トップ «前の日(11-24) 最新 次の日(11-26)» 追記
1941|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1942|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
1943|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|
2005|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2011|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2012|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2013|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2014|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2015|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2016|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2017|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2018|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2019|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2020|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2021|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2022|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2023|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2024|01|02|03|

旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad

独言 | bdb | C60 | D | KINIAS | OFF-uploader | ORJ | pdb | pdf | ph | ph. | tdb | ToDo | ToRead | Web | web | きたく | | なぞ | ふむ | アジ歴 | キノコ | コアダンプ | | ネタ | ハチ | バックナンバーCD | メモ | 乞御教示 | 企画 | 偽補完 | 力尽きた | 南天 | 危機 | 原稿 | 古レール | 土木デジタルアーカイブス | 土木構造物 | 大日本窯業協会雑誌 | 奇妙なポテンシャル | 奈良近遺調 | 宣伝 | 帰宅 | 廃道とは | 廃道巡 | 廃道本 | 懐古 | 戦前特許 | 挾物 | 文芸 | 料理 | 新聞読 | 既出 | 未消化 | 標識 | 橋梁 | | 滋賀県道元標 | 煉瓦 | 煉瓦刻印 | 煉瓦展 | 煉瓦工場 | 物欲 | 独言 | 現代本邦築城史 | 産業資産 | 産業遺産 | 由良要塞 | 発行 | 看板 | 石垣 | | 竹筋 | 納得がいかない | 索道 | 絵葉書 | | | 資料 | 近世以前土木 | 近代デジタルライブラリー | 近代化遺産 | 近遺調 | 道路元標 | 道路考古学 | 道路遺産 | 都計 | 醤油 | 陸幼日記 | | | 鯖復旧 | 鳴門要塞

1941-11-25 この日を編集

[陸幼日記]十一月二十五日 火曜日 曇

博物は今日より動物に入る。午後亦体力機能検査あり。昨日投げて最高なりて三十二米なりし手榴弾投擲三十五・五米行く。又二千米にありても、平常の練習の末、六分五十秒なりき。我此に於て二千米に於ける自信十分に生ず。脚痛きため今日の一里の長距離競走思いやらる。随意自習にあらず。


1942-11-25 この日を編集

[陸幼日記]十一月二十五日 水 曇

風を増し肌寒し。午後は工作にて受信機をいじりたり。稍〃ラジオの認識生じて愉快を思じたり。生徒監殿は今日出張の所来られたり。
剣術は未だヽ攻撃精神不足。昨日五人中四人を抜きたるは必勝の信念ありし故なり。それには自信が必要にして千磨必死の訓練より実を結ぶものなり。攻撃精神に依頼して技に依ること勿れ。
今日は何故か常と異なり飯をうまく感じたり。思えば今年の新殻にあらざる〔ず〕や。感謝して一粒の米を食し、又むだにする〔朱取消〕べからず。

〔nagajis:「新殻」→「新穀」か〕


2008-11-25 生かされてゐるnagajis(山頭火伝) この日を編集

[ORJ] メール送信元変更

××××××なnagajisなので単刀直入にはいかない。何とかしたらどうか。あ、そこ、伏せ字部分を推測したりしないように。

本題は帰宅後第一のお仕事がyahoo.co.jpあてのメールもblue.ocn.ne.jp経由に変更したということである。ライブラリ一カ所修正でOK、と思ったら判定部分が分散していて結局全部書き直すことに。もっとダイエットしろ>受付

[企画] 鳴川山 OFF無事終了

前回同様masaさんに送っていただいて家まで無事帰りついた。そのくせ車のなかでウンウンゴホゴホ唸ってるか寝てるかだったような気が。毎回申し訳ありません>masaさま。麓に降りついた安堵で緊張の糸が切れてしまい風邪ウィルスを拾ってしまつたようだ。

