nagajisの日不定記。
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夕は二十時半消灯なるため十分体を養て運動会にのぞみたり。九時半より開始。初より第三は悪点つゞきにて、午前の終に至りてやゝ良好となり、四と三点せまる。然し遂に第四運動班のため四点の差を以て破れたり。82 79 78 75 74 57なり。上より、四、二、三、一、五、六なり。三は去年の為に少し自惚れいたり。四をあなどりたるは悪かりきが正木さんの努力には感心さる点あり。母・祖母・裕子来る。午後に至りて風加わり一段と寒し。
普通のごとく授業あり。生徒監殿は今日東京より復られ学校に出てこられたり。生徒監殿の不在間はやはり寂しきものなり。十三時より自習室にて生徒監殿の母を失いてよりの堅き今後に対する所感を述べられ、又親無き者に対する同情の感一層生じたりとの有難き又、最後にたよるべきは己の力なりとの教訓浅からざる御話あり。衛生講話ありて後、明日の本部長初度巡視の予行あり。残念にも腕力減じたる感せ〔し〕ぬ。
自習時間中は勤務日誌・日誌の記入に忙し。三日の行事の後なるも克く気力を入れて今日をやり通したことを喜ぶ
明治33年の河川法の成立によって国が利根川を管轄することになり、直轄改修工事が始まった。明治33年に千葉県佐原から河口までの期間を第一期工事として着手。第二期は佐原〜取手まで。明治40年。埼玉県がからむ第三期は取手〜群馬県沼之上間、明治42年度から着手することに。
が、明治40年8月に利根川・荒川の大水害が発生。これを受けて第二期工事と第三期工事の同時進行が目論まれ、42年から始まったものの、その翌年に過去最大の大水害に見舞われてしまう。
この水害で埼玉県の1/3が水没したとされる。国の改修工事もこのような大規模災害を想定していなかったため改修計画そのものの抜本的見直しが必要に。改めて荒川改修も含む計画が建てられ、明治44年4月に告示。改修は昭和5年までかかっている。
河川法成立で利根川改修費が浮き、他の河川の改修に予算を回せるようになった埼玉県ではあるが、全く負担がなくなったわけではなく、度重なる洪水でかえって負担金が増えてしまった格好。枝川の改修も利根川が片付かない限り実効的なものにはならず。というか改修しなければならない河川が多過ぎて予算の奪い合いになっている。そんななかで渡良瀬川、大落古利根川の改修がなされている。前者は他県との絡みもあって無理矢理?通過、後者はいったん明治37年度からの3年間計画で出され、これも強い反対を押し通して成立したが、日露戦争の勃発でお釈迦になり、再度39年度〜42年度と4カ年計画で可決・実行されている。村田の初任地が大落古利根川の改修工営所であった。
43年8月10日〜の洪水で大規模な被害が出たところの一つに中条堤(ちゅうじょうづつみ)がある。これはフカダソフトさんに詳しい説明がある。利根川の一支流・福川に沿って作られた堰堤で、利根川が洪水となった時に遊水池(とその堰堤)となって洪水調節機能を果たしたもの。43水害ではこの堤も切れた。というか利根川べりの堤はもとから欠けがあってそこから溢流する仕組みだったわけだが、それが大きく破損した。
明治43年8月20日、村田は「中条工場」勤務を命じられている。ずっとfactoryの工場だと思っていたがそうでなく中条堤の工事現場ということらしい。堤は江戸時代からあって長く論争が絶えなかった場所(堤を高くして水害に備えたい下流側と、できるだけ低くしておいてほしい上流側との対立)で、この復旧工事の時も一悶着あったようだ。これも説明すると長いが、県会における工事予算決定が我田引水的に行なわれたのを島田県知事が是正しようとした(上流にも下流にも県議会の有力者がおって、改修工事に多額の予算を分捕ったのを何とかしようとした)ら、逆に県議会側から反発を受け、前代未聞の「知事不信任案」が動議され可決されてしまった。もちろん実効力はないものだが「法的意味があろうとなかろうと構わん」とかなんとか言って露骨に反抗を唱えたのであった。
そういうゴタゴタのなかで中条堤の復旧は放置された。44年4月になってようやく和解案が成立、復旧工事が講じられている。村田は44年6月23日川越工区へ異動。工事完了までは関わっていないのかも知れぬ。
