nagajisの日不定記。
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疲のため、ぐっすり昨夜は寝ねたり。午後は剣術あり。剣術は試合にてよく奮戦したれど門松に勝ち、藤島に敗れたり。一層の修養まだヽ必要なり。自分より強い者は多くいるものぞ。随意運動時も亦十七時二十分までなす。授業のある日もあと五日なるか。
如何に暖くなるも冬と一つも変らざるに、遥拝に行く際台上の梅の開き咲きたるを見て我は此に春なりと新に頭に閃きたり。春は一年の初にして花咲き乱れ鳥は青空を悠々と飛び人間は新興の意気に燃ゆる時期なり。此の時に於て学ぶは誠に予の望み喜となす所なり。
昨一日昼クループ性肺炎にて医大に入院された三年一訓の坂本宏男さんは昨夜二十時十分息を引き取られたり。依って今日十五時より校庭に於て告別式行われ、坂本さんの為三年応接室に於て各訓より代表の御通夜行わる。
随意運動は近日暖くなり益〃猛烈となり可なり。今日は稍〃剛健ならざる点あり特に朝につゝしむべし。時間観念旺盛ならず。頗る良好なり。
苦しみながら書く。そのうち何とかなるだろう。
前日あんなことを書いたが北山郷概説+上北山領内で切り上げる案が浮上してそちらに流れそうな塩梅だ。何という妥協。捗らん癖に詰め込みたくなるのであればその方面で無為に頑張ればよろし>nagajis@AM5:30
よくもまあそんなことが言えた(書けた)ものだと思わないでもない。間違いなく本心ではあるのだがそれを読み直した途端嫌らしさなり木っ端図か示唆もとい小ッ恥ずかしさなりで赤面遷移が戻らない位のことを書いてある。
どこの仁和寺の法師だpart2。アイデアは良かったのだが、まじまじと見つめたい所につく工作としてはちょっといただけない。これなら邪魔にならん所に手書きしたほうがマシなのではないか。
今日もまた情報を右から左に横流しするだけのお仕事ェ・・・
伊賀街道の改修と其発起者
伊賀国より伊勢津市に至る伊賀街道は山嶺聳立するが為め往来不便にして之が改修を企つるに至りたるも嶮岨の山腹を迂回し蜿蜒羊腸たる道路を作るを以て其工事頗る困難なりとす初め明治七年の頃奥久三郎、西尾清四郎の両氏伊賀国上野より津市に達する路程十有二里の道路改修に着手せしか巨大の巌石重畳し路盤亦堅固にして其工事の進捗遅々たりしも明治十年に至り漸く中の瀬阪改修の功を竣えたり是に於て稲上農、中野信蔵の二氏力を合せ又伊勢国関係村有志者も協同一致して長野嶺開鑿の土工を起し之を[宛+リ]鑿低下すること直立六十尺凹道を開く長百二十尺余又嶺上前後一道路を新設すること延長二十余町其の工費数千円に及ぶと雖も事業甚だ困難にして意外に費途を要し開鑿の功全きに至らず従て運輸交通の便亦全きを得ず醵集の資金已に尽き事業の中止を見るに至れり然れども四氏は之に屈撓せず其成功を期せしも雨水の為め岩石崩壊して嶺上の凹道を填塞し将に廃道に帰せんとす時の県令郡長之を惜み四氏に援助せしかば明治十四年更に有志を募り改良の策を講ぜしが勢伊の間地盤の高低甚しく勾配を緩くするも普通の道路にては到底通車の便を開くこと能わず依て従来の設計を変し中間に隧道を穿ち前後道路の勾配を緩ならしめんと欲せしも巨額の工費は民力の耐ゆるところにあるざるを以て県に該工事費の補助を仰ぎ郡役所に道路改修主任員を置き爾来官民一致協力して測量工費募集其他改修に関する諸般の方針を一定し十五年九月より隧道の試掘に従い同年十二月より道路の試鑿に着手し明治十八年漸く工を竣え翌十九年十二月終に開道式を挙行せり是に於て昨の嶮阻は変して今の坦道となり物貨の運搬大に開け衆庶交通頗る容易なるを得るに至りしは四氏の功を推さざるを得ず
(第九回関西府県共進会三重県協賛会「三重県事業史」(明治四〇年)より引用・原文旧漢字かな:出典は龍渓書舎「明治後期産業発達史資料第361巻」)
ついでに「補造化」が掛かっていた頃の写真。昭和35三重県史より引用。
情報は一度公開してしまうと後で補うことがしにくい。目に付くところに置いておくが吉。Google検索して数ページ数十ページ目に出てくるようなページが目に付く所か(わらい)というツッコミはどうぞご自由に。
なんとか目処がたった.少し寝かせる.
http://www.47news.jp/CN/201203/CN2012030101001870.html
色々複雑な思いがする.震災の記憶を風化させないためには何かしらのアクションが必要だと思うが,「負」のイメージが強い物件を「遺産」という言葉で括ろうとしたところに無理があったのではないか.
そう思う一方,価値は数十年,数百年後にわかるはずではという思いもある.時を経て初めて価値がわかったから「近代化『遺産』」とか「産業『遺産』」とか「土木『遺産』」だといって崇め奉っているのだ.当時からそれが価値あるものだと思って遺していたのではない.撤去し忘れたものがたまたま残っていただけだ.
ならばむしろ,今のうちから積極的に遺していくべきであって,宮古市の試みは賛同すべきことなのだろうか.それもちょっと違うような気がした.未来永劫(というのがあると仮定して)ずっと遺していくとしたら,この狭い日本のこと,ものの置き場が無くなってしまうに違いない.墓ばかり増えても処置のしように困るだろう(石橋材料に使うならともかく).
