nagajisの日不定記。
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工場表大阪編の整理をしていて墨江村の三栄社ともう一つが安立町に移っているらしいことに気づいた。それを突破口にして周辺の煉瓦工場を整理し、そのついでに再三再四となる現地訪問。ほんとは山陰本線方面に行こうかと思ってたんだけどな。寝過ごした。
墨江村周辺はたぶん4回ほど訪れたことになる。最初は勝間村の尾崎煉瓦工場と三栄組を探しに。2度目は千体村方面。3度めは住吉神社から東へ池田家住宅辺りをうろついた。そして今回。それだけ歩き回っても三栄組の痕跡は見つけられない。尾崎煉瓦も尻尾を掴めぬ。この地域に特有の煉瓦というものが見いだせぬ。明治前半期の三栄組はともかく尾崎煉瓦はあってもいいと思うのだ。それが見つけられないってことは要するに刻印を使っていなかったということになると思う。手成形煉瓦はかなりあるのだ。
今回は各村の旧市街地を徹底的に歩き回った。望みのものはなかったかわり、意外に他種類の刻印と遭遇。懐かしいものもいくつか。
勝間村域で大阪煉瓦。前回は旧市街地の端を掠めただけだったのでこういうのさえ見つけられなかった。
粉浜街道沿いに南下していく途中で見つけた和泉煉瓦(大正)。これだけを使った小路がひっそり残っている。ここだけ大正初期~中期な一角だ。
粉浜の商店街にさしかかったところでは貝塚煉瓦にも遭遇した。これが今回もっとも古い(明治27~40:恐らく後半の作)。
細長い安立町は特に念入りに歩き回ったつもり。そんな安立で久しぶりに朝日窯業を検出。T6~9まで絞り込める貴重な刻印。これと並んで大阪窯業もあった。豊中の朝日窯業(亡失)も確か大阪窯業刻印煉瓦と共使いになっていたはずで、その流通に同じバックグラウンドがありそうなかんじ。(共使いの大阪窯業はマークのみ・長手に寄った端のほうに押されていた)
安立3丁目、本通商店街の脇の細道では「S」刻印に出会う。堺市堀上町で1つ見つけたきりの(自分にとっては)レアな刻印。同型のがいくつか見つかってくれないと新種認定できないからな、こういうのは有難い。
おまけ。空地で検出したYFB耐火煉瓦(扇型異形)。上に「2」が見える。YFBちうとYokoyama Fire Brickを連想するが、横浜耐火煉瓦である可能性もないわけではないからな・・・。
偶然行き合わせた煉瓦橋脚の橋。この天辺に平が露出している。
いかにも機械成形という肌をした煉瓦に、比較的整った平に岸和田煉瓦の×マークが押された煉瓦が混じっている。はじめは後者を手成形かと思ったのだけれども、よくよく見ると小石をひこずった弧形の傷(以下擦過傷)があり機械成形とわかる。
岸煉が明治39年に導入した成形機械は米国Chamber Bros.社製で、自転車のホイールのようなやつがぐるんぐるん回って裁断する。ちょうど上写真のように、長手と平行気味の、全体的には小口―長手角から対角の小口角に抜けていくような感じ。阪堺の大和川橋梁は明治44年開業だからM39に購入したそれで作ってて不思議ではない。想像が裏付けられた格好。
そのことよりも、他の歪んだ煉瓦の存在に大きな示唆を受けた。平が波打ったような歪み型をしている無刻印の煉瓦が共使いされている(2つ前の写真参照)。質感は刻印入りのものと似ていて、ただ平が整っているかそうでないかという違いがあるだけだ。多分これも岸煉製なのだろう。波の繰り返しの方向が擦過傷の弧の方向と一致している。ホイール状の切断機が回転して切断する時、そのホイールの軸が緩んでいたり、スポークがビビったりしたらこんな波形になるのではなかろうか。
そうしてそんな平が波打った無刻印煉瓦は街なかで結構見かけるのだった。えらい歪んでんなーという機械成形の煉瓦を。あれも岸煉製で、チェンバー兄弟社のマシーンで作られたのだといえるとなかなか面白かろうと思う。刻印がなくても製造元を特定できる例として。
チェンバー兄弟社のマシーンを使ったのは管見の限り岸和田煉瓦しかない。他は大阪窯業流のアレ。上手い例えがありそうでなかなか思いつかないが、自分の頭のなかでは「ゆでたまごスライサー類似」と認識している。ピアノ線を張ったハープみたいなんを手前にギッタンと倒して切断するやつ。手動。あれだと長手から長手に抜ける円弧傷になる。こいつは構造が簡便なので多くの工場で使われた(はず)。とすると傷の付き方だけで製造元を推測することはできない。
やはり煉瓦は幾らでも街なかに転がっている。探す場所さえズレてなければどんな街でも煉瓦を見つけられる。目印は旧街道。そこから一筋逸れた筋や、旧街道に面した民家商家の隙間を入っていく細道を、しつこい位に分け入っていけばよい。長屋前の細路地とか、旧街道脇の空き地の奥とかを徹底的に歩き回ればよい。
あと、市街地では今昔マップが便利。これで昔からある市街地を確認して、その範囲を徹底的に歩き回る。これ最強。
今回は日本煉瓦を飽きるほど見た。場所をメモしして刻印分布に登録したのはその半分くらいじゃなかろうか。大阪窯業や岸和田煉瓦を凌駕する勢い。なんでだろうな。販売形態とか流通経路とかが違うんだろうか? 大阪窯業・岸和田煉瓦は輪窯を10前後もこさえて超大量生産した。大口受注に応えられた。日本煉瓦はそこまで多く無かった筈。覚えてる範囲でも3基が最大だった気がする。そうすると1,000万個とかいう単位の需要には応えられなかったかわり、市中の用に供するには充分な規模だったのかも知れない。そうして煉瓦建築が激減した大正末頃から大会社はかえって苦しくなる。テラコッタとかタイルとか耐火煉瓦とかの製造に軸足を移していく。 小回りが利く中小工場のほうがかえって生き残りやすかったのかも知れない。
長屋の腰壁、路地の排水溝(特に水枡)、建物基礎、といったところには長い間需要があったようで、街なかで見る煉瓦はたいていそれか、その成れの果ての転石。特に排水溝。凝灰岩か何かを細長く切り出した石材で溝を作っているところも多いが、それの代用として?煉瓦を使ったところをよく見る。あの溝も煉瓦捜しの目印になるかも知れない(下水網は都市計画だっけ? 計画的広範囲に整備された地域はわかるものかしらん)。