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旧道倶樂部録"

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1942-07-01 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月一日 水曜日 曇後雨

今日より日課時限及び授業時間の変更あり即ち
 五時二十分起床
 午前中教授部授業四十五分五時限
 午睡十二時五十分より四十分間
 十四時より術科開始
大略右の如し。
今日より町田生徒監殿週番勤務を服務されたり。午睡は時間不足にて起床後極めて眠し。雨の為教練考査取止め、剣術ありて第三教習試合なりき。


1942-07-02 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月二日 木曜日 雨

今日亦朝から降ったり止んだりのいやな天気なりき。独乙語はちくおんきなりき。午後は工作。誕生日会なりき。


1942-07-03 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月三日 金曜日 雨時々曇

今日も亦朝・夕を除く他は雨なりき。
化学は実験なりき。午後は作業考査なりき。短小銃・手榴弾・モールス等あり。之に依り学問は何物に依らず一生懸命再度勉むれば自信が自ら生ずることがわかりたり。月例身体検査ありたれど体重・胸囲等いちゞるしく低下せり。鍛錬不十分なることの表われならん。


1942-07-04 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月四日 土曜日 雨後晴

午後に至りて雨止みぬ。依りて教練考査あり。科目は「伏せ」「折敷」「駈歩」の三つなりき。以後自習。十六時より生徒監殿の特に考査に対する御注意あり。
柔道をなす。食卓変えあり。夕食後は前日に比しほがらかなる夕なりき。


1942-07-05 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月五日 日曜日 晴

つゆも晴れ爽やかなる気候となりぬ。三年生は終日射撃にて不在。予は午後三時間を除きすべて学習に意を用いたり。今日の軍歌演習は一・二年のみなりしが平常より大なる声の如く覚えたり。      夕に雨
予次第に内務不確実になりつゝあり。


1942-07-06 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月六日 月曜日 晴時々雨

午後は降ったり止んだりなりき。朝に舎外に学ぶ何と爽やかならんや。午後は柔道・教練なりき。特に柔道に於ては鍛われたり。教練は半ば雨なれどよく頑張りたり。
益〃緊張を欠かんことを覚悟す。


1942-07-07 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月七日 火曜日 雨後曇

支那事変第五周年記念日なり。阿久津週番士官殿より之に対する長き話あり。作文は本校出身の諸先輩に対する書続文なりき。予は近衛歩兵第二連隊大隊長陸少佐小森政光殿宛なりき。音楽は修身に。体操の際は褌一貫にて三訓諸遊戯をなす。
夜は特にいそがし。

〔nagajis:https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/11/O_11_357_1.pdf〕


1942-07-08 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月八日 水曜日 晴

つゆは霽れたり。今日より期末考査始まり又、即ち今日は化学 幾何 国漢甲乙なりき。午後は訓育(校外)あり。清水台の放送局に行く。日中室内摂子三〇度なり。熊本らしき暑き日なりき。

〔nagajis:「摂子」は「摂氏」〕


1942-07-09 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月九日 木曜日 晴

朝に霧たちこめいたれど全く晴れたり。今日は日中三十一度なり。
歴央、独、生物・生理なりき。取締になる(日直)午後の体操は愉快になせり。
真珠湾ばく撃に斃れし中十七柱は一級飛込〔越〕して進級せり。十六人は九州人にして一人の将校は山口なり。三人将校。


1942-07-10 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月十日 金曜日 晴

三十二度湿度八十七%なりき。
期末考査終了。物理・代数・地理なりき。午後は午睡後白川学園の下の田植えをなす。約一時間半にして終了。後三十分坪井川に入りて遊泳を楽しむ。考査終了といい田植えといい楽しきやら意気深き事やら心は共に浮きいるなり。今からの努力が大切なり。


1942-07-11 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月十一日 土曜日 快晴

日中三二・五度 独乙語は幻燈なりき(ライン川を下る途中の景色)午後は自習・剣術なりき。近日特別体がだるき如き感せり。然し随意運動は為すことを最も好む。至って調子良好。第一日より稍昨日の覚悟破れつゝあり三年生は夜間演習なり。


1942-07-12 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月十二日 日曜日 快晴

稍〃風ありし故昨日の如く暑からず 30℃
この天気を利用して山に湖に浩然の気を養いに行きし者多く、予も亦田村と共に五時より七時まで岩倉山方面に臨時外出を行いたり。後は留まり午前中、手入・洗濯・手紙を記するに用う。午後は十六時まで生徒集会所に遊び後一時整頓をなす。今日は有意義なる日なりき。日曜日は須く斯くの如くありたきものなり。


