nagajisの日不定記。
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同じ話を何度も何度も繰り返す老人、というステレオタイプがある。自分もやがてそうなるんだろうなあと思うし書く上では既にそれに陥っている。気がするどころの話でなく厳たる現実としてそう認識する。
人は自分の後先が短いと悟り始めるとそうなるものなのかも知れない。今まで経験してきたこと、考えたこと、が死によって一切空になることに対して焦り始める。自分の失敗を、同じ失敗をしてほしくないという思いから伝える。それがちゃんと伝達されたかどうか心許なく、だから繰り返し繰り返し、執拗に語るのかも知れない。仕事だとか何だとかで多少なりとも社会に関わり社会の一部を構成してきたという自負がある人ならなおさらかも知れぬ。年を取り社会を遠巻きに眺めることが多くなって疎外感を感じ始めると、社会に向かって自分の存在を主張し注意を惹くために喋る喋る喋るもしくは喋る而して喋るしかなくなるのかも知れぬ。側葉頭の劣化と機能不全と生物学的に捉えてもよいだろうがそれだとなんだか味気ない。
昔の人は老後の手慰みに文字を書いた。地域の歴史だとか言い伝えだとかを拾い集めて地誌を書いてみたり自らの生い立ちを文字にして書き残してみたり。文学を志す者や戯作者とかはともかく青年の頃からそういうことをしたという人はあまり聞かない。そうして決まって歴史書か自分史かであり結局は自分に関わる歴史を後世に残したいという思いからの行為であるようだ。
自分はまだ、伝えて置かなけばならないという義務感も、切迫した焦りも感じていない。ただ無為に書き続けていることには倦怠している。
倦んでいるくらいならまだましなんだと思うことにしている。
誰かに阿るようなことや人気取りのために書いてはいない。それを百獣南郷続けてきたことだけは誉めてやっていい。そういうのを突き詰めていけばどうなるか、はメイドの土産冥土の土産に確かめておきたい気がしている。人間が人生一つ無駄にして無駄な文章を書き続けていけばどうなるか。社会的な評価がではなく本人がどういう心象を得てどういう気分で死ねるか。
時おり思い出す、自分の中の最も古い記憶のひとつ。幼稚園にあがる前だったと思う。近所の子だったか母親の知り合いの子だったかはっきり覚えていないのだが、自分より年下の女の子と遊んでいて、
子「こないだ犬に噛まれた」
私「こないだっていつ?」
子「わかんない」
というようなやりとりをして、その返答に対して妙に憤慨した。3日前なのか4日前なのか、それとも一週間前なのか、はっきり答えてくれないことに苛立ちを感じたようだ。そこまではわかる。しかし継ぐ私は何を思ったか「日記を書けよ」と言い出した。日記を書いてればいつのことだったかわかるやんか。なぜ書かないか。力説した。そしてその辺にあった石を並べて、この石が3日前、これが4日前、とか何とか説明しだした。そんな私に女の子は感心しきりだったような気がするが、これは自分の都合のいいように改竄した記憶かも知れぬ。
ともかく、石を使って云々の場面はしかと覚えている。のだが、どう考えても内容が理論的じゃない。並べた石が日記がわりだというつもりだったのだろうか。そもそもそんなことを宣う自分が日記を書いていたわけではなかった。むしろ逆で、夏休みの宿題の絵日記だとかあさがお観察日記だとかは苦手な方だった。
感情と理論と解決方法がてんで噛み合っていないところは、この頃から変わっていないのかも知れない。
うん。そうか。そういう自己認識をするために果てしなく書き続けているのだな。