画像の説明それで肝心の鳴川山。何というか、どれもこれもが強い印象で、かえって散漫としている感じがする。G.W.の沢川は「格闘の末に捉えた軌道」「予想だにしなかったレールの出現」の2つに印象が集約されるが、鳴川山はどれもこれもが(nagajisには)鮮烈で、その鮮烈状態がプラトーをなしていて困る(なんじゃそら)。もっといえばレールや制動機の残存は沢川ほどの衝撃ではなかった。レールその他が残っていることは予め解っていたからな。それはある程度想像していたことだが、ともかくまあ、そこまで辿り着くための行程とそれをこなすことができたこと、附近の地形のエグさ、および前日の鍋、そして絹路さんと寄り道した五社峠のほうがインパクト大なのだった。軌道跡に辿り着いた頃から定時的に雨が降り出し、頻繁にカメラを出す事ができなかったのもちょっと痛い。

麓から索道上部へ至るルートは「林鉄の軌跡」にあるものとは別のルートを取った。これも真っ当な道ではなく、というよりも道ですらない山の斜面の踏み分けでしかなく、振り返ればよくもまああんな所を登れたものだと感心する。途中で「林鉄の軌跡」の道筋と交差したはずなのだがそれさえ気がつかなかった。一人で、そして「林鉄の軌跡」だけを信じて登っていればきっと迷ったか絶望したか遭難したかしただろうと思う。しかし地形的にはアレが唯一間違いなく軌道跡へ至ることが出来るルートのはずだ。

ともかく、今回のOFFで思ったことは「nagajisは皆さんに生かされてゐるなあ」ということだ。実感としてそう思い有り難いことだ忝いことだと思う。こっそりここで感謝する。でも大分でワカサギ釣りした思い出はホンモノですってば。

[廃道本] 11/18産経新聞

画像の説明Iさんに送っていただいていた廃道本の刷り出し(出版直前のテスト印刷紙)と、廃道本を紹介してくれた産経新聞の見本紙を今日受け取った。確かに廃道本載ってる(当たり前だと言っておろうが)。こちらで購入したものも確かに同じ日の同じ新聞なのだが構成が全然違うのだった。関東版/関西版の違いなんだろうか。内容はwebでも見ていたが見出しが微妙に違ったりして(確か違ってたはず)さすが新聞社、などとも思う。拡大版はこちら。いいよね産経さん、載っけちゃッてもいいよね?

刷り出しのほうはどうしようか。ポスターがわりに張ろうかとも思ったがニコチンで末期ッ期もといまっ黄っ黄になってしまうのが目に見えているのでとりあえずやめておく。

[web] ツッコミ

ツッコミ欄の“E-mailは表示されません”表記を設定画面上から変更できることを今さら発見した。直してみる。

ついでに追記。留守の間に掲示板へSPAM書き込みが相次いでいたのだが受付が頑張って対処してくれてた。阻止率100%。つーか同じIPで連投するな愚か者め。

[ORJ] キャッ

OFF準備でバタバタしてたら編集部内のお仕事を一つ忘れてたヨ!申し訳ない!>ヨッキれん氏、TUKA氏


2010-11-25 この日を編集

[奇妙なポテンシャル] #206

NHKラジオ第一が唯一の慰めである昨今である。いやそれは昨今始まった話でなかった。まあいい。

さきほど、

山伏に扮した子供が大人に無理やり里芋を食べさせ五穀豊穣を願う祭り

が執り行なわれた旨、教えてくれた。過去から連綿と続く伝統行事(何でも1000年前から伝わるものだとか)に文句を言うのは吝かだが(吝かでないではない)、それにしても引っかかるものがある。

説明を聞いても、納得するようなしないような感じが残ってモヤモヤする。その昔飢餓が起こった時に神様が里芋を下さって助かったことを記念するものであるらしいのだが、ではなぜ無理やり食べさせるのか。なぜ子供が出てきて、しかも山伏に扮して食わせなければならないのか。

