nagajisの日不定記。
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関連ワードにキノコが出た記念に新カテゴリを作って祝う。
たぶんフクロタケ。この質感がたまらない。
たぶんカエンタケ。3gで氏ねるという猛毒のキノコ。仮にベニナギナタタケだったとしても食う気にはなれない。無味無臭で彩りにしかならないようなものに命を賭したくはない。
軽岡峠隧道前で。これは間違いなくホウキタケ。
松ノ木峠で。毒キノコだと思っていたが、食えるタマゴタケのような感じ。
@愛宕山。手ぶれしてしまったのが惜しまれる。
ここだけ切り取って提示するとシュールな感じがするのではないか。
肩の荷が降りて気が楽になったので書いてみるという以外に意図はない。今度の記事で唐突に独白が入ることに対する言い訳をあらかじめ言い訳ておくものではないと思う。多分。
道を歩くということは、そう意識しようとしまいとにかかわらず、道の一部になることだと思う。道すなわち人が作ったものを利用した一人となって、道の歴史の一齣を担うこと。二千十何年かの何月何日に歩いた人がいたという史実を演じること。時間が止まったようで刻一刻変わり続けている道の姿のある一瞬を作り上げ切り取ってくること。公園の遊具でも駅でも同じような歴史があり出演があり得るだろうけれども、廃道の場合はそれが独占的というか主役的というか、まるで自分のためだけにそれがあるような錯覚を−−−そう、錯覚だ−−−味わうことができる。道自体は自分のものにならないけれども、演じた時間と空間の記憶だけは我が物にできる。我が物にしたところで誰かから非難を浴びることもない。
歩いたことが特段特別な歴史になったりしないのもいい。数多の足跡に埋もれてユングの謂う集合的無意識のようなものの一部になる。気安いことだ。
だからどうせ演じるなら、積極的に、真摯に演じたほうがいい。誰かに誇るためにでもなく、誰かの耳目を楽しませるためにでもなく、自分のために。その道を使った大勢がそうであったように。
自分は普通に通れる道しか通れませんが、道を辿る事には達成感があり、歴史を辿る事には興奮が(自分で調べたものでなくとも)あり、そうして溜め込んでしまったものを動画作ったりして吐き出してスッキリしてる感じです。ひとさまのとこで自分語りすみません。
いい趣味かつ王道でわないですか。それを言ったら私は¥で売りつけてるようなもんです>自分語り<br><br>http://www.nicovideo.jp/watch/sm15232001<br><br>続きを期待してますよー