大正年間にも河川氾濫が多発している。大正6年まではずーっと川しかやってない。ただ工事が細か過ぎて場当たりなものであった感じがする。それを岡田忠彦知事が積極的抜本的大改修計画を立て、大正6年だったか7年だったかから着手される。これが今日の埼玉県に直結する土木事業であった(のではなかったっけか)。居続けていればその工事に関わることができたはずだが、その端緒に就いた頃村田は滋賀県に移る。中澤さんも杉山もこの時期の移籍組。
フォトショ済。ゴミを撮ろうとしたら自転車にひかれそうになった。もうちょっと遅らせればよかった。
そうですか。残念です。
君たち大阪人はわけがわからないよ。
不審者情報
10月25日16時12分頃、大阪市阿倍野区美章園3丁目2番付近路上で、女子児童が二人で「404は誰でしょう」とクイズをしながら歩いていたところ、不審者が「404は俺やで」と声をかけ、いずれかに立ち去るという事件が発生
年齢不明、ヒゲずらで、暗い色の上衣に色不明のズボンを着用
地図:http://www.map.police.pref.osaka.jp/index.aspx?type=3&id=43345
不審者を見かけたらすぐに110番通報するか、最寄りの警察署へ通報してください。
発信:阿倍野
詳しい内容を忘れてしまったのだが、世界を救う的なことであったか積年の誤解を解くだったかですっかりいい気分になるという珍しいタイプの夢を見たのだけれども、最後の最後がこれ以上ないという位にひどかった。
お世話になった家で話し込んでいるうち、尿意を覚えたので、ちょっと席を外して厠へ行った私。しかし便器の前でいきんでも出るものが出ない。下腹部の辺りに力を込めてようやく捻り出したところ---それはちょうど目の詰まった細口のマヨネーズ容器をむんずと掴んでその圧力で噴出させたような勢いで出た---、何故か尿の放物線が2筋で、しかも赤い。痛くもある。えっ、と思って自分のものを見直すと、亀頭の尿道の5mmほど上に小さな穴が開いていて、そこからもぴゅーっと出ているのだった。「ひいっ」と小さく叫んだ反射で尿は止まったけれども、開いたもう一つの尿道は厳然としてそこに在る。
なんだこれは。なんでもう一個開いているのだ。本来の尿道の先っちょが塞がっていたせいで別のところが裂けたのか。それとも怪我か。さっきは血尿が出ていたが穴から血がにじみ出ているようなことはなく、しかしその周囲がカシス色にぬめっている。いかにも粘膜然としている。2口になったのはまあいいとしても、いちいちいきまなければならないのと痛いのはかなわんぞ。どうしよう。こういうのは泌尿器科なのか。それとも外科なのか。
ここまできてハッと気づいた。これは夢だ。夢に違いないぞ。尿が出にくかったのもそのせいだ。と思い至ったところで目が覚めた。前半の幸せな気分が全く以て台無しになった。
なお、幸いなことに就寝中に漏らしたりしてはいなかった。その危険を知らせるべくな夢であると考えればnagajisGJなのだが(実際目が覚めて非常な尿意があった)、それにしても加減というものがあるだろう。年を重ねた結果奇っ怪イメージへの耐性がついているとはいえだ。
どの神社だってそうじゃね? と思って撮った写真。使わないと撮ったことすら思い出せない。
旧瀬戸町に煉瓦刻印を探しに行ったら、刻印が一つも見つからず、かわりに岸煉瓦跡でホフマン窯が見つかってしまった。日本に現存するのは4基のみと久しく言われ続けていたホフマン窯が、だ。
厳密にいうと楕円形プランのホフマン窯の一端を壊して、さらにそれを区画壁で1/2ほどに切り詰めて鉄砲窯とした状態のもの。オリジナルの形状は間違いなくホフマン窯であったはずでその証拠に真中に煙突が建っている。焼成室は計算があってれば14室。ちがうかも、12室か。
鉄砲窯として建造された焼成窯を見つけていたりしていて魂消る。しかも二つも。今日はいったい何の日だ。
日ノ出煉瓦の鉄砲窯は焼成室も煙道も煙突も綺麗に残っている。焼成室の入り口は多少破壊されているかも知れない。田中煉瓦製造所の(写真)は煙突と長い煙道が確認でき、おそらく焼成室は土で埋め戻されている。側面の煉瓦積みのみ見える状態。この焼成室はわずかながら傾斜していて登り窯っぽく使われていた可能性がある。