もう少し感情移入して考えてみようと思い,阪神大震災のことを考えてみたが,「遺産」と呼べそうな「震災の跡」が無いことに気づいた.いまの神戸を歩いて,崩れかけた家,打ち捨てられたコンクリートの塊,伽藍堂を載せた基礎石垣を見ることは殆ど無いし,野島断層は若干趣旨が違う気がする.まるで震災などなかったかのような表情で神戸は存在している.無論,人々の心の中まではわからない.表向きには大変綺麗になって,そういう状況を享受しているように見える.東北の人々だって早く復興したいだろう.
そういえば,長田の「震災の壁」は淡路に移されたのだった.どういう経緯があったのか詳しくは知らないが,地元の人々が「もういらない」と判断したから移されたのだろう(若干言い方がきつくなったが,要するに「もう手元に置いておく必要がない」と判断されたということ.いつまでも喪に服していられないということか)
人は本質的に「死」を遠ざける.「死」を連想するものを遠ざける.生活空間とは別の場所に死者を葬り,墓と呼んで,年に数回だけ足を踏み入れ敬虔な気分になったつもりになっている.居間に仏壇があるのも,暮らしの中に「死」を置くためではなく,そうやって専用の居場所を設けてやって「死」を隔離するためだ.直近に起こった「死」を連想させるものを身近に置いたままにしておくのは,誰だって心地いいものではないだろう.仮に置いていたとしても,やがて「震災の壁」と同じ経緯を辿ることになるのではないか.遠くに離れた墓に追いやって,そうして人は普段通りの生活を送り,忘れてゆくものなのではないか.そういう忘却と経年を乗り越えて初めて「遺産」としての価値が生まれるのではないか.そんなことを考えた.
なんにせよ「遺産」という言葉は使いづらい.もっといい言葉がほしいように思うし,親学会で議論が戦わされているのも尤もだと思う.が,せっかく定着しつつあるのだから,このまま我慢して使い続けるのもひとつの手じゃないか.多数は正義だ.「不快だ」「不気味だ」という言葉が不便だから「キモい」を導入したわけではあるまい.誰もが使うようになったから「キモい」がそれらを代弁する言葉になったというだけで,要するに順序が逆だ.「遺産」が「キモい」になりつつあるのだから,そのまま待ったほうが早いのではないか.「廃道」もそうなるのを待つほうがいい.否そうなるのを待つしかあるまい.
「世界遺産」と言った時の「遺産」と,「土木遺産」「近代化遺産」の「遺産」とは若干異なるように感じられる.前者は「世界にとっての遺産」であって,存在自体がすでに価値であり,前向きな感じがする.後者は「遺された<もの>」を指す感じが強くする.土木の発展過程で残ったもの,近代化の過程で残ったもの.そこには価値を感じさせる要素がない(土木遺産近代化遺産に価値がないというのではない.「ダイヤモンド」という言葉に価値を感じることができ,「温度」に価値を感じられないようなもの).世界遺産がきらびやかで珍しいものばかりだからそう感じるのでもないように思う.純粋に言葉のイメージでそんなことを思う.
断っておくが世界遺産に認定された物件そのものには興味がない.むしろ近代化遺産になったもののほうに価値を感じる.世界遺産が厳選された価値であり,世界普遍の価値であることは認めるが,それよりも近代化遺産のほうがいい.そんな歪んだ思想ゆえにこんなことを思うのかも知れない.
やっぱりあれか,すでに判明し切っているものと,そうでないものという意識があるせいか>歪み.調べる余地があるから面白い.自分で調べて明らかにしていく過程が面白い.廃道は特にそうだ,といつものフレーズを書きそうになったが,道は連綿としたつながりの具現であって,そのつながりを通していろいろがわかってくるから特に面白いのであり,別段道という構造物でなければならないわけではないのだ.
謎を謎のままにしておく楽しさや,状況を楽しむことの楽しさを否定するものではない.行った! なんかあった! すごかった! で終わってもいい.自分だってそうやって楽しむことはある.しかしそっちよりも謎を明らかにすることのほうが楽しく,またそうすることで「自分にとっての価値」以上のものをもたらしてくれるものと信じている.自分が味わった楽しさは,平たく言えば「死ねば無くなる」.それっきりだ.生きた証とか歴史の継承とか大仰なことは言いたくない.それっきりだと勿体無いという,至極単純な発想に基づいてそう思う.
以前何気なくupした橋の拡大バージョン.あとでtyafficさんに大正橋だと教わった.こうしてみると改めて大規模な橋であったことがわかる.広々とした河川敷の空間に一直線に伸びる桁は,橋がどうのこうのという人でなくてもインパクトを与えただろうし,だからこそこうして絵葉書になっているのだろう.
「真っ直ぐなもの」には人の心を惹きつける魅力があるのではないか.常々そう思っている.天然世界には直線が乏しい.竹とか杉とか,あるいは飛んで大海原の水平線とか,そういうものしかなかったから,直線即ち珍しいものだった.直線即ち人為の象徴であった.真っ直ぐな道や垂直に切り取られた崖,石垣の連なりにときめきを感じるのはそのせいだ.ゴシック建築が垂直を志向したのと同根だ.
という勝手な説を説いている.賛同してもらった試しはない.
夏の探索を書き終えて手直し中。大きな発見がない分余計なことを書いている。ただ書いているうちにそれでよい気がしてきた。要するに峠行がしたかったのだ。
12月のぶんをどうまとめるか・・・はやいうちに十津川村にお尋ねしなければ。
_ とと [by クレイジーキャッツ]
_ nagajis [キャッ]