 貝塚煉瓦会社 481万3260個 4万1201円51銭 大阪窯業会社 255万4781個 1万7101円79銭 三栄組煉瓦製造所 220万個 2万1500円 若井煉瓦製造所 262万9500個 1万8177円57銭 旭煉瓦会社 199万80個 1万9900円90銭 附洲煉瓦製造所 191万9400個 1万7114円10銭 日本煉瓦会社 114万7655個 1万3198円3銭 丹治煉瓦製造所 167万8900個 1万2788円52銭 東洋煉瓦製造所 96万個 7680円 湊煉瓦白地合資会社 20万個 900円 大阪土木会社煉瓦製造所 129万2381個 2万248円60銭 石井煉瓦製造所 62万個 4216円 福島煉瓦製造所 46万5000個 3552円50銭 子師煉瓦製造所 74万2147個 6451円86銭 大津煉瓦製造所 5万個 500円 計 3980万6586個 31万7177円89銭 にして此他組合に加入せざる工場は八十以上に及び白地製造工場も会社と一個人とを合すれば殆んど百に垂んとする大数に上り実際同府下にて製出する煉瓦の数額は誠に夥しきものなり而して需要は益々加わり供給は愈々不足を告ぐるより追々粗製濫造の弊を生じ将来建築上に危険を来さん虞もあり且は右の如く数多の工場続々起るより自然職工争奪の紛糾を起すこと尠なからず未だ紡績職工の如く甚しきには至らざれども早晩一大紛議を醸さんも測る可らざる状況あり因りて前記の十七工場協議の末急に組合の規約を改正して有らゆる同府下の同業を加入せしめ粗製乱造及び職工争奪の二弊を除去せんとて目下考案中なりと云う
※原文漢数字を数字に改めた。
というわけで明治30年にはすでに煉瓦業組合があったことがわかる。というより明治33年3月7日に産業組合法が出来たから正式に申請したってことなんだろうな。
上にも出てくる千体村の三栄組煉瓦製造所。朝日新聞大阪版明治20年10月1日朝刊に広告が出ていた。「三栄」だから三本線を組み合わせた社章なんだな・・・って、これ、宮崎商会>堺煉瓦石のと一緒じゃん(汗
時系列では宮崎商会→堺煉瓦石広告(明治20年9月17日付)>三栄組広告(明治20年10月1日付)の順。南附洲新田濱に堺煉瓦石なる会社が成立した形跡は(大阪府統計書等の文献では)確認できていないので、濱に作ろうとしたのを止めて三栄組になったのかも知れない。三栄組のほうは稼働実績がある(上記M21の産額など)。
ひどくややこしいことに、同じような配置の三本線刻印は愛媛の三津浜煉瓦も使用した。さらには戦後の播州煉瓦合同もこれを使った(バンレンと名を変えPC製品を製造している現会社もこれを社章にしている)。
小曽根で見つけたこの刻印は播州煉瓦合同のものだろうと思う。
加古川市西神吉町岸で見つけたこれとほぼ同じなので。三本線がくっつかないのが三津浜煉瓦なのかも知れない。十三にある、三本線で機械整形のものなど。
これも小曽根の旧市街で。横山耐火煉瓦?と思ったがNが説明できない。YaNoKo?なわけないか。あとSKグレード表記の「S」が逆さま。刻印原盤を作るときに見たママを彫りつけてしまうミスは案外多かったのかも知れない。和田煉瓦のワとか、大正丹治の逆バージョンとか。
これは玉手(旧勝間村)で。キシレンの St, Andrews cross と一本線が入っている。機械整形の擦り傷が長手間に渡っているのでキシレン自慢の米国チャンバーブラザーズ社製裁断機によるものではない。同じキシレン刻印の煉瓦でも違う機械によるものがある。これをキシレン内の別の機械によるものと見るか、後年普及型裁断機にリプレースされたと見るか、他の工場がキシレンに納入するために普及型裁断機を使って作ったものと見るか。煉瓦の質は手整形+キシレンクロスのものに比べてひどく劣っている。土が違う気がする。一本線が何かのヒントかも知れない。
三石耐火煉瓦製。JISマーク入。これも勝間村で。
道明寺の鷽替え神事に連れて行ってもらった。木彫の鷽を交換しあって厄災を払おうというもの。何も当たらなかったけれども木彫の鷽をいただいた。この省略化・デザイン化がなかなか素敵だと思った。