その辺りがはっきりしない故、はっきりしない根っこから根拠のない茎が生え空想の花が咲く。

男い:「何かこう、無性に里芋食いてえ」
男ろ:「これ以上食えないという位に里芋食いてえ」
男は:「しかし無闇に喰っちゃあお上がうるさいだや」
男い:「うーん。そうだやな」
男ろ:「五穀豊穣の祭り、っちゅうことにしたらええだや」
男は:「天才あらわる」

というようなきっかけで始まったのではないか。そうして勿体ぶるために稚児を持ってきたり飢えと神様を借りてきたりしたのではないか。

その論を発展させると、何でも五穀豊穣の祭りにすればOKということになる。

蓑虫に扮した若者を火あぶりにして五穀豊穣を願う祭り

年端の行かぬ子供に酒を浴びせかけ五穀豊穣を願う祭り

背中合わせに縛った2人娘に蟹の手を持たせて五穀豊穣を願う祭り

反復横飛びをしながら焼き芋を食べることで五穀豊穣を願う祭り

奇祭の多い日本であるからして、日本の何処かで上記祭りがひっそり行われていたりするかもしれない。既に廃れてしまった可能性もある。

閉塞感漂う今日の日本。そういう文化を継承していればもう少し明るい未来が描けたのではないかと思ったりもする。aka.すべて五穀豊穣の祭りということにしておけば万事丸く収まるのではないか。

ささいな失言を執拗なまでに揚げ足取りし五穀豊穣を願う祭り

言った言わぬの水掛け論で五穀豊穣を願う祭り

給与10%カットし五穀豊穣を願う祭り

失業者350万人を突破して五穀豊穣を願う祭り

ORJの売れ行きがゲフンゲフンなのも、未だに松葉杖なしでは歩けないのも、きっと五穀豊穣を願う祭りなのだ。そうなのだきっと。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ 十津川ケイブの憂鬱 [珍しく政治寄りですね(笑) 護国北条で都合の悪いことをグランプリできたのは湘南幕府の頃まででしょう。今私を動かすのはダイナマイトです。]

_ Bee改めbnb206 [ここを開こうとしたらウィルスバスターが、危険なウェッブページと判断してブロックしました(笑 何が悪かったんだろう? まぁ、安全と思ってるんで再評価依頼と安全指定で見ていますが。 本当はやばいのか?..]


2011-11-25 “道”を拓いた偉人伝 ほか この日を編集

[宣伝][廃道本] 最終形態

画像の説明 第一章:土倉庄三郎

第二章:天爵大神・水谷忠厚

第三章:禅海和尚

第四章:増田淳

第五章:村田鶴

スキャンした。オビのアオリはOさんだろうか。少なくとも私ではない。自分ではここまで思い切ったことは書けないから有り難い。

画像の説明一枚絵でも十分満足していたのだが、禅海和尚像と谷坂隧道竣工記念碑が加わった。碑文のこの場所である理由は本文かこのあたりを参照されたい。個人的にはこういうセレクションのほうが好きである。判った人は(納)得をする、という。
背表紙は表の文字色と同じになった。世界の約1割の方のためにも白縁は必要である。そのへんちゃんと考えてはるのだなと思う。

[ネタ] 生野・神子畑・明延

明日からのほうが天気がよさげなので出発を遅らせる。そういう判断を下したあとで明神索道の痕跡を発見。これだけ明らかだったら間違うことはないだろうが、どれだけ見て回れるか…。念のため地方測量部で見てこよう。

神子畑は鉱山事務所の辺りまで伸びていたことが確実だが、明延側が若干不明。奥山以降明延まで繋がっていたとすると5000mは若干長い。

生野には10時前に着く予定。土曜日は市街戦、日曜日以降はガチ探索になる。お暇な方はどうぞ。


2013-11-25 この日を編集

[料理] 11/25夕 野菜炒め

画像の説明せっかく習慣づいたので料理を作るようにする。

画像の説明野菜炒めは特になんという工夫もないフツーの野菜炒めである。キャベツの外皮を3枚、ニラ4束、玉ねぎ小半個、もやし半袋、豚こま切れ少々。胡椒メインで塩味のみの味付け。人参があれば入れたかったところ。少し余ったので明日朝また食べる。

