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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1942-01-26 この日を編集

[陸幼日記]一月二十六日 月曜日 晴

終日素〔粗〕食日なりき。午後は自習一時間と体操一時間なりき。随意運動時に体操を行いたれど体力中期より増々低下せるを知りたり。走幅とび四米、投てき三三・五米になりたり。入浴時は楽しきものなるかな。


1943-01-26 父の夢、ビルマ戦線状況、重禁 この日を編集

[陸幼日記]一月二十六日 火 晴

今朝父の夢を見る。父の夢を見るは之が初なり。起床喇叭にて破られたるは残念なり。然し我が父家に帰り来られたる時は喜悦満面に表れ嬉しさ誠に之れ以上なしという可し。彼の微笑ましき父の顔尚顔前に彷彿たり。忘ること能わざるは父が事なり。
相当に寒気増せり。声を高く出せば何事にも自と気力満ち愉快なり。益〃声を出すべきなり。国漢乙は自習にて、唱歌の時間は石川教官殿のビルマ戦に関して話を承る。南方には不足物資何一つ非ざる物はなしと。又外国語は十分身につけおくを要すと。伊藤重禁二日命ぜらる。要するに四十五期の不覚と思いて、より一層真の友情を持たざるべからざるを感じたり。毎日の延燈にて今日は自習時間の活動鈍し。昨日の如く依然たり。


2008-01-26 この日を編集

[奇妙なポテンシャル] #29

本日の昼の憩い・昼の文芸。

ムロアジの横に室生犀星と辞書に出ている 何かおかしい

それはまさに奇妙なポテンシャル。興奮して投句者の御名を聞きそびれたのが遺憾だ。


2009-01-26 この日を編集

[バックナンバーCD] #2

問題噴出で行き詰まる。つまらんことで悩んでるから進まないのだ。それはわかってるのだ。

例えば、おまけ記事はやっぱり収録範囲の何かに関係することのほうが良いような気がしてきた。けれどもこの範囲の何かを加える余力がない。新たに判明したこともないし、黒に何を加えても黒だし。とりあえず壁紙だけ作ってwaitしているけれども、壁紙だってきっと誰も要らないんだよ。

そうしてこれが終わらない限りどこへも行けない。あーもう、irritant。

叫べ叫べ。穴掘って埋めろnagajisを。

本日のツッコミ(全4件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ The Kate [壁紙にカレンダーを付けてくださったら、思わずニヤリとします]

_ 通りすがり [壁紙欲しい人が名乗りを上げる場所はここですか?]

_ ホルモン焼き [さっきテレビでメタルインドカレーのコマーシャルやってましたわ。あの独特の歌も健在でした。いやホンマびっくりこいた。]


2010-01-26 この日を編集

[奇妙なポテンシャル] #147

例によって唐突だが

力学慕情

とかいうワードを思いついて感慨に耽っているところである。単純に語呂がよいし(口ずさんでみてほしい)、沸き上がってくる奇妙なものもある。角速度ωで沈みゆく真っ赤な夕日とか鐘の余韻の4Hzとか泣けとごとくに降る雪の非弾性衝突とか。

[独言] ↑

こんなことで笑うことのできるnagajisは幸せであるとかなんとか思いながらふと「長年日記」をクリックしたら全然進歩してないことに気づかされ愕然とした。

[] ほうらみろ

100席越えちまったらしいよ・・・まただよ・・・また2桁人の前で赤っ恥かカニャならんよ・・・。というか夜行バスの予約忘れんようにせなあかん・・・。

[独言] どくげん

波瀾万丈楽器はパンジョー凭って集って裁判長〜。(現状のnagajisを表現しての一言

・・・我ながら呆れる。この状況下でなぜ笑おうとするのか>じそ。で、flash見て自慰的に泣くのだろ。いやなやつだ。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ とと [>力学慕情 ↑“力学挽歌”はいかが?]

_ nagajis [戦いの挽歌。コントローラー分解して左右ボタンを同時に押すと自キャラが分裂します(マジ]

_ 闘いの挽歌 [古池や蛙飛び込み定在波 五月雨をあつめて早しカルマン渦 流体力が句...]


