nagajisの日不定記。
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なんとか目処がたった.少し寝かせる.
http://www.47news.jp/CN/201203/CN2012030101001870.html
色々複雑な思いがする.震災の記憶を風化させないためには何かしらのアクションが必要だと思うが,「負」のイメージが強い物件を「遺産」という言葉で括ろうとしたところに無理があったのではないか.
そう思う一方,価値は数十年,数百年後にわかるはずではという思いもある.時を経て初めて価値がわかったから「近代化『遺産』」とか「産業『遺産』」とか「土木『遺産』」だといって崇め奉っているのだ.当時からそれが価値あるものだと思って遺していたのではない.撤去し忘れたものがたまたま残っていただけだ.
ならばむしろ,今のうちから積極的に遺していくべきであって,宮古市の試みは賛同すべきことなのだろうか.それもちょっと違うような気がした.未来永劫(というのがあると仮定して)ずっと遺していくとしたら,この狭い日本のこと,ものの置き場が無くなってしまうに違いない.墓ばかり増えても処置のしように困るだろう(石橋材料に使うならともかく).
もう少し感情移入して考えてみようと思い,阪神大震災のことを考えてみたが,「遺産」と呼べそうな「震災の跡」が無いことに気づいた.いまの神戸を歩いて,崩れかけた家,打ち捨てられたコンクリートの塊,伽藍堂を載せた基礎石垣を見ることは殆ど無いし,野島断層は若干趣旨が違う気がする.まるで震災などなかったかのような表情で神戸は存在している.無論,人々の心の中まではわからない.表向きには大変綺麗になって,そういう状況を享受しているように見える.東北の人々だって早く復興したいだろう.
そういえば,長田の「震災の壁」は淡路に移されたのだった.どういう経緯があったのか詳しくは知らないが,地元の人々が「もういらない」と判断したから移されたのだろう(若干言い方がきつくなったが,要するに「もう手元に置いておく必要がない」と判断されたということ.いつまでも喪に服していられないということか)
人は本質的に「死」を遠ざける.「死」を連想するものを遠ざける.生活空間とは別の場所に死者を葬り,墓と呼んで,年に数回だけ足を踏み入れ敬虔な気分になったつもりになっている.居間に仏壇があるのも,暮らしの中に「死」を置くためではなく,そうやって専用の居場所を設けてやって「死」を隔離するためだ.直近に起こった「死」を連想させるものを身近に置いたままにしておくのは,誰だって心地いいものではないだろう.仮に置いていたとしても,やがて「震災の壁」と同じ経緯を辿ることになるのではないか.遠くに離れた墓に追いやって,そうして人は普段通りの生活を送り,忘れてゆくものなのではないか.そういう忘却と経年を乗り越えて初めて「遺産」としての価値が生まれるのではないか.そんなことを考えた.
なんにせよ「遺産」という言葉は使いづらい.もっといい言葉がほしいように思うし,親学会で議論が戦わされているのも尤もだと思う.が,せっかく定着しつつあるのだから,このまま我慢して使い続けるのもひとつの手じゃないか.多数は正義だ.「不快だ」「不気味だ」という言葉が不便だから「キモい」を導入したわけではあるまい.誰もが使うようになったから「キモい」がそれらを代弁する言葉になったというだけで,要するに順序が逆だ.「遺産」が「キモい」になりつつあるのだから,そのまま待ったほうが早いのではないか.「廃道」もそうなるのを待つほうがいい.否そうなるのを待つしかあるまい.
「世界遺産」と言った時の「遺産」と,「土木遺産」「近代化遺産」の「遺産」とは若干異なるように感じられる.前者は「世界にとっての遺産」であって,存在自体がすでに価値であり,前向きな感じがする.後者は「遺された<もの>」を指す感じが強くする.土木の発展過程で残ったもの,近代化の過程で残ったもの.そこには価値を感じさせる要素がない(土木遺産近代化遺産に価値がないというのではない.「ダイヤモンド」という言葉に価値を感じることができ,「温度」に価値を感じられないようなもの).世界遺産がきらびやかで珍しいものばかりだからそう感じるのでもないように思う.純粋に言葉のイメージでそんなことを思う.