画像の説明飯。例によってコッヘル炊き。旅行中の感覚で炊いてしまったため3口ほど余ってしまった。

画像の説明味噌汁。はるか昔に旅先で購入した即席赤味噌汁の味噌を消費。白菜半枚、わかめを入れて、食べかけて置いていたおつまみのソフトさきいかを入れてみた。これで適度にダシが出た気がする。

冒頭写真右上は旅行前に買って余らせていたチキン南蛮。以前ならそれだけ(おかず一品、但し大量)で一食済ませることが多かったが、少しずつたくさんの品が並んでいるほうが豊かな気分になれるうえ満腹度もそこそこあるということを、3ヶ月の訓練で学んだ。せっかく冷蔵庫を頂いたのだから食材保管以外にも活用しないと罰があたるだろう。

[ph.] 秋の写真

画像の説明

なるほど、シャッタースピードが遅くなるからブレやすいのか。

[独言] どくげん

「歴史にタラレバは禁物」と前置きするくらいなら最初から云うな。


2016-11-25 この日を編集

[] 小松左京「日本アパッチ族」

日本のSF界は星新一が切り開き、小松左京がブルドーザーで地均しし、そこへ筒井康隆がスポーツカーで乗り付けてきた、といわれる(確か)。そのブルドーザー小松巨匠の作品は実はあまり読んだことがない。というわけで昨日入荷のこれを読んだ。

さすが巨匠やね、面白くて一気に読んでしまった。「日本三文オペラ」で哀愁漂う最後を迎えたアパッチ族が奇想天外な生態変化を遂げて日本に逆襲する。生身の人間である私なのに全力でアパッチ族に肩入れし、まるで雪辱を果たしたかのような気分になった。やはり「日本三文オペラ」とセットで読まなければ楽しめない。「鉄を食う」っていう暗喩はオペラにも出てきてなかったっけか。

「日本三文オペラ」が実史の脚色で、人間の生への執着としたたかさ、愚かさを描き切った名作だとすれば、「日本アパッチ族」はSF手法でもってそれを風刺しひっくり返すことで逆に生きることの意味を考えさせる傑作と思う。最底辺の生活にはまり込んで抜け出せなかった者たちが超人的な進化を遂げて、地位とか名誉とかにしがみついている、あるいは無気力無関心に生きている現代人と丁々発止の渡り合いをし、ついには壊滅させてしまうという流れは、実在した虐げられた人々への餞のようであり、そこに快哉を叫びたくなる気分の出処があるようだ。

またあの辺りを歩いてみたくなった。何も残っていないのは重々承知だが、片隅に転がっている煉瓦どもはアパッチ族と同じ時間を経験しているはずで、それが唯一の証人というか形見というかなものどもである。しかし両作品とも煉瓦はただの瓦礫としか扱われてなくて一寸可哀想だ(おやまあ


2017-11-25 この日を編集

[きたく] 10509号、生存確認

画像の説明

47年ぶりに観測された水準点。久しぶりに腹の底から笑うことができた。ありがとう。

見たい見たいと強く願えば見えるものだと、ばっちゃとナウシカがゆうとった。

[独言] 北方から余呉駅にアクセスしてはいけない

画像の説明

北口は存在しない。悲しい目をみる。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452161/402

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/973987/443


2019-11-25 この日を編集

[橋梁] 浜中津橋・再

2日連続浜中津橋。我ながら何やってだと思う。何やってだ。

画像の説明

今日は上流側トラス桁に発見があった。下弦材の側面に微かにリベット跡がある。目分量で10cmくらいの間隔をあけて、サイコロの六の目状についている。端から1パネル目~2パネル目の間の△のところにあるものは、△の頂点の真下より若干橋端側に寄っている。2パネル目~3パネル目のは△=ピンの真下。それ以降中間のは補強に隠れて見えないが、反対側の端からも同様の配置でリベット跡がある。これはおそらく横桁を継いだ跡。端の間隔から察するに下図赤丸の位置に横桁を取り付けている。(実線は跡が確認できた場所、破線は推定。中央の△には桁を渡さなかったか、不等間隔になるのを承知でピン真下に渡したかも知れない。いずれにしても下弦材腹板の添継に干渉しない位置ではある)。

