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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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2007-06-30 何事もなくただの30日 [放哉伝] この日を編集

先日の徹夜ですっかり生活リズムが崩れた・・・眠れないAM6:00。大丈夫なのかnagajis。

8時に清滝につこうとするなら朝4時には家を出なければならない。24時に上がる身にはつらい。遅刻したり面倒見てもらうような失態だけは避けたいところだ。

[懐古] 2002年6月28日・29日

疲労と体調不良によりもう何度目かの休息日の28日。風通しのよい河原にテントを移動したら雨に降り込められた29日。再び肝臓が痛みはじめて。この間の記憶はほとんどないが、茨川が自分の家っぽく感じ始めたのは覚えている。(腹の痛みと痒み以外は)何の刺激もない毎日もいいものだ、と思った。

[独言] 知識とは何か

脈絡などない。どこまでが自分の知識で、どこまでが他所の知識の引用なのか、線引きが難しいと思う。また自分の知識をそこに積み重ねるには勇気がいると思う。もうちょっと解りやすく(えっと自分に対してわかりやすく)書くなら、webにある情報をどう扱うか。書かれていることを信じたならば、それを自身の知識としていいのか。リンクという形で引用すべきなのか。

世界の知識の積み重ねのなかにいる自分。本で読んだ事を吸収して知識とする、みたいな言い回しがあるが、本当にそれを自分のものとしていいのか悩む。そのままに流用しなければ(出典を明示しなければ)盗用なのではないか。自分の判断は積み重ねに値するか。報告書のように事実を貴しとするような文章ならばなおさらだ。(といっても間違いを多々放置してるけどな>報告書)

その一方で、何か独自の判断を入れなければオリジナリティーは生まれないし、進展も(大げさに言えば集合知としての知識の進展も)あり得ない。何年も、下手すれば永久に、形として残ってしまう「書く」ということには、それなりに責任が要求される。

けどまあ、こんな部録"なぞ何の役にも立たんだろうからな。例えばこの記述でアフリカの子供達が飢えから救われたりはしない。好き勝手書くさあはは。


2009-06-30 この日を編集

かゆい

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ 二枚橋 [またダニですか? それとも蕁麻疹ですか? ワタクシは先日城跡探しの下見で行ったオブりかけのロードでバイクのマフラーとお気に入り(常用)ジーンズに泥を浴びてクリティカルな小傷点錆と素敵な染色をお土..]

_ nagajis [蕁麻疹の治りかけのところが・・・掌に出来ているのでキーを打っているとかゆいんです。 #ところで、既に送っていただいていたりします? #気をつけて見ていますが届いていないようですので・・・ #まだで..]


2011-06-30 この日を編集

[KINIAS] 再々々掲:旧精華小学校保存運動

旧精華小学校の保存・活用を要望する署名が行われてますー.昭和4年に完成した小学校建築の粋.市街に残る唯一の戦前のRC造小学校建築です.詳細は精華小校舎愛好会のサイトを,署名はwebでも行えます.
web経由は7月3日(日)締切り〜。

[独言] あつい

大阪でも初めて猛暑日を記録。既に梅雨明けして真夏に突入したかのような一日だった。夜も気温が下がらんな……数週間前にはひんやりした空気が楽しめてたのに。

[独言][] 7月1日

明日は村田鶴の生誕127周年記念日です。という言い方でいいんだろうか? 人の年齢の数え方とか○○から×年とかの数え方がいまいち覚束無い。要するに2011−1884ということです。

[独言][ORJ][] 津波碑

津波碑、〆を除いて片付ける。拡大させるために結構高解像度&低圧縮にする必要があった。こういうのは生JPEGに敵わないがそれを配布するのも上手くないし拡大縮小移動が自由自在でない人も多かろう。

[独言][] ?昭和40年初頭の道路通行者の意識

今号の記事を書くにあたって松坂国道工事事務所の20年史『20年のあゆみ』を読んだのだが、そこに興味深い記述があったので紹介したい(ちうことで外向き記事のつもりで襟正して書く)。モノは歴代の工事事務所長が発刊に寄せて書いた記事なのだが、そこに昭和40年頃の道路の捉えられ方というか、「通行止」に対する一般人の意識とでも言おうか、そういうものが書かれてあって、ちょっと考えさせられた。