後ろはこうなっている。羽根の色と表現がいい。
大阪府下、特に淀川以南で比較的頻繁に発見されるこの刻印。何処の煉瓦工場のものかわからなかったのだが、本日の探索行で有力な物的証拠に出会った。昭和3年に 泉北郡八田荘村大字堀上町156に興った 堺煉瓦製造所 (!=堺煉瓦株式会社)である可能性が高い。
現在は堺市中区になっている堀上町の156番地付近でこのような壁を見つけた。丹治煉瓦工場の壁によく似た見事な透かし積み+三種類の異形煉瓦を使った芸術的な煉瓦ワークに仰天した。三種類というのは、いわゆるへっつい角に使う丸角のものと、半円形のものと、普通煉瓦の長手が1.5倍になったもの。最後の一つは丸窓の桟に使われている。 そうしてここに使われている煉瓦がすべて
★刻印なのだった。
堀上町にはもう一つ煉瓦胸壁の小屋があって、ここにも★が使われている(裏には焼損煉瓦を使った壁も)。地蔵尊の祠の脇に積まれていた古レンガも★だった。これだけ集中的に使われている地域は初めてで、なおかつ工場の番地にそれがあるというのだから、かなり確率が高いだろうと思う。
★が堺煉瓦製造所だとするといろいろ説明がつく。大阪府の中部〜南部にかけてこの刻印煉瓦が分布していること、比較的分布数が多いこと(=後年まで製造してたから)、五本線と五稜星の近似していることとか。ただしこの会社は昭和3年創業なので、和泉市の舊府神社壁に堺煉瓦・日本煉瓦と共使いされていることが説明できない。明治29〜昭和21の日本煉瓦はともかく、大正9年頃廃業した堺煉瓦と一緒に使われるわけがない。
次点として八田寺村にあった塔本煉瓦商会の可能性が考えられる。もとは素地専業でM36年頃 鳳村大字大鳥に 創業、後に八田荘村に移って製造もしていた(大正5年)。大正10年には東洋煉瓦が買収している。塔本煉瓦商会所在地は八田荘村大字八田寺で、堀上町の西隣。T10時点で月産50万個(過去記事山椒)。
堺煉瓦製造所の規模はbctableで書き忘れている。S3−14まで存在し、その後似たような番地(165)に日本マグネシア煉瓦会社ができている。いま堺市堀上町には165番地が存在しない。堺温心会病院の斜向かいが164番地。
壁・倉庫はどちらも個人宅。前者は留守、後者は在宅だったが無関係とのこと。話を聞こうとすればするほどうっとうしがられて体よくあしらわれた。
堀上町のほか、深井駅東側の深井東町でも★が優勢。八田寺町は歩けていない。
それに、堀上町でこんな煉瓦を見かけた。「S」とだけある。S=堺と見れなくもなく、そうなら★=塔本説を後押しするだろう。ただし採取できたのはこの1つだけであった。堀上町では他に焼損煉瓦っぽい紫がかった 機械整形煉瓦を複数個発見したが、この一団にも★は混じっていたのだった。
たまたま通りがかった深井沢町住宅は煉瓦の特異点になってた。理由ははっきりしないのだが、なぜか古煉瓦が多数花壇に使われていた。耐火煉瓦が多く、写真のFYKのほかにもATR、TAR、KATO、FUJIなど散見された。それに加えていびつな機械整形の赤煉瓦(JISサイズ)が多数。そんな中に
深井駅東側の花壇で。隣に大阪窯業のOYK。
関西地方の煉瓦製造業を知るための補助的位置付けの資料であるにもかかわらずどんだけ時間くっとんねんちう時間をかけて作成した。オレンジ色の丸の数だけEXCELのマスを埋めたんだからそりゃ時間かかるわい。
工場通覧+αしか見ていないので関西版ほど完全ではない。本来なら各県の統計表とかも見て細かく確認せにゃあかんのだけどそこまで手が回らず。&昭和11年以降16年までのが見れてない。なので関西版とは少々異なるフォーマットになっている。●がついている辺りには確かにその工場があった、という目安程度のもの。だから本山陶器組合工場のM10.7.創業とか江田島煉瓦製造所T6.10.創業とかは正直信用しない方がいい。サブマリン的に浮上する大正末~昭和初期の頃にそのような工場が稼働していたことだけを見たほうがいい。