画像の説明

このリベット跡、拡幅桁のほうに載せていた枕木を固定する鋼材を取り付けた跡かも知れないが、下流側トラスは下弦材天辺に平行にそのリベット跡があるのでちょっと違う気がするし、初代桁のリベット位置=枕木位置と被りそうでもある。小西先生らが想像してはったように初代桁の枕木の間に挟み込む形で拡幅桁の枕木若しくは横桁を渡してたとしたら、初代桁の枕木位置と拡幅桁のそれはてれこになってないといけない)。

しかし初代桁、開通時にどうやって横剛性を出したのかわからん。桁に横枕木渡して、その上に立て枕木通して、ってやってたそうなので、それだけじゃ横の剛性が全然不足している。橋脚のところで何とかなったようにも思えない。

九鬼家文書から見つかった神崎川・十三川・武庫川の鉄橋の図面(http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/lib_draw/sanda/2013/KU_063.jpg)では下弦材の下に二重の弓状の部材を渡して左右桁を連結し、その上に縦枕木を置くように書かれてあるが、現存する武庫川橋梁の写真、下神崎川橋梁の写真なんかを見るとそうなっていない。九鬼家文書の図面はボツ案で、それで九鬼隆範が持っとったんや中廊下。

「鉄道構造物探見」に下神崎川橋梁の写真があって、これを見ると向かって左のトラスの斜材が明らかに太いのがわかる。ボルトの頭も小さい。この小さい感じは浜中津橋を孔の悪魔でもとい開くまで見たnagajisがいうんだから間違いない。浜中津橋上流側トラスのピンのボルトはでかすぎるのだ。そして写真の向かって右の桁は斜材が薄い。しかしピンボルトは小さい。

して、桂川橋梁や上神崎川橋梁は下流側に拡幅していることが橋脚からわかっておる。線の左右ではなくて川の上流・下流で拡幅方向を決めた節があるように思われる(下流側に橋脚を建て増したほうが既存橋脚を水切りがわりに利用できるしな)。そして下神崎川橋梁の写真は影のつき方から大阪方から撮影したはず。とするとむかって左の太い斜材のほうが後の中央桁であるはずなのだ。上り下りの2線の荷重を受けることになるので斜材も太いわけだ(というのは西野・小西論文でも指摘されている)。

以上を総合すると、浜中津橋下流側桁が鉄道時代の中央桁(西野・小西論文のC桁)、上流側が同S2桁ちうことになるのだが、今日みつけたリベット跡がもし増築時の横桁の跡であるなら、C桁の側面(内側の腹材)にもサイコロ六の目リベット跡があっていいはずだが、見た限り、それがあったようには思われない(天辺のリベット跡がないことは確認したが)。どちらの桁のリベット跡も下弦材腹材の外側部材にのみあるのだ。しかしまあ、あるはずと思って見てなかったから見つけられなかっただけかも知れぬ。斜材の幅や太さが応力大小に合わせて変えてあることに気づかず2、3本しか測定してないし、また行かなあかんのやろなぁ。

あ。六の目リベット跡が横材を継いだ跡だとすると、鉄道橋時代とは反対の向きにして浜中津橋では使われているということになってしまうな。そうするとボルト頭の向きも逆だ。鉄道橋時代は外側にボルト、内側にナットということになって、初代桁の使い方とは逆になってしまう。どっちでも良かったんかも知れんし、3連になって統一のしようもなかったろうけど。

いややっぱりあかんな、図の破線○の位置には下弦材腹板の添継がある。ここは逆側に寄せないといけない。そうして中央の△の真ん中にもう一本、だ。 画像の説明


トップ «前の日(11-24) 最新 次の日(11-26)» 追記