nagajisの日不定記。
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明治33年の河川法の成立によって国が利根川を管轄することになり、直轄改修工事が始まった。明治33年に千葉県佐原から河口までの期間を第一期工事として着手。第二期は佐原〜取手まで。明治40年。埼玉県がからむ第三期は取手〜群馬県沼之上間、明治42年度から着手することに。
が、明治40年8月に利根川・荒川の大水害が発生。これを受けて第二期工事と第三期工事の同時進行が目論まれ、42年から始まったものの、その翌年に過去最大の大水害に見舞われてしまう。
この水害で埼玉県の1/3が水没したとされる。国の改修工事もこのような大規模災害を想定していなかったため改修計画そのものの抜本的見直しが必要に。改めて荒川改修も含む計画が建てられ、明治44年4月に告示。改修は昭和5年までかかっている。
河川法成立で利根川改修費が浮き、他の河川の改修に予算を回せるようになった埼玉県ではあるが、全く負担がなくなったわけではなく、度重なる洪水でかえって負担金が増えてしまった格好。枝川の改修も利根川が片付かない限り実効的なものにはならず。というか改修しなければならない河川が多過ぎて予算の奪い合いになっている。そんななかで渡良瀬川、大落古利根川の改修がなされている。前者は他県との絡みもあって無理矢理?通過、後者はいったん明治37年度からの3年間計画で出され、これも強い反対を押し通して成立したが、日露戦争の勃発でお釈迦になり、再度39年度〜42年度と4カ年計画で可決・実行されている。村田の初任地が大落古利根川の改修工営所であった。
43年8月10日〜の洪水で大規模な被害が出たところの一つに中条堤(ちゅうじょうづつみ)がある。これはフカダソフトさんに詳しい説明がある。利根川の一支流・福川に沿って作られた堰堤で、利根川が洪水となった時に遊水池(とその堰堤)となって洪水調節機能を果たしたもの。43水害ではこの堤も切れた。というか利根川べりの堤はもとから欠けがあってそこから溢流する仕組みだったわけだが、それが大きく破損した。
明治43年8月20日、村田は「中条工場」勤務を命じられている。ずっとfactoryの工場だと思っていたがそうでなく中条堤の工事現場ということらしい。堤は江戸時代からあって長く論争が絶えなかった場所(堤を高くして水害に備えたい下流側と、できるだけ低くしておいてほしい上流側との対立)で、この復旧工事の時も一悶着あったようだ。これも説明すると長いが、県会における工事予算決定が我田引水的に行なわれたのを島田県知事が是正しようとした(上流にも下流にも県議会の有力者がおって、改修工事に多額の予算を分捕ったのを何とかしようとした)ら、逆に県議会側から反発を受け、前代未聞の「知事不信任案」が動議され可決されてしまった。もちろん実効力はないものだが「法的意味があろうとなかろうと構わん」とかなんとか言って露骨に反抗を唱えたのであった。
そういうゴタゴタのなかで中条堤の復旧は放置された。44年4月になってようやく和解案が成立、復旧工事が講じられている。村田は44年6月23日川越工区へ異動。工事完了までは関わっていないのかも知れぬ。
大正年間にも河川氾濫が多発している。大正6年まではずーっと川しかやってない。ただ工事が細か過ぎて場当たりなものであった感じがする。それを岡田忠彦知事が積極的抜本的大改修計画を立て、大正6年だったか7年だったかから着手される。これが今日の埼玉県に直結する土木事業であった(のではなかったっけか)。居続けていればその工事に関わることができたはずだが、その端緒に就いた頃村田は滋賀県に移る。中澤さんも杉山もこの時期の移籍組。
だから内容濃すぎるよ…。コメントするにもハードル高いよ色んな意味で…。
えーっとメモ書きなのでどうぞ無視してくださいー
ORJ全号買おうかなと思っていたりする…。
「細き流れを集め来て 木を裂き岩を穿ちつつ<br>大河滔々波をあぐ これ大利根の壮観ぞ」<br><br>すごい川だったんですねえ。先人に感謝の埼玉県民です。