nagajisの日不定記。
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極太の明朝体が遠目で見にくくなることを再認識させられる夢。明朝体は縦線が太く、横線が細いものだが、その細い方が遠目で見ると掠れて見えてしまうため、看板なんかではあまり使われない(はず)。そういう認識を夢の中でも再確認したというほかない。紙に印刷されてあるのを見てそう思った。特に英数字が見にくく感じられた。果たしてこれは何を意味しているのだろう・・・。
明日は一日寝たいなあ・・・部屋の片付けもしたいなあ・・・
近畿地方では一昨日だったかその前だったか、もっと早くにだったかに木枯らし一号が吹いたというニュースが流れていた(そういや土曜日よりも前だったな)けれども、今日の風の方がずいぶん寒く感じられた。着実に秋が深まっているようだ、とようやく実感した次第。
家の前の自販機もホットに切り替わった。個人的には自販機のコーヒーがホットに切り替わるのも秋を感じさせる重要要素だ。吉野のほうでは早くからホットってたけれども、それが市街にも降りてきて、家の前までやってきたということだ。
南天は夏頃の大きさで生育が止まって、大きな枝の葉の先が赤く染まり始めている。このまま紅葉してしまうんだろうか? 紅葉すると葉が落ちて枯れてしまうんだっけか? 大きくなりはしたものの、実をつけないままでここまで来た。きっと来年以降だろう、と思っていたものの、葉が落ちてしまったら元の木阿弥なんじゃないかしらん、とこっそり心配している。
そういう心配をする前に着るものの心配をしなきゃな。そろそろ冬物のありかを確認せねば。ぱんつ洗わないと。もう替えがない。
冬に突入する前に葛城方面へ行きたいな。行き残している天皇陵参道と道路元標を回収しつつ横井戸群を見てみたい。横井戸はいつも通るあの道路のそばのはずなんだが。
田原と五打以後天皇陵はどうするかね・・・あの2つは遠いからなあ。でも行かんと終わらんからなあ。あ、そうやった、前書いた調査票まだ提出してねえや。忘れないうちに片付けておこう。
最近教えてもらって知ったんだがそういうのがあるそうだ。1970年頃か、ってなんか伝説の坊さんみたいだ。お前は椿念和尚(A.C.680~732頃か)か。
こういう時本人が書き直せないルールってのはどうかと思うが、まあ所詮はnagajisだし、つけあわせのブロッコリーみたいな意味合いで作られたんだろうし。 書くべきところにはちゃんと書いてあるしな。 ついでだから短小包茎右曲がり、毛がフサフサで毎日床屋に通ってるって書いといてくれ>誰か。
新淀川新橋の時に頑張ってまとめておいて良かった(それを思い出して良かった)。見直したらあっさりまとめ直すことができた。過不足なく。誰の役にも立たないだろうと思っていたがしっかり自分の役にたっとーる。あれだな、ちょうど講義ノートを自分で作ったようなもんだな。誰もが当たり前にやっているだろうことをやっていただけだが、自分にしては珍しいことだ。故に書いてみる。しかし[都計]タグを打つまでもなかったかも知れぬ。
情報の価値がどうとかこうとか書きすぎた気がするので、しばらくは深く考えずにヘラヘラ過ごそうかと思ってみたりしている。信念を常に表明し続けるのはエネルギーが要る。自分を追い込むことになる。やり過ぎると自分が暴走することは必定だ(すでにしていると思うが)。ようは大石蔵之助ろうという魂胆。信念信念言っているとそれこそ椿念和尚になる(誰
今日の昼間、気分転換のつもりで散歩に出掛けたところ、近くの神社でフリーマーケットというか蚤の市というかな催し物に行き当たった。端切れを山積みにして売っているかと思えば、文房具ばかり並べて大安売りしている出店が隣っていたり、その向こうで鈴カステラ屋が繁盛していたりした。何の賑わいだろうと思ったら、そうか、今は七五三シーズンなのだな。綺麗なべべ着たお嬢ちゃんが爺ちゃん婆ちゃんに手を引かれて拝殿へ向かっているのを見つけてそう気づいた。
そんなカオスな境内の一角で、オモチャ?を売っている店があり、そこで売られている招き猫が、ちらっと目に入った。取り立てて何ということはない普通の招き猫である。強いて言えばケバいくらいにカラフル。もちろんオーソドックスな白もあったが、ブルー、ピンク、イエロー、そういう原色系のやつのほうが多く、目立っていた。地の色を変えただけだのでただただケバく、はしたない感じすらする。そんな中にある白招き猫が、ふいに欲しくなった。
生まれてこの方、招き猫を欲しいと思ったことはなかった(特別に可愛いやつは別である。商店の店先で見かけるようなフツーのやつ、時に油埃を被って薄汚れていたりする、あの招き猫にそんな感情を抱いたことはない)。なぜ急に欲しくなったのだろう。呼ぶものがあったのだろうか。それとも招き猫に頼らなければならないほどに困窮しているのか。そうかも知れないがとりあえずその可能性は脇に置いておく。話が進まないから。
結局その招き猫を購うことはなかったのだが、なぜ欲しいと思ったのかをつくづく考えてみて、最終的な結論は「そういうお年頃なのだろう」というところに落ち着いた。世の中に未だにこの手の招き猫が存在するのは、やはり需要があるからであって、そういう需要の層はある年齢以上の人からなる層のはずである。何の目的があるわけでもないが、招き猫いいよな、日本の心だよな和だよな、と思ってしまう年齢の層が。ほら、年を重ねると寺社仏閣巡りをしたくなったりだとか、仏像に興味を持ったりだとか、したくなるっていう話、よく聞くじゃん。そういう人らによって古い文化が継承されていくと思うんよ。若いもんには伝統の良さがわからんもんなんよ。急に馴れ馴れしくなったのは別に理由はない。
世の中の「普通」に反発するような生き方を続けるのは難しい。いつかどこかで思わず知らずに日和ってしまうことがあり、その日和りがかえって信念の呵責?となって疲れを倍増させてしまう。「招き猫なんて」と思っていた心に隙ができ、その隙を突いて飛び込んで来られた時、どう対処していいのかわからなくなって、180度返した掌で受け止めるしかなくなるのではないか。そういう瞬間だったのではないだろうか。
理由がわかった(ような気がした;それを書き尽くせたとは思っていない)のでしばらくは招き猫を買わずに済みそうだ。しかし気を抜いているといつのまにかコケシとか木彫りの熊とかが部屋の隅に鎮座しているという事態になりかねない。気を付けなければならない。
どなたが修正したのかわかりませぬが、また違ってますよ>wikiの生誕日。私は修正の仕方がわかりません。
それ、私がやりました!(嘘情報を拡散するnagajis