nagajisの日不定記。
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実際にページを作ってみる。20日からかかる積もりだったから、当初の予定に比べれば着手は早い。アーティクルとふせんを組み合わせることでそれなりに機能しそうな気もする。
(ここも)長く住み着いた朝鳥公園キャンプ場を出て温見峠越えした日。
√157の道すがらには有名な根尾断層がある。日本史の教科書で見た写真と全く同じ構図なので気がついた(看板もあるけれども)。今ではそれと知らなければただの崖だと見誤りそうだ。
温見峠の酷道ぶりはここでnagajisが言を重ねなくてもよく知られていることと思う。自身もあまり写真を撮っていない。これは道中にある小切り通し。「落ちたら死ぬ」の看板のもう少し手前ではなかったか。
途中にある黒川は、半ば廃村化した集落。家々の雨戸は固く閉ざされ、丸太でつっかえ棒がされていた。そんな中でたった一軒、人けのある家。そういう断片だけ覚えている。国道157が国道と指定されたことで、この人達の暮らしは良くなったのだろうか。そんなことも思った。そうして私は道にも集落にも責任を持たない、一介の旅人。
峠南側は3段の大ヘアピンがあった。時間をかけてゆっくり登ったせいか、しんどかった記憶はない。裏日本と表日本のブナが混じり合うという森の奥からヒグラシの鳴き声が響く。この旅で初めてではなかったか。夏の一日が終わるという合図のような、寂莫感を伴うカナカナカナカナ.....。
温見峠は名前に反して厳しい表情の峠だ。雪の重みで潰れてしまうのだろう、あらゆるものが傾き、へしゃげていた。看板もポールも無傷なものが一つもない(シャッターのごとくにクシャクシャになった看板さえある)。峠の地蔵様もまるで檻のような頑丈な囲いに囲われていた。自然の木々だけが平然として育っている。
下ってダム湖畔の青少年旅行村に泊。旅行に出て40数日にして初めての有料キャンプ場。そうして食うのはまずいレトルトカレーのみ。
以前撮った玉手橋の写真を見ていると、同じ時に近鉄道明寺線の大和川橋梁の写真も撮っていたことを発見した。歴鋼集欄などによれば明治31年に開通した河陽鉄道時代のものらしく「作30年式類似の形式」とされている。
以前鞍馬で見かけたポーナルガーダーもこれと似たような形式。ガーダー端の処理が少し違う(大和川橋梁の内部はどうだったか・・・・そこまでは撮っていない)。なお道明寺線大和川橋梁のPGにはCochrane社の銘板があるらしい。鞍馬のガーダーには見つけられなかった。