nagajisの日不定記。
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日付けが変わってしまった。何か違うことをする。
筒井康隆の作品に「言語姦覚」というのがある。オビの文句がAmazonにあったので引用。大変的確に内容を表しているが2カ所誤字トラップがあったので書き直した。
(あのですね)誰もが日常さりげなく
(その時点で)口にする表現を
(ひとことで言って)研ぎ澄まされた
(やっぱり)言語感覚で分析し
(どうも)そこにひそむ心理を
(わたしって意外と)容赦なくあばく
(極端にいえば)恐怖の現代日本語考
(と言いたい)…
ことばは怖い、怖いはことば
日頃いかに慣用句に頼った言説を繰り返しているかを身につまされる恐ろしい本である。細かな内容はもう忘れてしまったが読んでしばらくマトモに喋られなくなった。過敏なかたは決して読んではいけない。
急にこの本を思い出したのも、近ごろラジオを通して聞くニュースのなかで「やっぱり」が連発されているのが気になったからだった。もうちょっと正確に言えばニュースで取り上げられる「町の声」や「視聴者の声」のなかで。最初は単なるリフレインとして耳に残ったことに弱いポテンシャルを感じたのだが、考えているうちにはっきりと「いやらしいものだ」と気づき、そういえばこんなアレはどこかで読んだな、と思ったら件の本(を読んだ記憶)に行き当たったのだった。ずいぶん前に手放したので内容は忘れてしまったが、取り上げられているということは定めしケチョンケチョンにされていたことだろう。
意見を求められる。答える。そこには自己主張がある。自己主張そのものである。その前置きにわざわざ「やっぱり」をつけてしまうのは何故か。
例:「やっぱりサンマは目黒に限るでしょ」
「サンマは目黒に限る」ということが一般常識としてあることが大前提となっておりそれに従ったまでである、という宣言。暗に「それが当然でしょう」と言わんがための「やっぱり」。寄らば大樹の陰的な発想が見え隠れするいやらしさはもとより、「そんな常識的意見に反論する・反対意見をもつあなたは非常識ですよ」「反対する人は私の敵ですよ」という牽制もそこには含まれている。私の意見即ち通らねばならない、あるいは受け入れられなければならないという甘えの裏返しであるとも言える。
あるいは自分の意見が全国放送に乗るという緊張感から、常識的なことを言って責任を逃れようとする姿と捉えることもできる。仮にここでサンマは目黒という知識を有しつつ落ちサンマ=至宝の味だと思っている人が通りかかったとする。その恒等式はその人の意見であって誤りではない。何の非もない。そんな人は「サンマは落ちサンマに限ります」と言えばいい。のだが、世間一般を知ったる身ゆえに仕方なく「やっぱりサンマは目黒に限ります」と言わざるを得なくするような力がテレビやラジオのインタビュアーおよび向けられたマイクにはあるだろう。「サンマは落ちサンマに限ります」と言ったところでカットされてお終い。そういう諦めとしての「やっぱり」。「やっぱりサンマは落ちサンマに限ります」と発言しそれに与えられた失笑なり何なりを受け止めることを踏まえたうえで意見してこそ意見は意見として価値が発生する。そうでなければただの迎合である。
・・・といった感じの言葉批判が続く。この言を読んで納得したり笑ったりすることは簡単なのだがいざそのように納得し笑ってしまったあとで自分の言説を振り返ってみたときに愕然とするわけである。やっぱり。
ついでに、言葉と言葉のあいだの「間延び」が気になる。最近は誰もとやかく言わなくなったが、ひととき昔は舌足らずな喋り方として忌避されてたんではなかったか。
例:「やっぱりー、サンマはー、目黒にィー、限りますネ−」
それともあれか、1億6000万総舌足らず化か。最近はアナウンサーやコメンテーターまで間延びしていることがある。100%正しくあれとは言わないしそんなことができるのは(しなければならないのは)役者くらいのものだろうが、いちど気づいてしまうと気になって仕方ない。しかもきっと、自分が喋っている時もそんな遅延を起こしているに違いないのが、またいやらしいのだ。
ということを、プレゼン練習しながら思った。アーウー言って言語不明瞭なのは大平元首相のせいにしておく(なぞ
間延びは…言語の経年劣化もとい「進化」というヤツではないかと思います。<br>ら抜き言葉なども同様かと。<br><br>支柱や根太の腐った構造物ミタイナ。それでもキノコの王国にとして進化発展し、やがて今の現代語は「古語」扱いされる…。<br><br>書いていて寂しくなりました(笑)。<br><br>1000年後に「廃道について記された古文書発掘。現在解読作業中」なんてことがあるかもしれませんよ(^-^)。
その通りですね。私も違和感を感じつつ仕方ないものと諦めています(まず自分が矯正できないもの)。いまの私たちが源氏物語の頃の言葉で喋ってるわけでもありませんしね。<br><br>件の本は二重の意味で皮肉を言っているんだと思っています。よくやりがちな言葉批判、あるいは「今の若い者の言葉遣いは云々」という批判は、実は的外れなものであるという。<br><br>1000年後の廃道本、解読できるといいなあ。ORJなんかpdf形式が読めるパソコンすら残ってないかも知れません。その前に膨大な量の情報に埋もれてしまって発掘すらされないでしょうね。