ちょうど矢ノ川トンネルが建設されている時分の話だ。前提条件として尾鷲の特異な気候のことを頭に入れておくほうがいい。同じページにちょうどいい一文があったので引用しておく。

…尾鷲の雨は豪快である。時間100mmという、洋傘が中でシゴいて役に立たなくなるような強雨が、2時間でも3時間でも続く。勿論、車はワイパーを早くしても前が見えなくなり走れない。日雨量1,000mm、即ち、1日に1mの深さに相当する雨が降ったこともあった。…

(松坂国道工事事務所『20年のあゆみ』)

時間100mmといえば大雨洪水警報が出て避難勧告のお釣りまで来るレベルの雨である。それが茶飯事であったのが尾鷲というところだ。

それで、焦点の話。

当時は飛騨川事故以前のことで、道路管理の考え方は“道路は少々無理しても止めない”であった。しかし、この険阻な工事中の山岳道路で、しかも名うての豪雨地帯ではこの考え方は、あまりにも危険すぎる。状況を判断して通行止めをすることとした。しばしば止めたので、本省から直接電話でお叱りを受けたこともあった。一般人も現今とは異り“自分が判断して通ろうというしているのだから止めるな”という考え方が強かった。だから通行止めをかけると言っても容易な事ではなかった。標識等は抜いて谷底に捨てられてしまう。ローラーを道路に直角に置いても翌朝は、どんな方法でするのか、車1台通れるように動かされている。ある時は通行止めをして、崩落の取片付をしていると……崩落取片付けも決死的なものである。……。地方の鮮魚輸送のトラックの運転手が、バールを手にして、折悪しく?現場に居合わせた私のそばに詰め寄って来て“通せ”と、殴りかゝらんばかりにすごまれた。

(松坂国道工事事務所『20年のあゆみ』)

高々40数年前の話であるはずなのだが、ひどく隔世の感がある。それと同時に「通行止」の禁を犯した者に対して罰則規定がある理由(あるいは現今の行政が神経質な理由)がわかったような気もする。そうでもしなければ勝手に入って勝手に死なれるから−−−という書き方が決して大げさでないほど意識が低かったから−−−だ。飛騨川事故だって、改めて原因やら背景やらを読んでみれば随分酷い話である。

この文ではたまたま地元民が出てくるが、そんな土地柄だったという訳でもないだろう。続いてこんな話も書いてある。

矢の川トンネルが通れるようになると、まだ工事中で供用していないのに、大型バスまで現場内に入り込むようになった。日中はさすがに入らないが、現場に人が居なくなる夕刻や早朝に通って打込んだばかりのコンクリートを台無しにされる。造りかけの側溝にはまって動けないでいることもあった。

(松坂国道工事事務所『20年のあゆみ』)

このような状態なので、法面も未完成、舗装もしないままで供用開始したそうである(昭和43年4月に開通式)。換気装置も未完なのでトンネル内はもうもうたる砂埃だったという。今のような快適なトンネルになったのはその数年後だった。

自分なら大丈夫。自分さえ良ければ。そういう考え方がごく当たり前で、疑われることなく通っていた時代。自分が生まれた10年前までそうだったのかと思うと「何だかなあ」と思ってしまう。もちろん、未舗装崖崩れ危険道路が至る所にあった時代だから、そういう危険に慣れていたのもあるだろうが。


2013-06-30 この日を編集

[独言] 掃除

特に理由はないが40lザックを洗った。買ってから初めてかも知れない。黒いやつなので汚れが目立たないのはいいが、洗うタイミングがわからない。ベトベトになって発酵臭がするような使い方もしてないし。しかし風呂桶に張った水はそれ相応に濁っていた。

