nagajisの日不定記。
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毎日インテシオから第?ビルの大阪郵便局(臨時)へ行こうとして迷った。最終的にお初天神通りを東から西へ横切っている自分を発見した。どういうことだ。
方向音痴と相対位置音痴は区別して考えるべきだろう。「自分は東に進んでいる」という意識は間違っていなかった。しかし御堂筋横切って気づかないなんてどうかしてる。夜だとはいえ。
敗因は南海部品の角を曲がってしまったことだろうと思う。行きしに通った道なので怠慢してた。
ざざと調べてみた感じ、西国街道(山陽街道)=国道2号、四国街道=国道30号(だったっけ?)、因幡街道=53号、伯耆街道=180号(以上津山以北)が幹線としてあるのはわかった。しかしそれ以外が見えてこない。しかも因幡街道と伯耆街道は津山以南ほとんど同じ気がする。あとで出てくる山陰街道も兵庫県境から津山までが独自で残りは伯耆街道だ。
明治末年にやっと県道が出てくるがそれまでが不明瞭。県にとっての重要路線というものがよくわからない。三重県統計書が異常なだけか???
明治中期に鉄道網がずいぶん発達したのが原因かも知れないと思う。道路に4種あり、即ち国道県道里道鉄道なり、なんていう地誌があったりするくらいだからな。あとやはり治水河川のほうに重きが置かれてる>明治初期。
要するに、鳥取県が九道改修したのに対する岡山県側が知りたい。大人しく県史かなんか読んだほうがいいのだろう。このへんだと府立か大阪狭山か。
という表題をつけてみたが多分関係ない。その昔「それはあなたの意見でしょ」という文句があった。なんというか・・・集団のなかにあって自分の利益のことだけしか考えてない発言に浴びせられた非難の文句、とでも言えばいいか。もっと大局的見地に立てよ、みたいな感じだが微妙に異なる気もする。もっと個人攻撃的?
当時はフムフムと思ったものだが、じっくり考えてみればどうもおかしい。いかにも日本人的ムラ社会的なことばじゃないか。発した者は一つ上の視点からものを言った気分になれるかも知れないが、それ(個人的な意見をいうことを否定すること)だけじゃあらゆる可能性が否定されてしまう。議論(英語でいうところのディベート?)にならず、新たな視点の発見なり打開なりにはならない。
和を以て尊しとなす、っていうのが日本の美風だということは認める。狭い島国のなかで1億6000万人がひしめき合って生きなければならない、あるいは山間の狭苦しい居住地の中で協力して生きて行くためには必要なことだろうと思う。けれどもそればかりじゃ発展がない。何か突拍子もないことを言ったりやってみたりする鉄砲玉がいて、それが新しいものを作ってきたんじゃないか。物事を裏から見てみたり斜め上から観察したりする役、大分でいうところの吉四六さんみたいな役割。アメーバの触手のような役割。
ネットで個人が自分の意見をbroadcastできるようになった。その結果混沌が増していろんな新しいものが出てきた。それはよい。が、そこから次のステップが難しい。自分の享楽を満たしてるだけでいいの? 自分の考えを言ってるだけでいいの? 一握りの人々の共感を集めるだけでいいの? みたいなことを考えてみて、冒頭の「それはあなたの意見でしょ」を思い出した。とりあえずそこまで。結論はない。
「自分の声で話せ」だったかなあ、そういうのもあったな。例えば教師が教師としての立場で発言することへの反発、みたいな。要するに腹を割って話せとかいうことだろう。それもどうかしてる。立場に立って相応しい態度を取らなければ世界が混沌とするだけだ。教師が教師然として語らないから秩序が保たれないのだと思う。それで秩序が保たれるのだということへの理解、相手の立場に対する理解が足りない。
私? 私はただの雑役夫だから。まあ矛盾はしてるけどな。