nagajisの日不定記。
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鶏はそう言うかも知れないが叩き切っておきたい相手というものはあるものだ。このクソ忙しい時に限って余計なことに手を出したりする自己のシャドウであるとか。お陰で14日締め切りの何かと戦わなければならない羽目に陥っている。
書いたもののリライトだと思ってタカを括っていたのがそもそもの間違い。本気で書こうと思えば、否、書かなければならない状況なのだが、相当に時間を食っている。次号大丈夫なのか。
いずれにしても自業自得。それはそれで菊の花。
TUKA氏の助言を得てアンケートを一気返答してみる。そういえばReaders'voiceに書いたものはこちらには反映されないのだよな。次号が出てから少し対策を考えよう。一つひとつコピペするしかないが。
で、少しは真っ当になったかとおもいきやそうでもなさげ。だいいち受付に手伝ってもらわないと書けないようではどうにもこうにもな話じゃないか。え。どうにかならんもんかいな。
第一漫才では喫緊の課題をクリアできないのだ。単なる気休めにしかならないのだ。それでも何かをかかなければ、書かなければならないのにちっとも進まないというフラストレーションを解決することはできず、それが凝り固まってにっちもさっちもいかなくなっている現状を打破することはできないに違いないことは確かなのである。さすがTUKA氏であると思う。
でもって校正のラス2。「廃道を読む」のように核心の周囲をうろうろしながらああかも知れないこうかも知れないと呟くばかりの原稿である。正直あんまり役に立たないかも知れない(特にORJをお読みの皆様方には)。ただORJをご存知でない皆様向けにはああいう書き方しかないと思うのだ。いきなり廃隧道のキワミ、アッーと叫んでも頭上にクエスチョンマークを5、6個飛ばすだけに終わってしまうだろう。それはそれで面白いかも知らぬが各方面に申し訳が立たぬ。そういう好き勝手はもう一方の廃道BONでさせていただいているしな。
この校正も最後の一件が残っている。それが終わったらここで少しずつ内容リークしてみたりなんかしちゃったりして。多分途中で息切れするだろうけれども。
アンケートで好評をいただくと正直恥ずかしい。どう返答していいか困る。ありがとうございましたと書くのもわざとらしいし(というのはnagajisだけだろうが、間違いなく)、かといって嬉しくないわけがない。アンケートの返答が毎回毎回遅れ気味なのはわずかに頂く好評が勿体無いと思うからだったりするがそんなことを書いたところで誰も信じてはくれまい。
かっこいいこととかっこ悪いことのどちらかを選べと言われれば散々迷った挙げ句にカッコ悪いほうを選ぶ、というのは以前も書いたような気がする。基本的にnagajisは後ろ向きである。後頭部に目鼻口を書いておけば誰も解らないだろうと思ったりもする。そういう人間である。だからnagajisを切り離して文章だけお楽しみいただければいいと思う。
永山則夫という作家がいた。死刑囚として投獄されている最中に作家活動を始め、それは文学作品としてそれなりの評価を受けた。しかし作家協会への加入は拒否され、それに抗議して筒井康隆らは協会を脱会した。確かに文章は人の書いたものではあるけれども、書いた人の人となりで判断されるべきものでも、書いた本人の名声を高めるためにあるのでもないと思う。ただ書きたいという思いがあって、書いて、書いたものだけが残る。それでいいと思う。「あたし彼女」だってものの書き方の一携帯を示してみせた功績くらいはあるはずだ。みたいな。
とはいいながら、何で書きたいのか、何で書いているのか、ということの背後には多少なりとも自己実現を計りたいという思いがあるからには違いなく、そうやって表現したい自己とは幾許の価値ありやを考え出すと泥沼にはまる。今はただ読んで下さる方が(ごくわずかでも)いる限り書かなければと思う。自己よりも先に書かなければならない何かがある。あってほしい。なくてはならない。そんな思い。そもそもnagajisは人を楽しませようという意識が薄い。結局のところ「イメージを言葉にする」という楽しさを享楽的に味わっているに過ぎないのだ。ここでぐだぐだ管を巻くのもその一環であるとしかいいようがない。
それが(書いたものが)どれだけ人の役に立っているかわからないから余計に悩むのだろう。いっそのこと何も書かずにオペに専念すればいい。何も書かずに一号出して、前回と同じ評価であることをその目で確認してみるのも一興ではないか>nagajis。右に振れ左に振れする意識のうちで浅はかな期待を抱くのはやめにしよう。言いたいことはもう充分言い尽くした。そうではないのかな?
そういう点においてORJみたいに比較的しがらみなく直接ご意見いただけることは有り難いことだ。ただしその背後にはこの世のどこかで「プギャーm9(^Д^)」されている自分を常に見ておかなければならない。いるものとして構えなければならない。寂しい人間だとは思うがそもそもnagajisは人でなしだからノーマーシーだろう。
暴論に暴論を重ねてnagajisを貶めてみる。それくらいしないとこの高評価を受け止められないnagajisは哀れである。
俺、廃道本と次号が終わったら、大台が原に行くんだ・・・。行けたらの話だけど。
関西随一の(というのが弱いが)廃林鉄跡である大杉谷林鉄はたぶん誰かが探してくれるだろう。むしろ自分は明治半ばに大台が原を突っ切って開かれたという船津街道・別名土倉街道を歩いてみたい。人跡疎らな大台が原に何故かある2つの峠が、実は確かな意味を持っていたという驚き。そして土倉庄三郎という剛毅の人のこと。真に偉大な人は表には出て来ず、そうして吉野の山中で独り静かに眠っている。
もし大台に行くなら3泊は難い。それだけの荷を運んだ経験はない。装備も貧弱だ。山歩きに慣れた人なら何でもない行程かも知れないが、山素人のnagajisが、しかもここ数カ月デスクワーカーでまともに飯も食ってないnagajisが行ったらどうなることか。脂肪だけは今のうちからつけておこうと思う。というわけで寝る。