資料の片付けもした。そろそろ棚が一杯になりつつある。

[独言][web] tDiary

いま出ている最新版がRuby1.8系列をサポートする最後のバージョンなのだそうだが、はて、どうしたものか。今のままで充分使えてるからな。できることもしたいこも充分間に合っているし、わざわざRDBに移す利点が(今のところは)思いつかないし。しかし一度乗り遅れると追いつくのが面倒だ。

[煉瓦] 大阪窯業と堺煉瓦の合併

大阪窯業が貝塚煉瓦・和泉煉瓦を合併した直後から「大阪煉瓦製造業者の大連合」みたいな話があったらしい(『大日本窯業協会雑誌』No.186、M41.2.)。なかでも大阪窯業と堺煉瓦の合併話はずいぶん進展し、大正2年の初頭には8、9割方成立すると見られていたという。しかしその年開催された堺煉瓦最後の総会で否決され実現しなかった。堺煉瓦は六大窯業会社のなかで最も営業成績が悪く、他の会社が配当を続けていた中で独り無配当を繰り返していたような状況だったから、どこかに救済して貰いたいという思いは強かっただろう。しかし土壇場で自力復興の道を選んだわけだ。

合併話がひっくり返った後、推進派重役が退任し反対派で固められた。そうして狭山村に分工場を設けて最新鋭の煉瓦製造窯を築いたり(京都陶磁器試験場長の設計に拠る遠煙突の上下引可能な輪窯だったという。どういう構造なのかはよくわからないがそう書かれる)、煉瓦製造機を新調したりした。そういう投資があって大正9年頃まで命を繋ぐことができたようだ。

そのほかにも日本煉瓦や岸和田煉瓦も合併話があったらしい。明治37年に成立した煉瓦業組合は同42年頃には六大窯業会社が加盟し実効力のある団体となっていた。合併云々はさておき横のつながりは昔から強かったようで、そんな状況を表すのに「トラスト」の語が使われているほどだ(以上同「大阪付近の煉瓦業」 No.246、T2.3.)。

といった小ネタを多数入手した。


2014-06-30 この日を編集

[煉瓦] 日本職業大系. 第4 工業篇

職業紹介事業協会編、昭和11~13頃発行。凡例に次のようにある。

一、本書の資料は専任の職業調査員が各職業の実際につき一々現場視察を試みた上叙述したものであるが、編纂後に於て実際経営者の校閲を経たる等内容の各自を期した。
一、本書は専ら叙述の統一と簡潔とを期し、各職業につき概説、仕事の実際及適性、勤務状況、修業年限及養成方法、収入及昇進方法、採用方法、福利施設等各項目につき夫々内容の解説を加えた。
一,各種職業中の所属する産業が比較的東京以外の地方に於て旺なるものに就ては其の地方の情勢に基きこれを記述し其の項の末尾に調査地名を附した。


 二.煉瓦製造

普通煉瓦製造業

(略)

 普通煉瓦は耐火煉瓦の白色に反し赤褐色を呈する故,通常赤煉瓦と称せられ近年は用途も狭くなり、ボイラーに用いられるのが最も多く、次いで建築の基礎工事或は竈、風呂等の築造に使用され、之を主材料とした建築物は時代遅れとなり、且つ一丈以上積むことは禁止されている。
 等級は焼成後の色合によりて次の如く分かたれる。