2012-01-26 この日を編集

[独言][橋梁][KINIAS] 堀江川、西横堀川,道頓堀川、東横堀川 それから五新線

大阪市公文書館の閲覧許可が出た+夜にKINIAS幹事会=朝から出ずっぱり.写真撮影はずいぶん慣れたこともあり午前中で終了.午後の空き時間に市街の堀川跡を歩き回った.

堀江川は堀江公園に碑があるのみで他に一切の痕跡がない.鋼ラーメンの大黒橋も跡形もなく.いやわかっちゃいたけどね.わざわざそこまでする人もないだろうし,現状がどんなか見ておくのも勉強になるだろうしで行ってみた.微妙に位置が特定しづらい.なにわ筋も新なにわ筋も当時は一路地でしかなかったのだな.あのへんの幹線は阿弥陀池筋だった.

画像の説明木津川から堀江川跡を辿って西横堀川跡へ.西横堀川も埋め立てられているが最下流の一橋(金屋橋)だけ現存している.市内ではたぶん唯一の中路G.視点場がないので中路だとわかりにくい.
わざわざこの形式を採用した理由があって,それをどっかで読んだ気がするが…すぐに思い出せない.コンクリートで巻いているのは後補だっけか.それとも当時からか.大村・元良時代にはG+モルタル吹付けという形もあったそうなだが,これがそれではないかもしれない.かなりがっつり巻いている.

画像の説明金屋橋の上手には防潮堤も残ってて意外だった.防潮堤というのだろうか?おそらく西横堀川への逆流を防止するための可動堰.戦後のものだろう.西横堀川はこの向こうで矢板切られている.

画像の説明深里橋を見やり,道頓堀を東へ.御堂筋に架かる道頓堀橋も地味ながら変わった形式の橋.一見ゲルバー桁に見えるが三径間の連続G.ようはゲルバー桁をゲルバーにしないで作っちゃったというもの.そうした理由が軟弱地盤のせいだとあったけれども本当だろうか?軟弱だからゲルバーを採用するのでは?それともゲルバーでも追いつかないくらいに沈んだんだろうか?と調べなければならぬこと多数.確かにこの橋,よくよく見ると水平になっていない.難波側に沈み込んで見える.気のせいか.

改築されて用のなくなった戎橋をくぐった辺りでまだ時間が残っていたのでそのまま道頓堀→西横堀を遡ってみる.九野助橋は以前見に行ったことがある.東堀橋も鋼アーチだったのは都計橋一覧を作ってて気がついた.しかし彼我の間には10年以上も間が開いている.細部を比べてみると面白いのかも知れないが,西横堀川にかかる橋は(平野橋を除いて)徹底的に虐げられ,近くでその構造を見られるものが殆どない.

画像の説明

最近のお気に入りは久宝寺橋.第一次都計事業の最末期に架けられたRCゲルバー桁.本来この規模なら鋼ゲルバーか,東横堀川の他の橋に合わせて鋼アーチもしくはRCアーチにするべきところなのだろうが,資材不足もあってこの形式になったらしい.わずか三径間でRCゲルバーというのも珍しいんじゃないだろうか(少なくとも市街では唯一).ここも視点場がすごく限られる.写真は阪神高速の長堀入口に少し入り込んだところから.これ以外には隣の橋から遠望するか,北側の空き地から覗き見るしかできない.

幹事会で五新線高架のその後を聞いた.国道24号の高架桁と南側の1スパンを撤去する工事が完了し,その説明会が開かれたとのこと.参加されたM先生によれば,コアの強度試験で通常求められる強度の2倍を越える値が出て,非常に頑丈に作られていることがわかったそうだ.まあ活荷重は一切かかってこなかったのだからそんなものかも知れないとも.そうして竹筋は出て来なかった.もともとこの手の充腹RCアーチは必ずしも鉄筋を必要とするものではないし,使うとしても橋脚井筒とか基礎とかいった曲げ応力のかかりにくい所に補強の意味で使った程度だろうからな(そういや基礎は掘り返したんだろうか? そこまで聞いてみなかった).それを考えると長浜に施工された竹筋RC板橋はレアケースで,場所の特定&現況確認が急がれる.かも知れない.あれ,長浜だったっけ.