断っておくが世界遺産に認定された物件そのものには興味がない.むしろ近代化遺産になったもののほうに価値を感じる.世界遺産が厳選された価値であり,世界普遍の価値であることは認めるが,それよりも近代化遺産のほうがいい.そんな歪んだ思想ゆえにこんなことを思うのかも知れない.
やっぱりあれか,すでに判明し切っているものと,そうでないものという意識があるせいか>歪み.調べる余地があるから面白い.自分で調べて明らかにしていく過程が面白い.廃道は特にそうだ,といつものフレーズを書きそうになったが,道は連綿としたつながりの具現であって,そのつながりを通していろいろがわかってくるから特に面白いのであり,別段道という構造物でなければならないわけではないのだ.
謎を謎のままにしておく楽しさや,状況を楽しむことの楽しさを否定するものではない.行った! なんかあった! すごかった! で終わってもいい.自分だってそうやって楽しむことはある.しかしそっちよりも謎を明らかにすることのほうが楽しく,またそうすることで「自分にとっての価値」以上のものをもたらしてくれるものと信じている.自分が味わった楽しさは,平たく言えば「死ねば無くなる」.それっきりだ.生きた証とか歴史の継承とか大仰なことは言いたくない.それっきりだと勿体無いという,至極単純な発想に基づいてそう思う.
以前何気なくupした橋の拡大バージョン.あとでtyafficさんに大正橋だと教わった.こうしてみると改めて大規模な橋であったことがわかる.広々とした河川敷の空間に一直線に伸びる桁は,橋がどうのこうのという人でなくてもインパクトを与えただろうし,だからこそこうして絵葉書になっているのだろう.
「真っ直ぐなもの」には人の心を惹きつける魅力があるのではないか.常々そう思っている.天然世界には直線が乏しい.竹とか杉とか,あるいは飛んで大海原の水平線とか,そういうものしかなかったから,直線即ち珍しいものだった.直線即ち人為の象徴であった.真っ直ぐな道や垂直に切り取られた崖,石垣の連なりにときめきを感じるのはそのせいだ.ゴシック建築が垂直を志向したのと同根だ.
という勝手な説を説いている.賛同してもらった試しはない.
世界遺産は,子孫に残すべき遺産で,土木遺産等は先祖からの遺産という点で「遺産」の意味が違うと認識しておりまする。<br><br>「震災の記憶を風化させないため」というのは何百年も前の先人も同じことを意図し,石に刻んだり文献に残しているが,喉元すぎればなんとやら,それらの存在自体を忘れてしまい,「天災は忘れた頃にやって来る」の言葉が記憶として残るだけ。残念ながら,世代が代われば風化してしかるべきなのでしょう。世代を超えての注意喚起...あのオンカロの危険喚起の看板をどうすべきかという面白い議論をふと思い出した。<br><br>自然物に直線的なものが少ないのは,自然界がフラクタルでマクロ化しているせいだからでしょうか。それが古代文明の遺跡であるのかの判断など,確かに直線というのは自然物との区別に使われたりもしますね。非直線的な自然界にあるから印象的なこの橋も,ビルのジャングルにあっては面白くはないのでしょう。<br><br>「死ねば無くなる」=あの世に持っていける。それもひとつの生き方でしょう。あの世には金も財産も名誉も持っては行けない。この世に置き去り。自分の経験や生きた証を後世に残したいというのもひとつでしょう。<br><br>自分にとっての価値=喜び・愉しみは,それは個人にとって一番大切だけど,自己満足というのにはすぐに頭打ちが来る。自分の行為で他が同様の喜び・愉しみを享受していることを知った時により多くのドーパミンが得られるというのが持論です。その働きかけが,やがては自分の遺産になっていくというのは,正しい方向性だろうと思います。
なるほど.他の方の反応がモチベーションになることは確かです.そればっかりを期待してしまっていけないのでしょうね>nagajis