上焼 一等品甲 同乙 二等品甲 同乙
普通 一等品甲 同乙 二等品甲 同乙

 原料は粘土に砂を混入し手に握り玉になる位の土を二・一の割で混合し、成形後輪窯又は登窯と称する窯で焼成したもので、各製造業者は臨時製造し直営の販売部を設け、大口需要の購買者と直接取引し、或は石材、セメント、砂利、陶管等の問屋を経て一般に売買される。取引は一万個を単位として居る。製造業者数は甚だ少数にして、現在関東地方では月産七十万個乃至百万個の会社が東京府内一社、埼玉県三社あり、其等の製品にて東京の需要は殆ど充されている。尚昔日の手抜法による家内手工業者は近年の不況と機械製造とに圧迫されて自滅した。
 主産地は岡山県、福岡県、大阪府、兵庫県、福島県等で、生産額は昭和五年に一億五千六百万個、金額二百七十万円余である。
 我が国の煉瓦製造業は開始当時より諸産業の発展につれ順調な発達を遂げ、欧州戦争中は特に旺盛を極め、技術も先進諸国に匹敵するに至り、産額も耐火煉瓦は大正八年五百八十万円、十二年六百万円、昭和元年、三年共に七百万円であり、普通煉瓦も大正八年には実に一千五百万円に達したのである。然るに昭和三年頃から深刻な財界不況に災され、耐火煉瓦製造業も打撃を蒙り、昭和四年六百万円、五年五百万円と減少した。是は原料、工賃の値下りもあろうが最も大切な需要先である製鉄、製鋼、セメントを筆頭に造船、電気の諸工業が限産に限産を重ねたことによるのが大なる原因と認められる。
 又普通煉瓦に至っては大正十二年の関東大地震の際に、建築工事の不完全の点にもよるが、煉瓦建築物の倒壊するもの多く、我が国の如き地震国にありては煉瓦は建築材料としては不適当であると見られ、一丈以上に積むことさえ法令を以て禁止され、震災後鉄筋コンクリートの大建築物が続々建てられるのも此の間の消息を物語るものであって、現在では普通煉瓦はセメント或いは近年素晴らしく発展振りを示して来たタイル、テラコッタに全く置き代えられた状態である。産額も昭和元年五百三十万円、二年四百五十万円、三年三百五十万円となり五年の二百七十万円に至っては大正八七年の一千五百万円に比べて驚くべき減少である。市価も大正八年ころは東京市内の相場は上物一万個六百円であったのが現在は二百円或はそれ以下に下落し、一時は普通煉瓦の製造は不可能と迄云われたのである。併し昭和八年頃から政府のインフレ政策或はぎんじ工業の影響を受け変態的とは云え諸工業は活況を呈ずる様になり製造業者も一息入れたと云う状態である。
 斯く年々需要の減少惹いては価格の下落を来す普通煉瓦は、各地方に散財する小規模の家内手工業者の手に委ね大規模の工場はタイル、テラコッタの製造に転換せんとする傾向にある。併し耐火煉瓦は諸工業の運転中は需要の消滅の考えられないが此のままでは大発展も望めない。進んで適当な原料を探索し、国内市場のみでなく広く世界に市場を開拓するのが唯一の発展策であろう。