2014-01-26 この日を編集

[ph.] 愛宕山でキツネを見かけた

画像の説明

[ph.][きたく] 第二隧道

画像の説明

バテたが登れた。

[ph.] よるのこうえん

画像の説明

明るさ調整・シャープ済

[独言] 鷽替え神事@道明寺

画像の説明

道明寺の鷽替え神事に連れて行ってもらった。木彫の鷽を交換しあって厄災を払おうというもの。何も当たらなかったけれども木彫の鷽をいただいた。この省略化・デザイン化がなかなか素敵だと思った。

画像の説明

後ろはこうなっている。羽根の色と表現がいい。


2019-01-26 この日を編集

[煉瓦工場] 表作る

次はどこから手をつけよう、流れからいえば栃木から関東へと思ったものの、東京府の膨大な量と和気若造な継承関係を思って逃げ出した。鶴岡から鼠ヶ関を抜けて新潟に進入する。

新潟・富山はさっくりと終わったが石川県の珪藻土煉瓦地獄にはまる。昭和3年にイソライト工業が誕生してから10数年間のパンデミックがすさまじい。珪藻土煉瓦のカンブリア紀である。そうして長続きした会社はわずか。興っては消え興っては消えする工場群に無常を感じたりした。

能登の珪藻土は断熱煉瓦よりも電熱コンロの受け皿とか七輪とかでお馴染み。自分の幼少期にも電熱コンロであれこれした記憶がある。そうしてこれを書きながら「七輪の語源は七尾・輪島」という嘘を考えついたりした。輪島には珪藻土煉瓦の工場など無い。

なんとか石川を脱したあと長野・山梨・静岡の並びに手をつける。長野はすんなりだが山梨で少し手間取った。M30代に「山梨煉瓦(株)」と「山梨煉瓦製造(株)」が併存しているうえに各々複数工場があったらしいカンジで慌てて統計書を読み直し拾い直したりなどしている。そのお陰で初期の工場の継承関係がずいぶん明らかになった。甲運煉瓦土管(株)→山梨煉瓦製造(株)→甲州煉瓦(株)なんだ。そうしていずれの工場も鉄道線路の近くにある。中央本線の建設に関係しているのがありありとわかる(が年代あってるんだろーか)。

静岡の位置づけはいつも迷う。文化圏としては西でも東でもないような気がするし、他県と平地続きで繋がっているわけでもないし。「工場通覧」でも岐阜の次に入っていたりするから「中部」とくくるのがよいのかも知れぬ。しかしそうすると長野山梨は何になるんだ甲信地方か。とかいろいろ悩まなきゃいけないので大変だ。

そんな静岡県で東海煉瓦と浜松窯業の関係を解きほぐすのに相当な苦労をした。一見すんなり繋がっているように見えて実は齟齬がある。東海煉瓦の本社浜松市・工場東鴨江→本社が東鴨江に移転だと気づかなければぐっちゃぐちゃのまんまだったろう。んでT7のデータさえ整合性が取れれば東海煉瓦→浜松窯業となる。えいやっでそうしてしまってもいい気はする。

あとは東京を除けばすんなり行くはずの県ばかり。とにかく東京が大変。考えただけでAssの穴がむずむずする。

[煉瓦工場] 作り続ける

長野の怪しさに気づいて統計書を拾い直したりなどしたあと関東平野に降りていった。栃木はシモレン一強なんだけど「T7.3.創業」としているデータがやけに多いのは何でなんだぜ。確かにM42以降T8くらいまでは拾えていないけれどもその間に休業期間があったのだろうか。これを確認しようと思ったら日本諸会社役員録くらいしかないのではないか。あれは最高に死ねる資料だからできれば触りたくない。でもシモレンくらいの大会社なら載っていそうな気もする。

群馬まで入れた辺りで長野山梨と一緒にしてしまう案を思いつくが(碓氷線建設で東西に煉瓦工場が出来たところとかわからんかな)これまた微妙に収まらぬ。1/3以上空いたすかすかな感じのページ2枚になってしまうんやろか。うまくないなあ。


2020-01-26 この日を編集

[きたく][煉瓦刻印] 敦賀港駅ランプ小屋を神戸に持ってくることに成功

画像の説明

なんとはなしに和田岬に行って、なんとはなしに川崎重工のほうへ行ったらこれがあった。川崎重工兵庫工場の建物で使われていた煉瓦を再利用して作ったモニュメントとのこと。