期待していた井桁菱Kは一切見つからなかった。特に窯に使われている煉瓦はすべて無刻印。窯に自社製品が使えなかっただろうことを考えるとそれはまあ妥当かも知れないのだが数多検出した焼損煉瓦にもないということは風土的に刻印を採用してなかったということだろうと思う。紫~褐色~灰褐色に変色した煉瓦は時折見かけることがあるのだが、あれが多分鉄砲窯から来たものなのだろうな。
行きがけに残り半分をよんだ。あの小活字をバスの中で読むもんじゃないな。車酔いしかけた。
おかしい。読んでいないはずなのに結末のあたりにほんのり見覚えがあった。特にイリリがチューリップの中を案内するシーン。足こぎプロペラ車の絵とか見た記憶がある。そのくせ前半の展開はまったく初見のつもりだった。電話の声が誰だかわからなかったもん。
SFに分類されてはいるけれども主題は強烈に読み手に向けられている。未来のことを考えた時に未来の立場になってものごとを考えるのか、それとも現在を未来に軟着陸させるんか。人類滅亡とかいうでっかい話でなくても「未来のために何をするか・できるか」はいつでも誰でも問われてるんじゃないかしらん。時間軸上手の届くような範囲ならば特に。
今日はいいとしてもその次がダメダメだ。金曜日が雨のせいでまともな計画が立てられない。どこに行こうとしても制約を受ける。くそ・・・無駄な休みになりそうだ(今日以外は)。
右端の切断面近くの1。隣のビニールハウス脇の1。入った1。その隣に全開口していた1。もう一つ塞がれてたやつがあったはずなんだ。ネコ車とかトロ車輪とか積んであった辺り。そして末端の1。だから側面には開口部が5、末端に1ずつで12のはずなんだ。して北側末端のアールの部分は壊されている。西側は全面埋もれていて南端の1個をのぞき壁による封鎖。煙突はやはり3〜4の間辺りと思う。ともかく藪が酷くて思うように動けなかった。あんなに茨生やすな!
1.出掛けなければ何も得られないという至極当然の現実を再確認。5日目の休養日のダルダルさを忘れてはならない。
2.友ヶ島汽船は晴れて無風でも渡れないことがある(整理券がなくなる)。
3.一度で全部を見たと思うなよ>nagajis。再訪は初訪。新鮮な処方。
4.揖斐川沿いと揖保川沿いは似ている。
4.5.長良川鉄道には1橋だけピントラスが混じっている。
5.久しぶりに担ぐと注意力が散漫になる。越美通洞、有料じゃなくて良かったな。
6.なぜ勝山に宿をとるのか。お陰でナイトランになったじゃねーか。
7.えちぜん鉄道勝山線は大野までつながっていない。
8.えちぜん鉄道勝山線は石アーチがある。
9.永春寺の沓脱ぎ石は現存しているが確認はできない。
10.中華料理北京のラーメンはフツー。食べ終わる頃にちょうどいい濃さになる。
11.湯浅町は予想通りの煉瓦パラダイス。市街地からの距離・隔離感は湯浅町くらいがベスト。
12.鹿瀬洞から湯浅まで意外と長い。
13.道端に落ちているみかんは意外と食える。
すっかり忘れていたのだが、堺紡績って煉瓦使っていたんだろうか。錦絵では煉瓦とも切石積みとも見得るてれこ格子の壁なんだけどさ。あれが当初からのもんかどうか。
幕末の頃に鹿児島藩が堺の土地を買って、そこに紡績所をつくった。国内で2番めに古い紡績所。機械は明治初年に購入され、その年の暮れまでに据え付けられたそうである。だとすると建屋もその頃にはできていて良さげなもんだ。だとするとすでにその頃から煉瓦があったことになる。操業開始はM3年らしい。
鹿児島藩は奄美大島に製糖工場を作って、そこでウォートルスが煉瓦製造を指導した。そうして堺に紡績工場by鹿児島藩ができる。明治2-3年頃函館会所跡に作られた工場は後に鹿児島県人原口某に払い下げられて。この時期妙に鹿児島県人の色が濃いのである>堺。あーでも堺の瓦屋・原口仲太郎だったりするからなあ。
堺紡績所の技術はイギリス経由。機械もイギリス製。んなら煉瓦のリファレンスもイギリス製であってよい。ていうかウォートルス指導の流れを汲んでStuffordshire製で構わない。ではなくて、フランス形類似の並形が流行するのは何故なのか。