仕事の実際及適性 家内手工業による小規模工場は地方に分散し、地方的小口需要に応ずるのみで、全体的に見て需要の大部分は大規模の工場製品である。普通煉瓦の製造順序は左の通りである。
 先ず原料工により採掘地より粘土並に砂土を採掘し、トロッコにて工場内に運び、粘土は適度に粉砕し、石或は藁等の夾雑物を除き、粘土二、砂土一の割合でエレベーターにて土練機に送る。土練機では各原料を粉砕し、混合して是に適当な量の水を注入し、練合して一定の量ずつ成形機に供給するので動力により運転される。成形機は機械力で混合され圧縮された原料が高三寸二、三分、幅七尺位の長方形の型より長く連ねて押出すのである。切断工はこれを鋼鉄線三本を二寸間に緊張した手動式切断機にて切断するので、同時に煉瓦の形をしたものが三宛出来る。是をトロッコにて仕上工の所に運んで行く。
 仕上工は多く女工で切断されたものは殆ど煉瓦の形をなすが、各面殊に切断面の各角は粗雑になっているのを、木の台の上で一個ずつ木板で叩き、角を正角にし各面を平滑ならしめる。作業場は窯の上(冬期)又は露天である。次は乾燥であるが我が国の如く湿気多き土地では製造業者の最も苦心するところで各工場により設備が異なる。仕上工の手を経た生地煉瓦は、乾燥工により地上に三尺位に積重ねられるが冬季は凍結する恐れあるため、工場により一時窯の上に造った二階乾燥室にて乾燥してから地上或は平屋建の棚に並べて乾燥させる。此の外に露天算木組乾燥場、露天棚間相場を設備する工場もある。所要日数は夏季で二週間冬では三週間を要するのである。適度に乾燥されると次は釜積工により釜積みされる。煉瓦焼成に使用する窯は現今我が国では種々あるも、要するに登窯と輪窯で、輪窯とは凡そ十七、八個乃至二十個の窯が連結し、楕円形に築造されたもので一窯分の室内は高さ十尺位、幅十二、三尺、長さ十八、九尺位で約一万五千個の煉瓦が積まれる。出入口は外側に煙道は内側の下部に、一室につき小円形の焚口が五個ずつ六列あり、普通三個ずつ十八個の焚口より粉炭を投入して焼成し、一時に三、四個の室を使用する。尚使用する窯と使用せざる窯との間には新聞紙を張りて遮断する。
 乾燥し終えた白地煉瓦は全部に熱が平均してゆき渡る様に井桁に積み重ね、その際、平滑な面を二個合せるのであるが積方は相当技術を要する。窯積みが終ると内側の煙道を開け、出入口を閉し、焼成工が粉炭を上部の焚口より投じ点火し、焼成中時々適当に炭を加え、火色により煉瓦の縮み工合を考慮しなければならぬ。所要時間約二十四時間にして、焼成後一週間位放置して自然に冷却するのを待つ。次は冷却した煉瓦を選別場に運ぶ。選別工は瑕〔王+菫〕の多少、有無或は色合により前記の各等級に分つので、これには一定の標準によるから女子又は少年工を使用する。
 作業の性質としては焼成が最も難かしく、次いで釜積は技術を要し其他は比較的易い。各種の作業は多く男子の成年工で立業であるも、仕上工は腰掛業で女工を使用し、選別工には少年工或は女工を使用する。作業場の環境は概して良好である。
 職業的適性としては健康、力量は普通或はそれ以上、手工による作業が多いから器用な者が望ましい。又一般知能は相当優れた者がよい。

勤務状況 勤務時間は季節により異なり、夏は午前五時半頃から午後二時頃迄、冬季は午前七時から午後四時迄である。休憩時間は九時より十五分、正午より三十分、合計一日一時間である。定休日は動力を使用するから毎月第一、第三日曜の二回制が行われている。斯業は季節的に仕事の繁閑の差甚だしく夏は最も忙しく、冬は反対に閑になる。二、三年前頃の不況には冬季は休業した工場が多かった。其の他の季節は原料から製品までに三十日余の日数を要し、相当ストックの必要から仕事は平均している。従業員は全部通勤制である。

修業年限及要成方法 斯業では各工程が甚だ易しいから、従業員の要請にも年季、従弟制等によらない。十七、八歳頃からなら見習期間は一年位である。〔ただし〕、焼成工のみは一人前となるには少くとも五年位を要す。
 見習として採用されるのは十七八歳以上、徴兵検査頃の者であるから、見習中は雑用で機械に油を差したり、工場の敷地が広いからトロッコを各所に敷設せられ、之を押したり或は各工程の熟練工の助手をしたり、此の期間約一年位である。見習が終ると、初めは簡単な仕事例えば原料工となり一人前の給料を受け、慣れるに従い順次他の工程にも従事する。多少経験を要するのは窯積みであるが、是とて特に見習期間を要する訳ではなく、採用後四年位で焼成以外の工程は殆んど熟練工となる。焼成工のみは火の色により火力の強弱、煉瓦の縮工合を考えて炭の量を加減するから難かしく、専門工につき助手を五年位は務めなければ一人前になれない。

収入及昇進の状況 従業員の工賃は一種の出来高払で、各工程とも煉瓦一千五百個を扱って一人分の工賃を支給される制度である。故に切断工は一日千五百個を切断して一人分を受くるのである。一人分の金額は昨今不況のため安くなり、凡そ一円見当である。焼成工のみ工賃は二割乃至五割高である。見習中は日給五十銭位で、女工は日給四十銭乃至五十銭である。技術を習得しても従業員には独立の可能性は全然ない。その理由は地方へでも出て、手抜法による小規模の家内手工業であれば多少の可能性も考えられるが、これでも敷地、工場設備等に相当の金額を要し、又大規模会社の機械による安価の製品で余っている時代には尚更である。故に引続き勤務するのである。