画像の説明

このモニュメントの左上隅の煉瓦に小さな刻印があり、はじめはよくわからなかったのだけれど、これも思いつきで持ってきていたライトで透かしてみて……”□+斗”であることが判明した。

これと同じタイプの刻印が敦賀港駅ランプ小屋に使われている。実物は見ていないけど「ランプ小屋新聞」にあった「全刻印」のなかに”□+斗”があるのだ(木とか土とかは見たんだけどさ。あと向こうは小口に押されているはずで、このモニュメントのは平に押されている)。 画像の説明

敦賀港駅ランプ小屋の古さの根拠の3割くらいがこの刻印の存在に立脚している。あまり見られない小口印であること(瓦業者が煉瓦を焼いていた頃の製品にありがち)、恐らく製造者の名前か何かを一字で示したものであること(同上)、から敦賀近傍で現地生産された煉瓦ではないかとされていた。けれどもそれと同じものが神戸にもあるというのは、その推測の当確率を引きずり下ろすものになる。敦賀ほどの地方の煉瓦がここまで運ばれてくる可能性は低いだろうし、かつ沢山あった工場建物の何十万ちう煉瓦の中から選ばれた数十個にそれが含まれる可能性は尚更低い。それより何より、川崎重工兵庫工場は明治40年頃建設・稼働というじゃないか。

刻印は2分5厘四方。煉瓦自体は3.7分×7.8分×2.1分という器用な?サイズである。 画像の説明

モニュメント曰く、煉瓦は創業当時の事務所(戦後は組合事務所として使用)のもので、昭和59年3月に取り壊されたそうである。竣工当初の事務所…ということで馬鹿一覚の近デジに頼ってみれば、ほいよ、ヒエヒエの構内図あるね。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228030/146

しかし字が小さすぎてよく見えねえな。南北を連絡している軌道の南方、軌道を跨ぐ格好で「総合事務所」がある。北部の製材工場の西手にも事務所かな? ちと小さいけど。

昭和54年の航空写真

https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=962185&isDetail=true

と59年4月の

https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=612176&isDetail=true

を見比べると、北側の門の右隣りにあった建物がなくなっている。近デジ資料の構内図でいえば「軽合金鋳物工場」。「総合事務所」はそれよりも早い段階になくなっておる。違う違う。北方正門右側は「飛行機工場」のエリア。そうして飛行機課は大正7年8月設置。近デジの資料はS11発行で、戦時中のためか詳しくは触れられていない。巻頭の俯瞰図でも省略されている。

そういえば……このモニュメント、以前KINIASで見学会をした時に見ているはずなんだ。川重の工場間軌道=以前は山陽線からの引込線を見て和田旋回橋を見てるので。

[ph.]

画像の説明

撮り損ねてこんな画になった。回転フィルタかけたみたい。いや逆か、こういう画を再現するためにフォトショの回転フィルタがあるのだ。


2024-01-26 この日を編集

[] メモ

長野県七道改修

M15.3.通常県会で大野誠知事が県下主要路線6線の改修を諮問。反対があったが何度か提案を繰り返して同年12月の臨時県会で+1道され「七道開削事業」として承認を得る。明治16年着工、26年4月の第6路線竣工をもって完工。(山浦直人、小西純一『明治時代における長野県の道路行政について』(土木史研究講演集Vol.26、2006))

三河七道改修

長野県七道改修により第4路線(飯田町~根羽村)、第6路線(楢川村~日義村、読書村~山口村など愛知県に通じる道が整備される→愛知県下の道路改修がなければ実効的にならないとして改修を要請→明治21年に木曽川改修の議起こり、これによって恩恵を受ける尾張郡部との均衡のため三河地方の道路改修が計画される。勝間田稔知事の時代。対象路線は

飯田街道

伊奈街道

別所街道

足助街道

田原街道

西尾街道

平坂街道

昭和『愛知県史』第4巻ではM22から7カ年継続事業、M25着工、M31竣工。大正『愛知縣史』上巻はM23~31の7カ年継続事業で予定通り終わらなかったが順次竣工とある。総延長17459間余、総工費県費支弁286,625円、町村費支弁62,688円、合計349,313円余。