1尺=10寸=正確に100/33cmと決まったのは明治24年。それ以前に違う換算してたりしたら目も当てられないな。水母の骨で睫毛の長さを測るような掴みどころのなさ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2627880/41
「全国銀行会社統計要覧」大正元年発行。この中では×印が否定的な意味で使われている。問い合わせして折り返し資料が送られてきたがその内容に疑義があるため掲載しなかった、というやつに×印がつけてある。とはいえ同書では、問い合わせしたけど梨の礫だった会社に*印をつけていたりもする。ともかくいま自分が見つけられている最も古い×印はこのへんだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780104/41
「日本紳士録. 第16版」M44版。これにも×印が使われているが特に悪いイメージはない(その人が支払った営業税のヘッダー記号に使われておる)。直感ではこういう統計書とか紳士録とか会社名鑑なんかで×が出てきそうなヨカンがある。統計書はずいぶん見たけれど×印は見かけなかった気がする。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760893/37
オマケで気づいたことが一点。暦に「伐日」というものがある。「ばつにち」「ばつじつ」というらしい。下のものが上のものを覆す良くない日だそうだ(干支の巡りでいえば「きのえ」とか「きのと」とか)。「ばつ」という言葉自体には悪いイメージはあったのかも知れず、それと×記号とが結びつくのがいつだろう? というところに最も興味がある。上記リンクはM12発行の暦の本。
そういや「バツが悪い」というけれど、あのバツは跋のこととか場都合の略だとからしい。「×=悪い」じゃねえんだな。
東大経済学図書館にあることは把握しているのだが、新型コロナの影響という名目で部外者お断りが続いている。緊急事態宣言が解除されたこんにちでは部外者は最寄り図書館から複写申込せよという。また資料室の方の手を煩わせることになるのか。そもそもページ数が不明なので全部いっぺんに入手しようとすると非常に恐ろしいことになりそうな気がする。
滋賀県公文書館への申込みを昨日済ませたが、欲張りすぎたきらいがある。もっと絞るべきだったかも知れない。気長に待とう。
いま世の中で起きていることには微塵も興味がない。社会に対する自分の位置づけもどうでもよくなっている。知りたいことが知れればよい。知ったことをうまく纏められるかどうかにしか興味がない。
十年後、数十年後に西暦2021年の日本が歴史の俎に乗せられて捌かれる時、未来の分析者はきっと頭を悩ますことだろう。それまでになかったウィルス性の感染症が蔓延していながらオリンピックを開催したうえによくわからないうちに感染が止んでトイレの色が青赤でなくなったり夫婦別姓が支持されたりしている。やんごとなき皇族からいち民間人になる人もあったりする。愛のための王位を捨てたエドワード8世みたいな扱いになるのだろうか。それとも三面記事的扱いになるのだろうか。誰かがなんとかしてくれると思っている国民の集合体が存在していたことを信じれるだろうか。そもそも国民なんていう概念自体が無くなっていたりするかもな。
今年の1月に桑名へ行って、これを見つけてからこのかた、
というところまで判明した。“ビー”=“B”と気づかなければこれ全部なかったことになる。えらいぞ1月のおれ。
めったに出会わないはずの井筒の残骸(井筒用異形煉瓦)に思いのほか出会えているのは運がいいというべきか執拗過ぎるというべきか。揖斐川、木曽川、浜名第一第二、天竜川、宇曽川、仁保川に勢陽組跡地のあれと諸戸家か。なんにしても謎が明らかになるのは楽しい。明らかになって得することはないが楽しい。
Before...
_ nagajis [えーっとメモ書きなのでどうぞ無視してくださいー]
_ とと [ORJ全号買おうかなと思っていたりする…。]
_ 元かすかびあん [「細き流れを集め来て 木を裂き岩を穿ちつつ 大河滔々波をあぐ これ大利根の壮観ぞ」 すごい川だったんですねえ。先人に感謝の埼玉県民です。]