採用方法 従業員を採用するには見習工でも一人前の職工でも殆ど縁故関係者からの紹介か、現に使用して居る従業員の紹介とかによるものを採用して居る。従って其方法も至極簡単で面談のみによって決定する。男子と共に女子も採用し、教育程度は小学校卒業で十分であり、年齢も十七、八歳以上である。見習従業員は経験を要せず試験等もない。

福利施設 定休日は月二回で、教育、修養、体育、娯楽等に関しては何等の施設も設備もない。従業員の仕事中の負傷に対しては規定の扶助方法があり、その他はすべて工場法の規定によって居る。

読み込むといろんな示唆を受ける。機械切断のオナマを叩いて撫でて平らにするのがいつのまにか普通になっている( 明治37年「煉瓦要説」のときは機械整形のシワシワが接着力を増すと考えられていた)。話は関東地方の煉瓦工場での話だが、大阪窯業の機械式の写真とまったく同じだ製法だから大阪窯業も同じ工程を踏んでいたものと想像される(そもそも機械整形痕のある大阪窯業煉瓦は数少ない)。

本日のツッコミ(全9件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ みつ [素早い対応、ありがとうございます。 無事にDLできました!]

_ おこぜ [例えばORJページ左ペインの「震災復興支援特集」や「隧」や「アンケート結果」,また,ORJ本体の記事の感想欄の「公式サイトアンケート」ボタンをクリックすると, 【ファイルの最初に%PDF-があり..]

_ nagajis [うわーすみません。アンケートページもおかしかったですか。コメントがちゃんとメールで転送されてきていたので大丈夫だと思ってました。 ORJ BEST、アンケ、50号記念記事修正しています・・・]


2016-06-30 この日を編集

[奇妙なポテンシャル] 杓子を洗う

神社を参拝する際、手水鉢で手を清め、最後に柄杓の柄を洗うのが習わしだが、その起こりは

ナメクジが這い回っててベトベトするから

洗ったのが始まりなのではないかと気付き始めている6月末である。

ここのところ帰りが遅くて19時20時を回ることが多い。そんな時間帯に神社に詣でると、そしてこの湿度ベタベタな梅雨の時期に参詣すると、かなりの確率で柄杓の柄にナメクジが居る。そうと気づかずむんずと掴んでしまうことも多い。雨で軟体動物門腹足綱達がウキウキなうえに水気のあるところだから致し方ないことだろう。それでヌメヌメするところを避け、柄杓の首の辺りを手にして手濯ぎ漱ぐすることになる。最後に柄杓の柄を洗う時に意図的に多めの水を汲んでみたりもしたくなる。次の人がヌメヌメするのも可哀想だからだ。

日本史上最初に柄杓の柄を濯いだ人はナメクジを触って「うわっキモッ」となったんじゃないだろうか。だから二度も三度も手を濯いだ上に柄杓の柄を洗ったりしたのじゃないか。それを傍から見ていた人が「へえそうするのが作法ずらか」となってあの習わしが生まれたのではないか。かなり核心を衝いた考察だと思うのだが如何だろう。そうしてその考察を証明する手立ては我々には与えられていない。残念なことである。


2018-06-30 この日を編集

[ph.] 有馬温泉でカメラ目線を狙った

画像の説明もっと角度つけないと。


2019-06-30 この日を編集

[bdb]工場所在地

画像の説明

雨がどっさり降っていてどこへも行けなかったので懸案をひとつ片付ける。工場所在地を登録しそれを示す新ピンを立てるようにした。これで煉瓦移送の状況が一目でわかるように。製造元からどの程度とおくまで運ばれていったのか誰にもわかるようになった。はず。


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