M22海嘯

明治廿二年巳丑九月十一日午前三時曇天北東疾風を起し雨雲乱飛同六時廿五分より細雨を降し風力漸く加り同九時全く暴風雨となり午後三時風位南東に転じ一層強暴を極む同六時三十分に至り突然海嘯至り劇浪平常満潮より高きこと凡七尺三寸同九時風位再び南西に転じ風雨共に減衰し同十時五十分全く静穏に帰す此海嘯の為めに害せらるるもの尾三両国其数を知らず本郡沿海総て被害あらざるなしと雖も其最も甚だしき地を半田、乙川、亀崎、大高、名和、荒尾、横須賀、常滑、山海、豊浜、大井、武豊、成岩等の諸町村とす(以下実数)(『尾張国知多郡誌』3巻3、1893)

知多七街道改修

地勢は大抵丘陵にして半島の脊髄は総て高地を以て連亘し南方師崎に接する方面は益々険阻なり、然れども東西の幅員甚だ狭くして広きも漸く三里内外に過ぎず海運極めて便利なるより古来農商工の諸業共に発達し航海漁撈の二業亦特に他に超越せしものあるは旧記の徴すべきものあり、殊に維新後公私の力を協せ知多七道改修の挙あり(三万二千余円を費せり)東西南北の交通に少なからざる利便を与えたるのみならず、(略)(愛知県農会『愛知県独案内』、1900)

p.261に東浦線(師崎街道)、西浦線(里道師崎常滑往還)、中通線あり

尾張名所図会

宮戸松斎 (宗太郎) 編 金華堂[ほか], 明23.12

尾張国知多郡誌

街道解説 https://dl.ndl.go.jp/pid/9571885/1/47 M26.7.10.発行

師崎街道

○師崎街道 本線路は、国道弐号線知立町より分れて知多郡師崎港に至るものにして、武豊町は其の線路に当り、衣ケ浦海面に瀕し、物貨運輸、頗る利便の地なり、政府茲に見るありて鉄道布設の起点とせらるるや、忽ちにして貨物の輻輳人民蝟集し、漸次繁盛に赴くの状況を呈せり、加之該町は将来市街開発の見込あるを以て、時の知事勝間田稔、之れが改築を計画せしめ、直営を以て、同町内に長程1420間4尺、幅7間道路を改修せしめ、明治19年12月着工、同20年1月竣工せり。(大正『愛知県史』上巻

有松村より共和村、大符村、森岡村、緒川村、石浜村、生路村、藤江村、有脇村、亀崎町、乙川村、半田町、成岩村、武豊村、富貴村、布土村、河和村、豊丘村、大井村を経て師崎村に達す里程拾三里弐拾七町三拾九間弐尺幅壱間乃至七間あり(『尾張国知多郡誌』里程省略)

愛知県公文書館 M19前後に沿道から改修願多数

師崎常滑往還

(俗西浦街道と称す県道に通じて常滑村字丸山より起る)

常滑村より樽水村、西阿野村、古場村、苅屋村、大谷村、小鈴谷村、坂井村、上野間村、奥田村、野間村、内海村、山海村、豊浜村を経て師崎村に至る里程九里弐拾七町拾五間弐尺幅五尺乃至二間あり○車馬を通せざるにあらずと雖も大谷以南漸く坂路あり野間村以南海岸砂中を経るものと山道とあり砂道は全く道路の形をなさざる所多く且満潮に至れば通する能わざる所あり山道坂曲間辛うして空車を通する地あり小野浦内海の間豊浜師崎の間の如きを是れとす蓋し郡中の難路なり過ぐる所の橋梁其大なるもの二、大橋(山海村久村川)千歳橋(内海村内海川)と云う○奥田より内海に達する別路あり里程一里三拾町僅に車馬を通す之を野間村を経るに比すれば近きこと半里程余故に奥田内海間は人皆之に拠る

(他に半田名和往還:中街道、大符東阿野往還、大野半田街道、成岩常滑往還、河和内海往還、大高大符往還)

豊浜~師崎間

因に師崎より豊浜町に至る道路峻坂にして、到底車馬の交通不可能なりしが漸く昭和八年度土木救済事業として之が改修に着手し工費金額十余万を投じ、昭和九年春三月竣工の予定なり、此の道路完成せば始めて知多郡一週も出来南知多開発に一段の光彩を放つ事とならん。(西村伝之助『南知多師崎誌』昭和9)


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