トップ «前の日記(2007-07-17) 最新 次の日記(2007-07-21)» 編集
1941|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1942|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1943|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|
2005|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2011|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2012|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2013|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2014|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2015|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2016|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2017|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2018|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2019|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2020|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2021|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2022|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2023|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2024|01|02|03|04|

旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad

独言 | bdb | C60 | D | KINIAS | NDL | OFF-uploader | ORJ | pdb | pdf | ph | ph. | tdb | ToDo | ToRead | Web | web | きたく | | なぞ | ふむ | アジ歴 | キノコ | コアダンプ | | ネタ | ハチ | バックナンバーCD | メモ | 乞御教示 | 企画 | 偽補完 | 力尽きた | 南天 | 危機 | 原稿 | 古レール | 土木デジタルアーカイブス | 土木構造物 | 大日本窯業協会雑誌 | 奇妙なポテンシャル | 奈良近遺調 | 宣伝 | 帰宅 | 廃道とは | 廃道巡 | 廃道本 | 懐古 | 戦前特許 | 挾物 | 文芸 | 料理 | 新聞読 | 既出 | 未消化 | 標識 | 橋梁 | | 滋賀県道元標 | 煉瓦 | 煉瓦刻印 | 煉瓦展 | 煉瓦工場 | 物欲 | 独言 | 現代本邦築城史 | 産業遺産 | 由良要塞 | 発行 | 看板 | 石垣 | | 竹筋 | 納得がいかない | 索道 | 絵葉書 | | | 資料 | 近世以前土木 | 近代デジタルライブラリー | 近代化遺産 | 近遺調 | 道路元標 | 道路考古学 | 道路遺産 | 都計 | 醤油 | 陸幼日記 | | | 鯖復旧 | 鳴門要塞

2007-07-18 [長年日記]

[ORJ] OFF会報告デザイン案

実際にページを作ってみる。20日からかかる積もりだったから、当初の予定に比べれば着手は早い。アーティクルとふせんを組み合わせることでそれなりに機能しそうな気もする。

[懐古] 2002年7月18日

(ここも)長く住み着いた朝鳥公園キャンプ場を出て温見峠越えした日。

 √157の道すがらには有名な根尾断層がある。日本史の教科書で見た写真と全く同じ構図なので気がついた(看板もあるけれども)。今ではそれと知らなければただの崖だと見誤りそうだ。

 この断層のそばには資料館や喫茶店もある。その名前はちょっとどうか、と思うような。時節柄にもちょっとどうかと思ったが、掲載。

 温見峠の酷道ぶりはここでnagajisが言を重ねなくてもよく知られていることと思う。自身もあまり写真を撮っていない。これは道中にある小切り通し。「落ちたら死ぬ」の看板のもう少し手前ではなかったか。

 途中にある黒川は、半ば廃村化した集落。家々の雨戸は固く閉ざされ、丸太でつっかえ棒がされていた。そんな中でたった一軒、人けのある家。そういう断片だけ覚えている。国道157が国道と指定されたことで、この人達の暮らしは良くなったのだろうか。そんなことも思った。そうして私は道にも集落にも責任を持たない、一介の旅人。

 峠南側は3段の大ヘアピンがあった。時間をかけてゆっくり登ったせいか、しんどかった記憶はない。裏日本と表日本のブナが混じり合うという森の奥からヒグラシの鳴き声が響く。この旅で初めてではなかったか。夏の一日が終わるという合図のような、寂莫感を伴うカナカナカナカナ.....。

温見峠は名前に反して厳しい表情の峠だ。雪の重みで潰れてしまうのだろう、あらゆるものが傾き、へしゃげていた。看板もポールも無傷なものが一つもない(シャッターのごとくにクシャクシャになった看板さえある)。峠の地蔵様もまるで檻のような頑丈な囲いに囲われていた。自然の木々だけが平然として育っている。

下ってダム湖畔の青少年旅行村に泊。旅行に出て40数日にして初めての有料キャンプ場。そうして食うのはまずいレトルトカレーのみ。

[橋梁] 明治PG@近鉄道明寺線

以前撮った玉手橋の写真を見ていると、同じ時に近鉄道明寺線の大和川橋梁の写真も撮っていたことを発見した。歴鋼集欄などによれば明治31年に開通した河陽鉄道時代のものらしく「作30年式類似の形式」とされている。

以前鞍馬で見かけたポーナルガーダーもこれと似たような形式。ガーダー端の処理が少し違う(大和川橋梁の内部はどうだったか・・・・そこまでは撮っていない)。なお道明寺線大和川橋梁のPGにはCochrane社の銘板があるらしい。鞍馬のガーダーには見つけられなかった。


トップ «前の日記(2007-07-17) 最新 次の日記(2007-07-21)» 編集