nagajisの日不定記。
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いまおれの運気は最低に落ち込んでいるぞ!そうに違いないぞ!近寄っちゃダメだぞ!太宰ばりに周りを不幸にするぞ!
ふーん。
不運その1:原稿書き終えてpdf化しようとしてる段階で若狭橋が長狭橋だったことを知った。
不運その2:その記事のなかで明治32年2月に竣工した無筋Cアーチがあったことを知った。
不運その3:両方共残ってない。
不運その4:せっかく見つけ出してきたのになぜ「伝説」を送る。
不運その5:他所宅の騒動に巻き込まれ気を揉み疲れている。
不運その6:奥歯に挟まったニラの繊維がまだ取れない。
不運その7:秋休みが10月20日以降に先送り決定。
不運その8:神社の手水柄杓にナメクジがついていた。ここんとこずっとだ。
不運その9:深山重砲兵連隊のお盆が落札できなかった。できたところで不運かも知らんが。
不運その10:エルゴテックシフター6500円からって足元見過ぎだろ。
不運その11:ま、無駄金は使わないに越したことはなく。
不運その12:待ちぼうけをくった。あるひせっせと野良稼ぎ。
不運その13:小篆と大篆を混同してはいけないのだと今更知る。
不運その13:堀田義次郎のは金文でなくて小篆な多分。
あれ。思ったよりすくねえなあ。
不運その14:気分転換に今日の夕景を書いたら書き終えたところで全部[OFF-uploader]に置き換えられた。ガッデム。”[”を入力したらタグ補完しようとするこの機能、要らねえ!
不運その15:「関西の土木100年」コピーがあったはずなんだが見つからない。そもそもコピーを取ってないのかも知れない。
遠くを過ぎ去ろうとしている台風の鉛色の雲の塊。夕陽が端々を赤く染めて、そのお陰で雲の高さと奥行きの深さを把握することができる。過ぎた方にはすっかり晴れ上がった空にいくつかの切れ端。細く糸を引いたそれがまるでダリの絵画のはるかかなたに描かれてるやつみたいでさ。かと思ったら頭上はひつじ雲の大行進だ。透かして群青の天が見えるほど薄く、そこだけが秋を演じている。さらに視線を南にやれば、昼間からずっとそこに居座っている鉛雲。ラジオのいうにはずいぶんな雨を降らせているらしいが、こちとらにゃそんなそぶりはなかったな、ただただ蒸し暑いばかりで。台風は北のほうなのに秋空を挟んで反対側に大雨を降らすのはなんでなんだぜ? あそうか、次の台風が来てたのだった。ここんとこひにちかんかくがおかしくなってる。先週末から何も進んでない感じ。
そんな夕刻を雲を眺めて過ごした一瞬があった。伊丹空港があるお陰で西方の眺めがいい。雲は見飽きない。雲が好きだ。みたいなことを書いたのだよ。
AndroidのGoogle日本語入力とPCのとで候補の傾向が変わるのはヤだなあ。ちゃんと全部出してほしい。
謎を追求し解明しようとして四苦八苦してばかりの人生と、謎など感じず日々に疑問を持たずに生きて死ぬのとどっちが幸せだろうかと思ってみたりした。台風一過の秋空のごとくに疑問が晴れることなんてないんだ。一つ解決したらまた次の疑問が湧いてくるんだ。それこそ雲のように。
雲は塊になって動いているように見えるけれども実際は何もない空から湧いては消えして移っていくもので、早回しの映像を見ているとそれがよくわかる。理解と忘却の繰り返しで進む雲。雲は人生みたようなものなのかも知れぬ。だからいつまでも眺めていたくなるのかも知れぬ。かたち・色合い・濃淡のあわいを眺めて飽きないのかも知れぬ。雲のひとつかみを掌に載せて転がして矯めつ眇めつして理解できねえかなあ。
解決した疑問も疑問に思ったことも結局は身一つの内に収まるくらいなもので世の発展に寄与することもなければそれで世界が幸福になったりもしないし意思を継いでくれる人もない独り身であればなおさら、自分の思惟思索は無駄なこったななあと思う。そうやって無駄に思考されたことどもは何処へ行くのだろうな。ニンゲンの歴史の中でどれだけの思考が無駄になったんだろうな。どうせ無駄になるなら始めからしないほうがいい、などとは思わない。そんな人生は退屈でたまらない。人はどうだか知らないが自分はそれを退屈に思う。退屈しのぎに謎を抱えているわけだな。何かを発見したつもりになり悦に浸るために考えているのか。しょうむないことをさぞ大発見のように誤認して、それで優位に立ったつもりでいるのか。いやいやそうじゃないつもりでいるぞ、しょうむないことだと自覚して世のため人のためにならないことだとわかっているから人生投じてやってるんだ。誰かに勝るためでなく、他人を見下すためでもなく、自分が知りたいからやっている。その意気や良し、とは言い切れないまでも悪くはねえ。
というわけで自分のことしか考えずに生きている。それでいいんでないの?
といったことを定期的に書いて確認していないと軸がぶれるなあ。あれそんな儀式が必要だってことはそれほど弛い軸なんじゃねえの? そうさな、それは認めようじゃないか、五重塔の心柱のような強靭なものは私の中にない。あちこちつっかえ棒しなきゃ倒れてしまいそうなほど緩いやつしかない。空回りする気分と虚数解の信念によってかろうじて立っている葦である。