1942-07-13 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月十三日 月曜日 晴

やゝ風あり。新暦は今日より十五日まで盆なり。気持等すっかり考査前にもどりたり。然〔併〕し体は午前中だるく、僅か四十分の午睡にも熟睡す。柔道には近日より興味を覚えたり。夕食後は台上にて座談的に航空士官学校生徒の話を聴く。空軍を希望する者亦増したならん。


1942-07-14 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月十四日 火曜日 晴

唐津は今日海開きなり。定めし〔暑さを〕避けんがため、鍛えんがため、我が友は泳ぎいるならん。午後は剣術・作業 作業の際は須屋に行き、写景図・目測を行いたるも目測甚だしく異なり以後の努力を思う。
最近予はいちゞるしく朗読力が以前に比し衰えたるを痛感す。よく音読教室を利用しなお一層、明らかに、落つき発音せんことを覚悟したり。


1942-07-15 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月十五日 水曜日 晴

小林教官殿より期末考査成績悪しとて注意されたり。思うに努力全く不足なりき。之は予の勉強の仕方が人に比しまづき証拠なり。今日からでもおそからず、大につとむべし。
午後は八景水谷に於て天幕構築なりき。夏は風とおしがよく、冬等寒き時は工夫てし寒気を防がざるべからず。帰校後運動をなす僅かに二十分間なりたれど塵も積りて山となる如く常に続くれば上達するものなり。今日初めて音読教室に行く。〔「僅かに~」に朱傍線、欄外「暑さに負けず行いたるは可なり」〕


1942-07-16 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月十六日 木曜日 晴

父の命日なり。独語は斉藤教官殿休まれたるに依り教頭殿の時局の話なりき。午後は工作。予近日より大車輪を練習す。されどなまなかに出来得る物にあらず、十分骨身措〔惜〕しまず練習必要なり。今日は昨日に比し自習時間の活用不可。


1942-07-17 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月十七日 金曜日 晴

運動班運動は中止の故訓育班にて十日に泳ぎたる坪井川の同場所に於て共に水泳をなす。心身の鍛錬にはよろし。
午後は十三時より査閲あり。軍装・不動の姿勢・速歩行進・分隊密集教練の課目なりたれど此の暑き日に、部長殿の批〔講〕評にては概して良好と云われたり。それと同時に、二年は一般に胸囲・体重が身長に比し少なき故、漸次努むべし との注意ありたり。聞く所に依るに水泳鉄棒が胸囲を広むるに最も良き方法なりと。


1942-07-18 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月十八日 土曜日 晴

今日より執銃教練となりたり。今日照準かんさなりき。徒手と異なり、何となくやるぞと云わんが如き感なせり。故北白川宮電化御存命中の多くの写真を拝す。之れ町田生徒監殿の御同期にあらせられたるに依る。
随意運動には今日も亦鉄棒へと行く 大車輪今日遂に漸くなれど成功したり。あとは之を外見良く練習し然るのち逆車輪を練習するのみ。
今夜露営に行きたる者多し。
昨年の今日は夏休暇取止めの報来る日にして、失意落胆したる当時を想う。


1942-07-19 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月十九日 日曜日 晴

鍛錬の日。四時起床同四十五分校門を発し五時五十五分江津湖着、急行軍なれど涼しき朝汗出でず心地よし。八時より十二時に至る間、三時間和船に、一時間ボートに乗り、手腕を練ると共に水泳も亦練習したり。今日江津湖には幼年生徒、六・七十名はいたり。但し三年は一泊の予定にて昨日より久留米を見学。平川・高橋・飯田と四人にて。十三時帰校。午睡一時間。足は日に照らされて真紅となりぬ。愉快なる日なりき。


1942-07-20 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月二十日 月曜日 晴

午後柔道あり。三年一訓と合併にして初めに引き合いをなし後乱取なりき。さすがに此の時間は暑かりしが、よく奮闘を得たり。暑さを以て暑さを制す。
あと僅かにして三寝室ともお別れと感じたり。思うに此の寝室の者は最も愉快なりしが時と所を弁えずに無駄話をなすを常としたり。口述強き者には切磋なすもきかず。依って予は此度の寝室が今まで四回の中最も悪く。去年中期が共に良好なりしことを感じたり。


