nagajisの日不定記。
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腹一杯食べた後に
食った食ったールンゲ=クッター
と呟いてしまう癖が抜けない。RK法が如何なるものだったか微塵も思い出せなくなっているうえにRungeではなくLungeだと思い込んでいたくせに、である。道理で線形代数は可だったわけだ(否、不可であったかも知れぬ)。
その対義語として
腹減りマクローリン展開
というのがあった。というかそれがRK法と対をなしていたことにたった今気付いて動転している。ことばとしては確固と存在していてここでも何度か使ったような気がするがそれがRK法と対になるものであることに思い至ったことはついの今まで無かったのである。なぜそんな重要なことに気が付かなかったのか。間もなくscore年が経とうとしてる今頃になっての発見に独り瞠目している。
こういうパターンの「発見」が自分には結構多い。問いと答えが背中合わせて置かれていたのにそのことに気づかなった、あるいは普段弄んでいた玩具が実は開けたがっていた扉の鍵であったりだとかいうような見過ごし見逃し思不至。何でそれに気づかなかったのかと、気付いたあとの自分に嘲笑され罵倒されかねない不意識の只中に生きている。不二の法門に入っまま帰ってこない菩薩群である。それはそれで面白い経験にはなるのだけれども無駄余りある生き様であって決して褒められたものではないのである。
nagajisはいったいどこへいくのだろう。今さらながら流し流されて思えば遠くへ来たものだ行くものだと思う。行って帰ってこなくてもいいからな。
珍しく探しものが全部出てきた。煉瓦展報告に着手した。最初の7ページで満足してしまった。そして犬釘拾った瞬間の動画はやはり記録されていなかった。先が思いやられることである。
人の言うこと、語ったこと、書かれたこと、参考にはしても鵜呑みにできない質になっている。信じられないわけではない。むしろ信じたい。そうしたほうが楽だからね。でもそこに含まれているかも知れない悪意のない誤解であるとか価値観の相違に伴う理解齟齬とか政治的サプレッションとか様々な因子が介在し得ることを経験で学んで来、それに困惑し、翻って自分の言説著述の不正確さを恥じること多々グループなお年頃故に慎重ならざるを得ないのである。この質を突き詰めてゆくと自身が見たり経験したり実感直観として判ったことにしか立脚できなくなるわけで非常に生きづらい。しかも基礎ガタガタな自分なのだからまるで瓦礫の上をうろついているかのような不安を常に抱えて歩くはめになる。緻密な石垣を構築するつもりで積み上げてきたつもりだったものが実は胴飼舮飼は無論根敷すらない野石積みであると気付いた時の戦慄。慌てて取り繕おうとして借りてきた言葉がその隙間にぴったり嵌ったとしてもその本質を熟知していなければある日突然砕けて意味をなさなくなるやも知れぬではないか。そもそも借りてきた言葉で足元を固めても自分のものにはなるまい。大阪城の蛸石が太閤さんのものではなく飽く迄も蛸石であり続けているように。
そうやって自力だけで築いてきたものが自分以外にとって如何程の価値もないことはわかっているつもりでいて、以前はそれを諦めることにしていたけれども、そうじゃない、自分にとってはちゃんと役に立っているではないかと肯定的に捉えられるようになったのもやはりお年頃なのだろうと思ったりもする。要するに自分は自分、他人は他人、他人にとってもその自身は自身であり他人たる自分は他人であるという関係がヨノナカというものなのだ。この関係もある意味自他不二と言えるのかも知れない。相手にとっても自他という関係は同様に自他であってその点においては自分も他人もぶっつづきの一つなのだ。
あれ、何を書くつもりだったんだろう。ものごとを自分なりに咀嚼して考えて利用するしないを判断することができるくらいには成長したみたいでよかったネ、ということだっけ。あっ、慌てて書いておくがこれは自分自身を省みてのことだからな。誰か・何かにあてつけるような意図は一切ないので誤解なきよう。そういうことをしても何にもならないということははるか昔に学んでいる。