nagajisの日不定記。
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2日連続浜中津橋。我ながら何やってだと思う。何やってだ。
今日は上流側トラス桁に発見があった。下弦材の側面に微かにリベット跡がある。目分量で10cmくらいの間隔をあけて、サイコロの六の目状についている。端から1パネル目~2パネル目の間の△のところにあるものは、△の頂点の真下より若干橋端側に寄っている。2パネル目~3パネル目のは△=ピンの真下。それ以降中間のは補強に隠れて見えないが、反対側の端からも同様の配置でリベット跡がある。これはおそらく横桁を継いだ跡。端の間隔から察するに下図赤丸の位置に横桁を取り付けている。(実線は跡が確認できた場所、破線は推定。中央の△には桁を渡さなかったか、不等間隔になるのを承知でピン真下に渡したかも知れない。いずれにしても下弦材腹板の添継に干渉しない位置ではある)。
このリベット跡、拡幅桁のほうに載せていた枕木を固定する鋼材を取り付けた跡かも知れないが、下流側トラスは下弦材天辺に平行にそのリベット跡があるのでちょっと違う気がするし、初代桁のリベット位置=枕木位置と被りそうでもある。小西先生らが想像してはったように初代桁の枕木の間に挟み込む形で拡幅桁の枕木若しくは横桁を渡してたとしたら、初代桁の枕木位置と拡幅桁のそれはてれこになってないといけない)。
しかし初代桁、開通時にどうやって横剛性を出したのかわからん。桁に横枕木渡して、その上に立て枕木通して、ってやってたそうなので、それだけじゃ横の剛性が全然不足している。橋脚のところで何とかなったようにも思えない。
九鬼家文書から見つかった神崎川・十三川・武庫川の鉄橋の図面(http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/lib_draw/sanda/2013/KU_063.jpg)では下弦材の下に二重の弓状の部材を渡して左右桁を連結し、その上に縦枕木を置くように書かれてあるが、現存する武庫川橋梁の写真、下神崎川橋梁の写真なんかを見るとそうなっていない。九鬼家文書の図面はボツ案で、それで九鬼隆範が持っとったんや中廊下。
「鉄道構造物探見」に下神崎川橋梁の写真があって、これを見ると向かって左のトラスの斜材が明らかに太いのがわかる。ボルトの頭も小さい。この小さい感じは浜中津橋を孔の悪魔でもとい開くまで見たnagajisがいうんだから間違いない。浜中津橋上流側トラスのピンのボルトはでかすぎるのだ。そして写真の向かって右の桁は斜材が薄い。しかしピンボルトは小さい。
して、桂川橋梁や上神崎川橋梁は下流側に拡幅していることが橋脚からわかっておる。線の左右ではなくて川の上流・下流で拡幅方向を決めた節があるように思われる(下流側に橋脚を建て増したほうが既存橋脚を水切りがわりに利用できるしな)。そして下神崎川橋梁の写真は影のつき方から大阪方から撮影したはず。とするとむかって左の太い斜材のほうが後の中央桁であるはずなのだ。上り下りの2線の荷重を受けることになるので斜材も太いわけだ(というのは西野・小西論文でも指摘されている)。
以上を総合すると、浜中津橋下流側桁が鉄道時代の中央桁(西野・小西論文のC桁)、上流側が同S2桁ちうことになるのだが、今日みつけたリベット跡がもし増築時の横桁の跡であるなら、C桁の側面(内側の腹材)にもサイコロ六の目リベット跡があっていいはずだが、見た限り、それがあったようには思われない(天辺のリベット跡がないことは確認したが)。どちらの桁のリベット跡も下弦材腹材の外側部材にのみあるのだ。しかしまあ、あるはずと思って見てなかったから見つけられなかっただけかも知れぬ。斜材の幅や太さが応力大小に合わせて変えてあることに気づかず2、3本しか測定してないし、また行かなあかんのやろなぁ。
あ。六の目リベット跡が横材を継いだ跡だとすると、鉄道橋時代とは反対の向きにして浜中津橋では使われているということになってしまうな。そうするとボルト頭の向きも逆だ。鉄道橋時代は外側にボルト、内側にナットということになって、初代桁の使い方とは逆になってしまう。どっちでも良かったんかも知れんし、3連になって統一のしようもなかったろうけど。
いややっぱりあかんな、図の破線○の位置には下弦材腹板の添継がある。ここは逆側に寄せないといけない。そうして中央の△の真ん中にもう一本、だ。