1942-07-21 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月二十一日 火曜日 晴

化学の際ラムネ製造の実験をなす。砂糖液10をとりそれに重曹達2gを混じ次にクエン酸(酒石酸)2gを混ずると炭酸ガスを生じて、ラムネとなる。然して夏休暇の際は実験に又妹等を驚かさんがめ、多分に作らんことを思いたり。今日の実験にては砂糖液の砂糖少く、酸多き故、うまくあらず酸味をおぼえたり。
午後唱歌の際は末次教官殿より、よく唱歌が即ち芸道が武人の情操にとり必要なるかをわきまえ此の二週間に一ぺんの時間を有意義に過せとの注意を受く。誠に然りと感ず。
夕食後台上の利用不可なり。


1942-07-22 日記帖(五)  [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]日記帖 五冊目

昭和十七年七月二十二日起
第二学年第三学班

[陸幼日記]七月二十二日 水曜日 晴

教養部日課は七月以前に復し四時間にて十一時五分終了。後三十分間一年の暑中稽古あり。今日は我々は銃の格納あり。十四時より三十分暑中稽古。
第三回は十四時四十分より。毎日交代。
今日も亦生徒監殿御注意あり。曰く「近日緊張を欠きつゝある傾向あり。緊張すべし」と。思うに予も其の一人なり。要は暑さを克服するにあり。
先般予科の本校出身第三運動班の方方より上京・御教訓の寄せ書きを拝見し憤激したり。益〃運動にはげまんと。依って返信す。


1942-07-23 加藤建男中佐 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月二十三日 木曜日 晴

七月十日頃を盛とした暑さも次第に軟〔和〕らぎ、たまヽ風を見る。
五時間目は国漢乙の補習授業をなす。人に比しいちゞるしく書取不得手の故なりと。以て幸となすところなり。暑中稽古以外は自習なりき。今日の稽古は最初に於て、最も後に並びたる故一回のみにて全くきつくも暑くもなく、時間不足を感じたり。
軍神加藤建男少将に付き、
閣下は支那事変勃発以来今日まで各地に戦十回、以て其の間七回の感状を授けられたり。遂にビルマの上空の花と今年五月散られたり。
北海道旭川中学・仙幼・陸大専科を経られ陸士三十八期生なり。
一已にして敵機を撃墜すること二百数十機なり。何と偉ならずや。
陸軍に於て二階級中佐より一気になられたる方は之を始とす。
かの精神を予之を汲み取らん。


1942-07-24 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月二十四日 金曜日 晴後曇

運動班運動は剣術にて初めは教習試合なりしが後試合あり。此の際特に攻撃精神の大なる者が必ず勝つと信ず。われには回数を多くして剣術に熟達するにあり。攻撃精神あれば剣術を行うを好む故益〃其の奥に近づき自信を生ずるものなり。


1942-07-25 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月二十五日 土曜日 晴

十三時より暑中稽古にさまたげなき間に於て自習室・寝台室移転あり。此度は十二寝室となる。
夕食後訓育班会ありて、前期の締めくゝり模範生徒殿との別れ、又愉快なる中に訓育班の団結及び和を計らんが目的なりき。十時消灯。


1942-07-26 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月二十六日 日曜日 晴

旧三寝室会の意を以て今日は朝より書津湖に遊びたり。即ち五時十分に校に発し七時より十二時まで下書津に伊東さん他十命近くの一年生と藻の投合いをなし共に戯れたり。
午後は田中を見舞に行く。田中が以外に瘠せいたるに驚く。大部癒りたるか、立ち歩きいたり。復りは薬園町を十六時二十五分に立ち十七時五分帰校。
前の日曜の如く水中を駈け廻り大分夕食後もきつかりき。ただ漕舟の際頭に物を蒙らずにいたる故頭痛くなりしは予の失策なりき。


1942-07-27 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記] 七月二七日 月曜日 晴

日中室内にて摂氏三十四度なりき。
川野・片山・神野は昨日江津湖の底に落したる池田の水筒を探しに、十三時より十九時まで行く。物は官物なり。官物尊重の念を忘るべからず。官物は大切なる物なり。 十五時より二時間愛校作業日光の下に裸体にて、予の最も理想とするところなり。個人訓育あり。

