nagajisの日不定記。
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大阪市公文書館の閲覧許可が出た+夜にKINIAS幹事会=朝から出ずっぱり.写真撮影はずいぶん慣れたこともあり午前中で終了.午後の空き時間に市街の堀川跡を歩き回った.
堀江川は堀江公園に碑があるのみで他に一切の痕跡がない.鋼ラーメンの大黒橋も跡形もなく.いやわかっちゃいたけどね.わざわざそこまでする人もないだろうし,現状がどんなか見ておくのも勉強になるだろうしで行ってみた.微妙に位置が特定しづらい.なにわ筋も新なにわ筋も当時は一路地でしかなかったのだな.あのへんの幹線は阿弥陀池筋だった.
木津川から堀江川跡を辿って西横堀川跡へ.西横堀川も埋め立てられているが最下流の一橋(金屋橋)だけ現存している.市内ではたぶん唯一の中路G.視点場がないので中路だとわかりにくい.
わざわざこの形式を採用した理由があって,それをどっかで読んだ気がするが…すぐに思い出せない.コンクリートで巻いているのは後補だっけか.それとも当時からか.大村・元良時代にはG+モルタル吹付けという形もあったそうなだが,これがそれではないかもしれない.かなりがっつり巻いている.
金屋橋の上手には防潮堤も残ってて意外だった.防潮堤というのだろうか?おそらく西横堀川への逆流を防止するための可動堰.戦後のものだろう.西横堀川はこの向こうで矢板切られている.
深里橋を見やり,道頓堀を東へ.御堂筋に架かる道頓堀橋も地味ながら変わった形式の橋.一見ゲルバー桁に見えるが三径間の連続G.ようはゲルバー桁をゲルバーにしないで作っちゃったというもの.そうした理由が軟弱地盤のせいだとあったけれども本当だろうか?軟弱だからゲルバーを採用するのでは?それともゲルバーでも追いつかないくらいに沈んだんだろうか?と調べなければならぬこと多数.確かにこの橋,よくよく見ると水平になっていない.難波側に沈み込んで見える.気のせいか.
改築されて用のなくなった戎橋をくぐった辺りでまだ時間が残っていたのでそのまま道頓堀→西横堀を遡ってみる.九野助橋は以前見に行ったことがある.東堀橋も鋼アーチだったのは都計橋一覧を作ってて気がついた.しかし彼我の間には10年以上も間が開いている.細部を比べてみると面白いのかも知れないが,西横堀川にかかる橋は(平野橋を除いて)徹底的に虐げられ,近くでその構造を見られるものが殆どない.
最近のお気に入りは久宝寺橋.第一次都計事業の最末期に架けられたRCゲルバー桁.本来この規模なら鋼ゲルバーか,東横堀川の他の橋に合わせて鋼アーチもしくはRCアーチにするべきところなのだろうが,資材不足もあってこの形式になったらしい.わずか三径間でRCゲルバーというのも珍しいんじゃないだろうか(少なくとも市街では唯一).ここも視点場がすごく限られる.写真は阪神高速の長堀入口に少し入り込んだところから.これ以外には隣の橋から遠望するか,北側の空き地から覗き見るしかできない.
幹事会で五新線高架のその後を聞いた.国道24号の高架桁と南側の1スパンを撤去する工事が完了し,その説明会が開かれたとのこと.参加されたM先生によれば,コアの強度試験で通常求められる強度の2倍を越える値が出て,非常に頑丈に作られていることがわかったそうだ.まあ活荷重は一切かかってこなかったのだからそんなものかも知れないとも.そうして竹筋は出て来なかった.もともとこの手の充腹RCアーチは必ずしも鉄筋を必要とするものではないし,使うとしても橋脚井筒とか基礎とかいった曲げ応力のかかりにくい所に補強の意味で使った程度だろうからな(そういや基礎は掘り返したんだろうか? そこまで聞いてみなかった).それを考えると長浜に施工された竹筋RC板橋はレアケースで,場所の特定&現況確認が急がれる.かも知れない.あれ,長浜だったっけ.