nagajisの日不定記。
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旧精華小学校の保存・活用を要望する署名が行われてますー.昭和4年に完成した小学校建築の粋.市街に残る唯一の戦前のRC造小学校建築です.詳細は精華小校舎愛好会のサイトを,署名はwebでも行えます.
web経由は7月3日(日)締切り〜。
大阪でも初めて猛暑日を記録。既に梅雨明けして真夏に突入したかのような一日だった。夜も気温が下がらんな……数週間前にはひんやりした空気が楽しめてたのに。
明日は村田鶴の生誕127周年記念日です。という言い方でいいんだろうか? 人の年齢の数え方とか○○から×年とかの数え方がいまいち覚束無い。要するに2011−1884ということです。
津波碑、〆を除いて片付ける。拡大させるために結構高解像度&低圧縮にする必要があった。こういうのは生JPEGに敵わないがそれを配布するのも上手くないし拡大縮小移動が自由自在でない人も多かろう。
今号の記事を書くにあたって松坂国道工事事務所の20年史『20年のあゆみ』を読んだのだが、そこに興味深い記述があったので紹介したい(ちうことで外向き記事のつもりで襟正して書く)。モノは歴代の工事事務所長が発刊に寄せて書いた記事なのだが、そこに昭和40年頃の道路の捉えられ方というか、「通行止」に対する一般人の意識とでも言おうか、そういうものが書かれてあって、ちょっと考えさせられた。
ちょうど矢ノ川トンネルが建設されている時分の話だ。前提条件として尾鷲の特異な気候のことを頭に入れておくほうがいい。同じページにちょうどいい一文があったので引用しておく。
…尾鷲の雨は豪快である。時間100mmという、洋傘が中でシゴいて役に立たなくなるような強雨が、2時間でも3時間でも続く。勿論、車はワイパーを早くしても前が見えなくなり走れない。日雨量1,000mm、即ち、1日に1mの深さに相当する雨が降ったこともあった。…(松坂国道工事事務所『20年のあゆみ』)
時間100mmといえば大雨洪水警報が出て避難勧告のお釣りまで来るレベルの雨である。それが茶飯事であったのが尾鷲というところだ。
それで、焦点の話。
当時は飛騨川事故以前のことで、道路管理の考え方は“道路は少々無理しても止めない”であった。しかし、この険阻な工事中の山岳道路で、しかも名うての豪雨地帯ではこの考え方は、あまりにも危険すぎる。状況を判断して通行止めをすることとした。しばしば止めたので、本省から直接電話でお叱りを受けたこともあった。一般人も現今とは異り“自分が判断して通ろうというしているのだから止めるな”という考え方が強かった。だから通行止めをかけると言っても容易な事ではなかった。標識等は抜いて谷底に捨てられてしまう。ローラーを道路に直角に置いても翌朝は、どんな方法でするのか、車1台通れるように動かされている。ある時は通行止めをして、崩落の取片付をしていると……崩落取片付けも決死的なものである。……。地方の鮮魚輸送のトラックの運転手が、バールを手にして、折悪しく?現場に居合わせた私のそばに詰め寄って来て“通せ”と、殴りかゝらんばかりにすごまれた。(松坂国道工事事務所『20年のあゆみ』)
高々40数年前の話であるはずなのだが、ひどく隔世の感がある。それと同時に「通行止」の禁を犯した者に対して罰則規定がある理由(あるいは現今の行政が神経質な理由)がわかったような気もする。そうでもしなければ勝手に入って勝手に死なれるから−−−という書き方が決して大げさでないほど意識が低かったから−−−だ。飛騨川事故だって、改めて原因やら背景やらを読んでみれば随分酷い話である。
この文ではたまたま地元民が出てくるが、そんな土地柄だったという訳でもないだろう。続いてこんな話も書いてある。
矢の川トンネルが通れるようになると、まだ工事中で供用していないのに、大型バスまで現場内に入り込むようになった。日中はさすがに入らないが、現場に人が居なくなる夕刻や早朝に通って打込んだばかりのコンクリートを台無しにされる。造りかけの側溝にはまって動けないでいることもあった。(松坂国道工事事務所『20年のあゆみ』)
このような状態なので、法面も未完成、舗装もしないままで供用開始したそうである(昭和43年4月に開通式)。換気装置も未完なのでトンネル内はもうもうたる砂埃だったという。今のような快適なトンネルになったのはその数年後だった。
自分なら大丈夫。自分さえ良ければ。そういう考え方がごく当たり前で、疑われることなく通っていた時代。自分が生まれた10年前までそうだったのかと思うと「何だかなあ」と思ってしまう。もちろん、未舗装崖崩れ危険道路が至る所にあった時代だから、そういう危険に慣れていたのもあるだろうが。