克く学友と輔け合い、自己の事のみを考えずに手を取り合いて務むべし。と、

又生徒監殿の予に与えられたる御注意

お前は寝台上に学科出場の際置きいたるはよろしからず。須くかん便主義におちいらず定められたる事をすべし。と。

暑き故か考うるにやはり気の緩みなり。あと一日然もニ時間頑張らん。
点呼後直ちに校庭に出で明日の剣術大会にそなう。

◎前期を観ての所感

全体的に学科にては一年後期より頑張りたり。又体力も上りたるは毎日々々の賜と喜ぶ。然し寝室を観るに整頓にても乱れたり。
一般に昨日の所感の如く此の四ヶ月間に急に何事もなりたり。残念なり。何事を為すにも真面目努力必要なり。艱難汝を玉にすとは何を云いしか。此処一時、予は梶永を手本となす。


1942-07-28 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月二十八日 火曜日 晴

主要行事
 授業ニ時間(授業終了)
 後十一時まで講堂の掃除
 午後剣術大会
いよヽ今日にて授業も終了し予定を変更して十三時半より剣術大会あり。二年は学班対抗の勝残り。我々は第六運動班となす。初めは優勢なりたれど遂に大崎と大将となりて川野は上原に破れ勝を譲りたり。こちらは人員として二名不足なりき。何事も体が大切なりと感ず
予は一本のみとりたり。然し運動班としては三年が五十一本をとり第三は優勝したり。
二十四日より二十時まで納涼を許されたれど予は毎日睡眠不足にて、又さわがしくて眠られず之に反対の徒なり。


1942-07-29 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月二九日 水曜日 曇後晴

感銘深き日なりき。即ち八時よりは校長閣下の離任式に相当する式ありて閲兵後閣下の訓示ありて共に写真を写したり。十時より生徒監殿の前期を顧ての話あり以て反省を深くなせり。会食後の際は校長閣下とお別となると一種寂しさを感じたり。特に遠別離を歌いしさいはぐっとつばを飲む。思えば我々は入校以来一年四ヶ月の間敬仰し服したる立派なる方なりき。閣下が如何に我々生徒の為心をそゝがれたるかは誠に有難き極みなり。とてもかくても予は今日の感激を忘れざらん。
午後は生徒舎の大掃除。
校長閣下は北支の山中に行かれるとぞ。

〔nagajis:小松崎力男 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/komatsuzaki_ri.html


1942-07-30 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記] 七月三十日 木曜日 晴

明治天皇崩御あらせられてより三十年にあたりての所感

あさみどり澄みわたりたる大空の
 尋木をおのが心とぎかな

さし昇る朝日の如くさわやかに
  もたまほしきは心なりけり

我等敬仰の的は何ぞ。一に 明治天皇にあられるなり。幼年学校に関しては最も御心を留めさせられたり。
今日皇室の御殊過深かゝりしも我々を将来立派なる将校となさんがための大いなる思召なり。我々は斯くの如き国に生をうけ、尚且つ将校生徒として学ぶ、誠に光栄の至りならん。我々は克く意を体し直ちに実行せん。

最初述べたるが如き日なる故四時半非常呼集にて起き雄叫神社前ににて部長殿 聖旨を奉読せられたり。内務検査 昨日より努めたる結果室非常に整いたり。九時より十二時までの間に検査ありたれど、生徒監殿等の質問に対し一般に答解不良なるは遺憾となす所なり。一層訓育学科に努むべきを感ず。
夕食後台上にて照屋さん外二名の予科生徒の話を聞く、(本校四十三期生三訓の方)克く我等を思わるゝ彼の言は実に尚ぶべきものありき。

菊池精神を研究すべし。
一層学術科に励み中学出身者に負くる勿れ
等数多ありき。思うに予も菊池氏の勤皇に付きては末研究なりき。
いよヽ期待の遊泳もあと二日目なり。愉快なる中に準備をなす。

〔nagajis:「末」→「未」〕


1942-07-31 [長年日記] この日を編集

[陸幼日記]七月三十一日 金曜日 晴

遊泳に先発とて訓育班より五名宛計四十五名出発す。
八時半軍装検査、十時より遊泳に関する衛生講話あり。以後は準備
十三時三十分校長閣下を校門に見送りす。やはり三月四十三期生を送りし時と同じ感なりき。何とも云われず。小松崎校長閣下の面影も我々との別れが別れにくきが如くなりき。以後亦随意なりき。
消灯二十時 明日は四時起床なり。


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