広島県だけは統計書がデータ化されていて楽できたので反映させた。そのお陰で明治期の工場の状況がだいたいわかった。江田島周辺に高田輪窯とか共同輪窯とか興味深い工場がある。継承関係は正しく終えていない。三浦家があっちゃこっちゃ手を出しすぎ。そして戦前戦後に木谷村あたりが大煉瓦産地になっていくのが手に取るようにわかる。そういうのを作りたかったのだよ。
岡山県は普通煉瓦だけだと寂しいので耐火煉瓦を入れてある(そのせいで余計に時間がかかった)。素晴らしい量の耐火煉瓦工場群。戦後に大阪窯業が入ってきて勢力図が塗り替えられる辺りは作ってて面白かった。三石はどちらかというと細く長くなのだな。
山口県は耐火煉瓦に加えて耐酸煉瓦の製造が盛ん。徳島・香川は戦後に突如煉瓦工場が雨後筍立する。こういうところにも地域差が出てて面白い。
次やるとすれば福井・岐阜・愛知・三重辺りということになるのだろうけど(九州の煉瓦はほとんど入ってきていないように思われる。耐火煉瓦も)、愛知が馬鹿みたいに多いうえ鈴鹿関愛発関を越えて入ってきた煉瓦は少ない感じなのでずいぶん先のことになるだろう。関越えて出て行ったのはたくさんあるんだけどそれも大工場に限られてるからなあ大阪窯業とか岸煉とか。
以前小曽根の煉瓦工場について字向イ山だったんじゃないかと書いた者だが。どうも自分の早とちりであったらしい。コピーし損ねていた新聞記事を取得しに行った時、他の記事でも関西煉瓦石のことが載っているのを発見して、そこでもやはり「字白山」となっていた。1つ2つじゃない数の記事で。故に「字向山」を書き間違えたものではないと訂正せざるを得ない。
加えて、明治29年に豊島煉瓦が設立された時、その本社は桜塚に、工場は小曽根村字紅山と豊中村字市ヶ谷に築こうとした。ここでも小曽根が出てくるのだ。何か関係があるんじゃないか。
それで、24日のエントリに書いた予定地跡散策に相成ったわけである。この日は特にこれといった発見はなかったが、帰り道に、ふとした閃きがあった。
字市ヶ谷の近くに「城山町」という町名がある。
城山。しろやま。白山。ひょっとして小曽根の煉瓦工場の字白山って、いまの城山町のことなんじゃないか?
城山町は字市ヶ谷の東隣といってよい位置にある。城山という小字もある。しかし「新修豊中市史」の小字図ではどちらも大字小曽根の範囲に入っていない。中之島で見つけた小字リストでも旧小曽根村の村域でないらしく書かれてある。が……考えてみたら明治19とか20とかの話なんだよな。その後市町村制が始まって町村整理された結果小曽根村や豊中村が成立した。資料に書かれてある小曽根村はそれからさらに半世紀以上経った頃、豊中町と合併して豊中市になる直前の小曽根村なのだった。昔は小曽根が城山町のほうまで拡がっていたんじゃないだろーか。
字城山はこの辺り。岡町の丘が落ち込んでいく辺り、古墳時代には岬か鼻かであったような場所。今はそのてっぺんに墓地があり、丘の麓には寺社が並んでいる。その周辺はマンションや住宅街が連なっている。どこにでもありそうな「住むための空間」に今はなっている。
けれども、元「白山」であるとしたら、山全体が煉瓦素材の粘土であったかも知れない。煉瓦に使う土は白かった。「焼くと赤くなるんは不思議やねえ」とバンレンのあの方も仰っていた。
段丘のどこかにあったというのもあり得る話。登り窯で焼くことが当時は多かったから。平地よりも傾斜が必要なのだ。
というわけで、24日も少し歩き回ってみたのだけれど、これといった発見はなし。今日また散歩がてらに歩き回ってみた。関西煉瓦石に直結するような発見はなかったけれども、意外な刻印煉瓦が出てきたりして、ちょっと面白かった。
例えば兵庫県印南郡阿弥陀村で見かけていた「日」刻印。 山陽窯業を重ね合わせたものだと勘違いしていたやつだ。それがこんな近くにあるとは。チョボがついているのまでそっくりだ。藤井寺の前にある樋の固定用に使われていた。
上に写真を掲げた墓地の片隅にはこんな刻印煉瓦も。『/』を三分割したような刻印。阪鶴鉄道で見られるものにも似ているが、向こうは歯車を転がしたような感じであって、これとはちと違う。むしろ『/』を割ったというほうがあっている。
_ おこぜ [写真上手いのぅ]
_ nagajis [トリミング済です]
_ おこぜ [上の構図]